ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
山田五郎さんの組織力、経歴、なにより学芸員としての博学がなければ著作権が残ってる絵画を(おそらく複雑な契約事項を乗り越えて、)期間限定とはいえ解説を配信できなかったと思うと、彼こそ唯一無二のyoutuber
ある昼下がりに公園でボーッとしてたとき、幼少期から見慣れている景色のはずなのに、日差しとか緑がすごく眩しく新しい物に感じられて、この日差しも揺れる緑もそれを見ている自分自身も、過去にも未来にもない今しかない、全てが刹那的に感じられたことがあります。この絵の夕暮れの日差しにも、その時のような刹那が感じられるような気がします
美術の教科書で見た「通りの神秘と憂鬱」の印象が頭を離れず、以来気になる作家になりました。子供の頃にいろいろな素晴らしいものに触れるきっかけは大切ですね。
仕事に疲れた日、毎日使ってる駅のホームに立って電車を待ってると、ホーム越しに見えるビルや看板全てが初めて見るもののようになることがあります。
😂🎉😂😂🎉🎉
めっちゃ分かります!田舎の駅とかでも感じる
@Tmtyk_travelingaloneそれは本当に初めて見るんじゃなくて…?笑
未視感 "jamais vu”
20代の頃に経験あります!
私もその感覚によくなります!景色が動いてるのに止まってるような、人がいるのに自分しかいないような感覚です。ゲシュタルト崩壊にすごく近いと感じてたので、同じ感覚の人がいて嬉しい。
てんかん発作の症状として、dejavu(デジャヴュ:既視感):「前にもどこかで一度これと同じものを見たような気がする」がありますが、jamais vu(ジャメヴュ:未視感):「何度も経験したことのある事柄を、まるで見慣れないもののように感じてしまう」があります。他にも離人感や周囲から孤立する感覚てのもあります。デ・キリコがのそれがてんかんかどうかは置いておいて、脳の機能として潜在的にそういうものがあるのは面白いことで、芸術に昇華するのですね。
「それが、戦後教育の悪いところ」・・・面白いです。五郎さんが、生き生きと、楽しそうに語ってくれるのが、うれしい。
50代半ば過ぎです。40年以上前の子供の頃、キリコの「通りの神秘と憂鬱」に何故か吸い込まれるような感覚を覚え、以来好きなアーティストです。そしてある時私の大好きなルパン3世の(確か映画版)に数秒その作品が出現し、 やたら感激した瞬間も覚えています。非常に大人びたませた子供でした。動画の中でおっしゃられていた「不思議な感覚」は子供時代の方が持っていたと思います。だからこそデ・キリコに惹かれたんだと今納得です。そして「答えは無い」というか自分で生み出すという概念は大人になって企業研修事にインストラクターとして発信してきました。色々デ・キリコに惹かれる理由が見えてきたそんな動画でした。配信ありがとうございます。海外在住者につき展覧会に行けず本当に残念です(涙)
めちゃくちゃ展示良かった。高校の時から彼の絵にハマって20年近くたちやっとこんなに大規模な展示を開いてくれてありがとう。本当に良かった
子供の頃、ずーっと景色を眺めていると、見ているもの以外がぼやけ、意識や視覚の遠近感、時間感覚が狂い、一人取り残されたような気分になったことをこの動画で思い出しました😂 そして、子供の時岩手県立美術館のデ・キリコ展で見た絵に惹かれたのは、この感覚が共鳴した部分があったからなのかも知れない、と新たな発見でした!この動画を見なかったら一生思い出さなかった感覚かも知れません…!🥲🙏
私も小学生の頃に同じ経験があります。
五郎さんがおっしゃってることがめちゃくちゃよくわかって、自分の中でその現象を「ゲシュタルト崩壊」と勝手に定義していましたが、五郎さんの口から ゲシュタルト崩壊 という言葉が出てきて「それーーーー!!」と鳥肌立ちました!!🤩✨
デ・キリコ展、神戸で見に行きます。今日、京都ロームシアターの山田五郎さんと村上隆さんの対談講演会に行かせて頂きました。情熱のある熱いお話で目が覚める思いがしました。ありがとうございました!
20:33 たまにテレビで芸能人を見てて「この人こんな人やったっけ」みたいな統合された概念が分解されてまったく新しい人に見えることがあるけど似たようなもんかなぁ。無意味だからこそ解釈は無限っていうのは心に刺さったなぁ。
逆にこの感覚って持っていいんだと安心できましたね
無意味=あらゆる解釈が可能という言葉が刺さりました作品を見るのがより楽しくなりそうです!
見慣れている景色のはずなのに、ふとこんな景色だったっけ?と思うことがたまにあります。普段背景の一部としてしっかり見ていなかったものを、じっと見てみたときに起こる気がします。なんだか別次元に来た感覚になります!
買い物の帰りなんかに近所の公園で考え事してると、ハッと気づいた瞬間「あれ、ドコに居るんだっけ?」って感覚になる時がありますね。しばらく周りの風景が知らない場所のように思えて、でも少しすると「あー、あの公園に居たんだ」って気づいて元の感覚に戻ります。また、外国を一人で旅行してるような、そんな寂しさも感じたりします。
「答えちゃったら終わり」「意味が分からないからこそどんな解釈も可能」ってお話を聞いて、言葉にすると答えが逃げていく感じがちょっと禅問答みたいだなと思いました。
答えても大して変わらないこともありますけどね。
@@itsumo-gomen変わりがないというよりは 大差がないという意味です。
神戸で見てきました。五郎さんの解説で予習して行ったおかげで、より楽しめました。照明が少し暗めで良かったです。
キリコの絵は子供の頃に見て異世界に迷い込んだような瞬間と感じていたが納得できました😊
10年以上前のある日、自宅のダイニングで珈琲を飲もうとした時のことです。突然、見えている世界が静けさに包まれました。いつものカップ、いつものコーヒー。眼前にあるのは見慣れたものなのに、カップはカップの意味がなく、珈琲は珈琲の意味がなくなって、ただそれそのものがある、という感覚でした。物に張り付いている言葉が消えたみたいな感じでした。言葉が一切合切消え去って、物そのものだけの世界というのでしょうか。言葉のない世界の体験を言葉で説明するのは無理がありますが、強いて言えば「意味が張り付く以前の物」に触れている、みたいな感覚です。その後もしばらくは何度か同じ体験をしましたが、最近はすっかり忘れていました。この動画で思い出したのでコメントいたします。私が包まれた静けさは、物音がしないというよりは、音が消えた感じ。言葉が存在しない感じです。無意味というのは、意義がないのではなく、意味以前の「物そのものがある」感じです。例えば、目の前のカップは、カップと名付けられたいつものそれではなく、「ただそれがある」感じでカップと呼ぶよりずっと奥深い何か、みたいな。書けば書くほどうまく表現できないもどかしさが募ります。長文、失礼いたしました。
そのように見よう、認識しようとしても難しいものですが‥意図せずしてそのプラグマティックな境地に達すると混乱しそうですね
@@fools-ascension 確かに、意図的にそうしようと試みても難しいものですね。プラグマティックな境地かどうかはわかりませんがw、「なんだ、これは???」という混乱は少しはありました。私の場合、その体験は短時間だし、しばしばというわけでもないので、忘れていたのですが「ある秋の午後の謎」の山田さんの解説、ニーチェの話等々がめちゃくちゃリアルに迫ってきて、とてもおもしろく、いろいろと納得し、スッキリしました。デ・キリコの「ある秋の午後の謎」が大好きな絵だったので、なおさらでした。
フランスの作家サルトルの小説「嘔吐」の主人公が、マロニエの木を眺めている時、上辺だけの見た目が剥ぎ取られて存在そのものを実感する瞬間が描写されているのですが、なんかその状態ににているような気がしますね。もっともその主人公は吐き気も同時に感じているのですが…。
@@TheHidesan サルトルの「嘔吐」、全く知らなかったのですが少し調べてみると・・・サルトルによる当初のタイトルは「メランコリア」だったようですね。(そこになんだかつながりが見えそうな気も・・・。)「マロニエ・・・」の箇所に興味を惹かれましたので、読んでみようかと思います。
いつも思います。ウリタニさんって、山田さんのお話を聞く相手としてめちゃくちゃ優秀。
その感覚 自分もあります。言葉で説明しようとすればするほど言いたいことからどんどん乖離していく。説明すればするほど、どんどんズレていく感じがします。自分の場合は、あえて言葉にすれば「世界に自分しかいなくなって、聴覚が消えて、視覚だけが疾走する、限りなく透明で、世界から肉体と質量が消滅して意識だけになったような極めて自由な感覚」かも知れません。そして、ふと気か着くと乾いた孤独感に浸っている、そんな感じかも知れません。オートバイで走っていると、時々なります。
無意味とはどんな解釈も自由ってめちゃくちゃポジティブだと思いました。デ・キリコとニーチェのイメージが変わりました。
街角を輪回しをしながら駆け抜けていく少女の影を描いた作品が一番好きだ。
子供の頃、キリコの「通りの神秘と憂鬱」を絵画集で見て吸い込まれました。何か気分が良くなりました。
『小さい秋みつけた』的な、夢中で遊んでいた子供が、ふと、何気ない街並みや、そこにあるものが別の物のように感じる状態なのかな‥と思いましたデキリコの絵の中には、生命の存在があるような、ないような、恐怖も感じられるときがあります
@@alicestp6762 デ・キリコの絵に恐怖を感じることは、私は経験として全くないですね。
ゲシュタルト崩壊… しょっちゅうはないですが、「これ、見えてるの、いま自分しかいないんじゃないか」と感じた記憶はぼんやりあります。どこか世の中と切り離されてるような感じ。
中学の教科書で見てずっと記憶に残っているのが「通りの神秘と憂愁」です。恐怖の記憶として刺さっていると思う。回顧展絶対行きたい。
わかります。学生の頃 深夜のコンビニで一人バイトしてた時すごく明るい店内と 整然と並べられた食品 ジーーーとなる電灯の音あの時 ああもう世界は終わって私はこの無機質な真夜中のコンビニエンスでひとりなんだなって無性に切なくなったのを思い出しました・・・・
意味が無いってことはどんな解釈も可能性も受け入れてくれるってことそれって昨今の『生産性』という言葉や『役に立たないものは存在してはいけない』みたいな価値観からの解放であり、救いなんじゃないかと思います
機械論的な効率性で人や営みを計る風潮が強くなる程、その囚われから自由にしてくれる異物性は重要なのかもしれませんね
キリコ大好きなんです!!ムッチャクチャ楽しみにしていた企画ですのでですからこちらの配信も本当に嬉しい!!絶対にあるのではないかと信じていました!
