ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
この動画をたまたま、戦前生まれの父と一緒に見ました。父が言うには、・小麦粉はもっと黒かった(日本の小麦はうどん用がメインだったので、灰色で白くなかったそうです。戦後アメリカの白い小麦を見て驚愕したそうです)・配給で回ってくる野菜は黒くて萎びきったものだったので、どんな調理をしても味も何もしなかった・すいとんのスープは 味噌か醤油ベースが多かった。・脱脂粉乳は一番美味しかった、というか学校の給食はそれだけだった(2年年下の母は、コッペパンも出た記憶があるそうなので、この辺も年代による差があったようです)とのことです。
私の祖母(戦前生まれ)は「戦争中嫌というほど食べたから一生トウモロコシを食べない!」と豪語するほど食事は蒸かしたトウモロコシばかりだったそうです。そして父は戦後生まれですが給食で出た脱脂粉乳が大嫌いで、あるときクラスメイトの脱脂粉乳をひっくり返してしまったら、その子は脱脂粉乳が大好きだったのでひどく恨まれてビックリしたという思い出話をよくしてましたね
トウモロコシ嫌いな老人は飼料用の不味い品種を食べさせられたのかもしれないスーパーにある水気あって甘いもの全然違う今の北朝鮮の庶民はこのトウモロコシを混ぜたご飯を食べてるとか
ウチの親父は、戦中戦後にジャガイモばかり食ってたから、料理にジャガイモは入れるなとか言ってたっけ。
今でこそトウモロコシは甘くて美味しいけれどわしの母が子供の頃のトウモロコシは今ほどの味では無かったそうなので、戦時中のトウモロコシはあんまり美味しいものでは無かったのかもしれませんね…。
@@KANIKAMA5353 家畜の飼料用品種を食べさせられたのかも北朝鮮では今でもこのトウモロコシを混ぜたご飯を食べているとか
私の知ってる高齢の方数名はさつまいもが食べたくないって言ってましたね現代の甘くて美味しいのに...
ばあちゃんが戦争を忘れない為って毎年終戦記念日に作ってたすいとんとは少し違うな水で煮た野菜に少しの塩とお好み焼きのタネくらいまで水で溶いた小麦粉を沸騰中に流し入れて固めてた
これですコレ!うちのおばあちゃんも水っぽい生地でスプーンですくって流し入れてました。どっちかというと麺ぽい感じのペロペロな形状。田舎のお嬢だったので、野菜はいっぱい入れて食べられたそうですが😅
小学生の頃に戦時中を経験した先生が、当時の具が無いすいとんを作ってくれました。今回の好きな物と嫌いな物きれいに別れましたね😲茨城県は新米がスーパーに並び始めました。
タイムリーな問題に斬り込むジャーナリズム精神溢れる内容に脱帽です
このコンビ、父母と息子感があって良い
ちょっとスミスくんが無視する感じとダメおじの掛け合いが面白い
うぽつです♪あら珍しいコンビ
出汁は甘えwスミスくんとダメおじさんのペアも良きですな。
妊婦さん、産後の奥様。赤ちゃんに育ち盛りの若者 etcお米モリモリ召しあがって、力つけなきゃならん人が世の中にはいっぱい居られるだから、あたいは買い占めをしたりしない。
老人は力つけなくていいんですか?
