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歴史るべ
Japan
เข้าร่วมเมื่อ 30 มิ.ย. 2018
こんにちわ、でございます!
わたくし”歴史るべ”でございます!
この「歴史チャンネル」では、
・偉人の活躍
・合戦、事件の背景
・目立たない人の動き
これらをメインに発信しております♪
それから、心がけていますのが、
・専門的言葉→わかりやすく
・情報→基本、うんちく
です。
っということで、
歴史チャンネルで、少し過去に戻って、
歴史の世界を知るきっかけになれれば幸いでございます!
でわ、まいりましょう♪~
わたくし”歴史るべ”でございます!
この「歴史チャンネル」では、
・偉人の活躍
・合戦、事件の背景
・目立たない人の動き
これらをメインに発信しております♪
それから、心がけていますのが、
・専門的言葉→わかりやすく
・情報→基本、うんちく
です。
っということで、
歴史チャンネルで、少し過去に戻って、
歴史の世界を知るきっかけになれれば幸いでございます!
でわ、まいりましょう♪~
飛鳥から平安時代の乳製品『蘇』とは?作り方、栄養、賞味期限「薬用として食した」
#歴史るべ
【📖もくじ📖】
00:00 ~ 蘇とは
00:45 ~ 歴史
02:40 ~ 味
03:00 ~ 牛乳
04:30 ~ 薬用
06:10 ~ 食用
07:35 ~ 仏教
====================================
【💡この動画”ポイント”💡】
・蘇(そ)は、古代の日本(飛鳥時代~平安時代)作られていた乳製品の一種
・文武天皇(在位期間:六九七-七〇七年)の時代に蘇が作られた最初の記録がある
・シルクロードを通じて中央アジアからもたらされた牛乳は飲用するというより薬餌として使われていたようですが、この牛乳をかなり乾燥させ長期保管に耐える加熱濃縮系列の乳加工食品である「蘇」
・牛乳を煮詰めるという大まかな製法で、シンプルな作り方だが、長時間牛乳を煮て作るという、最低でも1時間前後は煮詰めないと固形状にならない
・ポピュラーな食べ物ではなく主に貴族階級の嗜好品だったと考えられている。
・味は濃厚なミルク
【📖もくじ📖】
00:00 ~ 蘇とは
00:45 ~ 歴史
02:40 ~ 味
03:00 ~ 牛乳
04:30 ~ 薬用
06:10 ~ 食用
07:35 ~ 仏教
====================================
【💡この動画”ポイント”💡】
・蘇(そ)は、古代の日本(飛鳥時代~平安時代)作られていた乳製品の一種
・文武天皇(在位期間:六九七-七〇七年)の時代に蘇が作られた最初の記録がある
・シルクロードを通じて中央アジアからもたらされた牛乳は飲用するというより薬餌として使われていたようですが、この牛乳をかなり乾燥させ長期保管に耐える加熱濃縮系列の乳加工食品である「蘇」
・牛乳を煮詰めるという大まかな製法で、シンプルな作り方だが、長時間牛乳を煮て作るという、最低でも1時間前後は煮詰めないと固形状にならない
・ポピュラーな食べ物ではなく主に貴族階級の嗜好品だったと考えられている。
・味は濃厚なミルク
มุมมอง: 1 857
วีดีโอ
藤原京が本格的な都を目指した理由「16年で平城京に遷都した背景」
มุมมอง 6K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 藤原京とは? 00:41 ~ 名前の由来 03:02 ~ 造営 04:45 ~ 広さ 08:47 ~ 使われなくなった 【💡この動画”ポイント”💡】 藤原京は本を見て作った失敗作? ・藤原京は690年から始まり4年間の工期を経て694年に完成 ・当時の天皇は持統(じとう)天皇という天皇でしたが天武天皇の後を引き継ぎ、藤原京の建設を開始 ・藤原京以前の日本の首都は、天皇が即位式を挙げたその土地になるという決まりがありました ・しかし藤原京の登場によって天皇は代が変わっても藤原京に定住するというスタイルに ・藤原京は日本初の中国の都に基づく本格的な都で ・戦後に発見された時の広さは南北3.2km、東西2.1kmで、平城京の3分の市の規模とうことでしたが近年の発掘調査で、平城京や平安京より巨大な都だった ・しかし、わずか16年で放棄され、朝廷は平...
