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笑顔で語れるって余程自分のしてきた事を誇りに思っているんだろうな。日本の為にありがとうございました。
昭和30年代生まれの私。父は陸軍に応召しました。私達の世代は友人宅に行くと、おじさん達はそれぞれ戦争に関係していました。近所のおじさんは少年戦車兵あがり、戦後は建設重機のオペレーター。幼なじみのおじさんは、海軍特別年少兵で大和搭乗して、戦後は繊維工場勤務。同級生のおじさんは、機関車のかま焚きで、広島駅周辺で被曝し、半身にケロイドを残したが、戦後も国鉄職員。また、クラブ活動の仲間のおじさんは、中支で片足を失った傷痍軍人さん、サラリーマンしてたな。かように、身の回りに戦争を感じさせる人達がいました。檜 與平氏 不屈の闘志を尊敬しています。昭和40年代に月刊誌丸の記事で知り、尊敬し続けていました。
存命する旧日本軍のパイロットの方達が、知れずにいなくなってしまうのは寂しい。この映像はいつまでも残してほしい。
戦時中のご活躍を、TH-cam雪風さんで拝見して初めて知り、1週間ほど前に航空自衛隊入間基地に、檜様の義足を見に行って来ました。現在の日本国が平和でいられるのは、日本国のために戦って頂いた先人の方々のお陰でございます。大変ありがとうございました。檜中尉様のご冥福をお祈りいたします。
ずいぶん昔になりますが、あるきっかけで檜さんに手紙を書いたことがあります。檜さんは若かった私にご丁寧にお返事をくださいました。その時、私は檜さんのお顔は戦時中の小さなお写真からしか知りませんでしたが、最近になってこのビデオで初めて檜さんの戦後のお顔を拝見しました。こんなすばらしいビデオがあったのですね。実際にビデオでお話をしている檜さんはこんなに素敵な笑顔をしている方だったのですね。このビデオを見ていると本当に檜さんの強さ、勇ましさ、優しさ、聡明さ、心の大きさや余裕が感じられます。天国にいらっしゃる檜さんのことを思うと涙が止まりませんが、このビデオを見ることができて本当に嬉しく、アップロードしてくださって本当に本当にありがとうございました。
脚重傷時、着陸を無事こなしたと回想録で供述していますが現場にいた同僚が空中から見た際、胴体着陸していたとの事です。
片足失って極限の状態でも基地にたどり着き諦めなかった精神力!終戦まで日本を守ってくれた事に感謝です。もっともっと長生きしてほしかったな、悲しい・・・
檜さん。懐かしい。ムスタングに撃墜され右足を失い、義足で再び空に戻り見敵必殺ムスタングを落としたんでしたね。エース中のエースに敬礼。かつて3型は最良の戦闘機とおっしゃられていましたね。一度お会いしてお話をもっと聞きたかった。
お亡くなりになってもう30年ですか...この様に貴重な体験を語って頂ける人も少なくなってしまいました...
義足でまた戦地に戻るってスゲェ人だよな。ちゃんと生き残ってるし。
檜さん、穏やかなご性格の方のよう。淡々としたお話、感激しました。
いやあ!なつかしいです。わたしが中学3年生で動員で行った高松近郊林陸軍飛行場の場長、飛行隊長だった檜少佐。片足が義足でしたが、隊長専用の無塗装のピカピカ隼戦闘機で、格納庫の間を抜ける超低空飛行など少年の目に焼きつきました。南方焼けで額は真っ白、顔は真っ黒でギラギラ光る眼、精悍そのものでした。この映像からはもう覗えませんね。
凄く貴重な体験ですね👍✨
流石に実戦で戦った一流パイロットの話は説得力がある。
檜閣下から20数年前に頂いたお手紙は私の宝として今も大事に持っています。心から敬愛と哀悼の念を表したいと存じます。閣下のお心をしっかり胸に抱き、生涯決して忘れません。
本当にありがとうございました、どうか安らかに、、、
小学生の頃「つばさの血戦」を読みました。色々衝撃でした。
加藤戦闘隊長を超えてますね。生き残ったということは。
1981年だから61歳頃ですね。この10年後に亡くなられたけど、今から見ると未だ若かったんですね。
戦争に行くと寿命が10年縮む
戦後、中島飛行機から、スバル重工へ。乗りました、営農サンバー。また、スバルに乗ろうかの?
