学校では教えない徳川家康が関ヶ原の戦いに挑んだ本当の理由|小名木善行

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ความคิดเห็น • 70

  • @チュンチュン丸-y5z
    @チュンチュン丸-y5z ปีที่แล้ว +10

    小名木先生、タイムマシーンで見て来たようなすばらしいお話をありがとうございます。

  • @小泉徹-b2n
    @小泉徹-b2n ปีที่แล้ว +36

    現代にも家康さん見たいなサムライ政治家が欲しいです。

  • @tmtm418
    @tmtm418 ปีที่แล้ว +4

    本日もありがとうございました。

  • @akiaikidokenny
    @akiaikidokenny 7 หลายเดือนก่อน +2

    家康はまるでアメリカ開拓時代のビジネスマンのようなことをやって成功したのですね。今の日本のビジネスマンには真似できないチャレンジング精神です。

  • @POLO6RTSI
    @POLO6RTSI ปีที่แล้ว +15

    流石、元金融業界人!
    地震の件といい実に合理的で説得力のあるストーリーでございます。
    本当に多角的な視点と見識には感服いたします。

  • @taihan5971
    @taihan5971 ปีที่แล้ว +3

    次回小名木先生の講話期待です。
    ありがとうございます。
    知っておくべき徳川家康読みます。

  • @矢野太一-k3v
    @矢野太一-k3v ปีที่แล้ว +8

    小名木先生のご説明は分かりやすく面白いです。私も拙い小説を執筆してますので、すごく参考にさせて頂いてます。
    また、製本できたら、小名木先生に何とかお渡ししたいです。

  • @masai5337
    @masai5337 ปีที่แล้ว +5

    いや〜、楽しい!ハマっちゃってます。頭悪い自分には最適です。ありがとうございます。

  • @aze-zo1pj
    @aze-zo1pj ปีที่แล้ว +1

    毎回勉強になってます。
    ありがとうございます。

  • @satoumasakazu8392
    @satoumasakazu8392 ปีที่แล้ว +6

    とても参考になりました。

  • @Izumi-fe1x
    @Izumi-fe1x ปีที่แล้ว +1

    本、買いました。😁

  • @じふもんぽん
    @じふもんぽん ปีที่แล้ว +3

    駿河の安倍川餅は、元々きな粉餅ですが、家康を喜ばせる為に金な粉(きんなこ)餅と言ったそうです。
    安倍川にも砂金が採れたそうです。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane ปีที่แล้ว +7

    関ヶ原って家康にとっても想定外でしょうに
    じゃなきゃ伏見にもうちょい兵数残すし、諸大名の妻子押さえられないようにするさな

  • @user-rd1cn9qj3m
    @user-rd1cn9qj3m ปีที่แล้ว +1

    めちゃくちゃ面白いな 学校でやれる様にしたいな

  • @opportunist-party9664
    @opportunist-party9664 ปีที่แล้ว +6

    そうか金山インフレですか🤩

  • @埴輪はにわハニワ
    @埴輪はにわハニワ ปีที่แล้ว +1

    面白い!佐渡金山により更に豊かで安全な日本
    日本復活の知恵(ヒント)がこの物語歴史ストーリーにはありますね
    冬の陣夏の陣も楽しみです。

  • @sakenomiz2441
    @sakenomiz2441 ปีที่แล้ว +14

    関東移封当時は現在の佐渡は上杉家(間違っていたらすみません)が治めていたと思うのですが、なぜ家康は佐渡金山を見つけることができたのでしょうか?

    • @アイキング-y5h
      @アイキング-y5h ปีที่แล้ว

      金山を探していたのは事実なんですから、たまたまそう言う情報を家康の耳に入れた人がいるんじゃないんですか?

  • @wa33785
    @wa33785 ปีที่แล้ว +1

    家康が江戸へ入府前は駿河遠江三河の他、信濃甲斐も領有。佐渡金山を領有したのは関ケ原決戦の後、上杉領時代は砂金が採れるくらいで江戸時代になってから本格採掘。佐渡金山採掘開始で大坂(銀本位)に並ぶ経済都市江戸(金本位)となったのは事実。

  • @イエライ
    @イエライ ปีที่แล้ว +2

    この歳にして、目からウロコです。

  • @真下優介
    @真下優介 ปีที่แล้ว

    大名とは大名主。なるほど大いに納得。

  • @daikooroshi
    @daikooroshi ปีที่แล้ว +8

    ちょっと待ってくださいよ。時系列がおかしいでしょう。
    関ケ原以前、佐渡はまだ上杉領です。金鉱脈の発見は直轄地とした
    後、大久保長安によるもので、関ヶ原以降の事でしょう。
    豊臣時代は金は価値のあるものではありましたが、京都の後藤本家
    による鋳造は大判10両相当が主であり、まだ一両小判は流通して
    いません。この時期江戸では養子後藤庄三郎の金座により、一両小
    判が吹かれましたが、思ったほど流通はしませんでした。
    その一両小判は、武蔵と刻印され、徳川領内の限定貨幣でしたが、
    江戸でも思ったほど流通しませんでした。その後後藤本家が駿河一両
    小判を制作しだしました。それは品質が悪く、流通しませんでした。
    小判が流通しだすのは、江戸幕府を開府し、江戸の後藤庄三郎家が
    正式に正規鋳造の幕府公認となり、さらに1/4両である一分金を
    同時に発行した事により、計数貨幣として・それまでの量数貨幣から
    切り替わって行きました。大坂圏では相変わらず銀による、量数貨幣
    が主でした。これは幕末まで続きます。
    江戸の金、大坂の銀の2種貨幣制でした。

  • @アスカ-n3v
    @アスカ-n3v ปีที่แล้ว +3

    地震があったんだ。
    でも、それで秀吉からお米も作れないような江戸に行けって言われて、すんなりなぜ行ったんだろうと(悩んだかも知れないけど)、学校の歴史の授業でもそれはほんとに疑問でした。
    未開の地ではなくそこに住んでる人だっていて、突然家康きて受け入れられるの?なんて疑問もたくさんあったし。。。
    ただ、今のお話も秀吉が地震で大変になってる三河らを援助したとしても
    やっばりなんで江戸にいかなきゃならなかったのが家康なのか、まだどうも腑に落ちないなぁ。
    金山の時系列がよくわからない。
    お米も作れないような江戸に行けと言われて、私だったら、殺されるようなものだと怒り秀吉殺すかも知れないって思う。
    戦国時代の江戸や、当時の人の価値観も知りたいところ。

    • @たっかー-d9k
      @たっかー-d9k ปีที่แล้ว +6

      勘違いしてはいけないよ。家康はほぼ関東八州を手に入れたのだから米も金も莫大に入る(2000億円は増える相当)当該地域は一昔まで鎌倉公方、古河公方が領土とし、名門結城や小山、ましては関東管領山内上杉や扇谷上杉の領土なのだから十二分の石高はある。江戸周辺が米取れなかっただけ。海産物は取れたし、川運、海運も北条時代に十分流通していている。家康は、この流通性や土地改良よるさらなる石高整備できる将来性を先見した。また江戸城も伊勢宗瑞以前からの戦略的要所。当時は部下(御家人)は地域に密着している。領民や部下を率いて転封は自分たちのお里が強制的に変えられる不満は計り知れない。家臣団を説得する意味でも大変だったはず。だからこそ、仙台転封時の伊達政宗を説得できた。

    • @アスカ-n3v
      @アスカ-n3v ปีที่แล้ว +4

      そうなんですね!!
      教えてくださり、ありがとうございます。
      教科書や小説やドラマくらいしかみてない浅はかな知識ですので、ご勘弁ください。
      そういう背景があったのなら、将来性を見いだせる江戸に行ったことと開拓をしたというのが納得いたしました。
      流れ作業のような歴史の授業の中で、疑問を感じていたことがたくさんあり、そのせいで小名木先生の授業が遥かに進んでおり、ついていけてないところがありましたが、教えてくださりスッキリいたしました!ありがとうございました!

  • @lees4020
    @lees4020 ปีที่แล้ว +1

    2:36 江戸に行かなかったから東京が首都じゃなかったかもだと思うとすごいですね💦

    • @lees4020
      @lees4020 ปีที่แล้ว

      18:38 〜素晴らしい分析です👏

  • @iNsaD-p3e
    @iNsaD-p3e ปีที่แล้ว +9

    大阪一極集中を無くす交渉の記録とかはあるのでしょうか?

