サー・マーク・オーレル・スタイン (Sir Marc Aurel Stein)、1862年11月26日 - 1943年10月26日)は、ハンガリー生まれのイギリスの考古学者、東洋学者。中央アジアの探検調査で知られる。 名はハンガリー語ではシュテイン・マールク・アウレール(Stein Márk Aurél、[ˈʃtɛin ˈmɑ̈ːrk ˈɒure̝ːl])と表記する。 生涯 オーストリア帝国(現ハンガリー)のブダペストにユダヤ系ハンガリー人として生まれた。ドレスデン大学、ブダペスト大学、ウィーン大学、ライプツィヒ大学、テュービンゲン大学大学、オックスフォード大学、ロンドン大学等で学んだ後、1888年に母校の一つロンドン大学のローリンソンの紹介により北インド(パキスタンも含む)に渡った。ラホールにある東洋学校(Oriental College)の校長が彼の当初の肩書きである。1899年には、カルカッタのカルカッタ・マドラサ(ウォーレン・ヘースティングズによって設立されたインド最古の大学)の校長となった。 東トルキスタンを中心とした探検 1900年、東トルキスタン地域へ第1回の探検旅行に出発する。新疆省を探検し、ホータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査した。1904年1月には、インド古跡調査局(Archaeological Survey of India)入りをしている。1906年には第2回の探検を行い、敦煌の仏画・仏典・古文書類、いわゆる敦煌文献を持ち帰った。 1909年には、中央アジアの探検、考古学調査の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた[1]。 1910年、業績によりC.I.E.(Companion of the Indian Empire)に、1912年にはK.C.I.E.(Kinght Commander of the Indian Empire)に叙せられ、サーを称することを許可された。1913年 - 1916年には、第3回のハラホト(モンゴル語: ᠬᠠᠷᠠ ᠬᠣᠲᠠ、転写: Khara-Khoto、中: 黑城)よりイラン東南部を経てインダス川上流に至る地域の調査旅行をおこなった。 調査報告書 Ancient Khotan (1907年) 山口静一・五代徹訳注(全訳)『砂に埋もれたホータンの廃墟』 白水社, 1999年 松田壽男訳(抄訳)『コータンの廃墟』 中公文庫(新版)[2], 2002年 Ruins of Desert Cathay (1912年) Serindia (1921年) Innermost Asia (1928年) 沢崎順之助訳『中央アジア踏査記』 白水社「西域紀行探検全集8」, 1966年。新装版1984年、2000年、2004年 西アジアを中心とした探検 1926年、インダス川上流及びスワート川(英語版)流域を調査旅行し、アレクサンドロス大王のインダス渡河地点、ウディヤーナ(英語版)遺跡(カイバル・パクトゥンクワ州、デュアランド・ライン)などを調査した。1930年には、第4回の中央アジア探検を申請したが、国民政府の許可がおりなかった。同年、日本を訪問している。その後は、西アジアの調査を行い、1927年-1938年にイランを調査し、モヘンジョ・ダロおよびハラッパーのインダス文明とメソポタミア文明との関係性を実証した。1938年-1939年にシリア、ヨルダンから北西イラクにかけてのローマ長城の調査をおこなった。 調査報告書 Archaeological Reconnaissances in North-western India and South-western Iran (1937年) An Archaeological Tour in the Ancient Persia (1936年) Old Routes of Western Iran (1940年) 『アレクサンドロス古道』、同朋舎出版, 1985年 (アッリアノスも訳されている)、前田龍彦訳 『アレクサンダーの道』、白水社, 1984年 谷口陸男・沢田和夫訳、長沢和俊注・解説 1943年10月には、カシミールよりペシャーワルを経由してアフガニスタンのカーブルに到着、バーミヤーン遺跡を始めアフガニスタンを組織的に発掘することを計画したが、そこで病没した。カーブル郊外にはスタインの墓がある。 関連文献 ジャネット・ミルスキー(Jeannette・Mirsky) 『考古学探検家スタイン伝』、杉山二郎ほか訳、六興出版(上下)、1984年 ピーター・ホップカーク 『シルクロード発掘秘話』、小江慶雄・小林茂訳、時事通信社、1981年 深田久弥 『中央アジア探検史』、白水社 新版2003年、「スタイン」の章
シルクロードはジャパンロード!
全く新しい視点と知識からの解説に感銘を受けました。
日本をカッコよく!の言葉が、本当にカッコよく聞こえました。
ありがとうございました。
小名木先生が仰る通り今の地形で昔の歴史を考えると矛盾が生じますが、今は砂漠ですが昔は違ったものだと考えると納得出来ます。
驚きの真実ですね。真実を知ることは楽しいことですね。合点がいきました。教科書は大きく振り替えられそうですね。
斬新な講義ありがとうございました。
シルクロードが河の道だったことは高校の世界史でも習いませんでした。これは数百年前までそうだったということなら、江戸時代前までそうだったということですね。日本の世界史は西洋の世界史の視点で書いてある証拠でしょう。むすび大学の歴史教科書はとても貴重だと思います。もっと広まるべきですね。
とてもおもしろかったです!小名木先生ありがとうございます! 言いたいことがシンプルでとても腑に堕ちます!
いやーほんとに日本・世界の歴史って、外国、とりわけ中国の都合の良い嘘によって塗り固められてるのだと
痛感させられますね。論理的な史実に元づく考察すばらしいです。これらの事実を日本の、世界の常識としたいですね!
私も海外に住んだ経験があり、日本だけが公共物を壊さず皆でいつまでも大切に使っている国であることを通関しました。 自分よりも他人への迷惑にならない気遣いの出来る世界唯一の優秀な国民だと内心誇りを覚えながら帰ってきました。 先生のお言葉、貴重です。 ありがとうございました。
新潟県長岡市出身です。凄い発見情報を有り難うございました♪🙏 驚きです‼️
これは非常に興味深いです。
いろいろな謎が解けて、大変面白く拝聴いたしました。ありがとうございます。さて私は常々
いつからヨーロッパ人たちがシナ、またはチナと、かの国を呼び始めたのだろうと気になっておりました。シナの起源は秦だという話は本当か、本当に2千年以上も前からシナ、またはチナという国が東方にあることをヨーロッパ人たちは認識していたのだろうかということでした。それで 東方見聞録 Il Milione の原文の本を開き、Cinaという地名を探しました。なかったんです。Sina またはCinaという国名はありませんでした。(Chinaという地名はありましたが、イタリア語ではキナと発音し、チナとは違います。)秦がシナまたはチナの呼び名の起源なのだという説は恐らく中国が近年広めた説なのでしょうか。それを長年信じて疑いませんでしたが、今は完全に疑っております。マルコポーロでさえも、そのチナ、またはシナという国名を知らなかったからです。ひょっとして欧米人がSina,Cina,Chinaなどと呼び始めたのは、清が誕生してからではないでしょうか。秦ではなく清のことだったのではないでしょうか。
日本ではかつて、シナをカラと呼んでいましたよね。カラ紙、カラ傘などなど・・・かつてカラ・スキタイという国が現在の中国の西にありました。そのスキタイが東に移動してカタイになったのかどうかは知りませんが、マルコポーロが滞在したのはカタイ国のダイトでした。シナやチナのペキンではありませんでした。ですから先生のお話はストンと腹におさまるのです。すみません長々と・・・
シルクロードが水上のルートだったんですね!!自然環境や海流とかの条件から、合理的に人の流れをつめていって、納得のいく説にたどり着く手法は信ぴょう性が高いですね!歴史を教えるときに、こういう点と点の情報からどういう過程で線に繋げたかもサラッと教えられると考える力も養われそうですね!すべては日本の金から始まった!!
今日は素晴らしい秋晴れで、歴史を学んで改めてならまちを歩いていると、当たり前におもっていた町並みの良さにいいところだなあと思いました。
海外からの旅行者のかたも増えてきましたので日本の良いところを体験して、願わくばいいファンになってくれたらなと願うばかりです。
ならまちを 歩きて触れる 万葉の
風情を染める 春日の子屋根
Google Mapからこれ程学べるとはおもいませんでした。勿論先生の賜物です。
ものすごく勉強になりました!
改めて日本のすごさ素晴らしさを感じました!
海に沿っての中東行きとタクラマカン砂漠になる前の大きな湖と川を使っての中東行き明らかに後者が近いし便利。^^それにそっちのルートが使えるんならシュメール文明と日本との接点云々というのがかなり現実味が増す感じでワクワクしてきますね。^^
今日の講義もとても勉強になり、面白かったです。いつもありがとうございます。
出雲神話(いずもしんわ)より
北門 (きたと) の良波 (よなみ) の国 = 【ウラジオストク】を綱で引っ張って来たのが 闇見(くらみ)国 =【松江市】と神話に伝えられています。2000年以上前の神話です。
地図で確かめると 島根県松江市の真北にウラジオストクが位置し 波穏やかな 良港と 記録され 出雲とウラジオストクの間に交流があったようです。
金の産出と同じ位に丹、水銀も大量に日本では産出していたと言う事ですよね?
今でも紀伊山地の地下には莫大な水銀が眠っている聴いていますが
わかりやすい説明です!ありがとうございます。
新しい視点で、もっともな説は実に面白い!!
私が商人なら、ウラジオストクにガラス工房を作ります。
そうすれば割れる心配なく原材料だけ運べば良いのですから。
旅に必要なすぐに食料と交換できる製品は持っておきますけどね。
ありがとうございました。👏👏👏👏👏👏
なるほど黄金は日本ではありふれたもの、価値の低いものだったのですね!
ですが世界的に値打ちのあるものだと知らなかったために安値あるいはただで奪われていったという経緯があったと。
そうなると浮かび上がってくるのは、日本人はもっと世界を知る必要がある、ということですね。
そして日本にあって外国にないものに対して利権を持ち、高値で売れるようになれば日本はもっと豊かになりますよ。
現代においてもその認識が甘いせいで日本ゲーム産業の根幹たるSIEのトップの座が外人に奪われてしまっていますよね。
日本の優れた点を知るために外国の事情を知る、という視点が重要です。
すごく面白い話でした!
次回も楽しみです🙌
面白いねー!
ありがとうございました。
いつもありがとうございます。
合理的、論理的で面白かったです
タクラマカン砂漠はタクラマカン湖だったのか・・・・。
廃れた理由が悲しい・・。
方針を間違えたら、取り返しが利くことと、取り返しが利かないことと、有りますね。
仁平 仁平
成る程❗
只で手に入るガラスと、又、只同然で入手した金との交換がシルクロードの期限だったとはねっ‼️⁉️
有り難う❗
本動画無しには、決して知る事の無いシルクロードの秘密だなっ‼️⁉️
日本をかっこ良く❗‼️
次の動画も待ってます❗
では又
今じゃあ遣ってはならない言葉でコメントさせて頂きます。
我々が幼少で習った歴史は完全嘘じゃないけど、この講義を受けると「クソ」な授業だったんですね~
最後の小名木先生の「大航海時代に繋がる」の言葉が、す~~っと腑に落ちます。
これは大変勉強になった!
面白い😁。 元気にもなれますね🙂。 で、ということは、 海の中にある 川の跡らしき部分の砂を ブラジルの採掘船のように さらえば 金がザクザク 出てくるということかな❓️
日本海側を流れる暖流は対馬海流です。
日本海流は黒潮です。
ゴールドロード(金の道)が真実ですね。
”ジャパンロード”の途中にはきっと消えたタルタリアもあったんでしょうね。
先生!面白かったです!
娘にも共有しました!
続きを待ってます!!
80年代のNHK調査でも水深約3mの河川跡がありましたね。終着点を考えるとタルタリアが実在していたんじゃないかと思ってしまいます
シルクロードの始まりは日光東照宮だと聞いたこともあります。
そうだったんですね。玄奘三蔵法師の旅の頃は川はなくなっていたんですかね。それとも海路で行けない事情があった?知れば知るほど逆に分からない事が増えていきます ^^;
海のシルクロード
(うみのシルクロード、英語: Silk Road of the Sea, Maritime Silk Road or Maritime Silk Route)とは、2世紀ごろから16世紀ごろまで[1]存在した海上交易路の呼称。
ただし、その中で南のインド洋などを通る道のりのことを主に指す[2]。
海のシルクロードは主に東南アジアのオーストロネシア語族の船員、インドと東南アジアのタミル商人、東アフリカ、インド、セイロン、インドシナのギリシャローマ商人そしてアラビア海とそれ以降のペルシャとアラブの貿易業者によって設立され運営された[3][信頼性要検証] [4][要ページ番号]
沿革
インド洋におけるオーストロネシアの原史期および歴史的海事貿易ネットワーク[5]
インド人風の名前、名誉称号、場所の命名、組織や教育機関のモットー、ヒンドゥー教、仏教、インド建築、武道など、インドの文化要素が伝達され、大インドの歴史的なインドスフィア文化的影響ゾーンが形成される。さらにインドの音楽とダンス、伝統的なインドの服、そしてインド料理まで。このプロセスでは、インドのディアスポラによる継続的な歴史的拡大によってももたらされていった[6]
海のシルクロードの歴史は古く、バビロニアやエジプト王国の古代オリエントは などをいたと いわれている。また、帝国王朝と記す。そのため、本格的に「海のシルクロード」の交易路が開始されるのは、紀元後のことであった。その主な主役はムスリムの商人たちであった。
しかし、ムスリムの商人たちは、貿易を活発に行い、その活発な海洋交易は、のだったし、マルコ・ポーロもこの道を通っている。
海のシルクロードは、スリランカと南インド(紀元前1000年から600年に設立)との島民東南アジア人初期のオーストロネシアの香辛料貿易ネットワーク、および南シナ海フィリピン・リンゴアーティファクトの翡翠などの産業貿易から発展(紀元前500年頃)し [7] [8]その歴史の大部分において、オーストロネシア語族が制海権特にマラッカ海峡とバンカ海峡、マレー半島、メコンデルタ周辺の政体を支配してきた。中国の記録はこれらの地域のインド化をみて、これらの王国も「インド人」であると誤認していた[4]。またこのルートは、ヒンドゥー教と仏教の東への初期の広がりに影響を与えていったが[9]、外洋での航海が可能になる前、中国との貿易の多くはトンキン湾を通過していた。この地域にはいくつかの貿易港が発展し、特に交趾地域(ベトナム北部)には莫大な富が蓄積されていく[10]。
元王朝が滅びると、中国では、明王朝が勃興した。そのため、鄭和艦隊で知られるように、この大艦隊の真の目的は朝貢貿易にあった[要出典]のであり、貿易が行われていたとも言われている。その事実は、インド南部の商人やヴェネツィアの商人たちの貿易や、それ以降は、キリスト教徒達(ポルトガル海上帝国やスペイン海上帝国)の植民地支配を背景とした経済活動が中心となっていった。
しかし、植民地支配を背景とした経済活動が中心となっていった。
勉強になりました ありがとうございました。 もっともっと知りたいです。
色々な民族が日本に来て日本人になったって話信憑性ありますね
ありがとうございます...ありがとうございます...ありがとうございます...
