「魏志倭人伝」と邪馬壹国への道 (正木 裕)

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  • เผยแพร่เมื่อ 11 ธ.ค. 2024

ความคิดเห็น • 84

  • @SINZAEMON1000
    @SINZAEMON1000 6 ปีที่แล้ว +1

    位置の問題は邪馬台国まで軍事的に攻めたら実際どのくらいかかるかで記録する。水行は追い風向かい風や左右の揺れなどがある。陸行は真っすぐ行けないからぐるりと迂回もある。行先の方角にある国に向かうけどぐるりと回って行くこともある。

  • @WEBSTUDIO17
    @WEBSTUDIO17 6 ปีที่แล้ว +4

    日本全国の神社の神主さんのお祓いは「筑紫の日向の橘の小戸〜」と九州のどこか特定の場所を指していて、奈良とか出雲とか伊勢とかの地名は出て来ない。

  • @原田大六-d6w
    @原田大六-d6w 4 ปีที่แล้ว +2

    (1)広く流布されている『東夷伝』の文庫本などは活字体である。しかしその『東夷伝』は12世紀、宗の時代の写本(紹興本、紹煕本)が元であって陳寿の原典、原本は残存していない。原典、原本は楷書体だった確証はなく印刷技術が未発達だった時代の原典、原本が残存していないのに『壹』の字の書体だけを取り上げて断定するのは科学ではない。『壹』の草書体は『臺』との類似性が指摘できる。またこの動画ではどの文献でも『壹』の異体字もしくは『臺』に読み替える根拠はないように断定しているが、『隋書倭国伝』『北史』には『邪摩堆』という風に『堆』という表記になっている例がある。後漢の光武帝は即位後初めて『尚書臺』を設置して皇帝の詔勅を管理させた。『臺』は中央官庁、朝廷の意味である。我が国の中央官庁に『臺』の字を用いても不思議はない。『壹与』は『洛陽』を『臺』と称している。

    • @otomioomiya2644
      @otomioomiya2644 ปีที่แล้ว

      ご指摘の邪摩堆。気になってます。講談社学術文庫「倭国伝」では”やまと”のルビを打っています。これは後に続く記述の「邪馬台」←これは”やまと”ルビ、多分その流れで打ったものと思えますが、堆→”と”と心情的には読みたいが調べると”つい”、辛うじて”て”ですね。ただ隋書編纂時の彼の地では果たしてどうかが頼みの綱。どなたか詳しい方いないでしょうか。少なくとも堆の土偏を”と”発音するの可能性もあるので果たしてどうか、と感じています。

  • @ペンちゃん-r4v
    @ペンちゃん-r4v 2 ปีที่แล้ว +2

    末蘆国を松浦半島北端は、相当苦しい言い回しですね。末蘆国から伊都国(糸島)東南とあるのを行きだしの方向これも相当苦しいですね。抑々、壱岐国から末蘆国(松浦半島北端)の水行であるが、そんなに危険な海峡を何故航行するのでしょうか!?海流1-3ノットあるのであれば、そのまま東にまっすぐ海流に乗って宗像・勝浦に着岸すれば良いのでは。宗像近辺は古代海女族であり魚鰒を捕るを好み、水の深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」に相応しい。その後も伊都国(飯塚市)方面も、草木茂盛し、である。

  • @hu4263
    @hu4263 10 หลายเดือนก่อน

    30:00 「水行距離」はなぜみな「千里」なのか。”直接測量もできない。” ⇒ ”行程日数を距離に換算するほかない。” 海上の行程距離? 図の様にもっともらしく蛇行している? その図は海流の影響を考慮されてますか? 展望台がある様に、対馬北端から釜山は見える。高台に登れば見通し距離が測れるのです。それで、釜山―唐津間を何日かけて航海した?

  • @asa01053
    @asa01053 4 ปีที่แล้ว +4

    九州説はヤマイチなんですね!この時代にヤマイチなんて長いのは使うのかな?ヤマトゥが一番わかりやすいけど。

    • @かるいし-l4p
      @かるいし-l4p 4 ปีที่แล้ว +2

      そもそもヤマイチなんて倭人が言ったら大陸の人間はietみたいな音で子音終わりを時にあてがって終わるなんてありえないわ。ケツにiの音の漢字をあてないといけないし、そもそも中途半端に壹の字は使わんな。

