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いときょうさん、すごく優しくて朗らかな顔をしているな。自分の好きな事に純粋に取り組んでいる人って、やっぱり素敵だ。
いときょうさんは、本当に優しい雰囲気ですね。ホツマツタヱを実際に読みたくなります。
公認されないから偽書だとは当然言えないので、疑いを持ちながらも、興味深く読んでます。どこかで実際の発掘物で証明されると良いですね。少なくとも話としては面白い。稗田阿礼の膨大な記憶の前に何かの資料が有っても可笑しくなく、また八が岳の麓で見た縄文遺跡の発掘物の高度さにも圧倒されたので、興味深々です。
国常立神のエヒタメトホカミの8人の王子にお妃が対になり16氏族が海外に出ていき又日本に帰ってきた。16菊花紋の所以ですね。
山本健三氏の飛騨王朝ともつながってくるのかもしれませんね。ワクワクドキドキです。大上方様!
ホツマツタヱ...ホツマ ツタヱ...ホツマ伝え..すわ!ホツマ伝か!ホツマ...ホ...稲穂の穂...ツマ...つまみ取る...摘み取る...ホツマツタヱとは 「遠い昔から長い間稲穂を摘んできた歴史、日本におけるお米のお話。穂摘み伝」ということでしょうか...日本の国体のルーツ、縄文。CGSの「縄文シリーズ」最高です。
ホツマツタヱの語源ってそういうことか、出雲大社の神である国常立尊は稲穂の神でもある。国譲りの前を描いてるから、大和族からしたら不都合なのか。だから学者も認めない。
『定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比』(松本善之助 監修/池田満 編著)では一行ごとに古事記・日本書紀の記述と比較できます。記紀からホツマツタヱを創作することは不可能に近く、逆にホツマツタヱから記紀を創作することは容易であることが分かります。(高価な研究資料ですので最寄りの図書館でご覧ください)アメミヲヤが宇宙を生み作り、5元素からヒノワ(太陽)・ツキ(月)・クニタマ(地球)・ミナカヌシ(最初の人類)が作られたと考えられていたこと。初代アマカミ(古代の天皇陛下の称号)クニトコタチが琵琶湖でトコヨクニ(最初の日本の国号)を建国されたこと。7代イサナギ・イサナミの全国巡幸・国造りの歴史的真相。人皇10代目イクメイリヒコ(垂仁天皇)の時代に伊勢神宮の外宮に祀られたのは、イサナミの父・イミナ(実名)タマキネ=5代目タカミムスビ・トヨケカミであり政り事・技術教育の達人であったこと。8代アマテルカミは、記紀神話では、姉のヒルコヒメ(ワカヒメ)のエピソードを混和させて『天照大神』という天上・雲上の女神さまにされてしまったが、実在した偉大な男性天皇であったこと。ミクサタカラ(三種の神器)成立の経緯。ソサノヲとハタレの全国争乱の顛末。その子オホナムチのクニゆずりの本当の話。初代スヘラギ・カンヤマトイワハレヒコ(神武天皇)のヤマトウチは大和を侵略したのではなく、二朝廷並立の統一事業だったこと。以降、12代ヲシロワケ(景行天皇)時代までのヤマトタケの全国巡行などなど、神話ではない、日本の国土で古代の先人・偉人が試行錯誤した歴史であること。などなど、目からウロコです!戦後封印されてきた『記紀神話』ではなく、今、日本建国の歴史と皇祖・日本人・日本文明の原点が学べるのは研究者の皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。入門書は『ホツマ縄文日本のたから』でしょう。『「ホツマツタヱ」を読み解く―日本の古代文字が語る縄文時代』『ホツマ辞典―漢字以前の世界へ』など、池田 満先生のご著書は日本の古代史の概要を知るためには必読の書だと思います。
ヨッシーユッキー NARUTOナルトのストーリーみたいだなー
米の伝来と言っても米自体はあったが、灌漑水耕の技術が来たって事でしょ。
ありがとうございます...
