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こんにちは😃常にまとわりつく、不安それは、究極的には死への不安❗️なんですね。その事を考えたくなく、とうざけるために、目先の不安ばかりに集中してしまう。人間はこの様にしか、生きられない者なのですね。何とか、この闇を破って安心の心地になりたい!その為に聴いています。ありがとうございます😊
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。さらに聞法に正精進していきます。いつも本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝🙏🙏🙏
先日小倉智昭さんが亡くなりました。よく知っていた方なので驚きました。その人の栄光を振り返っていましたが、その間その人はどこかに行ってるんですよね。金や名誉や地位や家族は周りの人には残るけれど死ぬ本人は残らないんですよね、自分はどこかに行かなければならないんから。死ぬ自分と周りの人間、ものに境界線が引かれたような感覚になります。
人は耐えられない痛みに会うと気絶してしまいます。また人は寝ずにはいられない。毎日彼方の世界を体験しているように思います。だから今この世界を体験し精一杯生きるのです。
先生は当たり前過ぎる本業はあるんですか❓それとも🙎
私は老いることが怖いです。自分のことすらできなくなって、人にイライラして暴言を言ってしまう。そんな老いは嫌だなぁ。人に感謝しておしまいにしたいのに。
いつも有難うございます。死をどこか他人事だと考えていた時は、「死後は無い」と何の根拠もなく信じていました。しかし今死んでいかなければならないとなった時、間違いなく「死んだら私は何処へいくのだろう?」と怖くてたまらなくなると思います。その解決の教えが、釈迦の教え(仏教)なのだと学びました。ありがとうございました。
菊谷先生有難うございました。🙇♀️
自分の死については、肉体的苦痛は怖いですが、精神的苦痛は死んだら分かりませんから思わないです。それより、精神的苦痛は、身近な肉親の死の方がはるかに怖いです。10代のころ、引きこもって両親のみとしか会話してなかったとき、私の気付かないところで父は自殺し、その後に母は私の留守中に原因不明で心不全で突然死しました。社会で孤独になるほどの恐怖はなく、それなら楽に死ぬ権利を与えて欲しいです。
合掌南無阿弥陀仏シェアさせていただきました。
三途の川に持っていけるのは、財産でもなく名誉でもない。生まれた時と同じで素っ裸で向こうに行く。何も今生を持ち込めないのが本当で生きている自分って分かるはずです。生まれ死ぬそれは同じです。分かってることがある死ななくても、分からない死ぬを今日の自分が不安でなければ今の自分が幸福になる方法。それが違っていても今幸せならばいいビタミン剤です。死と言う不明を恐れるに負けない方法。それは、信じること。信じなくても同じ死であるならば、生を豊かに生きるには虚無的不明な死より信じる有が今貴方が幸福である事が重要です。今日、餓鬼でいなくてすむ。キリストは、信じるものは救われるとおっしゃった。お釈迦様も同じような悟りを表明されている。本当は、死後がテーマではなく、今日が幸福でいたいのなら...というお導きが基本です。ですから、信じて生きようそれが幸福だということです。十戒を守っていれば、貴方は人から迫害されないということです。死と言う彼方の無常に今生きる解として、信じればいいということです。生きるというものはそんなに綺麗ではない。今日も貴方はうんこしたでしょう?その事実に対して割れ鍋に綴じ蓋は通用しない。だが、その処方箋は信じれば今が幸せでは?ってことです。その先の本当の無に向き合って僕はこたえを持ちます。その解はそんなに悲観しなくていい真理を発見しております。そんなに悩まないでと思い至っております。皆さま新しい年です。明けましておめでとうございます。
今年も素晴らしい説法をありがとうございました🙇♀️心より感謝申し上げます🙇♀️
愛する人の別れや、未知への不安はありますね。お話ありがとうございます。
菊谷隆太先生、こんばんは。🌃🤱🌆🤱🌻🤱今日もステキな解説を、ありがとうございます。🙆🤱🙋🤱👱🤱
