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素晴らしい解説をありがとうございます。だいなしキツネさんの解説が私には一番解りやすく、心に残りました。
@@映-y3l ありがとうございます。とても嬉しいです!
すばらしい原稿 美しい画像 構成 相当な時間をかけた編集 プロの音声品質 このような動画に出会えて感謝 道に迷う百年の孤独をここまで道案内いていただけありがとうございます
嬉しいお言葉をありがとうございます。とても励みになります。コツコツ更新してまいりますので、よろしければまたお立ち寄りくださいませ。
凄い力作でした!面白い
ありがとうございます!力を込めて作ったので、楽しんでいただけてとても嬉しいです。
肩の力抜いて観れるからいいです。慌てて答え出さなくてもいいやという気持ちで観れます。
ありがとうございます。今までの支配的な「解釈」から離れ、もっと自由に作品を楽しめたら良いなと思っています。いただいたコメント、とても嬉しいです。
内容はGood👍️舌っ足らず😊更に良し
とても楽しく拝見しました!構成、台本、演出、声、ぜんぶすごく良かったです! 共感可能=反復可能といった切り口も面白かったです!ふだんコメントなどしないのですが、魅力的な動画を作ってくださったことに思わず感謝?を申し上げたくなりました。ありがとうございました!!!おつかれさまでした。ちなみについ先ほど、二回目の、「百年の孤独」を読み終えました。厳密には反復ではないかもしれませんが、作品は、ふたたび読めて、いいですね!
文学が本当に成立する瞬間というのは、テクストが書かれたときではなくて、それが読まれたとき、読者との摩擦の中においてです。ukyoさんに再読してもらうことで、『百年の孤独』は何度でも生まれ直しているのだと思います。その都度新しく。読み手が異なる角度から見つめることで、作品も異なる貌をあらわしてくれますよね。ukyoさんのように優しい読者に巡り会えて、作品の方も嬉しいだろうなぁと想像します。それはもしかしたら、自分だけの孤独を何度でも追想することなのかもしれませんし、あるいは、永劫の孤独を乗り越える瞬間なのかもしれません。だいなしキツネにも温かいメッセージを送ってくださり、誠にありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします♪
本書においての最大の謎が、「愛」の定義だと思う。 俺の読解力が足りないのかもしれないが、本作品内で起こるあらゆる超現実的事実(不死身の大佐、ワキガの超美少女、出来事そのものの矛盾、テレパシー手術、自分が死んだことに気づかない登場人物たち、200両連結の汽車、UFO、彷徨えるユダヤ人、繰り返される巨根etc…)よりも、「百年の孤独」とは?と問われたとき、いちばんに思い出すのは、訳者あとがき。「では、アウレリャノ・バビロニアとアマランタ・ウルスラ以外の男女の営みには、愛は無かったというのか?」
良い言葉ですね。反復不可能性が、一回こっきりと言う事。人生は、円環で考えるのでない。また、時として立ち現れる事実の解釈不可能性に意味がある、ということ!
ありがとうございます!「解釈不可能性に意味がある」まさにそうですね!
