ヤマト建国探究の旅【町家での古代史談義】前編

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  • เผยแพร่เมื่อ 26 ธ.ค. 2024

ความคิดเห็น • 15

  • @たまごさとうこむぎこ
    @たまごさとうこむぎこ วันที่ผ่านมา

    BGMの三味線が お話をちょっと聞きづらくしている 私には難易度高い内容なのでこのBGMの音量は集中しづらい😢

  • @etsukonishide9813
    @etsukonishide9813 3 ปีที่แล้ว +4

    学生の時、日本史が好きだったのでお話を伺いながら「そうだったんだ」と、とても勉強になりました!
    古代史、奥が深いですね‼️
    後編も楽しみにしています

    • @yonedanji
      @yonedanji  3 ปีที่แล้ว +3

      ありがとうございます🙏 私も共に学んでおります😊 今後ともよろしくお願いします💫

  • @八雲-q4p
    @八雲-q4p 3 ปีที่แล้ว +1

    八尾の物部の拠点から吉備の土器が出たと言うことで吉備出身の物部がヤマト入りしようとしたとのことですが、九州から瀬戸内海沿いに東征してくる途中で吉備を支配下に置いたために吉備の土器が出土したってことはないんでしょうかね

    • @yonedanji
      @yonedanji  3 ปีที่แล้ว +2

      ご覧いただき、ありがとうございます🙏 関裕二さん謂く「物部氏は早くに吉備からヤマト入りしており、次にヤマト勢力が朝鮮半島との交易を図るべく、交易の拠点として豊前の遠賀川流域に物部氏を派遣した」とのこと。すなわち、物部氏は「九州から」ではなく「九州へ」向かったのだそうです。また、詳しく訊いておきます。今後とも宜しくお願いします🙇‍♂️

  • @頭づき直文差NOおサム
    @頭づき直文差NOおサム 3 ปีที่แล้ว +1

    近年では、奈良県生駒郡平群町西宮にある西宮古墳を山背大兄王の真墓とする説が挙げられている。同説では、江戸時代の『大和名所記』・『和漢三才図会』に北岡墓は平群川(現在の竜田川)西側に所在する旨が記されることや、築造時期、墳丘規模、石室規模が根拠とされる。
    これについてどう捉えるべきでしょうか。

    • @yonedanji
      @yonedanji  3 ปีที่แล้ว +1

      ご視聴ありがとうございます🙏 詳しいことをご存知でいらっしゃいますね。もう一度、蘇我氏と山背大兄王との関係性について関裕二さんに訊いてみます。なにしろ「聖徳太子は蘇我入鹿だった」と仰る先生ですので(^-^) しばらくお待ち下さいませ✨

  • @s-yo
    @s-yo 2 ปีที่แล้ว

    ならば長髄彦の子供が仲哀天皇って事で良いですか?
    物部氏←前方後方墳勢力

  • @hayek218
    @hayek218 3 ปีที่แล้ว +6

    関氏の話はファンタジー。まともな歴史の話は聞いたことがない。根拠が少ないというレベルではなく、真実を探求するという意欲も感じられず、ただただこうだったら面白いな、こういう可能性があるな程度の話。

    • @どうく-p8u
      @どうく-p8u ปีที่แล้ว +1

      たいへん想像力があると思います。日本の頭の固い歴史学会も見習ってもらいたい。

    • @hayek218
      @hayek218 ปีที่แล้ว

      @@どうく-p8u
      いや、自分が小説家になるべきでしょ。ノンフィクションではなく。

  • @masakatsunomura
    @masakatsunomura 2 ปีที่แล้ว +1

    物部氏=大物主、大国主、出雲って、事は、、、、無いだろうか?
    時代外れるけど、編纂集約された、神話だとすると、在りえなくはない気がします。

    • @asa01053
      @asa01053 ปีที่แล้ว

      大物部主!あり得る!

  • @asa01053
    @asa01053 ปีที่แล้ว

    物部蘇我氏ペルシャ系ユダヤ人しらぎ、キリスト教の仏教百済聖徳太子もペルシャ178センチ。多国籍言語のバイリンガル。のち平氏に。藤原氏はのち源氏に。藤原氏が蘇我イルカ、えみし、馬子とか差別的な名前に書き換えた。