ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
懐かしい動画をありがとうございます。自分も青森から函館へ大時化の津軽海峡を羊蹄丸で渡りました。青森から暫くの間はさほど揺れませんでしたが陸奥湾を出て船が大きく揺れ始め、海峡ラーメンを食べようと楽しみにしていましたが時化で営業を休止してしまい食べられないで函館に着いて仕舞いました。石川さゆりさんの津軽海峡冬景色、脳内再生ヘビーローテーションに成りますね。
冒頭の青森港を見ると思わず「石川さゆり」の演歌を口ずさみたくなるシーンですが、大荒れのシーンに移るとそれどころじゃありませんね(笑)私も1983年の冬に乗りました。海峡の中心あたりで揺れが大きくなって船内を歩いても自分の意思とは逆方向に体が進んでゆくほど酷い揺れでした。乗組員に大丈夫か?と聞いたら冬の津軽海峡は日常茶飯事と当たり前と言いたそうな表情で答えてくれたことを今でも忘れない記憶です。
親父が国鉄で「家族パス」があり、東京や大阪の親戚の家へ遊びに行く等は連絡船に始まり連絡船で終わる旅でした。最初は酔って大変でしたが、カーペット席で船尾に足を向ける事で酔わなくなり、今でもフェリー等でもそうしています。申し訳ないですが、この動画以上の時化も体験したことがあります。カーペットの床に耳を付けていると、波の底部に差し掛かると「ズズン」という(おそらく船体が歪む音だったのでしょうね)音が聞こえたものです。船尾も波と空の繰り返しの光景。でも、本当の津軽海峡部分だけで、北海道と本州の湾側に入ってしまえば、揺れはすっと収まったものです。ある意味、ああいう体験が四六時中出来た、貴重な交通機関でした。懐かしいです。
1987年2月末に大学受験のため、連絡船を利用しました。出港の際、船内アナウンスで「波の高さは5メートル以上、網棚に荷物は置かない、必要以外は着席してください」と言っていたことを思い出します。
今は亡き、青函連絡船、懐かしく思い出に残っています。
歌謡曲で「竜飛みさき」って唄っちゃったけど、高野崎と同じく竜飛崎でしょうね。考えてみると、尻屋崎·大間崎·権現崎·入道崎など、海峡のこちらは崎が多いけど、あちらは汐首岬·白神岬·恵山岬·地球岬·弁慶岬など岬が多いですね。
コメントありがとうございます。確かにおっしゃるとおりですね。気がつきませんでした。
冬場こんな荒海になるって…軍艦とは言え、当時のテクノロジーレベルの船でアリューシャンまで行った海軍改めて凄かったんやなぁ
冬の海峡の真ん中辺りに来た時、波と風でひっくり返るなんて恐怖を覚えたのですが、それにめげずに進んでいく連絡船と、操る船員たちへの信頼を覚えた時、その揺れの恐怖が克服された思い出があります。
懐かしい映像ありがとうございます。ただ、本当に大時化の時は、座敷席で窓の方に足先を向けて寝ていても、窓から海面が見える状態でした。
貴重な映像を見て当時を懐かしく思い出しました。ありがとうございます。1988・1月に最後の北海道鉄道旅行で連絡線に乗船した事を思い出だしました。驚く程の風と揺れですぐに船酔いしました。デッキに上がる寒めな階段踊り場で座り込んでいた記憶があります。懐かしいです~。
1988年1月6日0時30分函館発青森行青函連絡船に乗船した時、あまりの揺れで、船内のトイレで吐いた事(当方船酔いはしない)あったな。
確か、強烈な波を受けて、船体が凹んだまま航行していた連絡船を鉄道の雑誌で見た記憶があります。
@MrDogpapa コメントありがとうございます。私もバイク乗りですが、ツーリングで青函航路はもっぱら民間フェリーでした。客層はフェリーは当然トラックドライバーが多く、連絡船は旅行客や団体客が多かった。 ビンボーな私は高価な寝台列車で青森まで行き、連絡船内で有料シャワーを浴び、レストランで「海峡ラーメン」を食べるのがささやかな楽しみでした。