子供の頃から、よくある感覚です。ふっと、私はこんなところで何やってるんだろう? 何でこんなところ(人間界?)にまた来ちゃったんだろう? この世界、この人たちはなんなんだろう? って言葉がいつも浮かびます。この世界でひとりぼっちな孤独な感覚と、この世界に拘束されていない自由な感覚の両方があります。
神戸のやつ、見に行った!
「無意味=無限の可能性」これ、印象的でした。
ずっとやってほしかったアーティストを特集してくれて本当に嬉しいです。ありがとうございます。
🎉😂😂😂😂❤🎉🎉🎉
すごくわかりやすいです。世界に付された記号が崩壊するとき浮かび上がる世界があるんですね。言葉より先に、意味づけするより先に垣間見える何か。。
アポリネールの傷の予知は凄いですね!時空とは何かと考えさせられます。単に売れる絵画を扱っている場合じゃないですよね。いま見えるものに囚われていては事物の本質が見えてこないぞという警告かも知れないですね。
自分の経験で言うと、これまで最もゲシュタルト崩壊を引き起こしやすかったのが "を” ですwほんとにもー、この字見てるとすぐ「・・・なんじゃこりゃ?」ってなります。
いつも大変面白く拝見しています。さて、デ・キリコの形而上的体験に近い体験、私にもあります。ハワイ旅行中、ノースショアの海岸でキラキラ光る水面をキレイだなーと眺めていたら、いつの間にか、ここはどこで、いつで、私が何をしているのかが分からなくなり、私とキラキラ光る水面以外「無」の状態に。で、次の瞬間ハッと我に返って、今のはなんだったんだろうと。覚醒しながら意識を失ったような不思議な体験でした。また、そこまでではないものの、国立西洋美術館の1階の中庭を見ていると、その無機質で静謐な世界に入り込んで、周囲の環境や喧騒が消えてしまうような感覚になります。
ちょうど今日デ・キリコ展行ってきました!私も同じ感覚にとらわれることがあります。今の自分が別次元の誰かであるような、さっきまで見ていた映画の世界に自分が入り込んでしまっているような、外の窓から自分の人生を第三者として見ているような、そんな変な感覚…。離人症なのかなと思ってて、私はおかしくなってしまったんだと思っていたので、今日作品を見て共感してしまいました。この独特な感覚もひとつの感性だと思うことにします!
山田さんの仰るその感覚、分かるような気がします。わたしが海外旅行に行く理由はそれに近い感覚を味わうためです。今眺めている主観を第三者として俯瞰しつつも、五感が敏感になる。理屈としては矛盾していると言えなくもないですが、そんな感覚です。同じものでしょうか?自分がそんな風に東南アジアの裏路地にいた時、小汚く痩せていて、目が綺麗な野良犬が歩いてきました。何の気なしにその犬と目を合わせた瞬間、突然その犬が抱いていた哀しみのような感情の津波が自分の心の中に流れ込んでくるのを感じました。もしわたしが芸術家ならば、啓示として受け取ってもおかしくない程の忘れられない強い体験でした。その日から、私は犬にも人間と同じか、それ以上の感受性が備わっている事を確信しています。
ありがとうございます!
セロニアスモンクのミステリオーソがキリコの絵のジャケットで音楽とピッタリで若い頃に良く聴きました。
本日、行ってきました。年代によってアプローチやアレンジが変わっていたのが印象的で、個人的にはよく知られているマネキンなどの形而上的なアプローチより、ルノワールを真似た画風と銅像の作品が印象的でした。こちらの動画で予習させていただき、心ゆくまで展示を楽しめました。ありがとうございます。
19:17 イタリアの地方の中世みたいな都市アスコリ・ピッチェーノの真っ白な石の街路の白昼は、まさにキリコ的でした。ボローニャのアーチのファッサードが連なる街並みもキリコ風ですね。ちなみに形而上という言葉は易経の繋辞伝からです。今回1910年代の作品もあるようで、ますますいきたくなりました。
この回の五郎さんも、色合いがとても綺麗で好み💖
私が好きなのは「ヘクトルとアンドロマケ」ですね。シュールレアリズム展でポストカードを買いました。
よくわかる感覚です〜 学生の頃にキリコの絵で、自分の持つその感覚を肯定された様で嬉しかった思い出があります。日本にもその感覚を詩にした作家がいますね。萩原朔太郎の「猫町」という詩がその感覚を描いています〜。キリコの絵には、人間の本能的な恐怖が封じ込められている気がします。感性の画家って思ってます。
キリコ、不思議な感じの絵が大好きでした。是非、観に行きます
五郎さんの解説は 絵の背景を多方面から解説してくださるから 展覧会では わかりやすく 意味深いものになるでしょうね。行きたいなぁ。
わーーー❣️ 続きがあるのですね💓楽しみです♪♪♪
いつも素晴らしい解説をありがとうございます。今回の動画で「意味の崩壊」→ なんとなく寂しくて悲しい雰囲気 という文脈があったと思います。一方、ニーチェもデ・キリコも「意味がないからこその無限の可能性」を感じていたとも伺って、その上で絵を思い返せば孤独を超えた先の希望、みたいな感じもしてきました。バックグラウンドが多国籍だからこそ辿り着いた、この「意味の崩壊」は現代にすごく密接に関わるし、この先一体新たな世界秩序がボーンと現れるのかそれとも、モヤモヤとした時代がしばらく続くのか?とか考えました。自分はこういった絵画の先に出てきたメディアアートとかも興味あって、いつか五郎さんがもしご興味あれば、そういった流れにどんな解釈だったり思いを抱かれているのかも聞きたいです。
フライヤーを見て、是非行きたいと思っていた展示です!行く前に予習ができてありがたいです。
この動画に気づくのが遅かった… 😢 もう、とっくに、東京は終わっとる。 しゅっぱいでおじゃるぅ~~~
まだ10代ですが毎日ゲシュタルト崩壊しています、軽度の解離の可能性も無きにしも非ず😂ぼーっとしていると意識が目の奥に行くというか、そうすると世界から切り離された気分を味わえます。勘違いされそうなのですが、決してスピリチュアルな話をしているのではなくてあくまで私個人の主観的な感覚です。そういうときに芸術的なインスピレーションをもらえる感覚もかなり共感できて面白かったです。ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」しか読んだことがありませんが、たしかに今回紹介された作品の秋の寂寞とした感覚がニーチェの言っていることと似ているような?もう一回読み直そうと思います、長いけど...😬これは自論でしかないのですが、人生を無意味に感じるためには先ずぼーっとして世界から隔離された感覚になる必要があるのではないのでしょうか。寂寞はその第一歩というか。あの秋の作品はそういった「生に肯定的なニヒリズム」に至るための初期段階に私を引き戻す、あるいはニヒリズムに人々を引き摺り込む力があると思います。初期段階のあの感覚は好きでないです、鬱っぽくなる🥱
平成生まれですが、答えがないことにむしろ自由を感じて救われます!😂
この絵に答えはない!という五郎さんに、答えはなくても思わせぶりだ!といったウリタニさんの一言に、その通りだなと思いました😂
あとゲシュタルト崩壊のくだりは、まさにシュルレアリスム。。。とか思ってしまいました。
キリコといえば影。少女と車輪の影、彫像の影、聳え立つ塔の影、黄昏の神秘感に魅入られた画家なのかなって思います。マネキンも人の影ともいえるし、アリアドネは迷宮の引きこもり陰影でもって世界の謎を際立たせる形而上絵画ですね。
怖いからその感覚を増大しない方法を子供の時見つけましたなぁ。この感覚が始まるタイミングがだんだんわかる様になって①走る(スピードを出す)②頭の中で人を探す(近しい人との思い出を繰り返す)、で打ち消けせます。ワタシは笑。ビューティフル・ドリーマですよねー
20:37 酔ってるとき根源的な疑問ばっかり考えてしまう。「立ってる状態ってなんだ?斜めってなんだ?このモニターと壁の直線はなんなんだ?」という感じになります。視界も情報は全部入ってるけど、認識の仕方が変わる時がある