偽書とか肯定して言っている輩はろくな奴は居ないのでスルーしましょうね皆さん。影響されませぬように。古史古伝で完全な偽書と肯定出来るものはありません。
縄文文明、弥生文明がいち早く一般化して欲しい...
古史古伝の中でも竹内文書は日本を越えて世界の歴史ですからね
天皇は漢民族系chousen人だというのが定説です:天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない日本人(縄文人、弥生人、アイヌ人、琉球人)は漢民族と混血していない限りは全員二重瞼です。兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社兵馬俑(2016年5月6日撮影、資料写真)。(c)CNS/ケイ利宇始皇帝の兵馬俑(2015年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/彭華【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。 大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。 兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。 千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。 兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。■その1・顔料の色落ち説 兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。■その2・職人の手抜き説 二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。 ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説 ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。 2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。 医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。 晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。 一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。 千年の月日が流れ、秦の兵馬俑はすでに秦帝国の栄枯盛衰を忘れ、血統に関心を払う者はいない。兵馬俑の形状や表情を通して、当時の文明や社会の様子を理解することができる。今日に至るまで、兵馬俑は人類の歴史と文化の宝庫であり、依然として無数の神秘が眠っている。新たな発見とその継承が待たれる。(c)CNS/JCM/AFPBB News.※この記事は、CNS(China News Service)のニュースをJCMが日本語訳したものです。CNSは1952年に設立された中華人民共和国の国営通信社です。www.afpbb.com/articles/-/3181512
できれば、偽書説についても、この一連の動画の中で触れて欲しいです自分はまだ秀真伝えが偽書でないと信じたいので、できればそれを明らかにして欲しいです偽書説の否定の際は、反証可能性を残してもらえると信じやすいです()触れてもらえないだろうとは思いますが
結構みっちり回数やるみたいなのできっと触れてくれると思いたいですねぇしかし自称保守の方はどうしてこうも朝鮮大好きで頭がカタイのか。。
古代の文書を解説するときに「天孫降臨」という言葉に代表されるように、「神が空から降り降りてきた」との説明がまかり通るのはナンセンスだと思います。昔の人々だって雲が水蒸気の塊であることは、物理学を知らなくても、感覚的に知っていたであろうし、雲の上に人が乗れるとか住んでいるとかは思っても見なかったはず。こういう、SF的な解釈はやめてほしい。ある本で知ったことだが、「神が空から降り降りてきた」との解釈は江戸時代の偉い学者が言い出しっぺらしいとか。偉い先生が行ったことを弟子たちが否定出来ないものだからその後もまかり通るようになったらしい。
今の価値観からすると説得力のある話ですねぇ