@scoopedog ご覧いただきましてありがとうございます88年1月のご旅行でしたら この映像と同時期ですね このような映像や写真、音楽などで当事のことを思い出すことってありますよねところでCBR400Fいいですね~ とくにREVが作動するところ、シビレます^^当方も88年製のバイク所有です
@fumitoshi01 コメントありがとうございます。まさしく北洋はこんなものじゃないでしょうね。乗客の安全を念頭におき 船長以下、腕の見せ所だったのでしょうね。
@henntai1962 おっしゃるとおりですね。 連絡船は設計からして旅客と鉄道車両を運ぶための船ですからねたしか一番後ろのデッキにバイクと乗用車が航走されていたと思います。私が学生のころ、地元ローカルニュースで、航走車両に海水のしぶきがかかる対策で洗車費用をサービスするなんて報道されていたのを、思い出しました。 ある意味、フェリーと連絡船はユーザーの住み分けがきっちりしていたのかなって思います。私もバイクツーリングはフェリーを使ってましたコメントありがとうございます
@sparro009 いつもありがとうございます。冬場は西高東低の気圧配置、荒れてる時が多かったです。上り青森行きで揺れた時は、早く陸奥湾に入ってくれ!って願いながら、座敷席で横になってました。わりと穏やかな時は、出航入港以外にはブリッジの見学なんかも出来ました。3時間50分の船旅は長かったり、短かったり・・・
@oooooKENooooo コメントありがとうございます。連絡船の乗船、できなかたんですね。残念です。廃止前、また乗りたかった九州ブルトレ、0系新幹線、私も逃してしまいました
冬場の利用って割と大変だったンだってねぇ!以前朝市のオバさんが聞かせてくれたっけ(・ิω・ิ)
普段は波が静かな津軽海峡も、台風の時期や季節風が吹く冬などでは荒海となり、船が通れなくなることがあります。海は凪の日ばかりではない、時化の日もある。
映画「飢餓海峡」のラストカットが印象に残ってますが、あれは穏やかな海だし、あの場合、船を停止させないのは変だし。こちらの映像のほうがインパクトあります。船体のきしむ音がなんとも言えずイイですねえ。個人的には青函連絡船に乗ろうと思えば乗れたのに機会を逸したのが最大の後悔のひとつです。
@oooooKENooooo VHSテープ捜索と自分の記憶をたどったのですが、寝台で行ったか新幹線+はつかりで行ったか記憶と映像がありませんでした。撮影時期は1988年昭和63年1月かと思います。 東北新幹線全線開通の今、当時を振り返れば東北本線盛岡以北が第三セクターになるとは思いもしませんでした。
@MINASE38 太平洋の航路に比べると穏やかなんでしょうけど、海峡中央部は激しいローリングがありました。22年前ですので記憶が定かじゃないですけど4mはあったと思います。
青森までは、どのように行かれたのでしょうか。もしその時の映像もあれば拝見いたしたく存じます。
帰りはJRの羊蹄丸、行きはフェリーで船名はベガだったと記憶、行きは物凄い揺れましたが一緒に乗船されたツーリングの方に缶ビールを奢ってもらった記憶がw、酔えば多少の揺れなんて関係無いですw。因みに私もオートバイツーリング。
もしかして、波高4mくらいはありませんでしたか?恐らくブリッジまで波にガブられていたものと察します。津軽の海が、外洋と同じであるということを嫌でも認識させられる、貴重な映像です。
このとき、船酔いしてる人はいましたか?
うーんどうでしょうか?何せ30年以上も前のことなので・・・撮影は座席からでしたが周りはガラガラ、ほとんどの方は座敷席で横になって休んでいたので、もしかして船酔いの方がいたのかもしれませんが 、津軽海峡で動揺が激しい区間はそれほど長時間ではないのでいないかも知れません。コメントありがとうございます
@@tomiyakaratomikawa 30年も前のこと、コメントありがとうございました!私は帰省のたびに、宇高にずーっと15年くらい乗ってたんですよ。一度、青函連絡船も乗っておくべきでした!