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

    佐渡金山
    (さどきんざん)、または佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称[1]である。なかでも相川金銀山(あいかわきんぎんざん)の規模が特に大きく、単に「佐渡金山」という場合、相川のものを指す場合もある。このほか「佐渡鉱山」または「相川鉱山」の名称も用いられる。
    本項では佐渡島における金銀山の概説、ならびに相川金銀山について記す。
    概要
    Wikimedia | © OpenStreetMap
    1.西三川 2.鶴子 3.新穂 4.相川
    いずれも大まかな位置
    佐渡島には下表に示す4つの主要な金銀山を含む多くの鉱山が存在が確認されている[1]。なかでも相川は規模が大きく、国の史跡や重要文化財に指定、または重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っていることもあり(詳細は#文化財を参照)、現在では佐渡における観光の拠点ともなっている。
    佐渡島内の主な金銀山(出典:[1])
    主な呼称 おおよその採掘開始時期 閉山
    西三川砂金山(にしみかわ) 平安時代以前 1872年
    鶴子銀山(つるし) 戦国時代 1946年
    新穂銀山(にいぼ) 戦国時代以前 ?
    相川金銀山(あいかわ) 江戸時代初期 1989年
    佐渡島内鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。
    歴史
    「相川町#歴史」も参照
    前史
    Question book-4.svg
    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
    出典検索?: "佐渡金山" - ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月)
    歌川広重の描いた佐渡金山
    天正17年(1589年)に上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。
    相川金銀山は16世紀末に開発が始まったと考えられており[2]、戦国時代には相川の金脈は未発見であった。そのため戦国大名の上杉謙信がかかわった記録はない(鶴子銀山は既に採掘されていた)。小説『武田信玄』において新田次郎は佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、戦国時代の佐渡は本間氏の領国であり上杉氏は領有しておらず、その意味からも上杉謙信が佐渡金山を保有していたということはありえない。ただ、『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり伝聞の収録という形ながら佐渡で金が採れるという点に言及されている。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      江戸時代
      慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。特に17世紀前半に多く産出された[1]。
      江戸時代における最盛期は江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され[1]、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある[1]。当時としては世界最大級[3]の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。
      しかし江戸中期以降佐渡鉱山は衰退していった[4]。1690年には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった[5]。
      江戸時代後期の1770年頃からは江戸や大阪などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが[5]、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。
      水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者はこの佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足の収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。[6]
      明治以降
      近代以降の坑道
      明治初期から官営(当初は工部省の所管。農商務省、大蔵省を経て1889年から宮内省御料局の所管[5])となるが、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は1869年(明治2年)に西洋人技術者を鉱山に送り、火薬採掘や削岩機、揚水機といった西洋の近代的技術の導入を開始した。これにより産出量が再び増加に転じはじめた[5][4]。1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、日本金属鉱山で史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成した[4]。
      1885年(明治18年)政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行するため、佐渡鉱山のさらなる増産を目指すようになり高任立坑の開削、ドイツの新技術の導入による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていった。また鉱山技術の国産化を進める目的で1890年(明治23年)には鉱山学校が開校し、日本の鉱業教育に重要な画期となった[4]。
      1896年(明治29年)皇室財産だった佐渡鉱山は兵庫県の生野鉱山などと一緒に三菱合資会社(1918年に三菱鉱業株式会社に改名。現三菱マテリアル)に払下げとなった。三菱は動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進めた。その結果、明治後期の頃には鉱山の算金量は年間400kgを超え、江戸時代における最盛期だった17世紀前半並みの産出量に戻っている[4]。その後も産出量は増えていき、特に1931年の柳条湖事件後に中国大陸での戦火が拡大したことで大量の軍需品輸入の代金決済手段として金の需要が増加したことで佐渡鉱山でも金増産体制が強化され[7]、1940年(昭和15年)には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している[1]。
      鉱山労働者の管理は当初三菱鉱業から労働者雇い入れや管理を任されている部屋頭による「部屋制度」(納屋制度)で運営されており、この制度は佐渡鉱山の労働力供給に大きな力を発揮していたが、部屋頭による中間搾取も多かったため、労働者の権利意識の高まりの中で1899年(明治32年)以来労働争議がしばしば発生するようになり、特に1922年(大正11年)5月には650名の鉱山労働者が参加する大規模労働争議が発生した。そのため三菱鉱業は1926年1月に労働係を新設して労務管理を強めて部屋制から直営制度へと経営方針を転換し労働者の不満を緩和する処置をとった[7]。また1904年には23床の入院施設を持つ病院(鉱山病院)を設置し(1934年の改築で病床数32床に増加した)、鉱山関係者の軽費診断所として利用された[7]。
      第二次世界大戦中には金の代金決算手段としての価値は薄れ、むしろ戦争に重要な資源である銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が重視されるようになり、佐渡鉱山でも銅の採掘が増える一方、金の採掘は減少した。また戦時中には朝鮮人労働者が大量に動員された(詳しくは後述)[7]。戦時中も佐渡鉱山は大きな成果を上げ続け、1943年8月には椎名悦三郎商工省次官が鉱山労働者の激励のため佐渡を訪問している。同年10月には商工、厚生両大臣から表彰も受けた。これを祝って佐渡鉱業所は全従業員及び地元相川町民に対する感謝慰安で同月30日夜に協和会館で万才に浪曲の演芸会を開催している[7]。
      戦後の1952年(昭和27年)に三菱は佐渡鉱山の大規模縮小を決定した。1976年(昭和51年)には佐渡鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立して細々と採掘が続けられていたが、最終的には1989年(平成元年)に休山となった[1][5]。1989年の休山までに佐渡鉱山が算出した金は78トン、銀は2,300トンに及ぶ[4]。
      現在は三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡が運営しており「史跡佐渡金山」として一般公開されるとともに「世界遺産」への登録を目指している[4]。

  • @macsy1955
    @macsy1955 ปีที่แล้ว

    三河の言葉(方言)が横浜に残っている理由の一つですね。大震災で被災した三河衆が家康とその臣下と一緒に移住したのでしょう。

  • @jheart5471
    @jheart5471 ปีที่แล้ว

    どうも違うなー
    佐渡の金山は家康が見つけたのではなく
    秀吉時代に既に見つかってるしそれを採掘管理してたのが上杉で家康はそれを目的に
    上杉征伐を企み関ヶ原で勝利して結果金山を手に入れたわけで
    関ヶ原はそれまで豊臣家が独占していた佐渡の金山を奪うのが目的だった

  • @mitism889
    @mitism889 ปีที่แล้ว

    なるほど、佐渡金山の発見で江戸時代が始まって、菱刈金山の発見で江戸が終了したのですね。
    今では稼働中の金山は菱刈金山のみで佐渡金山は閉山してますね。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