  • @gasfank
    @gasfank 4 ปีที่แล้ว +4

    台はシナで「と」と発音するんじゃないの。
    長浜弘明氏の本が一番合点がいく。

  • @masabon63
    @masabon63 5 ปีที่แล้ว +4

    ヤマト国の当て字という説を推したい

  • @黒嵜潤一郎
    @黒嵜潤一郎 6 ปีที่แล้ว +4

    壹の中国語?の読みはtouです。トではないと思います。それでも倭人が「ヤマト」と発声したとすれば、それはそれで、漢語表記を邪馬壹と当て字をしたことは十分推測は出来ます。例えば、アンダーソンは安迪生(アンディシェン)となりますが、アンディシェンの元がアンダーソンだったのか、アンダーセンだったのか的な議論も、それはそれで興味深いものです。

    • @Itirinjin
      @Itirinjin 6 ปีที่แล้ว +1

      壹の現代北京音はyī。広韻は於悉切。touなどと読むのは無理です。因みに豆は隷変。

    • @かるいし-l4p
      @かるいし-l4p 4 ปีที่แล้ว

      @@Itirinjin 現代の北京音はどうでもいいですが、上古音・中古音の推定は共にiやj(音はyかな?わからん)から始まるようですね。漢字古今音資料庫より。

    • @Itirinjin
      @Itirinjin 4 ปีที่แล้ว

      @@かるいし-l4p はい。先ず上中古音は入声であることは間違いなさそうです。

  • @ponzu1087
    @ponzu1087 ปีที่แล้ว

    卑弥呼の宗女の名前は臺與 / 壹與(台与 / 壱与、とよ / いよ、235年 - 没年不明)と「と」と読んでいます。邪馬臺国と同じです。中国の文書に有る、吉の下が「至」であっても「豆」であっても、これは「と」と読めますし「と」と読むべきだと思います。

  • @わたなべ-v4t
    @わたなべ-v4t 7 ปีที่แล้ว +2

    長浜浩明への反論はないの?

  • @グレープキノコ
    @グレープキノコ 6 ปีที่แล้ว

    邪馬台国は 球磨郡 にありました 隼人 熊襲 よ日本ではゆわれました

  • @giantszero6962
    @giantszero6962 5 ปีที่แล้ว +1

    そもそも倭人伝の行程を書いた人物は使節団の人間じゃないだろ。
    陳寿は使節団の公式記録を入手できず(戦乱で焼けた?)
    同時期に倭国を訪問した人物(帯方郡の下級役人?)の手記を引用した印象を受ける。

  • @eresseeresse478
    @eresseeresse478 4 ปีที่แล้ว

    ヤマトからの使者が我々の国の名前はヤマトという。ヤマトからの使者の言葉に魏にはヤマトという発音自体がないので魏の書士が邪馬壹という字を当てたというのが正しいでしょう。日本という国名もロシアを通ってヨーロッパに伝わるに従いハポン→ジャパンになったようなものです。

  • @山本修也-v9n
    @山本修也-v9n 8 ปีที่แล้ว +2

    日本書紀 古事記には邪馬台国らしきものの記述がないんですね、不思議ですね。

    • @かるいし-l4p
      @かるいし-l4p 4 ปีที่แล้ว

      土蜘蛛勢力が邪馬台説だっけか。

  • @きらやまと-b2p
    @きらやまと-b2p 2 ปีที่แล้ว +1

    イトコクがマツラから東南方向のところを”出だしの方向”が東南方向だったって?そんな記録全く役に立たないでしょ?
    魏志倭人伝を見て自分が現糸島市に辿り着けるとは思えないけどな。
    多くの人がこのことに疑問を持たないのは何故?かの長濱氏もこの点には納得できる解釈はなく、これは当たり前としている。三国志の他の部分に同様な端折った説明があるなんて聞いたことないよ。少なくとも魏の使者が言ったところまではその報告書を見て概ね目的地まで辿り着けるような内容になっていると思うのだけれど。
    どうして、倭国に関する記述だけは他の地域の説明と違って特別な記載がされているということを前提に解釈を行おうとするのか不思議でしょうがありません。
    先入観に囚われずに記載の通りに移動するとどうなるのかで議論できないでしょうか?
    ”地名は1000年変わらない”が当たり前の事実のように語られますが、決してそうではありませんよ。
    ”そう言った事例が散見される”と言った程度であり、ある集落から別の場所に移住した場合に移住先の地名が元いた場所の地名に置き換わる事例も沢山有ります。
    魏志倭人伝の時代の”イトコク”の人々が現糸島市の場所に移り住み、後の時代(古墳時代以降)に新しく移り住んだ先を以前同様に”イト”と呼ぶようになったとも考えられるのではないかとも思います。古来の北九州の勢力がヤマト王権の勢力の侵略(?)を受けた時にそのように”イトコク”が移動したと言うことも考えられそう。(元々、現糸島市の地域にあった国が難民を受け入れたのかもしれないし)
    いずれにせよ、魏志倭人伝の記述を特別に曲解してまで”イトコク”が”現糸島市”にあったと言うことの理由が古事記以降の記録の地名だけなのはイマイチ説得力に欠ける暴論のように思えるのですが、どうでしょうか?あるいは三国誌の記述はそこかしこに同様ないい加減な記述があるのでしょうか?不勉強なのか私はそのようなことは魏志倭人伝の部分では寡聞にして聞いたことがありません