尊い、ご説法、誠に、ありがとうございました。一番、嫌なのは、死ぬ事です。
"想念"とは頭脳より年齢による経験と自覚によって磨かれます 教えもいいのですが お元気そうな姿はこちらもいい影響されます よいお年をお迎えください
菊谷さん今日も素晴らしい説法をありがとうございました😊 凄く勉強になりました
菊谷さんが今、死についてどう考えているのかも聞きたいです。私は42才、独身、男です。死ぬ理由さえ分かれば満足かもしれません。納得のいく。怖さもあるけど仕方ないと納得したいですかね。
私も菊谷さんが今、「死」についてどう考えて居られるのかお聞きしたいです。すみません😢⤵️⤵️
今年も1年素晴らしいお話を聞かせていただき誠にありがとうございました心から感謝申し上げます🙇♀️🙇♀️🙏
人間の知恵では、生まれる前はどこにいたのか、死んだらどこに行くのか、いくら考えても分からないけど、死んで分からない所に行く勇気がありません。阿弥陀仏に無明な闇を破るお力があって良かったです✨
死んだら死んだときだよぐらいにしか「死」については真面目に考えてきてなかったです。しかし、仏教の原点ともいえる死の解決は、とても大事な事であると菊谷先生のお話しを聞いて思いました。いつか必ず死ぬ、この事を念頭にしっかりと考え生きていこうと思います。今回もとても為になりました。誠にありがとうございます。
無明の闇というのは本来の自分すなわち普通の人達は ここにあります。しかし他力によって死は忌み嫌うものではないと言う思考の多角化とも言うべきでしょうか。知らなかった考え方をするが幸福に繋がっていくのです。もう感謝しかありません。
人間関係、形あるもの全てにおいて壊れたり、無くなったりするのが当たり前です。備えられるものもあれば、備えられないものもあります。備えられないものは、その時、どうするかはその時に考えるしかありません。死も同じだと思います。不安に思うか思わないかは人其々だと思います。天寿を全うする事は重要だと思っています。その上で、その時が来るまでどの様に生きるかが重要だと思っています。死ぬ迄のプロセスを恐怖するのと、死後の恐怖は別だと思います。前者は確かに怖いですが、後者は不安、恐怖はあまり感じません。菊谷さんの言うように真剣に考えていないと言われればそうなのかもしれませんが、逆に死後の事を考えてなにかメリットの様な物があるのであれば教えて頂きたいと思いました。
私の心にドタ牛のように横たわり死について全く驚かない私なんでなんだろう?
仏教の目的は、「無明の闇」を打ち破って、苦しみの根幹を解決することですね⁉️
今年も沢山力付けていただきました。ありがとうございました。死はやっぱり怖いし悲しいです。でも必ずその時は来るんですね。 誰もが皆んな経験して来た事なんですね。来年も先生のお話をよーく聴いて考えていきたいと思います。
菊谷先生、お釈迦様は偉大ですね✨29才野青年がお父さんにそんなことを言ってたんですか?びっくり👀しました!💦菊谷先生、私はまだまだ、修行が足りません‼️私は死ぬまでに後生くらい心を克服できるでしょうか?まだまだ、菊谷先生のTH-camを聞いて勉強したいと思いました🎵来年も宜しくお願いいたします✨良い年をお迎えください!これからも頑張って下さい。
ゆっくりゆっくりとした老に付き観てるとその後は、やはり、なにがしかの?他力で?顕かに人のせいで 往く 姿を本心とした(意が絶対と観える)もので😒綺麗な 人生老退(ソコの処)部分でしょうね
今日も興味深いお話をありがとう御座います。私も10代後半から、今の60歳でも死んで自分の意識が無くなってしまうことを考えるとなんとも言えない落ち着かない気持ちになります。その時はそれを考えない事にします。 この後の動画で教えてくださるであろうブッダの教えを学びたいです。
死が怖いのではなくて、惚けて働けなくなったり生活できなくなるのが怖いです。
死んだら生まれ変わるというのが僕の考えです、今の人生を全うしその中で何を為すかが大事ではないかと。口では何とでも言えますが実際は無為になっているでしょうね。