持統天皇「”草壁皇子”皇位に!」大津皇子の謀反行動は行われたか?
มุมมอง 7K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 持統天皇 00:34 ~ 家系図 03:18 ~ 吉飲宮 05:50 ~ 高市皇子 07:09 ~ 大津王子の謀反 【💡この動画”ポイント”💡】 ・『壬申の乱』以降、天武天皇と自分お血筋を守る女性天皇 ・父は「天智天皇」母は蘇我石川麻呂の娘・遠智娘で、夫は父の同母の弟・大海人皇子でのちの天武天皇 ・同母の娘に大田皇女など、3人の姉妹も天武天皇軒先となっています。 ・大海人皇子とともに、律令国家の基礎を気づいたが、生涯に渡り、心を砕いたのが、わが娘の系統を皇位に就かせること ・大海人皇子が吉野宮に行った際に、草壁皇子をつれて、行動をともにしていたが、これは持統天皇が仕組んだものと見られる ・後に草壁皇子の皇位継承ライバルで、大田皇女の子大津皇子に謀反の罪をつけ、死に追いやった ・これで、草壁皇子がすんなりと皇位につくかと思いきや、天武天皇が崩...
富本銭とは日本最古の銅銭「和同開珎のように流通貨幣(お金)として使われていた?」
มุมมอง 1.9K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 富本銭とは? 00:33 ~ 銀銭から銅銭 01:40 ~ 形・サイズ 06:31 ~ お金として使われたのか? 07:37 ~ まじない 08:05 ~ 流通貨幣 08:47 ~ 途中で失敗 【💡この動画”ポイント”💡】 ・日本最古の通貨と言われている富本銭(ふほんせん)とは? ・あくまでも富本銭は日本最古の通貨ではなく、銅銭のなかで日本最古 ・鋳造が行われた時期は680年頃、富本銭が使われる前は銀銭が使われていた ・時代で言うと飛鳥時代末期で、天皇が強大な権力を持ち、その力を持って国や民をコントロールする「天皇主権」の国でした。 ・そんな国家が形になってきた頃の天武天皇の時代で、富本銭が造られた ・現在のところ、富本銭は畿内周辺でしか発見されていないために地方では利用されておらず、物々交換や無文銀銭が使われていたことが推測 ・そして、長...
天武天皇の政治とは「八色の姓、飛鳥浄御原令」
มุมมอง 2.2K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 天武天皇の時代 00:43 ~ 皇后と皇子 03:45 ~ 肉食禁止令 06:33 ~ 飛鳥浄御原令 07:55 ~ 古事記と日本書紀 09:02 ~ 八色の姓 【💡この動画”ポイント”💡】 ・壬申の乱に勝利を収めた大海人皇子 ・673年に飛鳥浄御原令で即位し、天武天皇となる ・675年に肉食禁止令を発令 ・天武天皇が推し進めたのは、皇親政治で、天皇の親族が強い権力を持つ政治のこと ・それまでの姓(かばね)を改め、貴族の階級を8つに分ける つまり、豪族たちが天皇を支える役人という地位に変え、能力主義を掲げた冠位十二階の制とは大きく違った ・それから、律令国家の基礎を作ったことがわかっており、律令とは決まり事、法律のことで、律は犯罪者をさばく刑法、量は政治を行うための行政法など ・しかし686年になくなる天武天皇は、その後、皇后である持統天皇...
