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心あるお話何時も有難く拝聴させて戴いております。涙が出るものでございます。お陰様で🙇誰しも明日があるか判らない身がある。何かを伝え亡くなって逝く🙏これから(何かを残す)私と云う仏がある。何を伝え残して逝くだろうか?産まれいでて良かった嬉しい。
nous* avidya様ご視聴、コメントありがとうございます。自分自身が自分自身の人生を一心不乱に生きている。その姿が、既に仏と成る姿です。その姿は、必ず後人の糧となって行きます。必ずです。なぜなら、そうやって今の人の世の中が続いているのです。南無阿弥陀仏合掌高科修
南無阿弥陀仏
輪廻転生様南無阿弥陀仏合掌高科修
白骨の御文これを聴いただけで…生前の兄の顔を思い出します…なんでもっと、話すことができなかったのか…悔しいです本当に涙が止まりませんでした……
村上 祥様白骨の御文は、その話せなかった方との会話のお文です。声なき声!聞こえているのに聞こえない声!いえ、自らが聞こうとしない声!その声を聞くためのお文です。南無阿弥陀仏合掌高科修
再び、涙が溢れて止まりませんでした。いかに生きるか!どう生きるか?改めて、見つめる機会?の機会を頂きました。最近、雑に生きているような気がします。以前、働いていた頃、明日目が覚め無くても良い程仕事したい!と言ったら、危険思想!と言われましたが、私の真実だったのですね。今はどうか? 見つめなおして見ます!
誠一郎 冨田様ご視聴、コメントありがとうございます。今…何してる?の問いに、即答で『今! 生きている!』の返事。この言葉の前に…絶句する!何も言葉が出ない自分自身に気づく!これが浄土真宗です。これが南無阿彌陀仏です。この…今!生きている!の言葉の中に…彼女の彼女自身の『救い』があり『幸せ』があり、その生き様が『仏』と成りて、彼女のまわりの人達を『生き切る』人生へと導きます。導かれた彼女まわりの人達は、導かれることにより、そのことが、『救い』となり『幸せ』となり、その導かれた人達の、導かれた生き様が、また他の人達の導きに成っていきます。『導く者…導かれる者…』これが、南無阿彌陀仏です。これが浄土真宗なのです。南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏です。南無阿彌陀仏合掌高科修
改めて、拝聴させて頂きました。自分が生きた後、何が残るか?この問いにそぐうよう、生きて行かねば と、こころしました。同じ話しを、何度も繰り返し聞く実感致しました。ありがとうございました。
私は腑に落ちます。後生の一大事は、今生きるということですか。ありがとうございます、一番大事なことがわかりました。、大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様ご視聴、コメントありがとうございます。その今!は……先人たちの『生きた』積み重ねの上に成り立っているものです。そこに気づいての『今!を生きる』でなければ、一大事を気づいたことにはなりません。南無阿弥陀仏合掌高科修
ありがとうございます。やっと胸に落ちました。私も、シッカリ生ききって参ります。南無阿弥陀仏。🙏😭
羊うさぎ様ご視聴、コメントありがとうございます。浄土真宗の僧侶として言えることは、その時がくるまで、あきらめず、なげださず、くさらず、南無阿弥陀仏の願いの中で最後まで生ききってくださいと、切に切に願っております。南無阿弥陀仏合掌高科修
蓮如上人をはじめて知ったような気がします。白骨の御文。大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様ご視聴、コメントありがとうございます。蓮如上人を尊敬、敬い、尊ぶことと、遠い遥かな、近寄り難い偉い偉い人ととらえることはちがいます。人生に惑い、悩み、迷った『唯の人間』であります。だからこそ、私たち浄土真宗の僧侶は、蓮如上人の『言葉』に、心を揺り動かされるのです!南無阿弥陀仏合掌高科修
富山県高岡市の大源貴広です。御文で思い出したのですが、母の父の御通夜の時に疫癘の御文が拝読されまして、初七日の御経のあとの法話で私も皆さんも死ぬ日が来るのにどこか他人事にしていませんか、かく言う私もその一人ですとのご法話は今も覚えています。来年は7回忌です。お念仏を大切にして生涯を送った祖父でした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
大源貴広様ご視聴、コメントありがとうございます。「お念仏を大切にして生涯を送った祖父でした」のお孫様に当たる大源貴広様は、そのお孫様として……どう生きておられますでしょうか?どう生きようとしておられますでしょうか?どう生きるおつもりでしょうか?『私も皆さんも死ぬ日が来るのにどこか他人事にしていませんか、かく言う私もその一人ですとのご法話』は、そのことを、自分自身に問うて下さいとの法話であります。南無阿弥陀仏合掌高科修
ありがとうございました
三村勲様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
最近拝聴して差せていただいて居ます有りがたいお話いつもありがと御座います涙流しながら拝聴しておりますありがと御座います
オヤジ様ご視聴、コメントありがとうございます。オヤジ様の流すその『涙』が…オヤジ様御自身の人生を『生き切る』何らかの『糧』になりますことを、切に願っております。合掌高科修
大変良いお話でした。南無阿弥陀仏の意味が分かりました!嬉しいです。
岩倉厚子様ご視聴、コメントありがとうございます。お時間のある時に、コチラの動画もご覧ください。法話「南無阿弥陀仏」気がつけば世の中すべてが南無阿弥陀仏th-cam.com/video/YFghJVD0v-w/w-d-xo.html法話「マジヤバイ」と「南無阿弥陀仏」th-cam.com/video/rKqUR0J9z7g/w-d-xo.html南無阿彌陀仏合掌高科修
今晩タカナシさん、こないだありがといございます。
tiara Kansai様いえいえ。どう致しまして。お言葉、ありがとうございます。合掌高科修
かみさん、余命宣告三ヶ月でした乳がんでした乳がんになって、七年目だったかなぁそこそこ、ふくふくした顔だったんに信じれんだけど、本当に不思議に、宣告どおり逝きました余命は、本人には伝えていませんでしたそれが良かったのか、悪かったのか自分自身で結論は出てませんこの御文については、よく聞きました私は、なんとか定年退職しましたが、警察という職についておりまして、どんな事案にでくわすかわからんから、だから、覚悟はちゃんと持っていてねって言ってましたが、私が残ってしまいました後生の一大事よくわかりました私自身の後生、恥ずかしくないように頑張りますありがとうございました
石坂鉄哉様ご視聴、コメントありがとうございます。『人に歴史あり』とは昔から言われている言葉です。石坂鉄哉様には、石坂鉄哉様が積み重ねられた人生の時間がございます。その人生の積み重ねられた時間に、私は敬意と尊敬を感じます。石坂鉄哉様には、今!保護猫12匹がおります。亡くなれた奥様にも、また保護猫12匹にも、恥ずかしくない一生懸命な『生き様』を生きて行かなければならないと思います。私は、まさしく、石坂鉄哉様の現状に…『後生の一大事』の生き方を見せて頂いております。ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
いつも勉強になつています。
tiara Kansai様こちらこそ、毎回のご視聴とコメント、ありがとうございます。合掌高科修