再現飯シリーズは、歴史の勉強になり面白い
9:34 脱脂粉乳を見て「白いねぇ」
なお田舎では空襲受けてないどこか、食べ物も苦労してない模様 亡くなった祖父と祖母が話してた
ワイの父方バッバ、和歌山の山奥生まれ戦中空襲はもちろん食糧難とも無縁で、たまに女学校で竹槍訓練とかやらされる以外特に何事も無かったそうなお、母方のバッバは市内で空襲に遭って生死の境を彷徨った模様
@@tomoyakagawa7434ウチも似たような感じです。父方の話はあんまり分からないのですが、高祖父さんは歳行き過ぎ、曽祖父さんは若過ぎで徴兵されなかったらしいです。母方の曾祖母さんは空襲直撃だったらしいです。
うちのなくなった祖父が、すいとんと鶏肉が食べれない人でした。すいとんは戦時中に死ぬほど食べたし、あの頃を思い出すから食べたくない。鶏肉は本当に食べ物がなくて飼ってた鶏が自分が知らずに素人の手で解体され、羽が残ってるものを食べたかららしいです。
本当に改めて食で考えると戦争っていけないなあ…こんなひもじい寂しい食事…
私はおそらくスミスさん達より少しだけ年上ですが、一昨年鬼籍に入った父は「疎開先でお世話になっていてもカボチャだけは味も悪くて固くて、栄養失調なのに食べたくなかった。芋づるは美味しくて好きだった」と言っていました。今の甘くて黄色くてネットリしたカボチャしか知らない世代なので、意外でしたね。「当時モノ」が入手できない難点もありますが、ガンズロックスさんの企画、大好きです。なお、ニガウリも平成元年辺りまでは白くて細長いガチ苦いだけの、食用とは思えない謎の植物でした。沖縄の緑色で丸っこくて苦くないニガウリが出現してからは、夏の朝の食卓が苦じゃなくなったのを覚えています。
自分の曾祖母は地主のお嬢様だったらしく、食べ物には困った事はなかったらしいです。ただ戦後の農地解放政策で跡形もなくなったようです。
職業軍人の祖父母は、強制的に買わされた軍票(債券)が、戦後、紙くずになってゼロからのスタートになったらしい。
連続料理企画助かる
塩の価格が上がってないのはまだ救いだっただろうな味覚的な意味で塩味だけは保証されてるのもそうだけど、ヒトは他の動物に比べてミネラルが必須栄養素として重要だから塩分摂れなかったらまじで死ぬ
生前、ウチの親父は「一生分食った!」と言ってカボチャやサツマイモを絶対食べなかったw(因みにスイトンは確実に激怒するメニューの一つなんで出張で居ない時に食べました♪)
なんかで再現レシピを見たけどこんなに団子状にこねるのは贅沢で実際は小麦粉節約でもっと水多めドロドロに溶いた小麦粉を沸騰したお湯にオタマでそっと流すとブヨブヨに固まるのでそのまま塩と醤油で味つけして野菜等は無しみたいですねそれはマジでうまくないらしいまあでも令和の米不足たまには具だくさんすいとんで米の節約も良いかも😊
だいたいは「めっちゃ薄めた味噌汁」ベースみたいですね。野菜くずなど入れて作ったと、祖母に聞きましたこの頃の出汁の基本は煮干しと野菜なので、鰹節や昆布のような出汁は一般的ではなかったようです。なので、戦中や食糧難関係なく、普段の食事が薄味だったようです
死んだ婆様は『昔の小麦粉は質が悪くて変な匂いがした。』と言っていました。今はそんなことないのでしょうが腹を満たすだけのものなんでしょうね。ちなみに、終戦の日が近くなると近隣のそば屋にすいとん定食なるモノが登場して鶏肉とか入っていてとても美味しいモノになっています。
このコンビは珍しいかも
塩は比較的手に入りやすかったというのが驚きでした!ダメおじさんもプンパーニッケル食べてみてほしいです笑
祖父も祖母もギリ戦前生まれで、幼少期(5歳前後)は戦後だったそうです。ただ都市部では空襲があったり……という地方でも、空襲にさらされることも一切なかった地域だとかで、農家ということも相まって食うことには事欠かなかったそうです。ただそれでもギリギリの生活。祖父は夏場のおやつがキュウリばっかりで、キュウリは食事に出てもあまり食べません。きゅうりに飽きた。と言ってます。個人的には団子汁(すいとんの味噌味)はいまだに時々食べます。
昔職場で一緒だったベテランの方(戦時中に釧路生まれ)は、一緒に飲みに行くとツマミにポテトフライやコーンバターが出てくるのを嫌がり、若い者が頼むと不機嫌になってました。併せて牛乳も大嫌い。幼い頃の食事が毎日毎回ジャガイモかとうもろこしカボチャを茹でたもの(今の品種とは違い飼料用の味の無いバサバサのモノ)で、良くても今回出てきたようなダシや味付けの無い汁物で、味噌醤油も貴重なご馳走、たまに牛乳が手に入るとそれをいれてシチューみたくしていたんだとか。腹を膨らますために入れていた「モノ」なので、もう見たくもないと言ってました。北海道だから鮭とかカニとかホタテとかは?と聞いたら成人し町に働きに行くまで見たことなかったそうです。それも缶詰め加工か内地に送られるため地元の庶民が食べるものではなかったようで。現在、海外観光客も憧れるグルメ食材の宝庫で、日本の「食糧庫」とも言える北海道も、戦中戦後の食料事情は厳しいものだったようです。
1:16 ???「クゥゥゥ!!キモチイィィ!! ビッグマンキモチイィォ!!」
@@4653_Noerl 聞こえてくる……
12:54当時からして漁業権があって「漁業権がないと霊長類最強の男も、海岸の貝を拾っただけで漁業権を持った酔っ払いに フルボッコにされていた」と某TH-camで紹介されていました('ω')19:06白鳥由栄は昭和19年8月26日に網走刑務所を脱獄して昭和21年8月14日に捕まるまで2年間、北海道内を逃げ回っていますが、よく餓〇しなかったもんだなーと思いますがそれだけ北海道には食料があったということでしょうかね('ω')白鳥は恐らく日本国内で最後に終戦を知った人とも言われていますね('ω')
wrwrd?