とても面白かったです!いつも楽しみにしております^ ^
一般庶民は銅化か七分銀が通貨
金貨は殆ど持てない。
何で水戸黄門のご隠居水戸光圀が越後のちりめん問屋って言ってたか分かりました、やはり商人って当時は越後が力がある商人多かったんですね。
正倉院ー4
象木臈纈屏風(ぞうきろうけちのびょうぶ)・羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)
文字通り象と羊がデザインされた屏風である。斉衡3年(856年)6月25日に行われた宝物点検の記録から、元々は1つの屏風であったことが判明している。ろうけつ染めによって図があらわされている。樹木の下に動物を配したこの様式は、サーサーン朝ペルシアの聖樹禽獣紋から影響を受けている。伊藤義教は、羊木臈纈屏風のモチーフはゾロアスター教起源として「ブンダヒシュン」との照合を考察している[11]。象のモチーフはインドあるいは中国の動物に由来する。屏風からは緑溢れる中でさまざまな動物が息づく楽園の情景が見てとれる
紫檀木画挟軾(したんもくがきょうしょく)
挟軾とは座ってくつろぐ際に肘置きとして使用する補助具の事である。正倉院には挟軾が本品を含め3つ伝わっているが、他の2つは脚回りしか残っていない。本品は3つの挟軾の中で最も豪華であり、唯一1300年前の姿を留めている。金銀絵、象牙細工など贅を尽くした装飾が施されているものの、軽量化を追求し、日用品としての完成度の高さも備えている。国家珍宝帳にも記載されていることから、聖武天皇の日常のくつろぎのひと時を受け止めた品であったと想像される。なお挟軾の上面を覆う薄手のクッションのような白羅褥が付属する。
御床(ごしょう)
聖武天皇と光明皇后のベッドである。檜材で作成されており、脚部などの所々には白色顔料の痕跡が見られることから、元々は純白に塗られていたとされる。また別の宝物名ではあるが、ベッドシーツや布団などが御床とセットで伝えられており、当時の実用家具、寝具を知る上の貴重な品となっている。御床は聖武天皇と光明皇后がそれぞれ用いた2張存在するが、ベッドシーツである廣長亘両床緑は2人分のベッドを覆うサイズである。この事から聖武天皇と光明皇后はベッドを並べて眠っていたのがうかがえる。
花氈(かせん)
花などの模様を織り込んだフェルトの敷物である。この模様は敦煌やトルファンで発掘された染織品に類似している。また繊維調査の結果、材質は中央アジア産の古代ヤギの毛を用いたものであることが判明し、他にも花氈の中から中央アジア産のウマゴヤシの実が混じりこんだままになっていた。この事から恐らく本花氈はコーカサスなどで暮らす遊牧民族の手によって織り込まれ、遥々日本に運ばれたのであろうと考えられる。
銀薫炉(ぎんくんろ)
純銀で作成された球形の香炉である。球形の真ん中で上下に割れ、上が蓋、下が実とされる。特徴はその大きさで直径18cmである。国外を含めこれ程大きな球形香炉は例がない。全体に精巧な透かし彫りを施されており、その技術は極めて高い。しかし1300年前のオリジナルは蓋の方であり、実は明治時代の復元品である。
青斑石鼈合子(せいはんせきべっこうす)
蛇紋岩から掘り出されたスッポン形の容器である。腹部を八稜形に刳り込んで、そこに同じ八稜形の皿がすっぽりと納まるようになっている。一見しただけならスッポンの置物そのもので、注目すべきはそのリアルな写実性である。柔らかな甲羅、鋭い爪と口、一方で琥珀を埋め込んだつぶらな瞳は愛らしく、正倉院宝物の中でもユニークな物である。もう1つの特徴は甲羅に北斗七星の文が金と銀で刻まれている事で、星座が刻まれた宝物は正倉院の中でも極めて少ない。
蘇芳地金銀絵箱(すおうじきんぎんえのはこ)
脚付きの箱であり、蓋、本体に金と銀で宝相華模様が描かれている。30.3x21.2x8.6cm。箱の中は淡い桃色に彩色され、白の花弁が描かれ、丁寧な造りとなっている。このような箱は献物箱と呼ばれ、仏に供える供物を入れるのに用いられた。正倉院にはこのような献物箱・机が数十点伝えられており、その代表がこの蘇芳地金銀絵箱である。底の部分に「東小塔」と書かれており、東小塔とは西小塔とともに神護景雲元年(767年)、称徳天皇発願の百万塔を納めるために建立された。当初この宝物は東小塔の備品だったが、東小塔廃絶の後正倉院に移管されたと考えられている。他にも平安時代に東大寺羂索院の倉庫が朽損し、中の宝物を正倉院に移したと言う記録がある。このように何らかの原因で廃絶した東大寺諸堂の備品も、正倉院に納められ伝承されている。
白橡綾錦几褥(しろつるばみあやにしきのきじょく)
長さ99cm、幅53cmの布であり、東大寺の毘盧遮那仏に献納する品物を載せていた。正倉院には同じような大きさの布が十数点伝わり、それらと同じ天板の几(つくえ)が伝わることから、それぞれの机の上敷として用いられていたとされる。いずれも豪華で贅を尽くした華麗なものである。その中で本品は麻布を2つ折りした芯を綾で包み、裏面に薄緑色の絁を縫い付けただけのシンプルな布である。しかしながら本品は極めて特異なもので異彩を放っており、獅子(ライオン)を御する半裸の人物像は日本のみならず西方にもほとんど類をみない。綾の組織も極めて珍しく、西方でも発見されていないことから、舶載品か国産品か、未だ結論が出ていない。
紺夾纈絁几褥(こんきょうけちあしぎぬのきじょく)
白橡綾錦几褥と同じく机の上に載せる敷物である。本褥は正倉院に伝わる褥の中でも数少ない染物である。文様は蓮華風の花座の上で相対する水鳥を、満開の花樹の下に配置したものである。花葉唐草と雲形を組み合わせた円弧状の帯により上方二方と下方一方に区画されている。文様と文様の間は防染し白くくっきりと残り、赤、黄、緑、濃紺と見事に染め分けられている。例外的に文様の1つである葉の先端を、任意に防染せず黄色と緑色を混ぜ黄緑色に暈かしているが、驚くべきことに赤や紺色など他の染料が入り込んでいない。この技術はすでに失われており今でも解明されていない。
蘭奢待
蘭奢待(らんじゃたい)
「蘭奢待」も参照
天下第一の名香と謳われる香木。正倉院の中倉薬物棚にあり、現在までに、足利義満、足利義教、織田信長、明治天皇らが切り取ったといわれている。
正倉院文書
詳細は「正倉院文書」を参照
正倉院文書(しょうそういんもんじょ)は、正倉院に保管されてきた文書群で、光明皇后の皇后宮職から東大寺写経所に至る一連の写経所で作成された文書を中心とする。奈良時代に関する豊富な情報を含む史料である。
聖語蔵
正倉院の構内にはもう1棟、小型の校倉造倉庫が建ち、「聖語蔵」(しょうごぞう)と呼ばれている。中に収められていたのは経巻類で、正倉院文書とは別の古代の仏教関係の書籍(経巻類)が保管されていた。もとは東大寺尊勝院の経蔵「聖語蔵」の一群である。隋経8部22巻・唐経30部221巻、天平経13部18巻、光明皇后発願の「天平十二年御願経」127部750巻、天平勝寶経4部5巻、天平神護経1部3巻、称徳天皇発願の「神護景雲二年御願経」171部742巻、さらに平安時代・鎌倉時代に至る古写経、古版経を含めて総計4960巻であった[12]。また、鎌倉時代の外典の写本も含まれている[13]この経巻類は1894年(明治27年)に皇室に献納され、校倉造倉庫も正倉院構内に移築された。現在は他の宝物と同様に宮内庁正倉院事務所が管理している。
正倉院聖語蔵経巻全巻のアーカイブ化プロジェクトも進められている[14]。
なるほど、海産物の北前船で栄えたのはそんな昔からですか?しかし、対馬海峡は知っていたけれど朝鮮海峡は初めて知りましたよ。
知るわ喜びなり。新規の考え方ができるようになりました。
これは、物の価値は人が決めると言うことか!
びっくりした
ありがとうございます
・タリム川
(英語:Tarim River,ウイグル語:تارىم دەرياسى,中国語:塔里木河)は、中央アジアのタリム盆地を流れる内陸河川である。語源は古代テュルク語で、“沙の中の水”の意。流域は現在中国の新疆ウイグル自治区に属している。
流路
主な水源はヤルカンド川で、カラコルム山脈のテラム・カンリ山(中国語版)南東麓に源を発する。アーバード県附近でホータン川、アクス川と合流し、ここから下流をタリム川と呼ぶ。タクラマカン砂漠の北部を東へ流れ、チャルクリク県のロプノールへ注いでいた。長さは、主な水源であるヤルカンド川を含めて2,030km。水深は浅く、大型の船舶は航行できない。
現在は流路が南向きに変わってタイテマ湖(中国語版)(カラ・コシュン(ドイツ語版))へ注ぐが、上流にダムが作られたこともあって、下流域は湖に注ぐ前にほとんど干上がっている[1]。
・孔雀河
(くじゃくが、中国語: 孔雀河)またはコンチェ・ダリヤ(ウイグル語: كۆنچى دەرياسى / Kɵnqi dəryasi)は、中央アジアのタリム盆地を流れる内陸河川で、タリム川の支流のひとつである。流域は現在中国・新疆ウイグル自治区に属している。
流路
主たる水源はバインゴリン・モンゴル自治州バグラシュ県のボステン湖(バグラシュ湖)である。この湖の主たる水源は開都河であり、そのまた水源は、天山山脈の雪解け水である。
湖から発した水は、コルラ市を流れてロプノール県に入ったところでタリム川の分流と合流する。砂漠の北縁を東に向かってチャルクリク県へと流れ、ロプノールに注いでいた。
かつてシルクロードの要衝として栄えていた都市国家の楼蘭を支えたのは、主としてこの川の水であり、上流域では現在も大河といってよい豊かな流れであるが、ダムが作られたことなどもあって、下流域はロプノールに達する前に干上がっている。
・ホータン川
(中国語:和田河、ウイグル語:خوتەن دەرياسى)は、中央アジアのタクラマカン砂漠を流れる内陸河川で、タリム川の支流のひとつである。流域は現在中国・新疆ウイグル自治区に属している。
崑崙山脈に発した白玉河(ユルンカシュ川)と黒玉河(カラカシュ川)が砂漠を北に向かって流れ、ホータンの町からおよそ145キロの地点で合流してホータン川となる。その後さらに290キロほど北方に流れてタリム川に合流する[1]。
山脈の雪解け水が水源であるため、夏の間だけ水が流れ、他の季節の間は干上がる季節河川であるが、唯一タリム盆地をほぼ南北に横切る物流を担っていた[2]。現在は、ホータン川に沿って阿和公路がG217国道の延長として開設されたので、常時はこちらが物資・人の輸送に利用されている。
・ヤルカンド川
(ヤルカンドがわ、ウイグル語: يەكەن دەرياسى:ラテン文字:Yeken deryasi、中国語: 叶尔羌河、英語: Yarkand River)は、中国新疆ウイグル自治区西部のカシュガル地区ヤルカンド県(莎車県)を流れる川である[1]。この川は、カラコルム山脈のリモ氷河を水源とし、始めは西へ、その後北へ流れて、タクラマカン砂漠のタリム川に注ぐ。しかし、近年タリム川に「上流貯水池」(中国語: 上游水库)が完成し、以来そこに流入するようになっている。
ヤルカンド川は全長1,332.25キロメートルで、水量の平均はおおよそ毎秒210立方メートルである。上流ではキルギス人が居住するラスカム地域(Raskam)を通るので、ラスカム川とも呼ばれる[2]。
・カシュガル川(カシュガルがわ、ウイグル語:قەشقەردەرياسىのローマ字:Qeshqer deryasi、中国語: 喀什噶尔河、英語: Kashgar River)は、中国新疆ウイグル自治区の最西部にあるカシュガル市を東へ流れる川である。
流路
カシュガル川はパミール山脈のレーニン峰の東部、キルギスタンの中国との国境地帯にあるアライ渓谷に源を発し、中国との国境を通って東へ流れ、カシュガル市内南部を通過して、タクラマカン砂漠の北西部に流れ込み、アーバード県でヤルカンド川(Yarkand River)と合流する。[1]カシュガル川の支流には、中国内で克孜河(克孜河)などがあり、ヤルカンド川は間もなくタリム川に合流する。
・アクス川(ウイグル語: ئاقسۇ دەرياسى / ақсу дәряси / Aqsu deryasi、中国語: 阿克蘇河)とは、中国の新疆ウイグル自治区とキルギスのイシク・クル州アクス市を流れる川である。天山山脈西部から流れるタシカン川とクマリマ川が合流してアクス川となる[1]。「アクス」はテュルクの言語で「白い水」を意味する言葉で[2]、キルギス側ではシャリザズ川(キルギス語: Сары-Жаз)と呼ばれる。
流域
アクス川の水源は、キルギス領のハン・テングリ山の北西の斜面に存在する。河川は南西に流れて高山を通過し、中国の新疆ウイグル自治区に含まれるタリム盆地北部に入り込む。アクス市に至って西から流れるタシカン川と合流し、水流はさらに南に向かう。アクト県でアクス川はヤルカンド川、ホータン川と合流してタリム川となる[1]。勝利渠などのアクス川の水を利用したダム、用水路が多く建設され、水利施設を利用した農業が盛んに行われている[3]。オアシス(Oasis)とは砂漠・ステップなど乾燥地域における緑地。
この話、アラブ諸国に発信すればかなりの衝撃を与えるのでは?