高科さま、こんばんは。LINEで話をしたばかりなのにその数時間後に彼は急死しました。命が儚い、人生はいつ終わるのかわからない、私だって1分後には死ぬかもしれない。そのことを彼の急死から嫌という程学びました。彼が亡くなってから朝起きた時に起きたことに感謝し夜寝る時に一日無事に過ぎたことに感謝しています。一日一日が大切なんだよということを彼の死が教えてくれました。人生を大切に生きていくそのことがどういうことなのかあまりよくわからないけど、まわりの人を大切にしほんの小さなことでも幸せだと感じ、全てのことに感謝して生きていこうと思ってます。高科さま、いつもありがとうございます。暑い日が続いております。どうぞご自愛くださいませ。
Chiaki様「人生を大切に生きていくそのことがどういうことなのかあまりよくわからないけど…」大丈夫です。Chiaki様はすでに、自分の人生を大切に生きていく生き方を歩んでおられます。なぜなら、『私だって1分後には死ぬかもしれない』そう自覚しているからです。それは『死んでいかねばならない身(私)』という自覚であり、その自覚は『今、私は、生きている』という自覚を促します。その自覚はChiaki様に、『朝起きた時に起きたことに感謝し夜寝る時に一日無事に過ぎたことに感謝しています。一日一日が大切なんだ』と話させます。『生きている命の自覚』これこそが、人生を大切に生きるの、まず第一歩目なのです。Chiaki様は第一歩をすでに歩んでいます。そして…この一歩がすべての始まりになってまいります。現にChiaki様は、『そのことを彼の急死から嫌という程学びました』と愛する人からの学び(願い)を身にまとい…『まわりの人を大切にしほんの小さなことでも幸せだと感じ、全てのことに感謝して生きていこうと思ってます』と告白し…『暑い日が続いております。どうぞご自愛くださいませ』と自分以外の人を心配しいたわれる。そんなChiaki様に成っておいでではありませんか。人生を大切に生きるとは…私に起こる(私が出会う)すべてのことに、『当たり前でない』と気づき(毎回毎回でなくても良いのです)、その当たり前でないことから、様々なことを気づきながら生きていく(生活していく)。その『気づくこと自体』を『大切に生きる』と表現しています。Chiaki様。大丈夫です。Chiaki様。そのまま…気づきながら…歩んでいって下さい。合掌高科修
@@buddhism_japan 高科さま、暖かいお言葉ありがとうございます。
後生の一大事とは、人生を一生懸命、諦めず、丁寧に、長かろうと、短かろうと、生き抜くことですね。人生色々ありますが、自分の人生を生ききる事ですね。南無阿弥陀仏。合掌。
とびなわ様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
すごく勉強になりますたかしな先生のTH-camで御法話沢山の方に見てほしくなります素晴らしい🌻
こやまちあき様ご視聴、コメントありがとうございます。これからも、日々精進してまいります。合掌高科修
高科先生、本日も有り難うございます。白骨の御文、数ある御文の中でも、何度も読み返しては、死と生について、何を伝えようとされていたのかを思い巡らせておりました。今回の動画は、それこそ一言一句聞き漏らすまい、という思いで拝聴致しました。人生の半分以上医療現場に身を置く者として、人の最期に立ち会うのは日常であり、端から見れば、人の死に慣れていると思われることも少なくありません。しかし、気持ちの切り替えはしますが、慣れることは決してありません。生まれたからには死んでゆかねばなりません。現在の医療では、何をもって死とするか?も問われるものではありますが、「死を忌み嫌うもの」ととらえる傾向が強く、悲しみ、虚しさ、苦しみだけに囚われ、「その人の生き様」について思いを馳せることが出来ないことが、悲しいです。一般の方が、人の死にあう機会は、そう多くないと思います。その限られたご縁の中で、遺された者達が、どう生きるか?生き抜いていかねばならないかを共に考え、グリーフケアに携わるのも、看護師の大きな役割ともいえましょう。限りある命に携わる者として、精進せねばと感じています。南無阿弥陀仏
ちゃんぴー様一言一句聞き漏らすまいとご視聴頂きありがとうございます。今回の動画は…まだまだ話し足りないのです。「人の死と生を無常と綴った文」または「浄土に生まれることを一番大事と綴った文」そして「念仏もうせと、ただ南無阿彌陀仏をすすめる文」との誤った「受け取り方」を払拭したく撮影いたしました。故に…『白骨のお文』その綴られた文(ふみ)の一言一句を深く掘り下げてお話しが出来ておりません。深くお話しをすれば、一部しか話せず…全体をお話しをすれば、深く話せず…あらためて自分自身の「話す力」の未熟さを痛感いたしておる動画となってしまいました。ただ…死を『みとる』とは、その死する人の『生きる』を『みる』ことに気づいていくこと。大切な愛する人のお骨を拾う私は、その手にしたお骨を前に、あらためて自分の生きるを問うて生きていくことに気づくこと。そして、願いの中で生きている私が、次は私が願いになるのだという生き方に気づいていくこと。その『気づき』こそが、遺された私たちの今日を生きる力になっていく。そのことが、後生の一大事の一文を含む『白骨のお文』が私たちに伝えたかったことである。動画の主旨をそうご理解頂ければ幸いです。合掌高科修
親鸞聖人、浄土真宗を勉強してきて何故生きるのかを考える時絶対の幸せになる事だと知りました。ところが後生の一大事を解決する事が絶対の幸せになる事であるなら生まれてこなければ後生の心配は要らないわけでおかしな考えだなと思ってしまいました。それで考えて考えてふっと分かったのは、弥陀の本願を心の底から信じた時に不思議この上ない幸せにさせていただく事があるのではないかと。それがために生まれてくるのではないかと、そういう考えに至りました。後生の一大事の解決だけではないのですよ。何か、相対の幸せではなく絶対の幸せがあるのだろうとおもいます。
清 熊川様清 熊川様が何を信じ、どのように生きるのかは清 熊川様の自由でございます。しかしながら、このコメントの内容に関しては浄土真宗真宗大谷派の僧侶として申し上げなければならない事がございます。浄土真宗真宗大谷派の61歳の現役の僧侶が申します。浄土真宗。親鸞聖人の説かれました教えには『絶対の幸福』などという教えは一ミリもございません。お釈迦様の説かれた教えにも『絶対の幸福』などという教えは一ミリもございません。さらに…親鸞聖人の教え、お釈迦様の教えを引き合いにだすまでもなく、…常識的に考えても、幸福に絶対は有り得ません。もう一度申します。浄土真宗真宗大谷派の61歳の現役の僧侶の答えでございます。どうぞコチラの動画をご覧ください。法話『浄土真宗に「絶対の幸福」は、無い!』th-cam.com/video/Z6aFgqQ9pi0/w-d-xo.html法話『しあわせ』はなるものではなく感じるものth-cam.com/video/qmsMQQzcm-Q/w-d-xo.html合掌高科修
高科様いつもありがとうございます。私も「後生の一大事」を勘違いしているところもありました。改めて死にゆく人からの大切な問いかけを教えていただきました。当時は娘達も子供でしたが、私の父(じい)の骨、母(ばあ)の骨も一緒に拾いました。明日死んでゆくかもしれない身を感じ、今を如何に生きてゆくのかを娘と共に考えられたと思います。本堂の阿弥陀様の前に座った時、「おまえは本当に生きているのか?どう生きているのか?」と問いかけていられるような感覚を得られた気がしました。難渡海の大船を目指して必至に泳ぐだけです。合掌