檜先生の証言には強く生きる勇気を頂きました。ありがとうございました。
実際に第二次大戦を生き抜いた方の話を聞く機会が少なくなった現代では本当に貴重な映像ですね。アップありがとうございます。
ありがとう御座いました
修武台記念館に恩賜の義足が残されていますね。正にファイタースピリッツ
加藤部隊長の人柄はホントに良かったんですね
一式戦一型は美しい第二次世界大戦中の戦闘機の中で最も美しい
戦後、何をなされていたのだろうか?少し気になります。でも、あの大戦を生き抜いた、歴戦のパイロット、凄いです。感服いたしました。
この人64戦隊に居たのかスゲーな。
同氏の空戦記録に関しては、当時の読売新聞ビルマ特派員であった、鈴木英次氏の著作に詳細が書かれています。 それを読むと、このインタビューにおける同氏の表現が、かなり控えめであることが分かります。 当時の戦闘機パイロットが体力・気力の限界を超えて、不利な条件のもと、死力を尽くして戦っておられた様子が分かります。
有難うございました
僕は生き残った人の話も聞きたいのですが、祖国の為に亡くなった人の話がやっぱり聞きたい、、、
アメリカが本当に恐れた立派な帝国陸軍の方だ!常に笑みを絶やさずお話されるところが余裕です!
64戦隊には確か穴吹曹長もいらっしゃいました懐かしく拝見しました 檜少佐殿生前にお目に掛かれなかったのが残念です
本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。
隼がビルマあたりで活躍できたのも特有の天候も幸いしたんでしょうな。日本機は高空では性能を発揮できないが低空では強い。
雨季があって休めたとかで補給も結構うまくいったみたいですね。
負傷した話をこんなにニコニコ話せるとは・・タフな人だったんだなあ。
鉄脚のエースパイロット檜与平氏のインタビューが有るとは....有難や!義足になってまでパイロットでありその後教導団に配属されて後進の育成にも尽力されたというまさに「鉄人」ですね
戦争の「是非」は横に一旦置いて、体験したことを全て語って欲しい。人が生きた、体験した、それは全て歴史の1ページ。兵器の良し悪し、戦場の情景、その日の出来事、誰と何を話したか、いつ何についてどう思ったかそれは、どんなものであれ歴史として残すにふさわしいものだ。
この謙虚な姿勢・飾らぬ言動・・・侍だ。生死の境を彷徨った話を笑顔で語る・・・我々とは別世界の人だ。P51と言ったらマスタング・・・ひェ~~怖。生の証言は、雑本100冊に勝る。我々がこうして安穏と人生を謳歌できるのも、国の為に身を挺して戦地に出征して下さった皆々様方のお蔭だということを、決して忘れてはなるまい。
桧 与平氏、すごい人ですね。こういう人を、鉄人と言うのでしょう。敬礼!。
当時のエースパイロットは本当に国を護ってくれた。片足を失おうとも被弾で脳漿を出そうとも必ず生きて帰ってなお出陣。今の自分らが生きている世界は少なくとも一部は彼らの勇気で出来ているのだと思いました。戦時中に多くのエースパイロットが亡くなられていてもったいないと思いました。
ご苦労さまでした。ご冥福をお祈りします。
五式戦闘機は急降下性能も高高度性能も隼とは段違いだが、昇降舵のペダルが狭く義足が入らず苦労した。しかし「この五式戦闘機なら疾風ですら歯が立たない新型のムスタングにも負けない!」と言う黒江大佐の言葉が自信になったので、私は女学生の前で義足の先を削り五式戦闘機のペダルに合わせた。と生前五式戦闘機を評してます。
TH-cam「フィリピン人が泣く神風の魂」必見😢
「永遠の0」作者、尚樹も泣いてます!#あさ8
そうだったんですか、残念です。動画最後まで見れなかったもので・・・有難うございます。
第二次世界大戦屈指のエースですよ
この本、読んだよ。
天国の空を愛機 キ43で加藤建夫 隊長と飛んでいますか?
