メディアの言わずもがなの役割を、失礼ながら拙論の一部で記します。 第2節 集合知の背景 前節でも触れたが、集合知を肯定的に主題化して扱うようになったのは現代初頭からとされ、近年、インターネットの普及によって、それに拍車がかかった。古くは「三人寄れば文殊の知恵」という諺であるとか、旧約聖書中にも「複数の熟慮」という思考法が見られるものの、民主的に人の集合によって生じる知は肯定的に受け取られるよりも、衆愚に陥る知とも見られたとされる[12]。中世のトマス・アクィナスも引用している、古代のアリストテレス『形而上学』第十二巻には、「多数者の統治は善ならず。一つの統治者こそあらまほし」というホメロス『イリアス』の一節があるが、これは君主制正当化論の典拠として援用されてきたという[13]。 しかし集合的な知の起源を粘菌や昆虫や動物に遡って探求せずとも、原始の人間の集団において自然に、それは形成されていた[14]。こうした知は、餌場、石器等狩猟具、火おこし、調理土器など、生活技術知について家父長の知、首長の知という小共同体から集合発生してきたものであることが推察される[15]。クロマニヨンの時代には、情報交換・相互協力の痕跡証拠が残されているという[16]。こうした小共同体が、時代が進んで古代ギリシアのポリス連合や、ユダヤ遊牧部族の統一民族化に例をみると、神聖祭儀同盟契約を締結し、最高神や唯一神(各ポリスの神や部族長の神を統合する神)の象徴によって権威付けをし、中央主権化がなされてきた。大河の治水・灌漑、侵略・防衛、象徴建造物など、より大きな事業遂行のためには、個々に分散した小共同体のままではそれを発展させ得ず、意思を一つにする社会形成が必要だったと考えられる[17]。但し、現実的にはそうした一つの意思の中に、無数の個人に獲得され宿された知が集約されていった。 そうした知の歴史が進んで封建時代の中世ヨーロッパでは、「社会的に権威づけられた」「所与の知」が、トップダウンで「天下りに与えられる」状況にあったと、西垣通は説明する[18]。それは聖典に準拠して、その釈義をなす大祭司から与えられた世界観とそれに機能する価値観であり、それを絶対的なものであるとした権威の力で、社会の細部にまで浸透させていた。しかし、宗教改革、ルネッサンス、科学革命といった近代ヨーロッパの改革運動は、知識の民主化に伴う社会の民主化を展開し、社会の中からボトムアップによる「知」への方途を示し、諸知識の総合としての世界観の上に大きな進展が生じた。近代から現代にかけては、天文学や進化論など、聖典釈義の絶対性を揺るがす諸知識(scientia=science科学)が、それまでの世界観の崩壊を進めていったと、一般でも見られている[19]。 こうした見方では、中央集権的権力が示す「知(権威を示す世界観)」、あるいはそれに伴って発展した「技術知(専門知)」などによって当面、安定した閉鎖系システムが社会共同体の共同主観・共同幻想によって築かれるが[20]、それを刷新するために開放系システムへと社会が動作し、入子状の階層を示す諸段階・諸次元のシステムから「知」を浮び上らせ、それを集積していく人類の連続した作業の歴史の上に、集合知が展開する経緯を見ることができる[21]。その作業効率が、近代ヨーロッパでは印刷技術によって、現代ではマスメディアからコンピュータとインターネットの普及によって格段に高くなった[22]。そこで、認識がないばかりに生じる試行錯誤過程における犠牲損失を招かないようにすることや、衆愚に陥らないように偏向を補正するなどの、有効な集合知形成の為の研究が進められる。ジェームズ・スロウィッキーの〝The Wisdom of Crowds:Why the many are smarter than the few ?″でも、多様な知のコミュニケーションからいっそう確実な意思決定を模索している[23]。