しろくま様私たちは、まず大前提として、『娑婆』と呼ばれる仏教用語…『思い通りにならない世界』を生きております。その思い通りにならない世界に産まれ生き死んでいかねばなりません。幼子から成長し、青年をへて大人になり老年へと生きてまいります。その生きる年月の積み重ねの中で、悩み苦しみ、楽しみ喜び、愛し愛され慈しみ、怒り怒られ、憎み憎まれ、生きて行きます。この生きていく世界を親鸞聖人は海に例え、その海を生きる姿を『難渡海』という言葉を使い表しました。『難渡海の大船』…これは難渡海を渡る船に乗る。そういう船が何処かにある。という意味ではありません。『大船を目指して必至に泳ぐだけです』と決意し告白しそう生きている『その生き方』…『必至に泳いでいる、しろくま様の姿・心情』が、『難渡海の大船に乗っている』ということです。『「おまえは本当に生きているのか?どう生きているのか?」と問いかけていられるような感覚を得られた気がしました』と感じ『明日死んでゆくかもしれない身を感じ、今を如何に生きてゆくのかを娘と共に考えられたと思います』と感じそう感じ、生きていく、生活していく、この姿を、心構えを、親鸞聖人は『難渡海の大船』という比喩を用いて表現したのです。どうぞ、しろくま様。泳ぎ続けて下さい。泳ぎ続けるあいだ、しろくま様は『難渡海の大船』に乗り続けているのですから…『難渡海の大船』とは『難渡海の大船』という生き方のことです。大船に乗るとは、『難渡海の大船』という生き方をしているということを意味しています。追伸『難渡海の大船』も『後生の一大事』と同様に、世の中では大きく間違って解釈をされています。このことについても、動画を撮影しようと思っています。配信の際は、是非ご視聴下さいませ。合掌高科修
何がともあれおぼうさんの便法とおっしゃられた方へ少し違和感覚えました。素直に お説法そのままをお取り受けなさると もっとふかいところできっとガテンがいきますわ //目に見えぬものの中にこそ真・見えたり宝物の発見に歓喜するもこれまた真なり 未熟者なりて生意気申しあげすまぬ 神仏の無償の愛を信じて❤努める全ての僧侶に感謝m(__)m申し上げます。間違いなく私には届かぬ浄化人として 生きる知恵求めると応え下さる有難きかなありがとうございますm(__)m
山形孝子様ご視聴、コメントありがとうございます。私ども浄土真宗の僧侶は、誰一人浄化人ではありません。浄化人では…浄土真宗の僧侶たる意味がありません。さらに…浄土真宗の僧侶は、生きる知恵求めると答えてくださる有難き者でもありません。先達が仏と成りて娑婆に遺された私たちに、気づけと教えてくれている『気づき』に気づきに、その気づきを『宗』として生きている、その自分の生き様を、お話ししているにすぎません。浄土真宗の僧侶は、決して『偉い者』ではありません。合掌高科修
視聴してすぐにコメントが書けませんでした。考えさせられました・・・。3回視聴して、やっとコメントすることが出来ました。それほど深い法話と感じました。「生きている」の言葉の重みを改めて噛みしめました。残り少なくなった人生ですが、自分に「生ききったね!」と言えるように歩いてみます。南無阿弥陀仏
とし爺様熟思黙想して頂き感謝しております。熟思黙想して頂くことが、この動画での私の願いです。今回の動画は… 『ねえ、何してる?今 生きている、……… 』この言葉を前に…あなたは…これがすべてです。誰もが一度は『絶句』するのです。この『絶句する私』が『キモ』です。絶句後…『私も生きている』と言える『私』だろうか?この問いが、浄土真宗の説く教えを軸として生きていく真宗的生き方の始まりの一歩と言えます。この問いが、すべての始まりです。生きるとは、死を意識すること。死を意識するとは、生を意識すること。さすれば、死を『みとる』とは、その死する人の『生きる』を『みる』ことに他ならないと私が気づいていくこと。大切な愛する人のお骨を拾う私は、その手にしたお骨を前に、あらためて自分の生きるを問うて生きていくことに気づくこと。そして、願いの中で生きている私が、次は私が願いになるのだという生き方に気づいていくこと。その『気づき』こそが、遺された私たちの今日を生きる力になっていきます。とし爺様。熟思黙想して気づかれました『自分に「生ききったね!」と言えるように歩いてみます』の決意が、とし爺様の中に『生まれる』…そのことが『後生の一大事』という言葉で蓮如上人が表した真宗的人間の生き方です。先人の生と死から学び、次は私も願いに成っていくのだと思える生き方であります。合掌高科修
こんにちわ 初めまして 和尚様 私はどうして私だけこんなに辛いことばかり合わせてきるんだろと思って居ました でも全部わたしのやらなければならない勉強 経験なのだと分かることが出来たのは今更の70にならなければ分からなかった ようやくです
裕子 関口様ご視聴、コメントありがとうございます。80歳を越えた年長者のご婦人に…どんな顔に成りたいですか?とアンケートを取った結果があります。3位オードリーヘップバーン2位吉永小百合では…1位は… 『自分の顔』だそうです。長年苦楽をともにしてきた顔。その苦楽から出来上がった顔。この顔が私だから…これが最も多かった理由でした。『この!顔が!良い!』裕子 関口様のコメントに、深い裕子 関口様の生きる時間の積み重ねを感じさせて頂きました。人の生きるの深さを感じさせて頂き、ありがとうございます。合掌高科修
お話ありがとうございます。つい、死ぬことから目を逸らします、ズーッと生きていられると勘違いしてる自分を思い知らされます。白骨の御文を聞き、生きる事を考えさせられました。フィクションですが、彼女が余命一年と言われ、まだ時間が有ると思い告白が遅れた男の子が、あと一年有ると甘えていた事に嘆くシーンを思い出していました(「君の膵臓が食べたい」より)「ご用心、ご用心」一休禅師
A・シキミ様嘆き…絶望…ハッキリとした未来は。しっかりとした決意は。毅然とした覚悟は。正しき絶望からしか生まれてきません。正しき絶望とは…言い訳もせず、誰のせいにもせず、ただただ己の力の無さ、思慮の足り無さを思い知るということです。思い知ることによって初めて、自分自身に何が必要なのかを問うことが出来るのですから。正しき絶望は必要不可欠なものです。死ななければならないという…どうすることも出来ない道理。その道理に、正しき絶望があればこその、『今を生きる』なのです。南無阿彌陀仏。合掌高科修
諸行無常かな?しかし、ある日の思い伝えます。赤白、残ります。血は、黒く染まり、骨は、白くなります。
宮城均様『今、何してる』『今、生きている』この花嫁の一言を聞いての宮城均様のコメントであると、ご推察をさせて頂きます。宮城均様の「ある日の思い」を、わざわざお知らせ頂きありがとうございます。合掌高科修
私達は考え違えに気がつかなければなりませんね。
シュークリーム様ご視聴、コメントありがとうございます。誰もが…自分の人生では…『主人公』です。では…私は、どのような『主人公』なのでしょうか…『人生を生きる』『人生を生き切る』とは、この自分への、絶え間のない問いかです。南無阿彌陀仏合掌高科修
大変有難うございました。生まれて76年なりますが、今日ほど為になった事はありませんでした。 喉につかえた物がスート取れた思いで拝聴致しました。「後生の一大事」など生意気な勘違いしていました。 浄土真宗大谷派はもっと大々的にこの部分を衆人にPRすると「葬式仏教」などの嫌がらせが解けるのではないでしょうか? ありがとうございました。
井上好様ご視聴、コメントありがとうございます。『今!生きている!』この花嫁の言葉が全てです。この言葉の前に立ち尽くす『私』が全てです。そこに…私は…その言葉を発する花嫁の目を…真っ直ぐに見つめることが出来る『私』であるのか!その花嫁が死しても…その花嫁の『生き様』の前に…『私』は胸を張って立っていられる『私』であるのか!『後生の一大事』は『私』のことなのです。そう、まさに、後生の一大事です!合掌高科修
