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この時代交直流急行型電車の60ヘルツ用には、裾にクリームの帯がありました。
新幹線が開通したおかげで、快速や普通が増発できたことに感謝しましょうね。
大きな駅に運転停車だけにしたのはヨンナナサンダイヤ改正からで寝台特急あけぼの誕生で問題がなかったために行われました。止めればそれなりに利用者はいたが乗客の睡眠を優先させたそうです。ただし寝台特急日本海だけは深夜の新津に停車していました。それと彗星が大分止まりの車両があるのは大分からの寝台券が取りにくいためでしょう。また日豊本線経由の列車に1等車や、1等寝台車が多いのは先に述べたことぶき周遊券の利用者が多かったと推測されます。それと残念ながら当時の宮崎県は一大観光地で鹿児島県の比ではありませんでした。飛行機もジェット化されたのは宮崎空港が先だったように思います。鹿児島空港は当時鴨池にあったように思います。
この当時北陸本線と信越本線の糸魚川宮内間は電化されておらず越後が気動車は当たり前ですね!それから旧型の客車がブルー塗装されたのは、かなり後からでそれまではオロネ10型も茶色塗装でした。ちなみに急行ながさきはヨンゴウトウダイヤ改正で急行雲仙上下の1号になって新大阪始発に改められています。急行ながさきは大阪万博の頃はオール座席車でグリーン車を組み込み急行させぼと併結されており下りは京都まで全車指定席でした。また団体で満員になる!と注意書きがあるのはこの時代かなりあり旅行商品エックというのが国鉄から販売されていたこともあるかと思います。これらの列車は殆ど寝台急行です。
急行ともはヨンサントウダイヤ改正までは急行びんごの愛称でともはそれまでは岡山と広島を結んでいてヨンサントウダイヤ改正では急行山陽に統一されています。
急行瀬戸下り2号と上り1号は昭和46年10月ダイヤ改正からB寝台車が試作車の14系寝台車になりましたが、この14系はほかの客車のために蒸気暖房を引き通されています。また急行銀河の上下1号はヨンゴウトウダイヤ改正から寝台急行になりましたが、旧型のマロネ40型やマロネ41型は廃車されて、オロネ10型またはオロネフ10型に変わりました。なお上下の2号の座席車はスハ44型や、スハフ43型の回転クロスシートになりましたが、変わり、上りの2号は座席車が万博のころから全車指定席になった。ヨンゴウトウまでは、スハ43系の固定クロスシートです。
急行くろゆりは北陸本線は経由していませんよ!高山本線から岐阜経由で東海道本線を走行していました。
朝5:00過ぎから12:00頃迄(安芸) (つるぎ) を皮切りに休む事なく大阪駅を駆け廻りました。片手に○○○番線○何時何分。書いた紙切れを握り締めた撮り鉄君でした。1972〜1975時代の話しですが当時は子供でしたから東京発着列車等ブルートレとの対面は断念しましたが、本当に楽しい大阪駅でしたネ。
私は時刻表でしか知ることができませんが、さぞ楽しい駅だったろうなと思います。
準急は昭和40年10月ダイヤ改正で走行距離100キロ以上は急行に格上げされていてヨンサントウダイヤ改正で1走行距離00キロ未満も急行格上げされて、消滅しました。今の時代の急行が特急に格上げされて、ほぼ消滅したことと似ています今で走行距離は50キロ以下の特急が走る時代ですね!
急行つくし1号は、博多方からTcM’McTsTbM’McTcM’Mcの10両編成です。Tcはクハ455、M’はモハ474、Mcはクモハ475、Tsはサロ455、Tbはサハシ455です。食堂車はついていません。5号車は食堂車ではなく、サハシ455のビュッフェと普通車(2等車)の合造車で、全体で11両ではなく10両編成になります。
急行桜島・急行高千穂の間違いでしょう!