読みます
同じ小説を読んでいながら、かくも異なる視点で読んでいる人がいること。そのことにまずは愉快さと孤独をおぼえます。わはは。ラテンアメリカ文学に関しては門外漢ですが、本作は凄いなと思うので一筆いたしたく。私としては『百年の孤独』を貫く様々な主題のうちの一つとして「些細な事柄」と「でたらめとしての歴史」を挙げたい。「些細な」は「取るに足りない」と言い換えてもいい。メルキアデスの羊皮紙に書かれた歴史が「ごく些細なことまで含めて」書かれていたのは、その「ごく些細なこと」こそが本作の主題だからでしょう。さて、マルケスにとって歴史は過去から未来に向けて徐々に進歩するものではけっしてない。逆に「歴史とはでたらめの連鎖である」という洞察が彼の作品の基礎になっていると思われます。そうした歴史観は本作のみならず『族長の秋』『予告された殺人の記録』などでも一貫しています。マルケス作品をさして読んではいないので断言できませんが「思いつき」「些細な」「取るに足りない」事象が集まって重大な帰結を引き起こす、というのがマルケス的作品の基本構造だと推測します。そして「些細」で「取るに足りない」事象の連鎖の帰結である「重大な事象」も、その究極的本質においては些細なものでしかない(何千人殺されようが、めくるめく悦楽があろうが、愛が成就しようが)--という諦観のようなもの(諸行無常感)がマルケスワールドを彩っていないでしょうか。「些細」と「重大」がひたすら絡まりあうのが本作の楽しさだと思います。孤独については・・・。そもそも人間はハイデガー(たまに良い事言う男)風に言えば「本質的に他者と共にあること=Mitsein」というあり方をしているのであり、それゆえ孤独とは他者なしにはありえない、と思います。だから『百年の孤独』という表題は、少なくとも百年間はマコンドに「人々がいる」状態、他者がいる状態であったことを示しています。最後にアウレリャーノ・バビロニアが一人になった時、つまり物語から他者がいなくなったとき、端的に作品そのものも終わってしまうのはそのためです。文字通り「孤独が終わる」わけです。作品がモノローグ、一人語りであるがゆえに孤独 な の で は な く、他者が存在したがゆえに人々は孤独たりえたのではないでしょうか。「彼らを引き離しも、強く結びつけもする測りがたい孤独」(18章)とマルケスが書くのはそのためではないか。本作において、孤独は愛や共感のむしろ成立条件でさえある、と思われます。完全な孤独、というか絶対の孤独、というのは抽象化された孤独であって他者を欠いた孤独でありましょう。そうした孤独が仮にあるとして、物語の核になるとは思えないのであります。ウルスラは「時間というものはぐるぐる回転しているのだ」と考えていますが、実は回転しているのは「些細な事柄からはじまるデタラメな事態」であり、その「繰り返し起きるデタラメ」の回帰ぶりを「時間の循環」だと思っている、ということかと思います。有名な「そこに記録されていることの一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はない」については、一種の逆説かと思います。というのも、令和の今も世界は些細な事柄の連鎖の結果、様々な愚行をおかしつつ、ブエンディーア一族の歴史を忠実に模倣しているようにも思われるからです。キツネさんの「共感可能=反復可能」の説明については、当方の理解力が貧弱なため、ちょっとよく理解できませんでした。私はラテンアメリカ文学に疎いので、動画中盤のまとめはためになりました。楽しい動画をありがとうございました。
『百年の孤独』につき、素敵な読解をありがとうございます。 マルケスが折に触れ強調していたのは、『百年の孤独』がファンタジーではなくリアルだということでした。ここに書かれている内容が当たり前の現実だと思っている人々が確かにいる、と。一方で、マルケス自身、ここに誇張やでたらめが含まれることを認めているので、まさに〈現実はでたらめに基礎づけられている(歴史とはでたらめの連鎖である)〉と考えていたのでしょう。『大佐に手紙は来ない』や『悪い時』などのジャーナリスティックな作品には、より顕著にその批判意識が表れているように感じます。ところでマルケスは、自身の文体を彫琢するために不可欠の役割を果たしたのはボルヘスだったと認めています。「私はかつても今もボルヘスをよく読みますが、まったく好きな作家ではありません。ボルヘスを読むのは、彼が傑出した言語能力を備えているからです。