@@buddhism_japan 返信ありがとうございました。高科様に目を通してもらっただけでありがたいです。
先生、すみません。途中から 涙が止まらず動画閉じました。(余命、1ヶ月の花嫁)の ねえ、何してる?今 生きている、………落ち着いて又 拝見致します。
あか様ご視聴、コメントありがとうございます。 『ねえ、何してる?今 生きている、……… 』この言葉を前に…『私も生きている』と言える『私』だろうか?この問いを、自分自身に問いかながら生きていく。この問いを、自分自身で考えながら生きていく。それが大切であるという動画です。A.なぜ?あか様は涙するのか?B.なぜ?動画(余命1ヶ月の花嫁)の話を見れないのか?C.なぜ?動画を閉じてしまったのか?あか様自身が A.B.C.を深く自分自身に問いかけたなら、先に述べたこの動画の主旨が、真に腑に落ちて頂けると思います。合掌高科修
@@buddhism_japan はい、ありがとうございます。もう1度 心して お話に戻ってみます。感謝。
気の毒な花嫁さんこれからの人生が終わりになる、なぜこの人に短命になったのか悲しすぎます。これからの未来が無いなんて、抗がん剤も虚しい。
松下佐和子様ご視聴、コメントありがとうございます。この花嫁の一生を『かわいそう』と受け取るなら…この花嫁の一生は無駄になってしまいます。この花嫁の『今!生きている!』の言葉を受け止めるなら…この花嫁の一生は『素晴らしい一生を送った人生』となっていきます。そして『今!生きている!』の言葉を受け止めた『私』の人生もまた…悔いの無い人生となっていける『きっかけ』を頂いたことになっていきます。この動画は、そう言う趣旨の動画であります。ご理解を頂けたら幸いです。合掌高科修
@@buddhism_japan はいコメントの返事m(_ _)m御座いました。よく理解しました。🙏😊
今晩タカナシさん、こないだありがとうございました。
tiara Kansai様こちらこそ、お役に立てたようで、なりよりです。合掌高科修
ちゃんと教えて?西田均byeジンナマ
ジンナマ様何を教えてなのか、わかりかねます。南無阿弥陀仏合掌高科修
いつも以上に、前後半の大きな内容ですね。同じ真宗でも、高田派の私にとっては、前半「白骨の御文」は、始めて聞きました。その印象を折角なので記述させて頂きます。A:聞く古文である故、理解度はせいぜい1割。残ったのは、死の様子、悲しき単語だけ。その印象が強すぎるため、最後の1文は、もう、全く耳に入ってませんでした。(視覚が無いので最終行との認識も不可能)B:読む目で追えた今回、理解度は3割に上昇です。ただ、漢字が理解度を助けてはくれましたが、単語そのものも意味が分からないのです。C:調べる動画を停め、Wikipediaの白骨(御文)の、「意訳」で、ようやく文意を理解でした。更に高科様の説明で理解度を上げました。(編集者様、赤線の補足、Good Job!)私はABCの3段階で理解が進みましたが、Aだけ何度経験しても、理解は困難でしょう。真宗の心を持ってなければ、男性の様に「なぜ今、この御文を聞かされるんだよ」が当たり前、ただ辛い状況、傷口に塩、です。正に劇薬。薬の苦みだけ味わされた状況かな。他宗派の人が、友人の葬儀で聞かされたら、ただただ、辛い時間だと想像します。誰でもAの1割は分かってしまうのですから。意味の取り違え、発生して当然ですね。 鈴木@新潟 50歳.
ここから個人としてのカキコミです。逆に...真宗の心を持ち、最終行を理解できれば、本当に生きる力になる力強い文ですね。相手によって諸刃の剣になる白骨の御文。それでも拝読する御坊様の覚悟に脱帽です。呪って死んでく人、恨んで死んでく人、でもその心情の根底には、(↓)があると。「呪い嫌わない世の中であって欲しい」さすれば、その生き様にも、気づきがある。この真宗的解釈に、感銘と納得でした。法話「供養する心とは?」2021/12/10配信このコメントにて、 >故人との人間関係が悪い方が >真宗は腑に落ちる、何故だと思う? との問いを私は受け、「回答」してました。その「解答」が少しばかり見えてきました。まだ少しなので自分の言葉で書けませんが。私の名は、常生。父に聞いた名付けの意味は、 (i) :常に生きる (ii):常に新しいモノを生み出せiは、当たり前すぎて気にしてなかったので、iiの意味を大きく捉えておりました。(工学部の研究者として誇れるモノでした)いやいや、(i)が大前提だったのですね。我が名に恥じぬよう、心していくだけです。 常生@長岡 50歳P.S.やはり動画だと、一時停止した上で、辞書引きやネット検索が可能になるため、圧倒的に理解度が上げられます!.
202 BEAM様『意味の取り違え、発生して当然ですね』この一文につきます。読む方も聞く方も、この一文の危険をはらんでいるのです。だからこそ、私たち僧侶は日々研鑽、精進を怠ってはいけないのです。『これでよい』は永久に訪れません。永久に訪れないからこそ、伝わることを受け取り、次に伝えて行かなければならないのです。永久に続く『伝灯』…その伝灯の中で、私よりずっとずっとわかりやすく伝え説く人が現れるのを期待しながら、今、自分に出来る精一杯のことを成していく。この生き方しかないのです。ある意味『研究』を繋げ受け継いでいくことと同じことかと……今回の動画は… 『ねえ、何してる?今 生きている、……… 』この言葉を前に…あなたは…これがすべてです。誰もが一度は『絶句』するのです。この『絶句する私』が『キモ』です。絶句後…『私も生きている』と言える『私』だろうか?この問いが、浄土真宗の説く教えを軸として生きていく真宗的生き方の始まりの一歩と言えます。この問いが、すべての始まりです。生きるとは、死を意識すること。死を意識するとは、生を意識すること。さすれば、死を『みとる』とは、その死する人の『生きる』を『みる』こと。生きるを『みる』とは、その生き様から、すべてを学ぶこと。そのすべてを学ぶときに、真宗的解釈で学んでいく。真宗的解釈とは、物事の『本質』に『気づく力』とも言えます。この気づく力は、日々気づこうと生きていれば、自然と身について行きます。ただ…この…日々が…常に生きる…合掌高科修
返信、ありがとうございます。>読む方も聞く方も、この一文の危険を>はらんでいるのです。危険をはらんだ上で、もう何百年も生き続けている文章なのですよね。その事実を深く受け止めたいと思います。もちろん、この御文に限らず。それにしても...まさしく「絶句」でした。>私よりずっとずっとわかりやすく>伝え説く人が現れるのを期待しながら、>今、自分に出来る精一杯のことを成していく。この言葉、とても共感でした。教員として、改めて、同じ覚悟です。まだ幼い研究室の学生達、指南が必要です。学問・研究はもちろん、何より人として。指南役の9割は私。まさに私しか居ない。彼らの将来の土台を作る責任は甚大です。>生きるとは、死を意識すること。>死を意識するとは、生を意識すること。昨年は言葉の意味すら分かりませんでした。今は何となく想像がつくようになりました。きっと、真宗の思想が深まるにつれ、言葉の意味も、深まってくんだろうな、と。焦らず、少しずつ、でも確実に、歩みます。模索していくウチに、変わっていけるはず、根拠も無いのに、何となく思っています。自分に期待と楽しみですね。きっと近く、自分がバージョンアップしていけるかと。今秋、法名を頂き、仏様を迎える... 今は時間を掛けて、その準備と覚悟を、自身に問い直している段階だと感じてます。 鈴木@新潟 50歳P.S.最後の段落の4行、ありがとうございます。新たに(iii)として、頂戴します!!名付けの父が、私以上に喜んでるかと。.
そのように書く発想自体が全く理解出来ない。
>そのように私の文章の? 高科様の文章?さらには、どの部分を指してるの?不明点が多いため、何も申し上げることが出来ません。.