    石見銀山
    (いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる[1]。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。
    1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
    義隆の死後、毛利氏が大内氏に代わり台頭すると、毛利元就は尼子晴久との間で銀山争奪戦を繰り広げた。だが、1556年(弘治2年)の忍原崩れ、1559年(永禄2年)の降露坂の戦いといった戦いでは尼子氏の勝利に終わり、晴久の存命中に元就は石見銀山を奪取しえなかった。
    だが、1561年(永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は家中の動揺を抑えるため、1562年(永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議を結んだ。これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた[8]。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。
    天正9年(1581年)7月5日付の石見銀山納所高注文(『毛利家文書』)によると、大森銀山の納所高は一年分合わせて3万3072貫、銀子に換算すると3652枚であった。毛利氏が流浪の足利義昭を奉じて織田信長と天下を競うほどの勢力を誇った要因に、この大森銀山に支えられた経済力があったのである[9]。
    その後、1584年(天正12年)に輝元が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた[10]。
    1591年(天正19年)、輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため、林就長および柳沢元政を奉行に任命した。
    1597年(慶長2年)には、輝元から秀吉に銀3,000枚(129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13,000枚ずつが、それぞれ運上されている(『吉岡文書』)[11]。
    商業への影響
    石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が持ち出された。特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、その経済規模の為に銀需要は大きかった[12]。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となった。当時の日本の銀産出量は年間平均200トン程度(内石見銀山が38トン、およそ10000貫)と推測されているが[11]、これは世界全体の三分の一に達しており、スペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西洋でも有名になった。石州丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少であるが、島根県は2007年までに石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)、文禄石州丁銀、御公用丁銀を購入し、これらは島根県立古代出雲歴史博物館における企画展などで展示される[13]。
    その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。スペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、自らも地図を作成した。銀山を手中にした大名家(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏、徳川氏)の利益は大きく銀10000貫は米に換算すれば100万石を下らない収入となる。なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモ(Somo)」あるいは「ソーマ(Soma)」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる[14]。
    江戸幕府による支配
    石見銀山領の設置
    旧大森代官所跡
    (石見銀山資料館)
    関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1600年(慶長5年)11月に石見銀山の接収のために大久保長安と彦坂元正を下向させ、石見の江の川以東を中心とする地域(石見銀山の所在地、邇摩郡大森を中心に安濃郡・邑智郡・那賀郡の4郡146か村と、美濃郡・鹿足郡で6か村の飛地)を幕府直轄領(天領)とし、翌1601年(慶長6年)8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命した[15](なお、初代奉行については『石見銀山旧記』や『石見銀山紀聞』などで大久保長安とされているが、『石見国名跡考』では彦坂元正であるとされている[16]、石見銀山奉行衆から両人宛への書状では大久保長安の宛名が先となっている)。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた[17]。
    幕府による銀山開発
    大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。1602年(慶長7年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた[18]。
    安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば1602年(慶長7年)の運上銀は4-5千貫に達したといわれる[19]。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。
    海岸部には炭生産のノウハウを有するたたら経営者の製鉄工場が林立し、たたら経営者の中には銀採掘に使われる道具などで消費される鉄と銀製錬のために消費される炭とを本年貢や鍛冶年貢の代替として供給する者もあった[20]。
    2017年5月には町年寄を務めた家系の家屋から江戸時代の鉱物資料標本が発見されている[21]。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      ポトシ銀山
      1545年以来、スペインが経営した南米(現在のボリビア)の銀山。産出した銀はスペイン帝国の経済を支え、さらにヨーロッパに価格革命をもたらした。
      ポトシ銀山 1545年に発見された南アメリカ大陸、スペインの植民地であったペルー副王領の銀山。現在はボリビアに含まれている。スペインの入植者はエンコミエンダ制によるインディオの強制労働で経営し、採掘した銀を本国に送った。こうしてもたらされた銀はヨーロッパの価格革命をもたらしたと言われる。また、16世紀後半以来、中国貿易でも使われ、大量のスペイン銀として流入し、明での銀の流通をもたらした。
      ポトシ銀山の発見
       ポトシは標高4000mを超すアンデス山脈にあり、山そのものは800m程度である。1545年4月、グァルパという名のインディオがリャマを追って山に入った際に銀鉱を発見した。それがスペイン人の耳に入り、銀鉱床を確認したスペイン人が採掘権を取得した。その後、次々と人びとが集まり、47年にはスペイン人2千人、インディオが1万2千人、鉱石掘りに従事した。当初はラプラタ(後のアルゼンチン)の行政下にあったが、1561年に財政難に苦しむ王室に13万ペソを献上して分離し、フェリペ2世から「帝国町ポトシ」の名を授かり、翌年には市会が誕生した。その後もポトシの人口は増え続け、最盛期の1650年には16万となった。当時、マドリッドは15万5千、セビリアは18万、ミラノは29万、ロンドンは22万5千と推計されている。
      エンコミエンダ制の導入
       西インド諸島やメキシコなどのスペイン植民地では、1503年からエンコミエンダ制によって現地のインディオを労働力とすることが認められていた。これは、スペイン人入植者に対し、現地人をキリスト教化するすることを預託する代償として、現地人を労役に従事させることのできる制度であり、事実上の強制的な労働が可能な制度であった。エンコミエンダ制は宣教師ラス=カサスのように、非人道的でありインディオ人口の減少につながるという批判が強かったことと、しばしばエンコンメンデロ(エンコミエンダ制を認められた入植者)が私腹を肥やそうとして王室の統制に服さないことがあったため、本国のスペイン王室は、制度を廃止し、農園や鉱山の直接管理することをめざしていたが、ポトシ銀山が発見され、有望な銀山として急速に増産が望まれると、労働力の不足を補うため、エンコミエンダ制の導入を認めた。
      エンコミエンダ制の行き詰まり
       1549~50年にかけてポトシは銀ブームにわき、総督ラ=ガスカはエンコンメンデロに対し、保有するインディオの10分の1に限ってポトシ銀山で働かせることを認めた。しかしこのような制度は死文となり、実際には約5000人のインディオ(家族を併せると2万~2万5千)がポトシに送り込まれた。そのすべてが強制労働であったわけではないが、ほとんどはケンコンメンデロに恣意的に使役される状態であった。
       しかし、16世紀後半に入ると、インディオの反乱の頻発、エンコンメンデロの本国に対する不満(彼らは権利の永久世襲化を要求したが本国政府はそれを拒否していた)などから、清浄扶南が続くなか、ポトシ銀山でもエンコミエンダ制のもとでのインディオの人口減少による労働力不足などから生産量が減少し始めた。
      水銀アマルガム法とミタ労働の導入
       1572年、ペルー副王トレドはポトシ銀山の再興のため、二つの手を打った。一つは銀鉱石から水銀を用いて銀を抽出する「水銀アマルガム法」という技術の採用と、新たな労働力確保のため、ミタ労働を導入したことである。この方策が成功し、ポトシ銀山の銀生産量は急速に復興し、銀は再び大量にヨーロッパにもたらされることになった。
      水銀アマルガム法 銀鉱石を粉砕した粉末に水銀を加えて泥状にし、沈殿させて水銀アマルガムを作り、加熱して銀を分離するという銀抽出法。鉱石を粉にすることで低品位の鉱石からも銀を抽出できる利点がある。但し安定して供給するには水銀の供給が必要である。ポトシ銀山では、1563年に発見された、リマの南西のウアンカベリカの水銀鉱山の水銀が使われた。
      ミタ労働 指定された16地区のインディオの18歳から50歳までの男子の7分の1を、一年交替で働かせる制度。ミタ労働に就くインディオはミタヨといい、集落の長であるカシケに引率される。賃金は支給されたが食費をまかなう程度であったため、ミタヨは非番の日も労働した。またポトシ銀山までの移動費用も途中から自己負担となった。
      インディオの血と汗の結晶
       ポトシ銀山では16世紀の半ばにエンコミエンダ制は廃止されたが、代わって導入されたミタ労働もインディオにとって強制労働以外の何ものでもなかった。スペイン人がこの制度を導入した前提は、「インディオは怠惰であり働く能力に欠けている」という思い込みであり、またポトシ銀山では黒人奴隷が少なかった(存在しなかったわけではない)のは、高地で寒冷な気候が合わないという理由であった。スペインの本国にも、ペルー副王領にもミタ労働の非人道的な実態を批判する声もあったが、ポトシ銀山で利益を上げる入植者はそれが不可欠であると主張し、彼らからの税収を財源としていた本国政府、副王政府も廃止にには踏み切れなかった。
       ポトシ銀山とウアンカベリカ水銀鉱山では、ミタヨは過酷な行動での採石、粉じんの吸引、水銀の中毒などによって多くが命を落とした。ある修道士はポトシ銀山を<地獄の入口>、ウアンカベリカ水銀鉱山を<インディオの墓場>と表現し、そこで産出する銀は<インディオの血と汗の結晶>と表現した。アントニオ・ラ・カランチャ師は次のような言葉を残している。
      (引用)精錬所で挽かれて粉になったのは鉱石ではなく、インディオの生命である。1ペソ銀貨の1枚1枚にインディオ10人の生命がこもっている。山にこだまするたがねの音はインディオの悲鳴であり、うめき声である。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.129>
      ミタなくしてポトシなし

