魏志倭人伝は今まで楷書で書かれてそれを木版本にしたとされて来たが、陳寿が書いた原本は草書だったと云う事実こそが大変な発見で井上氏の書体の研究は邪馬台国論争に大きな楔を打ち込んだ。発音はローマナイズされており中国人を連れて来なくても大丈夫です。古田説はもうこれで終りにしてよい。
九州説では夢がない。当時、中国はインドやヨーロッパに人を行き来していた。海路ではインドまで言っていたという。その規模で交易していて大月氏国にしても大きな国。九州だとしてそんな小さな島のことを詳しく書くだろうか?それに呉の勢力が住んでいたと考えられる。呉服なんかも現代に残っている。九州は避けたとは考えられないだろうか。
音声が不明瞭なのでよく聞き取れなくて残念です 魏書が草書体だったというのは、 証明されているのでしょうか? 原本はありますか?
末盧国から南東に伊都国という記述と合わないですね。
結局邪馬台国九州論者の狭い話でした。 最初と最後は素晴らしい解析ありがとうございました。惜しむらくは九州論に染まっていて拘泥が見られたこと たとえば傍国21国 志摩 美濃 は 三重 岐阜 広く考えてください 陳寿は倭国全体をくわしく魏志倭人伝にかいているのに残念です。
それは貴方独自のご発想でしょうか?畿内説は既に破綻していますよ。陳寿はその時代に倭国に詳しいなどと云うことは100%ありません!
文字学!!こんなことさえ、キチンと検証されてなかったのですか~(笑&涙)
興味深く拝聴いたしました。動画で紹介してくださるにあたり、草書の実際の映像、地図により視覚確認がその都度できましたら、なお一層理解が早かったと思います。文字の美しさも見られれば一粒で二度おいしいと思います。九州の地名はとても難しく感じます。これも歴史が深い故だと思います。
草書の視点は大変勉強になりました。同じ方法で名前・官職名も分析ができるのではないでしょうか。『一大卒』は「一大国」と同じ借字(≒外国語の固有名詞)なんでしょうか。それとも一人の「大卒」を特別に置いたという意味なんでしょうか。なお、魏志韓伝の国名も、(倭人が多く住んでたことから)北部九州と同じ音・漢字が使われてることが多く、分析結果に興味あります。
素晴らしい解釈 邪馬台国の研究では第一
ご解説に、興味津々です❗
関東地方が邪馬台国です!隠されてますね。
山の国。
目から鱗!!
書道家が読んでもねえ!中国人も交えて話したほうがまだ説得力があるけど。
もうヤマダでいいよ。ヤマトはユダヤ人の王朝。
そんなに間違いの多い書物ならば、まともに取り扱わない方が利口ではw
倭人伝には、壹と臺が合計150個以上使われている。 邪馬壹国の箇所以外で書き間違いwがあるんですか? ここだけ間違えた?それは聞こえませんぜw
日本語の助詞の「の」は「まなこ」や「きなこ」の例で例えると、「ま」は「目(め)」の古形、「な」は「の」の古形、きなこも同様です。目の子、黄色の粉(こ)というわけです。 助詞以外の「の」も古代において「な」であった可能性があります。
日本語には古代において母音の連続を許さない時代がありました。厳格な母音言語です。 例えば秋雨・春雨という言葉があります。これは漢字だけ見ると「あきあめ」「はるあめ」であるはずですが、aki-ame、haru-ameと母音が連続してしまうためなぜかs音を挿入して「akisame」「haruasme」としました。 対馬に対しても私は以前から同じ理屈ではないかと考えています。tu-imaでは具合が悪いのでtusimaとしたのです。 とすればこのころの倭人は母音連続を許し、のちに許さない言語文化圏のものたちが北部九州に侵入しtusimaとしたのでしょうか。倭人は明らかに弥生系の言語的文化的影響を強く受けているはずです。(シナ語派は母音言語ではありません。)それは東に行くほど薄くなる。関東の人間が防人として福岡にあたりに赴任させられて言語文化に変化が起きたのでしょうか。しかし関東は関西より若干子音終わりを許しやすい発音をするそうなのでどちらかと言えば関西の古い影響がtuimaをtusimaに変えたのではないかと思います。当時の北部九州にしても邪馬台国の死者はtuimaと発音し、少し違う地域ではtusimaと発音したかもしれません。大和朝廷時代にtusimaになったかもしれません。
天照=卑弥呼すなわち朝倉=邪馬台国以外はほぼ自説と一緒でびっくりしました! 時代背景が加味されたらさらにストーリーが膨らみそうですね😃 ちなみに私は邪馬台国は熊本説です👍
里程、特に「水行十日陸行一月」の解釈をお聞きしたいものです。
楷書というのは1文字書くのに平均40秒もかかるのでしょうか?自分は習字を子供の頃にしたっきりでよく知りませんが..
撰述作業でかかる1文字の平均時間だと私は解釈しました。最低でも3回書くことになりますね。校正や校閲の時間も当然込みの平均時間です。
大筋では納得しました。お礼を云いたい。しかし大和政権と邪馬台国はもともと関係無い国だと思っています。邪馬台国を含む九州を征伐した後に中国の記録の邪馬台国と卑弥呼、そして倭国の呼称を知り、大和朝廷が日本書紀と古事記を利用して天皇家の先祖のことと誤解されるように仕向けたと考えております。古事記と日本書紀では色々他国(出雲など)のことを自分のもののようにしちゃってますよね。大物主は大国主と同一人物になってるし、神功皇后も卑弥呼と匂わせるような記述があるし、本来太陽信仰の男性神である天照を女性にしてしまったり、大日如来と同一にしちゃったり、メインの神様は大物主なのに天照に変更しちゃったり。 古事記と日本書紀を作るように命じた天武天皇あたりから朝廷に変更事が沢山有るので調べると面白いですよ。奈良の地名を大和(大倭)としてヤマトと読ませたりもしたのだと思います。(大日本か!!)そうそう国名も倭から日本にしたのもこの頃ですね。
いえいえ 聞きかじりではありません、倭王側に 漢文の才能ある 「文字官僚」がいて、 奉詔書印綬詣倭国 倭王因使上表 答謝詔恩 (詔書 印綬を倭王に授けた。倭王は上表し 感謝の意を表して答えた) 当然 文字官僚が書いた 公式文書(上表文) の末尾に「倭国王 俾弥呼」 と自署されていた。 御名御璽の慣わしで この時貰った 「金印」親魏倭王之印を 誇らしく押印。 この上表文を 倭人伝の著者 陳寿は 実見し俾弥呼と記録した。
どうしても 「ヤマト」と読みたい論者へ 発音が「ヤマト」なら 「邪馬壹」でなく「邪馬都」 と表記したはず。 なぜなら 「女王の都する所」 と記載され 「邪馬都」 がふさわし。(伊都國の都(ト)です) 【原文】南至邪馬壹國 女王之所都
どうしても『ヤマイチ』でなければならないようだが、『邪馬臺』の側としては読み方を限定してはいない。別に『ヤマタイ』でも『ヤマテ』でもいいのだが、仮に『都』という文字が使用されていなくても『ヤマイチ』などという地名は存在しなかったので、『邪馬壹』信者は草書体だったことも認めない頑固さである。あくまでも『音韻』上の問題であるのに『ヤマト』と読ませるために文献を改竄しているとでも言うつもりなのか。では都でないところに都という文字が使用されているのをどう説明するのか?(都支國、好古都國)上代日本語では位置によって音韻の種類が制限されていた。(1)あ行音節は語根の頭以外の位置に立たないこと(2)ら行音節が語根の頭に立たないこと(3)濁音音節が語頭に立たないこと。『倭人伝』であ行音節を表す漢字は声母から観て伊、已、一、壹、邑、烏の6字種、延べ11字。この内、語頭以外の位置に用いられたのは『邪馬壹國』『呼邑國』の2例。このうち『邪馬壹國』は『後漢書』『梁書』隋書』では『邪馬臺國』に変換されている。『臺』は定母字なので音韻法則に反しない。『倭人伝』の表記は当時の中国人の思い付きや単なる『卑字化』ではないのである。中国語の音韻体系の勉強をされた方がよい。
この井上悦文氏はヤマトと読ませたい訳ではない。井上氏は寧ろヤマダと読むと云われている。
鬼弥呼(キミコ)とか?