心あるお話何時も有難く拝聴させて戴いております。涙が出るものでございます。お陰様で🙇誰しも明日があるか判らない身がある。何かを伝え亡くなって逝く🙏これから(何かを残す)私と云う仏がある。何を伝え残して逝くだろうか?産まれいでて良かった嬉しい。
nous* avidya様
ご視聴、コメントありがとうございます。
自分自身が自分自身の人生を一心不乱に生きている。
その姿が、既に仏と成る姿です。
その姿は、必ず後人の糧となって行きます。
必ずです。
なぜなら、そうやって今の人の世の中が続いているのです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
南無阿弥陀仏
輪廻転生様
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
白骨の御文
これを聴いただけで…
生前の兄の顔を思い出します…
なんでもっと、話すことができなかったのか…
悔しいです
本当に涙が止まりませんでした……
村上 祥様
白骨の御文は、その話せなかった方との会話のお文です。
声なき声!
聞こえているのに聞こえない声!
いえ、自らが聞こうとしない声!
その声を聞くためのお文です。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
再び、涙が溢れて止まりませんでした。
いかに生きるか!どう生きるか?
改めて、見つめる機会?の機会を頂きました。
最近、雑に生きているような気がします。
以前、働いていた頃、明日目が覚め無くても良い程仕事したい!
と言ったら、危険思想!と言われましたが、私の真実だったのですね。
今はどうか? 見つめなおして見ます!
誠一郎 冨田様
ご視聴、コメントありがとうございます。
今…何してる?
の問いに、
即答で
『今! 生きている!』
の返事。
この言葉の前に…
絶句する!
何も言葉が出ない自分自身に気づく!
これが浄土真宗です。
これが南無阿彌陀仏です。
この…
今!生きている!
の言葉の中に…
彼女の彼女自身の『救い』があり『幸せ』があり、その生き様が『仏』と成りて、彼女のまわりの人達を『生き切る』人生へと導きます。
導かれた彼女まわりの人達は、導かれることにより、そのことが、『救い』となり『幸せ』となり、その導かれた人達の、導かれた生き様が、また他の人達の導きに成っていきます。
『導く者…導かれる者…』
これが、南無阿彌陀仏です。
これが浄土真宗なのです。
南無気づけ
阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏です。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
改めて、拝聴させて頂きました。
自分が生きた後、何が残るか?
この問いにそぐうよう、生きて行かねば と、こころしました。
同じ話しを、何度も繰り返し聞く
実感致しました。
ありがとうございました。
私は腑に落ちます。後生の一大事は、今生きるということですか。ありがとうございます、一番大事なことがわかりました。、大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様
ご視聴、コメントありがとうございます。
その今!は……
先人たちの『生きた』積み重ねの上に成り立っているものです。
そこに気づいての『今!を生きる』でなければ、
一大事を気づいたことにはなりません。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます。やっと胸に落ちました。私も、シッカリ生ききって参ります。南無阿弥陀仏。🙏😭
羊うさぎ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
浄土真宗の僧侶として言えることは、
その時がくるまで、あきらめず、なげださず、くさらず、南無阿弥陀仏の願いの中で最後まで生ききってくださいと、切に切に願っております。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
蓮如上人をはじめて知ったような気がします。白骨の御文。大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様
ご視聴、コメントありがとうございます。
蓮如上人を尊敬、敬い、尊ぶことと、遠い遥かな、近寄り難い偉い偉い人ととらえることはちがいます。
人生に惑い、悩み、迷った『唯の人間』であります。
だからこそ、私たち浄土真宗の僧侶は、蓮如上人の『言葉』に、心を揺り動かされるのです!
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
富山県高岡市の大源貴広です。御文で思い出したのですが、母の父の御通夜の時に疫癘の御文が拝読されまして、初七日の御経のあとの法話で私も皆さんも死ぬ日が来るのにどこか他人事にしていませんか、かく言う私もその一人ですとのご法話は今も覚えています。来年は7回忌です。お念仏を大切にして生涯を送った祖父でした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
大源貴広様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「お念仏を大切にして生涯を送った祖父でした」
のお孫様に当たる大源貴広様は、そのお孫様として……
どう生きておられますでしょうか?
どう生きようとしておられますでしょうか?
どう生きるおつもりでしょうか?
『私も皆さんも死ぬ日が来るのにどこか他人事にしていませんか、かく言う私もその一人ですとのご法話』は、そのことを、自分自身に問うて下さいとの法話であります。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ありがとうございました
三村勲様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
最近拝聴して差せていただいて居ます
有りがたいお話いつもありがと御座います
涙流しながら拝聴しております
ありがと御座います
オヤジ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
オヤジ様の流す
その『涙』が…
オヤジ様御自身の人生を『生き切る』
何らかの『糧』になりますことを、切に願っております。
合掌
高科修
大変良いお話でした。南無阿弥陀仏の意味が分かりました!嬉しいです。
岩倉厚子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
お時間のある時に、コチラの動画もご覧ください。
法話「南無阿弥陀仏」気がつけば世の中すべてが南無阿弥陀仏
th-cam.com/video/YFghJVD0v-w/w-d-xo.html
法話「マジヤバイ」と「南無阿弥陀仏」
th-cam.com/video/rKqUR0J9z7g/w-d-xo.html
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
今晩タカナシさん、こないだありがといございます。
tiara Kansai様
いえいえ。
どう致しまして。
お言葉、ありがとうございます。
合掌
高科修
かみさん、余命宣告三ヶ月でした
乳がんでした
乳がんになって、七年目だったかなぁ
そこそこ、ふくふくした顔だったんに
信じれんだけど、本当に不思議に、宣告どおり逝きました
余命は、本人には伝えていませんでした
それが良かったのか、悪かったのか自分自身で結論は出てません
この御文については、よく聞きました
私は、なんとか定年退職しましたが、警察という職についておりまして、どんな事案にでくわすかわからんから、だから、覚悟はちゃんと持っていてねって言ってましたが、私が残ってしまいました
後生の一大事
よくわかりました
私自身の後生、恥ずかしくないように頑張ります
ありがとうございました
石坂鉄哉様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『人に歴史あり』
とは昔から言われている言葉です。
石坂鉄哉様には、石坂鉄哉様が積み重ねられた人生の時間がございます。
その人生の積み重ねられた時間に、私は敬意と尊敬を感じます。
石坂鉄哉様には、
今!保護猫12匹がおります。
亡くなれた奥様にも、また保護猫12匹にも、恥ずかしくない一生懸命な『生き様』を生きて行かなければならないと思います。
私は、まさしく、石坂鉄哉様の現状に…