わかりやすく「壬申の乱」の系図、勝者”大海人皇子”敗者”大友皇子”について
มุมมอง 4.7K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 壬申の乱 00:22 ~ 血筋 08:18 ~ 吉野宮出る 10:12 ~ 大伴吹負 11:14 ~ 瀬田の唐橋 04:00 ~ 【💡この動画”ポイント”💡】 ・672年6月24日~7月23日に起こった古代日本最大の内乱「壬申の乱」 ・絶大な権力を誇った天智天皇が崩御すると、皇位継承をめぐっての争い ・天智天皇の子で次期天皇と召されていた大友皇子、それに対し、弟・大海人皇子が地方豪族「伊賀、伊勢、美濃」を味方に付け、大友氏などの豪族を率いて、反 をひるがえす ・東国の豪族などを次々と味方に付け、各地で勝利を収める ・最終的、瀬田橋で争い、敗れた大友皇子が自害したことで「壬申の乱」は終結 ・乱に勝利した大海人皇子は、即しい、天武天皇へ ・叔父と甥が皇位継承をめぐって激しく激突した争いであるが、その原因については諸説が存在
庚午年籍と庚寅年籍はなぜ作られたか?
มุมมอง 2.2K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 庚午年籍 00:45 ~ なぜできたのか? 03:25 ~ 記録 04:20 ~ 全国 04:20 ~ 庚寅年籍 【💡この動画”ポイント”💡】 ・庚午年籍(こうごねんじゃく)についてできるだけわかりやすく、お話しています ・庚午年籍は、日本で最初の戸籍 ・ただ、最も古い戸籍は、日本書紀(日本最古の歴史書)に記録があり、これは名籍(なのふだ)とも呼ばれ、渡来人(海外からわたってきた人)等の記録をするための対象とした限定的なもの ・庚午年籍は、飛鳥時代の645年、「大化の改新(たいかのかいしん)」で戸籍が制度化され、670年に「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と呼ばれる制度が作られます。 ・しかし現存しておらず、全国的に全ての階層の人民を対象にして造籍したのかどうかも疑われています。 ・庚午年籍の主な機能は身分・氏性を確定する台帳のようなもので、...
防人とは?西国ではなく東国出身者が選ばれたが過酷すぎる仕事内容だった
มุมมอง 3.8K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 00:38 ~ 防人は東国 04:22 ~ 過酷すぎる労働 【💡この動画”ポイント”💡】 ・飛鳥時代末期に置かれた九州北部の対馬(つしま)・壱岐(いき)・筑紫(つくし)に防人が設置 ・「防人」は、白村江の戦いの後、唐からの報復攻撃に怯える中、664年に創設 ・しかし、防人は過酷な労働で、お給料が貰えないし、移動にかかる経費も全て自腹。おまけに、地元で納めるべき税はその間もちゃんと納めなくてはならなかった。 ・防人たちは3年間の 期を終えると帰宅の途に就きますが、おおむね延期延長されることがおおかった。 ・さらに、 期満了となったとしても、地元に戻れるための 道中には多くのリスクが待ち受けていた
白村江の戦い”その後の防衛施設「烽、水城、朝鮮式山城」
มุมมอง 4.6K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ その後 00:45 ~ 守り 01:10 ~ 防人 02:05 ~ 烽 03:35 ~ 水城 05:35 ~ 朝鮮式山城 06:28 ~ 大津宮遷都 07:40 ~ どうなった? 【💡この動画”ポイント”💡】 ・663年、中大兄皇子が朝鮮半島に兵を送るが、唐・新羅軍に滅ぼされる、これが「白村江の戦い」 ・この後、「唐、新羅軍」の攻撃に備え、中大兄皇子は、あちこちに防衛施設を作る ・朝鮮半島に近い、福岡に防人や烽、水城を築き、九州から瀬戸内海、機内へと至る経路に朝鮮式山城を築く ・そして、宮も飛鳥から、内陸の大津宮へと遷都する ・ただ、最終的には日本・大和に、攻め入ることは有りませんでした。
『白村江の戦い』とは?なぜ唐・新羅軍と戦い負けたのか?その敗因は?