うちの母の実家は関東の漁村かつ地主とまではいかないですが比較的大きめな家の出身だったせいか、戦後だけど食うもの(主に魚介類)に困らなかったという話は聞きましたね(そのせいか当時の女性にしては身長高めな方
初見です!チャンネル登録させていただきました!ダメオジさん石川典行さんかと思いましたww
ほんとだマジで石川典行じゃんwwwww
ダメおじスミスさんには優しいんすね
反抗的な態度とったら、変な再現料理喰わされかねないし
再現飯続いて出るの嬉しい
戦時中に作っていた叔父から聞いた話。調理に時間がかかりすぎてますよ(当時で15分くらいで完成です)。うどん粉を水で練って小さめのいなり寿司くらいの大きさにして茹でていきます。出汁はなく、醤油又は塩のみの味付けです。
うちの爺さんは終戦間際に満州から内地に転属になったが、満州では味はともかく飯には困らなかったそうだ内地に転属になって北九州から東京へ行った際は毎日少しの雑穀飯と山盛りのおから、数切れの漬物と具無しの薄い味噌汁だったそう戦後に東北で農地開拓に入ったが、昭和35年頃までは米はあまり食べられず、すいとんや蒸しパンみたいなのばかりだったと言っていた
うちの爺様は満州、中国を転戦したのちに北方領土の守備隊に移動したと思ったら終戦の年に北海道本島勤務になったらしい(本人曰くなので記録不明ですが銃砲整備の教官に抜擢されたとか。一応、整備コンテストみたいなので優勝したみたいな賞状は持ってた)当時としては体格も良く力もあったので歩兵として前線にも何度も行ったそうですが…何故か散発的な襲撃を追い返す位しか経験してなく食うにも戦線戦中戦後で基本困らなかったそう…
自分のおじいちゃんは大阪市に戦中住んでたんだけど1940年に保育園卒業して小学校入りたてのときに開戦して疎開はしたんだろうか その時の写真があってお遊びで兵隊ゴッコしてるのがあったな
小学校の頃に脱脂粉乳を飲んだことあるけど普通に美味かったかな?今ある生活がいかに贅沢か…質素に食べられるだけでも幸せなんだな〜
豪農だった本家の家の隣の農耕牛が焼夷弾の余り物投棄で焼けたそうだ。当然、美味しくいただかれました。三キロ離れた市街地は悲惨。正月には牛肉炊き込みご飯が出ます。
戦前生まれの母に戦時中のすいとんを聞いたら、「何も入ってないただの汁だよ」って言われた。学校の給食を聞いたら、そんなのなくて、自前の弁当で中身はいつも芋(サツマイモ)だったらしく、下校の時、歩調に合わせておならが出て止まらなかったって言ってた(笑)
まってたぁ!