@@nnon4924 さま逆に私は宇高に乗りそびれて後悔しています。
こうやって海が時化れば、竜飛崎の麓の三厩村は、漁港から船が出せないとか=_=
「飢餓海峡」の一シーンを思い出します
洞爺丸事故
青函連絡船って、普通乗用車しか乗れない。
懐かしい動画をありがとうございます。自分も青森から函館へ大時化の津軽海峡を羊蹄丸で渡りました。青森から暫くの間はさほど揺れませんでしたが陸奥湾を出て船が大きく揺れ始め、海峡ラーメンを食べようと楽しみにしていましたが時化で営業を休止してしまい食べられないで函館に着いて仕舞いました。
石川さゆりさんの津軽海峡冬景色、脳内再生ヘビーローテーションに成りますね。
冒頭の青森港を見ると思わず「石川さゆり」の演歌を口ずさみたくなるシーンですが、大荒れのシーンに移るとそれどころじゃありませんね(笑)
私も1983年の冬に乗りました。海峡の中心あたりで揺れが大きくなって船内を歩いても自分の意思とは逆方向に体が進んでゆくほど酷い揺れでした。乗組員に大丈夫か?と聞いたら冬の津軽海峡は日常茶飯事と当たり前と言いたそうな表情で答えてくれたことを今でも忘れない記憶です。
親父が国鉄で「家族パス」があり、東京や大阪の親戚の家へ遊びに行く等は連絡船に始まり連絡船で終わる旅でした。最初は酔って大変でしたが、カーペット席で船尾に足を向ける事で酔わなくなり、今でもフェリー等でもそうしています。申し訳ないですが、この動画以上の時化も体験したことがあります。カーペットの床に耳を付けていると、波の底部に差し掛かると「ズズン」という(おそらく船体が歪む音だったのでしょうね)音が聞こえたものです。船尾も波と空の繰り返しの光景。
でも、本当の津軽海峡部分だけで、北海道と本州の湾側に入ってしまえば、揺れはすっと収まったものです。
ある意味、ああいう体験が四六時中出来た、貴重な交通機関でした。懐かしいです。
1987年2月末に大学受験のため、連絡船を利用しました。出港の際、船内アナウンスで「波の高さは5メートル以上、網棚に荷物は置かない、必要以外は着席してください」と言っていたことを思い出します。
今は亡き、青函連絡船、懐かしく思い出に残っています。
歌謡曲で「竜飛みさき」って唄っちゃったけど、高野崎と同じく竜飛崎でしょうね。考えてみると、尻屋崎·大間崎·権現崎·入道崎など、海峡のこちらは崎が多いけど、あちらは汐首岬·白神岬·恵山岬·地球岬·弁慶岬など岬が多いですね。
コメントありがとうございます。
確かにおっしゃるとおりですね。気がつきませんでした。
冬場こんな荒海になるって…軍艦とは言え、当時のテクノロジーレベルの船でアリューシャンまで行った海軍改めて凄かったんやなぁ
冬の海峡の真ん中辺りに来た時、波と風でひっくり返るなんて恐怖を覚えたのですが、それにめげずに進んでいく連絡船と、操る船員たちへの信頼を覚えた時、その揺れの恐怖が克服された思い出があります。
懐かしい映像ありがとうございます。ただ、本当に大時化の時は、座敷席で窓の方に足先を向けて寝ていても、窓から海面が見える状態でした。
貴重な映像を見て当時を懐かしく思い出しました。ありがとうございます。1988・1月に最後の北海道鉄道旅行で連絡線に乗船した事を思い出だしました。驚く程の風と揺れですぐに船酔いしました。デッキに上がる寒めな階段踊り場で座り込んでいた記憶があります。懐かしいです~。
1988年1月6日0時30分函館発青森行青函連絡船に乗船した時、あまりの揺れで、船内のトイレで吐いた事(当方船酔いはしない)あったな。
確か、強烈な波を受けて、船体が凹んだまま航行していた連絡船を鉄道の雑誌で見た記憶があります。
@MrDogpapa コメントありがとうございます。私もバイク乗りですが、ツーリングで青函航路はもっぱら民間フェリーでした。
客層はフェリーは当然トラックドライバーが多く、連絡船は旅行客や団体客が多かった。
ビンボーな私は高価な寝台列車で青森まで行き、連絡船内で有料シャワーを浴び、レストランで「海峡ラーメン」を食べるのがささやかな楽しみでした。
@scoopedog
ご覧いただきましてありがとうございます
88年1月のご旅行でしたら この映像と同時期ですね