ボルヘスとは、書き方を教えてくれる作家、つまり、自分の言いたいことをどう伝えればいいのかを教えてくれる作家です。」(『疎外と叛逆』)あわせて彼は、ボルヘスのことを「現実の政治世界から目を背ける逃避的な作家だ」と揶揄しました。両者を比較すると、確かに文体の似通った箇所はありますが、内容は似ていません。それを強烈に印象づけたのが、まさに『百年の孤独』の結末でしょう。円環、そして永遠にこだわり続けたボルヘス。これに対して、マルケスは円環を突破し、永遠を捨て去った。マルケスの作家性を受け取るにあたって、このボルヘス的な形而上学から現実へと踏み出す志向性は見逃すことのできない要素です。ボルヘスは、円環-反復-永遠のモチーフを通じて、〈個〉の中の普遍性を抉り出そうと試みていました。マルケスはそうではない、と認めることが、マルケスの独自性を浮き彫りにする足掛かりになると思います。彼が「人間の本質は孤独だ」というときの〈孤独〉は、孤独であることに人類の共通性を認めるようなぬるま湯の孤独ではなく、相通じるところのないその人だけの孤独、それによってその人がその人だけの生となるような孤独、なのです。キツネにとって、thuglifekayさんの説く〈孤独〉は納得しやすいものです。ただ、キツネにとって納得しやすいその孤独とは別の〈孤独〉が、この作品の中にはあるのだと受けとめたいと思っています。実際のところ、キツネはマルケスの思想や政治的スタンスには、ほとんど反対の立場です。パニチェリ他『絆と権力』で扱われていますが、彼には暴力を批判しながら特定の政治権力にすり寄る矛盾があります。何故そうなるのか、という点に関連して、キツネは随分前に、次のように書きました。「キツネは人間の本質が孤独であるとは考えていない。むしろ、本質的に〈円環〉を抱え込む存在であり、究極的には孤独になれない存在ではないか。人間は生まれる前から既に他者(人体-世界)の内部にあって、生まれた後は他者(言語-社会)を内部に抱え込む。独りになりたくてもそうはなれない。他者とのコミュニケーションを引き受けざるを得ない。その〈コミュニケーションの引き受け〉とどれだけ真摯に向き合えるかが人間には問われている。『百年の孤独』にある挿話の大半は、その引き受けの不全によってもたらされる。マルケスはそのことに気づいていただろうか。彼はこれをラテンアメリカの現実だと考えることによって、不当な現状を追認することになってはいなかったか。この思想的欠陥こそがマルケスの政治的矛盾の原因だったのではないか。」「念のため付言すると、キツネはこの世に孤独が存在しないとは考えていない。ただ、人間が本当に独りきりだったら、孤独を感じることもないだろうと思うだけだ。孤独の感覚は、他者との摩擦の中で浮き彫りになり、だからこそ辛く厳しいものになる。」thuglifekayさんのおっしゃるように、マルケスにとっても、「他者が存在したがゆえに人々は孤独たりえた」のでしょう。しかし、「他者がいて、孤独があること」と「他者がいて、孤独が人間の本質であること」は全く別の事態です。マルケスにとって後者であったことの理由として、キツネは『百年の孤独』の人物たちの〈モノローグ〉性に言及しました。ここでいう〈モノローグ〉というのは、もちろんバフチンの〈ダイアローグ〉の対概念のことです。『百年の孤独』の人物……というよりマルケスの登場人物は、対話的な相互変容を理想とする(ダイアローグ志向的な)社会観とは遠く離れたところで、ただ独り、己が生を全うします。彼らにとっての他者は、互いに理解しあう相手ではなく、互いが独りであることを理解するための鏡です。それはキツネにとっての現実ではありませんが、マルケスにとっては圧倒的な現実であり、だからこそ、それはキツネにとっての魔術的現実です。『百年の孤独』がいまなお独り、似せた作品は無数にあれど、似た作品は一つもない、ただ独りきりの傑作なのは、この現実のズレの深刻さが、言語化容易な一般論に収斂しない特異点であり続けるからなのだろう、と思う次第です。
@@dainashikitsune 混信の、いや懇親の、いや渾身のご返信まことにありがとうございます。(変換一発目が混信ってなるIME変換でした)まずはお返事の物理的量(文字数)に、心よりありがたさを感じております。おっしゃるところの普遍的でない孤独、「納得しやすいその孤独とは別の〈孤独〉」というのが私にはよくわかりませんけれども、わからないままにしておくのもいいかなと思います。サスペンドしておくと、また考えるきっかけになりますからね。本作はいろいろな観点で読めるのが愉快だなと思っていて、今回は言及しませんでしたが「忘却」もまたマルケス作品の主題のひとつとしておもしろいです。「過去は無限に自己抹殺をはかり、内部から消耗し続けていって、瞬間ごとに細りながらも、けっして絶え尽きることはなかった」とか、もうたまらないキラーパッセージです。この物語をあの若さで書いているのが凄いですねぇ。前回に引き続き真摯なお返事、まことにありがとうございました。