  • @burny8434
    @burny8434 3 ปีที่แล้ว

    第一神朝
    天之世(あめのよ)七代
    ?【820年】
    第二神朝
    天之御中世(あめのみなかよ)十五代
    ?【35万人・1849年】
    第三神朝
    高天原天神世七代
    ?初代【たかまがはらあめのかみのよ】
    ?【国常立尊・(くにとこたちのみこと)】
    ?【伊弉諾命・(いざなぎのみこと)】
    ?【506年】
    ?【日本への移動は第三神朝から10万8千人くらい】
    第四神朝
    豊阿始原之世五代(とよあしはらのよ)
    ?【487年間】
    第五神朝
    宇家潤不二合須世(うがやふじあわすのよ)
    ?【五十一代2250年間】
    すなわち世にいう
    ?【富士王朝】へと続くのです。
    ※皇祖皇太神宮
    【富山市御皇城山】
    ※神代文字
    【神代の万国史】
    ※天神七代
    ※皇統二十五代
    ※不合朝七十三代
    ※神倭朝百二十五代
    【神武天皇~令和天皇まで】
    ?位山【岐阜県飛騨山】
    スメラノミコト
    ①先代旧事本記
    ②大本神諭
    ③日月神示
    ④月蔵経
    ⑤国記・天皇記
    【栗鹿大明神元記】
    (あわがだいみょうじんもとふつみ)
    ※栗鹿神社⛩️
    ⑥大日本国一宮記
    (だいにほんくにいちみやき)
    古事記
    日本書紀
    竹内文書
    宮下文書
    九鬼文書(くかみもんじょ)
    上記(うえふつみ)
    安倍文書
    和田家文書
    古史古伝
    豊国文字
    日月神示
    ヲシテ文字
    カタカムナ
    月蔵経🗾

  • @高橋義行-e7p
    @高橋義行-e7p 6 ปีที่แล้ว +3

    現在この分野での説で最も真実に近いのは 長濱浩明氏と思います。

  • @my4202
    @my4202 10 ปีที่แล้ว +7

    Why ? it starts from Korea. At that time, Southern Korea and Western Japan were a same people. They had all most the same background.

    • @detectivebak
      @detectivebak 9 ปีที่แล้ว +1

      Wan Che 伽耶の人々と九州の人々は同じ人種でした。

    • @my4202
      @my4202 9 ปีที่แล้ว

      Why don;t you look back ? Koreans were more advanced than Japanese because immigrant Chinese built country.on Korea Peninsula. I am an American who stand neutral and not centric. Japanese kings came from Korea Peninsula. I do not know what happen at that time . I will write a book about this. I need more evidences and proof. Please do not look at old time by today's eye. It makes history as a fiction but not facts. I clearly do not argue with you. so please do not send me any comments.. Thank.

    • @studiokazuyo
      @studiokazuyo 9 ปีที่แล้ว

      Wan Che I agree you cannot look old time with today's eye.

    • @detectivebak
      @detectivebak 9 ปีที่แล้ว

      Kazuyo Leue 形式的だったとは思われますが、高句麗は唐に朝貢していたということは事実でしょう。しかし、「属国」とはいえません。高句麗は独自の年号を使っていましたし、特に高句麗の王は自ら天子(=好太王)を名乗りました。必要な時は、唐への先制攻撃を敢行したりもしました。これは属国ではなかったという意味になります。

    • @studiokazuyo
      @studiokazuyo 9 ปีที่แล้ว

      Sunjong Bak 属国とは言い過ぎました。そうですね。清朝のときの李朝のようではなかった。訂正します。日本も沖縄は李朝のような属国ではなく、高句麗のような立場で、清に接してました。