集合知の発展においてその有効性を高めるためには、社会構成員である個々人も、犠牲損失を被らないように学習し、無知、認識のなさを超克しなければならない[24]。有効性は、対象についての知がボトムアップ可能となるよう、そのことを知っている個々人が集まった時に高まるのであるから、発端には啓蒙、教育の動作・作業を要するのである。ウィリアム・パウンドストーンの見解を見よう。 「たくさんの人が問題を、たくさんの角度から考える時、大衆は賢くなるようだ。大衆がはじめるきっかけとなる事実すらないときには(例えば中世の「扁平な」地球や今日のひも理論)、大衆は賢明になることができない[25]。」 現実社会における集団の傾向性は、集団ヒステリーやパニックなどの現象は別にして、伝統・習慣化された事象などでは、変化を直ちには現わさない事例が多い。猿の芋洗い行動の伝播は、習慣化が固定した成体の雄には困難であったという報告が知られているが、人間社会の日常でも、伝統や制度の変更は世代交代が現実的手法となる場合もある[26]。通常、集団の評価などは、その集団の中で“見慣れた”ものの平均になる。顔学という分野での評定は、見慣れた顔の平均(中央値)が好評価される[27]。この見慣れた(既知)ものが、徐々に集団構成の位置において(新たな知へ)変わることで、評定自体が変わっていく[28]。 この見慣れた状態を著しい速度で変化させた状況が、過去でも時代の節目になった。さしずめ西欧近代や日本の文明開化も例に挙げられよう。しかし既に見たように、その速度は現在が最大ともいえる。元MITメディアラボ所長の伊藤穣一は次のように言う[29]。 「昨今、いたるところで、新しいイノヴェイションを目にするようになった。人々はインターネット上で情報にアクセスし、コミュニケーションを始める。人々がつながると、お互いに教えあう。相互学習はとても重要だ。新しいイノヴェイションや学習の新しいネットワークが生まれていくだろう。・・(略)・・また、ものづくりの技術がより簡便で安価になるなか、ネットワークに加えてサプライチェーンとものづくりの技術も民主化されれば、面白いパワー・シフトが起こるだろう。・・(略)・・メディアや民主主義に対するわたしたちの考え方も(願わくばよい方向に)変わるだろう。」 こうした見解の行く先に見えてくる多くのシナリオの中に、シンギュラリティ仮説などもあり、さらには次のようなものさえある。 「『未来において、知性は“移住”できるようになるでしょう。より技術が高度化した未来で、人の知性はAIとしてインターネット上に存在することが可能になるかもしれません。』・・(略)・・『マインドアップローディング』などに代表される知性の移住は極めて自然な成り行きのようだ[30]。」 このような未来予測を現実化していく可能性をも、集合知は加速する。インターネットによって社会構成員の集合枠自体が、集合知を生み出す「ドット・コミュニズム」を形成していく状況が既にある[31]。
いつもPivot Extreme Scienceでお世話になっている竹下隆一郎さんと、このように新鮮な角度でお話できて、楽しかったです!!!!!ライアン、ありがとう!
大好きなお二人の対談、めちゃくちゃ刺激的で楽しかったです。スパークしました!!ありがとうございます。
私にとっては神回とても興味深い対談でした!PVOTはよく拝見していますし、茂木先生の本も読ませていただいてます。PIVOT ではあまり見ることのできない竹下さんの素顔が拝見できて、またお仕事に対する情熱が垣間見え大変面白かったです。特に(ご本人もおっしゃっておられましたが)物の見方が帰国子女である事は、自身の経験からも納得いくところでした。
38:27 「どうしたらいいんだろあなぁ」→いつも何故、他人や組織に期待して杞憂なさるのだろうと思ってましたが、どうやら本当に心配なさってるご様子…
いかに茂木さんの文や言葉ででスパークさせるかに専念して邁進されれば遠くない将来、成就されるのでは?