『後生の一大事』の生き方を見せて頂いております。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
いつも勉強になつています。
tiara Kansai様
こちらこそ、毎回のご視聴とコメント、ありがとうございます。
合掌
高科修
高科さま、こんばんは。LINEで話をしたばかりなのにその数時間後に彼は急死しました。命が儚い、人生はいつ終わるのかわからない、私だって1分後には死ぬかもしれない。そのことを彼の急死から嫌という程学びました。彼が亡くなってから朝起きた時に起きたことに感謝し夜寝る時に一日無事に過ぎたことに感謝しています。一日一日が大切なんだよということを彼の死が教えてくれました。人生を大切に生きていくそのことがどういうことなのかあまりよくわからないけど、まわりの人を大切にしほんの小さなことでも幸せだと感じ、全てのことに感謝して生きていこうと思ってます。高科さま、いつもありがとうございます。
暑い日が続いております。どうぞご自愛くださいませ。
Chiaki様
「人生を大切に生きていくそのことがどういうことなのかあまりよくわからないけど…」
大丈夫です。
Chiaki様はすでに、自分の人生を大切に生きていく生き方を歩んでおられます。
なぜなら、
『私だって1分後には死ぬかもしれない』
そう自覚しているからです。
それは『死んでいかねばならない身(私)』という自覚であり、その自覚は『今、私は、生きている』という自覚を促します。
その自覚はChiaki様に、
『朝起きた時に起きたことに感謝し夜寝る時に一日無事に過ぎたことに感謝しています。一日一日が大切なんだ』
と話させます。
『生きている命の自覚』
これこそが、人生を大切に生きるの、まず第一歩目なのです。
Chiaki様は第一歩をすでに歩んでいます。
そして…
この一歩がすべての始まりになってまいります。
現にChiaki様は、
『そのことを彼の急死から嫌という程学びました』
と愛する人からの学び(願い)を身にまとい…
『まわりの人を大切にしほんの小さなことでも幸せだと感じ、全てのことに感謝して生きていこうと思ってます』
と告白し…
『暑い日が続いております。どうぞご自愛くださいませ』
と自分以外の人を心配しいたわれる。
そんなChiaki様に成っておいでではありませんか。
人生を大切に生きるとは…
私に起こる(私が出会う)すべてのことに、『当たり前でない』と気づき(毎回毎回でなくても良いのです)、その当たり前でないことから、様々なことを気づきながら生きていく(生活していく)。
その『気づくこと自体』を『大切に生きる』と表現しています。
Chiaki様。
大丈夫です。
Chiaki様。
そのまま…気づきながら…歩んでいって下さい。
合掌
高科修
@@buddhism_japan 高科さま、暖かいお言葉ありがとうございます。
後生の一大事とは、人生を一生懸命、諦めず、丁寧に、長かろうと、短かろうと、生き抜くことですね。人生色々ありますが、自分の人生を生ききる事ですね。南無阿弥陀仏。合掌。
とびなわ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
すごく
勉強になります
たかしな先生の
TH-camで御法話
沢山の方に見てほしくなります
素晴らしい🌻
こやまちあき様
ご視聴、コメントありがとうございます。
これからも、日々精進してまいります。
合掌
高科修
高科先生、本日も有り難うございます。
白骨の御文、数ある御文の中でも、何度も読み返しては、死と生について、何を伝えようとされていたのかを思い巡らせておりました。
今回の動画は、それこそ一言一句聞き漏らすまい、という思いで拝聴致しました。
人生の半分以上医療現場に身を置く者として、人の最期に立ち会うのは日常であり、端から見れば、人の死に慣れていると思われることも少なくありません。
しかし、気持ちの切り替えはしますが、慣れることは決してありません。
生まれたからには死んでゆかねばなりません。
現在の医療では、何をもって死とするか?も問われるものではありますが、「死を忌み嫌うもの」ととらえる傾向が強く、悲しみ、虚しさ、苦しみだけに囚われ、「その人の生き様」について思いを馳せることが出来ないことが、悲しいです。
一般の方が、人の死にあう機会は、そう多くないと思います。
その限られたご縁の中で、遺された者達が、どう生きるか?生き抜いていかねばならないかを共に考え、グリーフケアに携わるのも、看護師の大きな役割ともいえましょう。
限りある命に携わる者として、精進せねばと感じています。
南無阿弥陀仏
ちゃんぴー様
一言一句聞き漏らすまいとご視聴頂きありがとうございます。
今回の動画は…
まだまだ話し足りないのです。
「人の死と生を無常と綴った文」
または
「浄土に生まれることを一番大事と綴った文」
そして
「念仏もうせと、ただ南無阿彌陀仏をすすめる文」
との誤った「受け取り方」を払拭したく撮影いたしました。
故に…
『白骨のお文』
その綴られた文(ふみ)の一言一句を深く掘り下げてお話しが出来ておりません。
深くお話しをすれば、一部しか話せず…
全体をお話しをすれば、深く話せず…
あらためて自分自身の「話す力」の未熟さを痛感いたしておる動画となってしまいました。
ただ…
死を『みとる』とは、その死する人の『生きる』を『みる』ことに気づいていくこと。
大切な愛する人のお骨を拾う私は、その手にしたお骨を前に、あらためて自分の生きるを問うて生きていくことに気づくこと。
そして、願いの中で生きている私が、次は私が願いになるのだという生き方に気づいていくこと。
その『気づき』こそが、遺された私たちの今日を生きる力になっていく。
そのことが、後生の一大事の一文を含む『白骨のお文』が私たちに伝えたかったことである。
動画の主旨をそうご理解頂ければ幸いです。
合掌
高科修
親鸞聖人、浄土真宗を勉強してきて何故生きるのかを考える時絶対の幸せになる事だと知りました。ところが後生の一大事を解決する事が絶対の幸せになる事であるなら生まれてこなければ後生の心配は要らないわけでおかしな考えだなと思ってしまいました。それで考えて考えてふっと分かったのは、弥陀の本願を心の底から信じた時に不思議この上ない幸せにさせていただく事があるのではないかと。それがために生まれてくるのではないかと、そういう考えに至りました。後生の一大事の解決だけではないのですよ。何か、相対の幸せではなく絶対の幸せがあるのだろうとおもいます。
清 熊川様
清 熊川様が何を信じ、どのように生きるのかは清 熊川様の自由でございます。
しかしながら、このコメントの内容に関しては浄土真宗真宗大谷派の僧侶として申し上げなければならない事がございます。
浄土真宗真宗大谷派の61歳の現役の僧侶が申します。
浄土真宗。
親鸞聖人の説かれました教えには『絶対の幸福』などという教えは一ミリもございません。
お釈迦様の説かれた教えにも『絶対の幸福』などという教えは一ミリもございません。
さらに…
親鸞聖人の教え、
お釈迦様の教えを
引き合いにだすまでもなく、…
常識的に考えても、幸福に絶対は有り得ません。
もう一度申します。
浄土真宗真宗大谷派の61歳の現役の僧侶の答えでございます。
どうぞコチラの動画をご覧ください。
法話『浄土真宗に「絶対の幸福」は、無い!』
th-cam.com/video/Z6aFgqQ9pi0/w-d-xo.html
法話『しあわせ』はなるものではなく感じるもの
th-cam.com/video/qmsMQQzcm-Q/w-d-xo.html
合掌
高科修
高科様
いつもありがとうございます。
私も「後生の一大事」を勘違いしているところもありました。
改めて死にゆく人からの大切な問いかけを教えていただきました。
当時は娘達も子供でしたが、私の父(じい)の骨、母(ばあ)の骨も一緒に拾いました。
明日死んでゆくかもしれない身を感じ、今を如何に生きてゆくのかを娘と共に考えられたと思います。
本堂の阿弥陀様の前に座った時、「おまえは本当に生きているのか?どう生きているのか?」と
問いかけていられるような感覚を得られた気がしました。
難渡海の大船を目指して必至に泳ぐだけです。
合掌
しろくま様
私たちは、まず大前提として、『娑婆』と呼ばれる仏教用語…『思い通りにならない世界』を生きております。
その思い通りにならない世界に産まれ生き死んでいかねばなりません。
幼子から成長し、青年をへて大人になり老年へと生きてまいります。
その生きる年月の積み重ねの中で、悩み苦しみ、楽しみ喜び、愛し愛され慈しみ、怒り怒られ、憎み憎まれ、生きて行きます。
この生きていく世界を親鸞聖人は海に例え、その海を生きる姿を『難渡海』という言葉を使い表しました。