正解!
うちの母の名前
鬼すなわち占い師。シャーマン。ヒノミコではない。
まず『臺』について大和説側から指摘しておく。この字は音韻としてだけでなく表意文字としても機能していると考える。この字は中国では朝廷、あるいは高殿という意味があって中央官庁を指している。東夷伝でも壱与の時代、『因って臺に詣り』という表現もあるし、後漢の光武帝は『尚書臺』を設置した。多分生駒山の麓の中央官庁という意味であろう。もう一つ指摘すれば東夷伝の『国』を勝手に『郡』と結びつけて貰っては困る。地名の読み方だけの問題ではないのである。方位方角距離人口も書かれているからだ。九州地方の何処に七萬餘戸の痕跡があるだろうか。『国』=郡という設定に無理があると思う。
「九州地方の何処に七萬餘戸の痕跡があるだろうか。」 それは当時の機内にも(みつかってい)ないでしょ。
@@かるいし-l4p そうですね。「香久山に登ると、窯の煙たち、カモメが飛んでいる。ああ。ヤマトはなんと素晴らしいんだ! 」めちゃくちゃ現代一般人に訳しましたが原文はもっと高等です。(笑)
そして邪馬台国の時代は、2、3世紀頃。日本は初代神武天皇から数えて、14代目、神功皇后。あの応神天皇の母君。皇后がもしかしたら、卑弥呼だったと言う話しもあります。どちらかと、いえば武人なので、祈祷しとは程遠いジョブなのですが。日本史に数える屈指の女帝であるの事は、その功績から間違いないです。
@@津上しょういち神功皇后卑弥呼説はお止めになられたほうがいいです。
表意文字機能?生駒山?全て貴方の独自の判断ですが?因みに「臺」の文字はそのように重要な意味があるなら、たった一箇所だけ魏志倭人伝に使用されているのは何故でしょうか?生駒山などと云うのは貴方のご想像だけでどこにそんな根拠があるのでしょうか?国を郡に比定することは何の問題も無いです。地名とは余程のことが無い限り全く別な地名になることはありません。それよりも畿内説は既に破綻していることを認識されるべき!
こじつけが酷い
おもしろい!草書の文字を揩書で写した時の間違いだったとは全く考えもしなかった。
草書体はあり得ない。小さな草書体は書けないし読めない。
最近、邪馬台国や卑弥呼など全て無かったのでは?と思うようになりました。
ヤマダ国!
ヤマダ國ですか?やまたいこく、とか やまいちこくとか ヤマダ國とか 名称は変えないで下さいね、邪馬台国は やまとこく、ヤマト國と 読んで下さい。
末蘆国が松浦からだと、方角が違うように思う 福永晋三先生の言う様に、末蘆国は宗像だと思う
納得できる部分は多いけど、じゃあその草書はどこにあるの?って感じで確信に至らない。
たくさんの解釈がある。ある意味特筆すべき意見だと思う。全く新しい方向から物事を考えることの大事さを感じさせる。
こう言う分析は是非必要と思います。着眼点凄ですね。脱帽です。
結論、おおむね正解で一部間違いがあると思います。 私は肯定派なので、否定派へコメントします。 卑弥呼は日本統一をしていません。 日本統一したのは山幸彦族です。 卑弥呼は海幸彦族です、山幸彦族とは敵対していました。 しかし山幸彦と結婚した豊玉姫は海幸彦族の姫です。 山幸彦族の歴史書ウエツフミでもアマテラスが今と同じ認識で登場します、つまりイザナギとイザナミの子供の三貴神でいわゆる今の主神であると。 古事記の編纂を命じた天武天皇は海幸彦族です、つまり古事記は海幸彦族の歴史書という事です。 海幸彦族の歴史書でも同じようにアマテラスは三貴神で主神として書かれています。 山幸彦族と海幸彦族は敵対していますが、崇める神は同じだったのです。 だから卑弥呼が第○○代アマテラスであると名乗っていたとしてもおかしくはありません。 井上先生が卑弥呼はアマテラスであったのだと誤解してもおかしくはないのです。 先にアマテラスを崇拝する文化があり、卑弥呼がアマテラスに自分を寄せていったという事です。 Mo Yuna様、大変革新をついています、貴方の意見は井上先生の説を裏打ちしています。 山幸彦族は初期に、海幸彦族の姫を嫁にもらい和睦していますが、かなり早い段階で国交断絶しています。 海幸彦族は八幡神を崇拝している事からユダヤ人である事がわかります。 日本の本流である山幸彦族から見ると、卑弥呼とは夜盗の山田国の女頭でピタリと井上先生の説を裏付けています。 卑弥呼が日本の本流であるという思い込みが間違いなのです。 日本の本流は、ニニギノミコト→山幸彦族→山幸彦と豊玉姫(海幸彦族)の息子初代ウガヤフキアエズノミコト→73代ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇)→74代ウガヤフキアエズノミコト→神武天皇の傍流の息子→祟神天皇(徐福家)→神功皇后(第○代卑弥呼(海幸彦族))→応神天皇(海幸彦族)→神武天皇の子孫(山幸彦族)→天武天皇(海幸彦族)→桓武天皇(山幸彦族)以降ずっと山幸彦族が続く このようになっています 卑弥呼が夜盗の山田国の女頭でピタリと一致します。
面白い
邪馬台国は 球磨郡 にありました 隼人 熊襲 よ日本ではゆわれました
壱岐迄は良かったんですが、末盧で間違いましたね…壱岐から千余里(65km)で到達するのは宗像辺りです。 時速4~5kmで壱岐から出発すると時速6~7kmの海流に流されて東に向かいますから壱岐からは難しい。 対馬から南西に向かい進行すれば松浦に到達する事は可能ですが壱岐から到達可能なのは宗像辺りになります… つまりそれ以降の想定が総て狂ってしまいますから宗像を末盧とした再考が必要になると思います”博多”は海中(^^♪
壱岐の説明に「南北に市テキす」とあるから、特に方角が書いてなかっても南に向かったことは明らか。 何処から東が出て来るの?