死ぬことそのものが怖くて死を避けようとするんだったら、死ぬ時なにもあんなに肉体的に(実際はわからないので)痛そうだったり、苦しそうだったりしなくてもいいのになと神の設計を怨みます。やはり肉体的の痛み苦しみがないと人は生きようとしないような気もします。そして、精神的苦痛は痛みと苦しみに縛られて生きることを強いられることの副作用。もちろん菊谷先生のお話もよく分かります。
漫談家の綾小路きみまろさんが、『人間死亡確率100%』という真理をネタに多くの人を笑わせていたのを思い出します。人は他人の死に対しては、何故か自分には遠い存在のように感じています。私も最近、父を見送り、大切な友人の訃報に接する年齢になりました。お話の中の人生の節目である定年退職も経て、死の存在も身近なものになりました。今は「生老病死」の『老病』の真最中です。「死のゴルフ」のシングルプレイヤーとなり、それでもハンデ5という位かなという甘い感覚で生きています。幸い、お釈迦様の説かれた教えにご縁を得て、これを学び行うことを生活の糧としてその日が来るまで精進していく事により、必ず訪れる死を意識しながら、一日一日を大切にして生きたいと思っています。
死んだら無になる という宗教はない宗教の罪 いずれの宗教も死後必ず救われるという望みがあるから信心するそれは生きる者の望み量子次元で生物の思考思念のみが存在する次元への転送があるのならそれが昇華転生現生は死んだら無死ぬまでいかに生きるを示すのが宗教の道それを示してくれる坊主に出会いたい
死んだら無である事は確かであり、自分自身の全ては消滅してしまうのだが、死を前にした肉親や人間を前にして、そのような真実のみの考えで接して見送れるものだろうか?死ぬ方も残される方も、宗教なくして人間の根底的な弱さを救い納得させ、前向きに生きるすべはないように思う。信心のある家庭であれば、自然と神仏を尊び生涯の支えになるのではないか。無宗教者で葬式も供養も法話も墓も一切に不要とする者は、愛する者が死を悟り恐怖し迷い頼られた時に、いかにして心の拠り所を求めるのだろうか。
確かに別離と未知への不安が死ぬのが怖い要因だと思います。その根底にあるのは自我という己があるという概念でないでしょうか。仏陀はこれを否定した。(無我の概念)仏陀は死後世界については無記で語っていません。まさに未知の世界です。仏陀が説いたのは生き方についてであり、これを極めるとその延長線上に死はあるので死も怖くはなくなるのかな、とは思います。
貴重な法話、ありがとうございました。★どうして「死」は怖いのか?1.二つの死の苦しみ(肉体的苦痛、精神的苦痛・別離、未知への不安)2.無明の闇(後生暗い心)3.シッダルタ太子の挑戦(老病死・29歳出家、35歳悟り、80歳亡くなるまで)
要は わからないから ではないでしょうか ある程度 分かれば納得もできるんですがね 科学ではわからないですもんね。😅
いつも有難うございます 自分がこの世を認識した原初体験は真っ暗闇から眠りが覚めた如く明るい世界が広がってましたもう自分の名前認識していてその時が魂が入った時かもの心ついた時なのかもしれません何が言いたいかと言うと一瞬垣間見たその暗闇に戻るのが死ではないかと思います。死ぬ時苦しんだかもしれないけど記憶がない、無くすのが暗闇の世界なのかなと。自分は一世一代かもしれないし転生してきたのかわからないです釈迦はどういう結論を得たのか知りたいです 長々と御免なさいませ
愛別離苦は生の苦しみではないですか?死は脳死なんだから苦しみはないと思いますよ
個人の経験では意識の混濁では経験上苦しくなかったと思います。記憶そのものが消えている可能性はありますが( ̄▽ ̄;)死は許しです。これ以上の苦痛、苦悩から逃れられます。蓄積していたものからも解放されます。死は仕事を為したものに与えられます。志村けんや阿部元総理は許され、生きているものらに死による教授をしました。そして、わたしも及ぶことないのですが、為しました。既に死の許しは得られていますが、まだ、しばしの仕事が与えられているに過ぎません。一休の死に対し、死にたくないという意図はそうなるのが人が進むよう推奨する至りです。
私は死ぬのが恐いとは感じていないです。でも、その恐さは自分がこれからいよいよ死んでいく、その時まで分からないのであれば、死への備えは必要だと思いました。
怖い顔の人が襲うからかな?