タクラマカン砂漠をもう一度湖に戻すことは出来るのだろうか。日本と関係国で協力して緑化事業を行えばいつか湖になるかな。もし出来たら良いなと思いました。
それから、金といい日本海の海流といい、日本人は自然に大変に恵まれていると思いました。何に感謝したら良いでしょうか。迷います。
いつもありがとうございます🙇
遥々→auau
楽々→auau
母音が揃ってます🎵
シルダリヤ川
(シルダリヤがわ、ロシア語: Сырдарья、キルギス語: Сырдария、ウズベク語: Sirdaryo/Сирдарё、カザフ語: Сырдария、タジク語: Сирдарё)は、天山山脈の2箇所(キルギスと東部ウズベキスタン)に源を発し、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンを通過して北西へ向かって流れ、北アラル海に注ぐ川である。延長は2,212 km。河口の標高は42m。
名称
「シルダリヤ」18世紀以降に定着した名前であり、ウズベク語やタジク語の「シル・オブ(水の豊かな)」に由来すると考えられている[1]。名前の「シル」「シラ」は古代のイランで話されていたサカ語とソグド語で「多い」「良い」を意味する[1]。「ダリヤ(ダルヤ)」 Daryā は、ペルシア語で「海、川」の意味であり、シル川、スィル川と表記する場合も見られる。
ギリシア語文献ではヤクサルテス ὁ Ιαξάρτης / Jaxartes, Yaxartes の名前で記されていた。現地の人間の間では、ギリシア語に由来する「ハシャルト」の名前で呼ばれることもある[1]。10世紀頃のペルシア語の地理書ではフシュラト川 رود خشرت rūd-i Khushrat とも呼ばれており、アラビア語ではサイフーン川 سيحون Sayḥūn と称されていた。
地理
最上流部のナルイン川はキルギスタン領内のイシク・クル(イシク湖)に近い天山山脈を水源とし、上流部のフェルガナ盆地地方ではホジェンド川とも呼ばれている。フェルガナ中部でウズベキスタン領であるアンディジャンの下流ナマンガンでカラダリヤ川と合流する。川ではコイやナマズなどの魚が水揚げされ、燻製やフライにして食される[2]。
流域には、バイコヌール宇宙基地で知られる工業都市バイコヌールなどが存在する。
歴史
中上流域には古代にソグド地方を形成したタシュケント(古名チャーチュ)など有力な都市が多く存在した。この地域をイスラームの征服以降、マー・ワラー・アンナフルと称したが、その東辺はシルダリア川流域地域を指し、「トルキスタン」とはもともとこれよりも東のイスラーム化があまり進行していないテュルク系の人々の住む地域を指していた。
1939年から1940年にかけて、ナルイン川とカラダリヤ川から取水した、シル川の南をほぼ平行に流れる大フェルガナ運河が建設された。1948年にフェルガナ盆地西部にフェルハド水力発電所が完成する。1960年代以降、旧ソ連の「自然改造計画」によりアムダリヤ川と共に灌漑が行なわれ、周辺地域では綿花の増産に成功した。しかし、過度の開発によって両河川からの流入量が激減したアラル海は急速に縮小し、周辺地域の環境悪化を招いている[2]。
カラダリヤ川
(カラダリヤがわ、英: Kara Darya〈別名: Qaradaryo〉、露: Kapaдарья)は、シルダリヤ川水系の河川。中央アジアのキルギス共和国のオシュ州東部に発し北西に向かい、その後フェルガナ盆地に沿ってウズベキスタン共和国を南西に流れる。ナルイン川とナマンガン郊外で合流してシルダリヤ川となる。
長さは177キロメートル。フェルガナ盆地にはいくつかの灌漑用のダムが設けられている。
ナルイン川は、シルダリヤ川水系の河川。中央アジアキルギスの天山山脈に発し、フェルガナ盆地を西に流れてウズベキスタンに入り、カラダリヤ川と合流してシルダリヤ川となる。
長さは807km、年間の流量は13.7立方キロメートル。水力発電用の多くの貯水池がある。その内最大のものは19.9立方キロメートルの水を蓄えるトクトグル湖である。
突っ込みですいません。ペルシャ絨毯の材料は羊毛と綿だと思っていたら、絹も使うようですね。
黄金の国ジパングという話がどのようにして西洋まで伝わったのか、ずっと謎だったのがこれですっきりしました。それにしても教科書やテレビで一体どんだけ嘘の歴史を教わってきたのだろうか。いろいろと学び直さなくては。貴重なお話、ありがとうございました!
・タリム盆地
(英語:Tarim Basin,ウイグル語:تارىم ئويمانلىقى,中国語:塔里木盆地)は、中央アジアにある内陸盆地である。東西1,400km、南北550kmにわたって広がり、総面積は560,000km2。現在は中国・新疆ウイグル自治区となっている。
この盆地は古来中国で西域と呼ばれた地域で、シルクロードが通っており、楼蘭、亀茲、于闐といった多くのオアシス都市国家が栄え、覇を競った。現在は中国領であるが、テュルク系遊牧民だったウイグル人がいまも住んでおり、言語もウイグル語で文字はアラビア文字を使う。チベットと並んで民族問題を孕んだ地域である。
・リモI
(Rimo I) は、リモ山群(英語版)の主峰で、標高は7,385メートル (24,229 ft)である。カラコルム山脈の支脈であるリモ山群の北部に位置している。シアチェン氷河の氷河末端から20kmほど東北に位置し、世界で71番目に標高の高い山とされている。「リモ (Rimo)」は「縞模様の山」という意味であるとされる[3]。この山に発するリモ氷河 (Rimo Glacier) は、ショク川に流れ込んでいる。
・ショク川
(ショクがわ、Shyok River、ウルドゥー語: دریائے شیوک)は、インドのラダック北部や、パキスタンのギルギット・バルティスタン州ガンチェ県(英語版)を貫流する、全長およそ550 km (340 mi)の河川。この川の名の、ウイグル語ヤルカンド方言における文字通りの意味は「死の川」である。
この川の名称のローマ字表記には揺れがあり、「Shoyok」とされることもある。日本語では、シュヨク川[1]、ショック川[2]、シヨック川[3]などの表記が用いられることもある。
・シアチェン氷河
(シアチェンひょうが、英語: Siachen Glacier、ヒンディー語: सियाचिन ग्लेशियर、ウルドゥー語: سیاچن گلیشیر)は、カラコルム山脈東部に位置する氷河。カシミール紛争を通じてインドとパキスタンの軍が接する最前線になっている。インド側でいえばラダック連邦直轄領、パキスタン側でいえばギルギット・バルティスタン州に相当。
・フェドチェンコ氷河
(タジク語: Пиряхи Федченко、ロシア語: Ледник Федченко)は、タジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州にある氷河。パミール高原に存在する。名称はアレクセイ・パブロビッチ・フェドチェンコ(英語版)にちなんでいる[1]。
ビアフォ氷河(ビアフォひょうが、英: Biafo Glacler)は、カラコルム山脈中央部のパンマー・ムスターグ山脈西端に広がるスノー・レークから発し、南東へ流れてブラルド川に合流する氷河である。全長は約60キロメートル。
1861年にゴドウィン・オースティンが初めてこの氷河をさかのぼり、1892年にはコンウェーはフンザ川から東へヒスパー氷河をさかのぼり、ヒスパー峠を越えてビアフォ氷河を下る探検を行った。1908年にワークマン夫妻が、1937年と1939年にエリック・シプトンがビアフォ氷河に入り、スノー・レーク一帯、シム・ガング氷河、バインタ・ルクパル氷河など、源流域やおもな支氷河群を詳しく調査した。
・カルドゥン・ラ(Khardung La, カルドン・ラ, ラはチベット語で「峠」の意味。海抜5359m)は、インドのラダック連邦直轄地にある峠である。国際的にはKhardung Laという綴りで記述されるが、地元ではKhardong Laという綴りが用いられている。
レーの北部にあるラダック山脈を越えるこの峠は、シャヨク川流域やヌブラ谷への入口である。峠を越えた先にはシアチェン氷河がある。峠は1976年に開通し、1988年には自動車での通過が可能となった。これ以降、自動車やオートバイ、マウンテンバイクなどで訪れる旅行者が数多く見られるようになった。この峠はインド軍により整備されており、シアチェン地方に生活必需品を運ぶために使われるため戦略的にも重要な峠である。
・カルドゥン・ラ(Khardung La, カルドン・ラ, ラはチベット語で「峠」の意味。海抜5359m)は、インドのラダック連邦直轄地にある峠である。国際的にはKhardung Laという綴りで記述されるが、地元ではKhardong Laという綴りが用いられている。
正倉院ー3
正倉院の代表的な宝物
本節では正倉院の代表的な宝物について取り上げる[10]。
赤漆文欟木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし)
「赤漆文欟木御厨子」も参照
漆塗りの物入れ。高102cm。正倉院の中で最も由緒があり、飛鳥時代の天武天皇 (?-686) まで遡る天武天皇の遺愛の品である。「古様作」とあることから、天武天皇の時代に作成された本厨子は、1300年前の当時から見ても古い様式であったようである。天武天皇→持統天皇→文武天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇と受け継がれ、孝謙天皇が東大寺に献納した。国家珍宝帳によれば天皇の身近に置かれ、聖武天皇筆の「雑集」、元正天皇筆の「孝経」、光明皇后筆の「楽毅論」、王羲之の書法20巻、刀子、笏など天皇の身の回りの宝物が大切に納められていたようである。元正天皇筆の「孝経」などは失われて現存していないが、聖武天皇筆の「雑集」、光明皇后筆の「楽毅論」などは現存している。天武天皇から始まり6代もの天皇に伝えられた本厨子は、正倉院宝物の中でも特異な存在である。
平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)・平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)
鏡の背面を異なる材質で飾った宝飾鏡である。正倉院には56面の鏡が伝わっているが、螺鈿細工の鏡は、平螺鈿背円鏡7面と平螺鈿背八角鏡2面、計9面が伝わる。ただし、内5面は鎌倉時代に盗難に合い、粉々に砕かれた1面を除き4面は破片を接続して補修したものである。径27cm前後。夜光貝の螺鈿細工を鼈甲、琥珀、トルコ石、ラピスラズリで飾った非常に豪華な鏡である。この宝物は正倉院宝物の華やかさと世界性を象徴するものの1つで、夜光貝、鼈甲は東南アジア産、琥珀はミャンマーあるいは中国産、トルコ石はイラン産、ラピスラズリはアフガニスタン産だと考えられている。
金銀山水八卦背八角鏡(きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう)
径40.7cm。平螺鈿背円鏡、平螺鈿背八角鏡と同じく宝飾鏡であるが、この鏡は背面に銀の板を張り細工を施している。さらに主要な箇所には鍍金を施してあり、非常に精巧な鏡である。中央のつまみに蓬萊山を表し、その周囲に水鳥、亀、鶴、鳳凰、龍、孔雀、オシドリ、オウム、鹿などを配置している。注目すべきことは外側に五言律詩が刻まれており、次のように訳される。「自分の一人ぼっちの姿に旅人として異国にある身を嘆き憂え、楽を奏で歌を歌っても唱和する者も無いまま幾年が経ったことか。今新たにこの心胆を照らし出す素晴らしい鏡が出来上がった。それにしてもこの鏡に映すに相応しいあの美しい人を遥かに思い出す。この鏡の中を舞う鳳凰は近くの林の棲み家へ帰りゆき、同じく龍は海を渡って来たばかり。この鏡をしっかりとしまいこみ故郷に帰る日まで待とう。そしてその日にはこれをひもとき愛しい人を照らし出そう」
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)
銀製の宝飾鏡で背面が七宝でできている。正倉院唯一の七宝製品であるが、古代において七宝自体の資料は極めて少ない[注 1]。本鏡の一部は成分が未溶解のままの不透明な部分も多く、未熟なガラス制作技術に起因し、七宝の起こりを伝える貴重な資料となっている。またこの鏡には箱が現存しており、漆皮八角鏡箱と呼ばれる。生皮を鏡の箱用に形成し、布の上から黒漆を塗って金銀泥で仕上げている。この製法は奈良時代に盛行したが、室町以降には忘れられてしまい、明治時代の正倉院宝物修理の過程で再発見された。
鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)
唐風の女性が描かれた六扇の屏風。現在では国家珍宝帳に記載される聖武天皇遺愛の宝物として有名である。樹木の下に唐風の女性を一人ずつ描いた六枚一対で、かつては女性の着衣などに鳥の羽毛が飾られていた。今ではほとんど脱落してしまっており、三枚目の女性の肩部分にわずかに残るのみである。この羽毛は日本特産のヤマドリの羽毛であり、色濃い唐の趣にかかわらず国産である事が判明している。江戸時代にかなり修理補筆が行われており、第6扇は顔をのぞいてほとんど住吉内記の補筆である。
鳥毛篆書屏風(とりげてんしょのびょうぶ)・鳥毛帖成文書屏風(とりげじょうせいぶんしょのびょうぶ)
漢文を設えた大型の屏風。鳥毛立女屏風と同じく光明皇后により献納されたもので、聖武天皇のもとで使用された品である。鳥毛篆書屏風は篆書と同じ字の楷書を交えて書いたもの、鳥毛帖成文書屏風は肉太の楷書で書いた屏風で、文章は君主の座右の銘というべきもので、天皇の身近に置かれた屏風に相応しい。文字は鳥の羽毛と金箔で飾られており、鳥毛立女屏風と同じく羽毛は日本特産のヤマドリである。この2つの屏風は江戸時代に幾度か大幅な修理を受けているが、古代天皇の執務室を飾った姿を現在までよく伝えている。またそれぞれ収納用の袋も現存しており、こちらも献納当初まで遡る由緒ある品である。