スミス氏は日本兵コスがいちばん似合うなぁ老人ホームで給食を出す仕事してますが、カボチャはホント食わず嫌いで「おれはカボチャは食わねぇんだ」と宣言してるおじいさん何人かいますね〜煮物やパンプキンサラダは安いから登場回数多いんですけねどなんですけどねー
戦中は甲子園球場のグランドで芋植えて育ててたとか戦前は満州で鹵獲したドイツの1号戦車やら並べて世界戦車博覧会を開催してたと甲子園歴史館に当時の記事が貼ってあったあと機銃掃射跡の残ったドアとかも展示されてたな
祖母は戦中毎日 かさ増しするために芋や南瓜の入ったご飯を食べてたそうです。
ダメおじ様の軍装は珍しいですね
スミスさん、お肌めちゃキレイ✨
毎日すいとん食べてたらダメおじ痩せそうですね☆
家の祖母の話しだと、農家してたんで食べるものには困ら無かったらしいです。でも、次節的に学校には全部米の弁当もって来ちゃダメで先生に検査されたらしいです
スミスくん相当食糧不足になっても今と同じ笑顔で笑ってそう
すいとんは普通に美味しい豚汁とかに入れると最高
スミスさんの料理チャンネル欲しい
自分の知ってるすいとんと違う…せめて野草を粉にした奴と品質の悪い小麦粉を使って生煮えで歯にくっつくのが末期のすいとんだと思ってます。
😊
塩なんてそもそも出回っていなかったのでは…専売品の煙草も進駐軍の横流しかシケモクの巻き直しだったときもあるそうな
スミスさんみたいな旧日本軍の格好してみたいんだよな…どうすればいいのやら…😢
なんだかんだ日本兵装も高いですからね...
島から核の雲をみた広島のばあちゃん、さつま芋しか食べれなかったから、今は全く手をつけたくないって言ってたなぁ、でも実の姉はさつま芋をバクバク食べてたらしいから、個人差は大きいのかもですねぇ
随分ふくよかな日本兵だな
今は亡き祖父はサツマイモが大嫌いだったけどそれ以外のイモは好き、トウモロコシは大好物だった飼料用の不味いトウモロコシを食べずに済んだんだろうな
あの後お菓子食ってたんかー😮
今年なくなった爺さんも毎日芋かカボチャばかりだったって話してた。だけど飢えなかったダケましだったって
抗日ダメおじ好き
恐れ入りますが、戦時食として有名な水団ですが、茨城近辺だと郷土料理化して未だに普通に食べられてる料理なので、再現と言われると複雑な気分になりやす…(´・ω・`)
ダメおじ…思い出ポロポロwwww
野菜茹でる時は硬い物から茹でた方が良いぞ( 一一)
2:10 欲しがりません・・・勝つまでは・・・
ダメおじが帽子のせいで石川典行にしか見えない
”こうりゃん飯”はどうですか?
昔は農薬とか使ってないから健康的ではありますよねw
要は和風ニョッキ
ビッグマンで例の彼が出てきてしまった。というか北海道も米売ってなかったの…!?
祖父の時代の人はすいとんを苦手意識があるが、私は好き経験の違いかな
うちの祖母はサツマイモが特に嫌いでしたね・・・
スミスくん一体いくつだよwwwまるで郷土史研究家みたいだな。ダメおじとスミスくんで味覚の違いがありすぎる。歳の差?
父方のバッバはさつまいもに味がなくて嫌いだったって言ってたな
斜めに掛けてる鞄が…欲しい感( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !
トウモロコシ色が黄色いからニョッキに見えますなw
戦後のすいとんは味付けなんか無かったんだよ。
当時、フライドポテトを作れたならじゃがいも嫌いと云う人達は減らせたのでは…等と愚考(´・ω・`)
@@山邑真竿 日本兵「食用油があらへんなぁ… せや!」エ ン ヂ ン オ イル
マジ好き付き合いたいw
抗日草
4:39 大人になれなかった弟たちに、、、みたいに盗みのみか?