当時急行「桜島」は、不定期列車で今回紹介している時刻は、1968/11/23を想定しているのですが桜島の運転は10/2-10/22の運転であるため記載していません。運行時刻は東京10:30、大阪18:41、西鹿児島到着翌日12:04でした。
急行桜島はヨンゴウトウダイヤ改正でした。霧島が寝台特急電車きりしまが運転開始(京都と西鹿児島間)されたために改称されたもので、それまでは季節列車の愛称です。編成はヨンナナサンダイヤ改正までは霧島と同じで食堂車組み込みでグリーン車が全車指定席になったくらいです。ヨンナナサンダイヤ改正では食堂車が外されています。なおヨンゴウトウダイヤ改正までは、その他のグリーン車は桜島に限らず全車指定席、もしくは全車自由席のどちらかでそれまであった一部指定席扱いはグリーン車に限ってなくなっています。
この時代にタイムマシーンに乗って行ってみたい
ですよね〜。古い時刻表を見るたびにそう思います。
S48年幼少の時東京から水俣まで桜島高千穂(霧島高千穂)に乗って両親の故郷大口(伊佐)に帰省したのを懐かしく思い出しました 旧客車のオール自由席でした
寝台特急日本海は翌年に12両に増強されています。(電源荷物車を除く)
電車の急行つくし1号は食堂車はついていませんでした。ビュッフェの隣は1等車です。客車時代はついていましたが。
ヨンサントウでは485系は北陸方面が中心で山陽、九州方面は特急みどりだけでした。後に特急うずしおの1往復やしおじの70番台に使用されることになりますが、まだまだ583系が主力でした。またうずしおの上下2号が全車指定席なのは東京から四国の各地に日着できたためでしょう。その他のうずしおは新幹線に連絡していなかったり高松付近だけしか行けなかったためでしょう!
時間帯によって全席指定になるという細かな対応が昔の特徴ですね。現在は効率優先で細かな対応をしなくなっているように思います。
急行阿蘇と急行天草の基本編成は名古屋客貨車区の所属で共通運用でした。なお20系の付属編成の電源車は旧型の客車を改造したマヤ20型ですね!
こんにちは!特急かもめの戦前は特急燕(当時は漢字)と対を成す東京駅と大阪駅を結んでいて、戦後の昭和28年に京都と博多を結ぶ特急になりサンロクトウダイヤ改正でキハ82系になりました。
漢字表記の件ですが、つばめ、かもめ、さくらは、私の手持ちの時刻表、5年10月、9年12月、15年10月、17年11月、19年5月において漢字表記は、昭和5年版だけのようです(富士のみ全部漢字)。多くの資料などには漢字で書かれているようですが、どうなんでしょうね。時刻表の表記には従っていますが、正式にはどうだったんでしょう。ご存知でしたら、お教え願えればと思います。
急行おきは昭和46年4月25日ダイヤ改正で特急おきとなり翌年ヨンナナサンダイヤ改正で特急やくもになり、発展的解消されました。
457系電車(50ヘルツ60ヘルツどちらも走れる)は1969年から運転開始です。1968年にはまだありませんでした。富山から大阪の立山は475系電車です。
ありがとうございます。概要欄に訂正させていただきました。今後ともご指摘いただければ幸いです。
北陸地区からの電車急行は471系が主力で九州地区は475系オンリーです。これは九州地区の交直流急行型が昭和40年10月ダイヤ改正で新制されたためでそのおかげでセノハチを自力で登坂して下り勾配では勾配抑速ブレーキを使用しています。153系はそれまでは12両編成を10両に短縮して自力で走行しました。勾配抑速ブレーキはついていません。また151系も181系に改造されたのでセノハチは自力走行が可能になっています。それまではどちらもEF61型が後押しに使用されていました。
@@もりわききくお そうですね。北陸地区から大阪方面は471系主体で473系と475系も混じっていました。北陸トンネル開通までは10両までだったのが、勾配緩和で12両で走れるようになりました。東京口では御殿場併結車で153系と165系が混結されていました。こちらは165系側で戻しノッチと抑速ブレーキが使えない状態でした。北陸地区のはその後に走る宇奈月編成が475系限定など機能を生かしたまま走らしていました。
165系471系や451系は最初から戻しノッチと抑速ブレーキが使えるCS15系主制御器が採用されていたのに対し、153系ではCS12系主制御器で戻しノッチや抑速ブレーキの無いものだったので、このような違いがあります。
北陸地区は昭和45年夏期からは富山地方鉄道へ乗り入れるために10号車から12号車までは475系限定運用になっています。457系は昭和46年から快速増発の名目でクモハとモハ4ユニットとサハ455型が増備されましたが、実際は457系は北陸急行12両編成に限って組み込まれてそこから捻出された車両で快速が増発されました。最初快速はクハ、クハ、モハ、クモハの4両編成でしたが、後に急行くずりゅうと共通運用になり6両編成だった。
特急つばめが名古屋始発なのは、寝台特急電車金星と共通運用だったためが大きいです。編成表の急行つくし1号の食堂車はおかしいですね。特急まつかぜは京都始発ですよ!特急しおじなどの1号車は元クロ151型で改造によって区分室だけを残してクロハ181型になっています。181系への改造は、ヨンサントウダイヤ改正までに完了していました。151系が0番台で161系が40番台で新制された車両は100番台に区別されました。ただしクハ180型は0番台ですよ!クハ180型は横軽用ですね!