ロプノールー1
あるいはロブノール[注釈 1]は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した塩湖で、「さまよえる湖」として知られている[1]。この湖があったのは、現在の中国・新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州チャルクリク県であり、隣接するロプノール県ではない。
ロプノールには、タリム盆地を取り囲む山脈の雪解け水を集めるタリム川(正確にはタリム川の分流)とチャルチャン川が流れ込むが、湖から流れ出る川はない。つまりロプノールは、内陸河川であるタリム川の末端湖のひとつであり、湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため、次第に塩分が蓄積して塩湖となった。紀元前1世紀の頃にはまだ大きな湖であったという記録が残されているが、4世紀前後に干上がったと見られている。
概要
タリム盆地はヒマラヤ造山運動に伴って形成された地形であり、今からおよそ2万年前の最後の氷期から現在の間氷期へと遷り変わる頃には、盆地のほぼ全域がカスピ海のような極めて広大な湖となったが、その後気候が温暖化するにつれて次第に水が失われ、大部分が砂漠になったと考えられている[2]。
この説に従うなら、ロプノールなどタリム盆地に散在する湖沼は、その湖の最後の名残ということになる。
1901年に中央アジア探検家によって、「ロプノールの周辺地域は標高差がわずかしかなく、堆積や侵食作用などによってタリム川の流路が大きく変動するために、湖の位置が南北に移動するのだ。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる」とする「さまよえる湖」説が提示され、それからわずか20年後の1921年に、予言通りタリム川の流れが変わって湖が復活したことから広く知られるようになった[1]。
復活後は、上流の天山山脈などの降雪降雨量によって流れ込む水量が変わるため、消長を繰り返しながらも20世紀半ばまでは水をたたえていた。
しかし、タリム川にダムが建設されたことなどもあって、現在は再び完全に干上がっている。衛星画像では乾いた湖床が人間の耳のような形に見え、湖心をかすめるように省道235号線が貫いている。
歴史
「さまよえる湖」
古来中国で西域と呼ばれる地域にあるロプノールは、「塩沢」あるいは「蒲昌海」などという名で知られ、紀元前1世紀頃の漢の時代には、「縦横ともに300里の鹹湖(かんこ)で、冬も夏も水量が変わらない」と『漢書西域伝序』に記された広大な湖であった。
西岸には都市国家・楼蘭が栄え、シルクロードの要衝となっていた。
しかし、3世紀頃からこの地域一帯の乾燥化が進んだと見られており、豊富な水を失った楼蘭は4世紀以降急速に衰退していった。
ロプノールの位置(新疆ウイグル自治区内)ケリヤケリヤニヤニヤホータン (于闐)ホータン
(于闐)カルギリクカルギリク且末且末ヤルカンド (莎車)ヤルカンド
(莎車)イェンギサールイェンギサール若羌若羌カシュガルカシュガル陽関陽関巴楚巴楚ロプノールロプノール敦煌敦煌玉門関玉門関楼蘭楼蘭アクスアクス烏什烏什亀茲亀茲コルラコルラクチャクチャ輪台輪台焉耆焉耆高昌高昌ハミハミトルファントルファンアルマトイアルマトイウルムチウルムチグルジャグルジャ阿拉山口阿拉山口カラマイカラマイチョチェクチョチェクアルタイアルタイスイアブスイアブ鎖陽城鎖陽城アルタイ山脈アルタイ山脈天山山脈天山山脈崑崙山脈崑崙山脈パミール高原パミール高原アルチン山脈アルチン山脈タクラマカン砂漠タクラマカン砂漠クムタグ砂漠クムタグ砂漠グルバンテュンギュト砂漠グルバンテュンギュト砂漠
西域地図(東トルキスタン/新疆ウイグル自治区)
このためシルクロードのいわゆる「オアシスの道」も、楼蘭を経由するルートは往来が困難になり、唐の時代までには敦煌または少し手前の安西から北上・西進してトルファンを通り、天山山脈南麓のコルラへ出るルートが中心となった。
こうして楼蘭とロプノールはいつしか流砂の中に消えてゆき、ついにはどこにあったのかもわからない伝説上の存在となった。13世紀に元の都を訪れたヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは、カシュガルから西域南道を辿り、湖の南縁をかすめるルートで敦煌に達したとされているが、『東方見聞録』の中でロプノールには全く言及していない。
1876年から1877年にかけて内陸アジアの冒険旅行を敢行したロシア軍大佐ニコライ・プルジェヴァリスキーは、タリム川の下流が南東ないし南に向かって流れており、砂漠の南部にカラ・ブランとカラ・コシュンという2つの湖を形成しているのを発見した。これらの湖は、中国の古文書などから推定されるロプノールの位置より緯度にしておよそ1度南にあったが、プルジェヴァリスキーはこれがロプノールであると主張した。
この発見を賞賛する声がある一方、「シルクロード」という呼称を最初に提唱したドイツの地理学者リヒトホーフェンは、これらが淡水湖であることから、まだ生まれて間もない新しい湖に違いなく、塩湖であるとされるロプノールはタリム川の東へ向かう支流の先にあるはずだから、どこかで支流を見落としたのだろうと指摘した。
しかし、「川を渡るのはいつも苦労の種だったから、もしそのような支流があれば見逃すはずがない」とプルジェヴァリスキーは反論し、決着はつかなかった。
サー・マーク・オーレル・スタイン
(Sir Marc Aurel Stein)、1862年11月26日 - 1943年10月26日)は、ハンガリー生まれのイギリスの考古学者、東洋学者。中央アジアの探検調査で知られる。
名はハンガリー語ではシュテイン・マールク・アウレール(Stein Márk Aurél、[ˈʃtɛin ˈmɑ̈ːrk ˈɒure̝ːl])と表記する。
生涯
オーストリア帝国(現ハンガリー)のブダペストにユダヤ系ハンガリー人として生まれた。ドレスデン大学、ブダペスト大学、ウィーン大学、ライプツィヒ大学、テュービンゲン大学大学、オックスフォード大学、ロンドン大学等で学んだ後、1888年に母校の一つロンドン大学のローリンソンの紹介により北インド(パキスタンも含む)に渡った。ラホールにある東洋学校(Oriental College)の校長が彼の当初の肩書きである。1899年には、カルカッタのカルカッタ・マドラサ(ウォーレン・ヘースティングズによって設立されたインド最古の大学)の校長となった。
東トルキスタンを中心とした探検
1900年、東トルキスタン地域へ第1回の探検旅行に出発する。新疆省を探検し、ホータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査した。1904年1月には、インド古跡調査局(Archaeological Survey of India)入りをしている。1906年には第2回の探検を行い、敦煌の仏画・仏典・古文書類、いわゆる敦煌文献を持ち帰った。
1909年には、中央アジアの探検、考古学調査の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた[1]。
1910年、業績によりC.I.E.(Companion of the Indian Empire)に、1912年にはK.C.I.E.(Kinght Commander of the Indian Empire)に叙せられ、サーを称することを許可された。1913年 - 1916年には、第3回のハラホト(モンゴル語: ᠬᠠᠷᠠ ᠬᠣᠲᠠ、転写: Khara-Khoto、中: 黑城)よりイラン東南部を経てインダス川上流に至る地域の調査旅行をおこなった。
調査報告書
Ancient Khotan (1907年)
山口静一・五代徹訳注(全訳)『砂に埋もれたホータンの廃墟』 白水社, 1999年
松田壽男訳(抄訳)『コータンの廃墟』 中公文庫(新版)[2], 2002年
Ruins of Desert Cathay (1912年)
Serindia (1921年)
Innermost Asia (1928年)
沢崎順之助訳『中央アジア踏査記』
白水社「西域紀行探検全集8」, 1966年。新装版1984年、2000年、2004年
西アジアを中心とした探検
1926年、インダス川上流及びスワート川(英語版)流域を調査旅行し、アレクサンドロス大王のインダス渡河地点、ウディヤーナ(英語版)遺跡(カイバル・パクトゥンクワ州、デュアランド・ライン)などを調査した。1930年には、第4回の中央アジア探検を申請したが、国民政府の許可がおりなかった。同年、日本を訪問している。その後は、西アジアの調査を行い、1927年-1938年にイランを調査し、モヘンジョ・ダロおよびハラッパーのインダス文明とメソポタミア文明との関係性を実証した。1938年-1939年にシリア、ヨルダンから北西イラクにかけてのローマ長城の調査をおこなった。
調査報告書
Archaeological Reconnaissances in North-western India and South-western Iran (1937年)
An Archaeological Tour in the Ancient Persia (1936年)
Old Routes of Western Iran (1940年)
『アレクサンドロス古道』、同朋舎出版, 1985年
(アッリアノスも訳されている)、前田龍彦訳
『アレクサンダーの道』、白水社, 1984年
谷口陸男・沢田和夫訳、長沢和俊注・解説
1943年10月には、カシミールよりペシャーワルを経由してアフガニスタンのカーブルに到着、バーミヤーン遺跡を始めアフガニスタンを組織的に発掘することを計画したが、そこで病没した。カーブル郊外にはスタインの墓がある。
関連文献
ジャネット・ミルスキー(Jeannette・Mirsky) 『考古学探検家スタイン伝』、杉山二郎ほか訳、六興出版(上下)、1984年
ピーター・ホップカーク 『シルクロード発掘秘話』、小江慶雄・小林茂訳、時事通信社、1981年
深田久弥 『中央アジア探検史』、白水社 新版2003年、「スタイン」の章
オアシス
(Oasis)とは砂漠・ステップなど乾燥地域における緑地。
名称
直接的な語源は古代ギリシア語にあり(Ὄασις Oasis)、ヘロドトスの「歴史」(第3巻 26節)に見られる。ここでは、リビア砂漠に存在した諸都市(オアシス都市)の名とされている。この語は、さらに溯って、恐らくは古代エジプト語(wḥʾt 「オアシス」「オアシス地域」)の借用と考えられている[1]。
近代ヨーロッパの言語はいずれも oasis に近く表記される。英語: oasis [əʊˈeɪsɪs] オウエイシス[2][3]、フランス語: oasis [ɔazis] オアジス、ドイツ語: Oase [oˈaːzə] オアーゼ 、イタリア語: oasi [ˈɔazi] オアジ など。
概要
オアシスには、泉性(地下水によるもの)だけでなく、河川や雪解け水を水源とするオアシスもあり、後者の方が大規模なオアシスを形成する。さらに井戸などによる人工的なオアシスも存在する。農業が可能となり、集落が形成されることがあるほか、通商路の経由地ともなる。
隊商は水と食料を補給するためにオアシスを経由しなければならなかったため、クフラなどのオアシス都市は、サハラ砂漠の南北および東西交易(サハラ交易)において重要であったし、中国とヨーロッパを結んだシルクロードのルート上にも多くのオアシス都市国家が存在し覇を競った。
世界最大のオアシスはナイル川の河谷およびナイル川デルタ地帯であり、22,000平方キロメートルある。
転じて「憩いの場所」を意味する。
クールアイランド
地下水は地表面からの蒸発と、植物体からの蒸散によって大気中へ放出され、同時に蒸発の潜熱が失われる[4]。熱源は気温および地表の温度であることから、蒸発量が多ければ多いほど気温と地表温度は低下することになる[5]。すなわち、オアシスの水量が豊富なところほど、オアシス周辺は涼しくなる[6]。ここで等温線を引けば、中心部を最も低温とし、オアシス周辺を同心円状に取り巻く形をとることから、高温の乾燥地帯に島のように涼しい地帯が浮かんで見える[6]。これをクールアイランドという[6]。クールアイランドの効果は、天然のものでも人工のものでも同じである[6]。
オアシスでの活動
砂漠での人間活動のほとんどはオアシスに集中し、乾燥地域での一人当たりの用水量は湿潤地域や半乾燥地域の一般的な地域の4~7倍といわれている[7]。
・オアシス都市
月牙泉(中国)
詳細は「オアシス都市」を参照
敦煌, トルファン,コルラ,カシュガル,ホータン,楼蘭(中国)
Safsaf,シワ,ハルガ,El Tour, シナイ半島(エジプト)
w:Tabas(イラン)
人間活動の影響
過度の農業開墾や放牧、薪の採取、水資源の不適切利用、工業化や都市化などのオアシス環境への影響が指摘されている[7]。
オアシス都市はゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、カラクム砂漠、イラン砂漠など古代中央アジア・西アジアの砂漠地帯に点在する、オアシスに成立した都市。
主なオアシス都市
パミールの東
敦煌(敦煌市)
ハミ(伊州区)
トルファン(トルファン市)
ビシュバリク
クロライナ
チェルチェン(チャルチャン県)
チャドータ
カラシャール(焉耆回族自治県)
クチャ(クチャ県)
アクス
ホータン
カシュガル
パミールの西
コーカンド
フェルガナ
チャーシュ(タシュケント)
サマルカンド
ケシュ(シャフリサブス)
ブハラ
ヒヴァ
参考文献
荒川正晴『オアシス国家とキャラバン交易』山川出版社〈世界史リブレット〉、2003年。
途中まで、ウラジオストクも、上海と同じ海沿いやん、、船で行った方が良いやん、、って思って、どーゆーこと?と思って、聞いておりましたが、そんなオチ(砂漠は湖だった)があって、そうなるとは!