世界一好きなジョルジュ・デ・キリコ!!幼少期に見た昼間の遊戯に衝撃を受けてずーーっと好きです。解説ありがとうございます
小さい頃、ゲームのICOのパッケージに採用されていて一目惚れしたことを思い出しました。放課後誰もいない校舎みたいなノスタルジアと寂寥感、ちょっとの不安感が好きで…「僕の手を離さない、僕の魂ごと離してしまう気がするから」のキャッチコピーと抜群に合ってたなぁ訂正: クリエイターの上田さんがキリコに影響されて描いた絵でした
デ・キリコの絵は中学校か高校の美術の教科書で見たのが初めてで、強烈な印象が残っています。あの独特の荒廃感はなんなんだろうかとずっとモヤモヤしていたのですがその感覚を言語化してくれて、ああこの感覚はそれだったのかという思いと、自分以外にもそういう感覚を持ってる人がいたんだという思いを抱きました。東京都美術館で展示するというのはまさにこの動画で知ったので早速チケット購入しました。今から楽しみです。
大好きな画家です。学生の頃、影響受けまくりで似たような絵を描いてました。十年前、浜松市立美術館でキリコ展ありましたよ。観に行きました。
その感覚、めちゃめちゃわかります!孤独も感じる時もありますし、自分は誰で今何してるんだ?どこにいる?自分は何なんだ!?みたいな感覚が急に来る時あります。でも、誰かにこの事を言ってもあまり共感を得られなかったんですが、五郎さんがこの事を話してる時は、首がもげるんじゃないかってくらい頷きながら、あるある!って言って聴いてました!
自分の休みと美術館の休みがかぶっててつらい😂
心の渇望は有給とってでも行きたいですね♪♪
五郎さんの今日のいでたち、色合いが素敵
デキリコ展、前売り買ってあります。楽しみです。
やはり我らが巨匠アンリ·ルソーは後続の画家に与えた影響は巨匠にふさわしいですね🎉
世界に1人だけになるような感覚すごく分かりますwwよくあるw仕事で市内のビジネスホテルで止まって朝早く街に出てバス待ちとかでボーッとしてると時とか地元の神社に参拝に行った時に神木見てボーッとした時とか人の居ない電車でボーッとしてる時とかw
キリコさん、中学校だったかな美術教科書で一番好きな画家でした。キリコの絵は夕方、とくに逢魔が時をイメージさせます。東京都立美術館に必ず行きます!
7月4日行きました!
夜中、ぼーっと風呂に入っている時、ふと自分の手を見て、妙な形だな〜何だこりゃと訳分からん感じになる事があります。腕や足もしみじみ眺めて何じゃコレ感にしばらく浸ってから、これが人間・自分の形と散らかった感覚を丸めてからあがって寝ます。奇妙ですがふと浮き上がってはまた戻る感が面白いです。
ベックリン風キリコ、😮マグリットの感じに近いですね。マグリット好きなので、若いキリコ、ベックリン、その前の人と、三枚並べた画面はとても良い感じでした。その後の色も影も濃いダリ的キリコも良いですが。輪回しの影子が好きですが。謎を解かない楽しみは、自分の混沌を許して好きなように遊ばせてくれる安心感があります。
教科書で見てとても印象に残っていた画家だったので解説嬉しいです!!
光に照らされた場を見ると脳が停止してただ視覚から入る流れる風景を眺めてることあります。微妙な光りの加減が眩しいなかで移ろいだり、視野端にぼやける蝶の羽ばたきや子供たちのかけ遊ぶ陰や叫声が停まった脳裏に流動的になだれこんできても、視野はただただ光る何かから一切目を離さず、一種懐古的な心持ちになっている。見ているものは光る白い壁だったり、鮮やかな黄緑の葉枝だったり。目を奪われているのでしょうね。脳内シナプスが光りの刺激で他の似た記憶を呼び覚ます瞬間かもしれないし、クロノスタシス的に時間停止したなかを、体だけが浮世から分離して浮遊している、または現から切り離されて存在している感覚。そのときは自身は見ている光る対象と分子レベルで同化しているのかもしれない。自身も光りの中にあり、太陽光無くば色さえ判然といない宇宙分子が集まるなかで、ヒトや物資の別を超えて、ひとつになった感覚というか、過去ほど若く、若さは生まれる前の死に近い宇宙無垢の状態ですから、より光りを直に感じて生きていた子供時代の記憶と結びついて、脳内と視野は光のなかで懐古を感じて停止して、昔の無垢に帰ることを望み、魂レベルに太古帰りをしたがってるのかもしれないです。太陽は長年地球を照らしてきましたが、水に記憶力があること同様、太陽が照らし出す分子にも太古からの記憶が染み込んでいるのではないかと思うと、ヒトや生物が、光るものを見て懐古的になるのは必然、と思います。感受性が豊かな証拠なのだと思います。私の場合は、ですが…。
単に退屈とかすかな居心地の悪さを感じてその時間の過ぎ行くのを眺めているだけかもしれないですけどね✨抽象的なご意見ありがとうございます。愉しませて頂きました。
@@ykohrt880 逆ですね。キラキラ光るものへの希望の懐かしさです。私は常に脳内多動で様々な考えが止まらないので。行きたい場へ行き好きな場にいるので、居心地も良い時間の合間に見る現象です。
@@薄紫に染まるなるほど。素晴らしいですね。よく理解出来ました。どんな風に感受性が豊かであるか言語化されています😊
時として心から感動する場合は確かにありますね✨あなたとは違った感覚ですが。私の場合は、そう頻繁にはありません。
@@ykohrt880 生き方と見てきたものは皆が違うからこそ楽しいことので、880さんの感覚は私には新しく新鮮に思いました。人により、880さんのおっしゃる退屈や、はたまた寂しさに美しさを感じる人もいれば、焦燥に逆にドキドキ胸踊らせちゃう人もいたり、幸せを避けたい心境の人もいます。生きてるなかで全てを体験する人もいるでしょう。それも人です。880さんがそれらの喜怒哀楽をどう受け止めるか、体験していくか、それは880さん次第だし、周りに影響されてしまうのか好転できるのか、立ち止まりゆっくり考えることも人生でできると思います。かなり話がズレてしまいましたが、お互い、個々の感性を楽しみましょう。いろいろな物を見て心動かしましょう。あ、強要じゃないですよ。何を選ぶかは最後は本人ですし、提案でしかありませんから。
五郎さんの話は時代や諸々背景の話が面白いですね。若いころみてたタモリ倶楽部のおしり評論家のイメージは何処へやら。別人。
キリコ取り上げて頂けるの待ってました!著作権の関係もあり日本ではさほど一般的な人気や知名度のある作家とも言えないので無理だろうな、、、と諦めておりました💦案件バンザイ🙌2000年頃に京都の「えき」美術館へ回顧展を観に行きました。今回の回顧展も楽しみです。、、、むせる
この展覧会本当に楽しみだから取り上げてくれて嬉しいです😭
好きな画家の回はすぐ観ちゃう!「ある秋の午後の謎」の話を聞いて(ああ、私がデ・キリコが好きな理由はこのことかな・・)と思いました。デ・キリコ展行こうと思います。
私も似たような経験を意識的に行うことがあります。小学生の頃から,部屋で一人で仰向けになり、天井を見て「自分誰誰だろう,何だろう?宇宙てなんだろう?」と考えてると、自分の意識が自分の体から出てしまう感覚となり、自分が誰だかわからなくなり、この宇宙は何だろうという意識になりました。小さい頃は気持ちが悪いので、すぐその考えから逃れるとまた元の自分に戻ります。わたしは医療従事者ですが、学生時代に精神科の授業で習ったことからは、この症状は離人症かと思います。それも。軽度なのだろうと思います。友達に聞いてもあんまりそういう経験はないようでした。山田さんがどうかはわかりません。
この感覚、凄く分かります!うん十年生きていて今までそれを言葉にしようとしたことがなかった…。この回も見て良かったです!自分の思考だけが空間からプカァと浮かんで、他の人や物事は予め作られ自分と無関係に進行する背景のようになるというか。仕事や子育てで忙しくなった最近は減ってきたような。自分の肉体もちゃんと生きてて他の人も存在してるのに、もしかしたら幻想なのかな?と、無性に悲しくなるんですよね。少し経つと戻ってくるのですが。
ちょうどよいタイミング。チケットを前売りで買って、明日行きます。ありがとうございました!