これはすいとんとは言えないんじゃ、、、
@@lullol517 一応、定義としては「溶いた小麦粉を団子状にする、もしくは掬って鍋に投入し煮たもの」とされてるみたいやでただ、日本各地で類似の料理が存在するため、一概に「これがすいとん」と言い切るのは難しいんとちゃうの(郷土料理としては群馬が有名ではあるが)
この動画をたまたま、戦前生まれの父と一緒に見ました。
父が言うには、
・小麦粉はもっと黒かった(日本の小麦はうどん用がメインだったので、灰色で白くなかったそうです。戦後アメリカの白い小麦を見て驚愕したそうです)
・配給で回ってくる野菜は黒くて萎びきったものだったので、どんな調理をしても味も何もしなかった
・すいとんのスープは 味噌か醤油ベースが多かった。
・脱脂粉乳は一番美味しかった、というか学校の給食はそれだけだった(2年年下の母は、コッペパンも出た記憶があるそうなので、この辺も年代による差があったようです)
とのことです。
私の祖母(戦前生まれ)は「戦争中嫌というほど食べたから一生トウモロコシを食べない!」と豪語するほど食事は蒸かしたトウモロコシばかりだったそうです。そして父は戦後生まれですが給食で出た脱脂粉乳が大嫌いで、あるときクラスメイトの脱脂粉乳をひっくり返してしまったら、その子は脱脂粉乳が大好きだったのでひどく恨まれてビックリしたという思い出話をよくしてましたね
トウモロコシ嫌いな老人は飼料用の不味い品種を食べさせられたのかもしれない
スーパーにある水気あって甘いもの全然違う
今の北朝鮮の庶民はこのトウモロコシを混ぜたご飯を食べてるとか
ウチの親父は、戦中戦後にジャガイモばかり食ってたから、
料理にジャガイモは入れるなとか言ってたっけ。
今でこそトウモロコシは甘くて美味しいけれどわしの母が子供の頃のトウモロコシは今ほどの味では無かったそうなので、戦時中のトウモロコシはあんまり美味しいものでは無かったのかもしれませんね…。
@@KANIKAMA5353
家畜の飼料用品種を食べさせられたのかも
北朝鮮では今でもこのトウモロコシを混ぜたご飯を食べているとか
私の知ってる高齢の方数名はさつまいもが食べたくないって言ってましたね
現代の甘くて美味しいのに...
ばあちゃんが戦争を忘れない為って毎年終戦記念日に作ってたすいとんとは少し違うな
水で煮た野菜に少しの塩とお好み焼きのタネくらいまで水で溶いた小麦粉を沸騰中に流し入れて固めてた
これですコレ!うちのおばあちゃんも水っぽい生地でスプーンですくって流し入れてました。どっちかというと麺ぽい感じのペロペロな形状。
田舎のお嬢だったので、野菜はいっぱい入れて食べられたそうですが😅
小学生の頃に戦時中を経験した
先生が、当時の具が無い
すいとんを作ってくれました。
今回の好きな物と嫌いな物
きれいに別れましたね😲
茨城県は新米がスーパーに
並び始めました。
タイムリーな問題に斬り込むジャーナリズム精神溢れる内容に脱帽です
このコンビ、父母と息子感があって良い
ちょっとスミスくんが無視する感じとダメおじの掛け合いが面白い
うぽつです♪あら珍しいコンビ
出汁は甘えw
スミスくんとダメおじさんのペアも良きですな。
妊婦さん、産後の奥様。
赤ちゃんに育ち盛りの若者 etc
お米モリモリ召しあがって、
力つけなきゃならん人が世の中にはいっぱい居られる
だから、あたいは買い占めをしたりしない。
老人は力つけなくていいんですか?