日本の金は品質も良い
いつもありがとうございます。太平洋側も黒潮が蛇行する時に、伊豆の神津島と伊勢半島の間で海流の循環が起こり、行き来できるようになります。蛇行は頻繁に起こっています。
泉州市
(せんしゅうし / チュエンヂョウシー、拼音: Quánzhōu)は中華人民共和国福建省に位置する地級市である。居住人口は約865万人(2017年)で、福建省で最大の人口を持つ。かつては海上交易の中心地として繁栄し、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロはこの都市(ザイトン、イタリア語:Zaiton[1]、閩南語:刺桐)の繁栄を記録に残している。ザイトンは街路樹のアブラギリがある街とアラビア人が命名し、ヨーロッパに伝わった名前。
地理
泉州は別名鯉城、刺桐、温陵とも言い、福建省東南部にある。市内に戴雲山脈があり、晋江川が流れる。近隣の都市としては、約150キロメートル北東の福州、75キロメートル南西の廈門などが挙げられる。
歴史
夏・商代には揚州に属した。
周代には七閩と呼ばれた。
春秋時代(前770年-前403年)に、越(前600年-前334年)の領土となった。
戦国時代(前475年-前221年)になると、前306年に楚が越を滅ぼし、百越の土地に越人が流れ込み閩越(前333年-前110年)が成立。
秦代(前221年-前207年)の前222年に閩中郡を設置、開発が行われこの土地に本格的な行政区が設定された。
260年(永安3年)に呉により東安県(現在の南安市)が設置された。
西晋(265年-316年)末に発生した中原における戦乱(八王の乱)により中原より移民が多く流入し、中原の先進的な技術や文化をこの地に伝えている。
南朝梁の天監年間(502年-519年)には南安郡の郡治が設置された。
南朝陳(557年-589年)により閩州が設置された。
589年に隋が泉州と改称した。606年に閩州に戻され、607年に建安郡と改称されて郡制が施行された。
唐代(618年-907年)に州制が施行されると700年(久視元年)に武栄州が設置され、711年(景雲2年)に再び泉州と改称され現在までこの名称が使用されている。唐代にはベトナムやインド、アラビア半島にまで及ぶ海上交易ルートが確立し、明州や広州と並ぶ貿易港となった。760年の揚州大虐殺(英語版)や、878年の広州大虐殺の影響で、西方への国際貿易が泉州や福州に集中した。
909年に王審知が福州で閩国を建国。しかし、その後の内乱で福州の治安が悪くなると、泉州に国際貿易が集中するようになった。
1279年に崖山の戦いで南宋(1127年-1279年)が滅亡すると、元朝(1271年-1368年)に協力したアラブ人の蒲寿庚が重用され港湾都市として発展した。「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点として漢人のほかにもアラブ人やペルシャ人などが居住する国際都市として発展し、『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する事からも中世イスラム世界にも知られた都市であったことが推察され、またマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ザイトン[2]」の名称で紹介されている。14世紀にはイブン・バットゥータも訪れ、『三大陸周遊記』に約100艘の大型ジャンクと数え切れないほどの小型船が停泊する「世界最大の港」と記している。
明代(1368年-1644年)には海岸線の後退に伴い港湾都市としての機能が失われ、海上交易の中心地は長楽[3]や廈門などに移行していった。一方で、永楽帝の治世の頃から、鄭和が当時南洋と呼ばれた東南アジアの呂宋国(英語版)(現フィリピン)、マジャパヒト王国(現インドネシア)、マラッカ王国(現マレーシア)との貿易を海賊から保護したため、南洋へ労働者として赴き、華僑、華人となった人も多くでた(南洋貿易)。泉州は琉球からの貿易船の指定港でもあり、商館「来遠駅(泉州琉球館)」があったが、1472年に福州に移った[4]。
現地では、南安、恵安、永春、晋江など、出身地ごとに同郷コミュニティーを作り、会館を建てて、経済的や人的サポートを行った。中には、ゴムのプランテーション、食品加工、新聞発行などで、財をなした者もいた。
中華人民共和国成立後は行政改編が相次いだが、1986年1月に地級市としての泉州市が成立し現在に至っている。
イラン系 ソグドの文化が奈良に残ってますね
もともと日本海側が江戸以前は栄えていたようですね、青森のシジミで有名な十三湖と言う湖がありますが昔はアラビアや中東との貿易で栄えていた古代都市が今は大津波で都市が埋もれてしまった都が海底に眠っているようですよ!それだけ栄えていたところが今は虚しい所です。
・レナ川
(ロシア語: Лена, Lena, サハ語: Өлүөнэ, Ölüöne)は、ロシア連邦シベリア東部のイルクーツク州とサハ共和国を流れる川である。世界で10番目に長い川で、流域面積の広さは世界9位である。流域は北半球でも有数の低温の極寒地域であり、大規模な都市が少なく貴重な自然が残っている。
地理
バイカル湖の西20km、中央シベリア高原の南部に位置するバイカル山脈の標高1,640mに源を発し北東に流れ、途中でキレンガ川、ヴィティム川を合わせ中流へ入り東へ流れる。レナ川の谷間は広大な氾濫原になっておりオリョークマ川を合わせて北へ向きを変える。ヤクーツクからは平野に入り、アルダン川を合わせたところで下流となり、ベルホヤンスク山脈に沿うように北西へ向きを変え、左岸の大支流であるヴィリュイ川を合わせ、徐々に北に向きを変えて河口部に面積10,800km2の三角州を形成し北極海のラプテフ海に注いでいる。レナ川三角州で海に入る分流は大きく7つあるが、最も大きく重要なのは一番東側のバイコフ川である。デルタの付け根の東側に開けたティクシ湾にはティクシの港がある。
支流
ラプテフ海に形成されたレナ川デルタの衛星写真
下流より記載。「※」は右岸支流。
ムナ川
ヴィリュイ川
チュング川
アルダン川※
アムガ川
マヤ川※
ウチュル川※
オリョークマ川※
ニュヤ川
ヴィティム川※
チャヤ川※
キレンガ川※
「芋粥」
(いもがゆ)は、1916年(大正5年)9月1日の『新小説』に発表された芥川龍之介の短編小説である[1]。『宇治拾遺物語』の一話に題材をとり、「鼻」と並ぶ古典翻案ものの一つと位置づけられる。
あらすじ
時代は平安時代の元慶か仁和年間の頃。主人公の五位[2]は摂政・藤原基経の役所に勤務する、風采のあがらない40歳過ぎの小役人である。彼は才覚もなければ見た目も貧相で、日ごろ同僚からも馬鹿にされ、道で遊ぶ子供に罵られても笑ってごまかす、情けない日常を送っている。しかし、そんな彼にもある夢があった。それは芋粥[3]を、いつか飽きるほど食べたいというものだった。
ある集まりの際にふとつぶやいた、その望みを耳にした藤原利仁が、「ならば私が、あきるほどご馳走しましょう。北陸の私の領地にお出でなされ」と申し出る。五位は戸惑いながらその申し出に応じ、彼に連れられて領地の敦賀に出向く。しかし、利仁の館で用意された、大鍋に一杯の大量の芋粥を実際に目にして、五位はなぜか食欲が失せてしまうのであった。
原典
この短篇は、今昔物語集の巻26第17話「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位を将(い)て行(ゆ)きたる語(こと)」を下敷きにしている。原典は実在の人物である藤原利仁の権勢を見せつけるエピソードに重点が置かれており、五位の精神的自由の近代的解釈を叙述の中心とする本作とは大きく異なる。また、うだつの上がらない小役人である主人公の描写が、ニコライ・ゴーゴリの1842年の作品「外套」の記述の一部と酷似している[4]との指摘もある。
・
大谷探検隊
(おおたにたんけんたい)は、20世紀初頭に日本の浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊。シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902年から1914年(明治35年 - 大正3年)の間に、前後3次にわたって行われたが、戦時中という状況も重なり活動の詳細は不明なところも多い。
第一次探検
第1次(1902年 - 1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。光瑞はカシュガル滞在後インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定した。渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。スバシ故城では舎利容器を発見した[1]。
別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。これが光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながる。
第二次探検
第2次(1908年 - 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれた。野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。有名な李柏文書はこの時に発見されたと見られる。
第三次探検
第3次(1910年 - 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。この際収集したミイラなどは当時日本が租借中の中国・大連の旅順博物館に所蔵されて、現在でもそこで公開されている。
報告書類
3度の探検により貴重な古文化財がもたらされたが、その報告書として『西域考古図譜』2帙(1915年)、『新西域記』2巻(1937年)が刊行され、研究報告として『西域文化研究』全6巻(1958年)がある。現在では、招来された文書の資料集である『大谷文書集成』1(1984年)も公刊されている。
脚注
^ a b “文化遺産オンライン 舎利容器”. 文化庁. 2022年5月閲覧。
参考文献
長沢和俊編『シルクロード探検』 白水社 新版2004年、初版は西域探検紀行全集9
陳舜臣編 『西域旅行日記 大谷探検隊』 中国辺境歴史の旅8・白水社、1987年
白須淨眞『大谷探検隊とその時代』 勉誠出版 2002年
白須淨眞編『大谷探検隊と国際政治社会 ―チベット、探検隊、辛亥革命―』 勉誠出版 2011年
佐藤健『阿弥陀が来た道 百年目の大谷探検隊』 毎日新聞社、2003年
日中国交正常化20周年記念展『楼蘭王国と悠久の美女』(朝日新聞社、1992年)
本多隆成『大谷探検隊と本多恵隆』 平凡社、1994年
本多恵隆「大谷光瑞師の西域探検」(『龍谷大学論叢』293)
熊谷宣夫「東トルキスタンと大谷探検隊」(『佛教藝術』19、毎日新聞社、1953年)
・アムール川
(アムールがわ、ロシア語: Амур、ラテン文字転写: Amur)、あるいは黒龍江(こくりゅうこう、中国語: 黑龍江、拼音: Hēilóngjiāng、満州語:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ転写:sahaliyan ula[1])は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位、流域面積は185万5500km2で世界10位である。
・アムール川はモンゴル高原東部のロシアと中国との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点から生じ、中流部は中国黒竜江省とロシア極東地方との間の境界となっている。ロシアのハバロフスク付近で北東に流れを変えロシア領内に入り、オホーツク海のアムール・リマン(en:Amur Liman)に注ぐ。リマン(en)とは川の河口を指し、リマン海流は日本海を流れる海流である。オホーツク海の流氷は、アムール川からの流水により塩分濃度が薄くなったことによって凝固点が高くなった海水が氷結して形成される。
流域の都市
黒河市付近のアムール川、対岸はロシア。
アムール川はロシア側のアムール州・ユダヤ自治州・ハバロフスク地方と中国側の黒竜江省との国境を成しており、川沿いの主要な都市としてはロシアのブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、コムソモリスク・ナ・アムーレ、ニコラエフスク・ナ・アムーレ、中国側の黒河市・同江市などがある。
黒竜江/アムール川(サハリヤン・ウラ)水系
アムール川本流
ゴリン川 - アニュイ川 - グル川 - トゥングースカ川 - ビラ川 - ビジャン川 - ザヴィタヤ川 - フマル川 - ウルシャ川 - アマザル川
Amurrivermap.png
スンガリ川水系
スンガリ川(松花江) - 牡丹江 - 呼蘭河 - 拉林河 - 阿什河
ノン川水系
ノン川(嫩江) - ガン川(甘河) - ネメル川(訥謨爾河) - ノミン川(諾敏河) - ヤル川(雅魯河) - トール川(洮児河) - 霍林河
アルグン川水系
アルグン川 - ハイラル川(海拉爾河) - ゲン川(根河) - ケルレン川 - ハルハ川
ゼヤ川水系
ゼヤ川 - セレムジャ川 - ギリウイ川 - トミ川 - デプ川
ブレヤ川水系
ブレヤ川 - ウルガル川 - ティルマ川 - ニマン川 - トゥユン川
アムグン川水系
アムグン川 - ニメレン川
ウスリー川水系
ウスリー川(烏蘇里江) - ムレン川(穆棱河) - ソンガチャ川(松阿察河) - ホール川 - ビキン川 - 大ウスルカ川(イマン川)
竹内文書や宮下文書で言われてきた事が、夢や空想物語ではない事を改めて感じた。
確かに干上がった池の底みたいに見えますね
スヴェン・アンダシュ
(アンデシュ)・ヘディン(Sven Anders Hedin, 1865年2月19日-1952年11月26日)は、スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家。
人物・生涯
ストックホルムで建築業を営む中流家庭に生まれ、小学校の同級生には経済学者のグスタフ・カッセルや数学者のイヴァル・フレドホルムなどがいた。1902年に貴族に列せられ、1909年にイギリスより“ナイト”の称号を得る。
ヘディンが踏査したルート(1886 - 1935)
1879年に出版されたロシア帝国の外交団が1876年から77年にカシュガル地域を訪れた際の報告書である『カシュガリア』に影響を受けて冒険家を志す。著者は外交団の一員であり、後にロシア満州軍総司令官として日露戦争で指揮を執ることになるアレクセイ・クロパトキンであった。ヘディン自身も1890年にクロパトキンの下を訪問している。
『カシュガリア』の出版とほぼ同時期だったアドルフ・エリク・ノルデンショルドの北東航路の発見に感銘を受け、生涯師事した。ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導をうけて中央アジア探検を決意し、ペルシア、メソポタミアに旅行(1885年-86年)。
スウェーデン王オスカル2世がペルシアに派遣した使節団の一員としてメルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを旅行(1890年-91年)。
ロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原、タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、張家口を経て北京に到着(1893年-97年)。
1898年には、中央アジア探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた[1]。
1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検した。その間、1900年に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノールの湖床を発見し、よく知られている「さまよえる湖」説を唱えるに至った。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルに至り、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した。
1905年、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検してインダス川、サトレジ川(インダス川支流)、ブラマプトラ川(ガンジス川支流)の水源地方を調査。シガツェに至ってパンチェン・ラマの歓迎を受けた。サトレジ川の河源およびヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈を発見し、これをトランス・ヒマラヤ(英語版)と名づけた。カイラス山へも訪れたが、チベット人に入山を禁じられている。これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に大谷探検隊で知られ、浄土真宗本願寺派法主も務めた大谷光瑞からの援助も受けていた[2]。
1908年に帰国。1927年に西北科学考査団 (The Sino-Swedish Expedition) を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の熱河地帯から西は新疆省(現:新疆ウイグル自治区、旧・東トルキスタン)を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新疆省の政治上の悪化と第二次世界大戦の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。
1934年にロプノールの復活を自らの目で確かめた後、1935年に帰国したが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓待(ヘディンはナチス党員ではなかったが、チベットに興味を持ち、自分の偉業を正当に評価してくれるヒトラーと親密になった)を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持ち(金子民雄「秘められたベルリン使節」に詳しい)、自国に対するドイツの動向を探った。このコネクションを使い、ユダヤ人やナチス・ドイツに占領されたノルウェーのレジスタンス活動家を救い出したこともあった。なおヘディンは、16分の1でユダヤ人の血筋(ヘディンを貶める巧妙な告発であったが、自身はこれを誇りであると偏見誹謗を一蹴した)を引いていたが、新聞紙上で台頭期のナチスを礼賛したこともあった。