  • @野中清隆
    @野中清隆 7 ปีที่แล้ว +1

    九州説 畿内説論者も再度ルートを検証して欲しい。対馬 壱岐 末蘆国 伊都国まで南進で正解。伊都国間から奴国まで東南で正しい。問題は奴国から東百里で不弥国に到達がかなり怪しい。福岡市から糟屋郡を経由し殆んど真下つまり南に不弥国(宇美町)は有る。つまり博多湾から東に進路を取ると北九州方向に成り記述のルートが怪しくな成る。昔の中国に指南と言う言葉が天文観察に使われたと聞くが星座による航海法ならまず方角を間違う事は考えにくい。この東を南に訂正すれば不弥国から南の投馬国に到着し又南進すれば邪馬台国に至ると成る。邪馬台国が絞り易くなるのでは。ただ投馬国から距離数でなく日数に表現が変わっている事と水行ルートがより難しくしている。ご意見を期待したい。

    • @はは姫
      @はは姫 ปีที่แล้ว

      古代福岡県の 奴国から東百里の国とは、当時の豊前豊国 「 主に田川市郡・香春町と大坂山 ( 飯岳山 )と英彦山。 それに続いて、京都郡圏、豊前市、中津市、宇佐市、院内町、国東半島 」です。
      (^_^ゞ☝️👩‍✈️🌼🌿
      因みに 当時、豊前豊国迄のルートなら、今の遠賀町河口付近から、遠賀川を舟で遡上運行できたそうです。

  • @user-n3i3w
    @user-n3i3w 5 ปีที่แล้ว +4

    ヤマイチはない

    • @tronfun
      @tronfun 5 ปีที่แล้ว

      今は無き証券会社。

    • @asa01053
      @asa01053 4 ปีที่แล้ว

      @@tronfun うまい

  • @asa01053
    @asa01053 4 ปีที่แล้ว

    ヤマトゥで決まり!

  • @Itirinjin
    @Itirinjin 8 ปีที่แล้ว

    壹 專壹也。从壺吉聲。凡壹之屬皆从壹。於悉切 説文では「ト」の音はないな。

    • @besosabu3
      @besosabu3 8 ปีที่แล้ว +1

      Itirinjin つ

    • @Itirinjin
      @Itirinjin 6 ปีที่แล้ว

      壹の広韻は於悉切。和音イツ。ト音など全く無関係。また壹は単なる誤写。

  • @asa01053
    @asa01053 4 ปีที่แล้ว

    ヒミカと言ってますけど‼️
    超高速参勤交代!笑える

  • @ryuuheimiwa1870
    @ryuuheimiwa1870 8 ปีที่แล้ว +1

    その当時のその国へ行って今の発音で喋ってみろ。似てるが何も通じないよ。
    それが事実だ。難しくも何もない。今の若い人の言葉ですら30年前の人には通じない。
    言葉にも不易と流行があり、時の政治で統一される、それも変わる。名残しか残らないのが事実だ・だから古代資料は現代人には読めない。古代資料は難しくしてる訳じゃない、そうだったのだ、それを読まないと何も解らない。ウソだと決めつけるほうが正史だけが真実と思い込む教育洗脳の怖いところで、焚書坑儒を知らないと裏の歴史真実はウソだと思う罠だ、
    そういう可能性があるかもしれないという仮説が、学説と言うものだ。真相は確定していない

  • @AS-ei3ge
    @AS-ei3ge 4 ปีที่แล้ว

    この国の大きさのペースで30余国従えたとすると、近畿もすでに征服しているような

  • @利根川幸雄-x4t
    @利根川幸雄-x4t 4 ปีที่แล้ว

    やまとうこくは四国ですね。他の説は我田引水。

  • @oniwakamarukumano8328
    @oniwakamarukumano8328 5 ปีที่แล้ว

    邪馬台国論争は中々決着が着かないけど、原因はこの魏志なんだよな。
    もう面倒くさいさか、3世紀には神武東征が済んでいて奈良にヤマト王朝あった。
    ヒミコは大王の姉で祭政一致の政治をしていた。
    で魏の使者は女王と勘違いしていた。
    でいいんじゃね?っと言いたくなる。
    ミコは神託を受ける存在として王より上に置かれていたんじゃないかな?
    また斎王は女性と決まっているのは、女性じゃないと神と交信できないと考えられたからではないかな?
    神武東征の上陸候補の一つに三重県熊野市の獅子岩があるが、その直ぐ近くにイザナミ神とカグヅチ神を祀った花の窟屋がある。
    つまり紀伊半島の南部の小国をまとめていたんじゃないかな?
    当時対立していたクナ国は伊勢湾の周囲を支配していたんじゃないかな?
    勝手な妄想でしたm(_ _)m