@@加藤勉-g5p < 過去の実験はすべて失敗してます。手漕ぎボートで南下する速度よりも速い海流で関門海峡方面に流されます。 松浦に向かうためには海流に逆らい船を進めなければならないがその方向では後退する事になる。 次第に東に流されていき船の行き足を止めると関門海峡へ、南下すれば宗像あたりに行き着く(^^♪
@@なんと-y7k さん で、「南北に市テキす」はどう解釈しますか? 宗像は、壱岐から見て南ですか?
@@加藤勉-g5p < 対馬迄の距離が67.5km強は正しい、壱岐までの67.5km強も正しいが、壱岐から松浦は30km程度で有るからこれは違う! 壱岐から67.5km強を時速4km程度の手漕ぎ船で南進すれば時速5~6kmの潮流が有り東に流されるため距離が正しいとすれば宗像に到達すると考えられる。 当時の遠賀湾(現在の遠賀川流域)は縄文海進の影響が残っており大きな湾となっていた事も考慮しなければいけないね。 遠賀湾だけでなく日本中何処でも現在の平野部が当時は海の底だった事を考慮して地形や地名を見なければ見誤る(^^♪
@@なんと-y7k さん では、何故「北と東に市テキす」と書かなかったのだろう? 中国人にとって南と東は同じ?誤写? 後、当時の一里は76〜77メートル説を支持してます。
場所の特定は説得力があったけど、卑弥呼が天照大神というのはいただけない。卑弥呼は3世紀の人、天照大神は紀元前の人ですよ。
記紀の1年を西暦の1年に同定すればね。
古事記や日本書紀を文字通り信じると神武天皇即位は紀元前660年だと言われている。天照はその5代前の先祖なので、更に150年位前の紀元前800年前後の人ということになる。卑弥呼が魏に朝貢したのは紀元後273年なので、その年代差は1,000年以上ある。古事記が年に4つ歳を取る前提で書かれているとしても、二人が同じ時代を生きていたと考えるには無理があると思う。
@@osamakeiko 私は記紀の年代換算は長浜浩明氏の説を支持しています。それだと神武天皇即位は紀元前70年で、どちらにしても時代は合いませんね。 私は記紀はいろいろな神話の寄せ集めで編纂主自身も年の扱いをしっかり理解していなかったかあえてそのような扱ったかしたと思います。 記紀としては天照を使いたかったけど、卑弥呼の存在を確定させる気もなかった。卑弥呼がいたかもしれない北部九州に天照神を祭る集団がいた。ただの偶然の一致かもしれない。記紀はなんらかのストーリーに基づいて話が構成されているのは確かですね。たとえば、ご存じかどうかわかりませんが少し小話を。 天津 日高日子 波限 建 鵜葺草 葺 不合命 あまつ ひこひこ なぎさ いたる うがや おさむ あえず 建を古訓でイタル、葺を古訓でオサムをそれぞれ採用して読ませています。どっかのブログにあったものです。この長い名前の記紀に記される人物は神武の父親になっています。 古代ユダ王国の王命 9代 アマツヤ、7代 アタルヤ、10代 ウジヤ、11代 ヨタム、12代アハズ これらはユダ王国の王命です。一部不明ですが先述のものとほとんど音が一致します。違う音も相互に移り変わりやすい音です。 ユダ王国のアハズは紀元前715年に退位。神武天皇即位が紀元前“660”年。なかなか近い年代でしょう。このユダ王国の王命との一致は私は偶然ではなく記紀を書かせたものたちの意思だと思います。王命がごっちゃになるくらいわずかで頼りない伝承でもねじ込みたかった意思がそこに見えますね。 このように記紀の年代をあたかも西暦の1年と同様に扱っているかと思えば、それでは解釈不能な年(とし)が記紀の中に散見される具合です。記紀が不確かな記録によって書かれたことがうかがえます。 記紀の年の数え方はウガヤフキアエズの存在に合わせたかったのだろうと思います。 神武天皇即位が紀元前70年だとして父親5代の一番古いアタルヤまで130年ほど。空白の55年を2倍年として割って22年に。 それら加えてさかのぼって父1代目の即位が紀元前222年、そこから天照までさらに150年さかのぼって紀元前372年あたりに何かありそうな気もしますね。概算で紀元前350年くらいに本当の始まりになるものがあったのかもしれないですね。その上にまだイザナギイザナミがいますけど。
偽書だと言う人も多いですが、ホツマツタエによると、その時代はキアエ暦という60年周期の干支で年を表しており、神武即位はサナト(辛酉)の年だそうです。紀元で言うと、紀元元年、紀元前60年、120年などのどれかになります。長濱説に近いところを選べば紀元前60年ということになります。そうだとすると、記紀は600年ほど嵩上げをして書かれていることになります。おそらく、遣唐使を送るのに日本が歴史の浅い国だとバカにされたくなかったのではないでしょうか? 日ユ同祖論については何もコメント出来る情報を持ち合わせていません。ご参考に私が頼りにしているホツマツタエのサイトを紹介します。hotsuma.anyone.jp/mikai/
大和と日本国は別です。
動画のUPありがとうございました。 参考になります blog.livedoor.jp/housen_seinen/
まあちゃん1 秒前私も独自の観点から邪馬台国について動画を挙げています。よろしければ見てください。th-cam.com/channels/8PXo9Ln7QJ2XfQtKtPOWkA.html 是非、チャンネル登録お願いします
ヤマダなら筑豊の入り口にあるだろ。今は嘉麻市となってるが、まさに、山が終わって平地になるポイントだよ。山が田になる所だ。そして、こういう場所だと大規模な感慨技術が無くても水を引きやすいし、流量が少ないので氾濫も起こりにくいぞ。都を置くには最適だし、防衛にも優れている。また、遠賀川の水運を河口から遡って、少なくとも1日じゃ絶対に着かない距離になる。
卑弥呼のお墓に比定する古墳はありますか?