こんにちは😃
常にまとわりつく、不安
それは、究極的には
死への不安❗️
なんですね。
その事を考えたくなく、とうざけるために、目先の不安ばかりに集中してしまう。
人間はこの様にしか、生きられない者なのですね。
何とか、この闇を破って安心の心地になりたい!
その為に聴いています。
ありがとうございます😊
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。さらに聞法に正精進していきます。いつも本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝🙏🙏🙏
先日小倉智昭さんが亡くなりました。よく知っていた方なので驚きました。その人の栄光を振り返っていましたが、その間その人はどこかに行ってるんですよね。金や名誉や地位や家族は周りの人には残るけれど
死ぬ本人は残らないんですよね、自分はどこかに行かなければならないんから。
死ぬ自分と周りの人間、ものに境界線が引かれたような感覚になります。
人は耐えられない痛みに会うと気絶してしまいます。また人は寝ずにはいられない。毎日彼方の世界を体験しているように思います。だから今この世界を体験し精一杯生きるのです。
先生は当たり前過ぎる本業はあるんですか❓それとも🙎
私は老いることが怖いです。自分のことすらできなくなって、人にイライラして暴言を言ってしまう。そんな老いは嫌だなぁ。人に感謝しておしまいにしたいのに。
いつも有難うございます。死をどこか他人事だと考えていた時は、「死後は無い」と何の根拠もなく信じていました。しかし今死んでいかなければならないとなった時、間違いなく「死んだら私は何処へいくのだろう?」と怖くてたまらなくなると思います。その解決の教えが、釈迦の教え(仏教)なのだと学びました。ありがとうございました。
菊谷先生有難うございました。🙇♀️
自分の死については、肉体的苦痛は怖いですが、精神的苦痛は死んだら分かりませんから思わないです。それより、精神的苦痛は、身近な肉親の死の方がはるかに怖いです。10代のころ、引きこもって両親のみとしか会話してなかったとき、私の気付かないところで父は自殺し、その後に母は私の留守中に原因不明で心不全で突然死しました。社会で孤独になるほどの恐怖はなく、それなら楽に死ぬ権利を与えて欲しいです。
合掌南無阿弥陀仏シェアさせていただきました。
三途の川に持っていけるのは、財産でもなく名誉でもない。生まれた時と同じで素っ裸で向こうに行く。何も今生を持ち込めないのが本当で生きている自分って分かるはずです。生まれ死ぬそれは同じです。
分かってることがある死ななくても、分からない死ぬを今日の自分が不安でなければ今の自分が幸福になる方法。それが違っていても今幸せならばいいビタミン剤です。死と言う不明を恐れるに負けない方法。それは、信じること。
信じなくても同じ死であるならば、生を豊かに生きるには虚無的不明な死より信じる有が今貴方が幸福である事が重要です。
今日、餓鬼でいなくてすむ。
キリストは、信じるものは救われるとおっしゃった。お釈迦様も同じような悟りを表明されている。
本当は、死後がテーマではなく、今日が幸福でいたいのなら...というお導きが基本です。
ですから、信じて生きようそれが幸福だということです。
十戒を守っていれば、貴方は人から迫害されないということです。
死と言う彼方の無常に今生きる解として、信じればいいということです。生きるというものはそんなに綺麗ではない。今日も貴方はうんこしたでしょう?その事実に対して割れ鍋に綴じ蓋は通用しない。だが、その処方箋は信じれば今が幸せでは?ってことです。
その先の本当の無に向き合って僕はこたえを持ちます。その解はそんなに悲観しなくていい真理を発見しております。そんなに悩まないでと思い至っております。
皆さま新しい年です。
明けましておめでとうございます。
今年も素晴らしい説法をありがとうございました🙇♀️心より感謝申し上げます🙇♀️
愛する人の別れや、未知への不安はありますね。お話ありがとうございます。
菊谷隆太先生、こんばんは。🌃🤱🌆🤱🌻🤱今日もステキな解説を、ありがとうございます。🙆🤱🙋🤱👱🤱
尊い、ご説法、誠に、ありがとうございました。一番、嫌なのは、死ぬ事です。