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      ポトシ銀山でインディオにたいするミタ制(ミタ労働)は、実体としては奴隷制と変わらなかった。
      (引用)ポトシ銀山での労働は、坑内での銀採掘、鉱石の破砕、銀精製などにわかれていたが、総じてその労働は過酷をきわめた。とくに坑内に入ったインディオは、暗くて粉塵の舞う環境のなかで病気にかかる者が続出した。また地上でも、1570年代から銀精製のために水銀アマルガム法が導入され、水銀中毒にかかる者も多かった。1603年の記録によると、ポトシの鉱山労働者は合計1万9000人を数え、その他ここに食料を運搬してくる人びとや鉱山労働者の家族、ポトシ在住の人びとを含めると総計約9万の人口を抱えていた。
       「ミタなくしてポトシなし。ポトシなくしてペルーはなし」という言葉が当時流布していたようであるが、それに加えて「ペルーなくしてヨーロッパなし」と言わなければならないだろう。というのは、ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)で産出された銀とともにポトシ銀山で産出された銀は、当時のヨーロッパ経済に重大な影響を与えたからである。すなわち、スペインを通じてヨーロッパ中に銀貨幣が流通することによって、ヨーロッパ経済は活性化したのである。通常こうした状況は「価格革命」として把握されている。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.62>
      銀の行方
       スペインにはポトシ銀山の銀が大量に持ち込まれたにもかかわらずフェリペ2世の時代、オランダ独立戦争、イギリスとの戦争での無敵艦隊の敗北など、次々と続く戦争での出費がかさみ、宮廷の浪費も続いたため一時的財政破綻をたびたび宣言せざるを得なかった。セビリアからスペイン領アントウェルペン(現在のベルギーのアントワープ)に運ばれた銀は、ヨーロッパで広く流通し、価格革命をもたらした。また、ポトシ銀山の銀はメキシコのアカプルコにもたらされ、ガレオン貿易でフィリピンのマニラを通じて中国にももたらされた。こうしてスペインは世界最大の銀の産地をかかえていながら、その富を国内産業の発展に迎えることなく、海外に流出していった。 → 銀
      ミタ労働の廃止
       ポトシ銀山でのインディオに対する強制労働制度であるミタ労働は18世紀にも続いていた。ミタ労働やその他の課税に対する不満がペルー副王領で高まり、1780年にはトゥパク=アマルの反乱が起こった。インカ帝国最後の皇帝トゥパク=アマルを名乗ったのはティンタ県のカシケ(集落長)コンドルカンキであり、彼は同県がポトシ銀山から遠いこと、人口の減少でミタ労働の割り当てを出せなくなったを訴えたが無視されたため、反乱を起こしたのだった。反乱は全国に広がり、一時はリマとクスコを包囲、陥落寸前まで行ったが鎮圧され、彼は81年5月18日、処刑された。
       ミタ労働の廃止を訴えて放棄したトゥパク=アマルの反乱は、ラテンアメリカ全体を揺るがす独立運動の先駆けとなった。それでもミタ労働は維持されていたが、1819年、ラテンアメリカの解放者シモン=ボリバルによって廃止され、250年に及ぶ高地ペルーにおけるインディオ強制労働制であるミタ労働は終わった。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว +1

