令和5年 第2回 俳句評論講座「俳句評論の挑戦― 虚子について」
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 8 ก.พ. 2025
- ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
令和5年 第2回 俳句評論講座
「俳句評論の挑戦― 虚子について」
テーマ
○資料の料理の仕方
○魅力的な文章表現
○ダイナミックな構成
講師
岸本尚毅
仁平 勝
司会
角谷昌子
-------------------------------------------------------------------------
【次回告知】
第3回 俳句評論講座「俳句評論の可能性」
10月7日(土)13時30分~14時45分<最終回>
-------------------------------------------------------------------------
主催
公益社団法人 俳人協会
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仁平勝先生
岸本尚毅先生
どんどん引きこまれて、視聴しました。
芭蕉や北斎・川柳の「原典」を読むと、近代・現代俳句へのモヤモヤ感がいつも立ち上ってきます。
おかげさまで、かなり晴れ晴れとしました。
おふたりのお話は、懐が深くてまた楽しくて、ときどき転がって笑ってしまいました。
もっともっと自由奔放に詠みたいし、もし力量を蓄えられたら、江戸時代のように歌仙を巻く句会をやってみたいです。
ありがとうございました。
新山裕子
「虚子について」の俳句評論講座、有難うございました。大変勉強になりました。
冒頭(5:46-)の虚子の「こと」「もの」の使い方が謎かけ的で面白いです。こういう言葉は口語ではよく使っても俳句や詩歌で使うことは虚子以前はあまりなかったのでしょうか。或いは決まった型として「もの尽くし」の場合だけであったとか。「こと」「もの」で具体化を暈す言い方からは何故か絵巻物等に見られる「すやり霞」を連想させられました。長谷川三千子の「日本語の哲学へ」という本も是非読んでみたいです。(“薄織”な私の)個人的な感覚ですが、確かに欧米では「こと」「もの」に匹敵するような言葉は(口語として普段では使っていても)抒情詩の中で出くわしたことがないのです。それは西洋画と日本画の違いに似ているようにも思われます。西洋画では元々塗りつぶすために作られたキャンバスがあって、余白を表す場合はわざわざ白い絵の具で“塗る”ということをします。詩の場合も韻を正確に踏みながら疑問の余地無くぎっしり言葉で埋め尽くしているからこそ分かる、でなければ分からん、といったふうで。(*)それに比べて日本画、特に山水画は台紙(和紙)の美しさを余白に活かしたり、風景や人物が丸々全部は見えないように霧や霞のベールでもって「これだけ見せればあとはご想像の通り」といったふうに言葉を濁すような描き方をします。そんな文化で培われた「こと」「もの」の面白みは、長谷川先生が仰るような「未だ有と無が分離していない」深淵という内面的•内向的なところにあって、“etc” のような “外向き” の “云々” には見出せないものなのではないか、とも思わせられました。
俳人協会には造詣の深い方々が沢山いらっしゃるようですので、このような思い付きに対し何かとご教示いただければ幸いに存じます。
虚子の「もの」すやり霧を引くような
(*)ダダイズムやシュールレアリズム辺りからのモダン詩になると(エルンスト•ヤンドルやクルト•シュヴィッタースのように)音の序列だけで作られている抽象的なものもありますけれど、そういうのは俳句でいえば自由律に当たるのかも知れません。(“訳がわからん” と嫌う人が多いですけど、私にはこういう方が面白く感じられます。)