吹き飛んだ右足で踏み込み右に旋回したと語っていますが、そこに違和感はないのだろうか? 出来ると信じていれば足が無くても歩けると言っているのと同じだ。本人もいつも出来るから出来るんだねという様な雰囲気で語っていて、不思議体験そのもの。これが精神力なのかと思った。
実際はエルロンとエレベーターの操作で右旋回したのでしょう。
■■■■■坂井さんとは話したことがあるが、この檜さんも凄い人物だね。
凄い精神力だな
飛行中に被弾 片足を失っても空中で止血 老後 笑顔でその当時を語る・・・多分私にはできません「超人」ってこういう人のことじゃないでしょうか
檜與平さんの直筆の写真、茶色の一式戦闘機の尾翼で休んでおられる。サングラスを掛けておられる。尾翼の戦隊番号(64戦隊ではなさそう)がお分かりの人は教えてもらえたら幸いです。
干戈交ゆる幾星霜。隼は熟練の職人が使う道具そのものであり、よく戦った名機であり、村田三八銃と同じ、イブシ銀的な良さがある。
91年没だそうです動画の最後に出ていますね
まだ義足の製作が一般的ではなかった時代、再びパイロットとして飛ぶまでには正に血の滲むようなリハビリを乗り越えたそうです。ああ、日本に生まれてよかった。そしてこれからも日本に生まれてよかったと言いたい。言わせてくれないか。
義足は紀元前からかなり精巧なものが作られてるぞ
嗚呼、今は亡き武士の・・
本も出されてるので読んだことがある
確かこのお方は片足を失ってもなお戦い続けたお方でしたな、やはり凄いお方ですなご冥福をお祈りします。
加藤一二三先生みたいだ。しゃべりの傾向が同じ。素晴らしい!!五式戦も語ってほしいなーっ
ありがとうございました自ら進んでツメの垢を飲みたいです。
気さくで気取らない様子と、サクサクとした語り口がとても知的に感じます。飛行機や戦争以外のお話も随分引き込まれてやまないものだったと思います。97戦で追撃するくだりは、やはり桿を握った人からでなければ得られない大変興味あるお話でした。本来、こういう実態を踏まえてからでないと往時の飛行機をとやかく言えないんじゃないでしょうか?世の大戦機ファンの方、お勉強なさってますか?別件ですが、部隊長殿は部下の掌握にも優れていたが人使いが荒かったとか・・・。
貴重なお話だと思います。侍ですね。後世に伝えていって欲しいです。
穏やかな笑顔の陰に、どれだけの凄惨な戦闘を経験されたのだろうか・・・。隼も優秀な機体だったが、もっとはやく五式戦が配備されていたら・・・。
加藤隊長の部下、鉄脚のエース!!まだご健在なんでしょうか?
一式戦闘機は上昇力はいいのだが積んでるのが7.7mmが2基しかないから火力が足りないのが弱点でもあるんだもんなぁ
aiai zoo 1型は7.7mmと12.7mm機銃
12.7
二型から12.7mmニ門になった。
気さくな感じのひとだったんですね
義足のエース!!
嘘松だらけ
零戦より丈夫に見えるが、ガタガタな戦闘機な訳ですね。開戦を焦ったのでは?パイロットには、優秀な戦闘機に搭乗して貰って優位に闘いたかった。残念な事です。
ドイツから尊敬と挨拶!
笑顔で語れるって余程自分のしてきた事を誇りに思っているんだろうな。日本の為にありがとうございました。
昭和30年代生まれの私。父は陸軍に応召しました。
私達の世代は友人宅に行くと、おじさん達はそれぞれ戦争に関係していました。
近所のおじさんは少年戦車兵あがり、戦後は建設重機のオペレーター。幼なじみのおじさんは、海軍特別年少兵で大和搭乗して、戦後は繊維工場勤務。同級生のおじさんは、機関車のかま焚きで、広島駅周辺で被曝し、半身にケロイドを残したが、戦後も国鉄職員。また、クラブ活動の仲間のおじさんは、中支で片足を失った傷痍軍人さん、サラリーマンしてたな。
かように、身の回りに戦争を感じさせる人達がいました。
檜 與平氏 不屈の闘志を尊敬しています。昭和40年代に月刊誌丸の記事で知り、尊敬し続けていました。
存命する旧日本軍のパイロットの方達が、知れずにいなくなってしまうのは寂しい。この映像はいつまでも残してほしい。
戦時中のご活躍を、TH-cam雪風さんで拝見して初めて知り、1週間ほど前に航空自衛隊入間基地に、檜様の義足を見に行って来ました。現在の日本国が平和でいられるのは、日本国のために戦って頂いた先人の方々のお陰でございます。大変ありがとうございました。檜中尉様のご冥福をお祈りいたします。
ずいぶん昔になりますが、あるきっかけで檜さんに手紙を書いたことがあります。檜さんは若かった私にご丁寧にお返事をくださいました。その時、私は檜さんのお顔は戦時中の小さなお写真からしか知りませんでしたが、最近になってこのビデオで初めて檜さんの戦後のお顔を拝見しました。こんなすばらしいビデオがあったのですね。実際にビデオでお話をしている檜さんはこんなに素敵な笑顔をしている方だったのですね。このビデオを見ていると本当に檜さんの強さ、勇ましさ、優しさ、聡明さ、心の大きさや余裕が感じられます。天国にいらっしゃる檜さんのことを思うと涙が止まりませんが、このビデオを見ることができて本当に嬉しく、アップロードしてくださって本当に本当にありがとうございました。
脚重傷時、着陸を無事こなしたと回想録で供述していますが現場にいた同僚が空中から見た際、胴体着陸していたとの事です。
片足失って極限の状態でも基地にたどり着き諦めなかった精神力!終戦まで日本を守ってくれた事に感謝です。もっともっと長生きしてほしかったな、悲しい・・・
檜さん。懐かしい。ムスタングに撃墜され右足を失い、義足で再び空に戻り見敵必殺ムスタングを落としたんでしたね。エース中のエースに敬礼。かつて3型は最良の戦闘機とおっしゃられていましたね。一度お会いしてお話をもっと聞きたかった。
お亡くなりになってもう30年ですか...この様に貴重な体験を語って頂ける人も少なくなってしまいました...