มุมมอง 16K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 最初に 00:40 ~ きっかけ 03:05 ~ 大和朝廷の判断 04:35 ~ 斉明天皇の死 05:35 ~ どうなった? 10:00 ~ 要因 【💡この動画”ポイント”💡】 ・乙巳の変から15年後の660年 ・日本と同盟関係の百済が貴新羅の連合軍に滅ぼされる ・滅ぼされた百済では難民が続出、この中に、 百済の再興を望む人々 この中のリーダーが、鬼室福信 ・そして日本に百済の移民たちの救援を養成 ・中大兄皇子は、朝鮮半島に遠征軍を、662年と663年の二回に分けて送ります ・日本軍は総勢3万を超える大部隊となりました。 ・「白村江の戦い」はもはや国運をかけた大勝負! ・663年8月27日、朝鮮南部の白村江の河口に待ち構える唐水軍と衝突、これこそが、白村江の戦いです。
【改心の詔】内容は本当に実行されたか?国郡里制(評)が違う?
มุมมอง 1.5K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:35 ~ 改新の詔 03:10 ~ 公地公民制 04:10 ~ 国郡里制 02:00 ~ 班田収授法 06:20 ~ 税制 07:05 ~ 実行されたか? 【💡この動画”ポイント”💡】 【改新の詔(みことのり)】 ・乙巳の変(645)によって、蘇我氏の独断専行状態だった政治は終わりを告げる ・孝徳天皇を新たに据え、中臣鎌足、中大兄皇子が主体となって、国のシステム大改造を始める ・乙巳の変以後50年近くにわたって行われた様々な政策や改革のことを“大化の改新”、そして日本書紀では、646年に「改新の詔(みことのり)」がスタート 1.公地公民制=豪族がプライベートで所有している人・土地を撤廃する 2.国郡里制の制定=国家を運営するための行政組織を整備する 3.班田収授法を制定=班田収授はんでんしゅうじゅを実施する 4.税制の改革=旧来の税制を廃止して、田の...
南淵請安は国博士に選ばれなかった「高向玄理、旻」は抜擢
มุมมอง 3.5K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 南淵請安とは? 00:35 ~ 豪族「東漢氏」 02:09 ~ 隋と唐 05:45 ~ 塾 07:35 ~ 「大化の改新」前に亡くなる? 【💡この動画”ポイント”💡】 ・南淵請安(みなみぶちの-しょうあん)は600年代後半の僧侶 ・飛鳥川上流の稲渕に居住した渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)の一族。 ・608年に高向玄理や僧旻らとともに隋へ留学 ・640年に帰国 ・「日本書紀」によると、中臣鎌足や中大兄皇子が南淵請安に儒教を学び、その行き帰りに蘇我氏打倒の策をこらしたとのエピソードが伝わっています ・しかし、南淵請安は大化改新政治に参画した形跡はなく、そのころまでには没していたと推定 ・南淵請安は32年もの間、中国に留まり、隋・唐の興亡、唐の隆盛を直接見聞きした ・南淵請安をはじめとする留学生達がもたらした大陸の情報は、日本の人々にとって大...
有間皇子とは蘇我赤兄に騙され、牟婁の湯で処刑が言いわたされ
มุมมอง 8K3 ปีที่แล้ว
※入力・ボイスのミスです! 09:24 ~ 孝徳天皇(こうとく-第36代)と『”間人皇女(はしひとの-ひめみこ)”』の間に生まれた有間皇子(ありまの-おうじ)という話しをしているのですが、 有間皇子の母は『小足媛(おたらし-ひめ)』でした。 すみません、以後、気をつけます。 #歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 有間皇子とは 00:35 ~ 系図 04:38 ~ 温泉 05:24 ~ 有間皇子の乱 【💡この動画”ポイント”💡】 ・有間皇子は、孝徳天皇と妃の小足媛の子 ・ちなみに、有間皇子の名前は、父が有間温湯(神戸市)で療養していたときに生まれたとされている ・父・孝徳天皇が即位し、そのただひとりの皇子として皇位継承の可能性が生まれる ・しかし、他にも皇太子である中大兄皇子が政治の実権を握っていた ・その、中大兄皇子と父・孝徳天皇不和とされており、 そんななかで、654年に孝徳...