@@dainashikitsune あと、コメントに書き忘れてましたが(忘却!)、動画のクオリティがNHKレベルというかNHK超えっていうか、素晴らしいことをshout outしたいと思います。まことに素晴らしい仕上げ力と言わねばなりません。リクエストとしては谷崎の『吉野葛』を取り上げていただきたい。あの複雑な構造の小説世界をうまく解説できるのはキツネさんしかいない!😊
@@dainashikitsune すいません、最初のコメントに書こうとして書き忘れた(忘却ふたたび!)ことを思い出したので書かせてください。百年の孤独を解説、あるいは批評するにあたって、何やらシリアスな論調が多くて(孤独に関する議論が多いからかな?)見過ごされがちですが、何よりも本書は「爆笑できる文学」である点も大切かな、と思っています。初代ホセがメルキアデスたちジプシーの持ち込むいろいろなガラクタに目を輝かせ、ウルスラの言う事もきかずに散財する挿話はコミカルですし、死んだはずのメルキアデスが登場するたびに「わしはシンガポールで死んだのだ」と再認識するボケも可笑しい。関西人なので「お前とっくに死んどるやないか!」とツッコみたくなります。船が通る水路を作ることを思いつくアルカディオ・セグンドについてウルスラが「こういうことには慣れてるんだよ」などとツッコんでいるのも笑ってしまう。シリアスにも語れつつ爆笑もできてしまう・・・という点でカフカと双璧をなすんじゃないか、と思ったりもします。
孤独という言語化できない感情を抱えて生きる事で神という自分と対面している事を言語を使って書いたんですかね。
安野光雄さんのお薦めから随分たったが、未だ読んでいない。そろそろかな。🙄
厚い本なので、読み始めるのにも気合いが必要ですよね。よかったら、この機会に是非📖✨
円環は繰り返されるのだけど、それ以上に未来に対して、空間に対して閉じているんだと思う。
素晴らしい解説をありがとうございます。だいなしキツネさんの解説が私には一番解りやすく、心に残りました。
@@映-y3l ありがとうございます。とても嬉しいです!
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嬉しいお言葉をありがとうございます。
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凄い力作でした!面白い
ありがとうございます!
力を込めて作ったので、楽しんでいただけてとても嬉しいです。
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ありがとうございます。
今までの支配的な「解釈」から離れ、もっと自由に作品を楽しめたら良いなと思っています。
いただいたコメント、とても嬉しいです。
内容はGood👍️
舌っ足らず😊
更に良し
とても楽しく拝見しました!
構成、台本、演出、声、ぜんぶすごく良かったです! 共感可能=反復可能といった切り口も面白かったです!
ふだんコメントなどしないのですが、魅力的な動画を作ってくださったことに思わず感謝?を申し上げたくなりました。
ありがとうございました!!!おつかれさまでした。
ちなみについ先ほど、二回目の、「百年の孤独」を読み終えました。厳密には反復ではないかもしれませんが、作品は、ふたたび読めて、いいですね!
文学が本当に成立する瞬間というのは、テクストが書かれたときではなくて、それが読まれたとき、読者との摩擦の中においてです。ukyoさんに再読してもらうことで、『百年の孤独』は何度でも生まれ直しているのだと思います。その都度新しく。読み手が異なる角度から見つめることで、作品も異なる貌をあらわしてくれますよね。ukyoさんのように優しい読者に巡り会えて、作品の方も嬉しいだろうなぁと想像します。それはもしかしたら、自分だけの孤独を何度でも追想することなのかもしれませんし、あるいは、永劫の孤独を乗り越える瞬間なのかもしれません。
だいなしキツネにも温かいメッセージを送ってくださり、誠にありがとうございます!