双方とも概要欄にて訂正させていただきました。ありがとうございます。今後ともご指摘いただければ幸いです。
急行日南1号の編成図おかしくはないですか?基本編成がみや座行きで付属編成は大分止まりですよ!それに付属編成にも1等寝台車が連結されていたはずです。特急白鳥に新潟編成がありましたが、後に特急北越の誕生により13両に減車の上で全編成が青森行きになりました。昼行ちくまは昭和46年4月25日ダイヤ改正で特急しなの上下の2号に格上げされています。
日南一号の行先は間違っています。これも概要欄にて訂正させていただきました。ありがとうございます。
この時代165系はクハとサロ以外は使われていません。また同じ153系12両編成でも宮原電車区と向日町運転所の2箇所で受け持っていました。特急やくもはたしか9両編成だったと思います。なおこの時代457系はまだ誕生していません。交流60ヘルツ用には裾にクリームの帯がありました。またこの時代電車急行にはまだ大型のヘッドマークがついていましたが管理局ごとに違っています。
この当時ことぶき周遊券というのがあり、寝台料金がたしか5割引きだったと思います。また急行くろゆり1号は後に急行たかやまになり、定期列車になりました。当時名鉄から高山本線乗り入れ列車にたかやまの愛称が付けられており、のちに北アルプスになった列車ですね!ところでオロネ10型は20系客車よりもあとの製造です。ナロネ21型を参考にしています。
「ことぶき周遊券」!!!!すごいですね。新婚旅行も鉄道の時代だった、というのを感じます。
大阪車掌区も九州から青森まで日本を席巻した乗務範囲でした。
なるほど、そういうことになるんですね。当時は大阪車掌区も全盛期ということになるんでしょう。
どうも主さんは終着駅までの利用者を想像しでいるようですが、もちろんトウシで利用する人もいましたが特に急行は途中駅までの利用者が殆どです。例えば急行玄海などはは名古屋から岡山または広島あたりまでの利用者が結構いたと思います。特急もしかりでそのために山陽本線の特急はかもめを除くすべての列車に自由席がついていました。かもめが全車指定席だった理由は知りませんが!
この時代交直流急行型電車の60ヘルツ用には、裾にクリームの帯がありました。
新幹線が開通したおかげで、快速や普通が増発できたことに感謝しましょうね。
大きな駅に運転停車だけにしたのはヨンナナサンダイヤ改正からで寝台特急あけぼの誕生で問題がなかったために行われました。止めればそれなりに利用者はいたが乗客の睡眠を優先させたそうです。ただし寝台特急日本海だけは深夜の新津に停車していました。それと彗星が大分止まりの車両があるのは大分からの寝台券が取りにくいためでしょう。また日豊本線経由の列車に1等車や、1等寝台車が多いのは先に述べたことぶき周遊券の利用者が多かったと推測されます。それと残念ながら当時の宮崎県は一大観光地で鹿児島県の比ではありませんでした。飛行機もジェット化されたのは宮崎空港が先だったように思います。鹿児島空港は当時鴨池にあったように思います。
この当時北陸本線と信越本線の糸魚川宮内間は電化されておらず越後が気動車は当たり前ですね!それから旧型の客車がブルー塗装されたのは、かなり後からでそれまではオロネ10型も茶色塗装でした。ちなみに急行ながさきはヨンゴウトウダイヤ改正で急行雲仙上下の1号になって新大阪始発に改められています。急行ながさきは大阪万博の頃はオール座席車でグリーン車を組み込み急行させぼと併結されており下りは京都まで全車指定席でした。また団体で満員になる!と注意書きがあるのはこの時代かなりあり旅行商品エックというのが国鉄から販売されていたこともあるかと思います。これらの列車は殆ど寝台急行です。
急行ともはヨンサントウダイヤ改正までは急行びんごの愛称でともはそれまでは岡山と広島を結んでいてヨンサントウダイヤ改正では急行山陽に統一されています。
急行瀬戸下り2号と上り1号は昭和46年10月ダイヤ改正からB寝台車が試作車の14系寝台車になりましたが、この14系はほかの客車のために蒸気暖房を引き通されています。また急行銀河の上下1号はヨンゴウトウダイヤ改正から寝台急行になりましたが、旧型のマロネ40型やマロネ41型は廃車されて、オロネ10型またはオロネフ10型に変わりました。なお上下の2号の座席車はスハ44型や、スハフ43型の回転クロスシートになりましたが、変わり、上りの2号は座席車が万博のころから全車指定席になった。ヨンゴウトウまでは、スハ43系の固定クロスシートです。
急行くろゆりは北陸本線は経由していませんよ!高山本線から岐阜経由で東海道本線を走行していました。
朝5:00過ぎから12:00頃迄
(安芸) (つるぎ) を皮切りに休む事なく大阪駅を駆け廻りました。
片手に○○○番線○何時何分。
書いた紙切れを握り締めた撮り鉄君でした。1972〜1975時代の話しですが当時は子供でしたから東京発着列車等ブルートレとの対面は断念しましたが、本当に楽しい大阪駅でしたネ。
私は時刻表でしか知ることができませんが、さぞ楽しい駅だったろうなと思います。
準急は昭和40年10月ダイヤ改正で走行距離100キロ以上は急行に格上げされていてヨンサントウダイヤ改正で1走行距離00キロ未満も急行格上げされて、消滅しました。今の時代の急行が特急に格上げされて、ほぼ消滅したことと似ています今で走行距離は50キロ以下の特急が走る時代ですね!