第36代孝徳天皇は”山背大兄王の事件”に加担していた!難波長柄豊碕宮へ
มุมมอง 6K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 孝徳天皇とは 00:40 ~ 家系図 01:49 ~ クーデター参加 06:08 ~ 難波宮 【💡この動画”ポイント”💡】 ・皇位継承は今も昔も大きな問題だが、日本史上初めて天皇崩御に伴う継承ではなく、生前譲位によって即位したのが第36代孝徳天皇 ・クーデター「乙巳の変」で、 中臣鎌足が、蘇我氏打倒を目指すに当たり、最初に目をつけたのが、孝徳天皇だったんですね。 ・どうしても中臣鎌足、中大兄皇子のイメージが強いが、計画に関わっていたのが孝徳天皇。 ・さらに、乙巳の変の前の「山背大兄王の事件(643年)」にも関わる ・そうして、乙巳の変の後に、推薦され、即位となる ・しかし、難波宮に移動した2年後、孝徳天皇だけ一人残し、中大兄皇子や皇極天皇などが飛鳥へ帰ってしう ・一人だけ恨みを抱いたまま亡くなる
『蘇我入鹿の暗殺』キーマン蘇我倉山田石川麻呂!名前は長すぎる!
มุมมอง 5K3 ปีที่แล้ว
#歴史るべ 【📖もくじ📖】 00:00 ~ 蘇我倉山田石川麻呂 00:37 ~ 名前 02:00 ~ 乙巳の変 05:50 ~ 自ら死を選ぶ 【💡この動画”ポイント”💡】 ・蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子で、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に ・645年、中大兄皇子、中臣鎌足らと組んで、蘇我入鹿の暗殺を共謀 ・蘇我氏一族の中で、馬子直系の氏族は大臣(おおおみ)として権力を独占していた「蝦夷・入鹿」でしたが、これに不満を持っていた有力者がいた。それが石川麻呂 ・クーデター当日は、飛鳥板蓋宮大極殿で、三韓の使者による上表文を読み上げたのが石川麻呂 ・暗殺に成功した後、新政権がスタート、石川麻呂は右大臣に 命 ・また、娘二人は中大兄皇子の妃となる ・しかし、649年、異母弟の蘇我日向が、石川麻呂が謀叛を企てているということで、最終的に自害となる
武寧王は継体天皇に服従していたんだよ。奉仕の意味を理解していないね、君は。
ひろゆき!
俺の 名字恵美なんだけど笑どうゆう気持ちで見たら良いんだろ?
女性には巨根も精神力も大事な条件だからな
太安万侶の墓が存在したことは、古事記や日本書紀などに記された太安万侶という人物が存在したということを示すと同時に 古事記が実際に七世紀に書かれたものであることを証明する重要な根拠となる それだけに考古学的な価値は、高松塚古墳などよりも上になるでしょう 古事記の原本となった旧辞や帝辞は紛失しているだけに中身はわかりませんが 文章として書かれたのは六世紀ごろと考えらえれている それ以前のことは口伝で語り部たちによって語り伝えられてきたことでしょう そのような伝承はどうしても物語的になったりするものだ。聞き手を喜ばせるように情緒的な内容にもなったりする ヤマトタケルや神功皇后など古事記の記述の初期の記載がそのようになったのは仕方がないでしょうよ
なかなか分かり易く面白かったし、「流通通貨」として使われていたかどうかについての考察の結論も妥当だと思われる。
シュメール方面から渡来してきた王族の子孫他にもおびただしい王族が渡来していると思う