    銀本位制
    (ぎんほんいせい、silver standard)とは、一国の貨幣制度の根幹を成す基準を銀と定め、その基礎となる貨幣、すなわち本位貨幣を銀貨とし、これに自由鋳造、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度である。この場合、その国の通貨は一定量の銀の量を持って表すことができ、商品の価格も銀の価値を標準として表示される。
    日本における事実上の銀本位制
    日本の江戸時代においては、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ無制限通用を認められるという、いわゆる三貨制度が存在していたが、実態は東日本で主に金貨、西日本で主に銀貨が流通するというものであった[8]。
    ただし必ずしも貨幣価値が地金価値を表していたわけではなく、本位貨幣制度で理解することは難しい。室町時代の守護領国制により各地の鉱山が囲い込まれ、続く安土桃山時代においては分国法により貨幣をふくむ物資の流通が制限された。加え特に織田信長は、領地の通貨供給量がまちまちであることに着目して、領地ごとに租税納入を米にしたり鋳貨にしたり制度を変えた。悪銭も状態と相場をその都度決めて流通させた。そして江戸初期から海舶互市新例を敷かなければならないほどに長崎で金銀比価に混乱が生じ、そのまま進行して幕末まで外交問題として引きずった。このような状態にあって、貨幣の額面価値と金属価値を固定対応させるのは不可能であった。
    その後1871年6月に「新貨条例」を制定し、形式上は金本位制が採用された。しかし、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であったため、1円銀貨(量目は416グレイン)ならびに、当時の洋銀に相当する420グレインの量目の貿易銀を発行し、貿易などの対外支払用貨幣として使用した[9]。
    1878年には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の退蔵と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ後の1885年には、初の日本銀行券(大黒図案の100円、10円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年に正式に金本位制を採用するまで、事実上の銀本位制が継続した[10]。第一次世界大戦後の活況期では金本位制を離脱するも銀貨が流通。1930年の金解禁が失敗して再禁止となってからは管理通貨制度に移行して今日に至っている。ただし1960年代まで100円硬貨は銀貨(臨時補助貨幣)であった。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      天正大判
      (てんしょうおおばん)とは安土桃山時代から江戸時代の初期に掛けて、主に豊臣家が金細工師の後藤四郎兵衛家に鋳造を命じた大判であり、天正16年(1588年)が初鋳とされ、天正菱大判(てんしょうひしおおばん)、天正長大判(てんしょうながおおばん)および大仏大判(だいぶつおおばん)が知られる。
      概要
      量目は金一枚すなわち京目拾両(四十四匁)を基準としているが、実際には色揚げによる減量および磨耗などを考慮し慣例により二分の入り目が加えられ、四十四匁二分が規定量目である。表面は槌目(つちめ)であることが天正大判の特徴である。
      通用は江戸時代に入っても慶長大判と並行していたと見られ、元禄8年(1695年)に停止となった。
      天正菱大判
      表面中央に「拾両後藤(花押)」、右上に「天正十六」などと年号が墨書され、菱枠の桐極印が上部に一箇所、下部に二箇所に打たれていることから菱大判と呼ばれるが、同形式で丸枠桐極印が上下にそれぞれ一箇所のものの存在する。裏面には極印はない。中央下部に埋め金があり、譲葉金などの判金に足し金して量目を調整したものと考えられる。量目は後の長大判と同じであるがサイズは一回り小さい楕円形である。
      墨書は四代後藤光乗の弟である菱後藤家の後藤祐徳によるものとされる。年号には他に「天正十七」、「天正十九」と書かれたものが存在するが[1]、全体の現存数は数品と見られ、貨幣博物館および造幣博物館などに展示されている。
      わが国の貨幣史 天正菱大判
      天正長大判
      墨書きは「拾両後藤(花押)」で年号表示は無く五代後藤徳乗のものであり、上下左右に丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印があり、亀甲枠については有る無し、双方が存在する。大判の中でもサイズが特に大きく縦17センチメートル以上のものとされ長大判と呼ばれる。
      サイズが大きく見栄えのするものであることから、豊臣秀吉が天正17年5月(1589年)に太閤の金賦りで与えたものは長大判であるとする説もあるが[2]、これは菱大判の鋳造時期であり長大判の初鋳が文禄4年(1595年)であるならば矛盾し疑問である。
      裏面中央に澤瀉紋、亀甲桐紋、花押の極印が打たれた澤瀉大判(おもだかおおばん)は秀吉が毛利輝元に後藤家で大判を作製することを許したと推定する説もあるが定かでない[2]。
      鋳造高は文禄4年5月から慶長2年2月(1597年)までは、約3万枚と推定され、慶長3年3月(1598年)から5年2月(1600年)までは23,963枚である[1]。
      『金融研究』巻頭エッセイ 第1シリーズ 「貨幣の歴史」 天正大判-豊臣秀吉の金銀貨-
      わが国の貨幣史 豊臣秀吉の金銀貨
      大仏大判
      大仏大判
      エンゲルベルト・ケンペルの方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[3]。ただしこのスケッチに描かれている大仏は寛文7年(1667年)再建の3代目大仏で、秀頼の再建した2代目大仏ではない。
      形式は長大判と同じく「拾両後藤(花押)」と墨書され五代後藤徳乗の書であり、右上に「大」と墨書されたものもあり、上下左右にやや大きめの丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印がある。形状はやや角ばった楕円形となり長大判より縦のサイズが短い。現存数は天正大判の中で最も多い。
      豊臣秀頼が京都の方広寺大仏(京の大仏)および大仏殿再建の費用に当てるために慶長13年10月(1608年)から17年1月(1612年)に掛けて鋳造されたものとされ大仏大判と呼ばれ、これは徳川家康が秀頼の蓄財を消費させる目的で方広寺の再建を指示したとされる[1]。鋳造時期は慶長大判と重なるが、豊臣家によるものであることから天正大判の範疇に入れられる。
      これにより大坂城に蓄えられていた分銅金の内、二千枚(約330キログラム)分銅17個、千枚(約165キログラム)分銅11個が消費された[1][4]。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      慶長小判
      (けいちょうこばん)とは、江戸時代の初期すなわち慶長6年(1601年)より発行された小判で一両としての額面の計数貨幣である。また慶長小判および慶長一分判を総称して慶長金(けいちょうきん)と呼び、一般的には慶長大判も慶長金に含めることが多い。さらに慶長銀と伴に慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼ばれ、徳川家康による天下統一を象徴する、江戸幕府による初期の貨幣として重要な位置を占める。
      慶長金の初鋳は銀座が設立され慶長銀の鋳造が始まり、幣制が成立した慶長6年と同時期とされるが、前年の慶長5年(1600年)より既に鋳造が始まっていたとする説もある[1]。
      概要
      表面には鏨たがねによる茣蓙ござ目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」、下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の右ないし左端に小判師の験極印、さらに吹所の験極印が打印されている。
      小判師・吹所と験極印は通常2個であるが、1個のみで吹所の験極印が打たれていないものも少なくない[2]。裏面の花押は正徳小判および享保小判より大きく全体的に素朴な造りである[3]。
      茣蓙目の細かいものは前期鋳、粗目で均質な製作となった元禄金に類似するものは明暦3年1月18日(1657年3月2日)の明暦の大火以降に鋳造されたと推定され後期鋳とされるが、約95年に亘る発行とはいえ初期に多量に鋳造され、その後、産金の減少に伴い鋳造が衰退したと推定されている[4]。
      慶長初期のものを前期、慶長後期から明暦の大火までを中期、明暦以降が後期と考えられ、前期・中期は細目、後期は粗目と推定し、細目 : 粗目の比率はほぼ7 : 3と後期の粗目の方が現存数は少ない[5][6]。しかし、茣蓙目の細かい細目の方が収集家からは若干高い評価を受けている[7]。
      また、極印および製作などにより「江戸座」、「京座」、「駿河座」などに分類されることもあるが根拠に乏しく、鋳造地別の分類は未解明である[2]。
      略史
      関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は幕府設立に先立ち、貨幣制度の整備を重要課題の一つとし、後藤庄三郎光次に全国流通を前提とした小判の鋳造を命じた。慶長期は小判師が吹屋職人を率い、各自で製造した判金を後藤役所に持参し、品位および量目(質量)を改めた上で極印の打印を受け両替商に売却することにより発行されるという、いわゆる「手前吹き」という形式であった。後藤役所(ごとうやくしょ)および小判座(こばんざ)は後に金座と呼ばれるようになる。
      江戸幕府は貨幣の全国統一を行うべく、三貨制度(小判、丁銀、銭貨)の整備を行ったが、これは既存の貨幣流通すなわち、大坂の商人を中心とする極印銀すなわち秤量銀貨の流通と、庶民の渡来銭の使用に加えて、武田信玄が鋳造させた甲州金の貨幣単位である「両」、「分」、「朱」を踏襲したものであり、家康の尊敬する武将であった信玄の甲州金の四進法の体系を採用したのであった[8]。
      東国には甲斐の黒川金山を始めとして、伊豆の土肥金山、常陸および奥州と金山が多く偏在し、さらに江戸時代初期は多額に上る銀の日本国外流出に対し、主に中国から印子金(いんすきん)が輸入されていたため[9]貨幣鋳造用地金の準備も整い、また家康は甲州金を手本とし基本通貨を金貨とする方針であったことから、「江戸の金遣い」と呼ばれるように、小判は江戸を中心とする関東地方で主に流通した。また江戸は武家屋敷が多く点在し、上級武士が大口取引に主に小判を使用したことも江戸を中心として流通した一因である。このように家康は小判を基軸とする「両」の貨幣単位による通貨の全国統一を理想としたが、四進法の計算の煩雑性、実質を重視する観点などから秤量銀貨を使用する商人の力は依然として強大で権力で抑えるまでには至らず、既存の体系を其のまま踏襲する形となったとされる[10]。
      また慶長14年7月19日(1609年8月18日)に幕府は三貨の御定相場として金一両=銀五十匁=永一貫文=鐚四貫文と定めたが、これは目安とされ実態は変動相場制で市場に委ね、相場が行き過ぎた場合は幕府が介入するというものであった。また前年の慶長13年(1608年)に永樂通寳の通用を禁止する触書が出され、これは事実上、金一両=永樂通寳一貫文とする通用の廃止であったため[注 1]、金一両=京銭[注 2]四貫文となり、これは当時の銭相場より銭安に設定されており、小判の価値を高く設定することにより、幕府の権威を示す狙いがあった。寛永13年(1636年)より幕府は各地銭座に寛永通寳の鋳造を請負わせたが、これは良質の銭貨であったにも拘らず、価値は鐚銭と等価に設定されたのであった[11]。
      小判の鋳造は当初、家康の領国貨幣時代は江戸から始まったが、慶長6年(1601年)頃から京都、慶長12年(1607年)から元和2年(1616年)頃までは駿河、さらに、元和7年(1621年)から当時最大の産金を誇った、佐渡にも金座が設立され鋳造された。佐渡判は小判師の験極印の位置に筋見役(すじみやく)の極印「佐」、吹所の験極印は「神」、「当」のものがそれであるとされる[2]。
      流通は90年以上に亘る長期間であったため、折れ、欠け、磨耗による軽目金が次第に多くなり、このようなものは金座で足し金を行い修理が行われた。これは「本直し」と呼ばれ、「本」の刻印が打たれたとされる[12]。
      江戸時代初期は依然として、灰吹金および灰吹銀といった地金に極印を打った秤量貨幣が広く通用しており、幕府はこのような領国貨幣を整理して、慶長金銀に統一するため、各地の有力金銀鉱山を幕府直轄の天領として管理し、寛文8年(1668年)頃には諸国での金銀吹分け(分離・精錬)を禁止した。しかし通貨統一には元禄期の改鋳を待たねばならなかった[13]。
      元禄10年4月(1697年)に11年3月(1698年)限りで通用停止とする触書を出したが、引換が進捗せず退蔵する者が多かったため、11年1月に通用を12年3月(1699年)限りと改めたが、通用停止には至らなかった。正徳金・享保金鋳造後はこれらと同様に扱われ再び表舞台で流通し、元文の吹替え後の元文3年4月末(1738年6月16日)に当時の通用金に対する割増通用が一旦停止されたが、その後も完全な通用停止とはならず、幕末に至るまで事あるごとに再び割増通用の価格が定められる始末であった[14]。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