この1年Pivotを拝聴してきてこんなにすごいらしいインテリが物理等をやさしくお笑いっぽく語ってくれる談義に大変感謝していました。しかし今日その根底にヨシモト好きと雑談嫌いがあるということで、ああ関西なんだと失望しました。しかし自分をたしなめ嫌いなところは無視して辞めることなく見続けたいと思います。
これは、またまた面白かったです。
ハッキリとお笑いの事とか、茂木先生のスパーク🔊の事に触れられていて、正直驚きました💦。
吉本のお笑いは私には、理解できますし…。
余りにその通りですよネの意見が多く成って来ると、場違いかな?と感じる様になった時も有りましたね。然しながら、【感じ方は人それぞれ】と言う事も明確に理解できる様になった様な気も致します。
スパーク🔊時(急激な音量)の時には、私はイヤホンしてる時には、いつも咄嗟に絞ってました😂
私は雑談は、いきなり話題に入るよりかは、先ずは話しやすい雰囲気作りから入りますね。どうでも良いような?…相手方が返しやすい話題から…。急がないですから。
あ~、先を急がないせいかも?ですね~(笑)
今では私も随分と茂木先生の所では、感化された様な気も致します。
時には、まどろっこしい事飛び越えたりもするようになったかもです。
人の考え方を聴くのは楽しいです。
沢山のそれぞれの世界感が有りますものね。
ありがとうございました。
本音トークが面白かったです。
面白かったです!アメリカ…神に与えられた〜なんて そもそもがファンタジー 日本の「皆んな足並み揃えて 普通が1番❤」ていうのもファンタジー 私はADHDで「皆と違う」が人生の出発点だったせいか こういったお話聞くとコンプリート感?高まって脳内整います♪ 配信ありがとうございます🙏
自分も日常会話が苦手でコンプレックスです。
ライアンさんのような方も自分と同じようなことを思っているのだと、気が楽になりました。
苦手なことを自分の欠点だと思わないでいいのかも!
案外、自分と同じようなか方も結構いらっしゃるのかな?
いつもなんでみんな内容もない誰かが言ってそうな話をするんだろうと思っていました。だけど何もないような話をすることでお互いのその日の調子や歩調が合っていくんだなあと最近気づきました・・・w
それから頑張ってなんでもない話をして、お互い噛み合ったような気がしてから話そうと心掛けています。
元気?って聞かれるのが昔から苦手で、だいたい普通かあんま良くないですw
元気って答えるしかないけど、嘘つくことになるので、しんどいですw
長年の引っ掛かりが軽くなったような気がします。
茂木さんもいつもより腹を割って自己開示されてるような印象を受けました。本当に相性の良いお二人。楽しかったです。ありがとうございました。
ジャルジャル のお話、なんだか嬉しいです😮
古代ギリシアで言う「思弁と実践」、大学教授の仕事として「研究と教育」、宗教家の「修行と救済」、こうした諸事極みへに向かって進む探究の途と、社会共同体へ向かって広げる貢献の途、メディアの役割もそのバランスが重要なのだろうと思います。
竹下先生が茂木先生に言われてたことも、そのことの様な気がします。上の表現で言うなら「貢献の途」であまり多く時間を費やすよりも、「探求の途」の時間を多くされた方が、その能力が活かされる気がするというのは、同感です。
竹下さんの日本の雑談が苦手という感覚、共感します。日本は空気を和ませることへの優先度が高く、単純に話したいこと聞きたいことの会話をしようとすると、嫌がられる感じがあります。そこに窮屈さを感じるし、単に和やかなだけで内容が薄い会話に「時間がもったいない」というマイナスの気持ちが生じてしまいます。
私もそう思います 「私はヘンな人ではありませんよ」的なやり取りで地ならしをしないと「自然な会話」にならない 手順を踏んでから話せみたいによく言われたなー まあ私ADHDだから🙄💧
PIVOT竹下さんの意外な所を知れて めちゃめちゃ 面白かったです。
街で茂木さんにあったら無視、
それは面白い ❤😅
MARS ショット
今度から使いたい。
大変失礼なことを承知であえて…更にコンテンツの本題からは、大きくそれたコメントですが。
わかりました。茂木さん本当は、松本氏のこと大好きなんですね。大好きというか、羨望のまなざしなんだ。スマップもそう。さんま氏もそう。彼らは、表層と中身が真逆なんですよ。フリなんです。彼らには「素」がない。浜ちゃんは、そこ耐えきれなくて一度逃げましたけど…。
茂木さんは、それ出来ない正直すぎる人。それを演じているのかもしれませんが、オフィシャルのとき自分の思っているキャラになりきれてないんでしょうね。
ライアンさんは、きっと普段の思考が英語?いわゆる英語脳なのでは…。僕から見ると面白い、興味深い、そして、素敵です。
サムネイルの文字列今気づいた。笑。
お笑いに関しては竹下さんの言う通りだと思う、正直茂木さんは好きだが変な批判や愚痴は嫌だった。
単純に鈴木おさむさんの著書を読み見習って、ボチボチ自分の老害部分に目を向けて欲しいと思う。
あと変に結論出してコンプレックスだなんだと言っても、年下は聞き流すだけではないでしょうか?