再現飯シリーズは、歴史の勉強になり面白い
9:34 脱脂粉乳を見て「白いねぇ」
なお田舎では空襲受けてないどこか、食べ物も苦労してない模様 亡くなった祖父と祖母が話してた
ワイの父方バッバ、和歌山の山奥生まれ
戦中空襲はもちろん食糧難とも無縁で、たまに女学校で竹槍訓練とかやらされる以外特に何事も無かったそう
なお、母方のバッバは市内で空襲に遭って生死の境を彷徨った模様
@@tomoyakagawa7434ウチも似たような感じです。父方の話はあんまり分からないのですが、高祖父さんは歳行き過ぎ、曽祖父さんは若過ぎで徴兵されなかったらしいです。母方の曾祖母さんは空襲直撃だったらしいです。
うちのなくなった祖父が、
すいとんと鶏肉が食べれない人でした。
すいとんは戦時中に死ぬほど食べたし、
あの頃を思い出すから食べたくない。
鶏肉は本当に食べ物がなくて飼ってた鶏が
自分が知らずに素人の手で解体され、
羽が残ってるものを食べたかららしいです。
本当に改めて食で考えると戦争っていけないなあ…こんなひもじい寂しい食事…
私はおそらくスミスさん達より少しだけ年上ですが、一昨年鬼籍に入った父は「疎開先でお世話になっていてもカボチャだけは味も悪くて固くて、栄養失調なのに食べたくなかった。芋づるは美味しくて好きだった」と言っていました。
今の甘くて黄色くてネットリしたカボチャしか知らない世代なので、意外でしたね。
「当時モノ」が入手できない難点もありますが、ガンズロックスさんの企画、大好きです。
なお、ニガウリも平成元年辺りまでは白くて細長いガチ苦いだけの、食用とは思えない謎の植物でした。
沖縄の緑色で丸っこくて苦くないニガウリが出現してからは、夏の朝の食卓が苦じゃなくなったのを覚えています。
自分の曾祖母は地主のお嬢様だったらしく、食べ物には困った事はなかったらしいです。ただ戦後の農地解放政策で跡形もなくなったようです。
職業軍人の祖父母は、強制的に買わされた軍票(債券)が、戦後、紙くずになってゼロからのスタートになったらしい。
連続料理企画助かる
塩の価格が上がってないのはまだ救いだっただろうな
味覚的な意味で塩味だけは保証されてるのもそうだけど、ヒトは他の動物に比べてミネラルが必須栄養素として重要だから塩分摂れなかったらまじで死ぬ
生前、ウチの親父は「一生分食った!」と言ってカボチャやサツマイモを絶対食べなかったw
(因みにスイトンは確実に激怒するメニューの一つなんで出張で居ない時に食べました♪)
なんかで再現レシピを見たけど
こんなに団子状にこねるのは贅沢で
実際は小麦粉節約で
もっと水多めドロドロに溶いた小麦粉を沸騰したお湯にオタマでそっと流すと
ブヨブヨに固まるので
そのまま塩と醤油で味つけして野菜等は無しみたいですね
それはマジでうまくないらしい
まあでも令和の米不足
たまには具だくさんすいとんで米の節約も良いかも😊
だいたいは「めっちゃ薄めた味噌汁」ベースみたいですね。野菜くずなど入れて作ったと、祖母に聞きました
この頃の出汁の基本は煮干しと野菜なので、鰹節や昆布のような出汁は一般的ではなかったようです。なので、戦中や食糧難関係なく、普段の食事が薄味だったようです
死んだ婆様は『昔の小麦粉は質が悪くて変な匂いがした。』と言っていました。
今はそんなことないのでしょうが腹を満たすだけのものなんでしょうね。
ちなみに、終戦の日が近くなると近隣のそば屋にすいとん定食なるモノが登場して鶏肉とか入っていてとても美味しいモノになっています。
このコンビは珍しいかも
塩は比較的手に入りやすかったというのが驚きでした!
ダメおじさんもプンパーニッケル食べてみてほしいです笑
祖父も祖母もギリ戦前生まれで、幼少期(5歳前後)は戦後だったそうです。
ただ都市部では空襲があったり……という地方でも、空襲にさらされることも一切なかった地域だとかで、農家ということも相まって食うことには事欠かなかったそうです。
ただそれでもギリギリの生活。
祖父は夏場のおやつがキュウリばっかりで、キュウリは食事に出てもあまり食べません。
きゅうりに飽きた。と言ってます。
個人的には団子汁(すいとんの味噌味)はいまだに時々食べます。
昔職場で一緒だったベテランの方(戦時中に釧路生まれ)は、一緒に飲みに行くとツマミにポテトフライやコーンバターが出てくるのを嫌がり、若い者が頼むと不機嫌になってました。併せて牛乳も大嫌い。
幼い頃の食事が毎日毎回ジャガイモかとうもろこしカボチャを茹でたもの(今の品種とは違い飼料用の味の無いバサバサのモノ)で、良くても今回出てきたようなダシや味付けの無い汁物で、味噌醤油も貴重なご馳走、たまに牛乳が手に入るとそれをいれてシチューみたくしていたんだとか。
腹を膨らますために入れていた「モノ」なので、もう見たくもないと言ってました。
北海道だから鮭とかカニとかホタテとかは?と聞いたら成人し町に働きに行くまで見たことなかったそうです。それも缶詰め加工か内地に送られるため地元の庶民が食べるものではなかったようで。
現在、海外観光客も憧れるグルメ食材の宝庫で、日本の「食糧庫」とも言える北海道も、戦中戦後の食料事情は厳しいものだったようです。
1:16 ???「クゥゥゥ!!キモチイィィ!! ビッグマンキモチイィォ!!」
@@4653_Noerl 聞こえてくる……
12:54当時からして漁業権があって
「漁業権がないと霊長類最強の男も、海岸の貝を拾っただけで漁業権を持った酔っ払いに
フルボッコにされていた」
と某TH-camで紹介されていました('ω')
19:06白鳥由栄は昭和19年8月26日に網走刑務所を脱獄して昭和21年8月14日に捕まるまで
2年間、北海道内を逃げ回っていますが、よく餓〇しなかったもんだなーと思いますが
それだけ北海道には食料があったということでしょうかね('ω')
白鳥は恐らく日本国内で最後に終戦を知った人とも言われていますね('ω')
wrwrd?
