万葉集と宇陀 第1回 柿本人麻呂と阿騎野①

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  • เผยแพร่เมื่อ 6 ก.ย. 2024
  • #宇陀市#万葉集#柿本人麻呂#阿騎野
    宇陀市内には万葉集ゆかりの場所がいくつもあります。
    古代の宇陀の情景に思いを馳せ、古代ロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。

ความคิดเห็น • 1

  • @ohoyamato
    @ohoyamato ปีที่แล้ว

    安騎野行啓歌は、持統十年春である。通説では、配列を根拠に持統六年末の作とされているが、持統六年に軽皇子は十歳(数え年、満なら九歳)である。いくら何でも皇太子でもない満九歳の軽皇子を讃える歌としては異常である。馬上の軽皇子像や絵画も九歳の子どもとしたら全く異常である。
     安騎野行啓歌は持統十一年の春の歌である。
     持統十年秋七月十日高市皇子が薨去した。このとき皇太子は誰とも決定されていなかった。懐風藻は、直後に誰を皇太子にするかで朝廷内ではおおいに紛糾したと伝える。弓削皇子は実兄長皇子を皇太子に推した。しかし、葛野王がこれを一喝して、軽皇子を皇太子に強く推したことにより、軽皇子が皇太子が決定した。しかし、軽皇子十四歳(数え年)である。軽皇子の父、草壁皇子の立太子は天武十年二月二十五日である。草壁皇子二十歳であった。このことを考えれば、すぐに軽皇子がただちに立太子というわけには行かぬ。
     立太子の記事は書紀には見られないが、年が明けて持統十一年、数え歳十五歳になった早々に立太子義を挙げたものと思われる。同時に軽皇子皇太子としたことを神武天皇に報告に、安騎野に行啓したのである。そして持統十一年八月一日、持統天皇は譲位して軽皇子(文武天皇)が即位したのである。
     宇陀市観光協会は、かぎろひを観る会を例年十二月末に開催していたが、温暖化の影響により見られないことがあるので、二月にも開催しているようである。しかし、前述の通り安騎野行啓を持統十一年早々であろう。持統十一年一月一日は西暦696年2月9日である。一月二十九日は3月8日である(keisan.casio.jp/ による)。かぎろひを見る会は、西暦の2月中に行うのが本来の姿のように思える。