『ヲシテ文献』を偽書と決めつけて断定するのは早計だと思います。「上代特殊仮名遣い=漢字上での使い分け」や古代日本語8母音説などは、8世紀より前の漢字導入時代の混乱の影響と思われます。つまり「漢字国字化初期の特殊仮名遣い」ということ。松本克己氏、森重敏氏など、1970年代以降、異を唱える学説が相次いでいるようです。森重説は、日本語の母音体系は元から5母音であり、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったのだとする説です。ヘボン式ローマ字(日本語を英語ににせて書くために アメリカ人宣教師 ジェームス カーティス ヘボンが つくったもの)で表記をする際、日本語にとって必ずしも聞き分けが必要のないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことを例にあげ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかったことなどを根拠とするようです。『日本書紀』は基本的に当時の漢文=Chineseで書かれており、支那渡来唐人(続守言と薩弘恪)のネイティブ ライティングが推定されています。時代が下るにつれ、チャイナやインド仏教の影響が薄れて、元々発語していた音節文字(=仮名)しか使わなくなったとは考えられないでしょうか?ホツマツタヱなどは原字のヲシテ文字で読まなくては、本当の価値は解からないと思います。5、7調でつづられる原文を読み書きしますと、これぞ格調高きヤマトコトバの起源であると感じられます。元々、日本語の基層ヤマトコトバは基本48音(他同音異字体有)10の子音(相、さきがけ)と、5の母音(態、声の尾、状態提示)の組み合わせから成り立っていた。形体の組合せ文字でイメージを表意。(7代アマカミ=イサナギ・イサナミが全国を巡幸して、48音をアワウタを使って教え、タミのコトバを整えてコミュニケーション力を改善。) ↓漢字国字化初期の混乱による特殊仮名遣いが発生(12代ヲシロワケ(景行天皇)〜8世紀以前。大量の帰化人の影響あり。) ↓仏教の伝来にともなったインドのサンスクリット語の表音文字が伝わる。漢字の発音を示す伝統的な方法「反切」などから影響を受ける。(お坊さんに限る。一般人には縁のない音図表) ↓平安時代以降仮名を網羅した手習い歌「あめつちの歌」「大為爾(たゐに)の歌」「いろは歌」が創作・発生。(ウタで音節文字を教える伝統の復活) ↓江戸後期から明治期ひらがなカタカナの五十音の考え方が普及。(音節文字の再整理・復活)ただし『ヲシテ文字』の形象表意は失われ単なる表音音節文字(仮名)になってしまった。また、ヲシテ文献は、『定本〔ホツマツタヱ〕―日本書紀・古事記との対比』(松本 善之助 監修/池田 満 編著)の基礎資料により、記紀の原書であることが確認できます。図書館などでご確認ください。丁寧に読み込みますと、記紀からホツマツタヱを創作することは不可能に近く、逆にホツマツタヱから記紀を創作することは容易であることがわかります。
ちびたぱすかる 神話なんだから天降也は「天から降りてきた」で別に良いんじゃない?
学生時代から文科系の教授の話は、信用していませんので。偽書ではないのではないかと考えています。あれだけの体系だった偽物を作るというのは、相当骨だし、かなりの能力も必要です。それに偽物作ったメリットがその苦労に見合わないように感じます。
八王子のいわれ
紀元前5000年頃の出来事が由来だなんて意外にもスゲー地名だったんだな八王子市って。
重要なことは、最低でも日本書記を通読したあとに、余力興味がある人が学ぶべきです。そして混乱めまいを楽しむのがいい。
そもそも朝鮮には人は非常に少なくいなかったと言っていい 大陸も同じじゃねぇの
日本の縄文文化の中心は南関東である。土器は渦巻き文様でありいわゆる「縄文」は少ない。だから本来は「縄文土器」は「渦巻き紋土器」と言うべきなのである。世界最古の「渦巻き」は横浜・千葉など東京湾で縄文前期に発生している。7000年まえごろから。しかし最盛期は長野新潟などに拡大した。最古の土器(15000年前神奈川県西部)と最古の釣り針は神奈川。南関東の中期の中心は 川崎 と 千葉 あたり。これが日本の首都だった。牡蠣が好きなので「牡蠣文化」ともいえる。
千葉に貝塚あるよね!
殷はコレ元和ナリ😅
三内丸山古墳も5500年前-4000年前だから、この長い時間で全く記録が無かったのはおかしいよな。いろんな地方と貿易をしてたんだから、記録は必要だろう。平和に暮らしていたと言うが、人口が少なく、争っていては共倒れの極限生活だったのかもしれない。
うーん…。平和な時代を作りたかった、ということは、平和ではない時代があったのかな。遺跡が出てきたとしても、見なかったことにしよう、となったら意味ないと思いますが。
日本は、8000年前に稲作をしてました。7000年代前に九州の南の島が日本最大の火山噴火爆発で世界中に葦の帆船で縄文人が移住し長江文明は、縄文人です。縄文人の人骨が大量に出土しました。年代測定と遺伝子検査で証明されてます。縄文人は、海洋民族でもあり稲作文明もあり現代の科学で証明されてます。イザナギノミコトは八咫烏の鏡古代へブラ文字解読で藤原三千雄さんのTH-camを見て下さい。世界初、伊勢神宮の八咫烏の鏡解読で説明されてます。
ホツマツタエに書いてある年代基準そのまま紹介するべきでは?
