【前史編】誰がインドネシアを独立させたのか

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  • เผยแพร่เมื่อ 8 ก.ค. 2021
  • 日本はインドネシアをオランダの過酷な植民地支配から解放云々、という呪文が長年にわたり流布されてきました。一体どれだけ「オランダの植民地支配」について調べたうえでの言い訳なのでしょうか。
    20世紀の蘭印=オランダ領東インドは近代化に舵を切り、土着の封建的慣習を大きく引きずりながらも社会の姿を変え続けていました。インドネシアが誕生したのも20世紀に入ってからです。
    この動画では、蘭印時代の歴史を振り返りつつ、インドネシア民族運動のアウトラインを紹介します。多少なりとも日本侵攻前のインドネシアの姿をイメージいただけると幸いです。
    ※この動画は長さを抑えるため下記の諸点を省略しています。世界史の勉強にご利用の際は必ず教科書・参考書で仕上げるようにしてください。
    ・ 乱脈経営とイギリスの干渉によるオランダ東インド会社の解散と、オランダ政府による事業承継 → 会社領から国直営の植民地に(1799年)
    ・ナポレオン政権に対抗して、その支配下に落ちたオランダからイギリスが蘭印を奪いラッフルズが統治
    ・フランス支配から脱したオランダを対仏陣営にひき込むため、イギリスが蘭印を返還、更にスマトラの英領とオランダ領マラッカを交換。マラッカ海峡を英蘭住み分けの境界線とする(1824年)
    ・強制栽培制度は、その産品が売れる市場の存在・成長と連動していた事、代金支払を通じてジャワ農村を貨幣経済に巻き込んだ点にも留意。
    ・強制栽培制度が過酷になった理由の一つに、これに便乗した地元支配階級(プリアイ)などが規定の2割を超える作付けを強制するなどして私利を追求した側面もあった
    ・政府による強制栽培制度廃止を後押しした勢力には、エステート事業を拡大したかった資本家も居た
    ・オランダが蘭印全土を支配下に置いた時期は曖昧。法的地位の確立後もアチェ戦争など局地的抵抗は続いていた
    ・アチェ戦争は、スマトラ島北端を中心とする独立国アチェが他の欧米諸国と関係を結ぼうとしたため、他国の干渉を排除するべくオランダが起こした
    ・倫理政策の一環として整備されたジャワ島の灌漑は、農民の増収を企図したもの。なおサトウキビ(イネ科)は米同様大量の水を必要とし、しばしば米と輪作された
    ・重要な民族運動の一つに、留学生がオランダで結成したインドネシア協会があり、後の初代副大統領ハッタ、首相シャフリルなどを輩出している。但しメンバーは多くて40人弱で、影響も運動内に限られた
    ※主な参考文献
     倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』 草思社、1992年
     永積 昭『インドネシア民族意識の形成』 東京大学出版会、1980年
     早稲田大学大隈記念社会科学研究所編『インドネシアにおける日本軍政の研究』 紀伊国屋書店、1959年
     蘭印中央統計局『蘭印統計書(1940年版)』 大江・中原訳、国際日本協会、1941年
     関 嘉彦『蘭領印度農業政策史』中央公論社、1941年
     満鉄東亜経済調査局編『蘭領東印度』慶応書房、1937年
     外務省通商局『蘭領東印度事情』1924年
    ※この動画に使用している20世紀前半の動画は全て、配布元がパブリックドメインとして提供しているものを使用しています。

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