ヤマトの東北訛りはヤマドに聞こえますね 言葉は伝播していってるので東北訛りは古代の日本語の発音に一番近いと思います 大陸人にはヤマトはヤマドに聞こえていてもなんら不思議ではないですね 「と」が「どい」として大陸に伝わり時間を経て「どい」が「たい」に変化して戻ってきた そして「た」を「と」と読む万葉仮名づかいが生まれたと考えるとすべてが綺麗につながった様に感じるのは私だけでしょうか
草書(アマテラス)で書いていたものを楷書(マテラフ)で書き直した段階でのミスだ アマテラスとなる 朝倉神社はイサナキ様のお宮です アマテラス アマキミ 太陽のように照らす存在の天皇を意味している アマテルカミ ワカヒト様の御代であって イサナキ様の所領と言われ 朝倉の神社はイサナキ様のお宮です それから時代が進み この地に住み着いた渡来人が悪さをして困ると陳情があったと記してあります その夜盗が女を頭として山田国と名乗った とあり 何故 それが 卑弥呼がなのか ここ朝倉はハタレ争乱の首謀者 ハヤコが 捕らわれてからここに置かれ ここで死んでいます 住み着いた女がハヤコを名乗ったとしても おかしくない ハヤコは アマテルカミの娘(宗像3姫)を生んでいる その名前を使ったということだろう
麻弖良山がある嘉麻市は旧山田市ですね(;゙゚’ω゚’):いろんな符号が合ってて興味深いです
この井上説。凄く確信をついているのに説明が分り辛いのが難点。はっきいいって説明が下手。本も分りづらいし。もう少しポイントをとらえて簡潔に説明すれば世間への影響もあるのに。それが残念。
凄く核心をついた発言ですね。
下手と言うことはこの話は間違いですね!
この井上説と、安本説を合わせると邪馬台国は100%福岡にあったことになる。つか、近畿説なんてちゃんちゃらおかしい話しにもならない説なんだけどね。日本のメディアがレベル低いからこんな茶番劇がいつまで経っても終わらない。
邪馬台国の国境に至るルートの再検証 陳寿による壱岐から末蘆国までは南進で正しい。末蘆国より東南で伊都国に至るだが肝心な事は伊都国で金印が出土した事実。邪馬台国論争の中で唯一絶対的な証拠を近畿説論者は邪馬台国論争から無視し逃げる様だが根拠を否定する考古学 歴史学は100%無意味で価値も無く瓦解する。 金印出土に付いての考査に於いても貰う筈の卑弥呼に届かず伊都国で保管し発見された大きな理由が有った筈。伊都国は一大卒を置く重要な役所で有る事から卑弥呼身辺に重大な事件が発生した為に渡せず保管したとは考えられないだろうか。 次に伊都国より東南だが奴国に着くは大まかに正解と解釈。江戸時代から邪馬台国論争が決着しない一つの大問題の争点はこの後だ。 「東」へ百里で不弥国に到達と魏志記述に残す。怪しいのは博多湾から東方向は北九州―四国―出雲方面に向かい推測がより難しく成る。古代中国の天文観測では南指と言う言葉が有る様に聞くが星座による航海術を熟知した集団にすると東南の間違いは考え難いのだが実際には福岡市から内陸に入り南下し百里で不弥国( 宇美町)に到達に成る。 この宇美の由来は神功皇后が応神天皇を御生みに成られた場所なので宇美と付けられた宇美神社でそのご本尊は大分の宇佐神社に祭られている。 話は反れたが邪馬台国九州説も畿内説でも不弥国に海は無く無駄な内陸行で有り魏志倭人条記述は伝聞の空想で百%破綻すると思ったのだがなぜ関係の無い様な不弥国に行くのかの疑問を解く鍵が有った。この宇美から近い宝満山に上宮と中宮社が有りここで空海.最澄らが航海の安全祈願を行った歴史を持つと言う。古代から深い歴史を有すればこそ中国の使者らも参拝をしたと言う事はこの土地周辺に卑弥呼に関係する居城でも有ったのではとロマンを広げたく成るのですが読者の皆さんは如何でしょう。 記述が書写で有る以上書き落とし読み違いは起こり得る。問題の解決はこの不弥国へ(東)を南へ百里と訂正すれば次の南進して投馬国さらに南進すば邪馬台国国境に到着する。勿論投馬国からは距離数が日数に変る上水行20日などは狗邪韓国からの日数ではないか疑問は残るが穀倉地帯の久留米市を南下し現在の熊本との県境八女市に着く。更に南下し当時の投馬国で有ろう山鹿市周辺に当たりその下に古代から強力な豪族菊池氏が栄えた菊池市からが女王国に逆らう狗奴国になり実り豊かな筑後平野 佐賀平野 筑紫平野を含めた穀倉地帯での地域権力抗争が倭人伝に言う「倭の大乱」と残す理由だろう。 又この八女市こそが神社の巫女の発祥と言われる程の歴史の深さに卑弥呼に関わるロマンを感じるがこんなに狭い地域に古墳が数百個も発掘されたと言うのは驚きで山鹿市に於いては君が代の原点とされるさざれ石の不動岩がその威容を古代から誇っているも圧巻だ。 話を戻し王女国の九州説の根拠として倭人伝ではその南に狗奴国有り女王に属せずと書くこれが畿内説ならその南に邪馬台諸国に対し武器を持ち戦争を仕掛ける強力な狗奴国の存在の確証が求められ武器らの出土も根拠になろう。 また邪馬台国の以北に30ケ国とし最後に再度奴国が女王の境界との意味はこの投馬国で南に狗奴国が隣接する地理的条件での邪馬台国名は対馬国より南下した30カ国を代表した国名と解釈すれば無理が無いのではと思われる。現在の47都道府県代表名の日本国と同義的に理解すれば邪馬台国論争は決着し残すはこの穀倉地帯の何処かに有る卑弥呼の居城と墓地の調査に成る。なお無理に畿内説を取るならば以北は京都―琵琶湖方面になり境界の奴国は無い事をどの様に説明されるのか。門外漢の推理ですがご意見を期待したいと思います。
松浦から朝倉まで陸行1月もかかるでしょうか
このような動画が好きなのですが、撮影者の方 音声はミキサーから直接ラインでの 撮影・録音にしませんか? 音声が反響して本当に聞き難いんですよ。
魏志倭人伝は今まで楷書で書かれてそれを木版本にしたとされて来たが、陳寿が書いた原本は草書だったと云う事実こそが大変な発見で井上氏の書体の研究は邪馬台国論争に大きな楔を打ち込んだ。発音はローマナイズされており中国人を連れて来なくても大丈夫です。古田説はもうこれで終りにしてよい。
九州説では夢がない。当時、中国はインドやヨーロッパに人を行き来していた。海路ではインドまで言っていたという。その規模で交易していて大月氏国にしても大きな国。九州だとしてそんな小さな島のことを詳しく書くだろうか?それに呉の勢力が住んでいたと考えられる。呉服なんかも現代に残っている。九州は避けたとは考えられないだろうか。
音声が不明瞭なのでよく聞き取れなくて残念です 魏書が草書体だったというのは、 証明されているのでしょうか? 原本はありますか?