天津だったりして? 天津甘栗?
有るものをなかったことに?それだめ。
記紀の前に文書がなかったというのは思考停止もいいところで非常に愚かだ。学者にはあるまじき精神態度である。古代の文書はどれも非常に価値のあるもので中立な態度で研究していくべき。いろんな人がいろんな仮説を立てて議論していけばいい。
B
三内丸山遺跡 は続縄文文化に近く年代は縄文後期から古墳時代に見える。米が不作なのでこの地方には弥生文化は伝わらなかったのである。したがって遺跡の中心は弥生時代のものが多いだろう。紀元後も縄文土器を作り続けた。東北アイヌ文化だろう。
アイヌは1500年くらいに日本に渡って来たので先住民ではないでしょう。
クニノトコタチが正解じゃないの?ノが抜けてる。ある大家がクニトコタチではない。と、書いてた。
cgsの御方すこし意識改革したほうが良いかもです、相づちの仕方を、信頼出来うる方々な皆さんに意見聞いてみてくだされ
紀元前5千年前w まずそこでワロタw。検証されもせず、公認もされない説を公の場で言いふらすのは自由だぁぁぁ。そもそも国とは、外敵からの防御や衣食住が困難な場合に有用で、そのような状況にないくらいに日本列島は豊富な食材と戦争のない安全な土地だったんだがなぁ?文字もまたしかりだ。
記紀の上を行く御都合主義ですね。
いときょうさん、すごく優しくて朗らかな顔をしているな。自分の好きな事に純粋に取り組んでいる人って、やっぱり素敵だ。
いときょうさんは、本当に優しい雰囲気ですね。ホツマツタヱを実際に読みたくなります。
公認されないから偽書だとは当然言えないので、疑いを持ちながらも、興味深く読んでます。どこかで実際の発掘物で証明されると良いですね。少なくとも話としては面白い。稗田阿礼の膨大な記憶の前に何かの資料が有っても可笑しくなく、また八が岳の麓で見た縄文遺跡の発掘物の高度さにも圧倒されたので、興味深々です。
国常立神のエヒタメトホカミの8人の王子にお妃が対になり16氏族が海外に出ていき又日本に帰ってきた。16菊花紋の所以ですね。
山本健三氏の飛騨王朝ともつながってくるのかもしれませんね。ワクワクドキドキです。大上方様!
ホツマツタヱ...ホツマ ツタヱ...ホツマ伝え..すわ!ホツマ伝か!
ホツマ...ホ...稲穂の穂...ツマ...つまみ取る...摘み取る...