これらの行動が原因で、第二次世界大戦後スウェーデン国内でヘディンは「ナチス・ドイツに協力した人物」として厳しく批判された。
1952年、ヘディンはストックホルムで没した。没する直前まで、探検に関する著述活動を行っていた。
ストックホルムの民族学博物館(スウェーデン語版、英語版)に、ヘディンに関するライブラリーが併設され、蔵書には彼の収集した古文書や彼自身の著作物が含まれている[3]。また、ウプサラ大学とスウェーデン自然歴史博物館に於いても彼の探検に関する事績や採集した鉱石等が保存されている[4][5]。
張 騫
(ちょう けん、 - 紀元前114年)は、中国前漢の政治家・外交官。字は子文[要出典]。漢中郡城固県[1]の人。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。
経歴
建元年間(紀元前140年 - 紀元前135年)に郎となる。当時の漢では大月氏に対して、対匈奴の同盟を説く使者を募集しており、張騫はこれに自薦して見事に選ばれた。
張騫の道のり
大月氏はかつては単に月氏と呼ばれ、匈奴と争っていたが冒頓単于に攻められて大敗し、冒頓単于の子の老上単于の軍に敗れて王が殺され、老上はその王の頭蓋骨をくりぬいて杯にしたと言う。その後、月氏の一部は北へと逃れ、これが中国では大月氏とよばれるようになる。
漢はこのことから大月氏は匈奴のことを恨んでいるに違いないと考え、匈奴の挟撃作戦を狙って張騫を筆頭に100人余りの使節団を送ったが、漢の勢力圏である隴西から出た直後に匈奴に捕らえられる。匈奴の軍臣単于は張騫の目的が大月氏への使者であると知ると「月氏は我々の北にいるのだ。どうして漢がそこへ使者を送れるだろうか。もし吾が漢の南の越へ使者を出したいと思って、漢はそれを許すか?」と言い、張騫をその後十余年間に渡って拘留した。ただし、匈奴は勇敢な人間を尊重する風習があり、軍臣単于も勇敢な張騫に感銘を受け、妻を与えるなど比較的優待した。その間に子供も出来たが、張騫は漢の使者の証である符節を手放さなかった。
その後、匈奴の地から脱出に成功。西へ数十日走った所で大宛(フェルガナ)に至った。この地の王は漢の財力が豊かであると聞き及んでいたので張騫が来た事を喜び、歓待して大月氏までの道を教えてくれた。
大月氏は匈奴に追われて北に逃げた後に、烏孫に追われて更に西へと逃げていた。張騫は康居へと立ち寄った後についに大月氏の町へとたどり着いた。
月氏王に漢との同盟を説いた張騫だが、月氏王はこれを受け入れなかった。何故なら月氏が逃げてきたこの地は物産が豊かであり、周りにこれと言った強敵もおらず、月氏は大夏(グレコ・バクトリア王国であるという説とトハラ人の国であると言う説がある)を服属させ、中継貿易で大いに栄えており、匈奴への復讐心はもはや過去の物となっていたからである。
失意の張騫は帰りの道筋に崑崙山脈を伝って行き、チベット系民族である羌族の支配地を通ることを選んだが、またしても匈奴に囚われる。しかし1年余りして軍臣単于が死去し、それに伴い匈奴が内部対立を起こした隙を突いて脱出、紀元前126年に遂に漢へと帰還した。この際、出発の時共に出発した100人余りいた随行員がこの時には2人になっていたという。ただし、大月氏に向かう際に別れた妻子と再会し、漢に連れ帰ったとも伝えられる。
同盟こそならなかったものの張騫が持ち帰った西域の知識は極めて貴重なものであり、それまで漢にとって全くと言って良いほど状況が解らなかった西域が、これ以降は漢の対匈奴戦略の視野に入ってくることになる。この功績により太中大夫とされる。
紀元前123年、武帝は大将軍の衛青率いる匈奴への遠征軍を出発させる。この中で張騫は自らの地理知識を活かして大きく貢献し、衛尉・博望侯とされる。しかし紀元前121年の遠征の際に期日に遅れたため、李広の挟撃作戦が失敗し損害を発生させた罪で本来なら死罪となる所を、過去の功績により金銭で贖罪して庶民に落とされるだけで済む。
また張騫が西域を旅している途中で蜀名産の竹と布を現地の人が持っているのを見てどうやって手に入れたのかを聞いた所、身毒(インド)の商人から買ったと言う。このことにより蜀から雲南→ビルマを通ってインドへと繋がるルートがあることを知った張騫は武帝に対して雲南を漢の支配下に入れ、このルートを通じて西域と繋がり、匈奴へ対抗することを長安に帰ってきた直後から何度も進言した。
更に別の方策として烏孫と同盟することを考え、紀元前119年に烏孫への使者として赴いた。
紀元前114年に死去。死後、張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に対して有利な立場を築くようになる。
張騫の孫の張猛は匈奴の呼韓邪単于と盟を結び、また一時期元帝に信任された。
張騫乗槎説話
前島宗祐「張騫図」メトロポリタン美術館蔵
『史記』の大宛伝の末尾には、張騫は大夏より帰国した後に黄河を遡ってその源流を突き止めた、と添え書きがある。もっとも、この記述は事実と言うよりも張騫が行った長大な旅を比喩したものと考えられるのだが[2]、この一節が西晋の張華が奇聞・伝説を集めて著した『博物志』の中にある「ある人が不思議な浮槎にのって海を渡り、天の河を遡って牽牛・織女に会った」という説話と合体し、「張騫乗槎説話」として発展した[2]。
張騫乗槎の類話は荒唐無稽で矛盾点も多いが、張騫が河源から持ち帰った支機石(織女の機を支えていた石)や、張騫が使った槎といった遺物が現れるなど、七夕伝説とともに人口に膾炙する逸話となった。また、張騫乗槎のイメージは散文や漢詩のモチーフとして好まれた。詩文の世界では張騫は博望(博望侯)の名で詠み込まれている場合もある[2]。
天平勝宝3年(751年)に成立した漢詩集『懐風藻』には、張騫と特定していないものの乗槎説話を詠み込んだ漢詩がいくつか見られることから、日本に張騫乗槎説話が流入したのは奈良時代以前のことと考えられる[2]。その後も和歌や漢詩の知識とともに受け継がれ、12世紀前半の『今昔物語集』には説話として採録されている。
室町時代以降には張騫乗槎説話は漢画の画題として狩野派などに好まれ、「張騫図」・「乗槎図」と呼ばれる作品が数多く描かれた。張騫図には漢人風の人物が丸木の上に座ったポーズのものと、棹を持って立ったポーズのものがある。後者の図像は日本特有のもので、角乗りのイメージが投影されていると考えられる[2]。
アフマド・ファナーカティー
(Ahmad Fanākatī, احمد فناكتى , 生没年 : ? - 至元19年3月18日[1](1282年4月27日))は、モンゴル帝国(元)のカアン、クビライに仕えたムスリム(イスラム教徒)の財務官僚。漢字表記は阿合馬。「アクマト」とも呼ばれる[2]。
概要
中央アジアのスィル川(シルダリア川)上流の右岸付近の町のファナーカト(現在のウズベキスタンのバナーカト、タシュケントの西南)でイラン系の回教徒の家庭に生まれた。
クビライの正夫人チャブイの宮廷(オルド)に仕えて信任を受け、クビライ即位後の1262年に領中書左右部に抜擢され、諸路都転運使を兼ねて財務行政を委ねられた。翌年には、クビライが対立するアリクブケが掌握する旧来の首都カラコルムにかわって自らの拠点開平府(内モンゴル東部)に上都を開くとさらにその行政長官を兼ね、1264年には宰相格の中書平章政事に昇進、1266年に財務行政機関の国用使司が新設されるとその長官を兼ねた。アフマドは財務長官として北中国の財務行政に辣腕をふるい、新都大都(現在の北京)を中心にクビライが立てた新政府に莫大な税収をもたらした。
1270年にはアフマドの財務機関国用使司は尚書省に改められて行政機関中書省と同格になり、アフマドはその長官の平章政事に就任して財務行政部門の全権を掌握した。さらに1276年に南宋が征服されるとその故地江南の財務行政に携わり、元の国家収入の大きな部分を占めることになる塩などの専売制や、南中国諸都市の商業税制度を整備した。アフマドが財務行政を統括した20年間には、アフマドの息子や一族を含めた中央アジア出身のムスリムたちを含む様々な出自の人々がアフマドの縁故によって地方長官や地方徴税官に任命され、その派閥の領袖であるアフマドの権勢は非常に高いものだった。
アフマドの税制度はこれまでの中国の税制から大きく逸脱しており、漢人たちからの評判は非常に悪かった。しかも、アフマド配下の徴税官僚たちは、西アジア的な徴税請負制度の方式によって税を取り立てたので課税は厳しくなりがちで、民衆は「色目人」と呼ばれた彼らに対して不満をつのらせた。
さらに1271年には新設の尚書省は早々に中書省に合併されているが、財務行政部門はそのままアフマドの一族が握りつづけ、かえって彼らが中書省の本来の職務領分である行政に干渉するほどであったので、中書省を支配するクビライの嫡子チンキムや、中書省の長官アントンらモンゴル貴族たち、その部下の漢人官僚(許衡など)からアフマドら尚書省系の官僚は激しい敵意を受けた。
1281年、チンキムの母でもあるチャブイが死ぬとチンキム派とアフマド派の対立は決定的な局面に至り、チンキムの与党によるアフマド排斥の陰謀により、翌1282年にアフマドは暗殺された。その最期は、チンキム派の王著と高和尚らの画策によって東宮に誘い出され、大銅鎚で撃殺されるというものであった。
その後、クビライはアフマド殺害のかどで王著と高和尚らの処刑を執行した、しかし、アフマドの生前の様々な専権行為による不正が次々と暴露されると、クビライは「王著と高和尚らは正しかった」と述べて、アフマドの一族は弾劾された。しかも、クビライはアフマドの墓を暴き出してその棺を剖いて、アフマドの屍を大都の通玄門に晒しだした。その上にアフマドの一族も失脚し、処刑に処されたと伝わる。
同僚や漢人から不人気であったアフマドは死後に姦臣として名を残し、元の歴史を記した正史『元史』でも伝は「姦臣伝」に入れられた。その内容は非常に辛辣で、これにしたがってアフマドは悪人として評価されることが多い。しかし、西方で記された『集史』ではクビライを支えた名宰相として高い評価が与えられている。確かにクビライが元の特異な財政制度をするにあたってアフマドが果たした役割は大きく、近年のモンゴル史研究では一面的な否定的評価を廃し、むしろ肯定的に評価されることが増えている。
今でも佐渡沖に金の埋蔵地有りとやら聞きましたが真実は?マルコポーロは、日本に来た事は無いが、日本の金に注目したイタリア貿易情報の知識を持ち、日本を黄金の国と呼んでいた。
東方見聞録
『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容の口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。
黄金の国ジパング
日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu) として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。
東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」といった記述がある[9]。「莫大な金を産出し」というのは、遣隋使以降日本の中国使節はその滞在費用として砂金を持ってきたこと、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂の様子が誇張されて中国に伝わったこと等を核に日本の黄金伝説が形成されたのではないかという仮説も提示されている[10]。
タイトル
原題は不明である。日本および韓国においては一般的に『東方見聞録』(韓:동방견문록/東方見聞錄)という名で知られているが、他国では『世界の記述』( “La Description du Monde”、“Le Devisement du monde” )、『驚異の書』( Livre des Merveilles ) とも呼ばれる[注釈 1]。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』( “Il Milione”、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロが帰国後百万長者になった、あるいはアジアで見たものの数をしばしば「100万」と表現したことでついたあだ名から[1][2]とも、100万の嘘が書かれているから[3]とも、マルコ・ポーロの姓 “Emilione” に由来する[4]ともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』( “The Travels of Marco Polo”、“Los viajes de Marco Polo”、“馬可・波羅游記” )の名でも知られる。
日本語の『東方見聞録』という訳題は、明治期の中学東洋史教科書の記載に始まるもので、書名としては、1914年(大正3年)に刊行されたアカギ叢書版(佐野保太郎編)[5] で初めて用いられている。これ以前の1912年(明治45年)に刊行された博文館版(瓜生寅訳)では、『まるこぽろ紀行』[6] という題名が用いられていた[7]。
旅行の沿革
1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。ペルシャからパミール高原、ゴビ砂漠を越え、1275年に上都でフビライ・ハンに拝謁。ハンに重用され、元の各地に使節として派遣されるなど見聞を深めることとなる。そして1292年に船で泉州を発ち、セイロン、アラビア海をへて、1295年に3人でヴェネツィアに戻るという、実に四半世紀にわたる大旅行となった[8]。
1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという[8]。
経由地 (現在の地名)
旅行ルート
1冊目
アークル (アークル、ハイファ北東、イスラエル)
エルサレム (エルサレム、イスラエル)
ライアス (イスケンデルン、トルコ)
カエサリア (カイセリ、トルコ)
エルズルム (エルズルム、トルコ)
トリス (タブリーズ、イラン)
カズヴィン (ガズヴィーン、イラン)
ヤズド、ザスディ (ヤズド、イラン)
ケルマン (ケルマーン、イラン)
コルモス、ホルムズ (バンダレ・アッバース、イラン)
サプルガン (シバルガン、アフガニスタン)
バルク、バラク (バルフ、アフガニスタン)
ホータン (ホータン、中国)
チャルチャン (チェルチェン、中国)
敦煌 (敦煌、中国)
寧夏 (インチョワン、中国)
2冊目
ハンバリク・大都 (北京にあった元の首都、中国)
ヤンジュウ (揚州、中国)
スージュウ (蘇州、中国)
キンサイ (杭州、中国)
ザイトゥン (泉州、中国)
3冊目
(経由地ではないが、ここにジパングの伝聞記事がある。)
ビンディン (ダナン、ベトナム)
ファーレック
コイルム (コーラム、インド)
タナ (ムンバイ北方、インド)
4冊目
トレビゾンド (トラブゾン、トルコ)
コンスタンティノープル (イスタンブール、トルコ)
内容
Il Milione
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。
1冊目 - 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。
2冊目 - 中国とクビライの宮廷について。
3冊目 - ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について。
4冊目 - モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。
玄奘ー11
莫賀延蹟(ばくがえんせき)を垣間見る
2016-06-23 22:08:25
テーマ:ブログ
玄奘が十七年にも及ぶインドへの旅は勉学期間を除き往路復路共、困難に困難を極めたが、とりわけ往路の西域地域の中で最も困難を極めたのが、莫賀延蹟と呼ばれた砂漠といわれている。そこは瓜州(敦煌)から伊吾(現在のハミ)の間に広がる「空に飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、又水、草もない、あるのは人馬の骸のみ、それを道標(みちしるべ)として進む……」という過酷な砂漠であった。玄奘自身も瓜州を出発するとき「心は愁い乱れた」と三蔵法師伝の中ので述べている。
ひと月もの間、悶々と過ごすが意を決して胡人の道案内人を頼むが、途中で逃げられ、単独で痩赤馬と共に莫賀延蹟の大砂漠の中をハミに向けて進んだ。だが自らの粗相で皮袋を馬の背から滑り落として貴重な水を失ってしまっう。その絶対絶命のピンチを救ったのは痩せ赤馬だった。『三蔵法師伝』では「四晩五日間、一滴の水も咽喉に入らず、口も腹も渇ききって、息が絶えそうになり、沙中に伏し観世音を念じた。
五日目の夜半、涼風が吹き冷水を浴びたように心地良く、馬も自身も蘇生して歩き出した。しかし馬は自分とは異なった道を行く。法師の制止もきかないので痩赤馬に付いて数理行くと、広さ数畝の草原にでた。更に十歩ばかり進んで池を発見した」玄奘は九死に一生を得たのである。玄奘は、この時の事を、菩薩慈悲のおかげと述べているが、実は馬を買った時、売主の年老いた胡人から痩赤馬はハミとの間を十五回も往復して、よく道を知っているとアドバイスを受けていたのであった。
馬は水場を知っていたのだろう。玄奘はそこで一日休養し次の日、万事用意を整えて再び歩みを進めていった。茫漠とした流砂の中を、更に二日を経てようやく伊吾(現在のハミ)に着き、ある寺に入った。
そこには中国僧が三人おり、そのうちの一人の老僧は、帯も結ばず肌けた着物のまま駆け出してきて、玄奘に抱きつき、号泣して嗚咽が止まらなかった。玄奘も中国の人に再び会えるとは夢にも思わず「沙河中の危難言葉に言い難く」と言って共に抱き合って泣いたと述べている。私はトルファンの博物館で莫賀延蹟について入れるか訊いてみた。親切な学芸員は、中央が殆ど空白の地図示しながら、砂漠の中には道そのものが存在しないと言った。それでも私は運転手の馬さんに、砂漠の中に少しぐらい入れるか尋ねたところ、危険すぎてやめた方がいいと言った。私達は蘭新道(現在のシルクロード)を車で走り、車窓から黒々と広がる地の果てに、痩赤馬に跨り、たった一人で旅する玄奘の苦闘の姿を思い浮かべたのだった。
え?紫式部の父親は越前の国司として赴任してるけど?