    関ヶ原の戦い
    (せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある[注釈 1][5]。
    主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。
    概要
    豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた[注釈 2]。
    この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった。
    決戦までの経緯
    豊臣家内部の対立とその背景
    秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行、五大老によって支える体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。
    政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる[6]。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い[7]。
    中央集権派と地方分権派の対立
    太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置[8][9][10]や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成・増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立[11] が抗争の背景にあったとする説である。
    一方、戸谷穂高は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている[12]。文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め[13]、また宇都宮氏・佐竹氏の改易を主導するなど[14] 宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。曽根勇二もこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している[15]。
    朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立
    慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる[16]。
    しかし、両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く[17][18][19][20]、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており[21]、蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)[22]。
    中野等も、三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中で偶像化したものとしている[23]。例えば、賤ヶ岳七本槍の印象から武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は、実際は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった[24]。
    秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執
    文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰の幾つかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。
    しかし、三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」という本の記述に登場して以降[25] の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、史実として立証されたものではない。
    「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立
    「太閤様御置目」(秀吉の遺言[26] や死の前後に作成された掟[27]・起請文群[28])に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。
    家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。
    一方で、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家の四奉行は毛利輝元とともに、秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文[29] を作成しており、その立場は家康の行動とは相違するものである。ただし、この行いは秀吉の遺命の一つである「徒党を組んではならない」という物を故意に破った行いでもある。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      政治抗争の発生
      慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。まず秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が[30]、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎(長益)・京極高次・伊達政宗・池田輝政・福島正則・細川幽斎・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・最上義光ら30名近い諸大名が参集したとしている[31]。
      一方の大坂の利家の屋敷には毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野長政・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城貞隆・原長頼・熊谷直盛・垣見一直・福原長堯・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らが集まったとされる[32][33][注釈 4]。
      翌年の閏3月に利家が死去すると、五奉行の一人である石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長[注釈 5]の七将に襲撃される。三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった[34]。三成を襲撃した七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている[16]。ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。
      家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが[35]、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった[36]。水野伍貴は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする[37]。
      加賀前田征伐と家康の権力強化
      慶長4年(1599年)9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の挨拶をするためとして伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。
      計画は前田利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、寛永年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。
      10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、慶長5年(1600年)正月に利長の母で利家正室であった芳春院・前田家の重臣の前田長種・横山長和・太田雄宗・山崎長徳らの子を人質として江戸に送ることで落着した[38]。また、この時、細川忠興は長男の忠隆の妻が利長の姉であったことから、利長の陰謀に組したという家康の嫌疑を受けたため、利長と同じく、同年の正月に三男忠利(15歳)を人質として江戸に送り、浅野長政も第三子の長重(15歳)を江戸に送っている[38]。
      この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言[26] では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。一方で家康も大坂入城の理由として、秀忠妻江の江戸下向を頓挫させられた、後陽成天皇譲位で天皇の意思と秀吉の遺言が衝突し家康が譲位撤回を上奏せざる得なかった、秀吉の遺言に反して宇喜多秀家が伏見でなく大坂在府を続けた点を挙げ、これら諸問題に対処するため大坂に移ったとしている。
      政敵を排除し政権中枢の大坂城に入った家康の権力は上昇し[39]、城中から大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作と考えられている。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴に越前府中5万石、森忠政に信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌を美濃岩村へ転封した。本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている[39]。
      このように政権内部での権力を強化していく家康に対して、この時期の前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行は政務面で協力的であり[39]、輝元も恭順の意を示している[40]。また佐和山に隠居していた三成も家康暗殺計画事件の際は前田勢への備えとして軍勢を派遣し、大坂の自邸を宿所として提供するなど、家康とは比較的良好な関係であった[41]。しかし、最終的に彼等は反家康闘争を決断することになる。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      会津上杉征伐の決定
      詳細は「会津征伐」を参照
      こうした政治的状況下、慶長5年春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化。4月には家康家臣伊奈昭綱らが会津若松に送り込まれ、神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する[42]。5月中旬、この要求に対して景勝は上洛の意志を伝えるとともに[43]、秋までの上洛延期と、上杉家に謀叛の疑いを掛けた者の追及を要求するが、結局上杉側の提示した要求は受け入れられず、6月上旬に景勝上洛は中止となる[42]。なお、家康に対して直江兼続が景勝への上洛要求を挑発的な文面で批判した、いわゆる「直江状」と言われる史料が存在するが、この文書の真贋や由来、内容解釈については諸説が存在している。
      詳細は「直江状」を参照
      一方家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階ですでに会津征伐を決定しており[44]、6月2日には本多康重らに7月下旬「奥州表」に出陣することを伝えている[45]。
      『慶長年中卜斎記』では家康が6月15日に豊臣秀頼と淀殿に会見し、黄金2万枚と米2万石の他に正宗(あるいは政家)の脇差しと楢柴肩衝を餞別として送られたとしているが[46]、『関ヶ原軍記大成』では「餞別の引出物」とのみ記され、『当代記』(寛永年間成立)・『関原始末記』(明暦2年成立)には会見そのものの記述が無いなど、二次史料同士での記録は一致しない。また、家康の侍医であった板坂卜斎の著書の『慶長年中卜斎記』は成立時期が不明であること。7月28日に小山評定があったと記されているものの、小山評定前後の記述など、日付や内容に一次史料と相違するところが多く、白峰旬・本多輶成などの研究者から信憑性には甚だ疑問があると指摘がなされている[47]。
      本多輶成 6月16日に大坂を発った家康は同日に伏見に入城[48]。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている[49]。
      上杉景勝は上杉領へ侵攻する討伐軍を常陸の佐竹義宣と連携して白河口で挟撃する「白河決戦」を計画していたとされる[50]。しかし本間宏は決戦の為に築かれたとされる防塁の現存遺構が、慶長5年当時の造営物であるか疑問であること、発給文書等の一次史料と「白河決戦」論の根拠である『会津陣物語』(延宝8年成立)『東国太平記』(延宝8年成立か)等の二次史料の記述が矛盾している点などから「白河決戦」計画の実存を否定している[51]。
      なお、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・直江兼続と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。宮本義己は慶長3年7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状の内容から西軍決起後の七月晦日の段階においても、両者の交信経路は確立されておらず、よって挟撃計画は無かったとする[52]。

  • @イーストブルー-q9i
    @イーストブルー-q9i ปีที่แล้ว

    リストラ!

  • @十三ヨシヒサ
    @十三ヨシヒサ ปีที่แล้ว

    面白い。面白い。
    「全体がいかに豊かで安心して(+楽しめる)世界にするか」という開いたポリシーは、
    (西欧の)個人からスタートした世界観をその個人の全体調整へ苦心する形で発展する閉じたポリシーとは、
    真逆ですね。
    ま、確かに西欧中世の閉じた世界観(ポリシー)こそが、科学主義や実証主義を生めた理由なのですが。
    現代の悲劇は、最初にこの星を席巻したポリシーが、閉じたそれであった事の様な気がしてきました。
    「ま、近道より遠回りの方が体験量は多いから生命のキャパは広がる」と思うことにしましょう。

  • @スギロー
    @スギロー ปีที่แล้ว +3

    佐渡金山は関ヶ原の戦いの後、1601年に徳川の所領になったとされている以上、この話にはかなり無理があるように感じます。

  • @nobu27772
    @nobu27772 ปีที่แล้ว

    豊臣秀吉の命で採鉱技術者を佐渡へ派遣する旨を記した文禄四年(1595)正月17日の石田三成宛浅野長吉書状(舟崎文庫蔵)がある通り、関ヶ原前まで豊臣直轄になっていた佐渡ですし、
    ましてや、関ヶ原前に、家康が佐渡金銀山の採掘量を推し量ることができた根拠はあるのでしょうか??
    お話は面白いです。
    1人小芝居が笑えます。
    なので、結構拝見いたしております。

  • @JAPANESE_SOUL_TOKYO
    @JAPANESE_SOUL_TOKYO ปีที่แล้ว +2

    江戸は、秩父があったからだと私は思います。
    正しい歴史を伝えていただけましたら幸いです。
    安祥松平家

  • @kikumimi123
    @kikumimi123 ปีที่แล้ว +6

    皆々様
    わたしは昔 不動産会社で働いてました。😅
    地主さんて、、、
    小作農の方がGHQの政策で安く土地を手に入れて、そのうち都市化してきて、高く土地が売れるようになる。相続税がかかり、物納したりする。   
    今の地主は、先祖代々の土地だと言う顔をしているが、登記簿謄本をとれば、一目瞭然なのです。😊
    旧法借地権って制度が邪魔して
    開発がうまく行かなかったりします。旧法借地権の地主はお寺さんが多かったり、、、😢
    これは参○党に言わなきゃだめか😅

  • @cyannhama4864
    @cyannhama4864 ปีที่แล้ว +1

    関ヶ原合戦の勝負を決めたのは、西方につこうか東方につこうか迷っていた、小早川秀秋の裏切りが、あったればこその家康の勝利だろう。
    もし、小早川が西方についていたなら勝負は、分かったものでない。
    まあな、石田三成の人間性も勝負に影響したのだろう。
    どっちかと言えば、兵の数では西側有利だっったのじゃないのか。
    歴史に、もしやはないのは当然だが、信長がご存命であれば、日本の歴史も変わっていたに違いない。
    中国大陸も日本が、支配していたかもな。

  • @Xリベリオン
    @Xリベリオン ปีที่แล้ว

    佐渡って、江戸からずいぶん離れていますが、徳川家が管理していたのですか?