盛りだくさんのお話し面白かったです次回を視聴してから東京都美術館に行きますデ·キリコは「通りの神秘と憂愁」が好きです 次回も期待してます。
1980年生まれですが、仏教系の幼稚園に通ったり、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考が好きだったりで「人生というか生き物には本質的に存在する意味はない」という前提を明らかにして認める(諦める)諦観を持っています。澁澤龍彦の書誌でアンドレイブルトンらの活動も思春期に触れました。戦後教育の…という話を伺って、同年代と話が合わずに生きづらかった思春期の理由が少しわかりました。意味がないということが分からない人がいるんだ…と。何もないからいいんですけどね…何もないのは嫌なんですね…不思議。
ゴローさん、解説ありがとうございます❗ いつかやっていただけると思っていました、ジョルジョ・デ・キリコ解説。長年好きな画家なのにどう好きなのかを人に説明するのが難しかったんです。それを「突如世界の秩序から切り離された感覚、突如音が消えてさびしさ切なさが…」という感覚で説明されたのが、とてもしっくりきました。どんな解説書よりも府に落ちた感じです。もやもやしていたモノを言語化できてすっきりしました。展示を見に行くのがますます楽しみです。
飛行機に乗って見に行きます。先に図録を取り寄せてじっくり予習する予定です。
ゲシュタルト崩壊みたいな感覚、めちゃくちゃわかるなぁ特にお風呂に入ってるときによくその感覚に陥る自分を俯瞰的に見ている自分もいて、ゲームの中の登場人物を見ている(TPSみたいな)みたいな、自分という人間をコントロールしている他の人間がいるのでは……みたいな一人きりになったような寂しさを感じるというのもめちゃくちゃわかる……!
素人意見です。漢字をじっと見てると「こんな字だったっけ?」と思えてくる。漢字は読めるが、書け無い時はよくある。絵が下手な人は不思議な人物像を描くが、そう見えてる訳ではない。これらは脳の違う部分を使っているからだと思います。その脳の違う部分に切り替わった時に、その物の意味が無くなったような感じになる。つまり意味を捕らえていた脳から、単純な形だけとらえる部分に移って、幻覚を見ている様に感じるのだと思います。例えば「愛」と言う漢字を見ると、日本人には意味がついて来て、そこから思い出す印象すらついてくるが、アメリカ人なら単純な形だけでの良し悪しを判断出来るでしょう。この「愛」と言う漢字を見たアメリカ人のような感覚を追い求めたのがキリコだと思うのです。
感覚のお話とても興味深く、ハッとさせられました。デ・キリコのやシュールレアリズムの作品に惹かれる理由みたいなものが言語化され、霧が晴れた気持ちです。不思議さだけでなく、寂しさや懐かしさを感じられていた事に嬉しく思いました。この感覚のお話は、ピンクフロイドのジャケットや、インターネットミーム「liminal space」や「vapor wave」にも通じていくのだなと、歴史の流れを感じられました。是非、展示伺おうと思います!
今日上野まで見に行きましたがこの動画を見てから行けばより楽しめたかなと少し後悔笑山田五郎さん、久しぶりに拝見しましたが、20年前と全くお変わりなく驚きました😊
何だか分からなくなる瞬間ですが、自分も20代の頃にありました。テレビをボーっと見てて、画面に映った「手術」という字の意味が分からずボーっと考えていました。「手の術って何だ?芸術とか美術と関係あるのか?」少ししてハっとなって「あ、病院で行う“手術”か!」と、しばらく意味が分からなかった自分自身に驚きました。ボケるような年では全然なかったですから。なので未だに時々あの瞬間を思い出します・・後編も楽しみにしています。お金の問題で難しいですが、ポール・デルヴォーが実現するといいなぁと思っています。マグリットは実現しそうとの事で楽しみです。
次回も楽しみすぎる!デ・キリコ展行きたい、でも東京は遠い!神戸も、まあまあ遠い!(先日の生配信でも話題のナゴヤ飛ばし、、、)でも、今回逃したら生きてるうちには見られないかも知らん。旅行がてら観に行くかな。遠い言ったって、海外に観に行くのに比べたらお手軽ですもんね。
46:50 あの最も有名な作品「街の神秘と憂愁(1914)」も、たぶんアンドレ・ブルトンかその周辺の人(ジャン・ポーランとか)が購入して、ずっと個人蔵でした。今は米国個人蔵じゃないかといわれてます。それであんまり展覧されないんですよね。
みんながコメント欄で「あの感覚」について語ってるのが嬉しいです。結構多くの人が体験してるんですね。十年くらい前に、「あの感覚」が何日間か続いてしまい、絶望感がつのり病院行こうかと思ってたら急に治りました。あれは一瞬くらいがちょうどいいです。
いつも楽しく拝見させていただいてます、今回すごく面白い話でした。もうここ数十年はありませんが私も五郎さんのいう経験、何度もしたことがあります。最近でも喧騒から離れた港なんかでボーッと海面を見ながら波の音に耳を傾けていると持っていかれそうになる時があります。この世についていろいろ思案した結果この世界の全てに意味も価値も無いという結論に至ったのでデ・キリコの絵が理解できた気がします。無と無限は等価なんですかね。思うに釈尊が得た悟りもそのような事だったのではないかと思う次第です。似たような経験で幼少の頃はずっと自分を斜め上から傍観している感覚がありました。あまり関係はありませんが私の誕生日はニーチェと同じです。では今後の配信も楽しみにしております。
期間限定なんですね…!デ·キリコ展、行きたい♪確かに見慣れている景色が、突然違ったものに見える感覚、時々あります。階段を下りている時など、影の傾斜で不思議な感覚になることがあります。
漢字を眺めていて「なんだっこりゃ、、意味のない変な形」って思う時期があったのは、ゲシュタルト崩壊だったんですね。
「本物のゲシュタルト崩壊ってのをみせてやるよ……ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬめぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬのぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……!!」
@@so8661アリさんカマボコに見えてきた
子供の頃、友達何人かで砂場で遊んでいた時。何の前触れもなく周りの風景がゆっくり後ろへ流れていった。自分が動いているわけではない。その時『自分はこの世界に一人きりで、自分以外の自分は、この世界にいないんだ』と自覚した。…という経験があります。あとで思い返すと、ヒッチコックが『めまい』で使っていたドリーズームという技法のように風景が流れていきました。
デ・キリコの不思議な絵画作品にはインターネットミームの「リミナルスペース」に近い空気感を感じました。あちらの界隈で共有されるイメージとデ・キリコの作品、「見慣れた風景」「寂寥感」「謎」といったあたりに共通項があるように思います。
山田五郎さんの組織力、経歴、なにより学芸員としての博学がなければ著作権が残ってる絵画を
(おそらく複雑な契約事項を乗り越えて、)期間限定とはいえ解説を配信できなかったと思うと、彼こそ唯一無二のyoutuber
ある昼下がりに公園でボーッとしてたとき、幼少期から見慣れている景色のはずなのに、日差しとか緑がすごく眩しく新しい物に感じられて、この日差しも揺れる緑もそれを見ている自分自身も、過去にも未来にもない今しかない、全てが刹那的に感じられたことがあります。この絵の夕暮れの日差しにも、その時のような刹那が感じられるような気がします
美術の教科書で見た「通りの神秘と憂鬱」の印象が頭を離れず、以来気になる作家になりました。子供の頃にいろいろな素晴らしいものに触れるきっかけは大切ですね。
仕事に疲れた日、毎日使ってる駅のホームに立って電車を待ってると、ホーム越しに見えるビルや看板全てが初めて見るもののようになることがあります。
😂🎉😂😂🎉🎉
めっちゃ分かります!田舎の駅とかでも感じる
@Tmtyk_travelingalone
それは本当に初めて見るんじゃなくて…?笑
未視感 "jamais vu”
20代の頃に経験あります!