末盧国から南東に伊都国という記述と合わないですね。
結局邪馬台国九州論者の狭い話でした。 最初と最後は素晴らしい解析ありがとうございました。惜しむらくは九州論に染まっていて拘泥が見られたこと たとえば傍国21国 志摩 美濃 は 三重 岐阜 広く考えてください 陳寿は倭国全体をくわしく魏志倭人伝にかいているのに残念です。
それは貴方独自のご発想でしょうか?畿内説は既に破綻していますよ。陳寿はその時代に倭国に詳しいなどと云うことは100%ありません!
文字学!!こんなことさえ、キチンと検証されてなかったのですか~(笑&涙)
興味深く拝聴いたしました。動画で紹介してくださるにあたり、草書の実際の映像、地図により視覚確認がその都度できましたら、なお一層理解が早かったと思います。文字の美しさも見られれば一粒で二度おいしいと思います。九州の地名はとても難しく感じます。これも歴史が深い故だと思います。
草書の視点は大変勉強になりました。同じ方法で名前・官職名も分析ができるのではないでしょうか。『一大卒』は「一大国」と同じ借字(≒外国語の固有名詞)なんでしょうか。それとも一人の「大卒」を特別に置いたという意味なんでしょうか。なお、魏志韓伝の国名も、(倭人が多く住んでたことから)北部九州と同じ音・漢字が使われてることが多く、分析結果に興味あります。
素晴らしい解釈 邪馬台国の研究では第一
ご解説に、興味津々です❗
関東地方が邪馬台国です!隠されてますね。
山の国。
目から鱗!!
書道家が読んでもねえ!中国人も交えて話したほうがまだ説得力があるけど。
もうヤマダでいいよ。ヤマトはユダヤ人の王朝。
そんなに間違いの多い書物ならば、まともに取り扱わない方が利口ではw
倭人伝には、壹と臺が合計150個以上使われている。 邪馬壹国の箇所以外で書き間違いwがあるんですか? ここだけ間違えた?それは聞こえませんぜw
日本語の助詞の「の」は「まなこ」や「きなこ」の例で例えると、「ま」は「目(め)」の古形、「な」は「の」の古形、きなこも同様です。目の子、黄色の粉(こ)というわけです。 助詞以外の「の」も古代において「な」であった可能性があります。
日本語には古代において母音の連続を許さない時代がありました。厳格な母音言語です。 例えば秋雨・春雨という言葉があります。これは漢字だけ見ると「あきあめ」「はるあめ」であるはずですが、aki-ame、haru-ameと母音が連続してしまうためなぜかs音を挿入して「akisame」「haruasme」としました。 対馬に対しても私は以前から同じ理屈ではないかと考えています。tu-imaでは具合が悪いのでtusimaとしたのです。 とすればこのころの倭人は母音連続を許し、のちに許さない言語文化圏のものたちが北部九州に侵入しtusimaとしたのでしょうか。倭人は明らかに弥生系の言語的文化的影響を強く受けているはずです。(シナ語派は母音言語ではありません。)それは東に行くほど薄くなる。関東の人間が防人として福岡にあたりに赴任させられて言語文化に変化が起きたのでしょうか。しかし関東は関西より若干子音終わりを許しやすい発音をするそうなのでどちらかと言えば関西の古い影響がtuimaをtusimaに変えたのではないかと思います。当時の北部九州にしても邪馬台国の死者はtuimaと発音し、少し違う地域ではtusimaと発音したかもしれません。大和朝廷時代にtusimaになったかもしれません。
天照=卑弥呼すなわち朝倉=邪馬台国以外はほぼ自説と一緒でびっくりしました! 時代背景が加味されたらさらにストーリーが膨らみそうですね😃 ちなみに私は邪馬台国は熊本説です👍
里程、特に「水行十日陸行一月」の解釈をお聞きしたいものです。
楷書というのは1文字書くのに平均40秒もかかるのでしょうか?自分は習字を子供の頃にしたっきりでよく知りませんが..
撰述作業でかかる1文字の平均時間だと私は解釈しました。最低でも3回書くことになりますね。校正や校閲の時間も当然込みの平均時間です。
大筋では納得しました。お礼を云いたい。しかし大和政権と邪馬台国はもともと関係無い国だと思っています。邪馬台国を含む九州を征伐した後に中国の記録の邪馬台国と卑弥呼、そして倭国の呼称を知り、大和朝廷が日本書紀と古事記を利用して天皇家の先祖のことと誤解されるように仕向けたと考えております。古事記と日本書紀では色々他国(出雲など)のことを自分のもののようにしちゃってますよね。大物主は大国主と同一人物になってるし、神功皇后も卑弥呼と匂わせるような記述があるし、本来太陽信仰の男性神である天照を女性にしてしまったり、大日如来と同一にしちゃったり、メインの神様は大物主なのに天照に変更しちゃったり。 古事記と日本書紀を作るように命じた天武天皇あたりから朝廷に変更事が沢山有るので調べると面白いですよ。奈良の地名を大和(大倭)としてヤマトと読ませたりもしたのだと思います。(大日本か!!)そうそう国名も倭から日本にしたのもこの頃ですね。
いえいえ 聞きかじりではありません、倭王側に 漢文の才能ある 「文字官僚」がいて、 奉詔書印綬詣倭国 倭王因使上表 答謝詔恩 (詔書 印綬を倭王に授けた。倭王は上表し 感謝の意を表して答えた) 当然 文字官僚が書いた 公式文書(上表文) の末尾に「倭国王 俾弥呼」 と自署されていた。 御名御璽の慣わしで この時貰った 「金印」親魏倭王之印を 誇らしく押印。 この上表文を 倭人伝の著者 陳寿は 実見し俾弥呼と記録した。
どうしても 「ヤマト」と読みたい論者へ 発音が「ヤマト」なら 「邪馬壹」でなく「邪馬都」 と表記したはず。 なぜなら 「女王の都する所」 と記載され 「邪馬都」 がふさわし。(伊都國の都(ト)です) 【原文】南至邪馬壹國 女王之所都
どうしても『ヤマイチ』でなければならないようだが、『邪馬臺』の側としては読み方を限定してはいない。別に『ヤマタイ』でも『ヤマテ』でもいいのだが、仮に『都』という文字が使用されていなくても『ヤマイチ』などという地名は存在しなかったので、『邪馬壹』信者は草書体だったことも認めない頑固さである。あくまでも『音韻』上の問題であるのに『ヤマト』と読ませるために文献を改竄しているとでも言うつもりなのか。では都でないところに都という文字が使用されているのをどう説明するのか?(都支國、好古都國)上代日本語では位置によって音韻の種類が制限されていた。(1)あ行音節は語根の頭以外の位置に立たないこと(2)ら行音節が語根の頭に立たないこと(3)濁音音節が語頭に立たないこと。『倭人伝』であ行音節を表す漢字は声母から観て伊、已、一、壹、邑、烏の6字種、延べ11字。この内、語頭以外の位置に用いられたのは『邪馬壹國』『呼邑國』の2例。このうち『邪馬壹國』は『後漢書』『梁書』隋書』では『邪馬臺國』に変換されている。『臺』は定母字なので音韻法則に反しない。『倭人伝』の表記は当時の中国人の思い付きや単なる『卑字化』ではないのである。中国語の音韻体系の勉強をされた方がよい。
この井上悦文氏はヤマトと読ませたい訳ではない。井上氏は寧ろヤマダと読むと云われている。
鬼弥呼(キミコ)とか?