蘇我馬子が(姉の蘇我堅塩姫・欽明天皇の第一妃の命令で)やったわけだが、蘇我馬子を、単なる「臣下」と言えるか? 蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿が殺したのは崇峻天皇だけでなく、「蘇我小姉君・欽明天皇の第二妃」の子孫を皆殺していた。蘇我堅塩姫₍欽明天皇の第一妃)と蘇我小姉君(欽明天皇の第二妃)は、実の姉妹だった。 皆殺しされた、蘇我小姉君(神道派)の子孫: 穴穂部皇子(蘇我小姉君の第一皇子、三輪という坊主による讒言、奸計にかかり殺害された。) 崇峻天皇(蘇我小姉君の第二皇子、兄の穴穂部皇子が殺され、「丁未の乱」で、身辺を守る物部氏が滅亡したので、しかなく皇位を引き受けたが、結局、蘇我馬子らによって暗殺された。) 穴穂部間人皇女(用明天皇皇后、聖徳太子の母、聖徳太子夫妻が謎の死と遂げる一月前、不審死) 聖徳太子夫妻(用明天皇の皇太子夫妻、不審死、殯がされていない、大子の一日前に不審死) 山背大兄皇子一族、蘇我入鹿によって現在の「法隆寺」の場所で皆殺しされた。
インチキ歴史動画
長屋王の変というより藤原四兄弟のへんだよ。
2024年5月頃、九州の黒橋貝塚で、縄文時代後期(約3500年〜4000年前)の地層から、人骨が屈葬された状態で発掘され、そばには墓標のような石も発見されたそうです。屈葬から伸展葬に変わっていく様子がわかり、勉強になりました。ありがとうございます♡
石川麻呂が中大兄を殺す動機がない。しかも娘2人の婿さんだ。密告した奴は殺される可能性大だ。しかも赤の他人をお父さんの気持ちを確認するために、使者として送るなんてありえないことだ。
貧しい農民は、和歌を何に記録していたのでしょうか。筆と紙は誰でも手に入れることができたのでしょうか
最初に切られた時には首はあったのか。倒れた蘇我入鹿の首を切って、あんなに上に首が飛ぶわけはない。この絵を描いた人の意図はなんだ。
馬子の孫、入鹿の殺害は、崇峻天皇の怨霊だったのかも
煬帝はケツの穴が小さい。だからすぐに滅びたのだろう。
最澄はどうやって唐の情報を得たのであろうか
2人が知り合ったのは道鏡が5,60代、女帝が3,40代、子供が生まれる可能性があったのか。子ども、男の子ができていたら、大変なことになっていたと思う。
他国なら反乱が起きるレベル。
わかりやすかったです
俺の誕生日じゃないか😅
林佑介
宮中に外戚の影響振るえて、娘が時の天皇の皇太子にする策略も困ったものだが、皇室の自分が天皇の場合、弟に皇位行かず息子に行く争いも困ったのです。毒殺したり兵を向けて殺害したり結構策略ありますね。国を安泰にして民らの暮らしを豊かにする事など関係なかったですね。迷惑そのもの天孫降臨の末裔さん達
民から税を収めさせてくれ、と言って持ってくる為政者は世界史的にも前代未聞。屋根は直さず、ボロを着るこのような方なら確かに自主納税したくなります。 仁徳天皇陵が色々と疑義が出てきたみたいですが、亡くなった後に小さいのを作ったら民から「小さすぎる、ふざけんな!」と激怒されそうなので、現実的に考えて仁徳天皇陵の可能性は捨てきれませんね。
有間皇子の話は、少ししか知らなかったので、左大臣の阿部内麻呂が紀南の豪族であるという地理的なことや、クーデター疑惑に絡んだ温泉の話など、とてもおもしろかったです。
内容が詳しくて、今回も大変参考になりました。耳慣れない用語はなかなか覚えられないので、単に暗記するより、それにまつわる知識を調べていくようにしています。 他では触れられていないような話を聞けるので、助かります。
入鹿が秀才だったなんて初耳です。旻からお墨付きをもらっているなんて、本当に優秀だったのですね。旻より8年後に唐から帰国した南淵請安の塾で中大兄皇子と中臣鎌足が学んでいたことは知られているのに、入鹿も別の塾で中国の最新事情を学んでいたことを教えないなんて、だいぶ印象操作を感じます。 補佐する蘇我家と、大王側で、どちらも学んでいるのなら今後の国のビジョンを話し合って政治をやっていくことは無理だったのでしょうかね。何かというと排除の歴史なので、人材の損失だっただろうに…と思います。
隋書倭国伝と比較されては?
応神天皇は父親が武内宿禰の、「女系天皇」だったということですね!