私もその感覚によくなります!景色が動いてるのに止まってるような、人がいるのに自分しかいないような感覚です。ゲシュタルト崩壊にすごく近いと感じてたので、同じ感覚の人がいて嬉しい。
てんかん発作の症状として、dejavu(デジャヴュ:既視感):「前にもどこかで一度これと同じものを見たような気がする」がありますが、jamais vu(ジャメヴュ:未視感):「何度も経験したことのある事柄を、まるで見慣れないもののように感じてしまう」があります。他にも離人感や周囲から孤立する感覚てのもあります。デ・キリコがのそれがてんかんかどうかは置いておいて、脳の機能として潜在的にそういうものがあるのは面白いことで、芸術に昇華するのですね。
「それが、戦後教育の悪いところ」・・・面白いです。五郎さんが、生き生きと、楽しそうに語ってくれるのが、うれしい。
50代半ば過ぎです。
40年以上前の子供の頃、キリコの「通りの神秘と憂鬱」に何故か吸い込まれるような感覚を覚え、以来好きなアーティストです。そしてある時私の大好きなルパン3世の(確か映画版)に数秒その作品が出現し、 やたら感激した瞬間も覚えています。
非常に大人びたませた子供でした。動画の中でおっしゃられていた「不思議な感覚」は子供時代の方が持っていたと思います。だからこそデ・キリコに惹かれたんだと今納得です。
そして「答えは無い」というか自分で生み出すという概念は大人になって企業研修事にインストラクターとして発信してきました。色々デ・キリコに惹かれる理由が見えてきたそんな動画でした。配信ありがとうございます。海外在住者につき展覧会に行けず本当に残念です(涙)
めちゃくちゃ展示良かった。高校の時から彼の絵にハマって20年近くたちやっとこんなに大規模な展示を開いてくれてありがとう。本当に良かった
子供の頃、ずーっと景色を眺めていると、見ているもの以外がぼやけ、意識や視覚の遠近感、時間感覚が狂い、一人取り残されたような気分になったことをこの動画で思い出しました😂
そして、子供の時岩手県立美術館のデ・キリコ展で見た絵に惹かれたのは、この感覚が共鳴した部分があったからなのかも知れない、と新たな発見でした!
この動画を見なかったら一生思い出さなかった感覚かも知れません…!🥲🙏
私も小学生の頃に同じ経験があります。
五郎さんがおっしゃってることがめちゃくちゃよくわかって、自分の中でその現象を「ゲシュタルト崩壊」と勝手に定義していましたが、五郎さんの口から ゲシュタルト崩壊 という言葉が出てきて「それーーーー!!」と鳥肌立ちました!!🤩✨
デ・キリコ展、神戸で見に行きます。今日、京都ロームシアターの山田五郎さんと村上隆さんの対談講演会に行かせて頂きました。情熱のある熱いお話で目が覚める思いがしました。ありがとうございました!
20:33 たまにテレビで芸能人を見てて「この人こんな人やったっけ」みたいな統合された概念が分解されてまったく新しい人に見えることがあるけど似たようなもんかなぁ。
無意味だからこそ解釈は無限っていうのは心に刺さったなぁ。
逆にこの感覚って持っていいんだと安心できましたね
無意味=あらゆる解釈が可能
という言葉が刺さりました
作品を見るのがより楽しくなりそうです!
見慣れている景色のはずなのに、ふとこんな景色だったっけ?と思うことがたまにあります。普段背景の一部としてしっかり見ていなかったものを、じっと見てみたときに起こる気がします。
なんだか別次元に来た感覚になります!
買い物の帰りなんかに近所の公園で考え事してると、ハッと気づいた瞬間「あれ、ドコに居るんだっけ?」って感覚になる時がありますね。
しばらく周りの風景が知らない場所のように思えて、でも少しすると「あー、あの公園に居たんだ」って気づいて元の感覚に戻ります。また、外国を一人で旅行してるような、そんな寂しさも感じたりします。
「答えちゃったら終わり」「意味が分からないからこそどんな解釈も可能」ってお話を聞いて、言葉にすると答えが逃げていく感じがちょっと禅問答みたいだなと思いました。
答えても大して変わらないこともありますけどね。
@@itsumo-gomen変わりがないというよりは 大差がないという意味です。
神戸で見てきました。五郎さんの解説で予習して行ったおかげで、より楽しめました。照明が少し暗めで良かったです。
キリコの絵は子供の頃に見て異世界に迷い込んだような瞬間と感じていたが納得できました😊
10年以上前のある日、自宅のダイニングで珈琲を飲もうとした時のことです。
突然、見えている世界が静けさに包まれました。
いつものカップ、いつものコーヒー。
眼前にあるのは見慣れたものなのに、カップはカップの意味がなく、珈琲は珈琲の意味がなくなって、
ただそれそのものがある、という感覚でした。
物に張り付いている言葉が消えたみたいな感じでした。
言葉が一切合切消え去って、物そのものだけの世界というのでしょうか。
言葉のない世界の体験を言葉で説明するのは無理がありますが、
強いて言えば「意味が張り付く以前の物」に触れている、みたいな感覚です。
その後もしばらくは何度か同じ体験をしましたが、最近はすっかり忘れていました。
この動画で思い出したのでコメントいたします。
私が包まれた静けさは、物音がしないというよりは、音が消えた感じ。言葉が存在しない感じです。
無意味というのは、意義がないのではなく、意味以前の「物そのものがある」感じです。
例えば、目の前のカップは、カップと名付けられたいつものそれではなく、「ただそれがある」感じで
カップと呼ぶよりずっと奥深い何か、みたいな。
書けば書くほどうまく表現できないもどかしさが募ります。
長文、失礼いたしました。
そのように見よう、認識しようとしても難しいものですが‥意図せずしてそのプラグマティックな境地に達すると混乱しそうですね
@@fools-ascension
確かに、意図的にそうしようと試みても難しいものですね。
プラグマティックな境地かどうかはわかりませんがw、「なんだ、これは???」という混乱は少しはありました。
私の場合、その体験は短時間だし、しばしばというわけでもないので、忘れていたのですが
「ある秋の午後の謎」の山田さんの解説、ニーチェの話等々がめちゃくちゃリアルに迫ってきて、とてもおもしろく、いろいろと納得し、スッキリしました。
デ・キリコの「ある秋の午後の謎」が大好きな絵だったので、なおさらでした。
フランスの作家サルトルの小説「嘔吐」の主人公が、マロニエの木を眺めている時、上辺だけの見た目が剥ぎ取られて存在そのものを実感する瞬間が描写されているのですが、なんかその状態ににているような気がしますね。
もっともその主人公は吐き気も同時に感じているのですが…。
@@TheHidesan
サルトルの「嘔吐」、全く知らなかったのですが少し調べてみると・・・
サルトルによる当初のタイトルは「メランコリア」だったようですね。
(そこになんだかつながりが見えそうな気も・・・。)
「マロニエ・・・」の箇所に興味を惹かれましたので、読んでみようかと思います。
いつも思います。ウリタニさんって、山田さんのお話を聞く相手としてめちゃくちゃ優秀。
その感覚 自分もあります。
言葉で説明しようとすればするほど
言いたいことからどんどん乖離していく。
説明すればするほど、どんどんズレていく感じがします。
自分の場合は、あえて言葉にすれば
「世界に自分しかいなくなって、聴覚が消えて、視覚だけが疾走する、限りなく透明で、世界から肉体と質量が消滅して意識だけになったような極めて自由な感覚」かも知れません。
そして、ふと気か着くと乾いた孤独感に浸っている、そんな感じかも知れません。
オートバイで走っていると、時々なります。
無意味とはどんな解釈も自由ってめちゃくちゃポジティブだと思いました。デ・キリコとニーチェのイメージが変わりました。
街角を輪回しをしながら駆け抜けていく少女の影を描いた作品が一番好きだ。
子供の頃、キリコの「通りの神秘と憂鬱」を絵画集で見て吸い込まれました。何か気分が良くなりました。
『小さい秋みつけた』的な、夢中で遊んでいた子供が、ふと、何気ない街並みや、そこにあるものが別の物のように感じる状態なのかな‥と思いました
デキリコの絵の中には、生命の存在があるような、ないような、恐怖も感じられるときがあります
@@alicestp6762 デ・キリコの絵に恐怖を感じることは、私は経験として全くないですね。
ゲシュタルト崩壊… しょっちゅうはないですが、
「これ、見えてるの、いま自分しかいないんじゃないか」
と感じた記憶はぼんやりあります。
どこか世の中と切り離されてるような感じ。
中学の教科書で見てずっと記憶に残っているのが「通りの神秘と憂愁」です。恐怖の記憶として刺さっていると思う。回顧展絶対行きたい。
わかります。学生の頃 深夜のコンビニで一人バイトしてた時
すごく明るい店内と 整然と並べられた食品 ジーーーとなる電灯の音
あの時 ああもう世界は終わって私はこの無機質な真夜中のコンビニエンスでひとりなんだなって
無性に切なくなったのを思い出しました・・・・
意味が無いってことはどんな解釈も可能性も受け入れてくれるってこと
それって昨今の『生産性』という言葉や『役に立たないものは存在してはいけない』みたいな価値観からの解放であり、救いなんじゃないかと思います
機械論的な効率性で人や営みを計る風潮が強くなる程、その囚われから自由にしてくれる異物性は重要なのかもしれませんね
キリコ大好きなんです!!