急行つくし1号は、博多方からTcM’McTsTbM’McTcM’Mcの10両編成です。Tcはクハ455、M’はモハ474、Mcはクモハ475、Tsはサロ455、Tbはサハシ455です。食堂車はついていません。5号車は食堂車ではなく、サハシ455のビュッフェと普通車(2等車)の合造車で、全体で11両ではなく10両編成になります。
急行桜島・急行高千穂の間違いでしょう!
当時急行「桜島」は、不定期列車で今回紹介している時刻は、1968/11/23を想定しているのですが桜島の運転は10/2-10/22の運転であるため記載していません。運行時刻は東京10:30、大阪18:41、西鹿児島到着翌日12:04でした。
急行桜島はヨンゴウトウダイヤ改正でした。霧島が寝台特急電車きりしまが運転開始(京都と西鹿児島間)されたために改称されたもので、それまでは季節列車の愛称です。編成はヨンナナサンダイヤ改正までは霧島と同じで食堂車組み込みでグリーン車が全車指定席になったくらいです。ヨンナナサンダイヤ改正では食堂車が外されています。なおヨンゴウトウダイヤ改正までは、その他のグリーン車は桜島に限らず全車指定席、もしくは全車自由席のどちらかでそれまであった一部指定席扱いはグリーン車に限ってなくなっています。
この時代にタイムマシーンに乗って行ってみたい
ですよね〜。古い時刻表を見るたびにそう思います。
S48年幼少の時東京から水俣まで桜島高千穂(霧島高千穂)に乗って両親の故郷大口(伊佐)に帰省したのを懐かしく思い出しました 旧客車のオール自由席でした
寝台特急日本海は翌年に12両に増強されています。(電源荷物車を除く)
電車の急行つくし1号は食堂車はついていませんでした。ビュッフェの隣は1等車です。客車時代はついていましたが。
ヨンサントウでは485系は北陸方面が中心で山陽、九州方面は特急みどりだけでした。後に特急うずしおの1往復やしおじの70番台に使用されることになりますが、まだまだ583系が主力でした。またうずしおの上下2号が全車指定席なのは東京から四国の各地に日着できたためでしょう。その他のうずしおは新幹線に連絡していなかったり高松付近だけしか行けなかったためでしょう!
時間帯によって全席指定になるという細かな対応が昔の特徴ですね。現在は効率優先で細かな対応をしなくなっているように思います。
急行阿蘇と急行天草の基本編成は名古屋客貨車区の所属で共通運用でした。なお20系の付属編成の電源車は旧型の客車を改造したマヤ20型ですね!