藤原京の解説は、だいたい同じようなものが多いけど、こちらはアニメーションつきで詳しくて、とても参考になりました。
興味深かったです
なじみがなく流通しなくなる なるほどなー
歴史を先行する者は現代に遺跡等の存在するものを見なければ否定する連中が多いようだ。自ら見つけることもなく反対を論ずるものが果たして古代を研究する価値があるのか、広い気持ちで研究する思考力にほど遠いようだ。抽象的な伝聞は何の価値もないと中傷する歴史学会を代表する考えで歴史を誘導するのはやめてほしいものだ。
出雲王家・富家の彦太君は、三国国造の一人娘・振姫に望まれて婿入りした。その際、王川河口の王ノ海に泊めていた自己が所有していた大形船に乗って行った。越前でも、この大形船で朝鮮半島の百済を中心に活発な貿易を行い、三国周辺の豪族も潤おい、オホド大王として信頼されていた。ヤマトの大王に召されても、直ぐヤマト入りせず淀川近辺に3回宮を建てたが、この間、ヤマトの情勢を見ていた。淀川近辺は、先祖・ヤエナミツミ(事代主)の妃・タマグシ姫の故郷で(三島の豪族)あった。よって三島豪族が支配する安全な淀川沿に宮を建てると共に、交易の利便性も高かったからである。
真備は善役で有能であったことは確かです。ただ彼は能吏であり強固なリーダーシップを取り国を変革する能力までは持ち合わせていなかったように思えます。そこは藤原仲麻呂に軍配が上がるところでしょう。 真備は道鏡政権におけるA級戦犯的立ち位置ですが、非難を避けつつ生き延びる良い意味での狡猾さは身につけていたように思えます。
物部氏が蘇我氏に滅ぼされ 仏教が栄え奈良の大仏とかで病気とか疫病や国民が食料欠乏する事とか排除祈祷するのに神道より大和朝廷は取り入れます。聖徳太子が補佐となって
「漢委奴國王」(西暦57年) は、漢は奴隷国 (=倭國) の王に任命する、の意味だとすると、 日本は西暦57年には成立しており、現在の福岡以北(あるいは以東)を国土としていたことになります。 『後漢書』東夷伝:建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自称大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 西暦57年、倭の奴隷どもの国が皇帝に朝貢し祝賀した。使者は自らを大夫[たぶん医師※]であると称した。倭国の最南端の境界である。光武帝は彼に紐付きの印章を下賜した。(臣下として官職を与えたということ)(光武帝 前6年 - 57年:漢王朝の再興として後 漢王朝を建てた) ※医師とはいっても、当時は外科手術や薬がなかったので、もっぱら祈祷によっただろう。神に仕えることでその地域を治めた。 安帝 の永初元年(107年)冬十月、倭国王帥升が使いを遣わして職人160人を献上し、接見を請うた。 邪馬台国※の「邪馬」は日本語で「山」の意なので、邪馬台国は山中にあると推定できる。また邪馬台国の「臺=台」は魏では中央官庁の意なので、「邪馬(=山)の国」の中央官庁の置かれた場所であろう。あるいは「中央官庁」から「官庁」の意味が除かれ「周囲を山々で囲まれた所」と解釈できる。そこで邪馬台国は「邪馬(山)の国の中央政府」、あるいは「山々の真ん中」の意で=山台=山都(やまと)ではないか。奈良盆地は条件に合っている。 ※邪馬台は日本語の発音1音を中国語の1字に当てはめた。よって日本語では「やまたい」ではなく「やまと」「やまて」「やまつ」など3音で発音された。 中国語では、文字は意味や形態などで表現されるが、中国語にない外国のものを外国人が表現するようにいう場合には、外国語の1音を中国語の1字で表現する。例:Elvis Presly ⇒ 中国語:猫王、外国人の発音の中国語の表記:猫王為什麼要叫猫王 『旧唐書』(945年)では「倭國者、古倭奴國也。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。」