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว +3

    帰雲城
    (かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、現在の岐阜県大野郡白川村三方崩山の下、保木脇(ほきわき)にあった日本の城である[1]。内ヶ島氏の居城であったが、1586年(天正13年)の天正地震による山崩れで城と城下町が全て埋没した[1]。
    略史
    帰雲城は当地の武将である内ヶ島氏の居城であった。寛正年間(1461年 - 1466年)の1462年頃、内ヶ島為氏により築城された。
    天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震が起き、帰雲山の崩壊で埋没。被害は埋没した家300戸以上、圧死者500人以上とされる[1][2]。当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と言われる[3]。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。
    立地
    城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っている。この一帯では過去に土砂崩れがあったことは地質調査で判明しているが、碑の下に帰雲城が埋まっていると確認されているわけではない。
    現在にかけて、幾度となく埋没した城を位置を特定しようとする試みが行われている。1972年(昭和47年)には、郷土史家などの手により「白川帰雲城・発掘保存準備委員会」が発足。近隣の神岡鉱山(三井金属鉱業)の技術支援を得ることも検討されたが、特定には至らなかった[4]。
    1993年(平成5年)に発足した「白川郷埋没帰雲城調査会」は、江戸時代の地誌や古地図から帰雲川左岸のいずれかにあったと推定しており、2027年に試験的な発掘調査を予定している[5]。
    保木脇集落は帰雲城城下町の名残ではなく、庄川水系でのダム建設に伴う移転先として昭和30年代(1955-65年)に形成された。庄川近くで採石場を営む建設会社の社長の夢に帰雲城将が現れたとして、帰雲山の崩壊跡を望む地に武将を祀る観音像や神社などを建て、地元住民も協力して公園化した[2]。
    貝塚御座所日記の記述
    本願寺門主顕如の側近で、当時大坂にいた宇野主水が記した「貝塚御座所日記」(宇野主水日記)[注釈 1]には、天正地震での各地の被害情報[注釈 2]が記されているが、帰雲城について以下の記述がある。
    十一月廿九日夜四半時大地震、夫ヨリ十余日不止、折々地震。〔……中略……〕飛州ノ帰雲トモママ在所ハ内島ト云フ奉公衆アル所也。地震ニテ山崩、山河多セカレテ、内島ノ在所ヘ大洪水ハセ入テ、内島一類地下ノ人々ニイタルマテ不残死タルナリ。他国ヘ行タル者四人ノコリテ泣々在所ヘ帰リタル由申訖。彼在所ハ悉淵ニナリタルナリ。〔……後略……〕[6]
    他、『越中国名跡志』という史料にも同様の記述がある。
    埋蔵金伝説
    内ヶ島氏の領内に金山があったことから、城崩壊とともに埋まったとされる埋蔵金伝説がある[注釈 3]。しかし、この伝説は1970年(昭和45年)頃、内ヶ島氏の末裔を称する人物が語った内容を大阪の地方新聞が記事化したところから拡散したものであり、古くから白川地域に伝わっていたわけではないことが指摘されている[7]。
    関連書籍
    研究書
    岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 中世』(1969年発行)
    岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 近世 上』(1968年発行)
    岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世一』(1969年発行)
    岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世四』(1973年発行)
    荘川村『荘川村史 上巻』(1975年発行)
    森本一雄 『定本 飛騨の城』郷土出版社、1987年9月15日。
    白川村『新編 白川村史 上巻』(1998年発行)
    『歴史の足跡をたどる日本遺構の旅』- 「なるほど知図bookまっぷる選書」 (昭文社2007年刊。ISBN 9784398143051)
    加来耕三 『消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理』メディアファクトリー、2011年。ISBN 978-4-8401-4344-8。
    論文
    安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」」『日本海域研究所報告』8号、1976年。
    安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第2報 両城主の家系図の検討―」『日本海学会誌』1号、1977年。
    安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第3報 内ヶ島系図と石黒氏系図の研究―」『日本海域研究所報告』9号、1977年。
    安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第4報 内ヶ島氏および石黒氏の家臣達―」『日本海学会誌』2号、1978年。
    安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第5報 両城主と一向一揆―」『日本海域研究所報告』10号、1978年。
    安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について―」『日本海学会誌』3号、1979年。
    安達正雄「帰雲城主・内ヶ嶋氏の歴史と家系」『北陸都市史学会会報』8号、1986年。
    安達正雄「飛騨帰雲城と城主・内ヶ嶋氏の史実を探る― 天正大地震の土石流で城と城下町が埋没し、放置されて四百二十年に当り―」『石川郷土史学会々誌』39号、2006年。
    安達正雄「五箇山文献に秘められた飛騨・内ヶ嶋氏の史実について―五箇山と川上三箇庄の一部は室町末期、実は内ヶ嶋氏の領地だった?―」『石川郷土史学会々誌』40号、2007年。
    安達正雄「木舟城を陥没させ帰雲城を埋没させた天正大地震の真相―天正大地震は連続多発地震だった―」『石川郷土史学会々誌』42号、2009年。
    福井重治 著「飛騨の金銀山と山城」、小菅徹也 編 『金銀山史の研究』高志書院、2000年。
    創作作品
    『変幻退魔夜行カルラ舞う! 』- 永久保貴一
    『呪いの紙草履』 - 和久峻三による赤かぶ検事シリーズの1作。
    『帰天城の謎 ~TRICK青春版~』 - はやみねかおるによるドラマ『TRICK』の外伝小説。帰雲城をモデルにした「帰天城」が登場。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      ・小牧・長久手の戦い
      (こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」・「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている[3][4][5][6][注 1]。
      ・小牧長久手の戦いを解説!家康を救った天正大地震についても!
      2019年3月26日 2019年7月8日 master
      小牧長久手の戦いを解説!家康を救った天正大地震についても!
      今回は、小牧・長久手の戦いについて、わかりやすく解説してみました!

      戦国時代の中で一番有名な武将といえば、やっぱり三英傑と呼ばれる3人の武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ですよね!
      そんな3者ですが、実は、秀吉と家康、そして信長の息子が一回だけバチバチに戦をやったことがありました。
      それが、今回のお話、小牧・長久手の戦いです。

      3者はなぜ戦うことになったのか?
      戦いの結果は?
      その時歴史が動いた!?家康を救った天正大地震とは?
      戦場となった場所と、ゆかりの地の現在は?

      一体、この戦いの裏にどんなドラマが隠されていたのでしょうか。
      学校や教科書では語られない、真実を解き明かしていきたいと思います!
      もくじ [隠す]
      1 小牧長久手の戦いとは?
      小牧長久手の戦いの布陣図
      小牧長久手の戦いの結果
      2 小牧長久手の戦いと大地震
      3 小牧長久手の戦いの場所と地図
      血の池公園
      長久手古戦場
      長久手城址跡
      4 まとめ
      小牧長久手の戦いとは?
      小牧長久手の戦いは1584年に徳川家康・織田信雄VS豊臣秀吉の間で起こった戦のことです。

      ちなみに小牧長久手の戦いを話す前に言っておきますが、実は小牧長久手の戦いは小牧での戦いと長久手の戦いを一つに合体したものですので注意ですよ!

      織田信雄という信長みたい名前の人がいますが、実はこの人なんと信長の次男なんです。
      普通なら秀吉は信長の家臣なんですから信雄に従うのが当たり前。
      ですが、実はこの時秀吉は弟の信孝やライバルの柴田勝家を倒してノリノリ状態に突入していまして信雄なんて知らんぷり。

      信雄は秀吉から冷遇されたせいで家康とタッグを組んで秀吉と対決するようになりました。
      小牧長久手の戦いの布陣図
      小牧山城
      小牧山城
      こうして対峙するようになった秀吉と家康。
      ですが、最初からバチバチに戦ったのではなく、

      秀吉は今では国宝の城に認定されている「犬山城」
      家康は信長の昔の本拠地だった「小牧山城」

      にそれぞれ布陣していました。

      ちなみに小牧と犬山の距離はわずか10キロちょい、互いの城が見えてしまうぐらい短い距離でした。
      さらに秀吉軍10万、家康軍3万、両軍合わせて13万の兵士がここで待機していたのです。

      こうしてみるとめっちゃ過密ですね。
      小牧長久手の戦いの結果
      この戦いでは、最初の方は家康がこんなにも差があったのにもかかわらず、奇襲攻撃を仕掛けて一歩リードしていました。

      ですが、さすが戦略家で有名な秀吉です。
      戦で負けたのであれば戦をできない状態にすればいいじゃ無いかと小牧や長久手で戦を行わず、あえて家康と同盟関係を結んでいた織田信雄の領地を狙ったのです。