義足でまた戦地に戻るってスゲェ人だよな。ちゃんと生き残ってるし。
檜さん、穏やかなご性格の方のよう。淡々としたお話、感激しました。
いやあ!なつかしいです。わたしが中学3年生で動員で行った高松近郊林陸軍飛行場の場長、飛行隊長だった檜少佐。片足が義足でしたが、隊長専用の無塗装のピカピカ隼戦闘機で、格納庫の間を抜ける超低空飛行など少年の目に焼きつきました。南方焼けで額は真っ白、顔は真っ黒でギラギラ光る眼、精悍そのものでした。この映像からはもう覗えませんね。
凄く貴重な体験ですね👍✨
流石に実戦で戦った一流パイロットの話は説得力がある。
檜閣下から20数年前に頂いたお手紙は私の宝として今も大事に持っています。心から敬愛と哀悼の念を表したいと存じます。閣下のお心をしっかり胸に抱き、生涯決して忘れません。
本当にありがとうございました、
どうか安らかに、、、
小学生の頃「つばさの血戦」を読みました。色々衝撃でした。
加藤戦闘隊長を超えてますね。生き残ったということは。
1981年だから61歳頃ですね。この10年後に亡くなられたけど、今から見ると未だ若かったんですね。
戦争に行くと寿命が10年縮む
戦後、中島飛行機から、スバル重工へ。
乗りました、営農サンバー。
また、スバルに乗ろうかの?
檜先生の証言には強く生きる勇気を頂きました。
ありがとうございました。
実際に第二次大戦を生き抜いた方の話を聞く機会が少なくなった現代では本当に貴重な映像ですね。アップありがとうございます。
ありがとう御座いました
修武台記念館に恩賜の義足が残されていますね。正にファイタースピリッツ
加藤部隊長の人柄はホントに良かったんですね
一式戦一型は美しい
第二次世界大戦中の戦闘機の中で最も美しい
戦後、何をなされていたのだろうか?少し気になります。
でも、あの大戦を生き抜いた、歴戦のパイロット、凄いです。感服いたしました。
この人64戦隊に居たのかスゲーな。
同氏の空戦記録に関しては、当時の読売新聞ビルマ特派員であった、鈴木英次氏の著作に詳細が書かれています。 それを読むと、このインタビューにおける同氏の表現が、かなり控えめであることが分かります。 当時の戦闘機パイロットが体力・気力の限界を超えて、不利な条件のもと、死力を尽くして戦っておられた様子が分かります。
有難うございました
僕は生き残った人の話も聞きたいのですが、祖国の為に亡くなった人の話がやっぱり聞きたい、、、
アメリカが本当に恐れた立派な帝国陸軍の方だ!
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64戦隊には確か穴吹曹長もいらっしゃいました
懐かしく拝見しました 檜少佐殿生前にお目に掛かれなかったのが残念です
本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。
隼がビルマあたりで活躍できたのも特有の天候も幸いしたんでしょうな。日本機は高空では性能を発揮できないが低空では強い。
雨季があって休めたとかで補給も結構うまくいったみたいですね。
負傷した話をこんなにニコニコ話せるとは・・
タフな人だったんだなあ。
鉄脚のエースパイロット檜与平氏のインタビューが有るとは....有難や!