(「倭国(わこく)は、かつては倭の奴隷どもの国だった。日本国は、倭国(わこく)の分家(あるいはその系統)なり。その国は太陽に接しているため、日本と名付けた」) 『新唐書 日本伝』(1060年)では「日本、古倭奴也」(「日本(やまと)は、かつては倭の奴隷どもだった」)。つまり倭は九州にあったが(たぶん一部の人々が)東方に移動して、畿内に移った分家 (あるいはその系統) と考えられる。分家は(倭国から見て)日が昇るところにあるため日本と名付けられた。 『魏志倭人伝』では、倭国 ((「わこく」=日本人は「私の国」の意) を奴国 (「なこく」=中国人は「かれらの国」の意味合いで「奴隷たちの国」と表現した※)) といい、その国は 福岡辺りにあったが、その分家(あるいはその系統)の女王國は奈良にあり、その頃、魏の使者が来たということではないでしょうか。(たぶん台与/臺與「とよ」または壱与/壹與「いよ」の治世) ※邪馬台国までの経路で倭國が表記されない理由 女王國は九州の倭国 (わこく)に対し、倭(やまと)と呼ばれた。『倭人伝』では「やまと」を中国語の文字に1字1字あてはめ、「邪馬台」(やまと)と表記した。 奈良は九州より農業に適していたため、新しい都として発達した。女王國の風俗は大きく変化した。九州の時は半農半漁だったのが、農業主体の生活様式、服装などになった。 「倭(やまと)は国の真秀(まほ)ろば 畳(たたな)づく青垣 山籠れる倭しうるわし」(倭建命(ヤマトタケル)・古事記 712年)の「山籠れる倭」より、この時代の倭は、奈良にあった。 奈良では、倭(國) 「わ(こく)」※を「やまと」と読んでいたが、中国語の倭の意味が「馬鹿なチビ」なので、のちに文字を「日本」に替えて「やまと」と呼んだ。(壬申の乱 (672年) で勝利した天武天皇が、国号を「倭」から「日本」に変更した) ※「倭」だけだと日本語の「わたし」の意味なので「倭國」とした。
謀反(むほん)です。
3:53「大学を退学」昔からよく聞くダジャレではありますが、心の準備ができていなかったので笑ってしまいました。
実際に作ってみよう、というところに熱心さが出ている。ところが途中で止めるところがまたいい。
秦の徐福のグループなら秦が滅んで漢から金印をもらうのも容易いことでは?
福井や富山で鉄が出るというのは面白い。富山湾は中央カイレが糸魚川地溝帯へ抜けて伊豆諸島へt続き此処では黒曜石が獲れる。 私の先祖と言うことが我が家の言い伝え。「オホドの殿様」の流れだという子でした。欽明天皇の分かれの武家が北条氏で小田原城の情趣でしたが秀吉に降伏して名古屋の織田信長に帰順して居ます。前田藩に帰属してその後筆頭家老「横井」を名乗り維新で解体されてその後に至る。ちなみに宗教は神道です。
邪馬台国で卑弥呼が亡くなった後、トップがトヨになった時に穢れを恐れて遷都。移動先が宇佐ではなかったかと考えております。豊の国として地名にも残っています。 三柱のヒメはトヨ、あるいは卑弥呼なのかなと思っています。
委奴国あるいは奴国は鹿児島。てかどうやって160人の生口を運んだのか検証して。
1500年続いている天皇家の事実上の始祖と思われるけど、その後の1500年の歴史の重みをふまえてこの天皇を考えるのはおかしいと思う。この時代は恐らく、天皇家もまだ歴史もなく、偶々お山の大将的に祭り上げられている程度の存在。何か起これば滅ぼされるという感じであったとおもう。だから、今思われているほど血統の近さ云々なんてどうでもいい感じではなかったかと思う。大和の地になかなか入らなかったのも、大和にこだわるほどの段階ではなく、他の豪族との力関係で一番安全なところに居を転々としただけのこと、と思うね。あくまで私見・想像ですけどね。
豆知識に紐づけて覚えやすい
野蛮人がノリノリすぎて笑った。
めちゃわかりやすい!
ちょうそ
空海さんと同じくらいの家柄ですね