うちの母の実家は関東の漁村かつ地主とまではいかないですが比較的大きめな家の出身だったせいか、戦後だけど食うもの(主に魚介類)に困らなかったという話は聞きましたね(そのせいか当時の女性にしては身長高めな方
初見です!チャンネル登録させていただきました!ダメオジさん石川典行さんかと思いましたww
ほんとだマジで石川典行じゃんwwwww
ダメおじスミスさんには優しいんすね
反抗的な態度とったら、変な再現料理喰わされかねないし
再現飯続いて出るの嬉しい
戦時中に作っていた叔父から聞いた話。
調理に時間がかかりすぎてますよ(当時で15分くらいで完成です)。
うどん粉を水で練って小さめのいなり寿司くらいの大きさにして茹でていきます。出汁はなく、醤油又は塩のみの味付けです。
うちの爺さんは終戦間際に満州から内地に転属になったが、満州では味はともかく飯には困らなかったそうだ
内地に転属になって北九州から東京へ行った際は毎日少しの雑穀飯と山盛りのおから、数切れの漬物と具無しの薄い味噌汁だったそう
戦後に東北で農地開拓に入ったが、昭和35年頃までは米はあまり食べられず、すいとんや蒸しパンみたいなのばかりだったと言っていた
うちの爺様は満州、中国を転戦したのちに北方領土の守備隊に移動したと思ったら終戦の年に北海道本島勤務になったらしい
(本人曰くなので記録不明ですが銃砲整備の教官に抜擢されたとか。一応、整備コンテストみたいなので優勝したみたいな賞状は持ってた)
当時としては体格も良く力もあったので歩兵として前線にも何度も行ったそうですが…何故か散発的な襲撃を追い返す位しか経験してなく
食うにも戦線戦中戦後で基本困らなかったそう…
自分のおじいちゃんは大阪市に戦中住んでたんだけど1940年に保育園卒業して小学校入りたてのときに開戦して疎開はしたんだろうか その時の写真があってお遊びで兵隊ゴッコしてるのがあったな
小学校の頃に
脱脂粉乳を飲んだことあるけど
普通に美味かったかな?
今ある生活がいかに贅沢か…
質素に食べられるだけでも
幸せなんだな〜
豪農だった本家の家の隣の農耕牛が焼夷弾の余り物投棄で焼けたそうだ。
当然、美味しくいただかれました。
三キロ離れた市街地は悲惨。
正月には牛肉炊き込みご飯が出ます。
戦前生まれの母に戦時中のすいとんを聞いたら、「何も入ってないただの汁だよ」って言われた。
学校の給食を聞いたら、そんなのなくて、自前の弁当で中身はいつも芋(サツマイモ)だったらしく、下校の時、歩調に合わせておならが出て止まらなかったって言ってた(笑)
まってたぁ!