このような映像や写真、音楽などで当事のことを思い出すことってありますよね
ところでCBR400Fいいですね~ とくにREVが作動するところ、シビレます^^
当方も88年製のバイク所有です
@fumitoshi01 コメントありがとうございます。まさしく北洋はこんなものじゃないでしょうね。
乗客の安全を念頭におき 船長以下、腕の見せ所だったのでしょうね。
@henntai1962
おっしゃるとおりですね。 連絡船は設計からして旅客と鉄道車両を運ぶための船ですからね
たしか一番後ろのデッキにバイクと乗用車が航走されていたと思います。
私が学生のころ、地元ローカルニュースで、航走車両に海水のしぶきがかかる対策で洗車費用をサービスするなんて報道されていたのを、思い出しました。
ある意味、フェリーと連絡船はユーザーの住み分けがきっちりしていたのかなって思います。
私もバイクツーリングはフェリーを使ってました
コメントありがとうございます
@sparro009 いつもありがとうございます。
冬場は西高東低の気圧配置、荒れてる時が多かったです。上り青森行きで揺れた時は、早く陸奥湾に入ってくれ!って願いながら、座敷席で横になってました。
わりと穏やかな時は、出航入港以外にはブリッジの見学なんかも出来ました。3時間50分の船旅は長かったり、短かったり・・・
@oooooKENooooo コメントありがとうございます。連絡船の乗船、できなかたんですね。残念です。廃止前、また乗りたかった九州ブルトレ、0系新幹線、私も逃してしまいました
冬場の利用って割と大変だったンだってねぇ!以前朝市のオバさんが聞かせてくれたっけ(・ิω・ิ)
普段は波が静かな津軽海峡も、台風の時期や季節風が吹く冬などでは荒海となり、船が通れなくなることがあります。
海は凪の日ばかりではない、時化の日もある。
映画「飢餓海峡」のラストカットが印象に残ってますが、あれは穏やかな海だし、あの場合、船を停止させないのは変だし。こちらの映像のほうがインパクトあります。船体のきしむ音がなんとも言えずイイですねえ。個人的には青函連絡船に乗ろうと思えば乗れたのに機会を逸したのが最大の後悔のひとつです。
@oooooKENooooo
VHSテープ捜索と自分の記憶をたどったのですが、寝台で行ったか新幹線+はつかりで行ったか記憶と映像がありませんでした。撮影時期は1988年昭和63年1月かと思います。
東北新幹線全線開通の今、当時を振り返れば東北本線盛岡以北が第三セクターになるとは思いもしませんでした。
@MINASE38 太平洋の航路に比べると穏やかなんでしょうけど、海峡中央部は激しいローリングがありました。22年前ですので記憶が定かじゃないですけど4mはあったと思います。
青森までは、どのように行かれたのでしょうか。もしその時の映像もあれば拝見いたしたく存じます。
帰りはJRの羊蹄丸、行きはフェリーで船名はベガだったと記憶、
行きは物凄い揺れましたが一緒に乗船されたツーリングの方に缶ビールを奢ってもらった記憶がw、酔えば多少の揺れなんて関係無いですw。因みに私もオートバイツーリング。
もしかして、波高4mくらいはありませんでしたか?
恐らくブリッジまで波にガブられていたものと察します。
津軽の海が、外洋と同じであるということを嫌でも認識させられる、貴重な映像です。
このとき、船酔いしてる人はいましたか?
うーん
どうでしょうか?何せ30年以上も前のことなので・・・
撮影は座席からでしたが周りはガラガラ、ほとんどの方は座敷席で横になって休んでいたので、
もしかして船酔いの方がいたのかもしれませんが 、津軽海峡で動揺が激しい区間はそれほど長時間ではないので
いないかも知れません。
コメントありがとうございます
@@tomiyakaratomikawa
30年も前のこと、コメントありがとうございました!私は帰省のたびに、宇高にずーっと15年くらい乗ってたんですよ。一度、青函連絡船も乗っておくべきでした!
@@nnon4924 さま
逆に私は宇高に乗りそびれて後悔しています。
こうやって海が時化れば、竜飛崎の麓の三厩村は、漁港から船が出せないとか=_=
「飢餓海峡」の一シーンを思い出します
洞爺丸事故
青函連絡船って、普通乗用車しか乗れない。