ホツマツタヱとは
「遠い昔から長い間稲穂を摘んできた歴史、日本におけるお米のお話。穂摘み伝」
ということでしょうか...日本の国体のルーツ、縄文。
CGSの「縄文シリーズ」最高です。
ホツマツタヱの語源ってそういうことか、出雲大社の神である国常立尊は稲穂の神でもある。
国譲りの前を描いてるから、大和族からしたら不都合なのか。だから学者も認めない。
『定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比』(松本善之助 監修/池田満 編著)では一行ごとに古事記・日本書紀の記述と比較できます。
記紀からホツマツタヱを創作することは不可能に近く、
逆にホツマツタヱから記紀を創作することは容易であることが分かります。
(高価な研究資料ですので最寄りの図書館でご覧ください)
アメミヲヤが宇宙を生み作り、5元素からヒノワ(太陽)・ツキ(月)・クニタマ(地球)・ミナカヌシ(最初の人類)が作られたと考えられていたこと。
初代アマカミ(古代の天皇陛下の称号)クニトコタチが
琵琶湖でトコヨクニ(最初の日本の国号)を建国されたこと。
7代イサナギ・イサナミの全国巡幸・国造りの歴史的真相。
人皇10代目イクメイリヒコ(垂仁天皇)の時代に伊勢神宮の外宮に祀られたのは、イサナミの父・イミナ(実名)タマキネ=5代目タカミムスビ・トヨケカミであり
政り事・技術教育の達人であったこと。
8代アマテルカミは、記紀神話では、姉のヒルコヒメ(ワカヒメ)のエピソードを混和させて『天照大神』という天上・雲上の女神さまにされてしまったが、実在した偉大な男性天皇であったこと。
ミクサタカラ(三種の神器)成立の経緯。
ソサノヲとハタレの全国争乱の顛末。
その子オホナムチのクニゆずりの本当の話。
初代スヘラギ・カンヤマトイワハレヒコ(神武天皇)のヤマトウチは
大和を侵略したのではなく、二朝廷並立の統一事業だったこと。
以降、12代ヲシロワケ(景行天皇)時代までのヤマトタケの全国巡行などなど、
神話ではない、日本の国土で古代の先人・偉人が試行錯誤した歴史であること。
などなど、目からウロコです!
戦後封印されてきた『記紀神話』ではなく、
今、日本建国の歴史と皇祖・日本人・日本文明の原点が学べるのは
研究者の皆様のおかげです。
心より感謝申し上げます。
入門書は『ホツマ縄文日本のたから』でしょう。
『「ホツマツタヱ」を読み解く―日本の古代文字が語る縄文時代』『ホツマ辞典―漢字以前の世界へ』など、池田 満先生のご著書は日本の古代史の概要を知るためには必読の書だと思います。
ヨッシーユッキー
NARUTOナルトのストーリーみたいだなー
米の伝来と言っても米自体はあったが、灌漑水耕の技術が来たって事でしょ。
ありがとうございます...
偽書とか肯定して言っている輩はろくな奴は居ないのでスルーしましょうね皆さん。
影響されませぬように。
古史古伝で完全な偽書と肯定出来るものはありません。
縄文文明、弥生文明がいち早く一般化して欲しい...
古史古伝の中でも竹内文書は日本を越えて世界の歴史ですからね
天皇は漢民族系chousen人だというのが定説です:
天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
日本人(縄文人、弥生人、アイヌ人、琉球人)は漢民族と混血していない限りは全員二重瞼です。
兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説
2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社
兵馬俑(2016年5月6日撮影、資料写真)。(c)CNS/ケイ利宇
始皇帝の兵馬俑(2015年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/彭華
【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。
大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。
兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。
千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。
兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。
■その1・顔料の色落ち説
兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。
■その2・職人の手抜き説
二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。
ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。
■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説
ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。
2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。
医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。
晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。
一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。
千年の月日が流れ、秦の兵馬俑はすでに秦帝国の栄枯盛衰を忘れ、血統に関心を払う者はいない。兵馬俑の形状や表情を通して、当時の文明や社会の様子を理解することができる。今日に至るまで、兵馬俑は人類の歴史と文化の宝庫であり、依然として無数の神秘が眠っている。新たな発見とその継承が待たれる。(c)CNS/JCM/AFPBB News
.