今後ともよろしくお願いいたします♪
本書においての最大の謎が、「愛」の定義だと思う。
俺の読解力が足りないのかもしれないが、本作品内で起こるあらゆる超現実的事実(不死身の大佐、ワキガの超美少女、出来事そのものの矛盾、テレパシー手術、自分が死んだことに気づかない登場人物たち、200両連結の汽車、UFO、彷徨えるユダヤ人、繰り返される巨根etc…)よりも、
「百年の孤独」とは?と問われたとき、いちばんに思い出すのは、訳者あとがき。
「では、アウレリャノ・バビロニアとアマランタ・ウルスラ以外の男女の営みには、愛は無かったというのか?」
良い言葉ですね。反復不可能性が、一回こっきりと言う事。人生は、円環で考えるのでない。また、時として立ち現れる事実の解釈不可能性に意味がある、ということ!
ありがとうございます!
「解釈不可能性に意味がある」まさにそうですね!
読みます
同じ小説を読んでいながら、かくも異なる視点で読んでいる人がいること。そのことにまずは愉快さと孤独をおぼえます。わはは。ラテンアメリカ文学に関しては門外漢ですが、本作は凄いなと思うので一筆いたしたく。
私としては『百年の孤独』を貫く様々な主題のうちの一つとして「些細な事柄」と「でたらめとしての歴史」を挙げたい。「些細な」は「取るに足りない」と言い換えてもいい。メルキアデスの羊皮紙に書かれた歴史が「ごく些細なことまで含めて」書かれていたのは、その「ごく些細なこと」こそが本作の主題だからでしょう。
さて、マルケスにとって歴史は過去から未来に向けて徐々に進歩するものではけっしてない。逆に「歴史とはでたらめの連鎖である」という洞察が彼の作品の基礎になっていると思われます。そうした歴史観は本作のみならず『族長の秋』『予告された殺人の記録』などでも一貫しています。マルケス作品をさして読んではいないので断言できませんが「思いつき」「些細な」「取るに足りない」事象が集まって重大な帰結を引き起こす、というのがマルケス的作品の基本構造だと推測します。
そして「些細」で「取るに足りない」事象の連鎖の帰結である「重大な事象」も、その究極的本質においては些細なものでしかない(何千人殺されようが、めくるめく悦楽があろうが、愛が成就しようが)--という諦観のようなもの(諸行無常感)がマルケスワールドを彩っていないでしょうか。「些細」と「重大」がひたすら絡まりあうのが本作の楽しさだと思います。
孤独については・・・。そもそも人間はハイデガー(たまに良い事言う男)風に言えば「本質的に他者と共にあること=Mitsein」というあり方をしているのであり、それゆえ孤独とは他者なしにはありえない、と思います。だから『百年の孤独』という表題は、少なくとも百年間はマコンドに「人々がいる」状態、他者がいる状態であったことを示しています。最後にアウレリャーノ・バビロニアが一人になった時、つまり物語から他者がいなくなったとき、端的に作品そのものも終わってしまうのはそのためです。文字通り「孤独が終わる」わけです。
作品がモノローグ、一人語りであるがゆえに孤独 な の で は な く、他者が存在したがゆえに人々は孤独たりえたのではないでしょうか。「彼らを引き離しも、強く結びつけもする測りがたい孤独」(18章)とマルケスが書くのはそのためではないか。本作において、孤独は愛や共感のむしろ成立条件でさえある、と思われます。完全な孤独、というか絶対の孤独、というのは抽象化された孤独であって他者を欠いた孤独でありましょう。そうした孤独が仮にあるとして、物語の核になるとは思えないのであります。
ウルスラは「時間というものはぐるぐる回転しているのだ」と考えていますが、実は回転しているのは「些細な事柄からはじまるデタラメな事態」であり、その「繰り返し起きるデタラメ」の回帰ぶりを「時間の循環」だと思っている、ということかと思います。
有名な「そこに記録されていることの一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はない」については、一種の逆説かと思います。というのも、令和の今も世界は些細な事柄の連鎖の結果、様々な愚行をおかしつつ、ブエンディーア一族の歴史を忠実に模倣しているようにも思われるからです。