"想念"とは頭脳より年齢による経験と自覚によって磨かれます 教えもいいのですが お元気そうな姿はこちらもいい影響されます よいお年をお迎えください
菊谷さん今日も素晴らしい説法をありがとうございました😊 凄く勉強になりました
菊谷さんが今、死についてどう考えているのかも聞きたいです。
私は42才、独身、男です。
死ぬ理由さえ分かれば満足かもしれません。納得のいく。
怖さもあるけど仕方ないと納得したいですかね。
私も菊谷さんが今、「死」についてどう考えて居られるのかお聞きしたいです。すみません😢⤵️⤵️
今年も1年素晴らしいお話を聞かせていただき誠にありがとうございました心から感謝申し上げます🙇♀️🙇♀️🙏
人間の知恵では、生まれる前はどこにいたのか、死んだらどこに行くのか、いくら考えても分からないけど、死んで分からない所に行く勇気がありません。阿弥陀仏に無明な闇を破るお力があって良かったです✨
死んだら死んだときだよぐらいにしか「死」については真面目に考えてきてなかったです。しかし、仏教の原点ともいえる死の解決は、とても大事な事であると菊谷先生のお話しを聞いて思いました。いつか必ず死ぬ、この事を念頭にしっかりと考え生きていこうと思います。
今回もとても為になりました。誠にありがとうございます。
無明の闇というのは本来の自分すなわち普通の人達は ここにあります。しかし他力によって死は忌み嫌うものではないと言う思考の多角化とも言うべきでしょうか。知らなかった考え方をするが幸福に繋がっていくのです。もう感謝しかありません。
人間関係、形あるもの全てにおいて壊れたり、無くなったりするのが当たり前です。備えられるものもあれば、備えられないものもあります。備えられないものは、その時、どうするかはその時に考えるしかありません。死も同じだと思います。不安に思うか思わないかは人其々だと思います。
天寿を全うする事は重要だと思っています。その上で、その時が来るまでどの様に生きるかが重要だと思っています。死ぬ迄のプロセスを恐怖するのと、死後の恐怖は別だと思います。前者は確かに怖いですが、後者は不安、恐怖はあまり感じません。菊谷さんの言うように真剣に考えていないと言われればそうなのかもしれませんが、逆に死後の事を考えてなにかメリットの様な物があるのであれば教えて頂きたいと思いました。
私の心にドタ牛のように横たわり
死について全く驚かない私
なんでなんだろう?
仏教の目的は、「無明の闇」を打ち破って、苦しみの根幹を解決することですね⁉️
今年も沢山力付けていただきました。
ありがとうございました。
死はやっぱり怖いし悲しいです。
でも必ずその時は来るんですね。
誰もが皆んな経験して来た事なんですね。
来年も先生のお話をよーく聴いて考えていきたいと思います。
菊谷先生、お釈迦様は偉大ですね✨29才野青年がお父さんにそんなことを言ってたんですか?びっくり👀しました!💦菊谷先生、私はまだまだ、修行が足りません‼️私は死ぬまでに後生くらい心を克服できるでしょうか?まだまだ、菊谷先生のTH-camを聞いて勉強したいと思いました🎵来年も宜しくお願いいたします✨良い年をお迎えください!これからも頑張って下さい。
ゆっくりゆっくりとした老に付き観てるとその後は、やはり、なにがしかの?他力で?顕かに人のせいで 往く 姿を本心とした(意が絶対と観える)もので😒綺麗な 人生老退(ソコの処)部分でしょうね
今日も興味深いお話をありがとう御座います。
私も10代後半から、今の60歳でも死んで自分の意識が無くなってしまうことを考えるとなんとも言えない落ち着かない気持ちになります。その時はそれを考えない事にします。 この後の動画で教えてくださるであろうブッダの教えを学びたいです。
死が怖いのではなくて、惚けて働けなくなったり生活できなくなるのが怖いです。
死んだら生まれ変わるというのが僕の考えです、今の人生を全うしその中で何を為すかが大事ではないかと。口では何とでも言えますが実際は無為になっているでしょうね。
死ぬことそのものが怖くて死を避けようとするんだったら、死ぬ時なにもあんなに肉体的に
(実際はわからないので)痛そうだったり、苦しそうだったりしなくてもいいのになと神の