越後にも赴任することなったの?
雪が深いから嫌だったのかな?
マー・ワラー・アンナフルー1
(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。
アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し[1][2]、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ[1][3][4][5]。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ[1][6]、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている[2][1]。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい[7]。
「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。
「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり[6]、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である[8][9]。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた[10]。
7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた[11]。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる[4]。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある[6]。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる[4]。
湖川のシルクロードですか?最終目的地が日本の金の事ですか?以前に見たのかなぁ?
奈良の人口200万人はないやろ。
インダス川の北上は川沿いを歩くということですか?舟で行けるものなのですか?
朝鮮海峡ですか、朝鮮を格好良く!!
日本海回遊航路の拠点として、天津や朝鮮半島も無視できないのでは?
・『海行かば』
原歌
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖すめろきの 神の命みことの 御代重ね 天の日嗣ひつぎと 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方よもの国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝みつきたからは 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王おほきみの 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東あづまの国の 陸奥みちのくの 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地あめつちの 神相かみあいうづなひ 皇御祖すめろぎの 御霊みたま助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国みをすぐには 栄えむものと 神かむながら 思ほしめして 武士もののふの 八十伴やそともの緒を まつろへの 向けのまにまに 老人おいびとも 女めの童児わらはこも しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖かむおやの その名をば 大来目主おほくめぬしと 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古いにしえよ 今の現をつつに 流さへる 祖おやの子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君おほきみに まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官つかさぞ 梓弓あずさゆみ 手に取り持ちて 剣大刀つるぎたち 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言みことのさきの聞けば貴み
歌詞
ウィキソースに海行かばの原文があります。
海うみ行ゆかば 水み漬づく屍かばね
山やま行ゆかば 草くさ生むす屍かばね
大おほ君きみの 辺へにこそ死しなめ
かへりみはせじ
(長閑のどには死しなじ)
歌詞は2種類ある。「かへりみはせじ」は、前述のとおり「賀陸奥国出金詔書歌」による。一方、「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)による。大伴家持が詔勅の語句を改変したと考える人もいるが、大伴家の「言立て(家訓)」を、詔勅に取り入れた際に、語句を改変したと考える説が有力ともいわれる[誰によって?]。万葉学者の中西進は、大伴家が伝えた言挙げの歌詞の終句に「かへりみはせじ」「長閑には死なじ」の二つがあり、かけあって唱えたものではないか、と推測している。
(うみゆかば)は、日本の国民歌謡の一つ[1]、歌曲[2]、合唱曲[2][3][4]。特に太平洋戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれた(ただし、法的に認められたものではない)[5]。
詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。
この詞には、1880年(明治13年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲(軍艦マーチ)の中間部に聞くことができる。戦前においては、将官礼式曲として用いられた。
信時潔の作品
当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔が日本放送協会の嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」である。
放送は1937年(昭和12年)10月13日から10月16日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行われたとの記録がある[7]。本曲への国民一般の印象を決定したのは、太平洋戦争時にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際、必ず冒頭曲として流されたことによる(ただし、真珠湾攻撃成功を伝える際は勝戦でも流された)。ちなみに、勝戦を発表する場合は「敵は幾万」、陸軍分列行進曲「抜刀隊」、行進曲『軍艦』などが用いられた。
なお、桜美林学園は創立以来、1958年(昭和33年)まで「海ゆかば」の旋律を校歌に採用していた。
快調々新説小名木節、どうか裏(証拠)を固めて論文(英文も)を書いて世界に発信して欲しいよ。あははヤバいぞ学会の学者共。
先生はガラス製造はコストゼロと仰いましたが、火にコストがかかったのでは?砂漠の周りには樹木はなかったでしょうし。では石炭?動物の脂?
玄奘ー4
・高昌
(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウイグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)・「火州」・「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。
歴史
以下の文章は『周書』(列伝第四十二 異域下)・『隋書』(列伝第四十八 西域)・『北史』(列伝第八十五 西域)・『旧唐書』(列伝第一百四十八 西戎)・『新唐書』(列伝第一百四十六上 西域上)に依るもの。
・麴 文泰
(きく ぶんたい、? - 640年、在位624年 - 640年)は、高昌国の王。麴伯雅の子。継母は北周の宗室の娘で隋の華容公主宇文玉波。また、レビラト婚によって宇文玉波を娶る。
玄奘三蔵が高昌国を経由した時は援助している。
630年、唐に入朝した。文泰の妻の宇文玉波は、唐の太宗に李姓を賜り、常楽公主に封ぜられた。その後、西突厥と同盟して、伊吾国を攻撃した。また唐と西域の間の通商路を遮断した。唐の太宗は文泰に入朝を求めたが、文泰は病と称して赴かなかった。そこで太宗は、高昌国に対して侯君集・薛万均らの討伐軍を派遣した。
文泰は唐軍がやってくると聞いて、
「唐国はここから7千里、砂漠で2千里を隔てており、地に水草は無く、冬の風は凍えるように寒く、夏の風は焼けるように暑い。砂漠の風の吹くところ、行く者の多くは死に、100人でもたどりつくことができないのに、どうして大軍を到達させることができようか? もしわが城下にたどり着けたとして、20日もすれば食糧は必ず尽き、おのずと魚の潰れたようになるだろう。それから捕虜にしてしまえばいい。何を心配することがあろうか」
と豪語した。
唐軍が磧口に到着したとき、文泰は狼狽してなすところなく、間もなく病死した。その子の麴智盛が王位を継いだ。
ラクダの背中に水はない。
アラル海ー1
(アラルかい、カザフ語: Арал теңізі、ウズベク語: Orol dengizi / Орол денгизи、カラカルパク語: Aral teńizi / Арал теңизи、露: Аральское море、英: Aral Sea、中: 鹹海)はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖である。
名称
名前の由来は「島が多い」という意味のテュルク語である[1]。
地理
中央アジア西部の内陸湖である。アラル海の西にはカスピ海があり、2つの海の間にはトゥラン低地やウスチュルト台地がある。アラル海の南東にはキジルクム砂漠があり、南はカラクム砂漠、北はカザフステップに囲まれている。
1960年代まで湖沼面積は約66000[2]〜68000[3]平方キロメートルで、日本の東北地方とほぼ同じ大きさの世界第4位の湖だったが、半世紀で約5分の1に縮小した。降水の多寡により水位変動があるが、2010年11月現在のアラル海の面積は1万3900平方キロメートルであり[4]、日本の福島県とほぼ同じ大きさである。
かつては1つの湖だったが、その後小アラル海(北アラル海)と大アラル海(南アラル海)に分かれ、現在は小アラル海とバルサ・ケルメス湖[5]、東アラル海、西アラル海の4湖に分かれている。小アラル海と大アラル海の間はかつてはベルグ海峡と呼ばれており[6]、現在はコカラル堤防で仕切られている[7]。また干上がった部分はアラルクム砂漠と呼ばれる[8]。
アラル海は砂漠の中にあり降水量は年間200ミリ未満[9]である。アラル海の水源はパミール高原や天山山脈などの融雪水に由来し、河川を伝って2000キロメートル以上流れてアラル海に到達する。小アラル海の主な水源は現在でもシルダリヤ川だが、大アラル海の主な水源だったアムダリヤ川は現在はアラル海まで到達しておらず[10]、バルサ・ケルメス湖は水源を湧き水に頼っている[9]。
アラル海の水位は、1960年に53.4メートル[11]で、半世紀後の2011年現在では大アラル海が25メートル下がって28.3メートルになり、小アラル海は11メートル下がって42.5メートルになっている[11]。それに伴い水量は大アラル海が6%、小アラル海は32%[11]となった。その結果、海岸線は北岸の都市アラルから25キロメートル(2007年)、南岸の都市モイナクから77キロメートル後退し
歴史
古代・中世
アラル海が形成されたのは1〜2万年前[13]とも、200万年以上前(古代湖)[14]とも言われる。古生代のテチス海を起源とする説もある[15]。紀元前5世紀のヘロドトスはアムダリヤ川はカスピ海に注いでいると記述しており、それが正しければ当時のアラル海は現在と同じようにシルダリヤ川のみが流入する湖だったようである。その後、地殻変動や流入河川の水路の変異によってサリカミシュ湖とつながったり干上がりかけたりする時代を経て、現在に至った[16]。13世紀から14世紀にほぼ干上がったことがあり、入り込んだ人間が集落を築き、モスクなどを造っていたことが発見されたケルデリ遺跡から明らかになっている[17]。1960年頃までの塩分濃度は海水の約3分の1(10g/L)の汽水である[9]。過去、1万年間は周期的に 20m程度の水位変化を生じていたとの推定されている[18][19]。
19〜20世紀
帝政ロシアはアラル海を自国領に組み込むに従い「アラル艦隊」を編成した。もともとアラル海周辺は漁業でなりたっている地域であったが1903-1905年頃、トランス・アラル鉄道(オレンブルク・タシケント間)が一部開通し、輸出をも視野に入れた商業的漁業が成立するようになった[10]。ソビエト連邦時代にはアラル海サケ[20](ブラウントラウトの亜種[21][注釈 1])やアムダリア・チョウザメ[20]などの在来種に加えて外来種も放流され[9]、年間4〜5万トンの漁獲高があった[2]。アムダリア・チョウザメがカスピ海産チョウザメの寄生虫で大量死する事件もあったが[要出典]、最盛期には二千人の漁民が船団を組んで漁業を行い、アラリスクのコンビナートでは五千人の労働者が魚肉加工に従事し[10]、名産のキャビアや缶詰を製造した。湖にはヴォズロジデニヤ島などの島があり、バルサケルメス島にはサイガ[9]やクラン[9]が放牧され、バルサ・ケルメス自然保護区が出来た。シルダリヤ川やアムダリヤ川の河口の湿地帯にはヨシ[9]や河畔林「トゥガイ」[9]が広がり、ペリカン[9]やフラミンゴ[9]などの渡り鳥が飛来した。この他にシマハイエナ[20]やカラカル[20]、カスピトラなどが居り、1930年代には毛皮を取るためにマスクラット[9]が移植された。アラル海はシルクロードのオアシス地帯であり、ソ連時代は保養地ともされ、モイナクとモスクワには定期的な航空路線があった[要出典]。
1940年代にソビエト連邦は「自然改造計画」を実行し、綿花栽培のために大規模な灌漑を始めた。1950年代にはアムダリヤ川の中流域にカラクーム運河を建設し、アムダリヤ川の水をトルクメニスタンの首都アシガバートのほうに流すようにした。その結果1960年を境にアラル海の面積は急激に縮小し、1970年代末には塩分濃度の上昇により魚が取れなくなった[9]。1980年代にはコクアラル島が地続きになり、アラル海の行く末が世界的に危惧されるようになった[23]。1980年代を通じてアラル海の塩分濃度は海水(35g/L)に近づいていったが、アゾフ海から塩分に強いカレイ(プレイス種[要出典])を導入する事で漁業は何とか続いた[9]。
十三湊ー1
(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって[1]、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に[1]、蝦夷沙汰職(えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の下でとりわけ隆盛を極めた湊である[1]。
地域名「十三」は、語源はアイヌ語の「トー・サム」(湖畔)ではないかという説があり[2]、江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(歴史的仮名遣:じふさん)」と読むようになった[3][4]。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる[* 1]。
遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日に国の史跡に指定されている[5]。史跡としての中心地(説明板所在地)は十三古中道(ふるなかみち)61番地[* 2]。本項ではこの遺跡についても述べる。
歴史
平安時代
天然の良港で、日本列島交易路の北の拠点となり、10世紀後半には地域経営の拠点となる福島城が築城された[2]。
平安時代末期にはアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏の支配下となり、一族の藤原秀栄が現地に土着し、後に十三氏を名乗ったが、1229年に安東氏によって、居城の福島城を攻め滅ぼされた。
鎌倉時代
鎌倉時代後期には、日本海北部を中心に、広範囲に活動した安藤水軍を擁する豪族・安東氏(津軽の安藤氏[* 3])の本拠地として、和人と蝦夷地のアイヌとの間の重要交易拠点として栄え始め、次第に隆盛に向かう。
室町時代
文明年間[6](西暦換算:1469-87年間、戦国時代初期。※成立時期については定説が無く、戦国時代末期〈16世紀末か17世紀初頭〉などとする説もある)、日本最古の海洋法規集『廻船式目』が、恐らくは瀬戸内の海賊衆の下で成立する。同書は「三津七湊」について記しているが、七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」の名で十三湊を挙げている[1][6]。このころ、安藤水軍は関東御免船として活動していた。ただし、実際の十三湊の全盛期は安東氏の没落と共に終焉を迎えている(※後述)。
やや後代においては、朝鮮半島や中国などと交易していたことが、国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学などによる遺跡の発掘調査によって明らかになりつつある[* 4]。
遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。主に出土品の分類などから現在では3つの地区に分けられており、荷揚げ場跡や丸太材、船着場と思われる礫層などが出てきた北部が「港湾施設地区」、出土量が多く中心地と思われる中部が「町屋・武家屋敷・領主館地区」、南部が「檀林寺跡地区」とされる。南部には奥州藤原氏の藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる。[6]
室町時代中期、安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って夷島(えぞがしま。蝦夷地のこと[7])へ逃げると、担い手を無くした十三湊もまた急速に衰微し、和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は、野辺地湊(のへじみなと。野辺地湾に面する湊。盛岡藩の北の門戸として江戸時代に隆盛。現在の上北郡野辺地町域にあった)[8][9]や大浜/大濱(現在の青森市油川地区にあった湊で、15世紀末~16世紀に隆盛[10])に奪われた。
その後、時代が下るにつれ飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していった。しかし16世紀後半から再び整備され、復興が図られている[* 4]。江戸時代には岩木川を下ってきた米を十三湊から鯵ヶ沢湊(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町域にあった湊)へと運ぶ「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊(現在の西津軽郡深浦町域にあった湊)、鯵ヶ沢湊、三厩湊(現在の東津軽郡外ヶ浜町域にあった湊)、青森湊などと共に弘前藩の重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出しなどでも栄えた。
学校教育に騙されまくりですね
東京龍原府
(とうけいりゅうげんふ)は、中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州琿春市に位置したと推定される、渤海時代の都城。正確な位置については比定されていないが、図們江沿岸の八連城遺跡であるとの説が有力である。
『新唐書』の記述によれば元は濊貊の地であり、下部に慶州、穆州、塩州を管轄した。785年(大興48年)から794年(正暦元年)まで都が設置された。新羅、日本との交通路上に位置し、当時の渤海における交通の要衝であったと考えられている。
東京龍原府へと遷都したのは、日本との交通の便宜のためでもあろうとみられる[1]。
・上京龍泉府
(じょうけいりゅうせんふ)は、中華人民共和国黒竜江省牡丹江市寧安市の渤海鎮に存在する渤海時代の遺跡。