義足になってまでパイロットでありその後教導団に配属されて後進の育成にも尽力されたというまさに「鉄人」ですね
戦争の「是非」は横に一旦置いて、体験したことを全て語って欲しい。
人が生きた、体験した、それは全て歴史の1ページ。
兵器の良し悪し、戦場の情景、その日の出来事、誰と何を話したか、いつ何についてどう思ったか
それは、どんなものであれ歴史として残すにふさわしいものだ。
この謙虚な姿勢・飾らぬ言動・・・侍だ。
生死の境を彷徨った話を笑顔で語る・・・我々とは別世界の人だ。
P51と言ったらマスタング・・・ひェ~~怖。
生の証言は、雑本100冊に勝る。
我々がこうして安穏と人生を謳歌できるのも、国の為に身を挺して
戦地に出征して下さった皆々様方のお蔭だということを、
決して忘れてはなるまい。
桧 与平氏、すごい人ですね。
こういう人を、鉄人と言うのでしょう。
敬礼!。
当時のエースパイロットは本当に国を護ってくれた。片足を失おうとも被弾で脳漿を出そうとも必ず生きて帰ってなお出陣。今の自分らが生きている世界は少なくとも一部は彼らの勇気で出来ているのだと思いました。戦時中に多くのエースパイロットが亡くなられていてもったいないと思いました。
ご苦労さまでした。ご冥福をお祈りします。
五式戦闘機は急降下性能も高高度性能も隼とは段違いだが、昇降舵のペダルが狭く義足が入らず苦労した。しかし「この五式戦闘機なら疾風ですら歯が立たない新型のムスタングにも負けない!」と言う黒江大佐の言葉が自信になったので、私は女学生の前で義足の先を削り五式戦闘機のペダルに合わせた。
と生前五式戦闘機を評してます。
TH-cam「フィリピン人が泣く神風の魂」必見😢
「永遠の0」作者、尚樹も泣いてます!
#あさ8
そうだったんですか、残念です。
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第二次世界大戦屈指のエースですよ
この本、読んだよ。
天国の空を愛機 キ43で加藤建夫 隊長と飛んでいますか?
吹き飛んだ右足で踏み込み右に旋回したと語っていますが、そこに違和感はないのだろうか? 出来ると信じていれば足が無くても歩けると言っているのと同じだ。本人もいつも出来るから出来るんだねという様な雰囲気で語っていて、不思議体験そのもの。これが精神力なのかと思った。
実際はエルロンとエレベーターの操作で右旋回したのでしょう。
■■■■■坂井さんとは話したことがあるが、この檜さんも凄い人物だね。
凄い精神力だな
飛行中に被弾 片足を失っても空中で止血
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多分私にはできません
「超人」ってこういう人のことじゃないでしょうか
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尾翼の戦隊番号(64戦隊ではなさそう)がお分かりの人は教えてもらえたら幸いです。
干戈交ゆる幾星霜。隼は熟練の職人が使う道具そのものであり、よく戦った名機であり、
村田三八銃と同じ、イブシ銀的な良さがある。
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まだ義足の製作が一般的ではなかった時代、
再びパイロットとして飛ぶまでには正に血の滲むようなリハビリを乗り越えたそうです。
ああ、日本に生まれてよかった。
そしてこれからも日本に生まれてよかったと言いたい。
言わせてくれないか。
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嗚呼、今は亡き武士の・・
本も出されてるので読んだことがある
確かこのお方は片足を失ってもなお戦い続けたお方でしたな、やはり凄いお方ですな
ご冥福をお祈りします。
加藤一二三先生みたいだ。しゃべりの傾向が同じ。素晴らしい!!五式戦も語ってほしいなーっ
ありがとうございました
自ら進んでツメの垢を飲みたいです。
気さくで気取らない様子と、サクサクとした語り口がとても知的に感じます。飛行機や戦争以外のお話も随分引き込まれてやまないものだったと思います。97戦で追撃するくだりは、やはり桿を握った人からでなければ得られない大変興味あるお話でした。本来、こういう実態を踏まえてからでないと往時の飛行機をとやかく言えないんじゃないでしょうか?世の大戦機ファンの方、お勉強なさってますか?
別件ですが、部隊長殿は部下の掌握にも優れていたが人使いが荒かったとか・・・。
貴重なお話だと思います。
侍ですね。
後世に伝えていって欲しいです。
穏やかな笑顔の陰に、どれだけの凄惨な戦闘を経験されたのだろうか・・・。隼も優秀な機体だったが、もっとはやく五式戦が配備されていたら・・・。
加藤隊長の部下、鉄脚のエース!!まだご健在なんでしょうか?
一式戦闘機は上昇力はいいのだが積んでるのが7.7mmが2基しかないから火力が足りないのが弱点でもあるんだもんなぁ
aiai zoo 1型は7.7mmと12.7mm機銃
12.7
二型から12.7mmニ門になった。
気さくな感じのひとだったんですね
義足のエース!!
嘘松だらけ
零戦より丈夫に見えるが、ガタガタな戦闘機な訳ですね。開戦を焦ったのでは?パイロットには、優秀な戦闘機に搭乗して貰って優位に闘いたかった。残念な事です。
ドイツから尊敬と挨拶!