こんにちは!特急かもめの戦前は特急燕(当時は漢字)と対を成す東京駅と大阪駅を結んでいて、戦後の昭和28年に京都と博多を結ぶ特急になりサンロクトウダイヤ改正でキハ82系になりました。
漢字表記の件ですが、つばめ、かもめ、さくらは、私の手持ちの時刻表、5年10月、9年12月、15年10月、17年11月、19年5月において漢字表記は、昭和5年版だけのようです(富士のみ全部漢字)。多くの資料などには漢字で書かれているようですが、どうなんでしょうね。時刻表の表記には従っていますが、正式にはどうだったんでしょう。ご存知でしたら、お教え願えればと思います。
急行おきは昭和46年4月25日ダイヤ改正で特急おきとなり翌年ヨンナナサンダイヤ改正で特急やくもになり、発展的解消されました。
457系電車(50ヘルツ60ヘルツどちらも走れる)は1969年から運転開始です。1968年にはまだありませんでした。富山から大阪の立山は475系電車です。
ありがとうございます。概要欄に訂正させていただきました。今後ともご指摘いただければ幸いです。
北陸地区からの電車急行は471系が主力で九州地区は475系オンリーです。これは九州地区の交直流急行型が昭和40年10月ダイヤ改正で新制されたためでそのおかげでセノハチを自力で登坂して下り勾配では勾配抑速ブレーキを使用しています。153系はそれまでは12両編成を10両に短縮して自力で走行しました。勾配抑速ブレーキはついていません。また151系も181系に改造されたのでセノハチは自力走行が可能になっています。それまではどちらもEF61型が後押しに使用されていました。
@@もりわききくお そうですね。北陸地区から大阪方面は471系主体で473系と475系も混じっていました。北陸トンネル開通までは10両までだったのが、勾配緩和で12両で走れるようになりました。東京口では御殿場併結車で153系と165系が混結されていました。こちらは165系側で戻しノッチと抑速ブレーキが使えない状態でした。北陸地区のはその後に走る宇奈月編成が475系限定など機能を生かしたまま走らしていました。
165系471系や451系は最初から戻しノッチと抑速ブレーキが使えるCS15系主制御器が採用されていたのに対し、153系ではCS12系主制御器で戻しノッチや抑速ブレーキの無いものだったので、このような違いがあります。
北陸地区は昭和45年夏期からは富山地方鉄道へ乗り入れるために10号車から12号車までは475系限定運用になっています。457系は昭和46年から快速増発の名目でクモハとモハ4ユニットとサハ455型が増備されましたが、実際は457系は北陸急行12両編成に限って組み込まれてそこから捻出された車両で快速が増発されました。最初快速はクハ、クハ、モハ、クモハの4両編成でしたが、後に急行くずりゅうと共通運用になり6両編成だった。
特急つばめが名古屋始発なのは、寝台特急電車金星と共通運用だったためが大きいです。編成表の急行つくし1号の食堂車はおかしいですね。特急まつかぜは京都始発ですよ!特急しおじなどの1号車は元クロ151型で改造によって区分室だけを残してクロハ181型になっています。181系への改造は、ヨンサントウダイヤ改正までに完了していました。151系が0番台で161系が40番台で新制された車両は100番台に区別されました。ただしクハ180型は0番台ですよ!クハ180型は横軽用ですね!
双方とも概要欄にて訂正させていただきました。ありがとうございます。今後ともご指摘いただければ幸いです。
急行日南1号の編成図おかしくはないですか?基本編成がみや座行きで付属編成は大分止まりですよ!それに付属編成にも1等寝台車が連結されていたはずです。特急白鳥に新潟編成がありましたが、後に特急北越の誕生により13両に減車の上で全編成が青森行きになりました。昼行ちくまは昭和46年4月25日ダイヤ改正で特急しなの上下の2号に格上げされています。
日南一号の行先は間違っています。これも概要欄にて訂正させていただきました。ありがとうございます。
この時代165系はクハとサロ以外は使われていません。また同じ153系12両編成でも宮原電車区と向日町運転所の2箇所で受け持っていました。特急やくもはたしか9両編成だったと思います。なおこの時代457系はまだ誕生していません。交流60ヘルツ用には裾にクリームの帯がありました。またこの時代電車急行にはまだ大型のヘッドマークがついていましたが管理局ごとに違っています。
この当時ことぶき周遊券というのがあり、寝台料金がたしか5割引きだったと思います。また急行くろゆり1号は後に急行たかやまになり、定期列車になりました。当時名鉄から高山本線乗り入れ列車にたかやまの愛称が付けられており、のちに北アルプスになった列車ですね!ところでオロネ10型は20系客車よりもあとの製造です。ナロネ21型を参考にしています。
「ことぶき周遊券」!!!!すごいですね。新婚旅行も鉄道の時代だった、というのを感じます。
大阪車掌区も九州から青森まで日本を席巻した乗務範囲でした。
なるほど、そういうことになるんですね。当時は大阪車掌区も全盛期ということになるんでしょう。
どうも主さんは終着駅までの利用者を想像しでいるようですが、もちろんトウシで利用する人もいましたが特に急行は途中駅までの利用者が殆どです。例えば急行玄海などはは名古屋から岡山または広島あたりまでの利用者が結構いたと思います。特急もしかりでそのために山陽本線の特急はかもめを除くすべての列車に自由席がついていました。かもめが全車指定席だった理由は知りませんが!