自分もライアンと同じで日本のお笑い好きですし、飲み会より引きこもって情報を得たいタイプです。
茂木さんの特定のお笑いは範囲が広いし、日本産まれ中学は日本の人に外人目線も失礼かと思います。
先は長いと思わずライアンの意見も取り入れ、クオリア解明し英語で本なり論文を書いてスターに!!
メディアの言わずもがなの役割を、失礼ながら拙論の一部で記します。
第2節 集合知の背景
前節でも触れたが、集合知を肯定的に主題化して扱うようになったのは現代初頭からとされ、近年、インターネットの普及によって、それに拍車がかかった。古くは「三人寄れば文殊の知恵」という諺であるとか、旧約聖書中にも「複数の熟慮」という思考法が見られるものの、民主的に人の集合によって生じる知は肯定的に受け取られるよりも、衆愚に陥る知とも見られたとされる[12]。中世のトマス・アクィナスも引用している、古代のアリストテレス『形而上学』第十二巻には、「多数者の統治は善ならず。一つの統治者こそあらまほし」というホメロス『イリアス』の一節があるが、これは君主制正当化論の典拠として援用されてきたという[13]。
しかし集合的な知の起源を粘菌や昆虫や動物に遡って探求せずとも、原始の人間の集団において自然に、それは形成されていた[14]。こうした知は、餌場、石器等狩猟具、火おこし、調理土器など、生活技術知について家父長の知、首長の知という小共同体から集合発生してきたものであることが推察される[15]。クロマニヨンの時代には、情報交換・相互協力の痕跡証拠が残されているという[16]。こうした小共同体が、時代が進んで古代ギリシアのポリス連合や、ユダヤ遊牧部族の統一民族化に例をみると、神聖祭儀同盟契約を締結し、最高神や唯一神(各ポリスの神や部族長の神を統合する神)の象徴によって権威付けをし、中央主権化がなされてきた。大河の治水・灌漑、侵略・防衛、象徴建造物など、より大きな事業遂行のためには、個々に分散した小共同体のままではそれを発展させ得ず、意思を一つにする社会形成が必要だったと考えられる[17]。但し、現実的にはそうした一つの意思の中に、無数の個人に獲得され宿された知が集約されていった。
そうした知の歴史が進んで封建時代の中世ヨーロッパでは、「社会的に権威づけられた」「所与の知」が、トップダウンで「天下りに与えられる」状況にあったと、西垣通は説明する[18]。それは聖典に準拠して、その釈義をなす大祭司から与えられた世界観とそれに機能する価値観であり、それを絶対的なものであるとした権威の力で、社会の細部にまで浸透させていた。しかし、宗教改革、ルネッサンス、科学革命といった近代ヨーロッパの改革運動は、知識の民主化に伴う社会の民主化を展開し、社会の中からボトムアップによる「知」への方途を示し、諸知識の総合としての世界観の上に大きな進展が生じた。近代から現代にかけては、天文学や進化論など、聖典釈義の絶対性を揺るがす諸知識(scientia=science科学)が、それまでの世界観の崩壊を進めていったと、一般でも見られている[19]。
こうした見方では、中央集権的権力が示す「知(権威を示す世界観)」、あるいはそれに伴って発展した「技術知(専門知)」などによって当面、安定した閉鎖系システムが社会共同体の共同主観・共同幻想によって築かれるが[20]、それを刷新するために開放系システムへと社会が動作し、入子状の階層を示す諸段階・諸次元のシステムから「知」を浮び上らせ、それを集積していく人類の連続した作業の歴史の上に、集合知が展開する経緯を見ることができる[21]。その作業効率が、近代ヨーロッパでは印刷技術によって、現代ではマスメディアからコンピュータとインターネットの普及によって格段に高くなった[22]。そこで、認識がないばかりに生じる試行錯誤過程における犠牲損失を招かないようにすることや、衆愚に陥らないように偏向を補正するなどの、有効な集合知形成の為の研究が進められる。