キツネさんの「共感可能=反復可能」の説明については、当方の理解力が貧弱なため、ちょっとよく理解できませんでした。私はラテンアメリカ文学に疎いので、動画中盤のまとめはためになりました。楽しい動画をありがとうございました。
『百年の孤独』につき、素敵な読解をありがとうございます。
マルケスが折に触れ強調していたのは、『百年の孤独』がファンタジーではなくリアルだということでした。ここに書かれている内容が当たり前の現実だと思っている人々が確かにいる、と。一方で、マルケス自身、ここに誇張やでたらめが含まれることを認めているので、まさに〈現実はでたらめに基礎づけられている(歴史とはでたらめの連鎖である)〉と考えていたのでしょう。『大佐に手紙は来ない』や『悪い時』などのジャーナリスティックな作品には、より顕著にその批判意識が表れているように感じます。
ところでマルケスは、自身の文体を彫琢するために不可欠の役割を果たしたのはボルヘスだったと認めています。
「私はかつても今もボルヘスをよく読みますが、まったく好きな作家ではありません。ボルヘスを読むのは、彼が傑出した言語能力を備えているからです。ボルヘスとは、書き方を教えてくれる作家、つまり、自分の言いたいことをどう伝えればいいのかを教えてくれる作家です。」(『疎外と叛逆』)
あわせて彼は、ボルヘスのことを「現実の政治世界から目を背ける逃避的な作家だ」と揶揄しました。
両者を比較すると、確かに文体の似通った箇所はありますが、内容は似ていません。それを強烈に印象づけたのが、まさに『百年の孤独』の結末でしょう。円環、そして永遠にこだわり続けたボルヘス。これに対して、マルケスは円環を突破し、永遠を捨て去った。マルケスの作家性を受け取るにあたって、このボルヘス的な形而上学から現実へと踏み出す志向性は見逃すことのできない要素です。ボルヘスは、円環-反復-永遠のモチーフを通じて、〈個〉の中の普遍性を抉り出そうと試みていました。マルケスはそうではない、と認めることが、マルケスの独自性を浮き彫りにする足掛かりになると思います。彼が「人間の本質は孤独だ」というときの〈孤独〉は、孤独であることに人類の共通性を認めるようなぬるま湯の孤独ではなく、相通じるところのないその人だけの孤独、それによってその人がその人だけの生となるような孤独、なのです。
キツネにとって、thuglifekayさんの説く〈孤独〉は納得しやすいものです。ただ、キツネにとって納得しやすいその孤独とは別の〈孤独〉が、この作品の中にはあるのだと受けとめたいと思っています。
実際のところ、キツネはマルケスの思想や政治的スタンスには、ほとんど反対の立場です。パニチェリ他『絆と権力』で扱われていますが、彼には暴力を批判しながら特定の政治権力にすり寄る矛盾があります。何故そうなるのか、という点に関連して、キツネは随分前に、次のように書きました。
「キツネは人間の本質が孤独であるとは考えていない。むしろ、本質的に〈円環〉を抱え込む存在であり、究極的には孤独になれない存在ではないか。人間は生まれる前から既に他者(人体-世界)の内部にあって、生まれた後は他者(言語-社会)を内部に抱え込む。独りになりたくてもそうはなれない。他者とのコミュニケーションを引き受けざるを得ない。その〈コミュニケーションの引き受け〉とどれだけ真摯に向き合えるかが人間には問われている。
『百年の孤独』にある挿話の大半は、その引き受けの不全によってもたらされる。マルケスはそのことに気づいていただろうか。彼はこれをラテンアメリカの現実だと考えることによって、不当な現状を追認することになってはいなかったか。この思想的欠陥こそがマルケスの政治的矛盾の原因だったのではないか。」
「念のため付言すると、キツネはこの世に孤独が存在しないとは考えていない。ただ、人間が本当に独りきりだったら、孤独を感じることもないだろうと思うだけだ。孤独の感覚は、他者との摩擦の中で浮き彫りになり、だからこそ辛く厳しいものになる。」