正解!
うちの母の名前
鬼すなわち占い師。シャーマン。ヒノミコではない。
まず『臺』について大和説側から指摘しておく。この字は音韻としてだけでなく表意文字としても機能していると考える。この字は中国では朝廷、あるいは高殿という意味があって中央官庁を指している。東夷伝でも壱与の時代、『因って臺に詣り』という表現もあるし、後漢の光武帝は『尚書臺』を設置した。多分生駒山の麓の中央官庁という意味であろう。もう一つ指摘すれば東夷伝の『国』を勝手に『郡』と結びつけて貰っては困る。地名の読み方だけの問題ではないのである。方位方角距離人口も書かれているからだ。九州地方の何処に七萬餘戸の痕跡があるだろうか。『国』=郡という設定に無理があると思う。
「九州地方の何処に七萬餘戸の痕跡があるだろうか。」 それは当時の機内にも(みつかってい)ないでしょ。
@@かるいし-l4p そうですね。「香久山に登ると、窯の煙たち、カモメが飛んでいる。ああ。ヤマトはなんと素晴らしいんだ! 」めちゃくちゃ現代一般人に訳しましたが原文はもっと高等です。(笑)
そして邪馬台国の時代は、2、3世紀頃。日本は初代神武天皇から数えて、14代目、神功皇后。あの応神天皇の母君。皇后がもしかしたら、卑弥呼だったと言う話しもあります。どちらかと、いえば武人なので、祈祷しとは程遠いジョブなのですが。日本史に数える屈指の女帝であるの事は、その功績から間違いないです。
@@津上しょういち神功皇后卑弥呼説はお止めになられたほうがいいです。
表意文字機能?生駒山?全て貴方の独自の判断ですが?因みに「臺」の文字はそのように重要な意味があるなら、たった一箇所だけ魏志倭人伝に使用されているのは何故でしょうか?生駒山などと云うのは貴方のご想像だけでどこにそんな根拠があるのでしょうか?国を郡に比定することは何の問題も無いです。地名とは余程のことが無い限り全く別な地名になることはありません。それよりも畿内説は既に破綻していることを認識されるべき!
こじつけが酷い
おもしろい!草書の文字を揩書で写した時の間違いだったとは全く考えもしなかった。
草書体はあり得ない。小さな草書体は書けないし読めない。
最近、邪馬台国や卑弥呼など全て無かったのでは?と思うようになりました。
ヤマダ国!
ヤマダ國ですか?やまたいこく、とか やまいちこくとか ヤマダ國とか 名称は変えないで下さいね、邪馬台国は やまとこく、ヤマト國と 読んで下さい。
末蘆国が松浦からだと、方角が違うように思う 福永晋三先生の言う様に、末蘆国は宗像だと思う
納得できる部分は多いけど、じゃあその草書はどこにあるの?って感じで確信に至らない。
たくさんの解釈がある。ある意味特筆すべき意見だと思う。全く新しい方向から物事を考えることの大事さを感じさせる。
こう言う分析は是非必要と思います。着眼点凄ですね。脱帽です。
結論、おおむね正解で一部間違いがあると思います。 私は肯定派なので、否定派へコメントします。 卑弥呼は日本統一をしていません。 日本統一したのは山幸彦族です。 卑弥呼は海幸彦族です、山幸彦族とは敵対していました。 しかし山幸彦と結婚した豊玉姫は海幸彦族の姫です。 山幸彦族の歴史書ウエツフミでもアマテラスが今と同じ認識で登場します、つまりイザナギとイザナミの子供の三貴神でいわゆる今の主神であると。 古事記の編纂を命じた天武天皇は海幸彦族です、つまり古事記は海幸彦族の歴史書という事です。 海幸彦族の歴史書でも同じようにアマテラスは三貴神で主神として書かれています。 山幸彦族と海幸彦族は敵対していますが、崇める神は同じだったのです。 だから卑弥呼が第○○代アマテラスであると名乗っていたとしてもおかしくはありません。 井上先生が卑弥呼はアマテラスであったのだと誤解してもおかしくはないのです。 先にアマテラスを崇拝する文化があり、卑弥呼がアマテラスに自分を寄せていったという事です。 Mo Yuna様、大変革新をついています、貴方の意見は井上先生の説を裏打ちしています。 山幸彦族は初期に、海幸彦族の姫を嫁にもらい和睦していますが、かなり早い段階で国交断絶しています。 海幸彦族は八幡神を崇拝している事からユダヤ人である事がわかります。 日本の本流である山幸彦族から見ると、卑弥呼とは夜盗の山田国の女頭でピタリと井上先生の説を裏付けています。 卑弥呼が日本の本流であるという思い込みが間違いなのです。 日本の本流は、ニニギノミコト→山幸彦族→山幸彦と豊玉姫(海幸彦族)の息子初代ウガヤフキアエズノミコト→73代ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇)→74代ウガヤフキアエズノミコト→神武天皇の傍流の息子→祟神天皇(徐福家)→神功皇后(第○代卑弥呼(海幸彦族))→応神天皇(海幸彦族)→神武天皇の子孫(山幸彦族)→天武天皇(海幸彦族)→桓武天皇(山幸彦族)以降ずっと山幸彦族が続く このようになっています 卑弥呼が夜盗の山田国の女頭でピタリと一致します。
面白い
邪馬台国は 球磨郡 にありました 隼人 熊襲 よ日本ではゆわれました
壱岐迄は良かったんですが、末盧で間違いましたね…壱岐から千余里(65km)で到達するのは宗像辺りです。 時速4~5kmで壱岐から出発すると時速6~7kmの海流に流されて東に向かいますから壱岐からは難しい。 対馬から南西に向かい進行すれば松浦に到達する事は可能ですが壱岐から到達可能なのは宗像辺りになります… つまりそれ以降の想定が総て狂ってしまいますから宗像を末盧とした再考が必要になると思います”博多”は海中(^^♪
壱岐の説明に「南北に市テキす」とあるから、特に方角が書いてなかっても南に向かったことは明らか。 何処から東が出て来るの?