ムッチャクチャ楽しみにしていた企画ですので
ですからこちらの配信も本当に嬉しい!!絶対にあるのではないかと信じていました!
子供の頃から、よくある感覚です。ふっと、私はこんなところで何やってるんだろう? 何でこんなところ(人間界?)にまた来ちゃったんだろう? この世界、この人たちはなんなんだろう? って言葉がいつも浮かびます。この世界でひとりぼっちな孤独な感覚と、この世界に拘束されていない自由な感覚の両方があります。
神戸のやつ、見に行った!
「無意味=無限の可能性」
これ、印象的でした。
ずっとやってほしかったアーティストを特集してくれて本当に嬉しいです。ありがとうございます。
🎉😂😂😂😂❤🎉🎉🎉
すごくわかりやすいです。世界に付された記号が崩壊するとき浮かび上がる世界があるんですね。
言葉より先に、意味づけするより先に垣間見える何か。。
アポリネールの傷の予知は凄いですね!時空とは何かと考えさせられます。
単に売れる絵画を扱っている場合じゃないですよね。
いま見えるものに囚われていては事物の本質が見えてこないぞという警告かも知れないですね。
自分の経験で言うと、これまで最もゲシュタルト崩壊を引き起こしやすかったのが "を” ですw
ほんとにもー、この字見てるとすぐ「・・・なんじゃこりゃ?」ってなります。
いつも大変面白く拝見しています。さて、デ・キリコの形而上的体験に近い体験、私にもあります。ハワイ旅行中、ノースショアの海岸でキラキラ光る水面をキレイだなーと眺めていたら、いつの間にか、ここはどこで、いつで、私が何をしているのかが分からなくなり、私とキラキラ光る水面以外「無」の状態に。で、次の瞬間ハッと我に返って、今のはなんだったんだろうと。覚醒しながら意識を失ったような不思議な体験でした。
また、そこまでではないものの、国立西洋美術館の1階の中庭を見ていると、その無機質で静謐な世界に入り込んで、周囲の環境や喧騒が消えてしまうような感覚になります。
ちょうど今日デ・キリコ展行ってきました!
私も同じ感覚にとらわれることがあります。今の自分が別次元の誰かであるような、さっきまで見ていた映画の世界に自分が入り込んでしまっているような、外の窓から自分の人生を第三者として見ているような、そんな変な感覚…。離人症なのかなと思ってて、私はおかしくなってしまったんだと思っていたので、今日作品を見て共感してしまいました。この独特な感覚もひとつの感性だと思うことにします!
山田さんの仰るその感覚、分かるような気がします。
わたしが海外旅行に行く理由はそれに近い感覚を味わうためです。
今眺めている主観を第三者として俯瞰しつつも、五感が敏感になる。
理屈としては矛盾していると言えなくもないですが、そんな感覚です。
同じものでしょうか?
自分がそんな風に東南アジアの裏路地にいた時、
小汚く痩せていて、目が綺麗な野良犬が歩いてきました。
何の気なしにその犬と目を合わせた瞬間、
突然その犬が抱いていた哀しみのような感情の津波が自分の心の中に流れ込んでくるのを感じました。
もしわたしが芸術家ならば、
啓示として受け取ってもおかしくない程の忘れられない強い体験でした。
その日から、私は犬にも人間と同じか、
それ以上の感受性が備わっている事を確信しています。
ありがとうございます!
セロニアスモンクのミステリオーソがキリコの絵のジャケットで音楽とピッタリで若い頃に良く聴きました。
本日、行ってきました。年代によってアプローチやアレンジが変わっていたのが印象的で、個人的にはよく知られているマネキンなどの形而上的なアプローチより、ルノワールを真似た画風と銅像の作品が印象的でした。こちらの動画で予習させていただき、心ゆくまで展示を楽しめました。ありがとうございます。
19:17 イタリアの地方の中世みたいな都市アスコリ・ピッチェーノの真っ白な石の街路の白昼は、まさにキリコ的でした。ボローニャのアーチのファッサードが連なる街並みもキリコ風ですね。ちなみに形而上という言葉は易経の繋辞伝からです。今回1910年代の作品もあるようで、ますますいきたくなりました。
この回の五郎さんも、色合いがとても綺麗で好み💖
私が好きなのは「ヘクトルとアンドロマケ」ですね。シュールレアリズム展でポストカードを買いました。
よくわかる感覚です〜 学生の頃にキリコの絵で、自分の持つその感覚を肯定された様で嬉しかった思い出があります。
日本にもその感覚を詩にした作家がいますね。萩原朔太郎の「猫町」という詩がその感覚を描いています〜。
キリコの絵には、人間の本能的な恐怖が封じ込められている気がします。感性の画家って思ってます。
キリコ、不思議な感じの絵が大好きでした。是非、観に行きます
五郎さんの解説は 絵の背景を多方面から解説してくださるから 展覧会では わかりやすく 意味深いものになるでしょうね。
行きたいなぁ。
わーーー❣️ 続きがあるのですね💓
楽しみです♪♪♪
いつも素晴らしい解説をありがとうございます。今回の動画で「意味の崩壊」→ なんとなく寂しくて悲しい雰囲気 という文脈があったと思います。一方、ニーチェもデ・キリコも「意味がないからこその無限の可能性」を感じていたとも伺って、その上で絵を思い返せば孤独を超えた先の希望、みたいな感じもしてきました。バックグラウンドが多国籍だからこそ辿り着いた、この「意味の崩壊」は現代にすごく密接に関わるし、この先一体新たな世界秩序がボーンと現れるのかそれとも、モヤモヤとした時代がしばらく続くのか?とか考えました。自分はこういった絵画の先に出てきたメディアアートとかも興味あって、いつか五郎さんがもしご興味あれば、そういった流れにどんな解釈だったり思いを抱かれているのかも聞きたいです。
フライヤーを見て、是非行きたいと思っていた展示です!行く前に予習ができてありがたいです。
この動画に気づくのが遅かった… 😢
もう、とっくに、東京は終わっとる。
しゅっぱいでおじゃるぅ~~~
まだ10代ですが毎日ゲシュタルト崩壊しています、軽度の解離の可能性も無きにしも非ず😂
ぼーっとしていると意識が目の奥に行くというか、そうすると世界から切り離された気分を味わえます。勘違いされそうなのですが、決してスピリチュアルな話をしているのではなくてあくまで私個人の主観的な感覚です。
そういうときに芸術的なインスピレーションをもらえる感覚もかなり共感できて面白かったです。
ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」しか読んだことがありませんが、たしかに今回紹介された作品の秋の寂寞とした感覚がニーチェの言っていることと似ているような?もう一回読み直そうと思います、長いけど...😬
これは自論でしかないのですが、人生を無意味に感じるためには先ずぼーっとして世界から隔離された感覚になる必要があるのではないのでしょうか。寂寞はその第一歩というか。あの秋の作品はそういった「生に肯定的なニヒリズム」に至るための初期段階に私を引き戻す、あるいはニヒリズムに人々を引き摺り込む力があると思います。初期段階のあの感覚は好きでないです、鬱っぽくなる🥱
平成生まれですが、答えがないことにむしろ自由を感じて救われます!😂
この絵に答えはない!という五郎さんに、答えはなくても思わせぶりだ!といったウリタニさんの一言に、その通りだなと思いました😂
あとゲシュタルト崩壊のくだりは、まさにシュルレアリスム。。。とか思ってしまいました。
キリコといえば影。少女と車輪の影、彫像の影、聳え立つ塔の影、黄昏の神秘感
に魅入られた画家なのかなって思います。
マネキンも人の影ともいえるし、アリアドネは迷宮の引きこもり
陰影でもって世界の謎を際立たせる形而上絵画ですね。
怖いからその感覚を増大しない方法を子供の時見つけましたなぁ。
この感覚が始まるタイミングがだんだんわかる様になって①走る(スピードを出す)②頭の中で人を探す(近しい人との思い出を繰り返す)、で打ち消けせます。ワタシは笑。
ビューティフル・ドリーマですよねー
20:37 酔ってるとき根源的な疑問ばっかり考えてしまう。「立ってる状態ってなんだ?斜めってなんだ?このモニターと壁の直線はなんなんだ?」という感じになります。
視界も情報は全部入ってるけど、認識の仕方が変わる時がある
世界一好きなジョルジュ・デ・キリコ!!