『難渡海の大船』…
これは難渡海を渡る船に乗る。
そういう船が何処かにある。という意味ではありません。
『大船を目指して必至に泳ぐだけです』と決意し告白しそう生きている『その生き方』…『必至に泳いでいる、しろくま様の姿・心情』が、『難渡海の大船に乗っている』ということです。
『「おまえは本当に生きているのか?どう生きているのか?」と問いかけていられるような感覚を得られた気がしました』
と感じ
『明日死んでゆくかもしれない身を感じ、今を如何に生きてゆくのかを娘と共に考えられたと思います』
と感じ
そう感じ、生きていく、生活していく、この姿を、心構えを、親鸞聖人は『難渡海の大船』という比喩を用いて表現したのです。
どうぞ、しろくま様。
泳ぎ続けて下さい。
泳ぎ続けるあいだ、しろくま様は『難渡海の大船』に乗り続けているのですから…
『難渡海の大船』とは
『難渡海の大船』という生き方のことです。
大船に乗るとは、『難渡海の大船』という生き方をしているということを意味しています。
追伸
『難渡海の大船』も
『後生の一大事』と同様に、世の中では大きく間違って解釈をされています。
このことについても、動画を撮影しようと思っています。
配信の際は、是非ご視聴下さいませ。
合掌
高科修
何がともあれおぼうさんの便法とおっしゃられた方へ少し違和感覚えました。素直に お説法そのままをお取り受けなさると もっとふかいところできっとガテンがいきますわ //目に見えぬものの中にこそ真・見えたり宝物の発見に歓喜するもこれまた真なり 未熟者なりて生意気申しあげすまぬ 神仏の無償の愛を信じて❤努める全ての僧侶に感謝m(__)m申し上げます。間違いなく私には届かぬ浄化人として 生きる知恵求めると応え下さる有難きかなありがとうございますm(__)m
山形孝子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
私ども浄土真宗の僧侶は、誰一人浄化人ではありません。
浄化人では…
浄土真宗の僧侶たる意味がありません。
さらに…
浄土真宗の僧侶は、生きる知恵求めると答えてくださる有難き者でもありません。
先達が仏と成りて娑婆に遺された私たちに、気づけと教えてくれている『気づき』に気づきに、その気づきを『宗』として生きている、その自分の生き様を、お話ししているにすぎません。
浄土真宗の僧侶は、決して『偉い者』ではありません。
合掌
高科修
視聴してすぐにコメントが書けませんでした。
考えさせられました・・・。
3回視聴して、やっとコメントすることが出来ました。
それほど深い法話と感じました。
「生きている」の言葉の重みを改めて噛みしめました。
残り少なくなった人生ですが、自分に「生ききったね!」と言えるように歩いてみます。
南無阿弥陀仏
とし爺様
熟思黙想して頂き感謝しております。
熟思黙想して頂くことが、この動画での私の願いです。
今回の動画は…
『ねえ、何してる?
今 生きている、……… 』
この言葉を前に…
あなたは…
これがすべてです。
誰もが一度は『絶句』するのです。
この『絶句する私』が『キモ』です。
絶句後…
『私も生きている』
と言える『私』だろうか?
この問いが、浄土真宗の説く教えを軸として生きていく真宗的生き方の始まりの一歩と言えます。
この問いが、すべての始まりです。
生きるとは、死を意識すること。
死を意識するとは、生を意識すること。
さすれば、死を『みとる』とは、その死する人の『生きる』を『みる』ことに他ならないと私が気づいていくこと。
大切な愛する人のお骨を拾う私は、その手にしたお骨を前に、あらためて自分の生きるを問うて生きていくことに気づくこと。
そして、願いの中で生きている私が、次は私が願いになるのだという生き方に気づいていくこと。
その『気づき』こそが、遺された私たちの今日を生きる力になっていきます。
とし爺様。
熟思黙想して気づかれました『自分に「生ききったね!」と言えるように歩いてみます』の決意が、とし爺様の中に『生まれる』…そのことが『後生の一大事』という言葉で蓮如上人が表した真宗的人間の生き方です。
先人の生と死から学び、次は私も願いに成っていくのだと思える生き方であります。
合掌
高科修
こんにちわ 初めまして 和尚様 私はどうして私だけこんなに辛いことばかり合わせてきるんだろと思って居ました でも全部わたしのやらなければならない勉強 経験なのだと分かることが出来たのは今更の70にならなければ分からなかった ようやくです
裕子 関口様
ご視聴、コメントありがとうございます。
80歳を越えた年長者のご婦人に…
どんな顔に成りたいですか?とアンケートを取った結果があります。
3位オードリーヘップバーン
2位吉永小百合
では…1位は…
『自分の顔』
だそうです。
長年苦楽をともにしてきた顔。
その苦楽から出来上がった顔。
この顔が私だから…
これが最も多かった理由でした。
『この!顔が!良い!』
裕子 関口様のコメントに、深い裕子 関口様の生きる時間の積み重ねを感じさせて頂きました。
人の生きるの深さを感じさせて頂き、ありがとうございます。
合掌
高科修
お話ありがとうございます。つい、死ぬことから目を逸らします、ズーッと生きていられると勘違いしてる自分を思い知らされます。白骨の御文を聞き、生きる事を考えさせられました。
フィクションですが、彼女が余命一年と言われ、まだ時間が有ると思い告白が遅れた男の子が、あと一年有ると甘えていた事に嘆くシーンを思い出していました(「君の膵臓が食べたい」より)
「ご用心、ご用心」一休禅師
A・シキミ様
嘆き…
絶望…
ハッキリとした未来は。
しっかりとした決意は。
毅然とした覚悟は。
正しき絶望からしか生まれてきません。
正しき絶望とは…
言い訳もせず、誰のせいにもせず、ただただ己の力の無さ、思慮の足り無さを思い知るということです。
思い知ることによって初めて、自分自身に何が必要なのかを問うことが出来るのですから。
正しき絶望は必要不可欠なものです。
死ななければならないという…どうすることも出来ない道理。
その道理に、正しき絶望があればこその、『今を生きる』なのです。
南無阿彌陀仏。
合掌
高科修
諸行無常かな?しかし、ある日の思い伝えます。赤白、残ります。血は、黒く染まり、骨は、白くなります。
宮城均様
『今、何してる』
『今、生きている』
この花嫁の一言を聞いての宮城均様のコメントであると、ご推察をさせて頂きます。
宮城均様の「ある日の思い」を、わざわざお知らせ頂きありがとうございます。
合掌
高科修
私達は考え違えに気がつかなければなりませんね。
シュークリーム様
ご視聴、コメントありがとうございます。
誰もが…
自分の人生では…
『主人公』です。
では…
私は、どのような『主人公』なのでしょうか…
『人生を生きる』
『人生を生き切る』
とは、この自分への、絶え間のない問いかです。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
大変有難うございました。生まれて76年なりますが、今日ほど為になった事はありませんでした。 喉につかえた物がスート取れた思いで拝聴致しました。「後生の一大事」など生意気な勘違いしていました。 浄土真宗大谷派はもっと大々的にこの部分を衆人にPRすると「葬式仏教」などの嫌がらせが解けるのではないでしょうか? ありがとうございました。
井上好様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『今!生きている!』
この花嫁の言葉が全てです。
この言葉の前に立ち尽くす『私』が全てです。
そこに…
私は…
その言葉を発する花嫁の目を…
真っ直ぐに見つめることが出来る『私』であるのか!
その花嫁が死しても…
その花嫁の『生き様』の前に…
『私』は胸を張って立っていられる『私』であるのか!
『後生の一大事』は『私』のことなのです。
そう、まさに、後生の一大事です!
合掌
高科修
@@buddhism_japan 返信ありがとうございました。高科様に目を通してもらっただけでありがたいです。
先生、すみません。途中から 涙が止まらず動画閉じました。(余命、1ヶ月の花嫁)の ねえ、何してる?
今 生きている、………
落ち着いて又 拝見致します。
あか様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『ねえ、何してる?
今 生きている、……… 』
この言葉を前に…
『私も生きている』
と言える『私』だろうか?
この問いを、自分自身に問いかながら生きていく。
この問いを、自分自身で考えながら生きていく。
それが大切であるという動画です。
A.なぜ?