@@加藤勉-g5p < 過去の実験はすべて失敗してます。手漕ぎボートで南下する速度よりも速い海流で関門海峡方面に流されます。 松浦に向かうためには海流に逆らい船を進めなければならないがその方向では後退する事になる。 次第に東に流されていき船の行き足を止めると関門海峡へ、南下すれば宗像あたりに行き着く(^^♪
@@なんと-y7k さん で、「南北に市テキす」はどう解釈しますか? 宗像は、壱岐から見て南ですか?
@@加藤勉-g5p < 対馬迄の距離が67.5km強は正しい、壱岐までの67.5km強も正しいが、壱岐から松浦は30km程度で有るからこれは違う! 壱岐から67.5km強を時速4km程度の手漕ぎ船で南進すれば時速5~6kmの潮流が有り東に流されるため距離が正しいとすれば宗像に到達すると考えられる。 当時の遠賀湾(現在の遠賀川流域)は縄文海進の影響が残っており大きな湾となっていた事も考慮しなければいけないね。 遠賀湾だけでなく日本中何処でも現在の平野部が当時は海の底だった事を考慮して地形や地名を見なければ見誤る(^^♪
@@なんと-y7k さん では、何故「北と東に市テキす」と書かなかったのだろう? 中国人にとって南と東は同じ?誤写? 後、当時の一里は76〜77メートル説を支持してます。
場所の特定は説得力があったけど、卑弥呼が天照大神というのはいただけない。卑弥呼は3世紀の人、天照大神は紀元前の人ですよ。
記紀の1年を西暦の1年に同定すればね。
古事記や日本書紀を文字通り信じると神武天皇即位は紀元前660年だと言われている。天照はその5代前の先祖なので、更に150年位前の紀元前800年前後の人ということになる。卑弥呼が魏に朝貢したのは紀元後273年なので、その年代差は1,000年以上ある。古事記が年に4つ歳を取る前提で書かれているとしても、二人が同じ時代を生きていたと考えるには無理があると思う。
@@osamakeiko 私は記紀の年代換算は長浜浩明氏の説を支持しています。それだと神武天皇即位は紀元前70年で、どちらにしても時代は合いませんね。 私は記紀はいろいろな神話の寄せ集めで編纂主自身も年の扱いをしっかり理解していなかったかあえてそのような扱ったかしたと思います。 記紀としては天照を使いたかったけど、卑弥呼の存在を確定させる気もなかった。卑弥呼がいたかもしれない北部九州に天照神を祭る集団がいた。ただの偶然の一致かもしれない。記紀はなんらかのストーリーに基づいて話が構成されているのは確かですね。たとえば、ご存じかどうかわかりませんが少し小話を。 天津 日高日子 波限 建 鵜葺草 葺 不合命 あまつ ひこひこ なぎさ いたる うがや おさむ あえず 建を古訓でイタル、葺を古訓でオサムをそれぞれ採用して読ませています。どっかのブログにあったものです。この長い名前の記紀に記される人物は神武の父親になっています。 古代ユダ王国の王命 9代 アマツヤ、7代 アタルヤ、10代 ウジヤ、11代 ヨタム、12代アハズ これらはユダ王国の王命です。一部不明ですが先述のものとほとんど音が一致します。違う音も相互に移り変わりやすい音です。 ユダ王国のアハズは紀元前715年に退位。神武天皇即位が紀元前“660”年。なかなか近い年代でしょう。このユダ王国の王命との一致は私は偶然ではなく記紀を書かせたものたちの意思だと思います。王命がごっちゃになるくらいわずかで頼りない伝承でもねじ込みたかった意思がそこに見えますね。 このように記紀の年代をあたかも西暦の1年と同様に扱っているかと思えば、それでは解釈不能な年(とし)が記紀の中に散見される具合です。記紀が不確かな記録によって書かれたことがうかがえます。 記紀の年の数え方はウガヤフキアエズの存在に合わせたかったのだろうと思います。 神武天皇即位が紀元前70年だとして父親5代の一番古いアタルヤまで130年ほど。空白の55年を2倍年として割って22年に。 それら加えてさかのぼって父1代目の即位が紀元前222年、そこから天照までさらに150年さかのぼって紀元前372年あたりに何かありそうな気もしますね。概算で紀元前350年くらいに本当の始まりになるものがあったのかもしれないですね。その上にまだイザナギイザナミがいますけど。
偽書だと言う人も多いですが、ホツマツタエによると、その時代はキアエ暦という60年周期の干支で年を表しており、神武即位はサナト(辛酉)の年だそうです。紀元で言うと、紀元元年、紀元前60年、120年などのどれかになります。長濱説に近いところを選べば紀元前60年ということになります。そうだとすると、記紀は600年ほど嵩上げをして書かれていることになります。おそらく、遣唐使を送るのに日本が歴史の浅い国だとバカにされたくなかったのではないでしょうか? 日ユ同祖論については何もコメント出来る情報を持ち合わせていません。ご参考に私が頼りにしているホツマツタエのサイトを紹介します。hotsuma.anyone.jp/mikai/
大和と日本国は別です。
動画のUPありがとうございました。 参考になります blog.livedoor.jp/housen_seinen/
まあちゃん1 秒前私も独自の観点から邪馬台国について動画を挙げています。よろしければ見てください。th-cam.com/channels/8PXo9Ln7QJ2XfQtKtPOWkA.html 是非、チャンネル登録お願いします
ヤマダなら筑豊の入り口にあるだろ。今は嘉麻市となってるが、まさに、山が終わって平地になるポイントだよ。山が田になる所だ。そして、こういう場所だと大規模な感慨技術が無くても水を引きやすいし、流量が少ないので氾濫も起こりにくいぞ。都を置くには最適だし、防衛にも優れている。また、遠賀川の水運を河口から遡って、少なくとも1日じゃ絶対に着かない距離になる。
卑弥呼のお墓に比定する古墳はありますか?