※この記事は、CNS(China News Service)のニュースをJCMが日本語訳したものです。CNSは1952年に設立された中華人民共和国の国営通信社です。
www.afpbb.com/articles/-/3181512
できれば、偽書説についても、この一連の動画の中で触れて欲しいです
自分はまだ秀真伝えが偽書でないと信じたいので、できればそれを明らかにして欲しいです
偽書説の否定の際は、反証可能性を残してもらえると信じやすいです
()触れてもらえないだろうとは思いますが
結構みっちり回数やるみたいなのできっと触れてくれると思いたいですねぇしかし自称保守の方はどうしてこうも朝鮮大好きで頭がカタイのか。。
古代の文書を解説するときに「天孫降臨」という言葉に代表されるように、「神が空から降り降りてきた」との説明がまかり通るのはナンセンスだと思います。昔の人々だって雲が水蒸気の塊であることは、物理学を知らなくても、感覚的に知っていたであろうし、雲の上に人が乗れるとか住んでいるとかは思っても見なかったはず。こういう、SF的な解釈はやめてほしい。ある本で知ったことだが、「神が空から降り降りてきた」との解釈は江戸時代の偉い学者が言い出しっぺらしいとか。偉い先生が行ったことを弟子たちが否定出来ないものだからその後もまかり通るようになったらしい。
今の価値観からすると説得力のある話ですねぇ
『ヲシテ文献』を偽書と決めつけて断定するのは早計だと思います。
「上代特殊仮名遣い=漢字上での使い分け」や古代日本語8母音説などは、8世紀より前の漢字導入時代の混乱の影響と思われます。つまり「漢字国字化初期の特殊仮名遣い」ということ。
松本克己氏、森重敏氏など、1970年代以降、異を唱える学説が相次いでいるようです。森重説は、日本語の母音体系は元から5母音であり、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったのだとする説です。
ヘボン式ローマ字(日本語を英語ににせて書くために アメリカ人宣教師 ジェームス カーティス ヘボンが つくったもの)で表記をする際、日本語にとって必ずしも聞き分けが必要のないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことを例にあげ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかったことなどを根拠とするようです。
『日本書紀』は基本的に当時の漢文=Chineseで書かれており、支那渡来唐人(続守言と薩弘恪)のネイティブ ライティングが推定されています。
時代が下るにつれ、チャイナやインド仏教の影響が薄れて、
元々発語していた音節文字(=仮名)しか使わなくなった
とは考えられないでしょうか?
ホツマツタヱなどは原字のヲシテ文字で読まなくては、本当の価値は解からないと思います。5、7調でつづられる原文を読み書きしますと、これぞ格調高きヤマトコトバの起源であると感じられます。
元々、日本語の基層ヤマトコトバは基本48音(他同音異字体有)
10の子音(相、さきがけ)と、
5の母音(態、声の尾、状態提示)の組み合わせから成り立っていた。
形体の組合せ文字でイメージを表意。
(7代アマカミ=イサナギ・イサナミが全国を巡幸して、48音をアワウタを使って教え、タミのコトバを整えてコミュニケーション力を改善。)
↓
漢字国字化初期の混乱による特殊仮名遣いが発生
(12代ヲシロワケ(景行天皇)〜8世紀以前。大量の帰化人の影響あり。)
↓
仏教の伝来にともなったインドのサンスクリット語の表音文字が伝わる。
漢字の発音を示す伝統的な方法「反切」などから影響を受ける。
(お坊さんに限る。一般人には縁のない音図表)
↓
平安時代以降
仮名を網羅した手習い歌「あめつちの歌」「大為爾(たゐに)の歌」「いろは歌」が創作・発生。(ウタで音節文字を教える伝統の復活)
↓
江戸後期から明治期
ひらがなカタカナの五十音の考え方が普及。(音節文字の再整理・復活)
ただし『ヲシテ文字』の形象表意は失われ
単なる表音音節文字(仮名)になってしまった。
また、ヲシテ文献は、『定本〔ホツマツタヱ〕―日本書紀・古事記との対比』(松本 善之助 監修/池田 満 編著)の基礎資料により、記紀の原書であることが確認できます。図書館などでご確認ください。丁寧に読み込みますと、記紀からホツマツタヱを創作することは不可能に近く、逆にホツマツタヱから記紀を創作することは容易であることがわかります。
ちびたぱすかる 神話なんだから天降也は「天から降りてきた」で別に良いんじゃない?