ジェームズ・スロウィッキーの〝The Wisdom of Crowds:Why the many are smarter than the few ?″でも、多様な知のコミュニケーションからいっそう確実な意思決定を模索している[23]。集合知の発展においてその有効性を高めるためには、社会構成員である個々人も、犠牲損失を被らないように学習し、無知、認識のなさを超克しなければならない[24]。有効性は、対象についての知がボトムアップ可能となるよう、そのことを知っている個々人が集まった時に高まるのであるから、発端には啓蒙、教育の動作・作業を要するのである。ウィリアム・パウンドストーンの見解を見よう。
「たくさんの人が問題を、たくさんの角度から考える時、大衆は賢くなるようだ。大衆がはじめるきっかけとなる事実すらないときには(例えば中世の「扁平な」地球や今日のひも理論)、大衆は賢明になることができない[25]。」
現実社会における集団の傾向性は、集団ヒステリーやパニックなどの現象は別にして、伝統・習慣化された事象などでは、変化を直ちには現わさない事例が多い。猿の芋洗い行動の伝播は、習慣化が固定した成体の雄には困難であったという報告が知られているが、人間社会の日常でも、伝統や制度の変更は世代交代が現実的手法となる場合もある[26]。通常、集団の評価などは、その集団の中で“見慣れた”ものの平均になる。顔学という分野での評定は、見慣れた顔の平均(中央値)が好評価される[27]。この見慣れた(既知)ものが、徐々に集団構成の位置において(新たな知へ)変わることで、評定自体が変わっていく[28]。
この見慣れた状態を著しい速度で変化させた状況が、過去でも時代の節目になった。さしずめ西欧近代や日本の文明開化も例に挙げられよう。しかし既に見たように、その速度は現在が最大ともいえる。元MITメディアラボ所長の伊藤穣一は次のように言う[29]。
「昨今、いたるところで、新しいイノヴェイションを目にするようになった。人々はインターネット上で情報にアクセスし、コミュニケーションを始める。人々がつながると、お互いに教えあう。相互学習はとても重要だ。新しいイノヴェイションや学習の新しいネットワークが生まれていくだろう。・・(略)・・また、ものづくりの技術がより簡便で安価になるなか、ネットワークに加えてサプライチェーンとものづくりの技術も民主化されれば、面白いパワー・シフトが起こるだろう。・・(略)・・メディアや民主主義に対するわたしたちの考え方も(願わくばよい方向に)変わるだろう。」
こうした見解の行く先に見えてくる多くのシナリオの中に、シンギュラリティ仮説などもあり、さらには次のようなものさえある。
「『未来において、知性は“移住”できるようになるでしょう。より技術が高度化した未来で、人の知性はAIとしてインターネット上に存在することが可能になるかもしれません。』・・(略)・・『マインドアップローディング』などに代表される知性の移住は極めて自然な成り行きのようだ[30]。」
このような未来予測を現実化していく可能性をも、集合知は加速する。インターネットによって社会構成員の集合枠自体が、集合知を生み出す「ドット・コミュニズム」を形成していく状況が既にある[31]。
茂木先生は大概マッチョだと思っていましたが、竹下さんはそれ以上ですね。
セレンディピティや偶有性の概念を受け入れているから茂木先生はノイズに寛容なのだと思うのですが、竹下さんはその辺の概念をどう捉えているのでしょう。
後は真面目さと緊張感の関係について思う所がありました。日本人は真面目である以上に緊張しぃなのだと思います。
だから雑談やアルコールで緊張を解していかないと、スパークするのが難しいのではないでしょうか。
…それにしてもぶっちゃけた動画が撮れちゃいましたねぇ…大丈夫ですか?(汗)
やった~。精神工学、、
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
👍🏻