thuglifekayさんのおっしゃるように、マルケスにとっても、「他者が存在したがゆえに人々は孤独たりえた」のでしょう。しかし、「他者がいて、孤独があること」と「他者がいて、孤独が人間の本質であること」は全く別の事態です。マルケスにとって後者であったことの理由として、キツネは『百年の孤独』の人物たちの〈モノローグ〉性に言及しました。ここでいう〈モノローグ〉というのは、もちろんバフチンの〈ダイアローグ〉の対概念のことです。『百年の孤独』の人物……というよりマルケスの登場人物は、対話的な相互変容を理想とする(ダイアローグ志向的な)社会観とは遠く離れたところで、ただ独り、己が生を全うします。彼らにとっての他者は、互いに理解しあう相手ではなく、互いが独りであることを理解するための鏡です。それはキツネにとっての現実ではありませんが、マルケスにとっては圧倒的な現実であり、だからこそ、それはキツネにとっての魔術的現実です。『百年の孤独』がいまなお独り、似せた作品は無数にあれど、似た作品は一つもない、ただ独りきりの傑作なのは、この現実のズレの深刻さが、言語化容易な一般論に収斂しない特異点であり続けるからなのだろう、と思う次第です。
@@dainashikitsune
混信の、いや懇親の、いや渾身のご返信まことにありがとうございます。(変換一発目が混信ってなるIME変換でした)まずはお返事の物理的量(文字数)に、心よりありがたさを感じております。
おっしゃるところの普遍的でない孤独、「納得しやすいその孤独とは別の〈孤独〉」というのが私にはよくわかりませんけれども、わからないままにしておくのもいいかなと思います。サスペンドしておくと、また考えるきっかけになりますからね。
本作はいろいろな観点で読めるのが愉快だなと思っていて、今回は言及しませんでしたが「忘却」もまたマルケス作品の主題のひとつとしておもしろいです。「過去は無限に自己抹殺をはかり、内部から消耗し続けていって、瞬間ごとに細りながらも、けっして絶え尽きることはなかった」とか、もうたまらないキラーパッセージです。この物語をあの若さで書いているのが凄いですねぇ。
前回に引き続き真摯なお返事、まことにありがとうございました。
@@dainashikitsune
あと、コメントに書き忘れてましたが(忘却!)、動画のクオリティがNHKレベルというかNHK超えっていうか、素晴らしいことをshout outしたいと思います。まことに素晴らしい仕上げ力と言わねばなりません。リクエストとしては谷崎の『吉野葛』を取り上げていただきたい。あの複雑な構造の小説世界をうまく解説できるのはキツネさんしかいない!😊
@@dainashikitsune
すいません、最初のコメントに書こうとして書き忘れた(忘却ふたたび!)ことを思い出したので書かせてください。
百年の孤独を解説、あるいは批評するにあたって、何やらシリアスな論調が多くて(孤独に関する議論が多いからかな?)見過ごされがちですが、何よりも本書は「爆笑できる文学」である点も大切かな、と思っています。
初代ホセがメルキアデスたちジプシーの持ち込むいろいろなガラクタに目を輝かせ、ウルスラの言う事もきかずに散財する挿話はコミカルですし、死んだはずのメルキアデスが登場するたびに「わしはシンガポールで死んだのだ」と再認識するボケも可笑しい。関西人なので「お前とっくに死んどるやないか!」とツッコみたくなります。船が通る水路を作ることを思いつくアルカディオ・セグンドについてウルスラが「こういうことには慣れてるんだよ」などとツッコんでいるのも笑ってしまう。
シリアスにも語れつつ爆笑もできてしまう・・・という点でカフカと双璧をなすんじゃないか、と思ったりもします。
孤独という言語化できない感情を抱えて生きる事で神という自分と対面している事を言語を使って書いたんですかね。
安野光雄さんのお薦めから随分たったが、未だ読んでいない。そろそろかな。🙄
厚い本なので、読み始めるのにも気合いが必要ですよね。
よかったら、この機会に是非📖✨
円環は繰り返されるのだけど、それ以上に未来に対して、空間に対して閉じているんだと思う。