学生時代から文科系の教授の話は、信用していませんので。偽書ではないのではないかと考えています。あれだけの体系だった偽物を作るというのは、相当骨だし、かなりの能力も必要です。それに偽物作ったメリットがその苦労に見合わないように感じます。
八王子のいわれ
紀元前5000年頃の出来事が由来だなんて意外にもスゲー地名だったんだな八王子市って。
重要なことは、最低でも日本書記を通読したあとに、余力興味がある人が学ぶべきです。
そして混乱めまいを楽しむのがいい。
そもそも朝鮮には人は非常に少なくいなかったと言っていい 大陸も同じじゃねぇの
日本の縄文文化の中心は南関東である。土器は渦巻き文様でありいわゆる「縄文」は少ない。だから本来は「縄文土器」は「渦巻き紋土器」と言うべきなのである。世界最古の「渦巻き」は横浜・千葉など東京湾で縄文前期に発生している。7000年まえごろから。しかし最盛期は長野新潟などに拡大した。
最古の土器(15000年前神奈川県西部)と最古の釣り針は神奈川。南関東の中期の中心は 川崎 と 千葉 あたり。これが日本の首都だった。牡蠣が好きなので「牡蠣文化」ともいえる。
千葉に貝塚あるよね!
殷はコレ元和ナリ😅
三内丸山古墳も5500年前-4000年前だから、この長い時間で全く記録が無かったのはおかしいよな。いろんな地方と貿易をしてたんだから、記録は必要だろう。
平和に暮らしていたと言うが、人口が少なく、争っていては共倒れの極限生活だったのかもしれない。
うーん…。
平和な時代を作りたかった、ということは、平和ではない時代があったのかな。
遺跡が出てきたとしても、見なかったことにしよう、となったら意味ないと思いますが。
日本は、8000年前に稲作をしてました。7000年代前に九州の南の島が日本最大の火山噴火爆発で世界中に葦の帆船で縄文人が移住し長江文明は、縄文人です。縄文人の人骨が大量に出土しました。年代測定と遺伝子検査で証明されてます。縄文人は、海洋民族でもあり稲作文明もあり現代の科学で証明されてます。イザナギノミコトは八咫烏の鏡古代へブラ文字解読で藤原三千雄さんのTH-camを見て下さい。世界初、伊勢神宮の八咫烏の鏡解読で説明されてます。
ホツマツタエに書いてある年代基準
そのまま紹介するべきでは?
天津だったりして? 天津甘栗?
有るものをなかったことに?それだめ。
記紀の前に文書がなかったというのは思考停止もいいところで非常に愚かだ。学者にはあるまじき精神態度である。古代の文書はどれも非常に価値のあるもので中立な態度で研究していくべき。いろんな人がいろんな仮説を立てて議論していけばいい。
B
三内丸山遺跡 は続縄文文化に近く年代は縄文後期から古墳時代に見える。米が不作なのでこの地方には弥生文化は伝わらなかったのである。したがって遺跡の中心は弥生時代のものが多いだろう。紀元後も縄文土器を作り続けた。東北アイヌ文化だろう。
アイヌは1500年くらいに日本に渡って来たので先住民ではないでしょう。
クニノトコタチが正解じゃないの?ノが抜けてる。ある大家がクニトコタチではない。と、書いてた。
cgsの御方すこし意識改革したほうが良いかもです、相づちの仕方を、信頼出来うる方々な皆さんに意見聞いてみてくだされ
紀元前5千年前w まずそこでワロタw。
検証されもせず、公認もされない説を公の場で言いふらすのは自由だぁぁぁ。
そもそも国とは、外敵からの防御や衣食住が困難な場合に有用で、そのような状況にないくらいに日本列島は豊富な食材と戦争のない安全な土地だったんだがなぁ?文字もまたしかりだ。
記紀の上を行く御都合主義ですね。