スミス氏は日本兵コスがいちばん似合うなぁ
老人ホームで給食を出す仕事してますが、カボチャはホント食わず嫌いで「おれはカボチャは食わねぇんだ」と宣言してるおじいさん何人かいますね〜
煮物やパンプキンサラダは安いから登場回数多いんですけねどなんですけどねー
戦中は甲子園球場のグランドで芋植えて育ててたとか
戦前は満州で鹵獲したドイツの1号戦車やら並べて世界戦車博覧会を開催してたと甲子園歴史館に当時の記事が貼ってあった
あと機銃掃射跡の残ったドアとかも展示されてたな
祖母は戦中毎日 かさ増しするために芋や南瓜の入ったご飯を食べてたそうです。
ダメおじ様の軍装は珍しいですね
スミスさん、お肌めちゃキレイ✨
毎日すいとん食べてたらダメおじ痩せそうですね☆
家の祖母の話しだと、農家してたんで食べるものには困ら無かったらしいです。
でも、次節的に学校には全部米の弁当もって来ちゃダメで先生に検査されたらしいです
スミスくん相当食糧不足になっても今と同じ笑顔で笑ってそう
すいとんは普通に美味しい
豚汁とかに入れると最高
スミスさんの料理チャンネル欲しい
自分の知ってるすいとんと違う…せめて野草を粉にした奴と品質の悪い小麦粉を使って生煮えで歯にくっつくのが末期のすいとんだと思ってます。
😊
塩なんてそもそも出回っていなかったのでは…
専売品の煙草も進駐軍の横流しかシケモクの巻き直しだったときもあるそうな
スミスさんみたいな旧日本軍の格好してみたいんだよな…どうすればいいのやら…😢
なんだかんだ日本兵装も高いですからね...
島から核の雲をみた広島のばあちゃん、さつま芋しか食べれなかったから、今は全く手をつけたくないって言ってたなぁ、でも実の姉はさつま芋をバクバク食べてたらしいから、個人差は大きいのかもですねぇ
随分ふくよかな日本兵だな
今は亡き祖父はサツマイモが大嫌いだったけどそれ以外のイモは好き、トウモロコシは大好物だった
飼料用の不味いトウモロコシを食べずに済んだんだろうな
あの後お菓子食ってたんかー😮
今年なくなった爺さんも毎日芋かカボチャばかりだったって話してた。だけど飢えなかったダケましだったって
抗日ダメおじ好き
恐れ入りますが、戦時食として有名な水団ですが、茨城近辺だと郷土料理化して未だに普通に食べられてる料理なので、再現と言われると複雑な気分になりやす…(´・ω・`)
ダメおじ…思い出ポロポロwwww
野菜茹でる時は硬い物から茹でた方が良いぞ( 一一)
2:10 欲しがりません・・・勝つまでは・・・
ダメおじが帽子のせいで石川典行にしか見えない
”こうりゃん飯”はどうですか?
昔は農薬とか使ってないから健康的ではありますよねw
要は和風ニョッキ
ビッグマンで例の彼が出てきてしまった。
というか北海道も米売ってなかったの…!?
祖父の時代の人はすいとんを苦手意識があるが、私は好き
経験の違いかな
うちの祖母はサツマイモが特に嫌いでしたね・・・
スミスくん一体いくつだよwww
まるで郷土史研究家みたいだな。
ダメおじとスミスくんで味覚の違いがありすぎる。歳の差?
父方のバッバはさつまいもに味がなくて嫌いだったって言ってたな
斜めに掛けてる鞄が…
欲しい感( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !
トウモロコシ色が黄色いからニョッキに見えますなw
戦後のすいとんは味付けなんか無かったんだよ。
当時、フライドポテトを作れたならじゃがいも嫌いと云う人達は減らせたのでは…等と愚考(´・ω・`)
@@山邑真竿
日本兵
「食用油があらへんなぁ… せや!」
エ ン ヂ ン オ イ
ル
マジ好き付き合いたいw
抗日草
4:39 大人になれなかった弟たちに、、、みたいに盗みのみか?
これはすいとんとは言えないんじゃ、、、
@@lullol517
一応、定義としては「溶いた小麦粉を団子状にする、もしくは掬って鍋に投入し煮たもの」とされてるみたいやで
ただ、日本各地で類似の料理が存在するため、一概に「これがすいとん」と言い切るのは難しいんとちゃうの
(郷土料理としては群馬が有名ではあるが)