幼少期に見た昼間の遊戯に衝撃を受けてずーーっと好きです。
解説ありがとうございます
小さい頃、ゲームのICOのパッケージに採用されていて一目惚れしたことを思い出しました。
放課後誰もいない校舎みたいなノスタルジアと寂寥感、ちょっとの不安感が好きで…
「僕の手を離さない、僕の魂ごと離してしまう気がするから」のキャッチコピーと抜群に合ってたなぁ
訂正: クリエイターの上田さんがキリコに影響されて描いた絵でした
デ・キリコの絵は中学校か高校の美術の教科書で見たのが初めてで、強烈な印象が残っています。あの独特の荒廃感はなんなんだろうかとずっとモヤモヤしていたのですがその感覚を言語化してくれて、ああこの感覚はそれだったのかという思いと、自分以外にもそういう感覚を持ってる人がいたんだという思いを抱きました。東京都美術館で展示するというのはまさにこの動画で知ったので早速チケット購入しました。今から楽しみです。
大好きな画家です。
学生の頃、影響受けまくりで似たような絵を描いてました。
十年前、浜松市立美術館でキリコ展ありましたよ。観に行きました。
その感覚、めちゃめちゃわかります!
孤独も感じる時もありますし、
自分は誰で今何してるんだ?
どこにいる?自分は何なんだ!?
みたいな感覚が急に来る時あります。
でも、誰かにこの事を言ってもあまり共感を得られなかったんですが、五郎さんがこの事を話してる時は、首がもげるんじゃないかってくらい頷きながら、あるある!って言って聴いてました!
自分の休みと美術館の休みがかぶっててつらい😂
心の渇望は有給とってでも行きたいですね♪♪
五郎さんの今日のいでたち、色合いが素敵
デキリコ展、前売り買ってあります。楽しみです。
やはり我らが巨匠アンリ·ルソーは後続の画家に与えた影響は巨匠にふさわしいですね🎉
世界に1人だけになるような感覚
すごく分かりますwwよくあるw
仕事で市内のビジネスホテルで止まって
朝早く街に出てバス待ちとかでボーッとしてると時とか
地元の神社に参拝に行った時に神木見てボーッとした時とか
人の居ない電車でボーッとしてる時とかw
キリコさん、中学校だったかな美術教科書で一番好きな画家でした。キリコの絵は夕方、とくに逢魔が時をイメージさせます。東京都立美術館に必ず行きます!
7月4日行きました!
夜中、ぼーっと風呂に入っている時、ふと自分の手を見て、妙な形だな〜何だこりゃと訳分からん感じになる事があります。腕や足もしみじみ眺めて何じゃコレ感にしばらく浸ってから、これが人間・自分の形と散らかった感覚を丸めてからあがって寝ます。奇妙ですがふと浮き上がってはまた戻る感が面白いです。
ベックリン風キリコ、😮マグリットの感じに近いですね。マグリット好きなので、若いキリコ、ベックリン、その前の人と、三枚並べた画面はとても良い感じでした。
その後の色も影も濃いダリ的キリコも良いですが。輪回しの影子が好きですが。謎を解かない楽しみは、自分の混沌を許して好きなように遊ばせてくれる安心感があります。
教科書で見てとても印象に残っていた画家だったので解説嬉しいです!!
光に照らされた場を見ると脳が停止してただ視覚から入る流れる風景を眺めてることあります。微妙な光りの加減が眩しいなかで移ろいだり、視野端にぼやける蝶の羽ばたきや子供たちのかけ遊ぶ陰や叫声が停まった脳裏に流動的になだれこんできても、視野はただただ光る何かから一切目を離さず、一種懐古的な心持ちになっている。見ているものは光る白い壁だったり、鮮やかな黄緑の葉枝だったり。目を奪われているのでしょうね。脳内シナプスが光りの刺激で他の似た記憶を呼び覚ます瞬間かもしれないし、クロノスタシス的に時間停止したなかを、体だけが浮世から分離して浮遊している、または現から切り離されて存在している感覚。そのときは自身は見ている光る対象と分子レベルで同化しているのかもしれない。自身も光りの中にあり、太陽光無くば色さえ判然といない宇宙分子が集まるなかで、ヒトや物資の別を超えて、ひとつになった感覚というか、過去ほど若く、若さは生まれる前の死に近い宇宙無垢の状態ですから、より光りを直に感じて生きていた子供時代の記憶と結びついて、脳内と視野は光のなかで懐古を感じて停止して、昔の無垢に帰ることを望み、魂レベルに太古帰りをしたがってるのかもしれないです。太陽は長年地球を照らしてきましたが、水に記憶力があること同様、太陽が照らし出す分子にも太古からの記憶が染み込んでいるのではないかと思うと、ヒトや生物が、光るものを見て懐古的になるのは必然、と思います。感受性が豊かな証拠なのだと思います。私の場合は、ですが…。
単に退屈とかすかな居心地の悪さを感じてその時間の過ぎ行くのを眺めているだけかもしれないですけどね✨
抽象的なご意見ありがとうございます。愉しませて頂きました。
@@ykohrt880 逆ですね。キラキラ光るものへの希望の懐かしさです。私は常に脳内多動で様々な考えが止まらないので。行きたい場へ行き好きな場にいるので、居心地も良い時間の合間に見る現象です。
@@薄紫に染まるなるほど。素晴らしいですね。よく理解出来ました。どんな風に感受性が豊かであるか言語化されています😊
時として心から感動する場合は確かにありますね✨あなたとは違った感覚ですが。私の場合は、そう頻繁にはありません。
@@ykohrt880 生き方と見てきたものは皆が違うからこそ楽しいことので、880さんの感覚は私には新しく新鮮に思いました。人により、880さんのおっしゃる退屈や、はたまた寂しさに美しさを感じる人もいれば、焦燥に逆にドキドキ胸踊らせちゃう人もいたり、幸せを避けたい心境の人もいます。生きてるなかで全てを体験する人もいるでしょう。それも人です。880さんがそれらの喜怒哀楽をどう受け止めるか、体験していくか、それは880さん次第だし、周りに影響されてしまうのか好転できるのか、立ち止まりゆっくり考えることも人生でできると思います。かなり話がズレてしまいましたが、お互い、個々の感性を楽しみましょう。いろいろな物を見て心動かしましょう。あ、強要じゃないですよ。何を選ぶかは最後は本人ですし、提案でしかありませんから。
五郎さんの話は時代や諸々背景の話が面白いですね。若いころみてたタモリ倶楽部のおしり評論家のイメージは何処へやら。別人。
キリコ取り上げて頂けるの待ってました!著作権の関係もあり日本ではさほど一般的な人気や知名度のある作家とも言えないので無理だろうな、、、と諦めておりました💦案件バンザイ🙌
2000年頃に京都の「えき」美術館へ回顧展を観に行きました。今回の回顧展も楽しみです。
、、、むせる
この展覧会本当に楽しみだから取り上げてくれて嬉しいです😭
好きな画家の回はすぐ観ちゃう!「ある秋の午後の謎」の話を聞いて(ああ、私がデ・キリコが好きな理由はこのことかな・・)と思いました。デ・キリコ展行こうと思います。
私も似たような経験を意識的に行うことがあります。小学生の頃から,部屋で一人で仰向けになり、天井を見て「自分誰誰だろう,何だろう?宇宙てなんだろう?」と考えてると、自分の意識が自分の体から出てしまう感覚となり、自分が誰だかわからなくなり、この宇宙は何だろうという意識になりました。小さい頃は気持ちが悪いので、すぐその考えから逃れるとまた元の自分に戻ります。わたしは医療従事者ですが、学生時代に精神科の授業で習ったことからは、この症状は離人症かと思います。それも。軽度なのだろうと思います。友達に聞いてもあんまりそういう経験はないようでした。山田さんがどうかはわかりません。
この感覚、凄く分かります!うん十年生きていて今までそれを言葉にしようとしたことがなかった…。この回も見て良かったです!