歴史
第三代王の大欽茂が755年に中京顕徳府から遷都した後、東京龍原府に遷都されていた9年間を除き渤海が滅亡するまで首都であった都。唐の長安城を手本として造営され、当時の東アジアにおいて長安城に続く大都市であったと考えられる。
上京龍泉府は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模であり、井上和人は、衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した[1]。したがって、上京龍泉府は、長らく中国の長安城を模倣したと考えられていたが、平城京の造営は710年、上京龍泉府755年なので、727年に初めて来日した渤海使が平城京の造営を学んだ可能性が指摘されている[1]。
・中京顕徳府
(ちゅうけいけんとくふ)は、中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州和竜市西城鎮に位置する渤海時代の遺跡。
歴史
渤海第3代王である大欽茂が唐代天宝年間に都を設置した。史学会では1940年代から西古城城址が中京顕徳府の遺構であると考えられていたが、2000年から2002年にかけての発掘調査でその存在が改めて確認されている。
中京顕徳府から上京龍泉府への宮廷の移転は、唐の玄宗打倒に差し向けられた唐の司令官の安禄山の反乱の勃発と時期的に合致し、反乱を起こすまで安禄山は渤海と隣接する唐の幽州、営州管区の軍総督であり、さらに、渤海と黒水靺鞨との境界を監視する平盧州副総督でもあった[1]。上京龍泉府への宮廷の移転は、安禄山の蜂起の発生地が渤海の西境、すなわち中京顕徳府から至近距離であり、反乱軍が国境を侵入する場合の安全を保障する措置を講じたみられる[1]。
・奴児干都司(明代)
「奴児干都司」も参照
14世紀後半から15世紀初頭の空白期
1368年、明朝を建国した朱元璋(洪武帝)は中国本土から大元ウルスを駆逐したが、モンゴル勢力は北方で依然として健在であり(北元)、中国人の王朝である明朝は、当初東北アジア諸地域に進出することができなかった。しかし1388年に行われたブイル・ノールの戦いにおけるモンゴル軍の大敗とウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)の弑逆、モンゴルとオイラトの対立によってモンゴル社会が混乱状態に陥ると、明朝は遮る者なく北方に進出できるようになった。
靖難の役を経て即位した永楽帝は積極的な対外進出政策をとり、その一環として黒竜江地域の女直人経略を開始した。15世紀初頭の1404年(永楽2年)に南満州に建州衛、北満洲に兀者衛が設立されたのを皮切りに、多数の女直人が明朝に朝貢し、黒竜江流域一帯には明朝の設置した羈縻衛所が乱立した[7]。
奴児干都司の設置(1411年〜1435年)
1409年(永楽7年)、更なる勢力圏の拡大のため、また乱立する兀者諸衛の統御のため、かつて大元ウルスが東征元帥府を設置していたヌルガンに羈縻衛所を管轄し女真人の慰撫にあたる都指揮使司を設置することが決定された[8][9]。ヌルガン遠征軍の指揮官が任ぜられたのが女直人宦官のイシハであり、この遠征は同じく宦官の鄭和を指揮官とする南海遠征と連動するものであった。
イシハは永楽年間から宣徳年間にかけて7度にわたってヌルガンへと至り、1411年(永楽9年)奴児干都司を設置し、現地に永寧寺を建設した[10][11]。奴児干都司は、恒常的な統治を行う行政機関ではなかった。また、その運営は、明朝に出仕し内廷宦官や武官の地位にある女真人やモンゴル人で、周辺の民族に対する羈縻政策を担った。イシハの撤収した後は、明朝がヌルガンまで進出することはなくなり、機能が停止・名目化していたという。ただ、永寧寺に併設された「永寧寺碑」は15世紀初頭の黒竜江下流域一帯の状勢について記した貴重な資料として東北アジア史研究者から注目されている。しかし、明朝は7度に渡る遠征にも関わらず結局ヌルガンに恒久的な支配を確立することができず、女真族などを管轄した奴児干都司も1435年(宣徳10年)に廃止され、また永寧寺もニヴフなどの反乱の際、破壊された。これ以後、黒龍江下流域の状勢は再び女真人(後に満洲人と改名する)が17世紀にダイチン・グルン(清朝)を建国するまで不明となる。
・ヌルガン
(中国語: 奴児干/núérgàn,モンゴル語: ᠨᠤᠷᠭᠡᠯ/Nurgel,女真語: Nurgan[要出典])とは、黒竜江下流にあった当時の地名で、現在のハバロフスク地方ティル村に比定される。元代には東征元帥府、明代には奴児干都司がそれぞれこの地に設置され、黒竜江下流域一帯の冊封体制や羈縻政策の管轄を担った。
歴史
ヌルガン城(金代)
ヌルガンがいつ頃から城・集落として機能していたかは不明であるが、遅くとも女真人(ジュシェン人)の建国した金朝(アルチュン・グルン)の時代、13世紀には既に城が建設されていた。『元一統志』巻2には「(上京の)東北は哈州といい、ヌルガン(奴児干)城という。皆渤海(靺鞨)・遼(契丹)・金の建てた所のものであり、元は全てを廃止したが、城址は猶残っている」との記述があり、金朝の領域の東北に哈州=ヌルガン城が設置されていたことがわかる。
金代のヌルガン城については史料が非常に少なく、その設置背景・機能については不明な点が多い。ただし、『金史』巻24地理志には「金の国土の境界(金朝領最東端)は、東はギレミ(現在のニヴフ人)とウデカイ(現在のウデヘ人)などの諸々の境域に至る」とあり、女真人と隣接する黒竜江下流域や海外の樺太島北部に住まう諸民族との交流の管轄に関わっていたのではないかと考えられている。
ただし、この時代のヌルガン進出を主導したのはあくまで金朝を建国した女真人であって、ヌルガン城の設置と周辺諸民族の支配は「中国王朝の影響力の拡大」としてではなく、「女真(ジュシェン)人の勢力の拡大」と捉えるべきである、と指摘されている[1]。
・イシハ
(女真文:Yishiha.svg[i ʃï xa][1][2]、モンゴル語:ᠢᠰᠢᠬᠠ[Isiq-a]、漢字表記:亦失哈 [yìshīhā]、生没年不詳)は、15世紀初頭に明朝に仕えた海西女直出身の宦官。永楽年間から宣徳年間にかけて黒竜江河口付近のヌルガンに7度にわたって遠征したことで知られる。
火焔山
(かえんざん、拼音: huǒyànshān)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区の天山山脈付近にある丘陵。タクラマカン砂漠タリム盆地の北部、トルファン市高昌区の東部に位置する。砂岩が侵食してできた赤い地肌には、炎を思わせる模様ができている。平均標高は500メートルであり、比較的平らな山頂が、長さ98キロメートル、幅9キロメートルにわたって横たわっている。途中の何箇所かが川で切断されている。この特徴的な地形は、火山活動による溶岩が、長年にわたってガリ侵食などで削られてできたものである。平均気温が高いことで知られ、夏の気温が摂氏50度を超えることも頻繁である。この地形と気候が特徴的なため、中国での人気観光スポットの一つとなっている[1]。
シルクロードとの関係
中腹にあるベゼクリク千佛洞
古代の東西交易にとってタクラマカン砂漠は難所の一つであった。交易商人たちは、タクラマカン砂漠の北端を、シルクロード天山南路として利用した。その途中にあるオアシスは、高昌のように貿易中継地として栄えた。彼ら交易商人達に仏教の僧侶も同行し、その路上に仏教寺院を作った[2][3] 。火焔山の中腹には、そのような寺院の一つ、ベゼクリク千佛洞がある。5世紀から9世紀にわたって増築が進められたもので、仏教施設がある70の洞窟の集合体である。多数の壁画や仏像が残されている[4][5]。
文学との関係
火焔山は16世紀の明で呉承恩が書いたとされる小説『西遊記』にも登場する[6]。西遊記では炎が上がる山として描かれている[7][8]。
民話
漢の古い伝承によると、火焔山はサルの王が天界で窯をひっくり返した残り火が地上に落ちたものである[9]。『西遊記』でも、「美猴王」と名乗っていた頃の孫悟空が閉じ込められていた八卦炉から脱出した際に壊れた八卦炉の破片が地上に落ちたものとされている。
ウイグル人の伝承によると、天山山脈にはドラゴンが住んでおり、人々の子供を食い殺したため、ウイグル族の英雄がドラゴンを8つに切り刻んだ。その8つの部分が火焔山となり、その山肌はドラゴンの血で真っ赤に染まった[9]。
マルコ・ポーロー1
(伊: Marco Polo、1254年頃 - 1324年1月8日[1])は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)[2] [3]を口述した冒険家でもある。
概略
商取引を父ニッコロー・ポーロ(イタリア語版)と叔父マッフェーオ・ポーロ(英語版)に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが[4]、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して[5]3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会(イタリア語版)に埋葬された。
彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブス[6]など多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジ(英語版)にも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。
生涯
幼少時
マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである[注 2]。生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている[7][注 3]。
生家は代々続く商家で[8]、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった[9][10]。 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し[10]、コンスタンティノープルに住み着いた[11]。
政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ[9]、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった[11]。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという[12]。 この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された[10]。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わった[10]が、ラテン語を履修する機会は持てなかった[9]。
マルコ・ポーロの旅
マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ[8]、140種類を超える[2][8]写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された[13]。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。
同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い[20]。
このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている[2]。印刷機 (en) の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い[21]。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている[3]。
内容
本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール (en)[11]へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケク (en) に行き[22]、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた[23]。 これは1266年に大都(現在の北京)で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ[24]、またローマの教皇や教会についても聞いた[25]。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油[26])も持ってくるよう求めた[27]。
ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった[28]。
次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した[29]。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた[29]。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう[29]。
タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ
マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える[13]陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した[10]。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされている[注 4]。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した[9]。
一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として[13]帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)[29]など各所を訪れ、それを記録した[30]。 マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語[注 5]の4言語に通じ[31]、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない[10]。
17年間中国に滞在した[32] マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった[5]。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していた。1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた[5][32]。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航した[32]。彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし[33]、セイロン島を経由して[13]インド南岸を通過し、マラバールや[8] アラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った[33]。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った[13][34]。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を越え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かった[注 6]。 マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間の旅を終えた[5]。
マルコポーロー3
3.バヤウト族出身のカトン
モンゴル帝国時代に、チンギス・カン家の姻族として有名であったのは、チンギス・カンの第1夫人として有名なボルテ・フジンの出身部族であるコンギラト族であり、それに次いで西北モンゴルに住んでいたオイラト族も姻族として有名であった。バヤウト族は、姻族としてはコンギラト族やオイラト族より一段低いランクにあった。
しかし、バヤウト族の女性は、モンゴル帝国の歴史の中で、かなり重要な場面に登場する。まず、元朝の世祖クビライ・カアンの第4カトンがバヤウト族出身であった。また、フビライの孫、成宗テムル・カアンの第1カトンがやはりバヤウト族の出身であった。彼女は、病弱なテムル・カンに代わって政治を行ない、テムルの死後、次代皇帝の選定をめぐって激しい争いを演じたのである。
一方、イル・カン国では、すでに述べたように、ブルガン・カトンが、第2代アバガ・カン、第4代アルグン・カンのカトンとなり、さらに最盛期の君主であった第7代ガザン・カンの育て親でもあった。このように、ブルガン・カトンが3代にわたってイル・カン国に大きな影響を与えることになったきっかけは、第2代アバガ・カンが彼女を特別に寵愛したことにあった。アバガ・カンには、彼女のほかに、オイラト族のカトン、コンギラト族のカトンもおり、また、フレグ・カンのキリスト教徒のカトンとして有名なケレイト族のドクズ・カトンの姪にあたるトクタニ・カトン、そしてビザンツ皇帝の娘のテスピネ・カトンなど名だたる名門出身のカトンがいたのであるが、このブルガン・カトンを最も寵愛したのである。
4.コケジン・カトンの運命
さて、ブルガン・カトンが亡くなったのは、1286年4月のことである。アルグン・カンが派遣した使者は、無事元朝のクビライ・カンのもとに到着し、最初に書いたように、クビライはコケジンをカトン候補に選んだ。しかし、ことは予定通りには運ばなかったのである。まず、アルグン・カンは、使者の帰国を待ち切れず、1290年3月に、バヤウト族ではなくコンギラト族出身の女性を娶り、同じブルガン・カトンという名前にして、亡くなったブルガン・カトンの宮廷と遊牧地をこの二人目のブルガン・カトンに与えてしまったのである。ただ、その莫大な財産は、亡くなったブルガン・カトンが育てたアルグンの息子ガザンに与えようと考えて一時的に封印されたという。
コケジンがイル・カン国に到着するのが遅れたのには理由があった。当時、中央アジアでは、オゴデイ・カアンの子孫のカイドゥがクビライ・カアンに対して反乱を起こし戦争が激化していた。1288年の後半頃に陸路からイル・カン国にむかったコケジンの一行は、8か月も旅した後、やむなく元朝に引き返したのである。そして、今度は海路からイル・カン国に向かうことになり、このとき、クビライ・カアンが、海路で帰国しようとしていたマルコ・ポーロ一家にコケジンを託し、1290年末に、泉州から出帆したのであった。
マルコ・ポーロとコケジンの一行は、1293年にペルシア湾のホルムズに到着した。しかし、使者を派遣した肝心のアルグン・カンは、1291年にすでに亡くなっていて、弟のガイハトゥがイル・カンになっていた。コケジンの存在は完全に宙に浮いてしまったのである。結局、コケジンの一行は、1293年の夏に、アルグン・カンの息子ガザンのもとへ至り、当時23歳の若者であったガザンがコケジンを娶った。こうして、コケジンはやっとカトンになることができたのである。ブルガン・カトンの宮廷は、すでに二人目のブルガン・カトンのものになっていたが、アバガ・カンのカトンであったトクタニ・カトンが、ちょうど前年亡くなったところであったため、コケジンはその宮廷を受け継ぐことができた。
このコケジン・カトンは、わずか3年後の1296年6月、ガザンが即位した年に亡くなってしまった。1288年頃に17歳であったとすると、25歳の若さである。17歳でカトン候補に選ばれ、中央アジアとインド洋を旅し、ヴェネツィア人一家とともにイランにたどりつき、やっとイル・カン国の王子の后となったにもかかわらず、3年後に若くしてなくなったコケジンは、モンゴル人がユーラシア大陸を疾駆した時代であったからこそ、数奇な運命をたどった人物の一人であった。