設計を怨みます。やはり肉体的の痛み苦しみがないと人は生きようとしないような気もします。そして、精神的苦痛は痛みと苦しみに縛られて生きることを強いられることの副作用。
もちろん菊谷先生のお話もよく分かります。
漫談家の綾小路きみまろさんが、『人間死亡確率100%』という真理をネタに多くの
人を笑わせていたのを思い出します。人は他人の死に対しては、何故か自分には遠い
存在のように感じています。私も最近、父を見送り、大切な友人の訃報に接する年齢
になりました。お話の中の人生の節目である定年退職も経て、死の存在も身近なもの
になりました。今は「生老病死」の『老病』の真最中です。「死のゴルフ」のシング
ルプレイヤーとなり、それでもハンデ5という位かなという甘い感覚で生きています。
幸い、お釈迦様の説かれた教えにご縁を得て、これを学び行うことを生活の糧として
その日が来るまで精進していく事により、必ず訪れる死を意識しながら、一日一日を
大切にして生きたいと思っています。
死んだら無になる という宗教はない
宗教の罪 いずれの宗教も死後必ず救われるという望みがあるから信心する
それは生きる者の望み
量子次元で生物の思考思念のみが存在する次元への転送があるのならそれが昇華転生
現生は死んだら無
死ぬまでいかに生きるを示すのが宗教の道
それを示してくれる坊主に出会いたい
死んだら無である事は確かであり、自分自身の全ては消滅してしまうのだが、死を前にした肉親や人間を前にして、そのような真実のみの考えで接して見送れるものだろうか?
死ぬ方も残される方も、宗教なくして人間の根底的な弱さを救い納得させ、前向きに生きるすべはないように思う。
信心のある家庭であれば、自然と神仏を尊び生涯の支えになるのではないか。
無宗教者で葬式も供養も法話も墓も一切に不要とする者は、愛する者が死を悟り恐怖し迷い頼られた時に、いかにして心の拠り所を求めるのだろうか。
確かに別離と未知への不安が死ぬのが怖い要因だと思います。その根底にあるのは自我という己があるという概念でないでしょうか。仏陀はこれを否定した。(無我の概念)仏陀は死後世界については無記で語っていません。まさに未知の世界です。仏陀が説いたのは生き方についてであり、これを極めるとその延長線上に死はあるので死も怖くはなくなるのかな、とは思います。
貴重な法話、ありがとうございました。
★どうして「死」は怖いのか?
1.二つの死の苦しみ(肉体的苦痛、精神的苦痛・別離、未知への不安)
2.無明の闇(後生暗い心)
3.シッダルタ太子の挑戦(老病死・29歳出家、35歳悟り、80歳亡くなるまで)
要は わからないから ではないでしょうか ある程度 分かれば納得もできるんですがね 科学ではわからないですもんね。😅
いつも有難うございます 自分がこの世を認識した原初体験は真っ暗闇から眠りが覚めた如く明るい
世界が広がってましたもう自分の名前認識していてその時が魂が入った時かもの心ついた時なのかもしれません
何が言いたいかと言うと一瞬垣間見たその暗闇に戻るのが死ではないかと思います。死ぬ時苦しんだかもしれないけど
記憶がない、無くすのが暗闇の世界なのかなと。自分は一世一代かもしれないし転生してきたのかわからないです
釈迦はどういう結論を得たのか知りたいです 長々と御免なさいませ
愛別離苦は生の苦しみではないですか?
死は脳死なんだから苦しみはないと思いますよ
個人の経験では意識の混濁では経験上苦しくなかったと思います。記憶そのものが消えている可能性はありますが( ̄▽ ̄;)死は許しです。これ以上の苦痛、苦悩から逃れられます。蓄積していたものからも解放されます。死は仕事を為したものに与えられます。志村けんや阿部元総理は許され、生きているものらに死による教授をしました。そして、わたしも及ぶことないのですが、為しました。既に死の許しは得られていますが、まだ、しばしの仕事が与えられているに過ぎません。一休の死に対し、死にたくないという意図はそうなるのが人が進むよう推奨する至りです。
私は死ぬのが恐いとは感じていないです。
でも、その恐さは自分がこれからいよいよ死んでいく、その時まで分からないのであれば、死への備えは必要だと思いました。
怖い顔の人が襲うからかな?