自分の思考だけが空間からプカァと浮かんで、他の人や物事は予め作られ自分と無関係に進行する背景のようになるというか。
仕事や子育てで忙しくなった最近は減ってきたような。自分の肉体もちゃんと生きてて他の人も存在してるのに、もしかしたら幻想なのかな?と、無性に悲しくなるんですよね。少し経つと戻ってくるのですが。
ちょうどよいタイミング。チケットを前売りで買って、明日行きます。ありがとうございました!
盛りだくさんのお話し
面白かったです
次回を視聴してから
東京都美術館に行きます
デ·キリコは「通りの神秘と憂愁」
が好きです
次回も期待してます。
1980年生まれですが、仏教系の幼稚園に通ったり、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考が好きだったりで「人生というか生き物には本質的に存在する意味はない」という前提を明らかにして認める(諦める)諦観を持っています。澁澤龍彦の書誌でアンドレイブルトンらの活動も思春期に触れました。
戦後教育の…という話を伺って、同年代と話が合わずに生きづらかった思春期の理由が少しわかりました。意味がないということが分からない人がいるんだ…と。何もないからいいんですけどね…何もないのは嫌なんですね…不思議。
ゴローさん、解説ありがとうございます❗ いつかやっていただけると思っていました、ジョルジョ・デ・キリコ解説。
長年好きな画家なのにどう好きなのかを人に説明するのが難しかったんです。それを「突如世界の秩序から切り離された感覚、突如音が消えてさびしさ切なさが…」という感覚で説明されたのが、とてもしっくりきました。どんな解説書よりも府に落ちた感じです。もやもやしていたモノを言語化できてすっきりしました。展示を見に行くのがますます楽しみです。
飛行機に乗って見に行きます。先に図録を取り寄せてじっくり予習する予定です。
ゲシュタルト崩壊みたいな感覚、めちゃくちゃわかるなぁ
特にお風呂に入ってるときによくその感覚に陥る
自分を俯瞰的に見ている自分もいて、ゲームの中の登場人物を見ている(TPSみたいな)みたいな、
自分という人間をコントロールしている他の人間がいるのでは……みたいな
一人きりになったような寂しさを感じるというのもめちゃくちゃわかる……!
素人意見です。漢字をじっと見てると「こんな字だったっけ?」と思えてくる。
漢字は読めるが、書け無い時はよくある。絵が下手な人は不思議な人物像を描くが、そう見えてる訳ではない。
これらは脳の違う部分を使っているからだと思います。その脳の違う部分に切り替わった時に、その物の意味が無くなったような感じになる。
つまり意味を捕らえていた脳から、単純な形だけとらえる部分に移って、幻覚を見ている様に感じるのだと思います。
例えば「愛」と言う漢字を見ると、日本人には意味がついて来て、そこから思い出す印象すらついてくるが、アメリカ人なら単純な形だけでの良し悪しを判断出来るでしょう。
この「愛」と言う漢字を見たアメリカ人のような感覚を追い求めたのがキリコだと思うのです。
感覚のお話とても興味深く、ハッとさせられました。デ・キリコのやシュールレアリズムの作品に惹かれる理由みたいなものが言語化され、霧が晴れた気持ちです。不思議さだけでなく、寂しさや懐かしさを感じられていた事に嬉しく思いました。この感覚のお話は、ピンクフロイドのジャケットや、インターネットミーム「liminal space」や「vapor wave」にも通じていくのだなと、歴史の流れを感じられました。是非、展示伺おうと思います!
今日上野まで見に行きましたがこの動画を見てから行けばより楽しめたかなと少し後悔笑
山田五郎さん、久しぶりに拝見しましたが、20年前と全くお変わりなく驚きました😊
何だか分からなくなる瞬間ですが、自分も20代の頃にありました。テレビを
ボーっと見てて、画面に映った「手術」という字の意味が分からずボーっと
考えていました。「手の術って何だ?芸術とか美術と関係あるのか?」少し
してハっとなって「あ、病院で行う“手術”か!」と、しばらく意味が分から
なかった自分自身に驚きました。ボケるような年では全然なかったですから。
なので未だに時々あの瞬間を思い出します・・後編も楽しみにしています。
お金の問題で難しいですが、ポール・デルヴォーが実現するといいなぁと
思っています。マグリットは実現しそうとの事で楽しみです。
次回も楽しみすぎる!
デ・キリコ展行きたい、でも東京は遠い!神戸も、まあまあ遠い!(先日の生配信でも話題のナゴヤ飛ばし、、、)でも、今回逃したら生きてるうちには見られないかも知らん。旅行がてら観に行くかな。遠い言ったって、海外に観に行くのに比べたらお手軽ですもんね。
46:50 あの最も有名な作品「街の神秘と憂愁(1914)」も、たぶんアンドレ・ブルトンかその周辺の人(ジャン・ポーランとか)が購入して、ずっと個人蔵でした。今は米国個人蔵じゃないかといわれてます。それであんまり展覧されないんですよね。
みんながコメント欄で「あの感覚」について語ってるのが嬉しいです。結構多くの人が体験してるんですね。
十年くらい前に、「あの感覚」が何日間か続いてしまい、絶望感がつのり病院行こうかと思ってたら急に治りました。
あれは一瞬くらいがちょうどいいです。
いつも楽しく拝見させていただいてます、今回すごく面白い話でした。もうここ数十年はありませんが私も五郎さんのいう経験、何度もしたことがあります。最近でも喧騒から離れた港なんかでボーッと海面を見ながら波の音に耳を傾けていると持っていかれそうになる時があります。この世についていろいろ思案した結果この世界の全てに意味も価値も無いという結論に至ったのでデ・キリコの絵が理解できた気がします。無と無限は等価なんですかね。思うに釈尊が得た悟りもそのような事だったのではないかと思う次第です。似たような経験で幼少の頃はずっと自分を斜め上から傍観している感覚がありました。あまり関係はありませんが私の誕生日はニーチェと同じです。では今後の配信も楽しみにしております。
期間限定なんですね…!デ·キリコ展、行きたい♪確かに見慣れている景色が、突然違ったものに見える感覚、時々あります。階段を下りている時など、影の傾斜で不思議な感覚になることがあります。
漢字を眺めていて「なんだっこりゃ、、意味のない変な形」って思う時期があったのは、ゲシュタルト崩壊だったんですね。
「本物のゲシュタルト崩壊ってのをみせてやるよ
……
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
ぬぬぬぬぬめぬぬぬぬぬ
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
ぬのぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
……!!
」
@@so8661
アリさんカマボコに見えてきた
子供の頃、友達何人かで砂場で遊んでいた時。
何の前触れもなく周りの風景がゆっくり後ろへ流れていった。
自分が動いているわけではない。
その時『自分はこの世界に一人きりで、自分以外の自分は、この世界にいないんだ』と自覚した。
…という経験があります。
あとで思い返すと、ヒッチコックが『めまい』で使っていたドリーズームという技法のように風景が流れていきました。
デ・キリコの不思議な絵画作品にはインターネットミームの「リミナルスペース」に近い空気感を感じました。あちらの界隈で共有されるイメージとデ・キリコの作品、「見慣れた風景」「寂寥感」「謎」といったあたりに共通項があるように思います。