ヤマトの東北訛りはヤマドに聞こえますね 言葉は伝播していってるので東北訛りは古代の日本語の発音に一番近いと思います 大陸人にはヤマトはヤマドに聞こえていてもなんら不思議ではないですね 「と」が「どい」として大陸に伝わり時間を経て「どい」が「たい」に変化して戻ってきた そして「た」を「と」と読む万葉仮名づかいが生まれたと考えるとすべてが綺麗につながった様に感じるのは私だけでしょうか
草書(アマテラス)で書いていたものを楷書(マテラフ)で書き直した段階でのミスだ アマテラスとなる 朝倉神社はイサナキ様のお宮です アマテラス アマキミ 太陽のように照らす存在の天皇を意味している アマテルカミ ワカヒト様の御代であって イサナキ様の所領と言われ 朝倉の神社はイサナキ様のお宮です それから時代が進み この地に住み着いた渡来人が悪さをして困ると陳情があったと記してあります その夜盗が女を頭として山田国と名乗った とあり 何故 それが 卑弥呼がなのか ここ朝倉はハタレ争乱の首謀者 ハヤコが 捕らわれてからここに置かれ ここで死んでいます 住み着いた女がハヤコを名乗ったとしても おかしくない ハヤコは アマテルカミの娘(宗像3姫)を生んでいる その名前を使ったということだろう
麻弖良山がある嘉麻市は旧山田市ですね(;゙゚’ω゚’):いろんな符号が合ってて興味深いです
この井上説。凄く確信をついているのに説明が分り辛いのが難点。はっきいいって説明が下手。本も分りづらいし。もう少しポイントをとらえて簡潔に説明すれば世間への影響もあるのに。それが残念。
凄く核心をついた発言ですね。
下手と言うことはこの話は間違いですね!
この井上説と、安本説を合わせると邪馬台国は100%福岡にあったことになる。つか、近畿説なんてちゃんちゃらおかしい話しにもならない説なんだけどね。日本のメディアがレベル低いからこんな茶番劇がいつまで経っても終わらない。
邪馬台国の国境に至るルートの再検証 陳寿による壱岐から末蘆国までは南進で正しい。末蘆国より東南で伊都国に至るだが肝心な事は伊都国で金印が出土した事実。邪馬台国論争の中で唯一絶対的な証拠を近畿説論者は邪馬台国論争から無視し逃げる様だが根拠を否定する考古学 歴史学は100%無意味で価値も無く瓦解する。 金印出土に付いての考査に於いても貰う筈の卑弥呼に届かず伊都国で保管し発見された大きな理由が有った筈。伊都国は一大卒を置く重要な役所で有る事から卑弥呼身辺に重大な事件が発生した為に渡せず保管したとは考えられないだろうか。 次に伊都国より東南だが奴国に着くは大まかに正解と解釈。江戸時代から邪馬台国論争が決着しない一つの大問題の争点はこの後だ。 「東」へ百里で不弥国に到達と魏志記述に残す。怪しいのは博多湾から東方向は北九州―四国―出雲方面に向かい推測がより難しく成る。古代中国の天文観測では南指と言う言葉が有る様に聞くが星座による航海術を熟知した集団にすると東南の間違いは考え難いのだが実際には福岡市から内陸に入り南下し百里で不弥国( 宇美町)に到達に成る。 この宇美の由来は神功皇后が応神天皇を御生みに成られた場所なので宇美と付けられた宇美神社でそのご本尊は大分の宇佐神社に祭られている。 話は反れたが邪馬台国九州説も畿内説でも不弥国に海は無く無駄な内陸行で有り魏志倭人条記述は伝聞の空想で百%破綻すると思ったのだがなぜ関係の無い様な不弥国に行くのかの疑問を解く鍵が有った。この宇美から近い宝満山に上宮と中宮社が有りここで空海.最澄らが航海の安全祈願を行った歴史を持つと言う。古代から深い歴史を有すればこそ中国の使者らも参拝をしたと言う事はこの土地周辺に卑弥呼に関係する居城でも有ったのではとロマンを広げたく成るのですが読者の皆さんは如何でしょう。 記述が書写で有る以上書き落とし読み違いは起こり得る。問題の解決はこの不弥国へ(東)を南へ百里と訂正すれば次の南進して投馬国さらに南進すば邪馬台国国境に到着する。勿論投馬国からは距離数が日数に変る上水行20日などは狗邪韓国からの日数ではないか疑問は残るが穀倉地帯の久留米市を南下し現在の熊本との県境八女市に着く。更に南下し当時の投馬国で有ろう山鹿市周辺に当たりその下に古代から強力な豪族菊池氏が栄えた菊池市からが女王国に逆らう狗奴国になり実り豊かな筑後平野 佐賀平野 筑紫平野を含めた穀倉地帯での地域権力抗争が倭人伝に言う「倭の大乱」と残す理由だろう。 又この八女市こそが神社の巫女の発祥と言われる程の歴史の深さに卑弥呼に関わるロマンを感じるがこんなに狭い地域に古墳が数百個も発掘されたと言うのは驚きで山鹿市に於いては君が代の原点とされるさざれ石の不動岩がその威容を古代から誇っているも圧巻だ。 話を戻し王女国の九州説の根拠として倭人伝ではその南に狗奴国有り女王に属せずと書くこれが畿内説ならその南に邪馬台諸国に対し武器を持ち戦争を仕掛ける強力な狗奴国の存在の確証が求められ武器らの出土も根拠になろう。 また邪馬台国の以北に30ケ国とし最後に再度奴国が女王の境界との意味はこの投馬国で南に狗奴国が隣接する地理的条件での邪馬台国名は対馬国より南下した30カ国を代表した国名と解釈すれば無理が無いのではと思われる。現在の47都道府県代表名の日本国と同義的に理解すれば邪馬台国論争は決着し残すはこの穀倉地帯の何処かに有る卑弥呼の居城と墓地の調査に成る。なお無理に畿内説を取るならば以北は京都―琵琶湖方面になり境界の奴国は無い事をどの様に説明されるのか。門外漢の推理ですがご意見を期待したいと思います。
松浦から朝倉まで陸行1月もかかるでしょうか
このような動画が好きなのですが、撮影者の方 音声はミキサーから直接ラインでの 撮影・録音にしませんか? 音声が反響して本当に聞き難いんですよ。