あか様は涙するのか?
B.なぜ?
動画(余命1ヶ月の花嫁)の話を見れないのか?
C.なぜ?
動画を閉じてしまったのか?
あか様自身が A.B.C.を深く自分自身に問いかけたなら、先に述べたこの動画の主旨が、真に腑に落ちて頂けると思います。
合掌
高科修
@@buddhism_japan
はい、ありがとうございます。もう1度 心して お話に戻ってみます。
感謝。
気の毒な花嫁さんこれからの人生が終わりになる、なぜこの人に短命になったのか悲しすぎます。これからの未来が
無いなんて、
抗がん剤も虚しい。
松下佐和子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
この花嫁の一生を『かわいそう』と受け取るなら…
この花嫁の一生は無駄になってしまいます。
この花嫁の『今!生きている!』の言葉を受け止めるなら…
この花嫁の一生は『素晴らしい一生を送った人生』となっていきます。
そして『今!生きている!』の言葉を受け止めた『私』の人生もまた…
悔いの無い人生となっていける『きっかけ』を頂いたことになっていきます。
この動画は、そう言う趣旨の動画であります。
ご理解を頂けたら幸いです。
合掌
高科修
@@buddhism_japan
はいコメントの返事m(_ _)m御座いました。よく理解しました。🙏😊
今晩タカナシさん、こないだありがとうございました。
tiara Kansai様
こちらこそ、お役に立てたようで、なりよりです。
合掌
高科修
ちゃんと教えて?西田均byeジンナマ
ジンナマ様
何を教えてなのか、わかりかねます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
いつも以上に、前後半の大きな内容ですね。
同じ真宗でも、高田派の私にとっては、
前半「白骨の御文」は、始めて聞きました。
その印象を折角なので記述させて頂きます。
A:聞く
古文である故、理解度はせいぜい1割。
残ったのは、死の様子、悲しき単語だけ。
その印象が強すぎるため、最後の1文は、
もう、全く耳に入ってませんでした。
(視覚が無いので最終行との認識も不可能)
B:読む
目で追えた今回、理解度は3割に上昇です。
ただ、漢字が理解度を助けてはくれましたが、
単語そのものも意味が分からないのです。
C:調べる
動画を停め、Wikipediaの白骨(御文)の、
「意訳」で、ようやく文意を理解でした。
更に高科様の説明で理解度を上げました。
(編集者様、赤線の補足、Good Job!)
私はABCの3段階で理解が進みましたが、
Aだけ何度経験しても、理解は困難でしょう。
真宗の心を持ってなければ、男性の様に
「なぜ今、この御文を聞かされるんだよ」
が当たり前、ただ辛い状況、傷口に塩、です。
正に劇薬。薬の苦みだけ味わされた状況かな。
他宗派の人が、友人の葬儀で聞かされたら、
ただただ、辛い時間だと想像します。
誰でもAの1割は分かってしまうのですから。
意味の取り違え、発生して当然ですね。
鈴木@新潟 50歳
.
ここから個人としてのカキコミです。
逆に...
真宗の心を持ち、最終行を理解できれば、
本当に生きる力になる力強い文ですね。
相手によって諸刃の剣になる白骨の御文。
それでも拝読する御坊様の覚悟に脱帽です。
呪って死んでく人、恨んで死んでく人、
でもその心情の根底には、(↓)があると。
「呪い嫌わない世の中であって欲しい」
さすれば、その生き様にも、気づきがある。
この真宗的解釈に、感銘と納得でした。
法話「供養する心とは?」2021/12/10配信
このコメントにて、
>故人との人間関係が悪い方が
>真宗は腑に落ちる、何故だと思う?
との問いを私は受け、「回答」してました。
その「解答」が少しばかり見えてきました。
まだ少しなので自分の言葉で書けませんが。
私の名は、常生。父に聞いた名付けの意味は、
(i) :常に生きる
(ii):常に新しいモノを生み出せ
iは、当たり前すぎて気にしてなかったので、
iiの意味を大きく捉えておりました。
(工学部の研究者として誇れるモノでした)
いやいや、(i)が大前提だったのですね。
我が名に恥じぬよう、心していくだけです。
常生@長岡 50歳
P.S.
やはり動画だと、一時停止した上で、
辞書引きやネット検索が可能になるため、
圧倒的に理解度が上げられます!
.
202 BEAM様
『意味の取り違え、発生して当然ですね』
この一文につきます。
読む方も聞く方も、この一文の危険をはらんでいるのです。
だからこそ、私たち僧侶は日々研鑽、精進を怠ってはいけないのです。
『これでよい』は永久に訪れません。
永久に訪れないからこそ、伝わることを受け取り、次に伝えて行かなければならないのです。
永久に続く『伝灯』…その伝灯の中で、私よりずっとずっとわかりやすく伝え説く人が現れるのを期待しながら、今、自分に出来る精一杯のことを成していく。
この生き方しかないのです。
ある意味『研究』を繋げ受け継いでいくことと同じことかと……
今回の動画は…
『ねえ、何してる?
今 生きている、……… 』
この言葉を前に…
あなたは…
これがすべてです。
誰もが一度は『絶句』するのです。
この『絶句する私』が『キモ』です。
絶句後…
『私も生きている』
と言える『私』だろうか?
この問いが、浄土真宗の説く教えを軸として生きていく真宗的生き方の始まりの一歩と言えます。
この問いが、すべての始まりです。
生きるとは、死を意識すること。
死を意識するとは、生を意識すること。
さすれば、死を『みとる』とは、その死する人の『生きる』を『みる』こと。
生きるを『みる』とは、その生き様から、すべてを学ぶこと。
そのすべてを学ぶときに、真宗的解釈で学んでいく。
真宗的解釈とは、物事の『本質』に『気づく力』とも言えます。
この気づく力は、日々気づこうと生きていれば、自然と身について行きます。
ただ…
この…
日々が…
常に生きる…
合掌
高科修
返信、ありがとうございます。
>読む方も聞く方も、この一文の危険を
>はらんでいるのです。
危険をはらんだ上で、もう何百年も
生き続けている文章なのですよね。
その事実を深く受け止めたいと思います。
もちろん、この御文に限らず。
それにしても...まさしく「絶句」でした。
>私よりずっとずっとわかりやすく
>伝え説く人が現れるのを期待しながら、
>今、自分に出来る精一杯のことを成していく。
この言葉、とても共感でした。
教員として、改めて、同じ覚悟です。
まだ幼い研究室の学生達、指南が必要です。
学問・研究はもちろん、何より人として。
指南役の9割は私。まさに私しか居ない。
彼らの将来の土台を作る責任は甚大です。
>生きるとは、死を意識すること。
>死を意識するとは、生を意識すること。
昨年は言葉の意味すら分かりませんでした。
今は何となく想像がつくようになりました。
きっと、真宗の思想が深まるにつれ、
言葉の意味も、深まってくんだろうな、と。
焦らず、少しずつ、でも確実に、歩みます。
模索していくウチに、変わっていけるはず、
根拠も無いのに、何となく思っています。
自分に期待と楽しみですね。きっと近く、
自分がバージョンアップしていけるかと。
今秋、法名を頂き、仏様を迎える...
今は時間を掛けて、その準備と覚悟を、
自身に問い直している段階だと感じてます。
鈴木@新潟 50歳
P.S.
最後の段落の4行、ありがとうございます。
新たに(iii)として、頂戴します!!
名付けの父が、私以上に喜んでるかと。
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そのように書く発想自体が全く理解出来ない。
>そのように
私の文章の? 高科様の文章?
さらには、どの部分を指してるの?
不明点が多いため、何も申し上げることが出来ません。
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