      これにびっくりした信雄はさっさと秀吉と仲直り。
      実は信雄は家康の相談も受けずに戦を辞めてしまいました。
      情けないです本当に...。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว +1

      こうして信雄と同盟関係を結んだことによって戦う理由があった家康はもうこれ以上戦争しても意味はないと判断。
      小牧長久手の戦いはこんな後味の悪い結果で幕を閉じたのでした。

      その後家康は小牧長久手の戦いの後に関白となった秀吉にどうにかしても従わなければいけなくなってしまいました。
      家康が再び天下を狙えるチャンスが来るのは16年後の関ヶ原の戦いまで待たなくてはなりません。

      小牧長久手の戦いはこれによって終結しますが、次はその2年後に起こった、家康を救ったとされる巨大地震について解説します。
      小牧長久手の戦いと大地震
      小牧長久手の戦いから2年後の1586年。

      秀吉が前の年に朝廷のとても偉い役職である関白に就任して天下人へのステップをどんどん登っていきます。
      しかし、本能寺の変から3,4年て関白まで登っちゃうんですから凄いですよね秀吉って。

      それはともかく、こんな時に日本をいろんな意味で揺るがす大きな出来事が起こってしまいます。
      それはなんと戦や飢饉や一揆でもなく、なんと大地震だったのです。

      この地震のことを当時の元号からとって天正大地震といいます。
      この大地震によって織田信雄の城であった長島城や清洲城などが崩れ落ちてしまいました。

      さらには秀吉や家康に全く関係ないのですが、今の高山という場所を治めていた内ヶ島さんの一族がこの地震によって引き起こされた山崩れに巻き込まれてしまい、一族みんな死んでしまうという戦国大名で一番悲しいパターンで滅亡したりもしていました。

      でも、この地震によって当時再び家康を攻めようとしていた秀吉は断念。
      家康は滅亡のピンチから救われたということもあったそうです。

      地震が起こらなかったら家康が天下を取っていなかったと考えると歴史って面白いものですね!

      さて、日本では小牧長久手の戦いや天正大地震などで大忙しですが、次は再び小牧長久手の戦いに戻って小牧長久手の戦いの激戦地や名跡などを紹介していきます!
      小牧長久手の戦いの場所と地図
      小牧長久手の戦いはこのようにして行われていきましたが、次はその激戦地となった舞台を名所とともに紹介していきましょう。
      血の池公園
      まず最初にご紹介するのは愛知県長久手市にある血の池公園。

      こんな物騒な公園近くにあったらなんか怖いですが、こんな物騒な名前がついたのはやはり小牧長久手の戦いが原因でした。

      どうしてこんな名前になったのかというと戦争が起こった時、家康側の武将がこの池で敵を倒した時についてしまった血をこの公園がある池で洗っていました。

      そうするとなんと怨霊とかお化けがいたのかは知りませんが、その戦いが起こった時期間限定でその池があの時血を洗った時に真っ赤になってしまった時と同じ色に戻ったのです。

      とても恐ろしい話ですが、残念ながら今はこんな怨霊住民にかかってしまったらめんどくさいと思ったのかこの池は埋め立てられてしまい、今では記念碑が建っているだけだそうです。
      長久手古戦場
      今ではリニモの駅名にもなっている長久手古戦場。

      この地で豊臣側ののちにあの綺麗な姫路城の天守閣を作る池田輝政の父の池田恒興と本能寺の変で信長と一緒に死んでしまった森蘭丸の兄である森可成がこの戦いによって討死してしまいました。

      実はこうなった原因は秀吉が「なんからちあかないからいっそのこと家康の本拠地の岡崎や浜松を奇襲しよう!」といい、羽柴秀次という秀吉の甥に対して2万の大軍を与えて奇襲してこいと命令します。
      しかし考えてくださいよ、2万の大軍がコソコソ動いたらどんなヘッポコな忍者でもバレますって。

      しかも相手は武田信玄と死闘を繰り広げてきた家康です。
      こんな小細工効くはずもなくあっさりとバレてしまい、逆に秀吉側に対して奇襲を仕掛けられてしまい奇襲は失敗に終わってしまいます。

      その結果2万の軍は全滅。
      長久手一帯は血で覆われてしまうというすさまじい光景が広がっていたそうです。

      今ではこの古戦場跡にはその時の様子を記録している手紙やどのようにして戦いが行われていったのかを知ることができる記念館が建っており、小牧長久手の戦いの重要な記録を見ることができます。

      もし、この辺りを観光することがあれば一回行ってみてはどうでしょうか?
      長久手城址跡
      小牧長久手の戦いで重要であった城の一つに長久手城という城があります。

      長久手城は元々家康側についていた武将がこの城を守っており、秀吉の軍は一斉にこの城に向かって攻撃を仕掛けます。

      この時の秀吉軍はまだ奇襲をする前だったこともあり、結局はこの城は陥落して秀吉のものになってしまいます。
      しかし、今ではこの城の面影はほとんどなく、平成以降に愛知万博が開催された時に建てられた新興住宅が建てられています。

      昔は激戦地でも今では平和な家族たちが仲良く暮らしていると思うと時代の流れを感じますね。

      それではまとめに入りたいと思います。
      まとめ
      秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦い。ここでひとまずポイントを絞ってみてみましょう。

      小牧長久手の戦いは1584年に秀吉と家康織田信雄の間で起きた戦のこと
      秀吉と家康の本陣の距離はわずか10キロ。しかもその間に13万の兵士がいてとてもぎゅうぎゅうだった
      秀吉は家康の領地に侵攻しようとしていたが、逆に家康に奇襲を受けてしまった
      この戦は信雄が秀吉と和睦したことによって終わった
      小牧長久手の戦いの2年後には天正大地震という地震が起こり、信雄の城などが倒壊した
      小牧長久手の戦いの激戦地は今では平和な住宅街が広がっているが、今でも戦いの痕跡は見ることができる。

      最後になりましたが、小牧長久手の戦い以降、秀吉は関白に就任して敵対する勢力をどんどん潰していきそして6年後には天下統一を果たしました。
      この戦いは秀吉にとって重要な試練の一つだったのかもしれませんね。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

    天正地震
    (てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)および同年11月27日(1月16日)に中部地方で発生した巨大地震である。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ[要出典]。天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)[2]、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)[3]、天酉地震[4]とも呼ばれる。
    『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている[5]。
    概要
    天正地震の震度分布[6]
    被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ、日本史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない[7]。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した[8]。
    同地震の規模を知ることが困難な背景としては、発生当時が戦国時代末期に当たり豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難かったことが挙げられる。しかし、三河にいた松平家忠の日記(『家忠日記』)によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生したとある。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      震源域
      近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている[9]。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている[10]。
      震源断層
      震源断層は判明しておらず[7][10]、以下の通り幾つかの説がある。岡田 (2011)[11]によって、2010年以前の本地震に関する地震像研究がまとめられている。
      飛騨の庄川断層または阿寺断層[12]とする説
      養老断層[13]及び伊勢湾断層とする説
      これらの断層が連動したとする説[14][8]
      養老-桑名-四日市断層帯などの三つの大断層が動いたとする説[15]
      1998年に行われた地質調査では、岐阜県にある養老断層[16]における2つの活動歴が確認され、最新の活動は15世紀以降であることから745年天平地震と共にこの断層が震源断層のひとつであった可能性が高くなった[17]とされている。
      松浦 (2011)[18]は明確に被害が大きかったと推定されるのは、庄川沿いの谷筋(帰雲城)から越中西部(木船城)と、濃尾平野の南西部(長島城・大垣城)から琵琶湖北東岸(長浜城)と分かれているとして、1586年1月16日に庄川断層帯北部でM7.0±0.2の地震が、翌々日18日に養老断層とその周辺の断層帯の一部でM7.9±0.1の地震が発生したと考察しており、伊那谷における大規模斜面崩壊は養老断層による地震か、或いは本地震の半年前(1585年7月31日)に発生した地震によるものではと推考している。また、松浦 (2012)[19]はフロイスの『日本史』における若狭の長浜における津波被害の記述については信憑性が低いとした。
      寒川 (2011)[20]は史料による被害地域と、トレンチ調査で同年代に最新活動が見られる断層として、本地震では庄川断層帯と阿寺断層帯の全体と、養老-桑名-四日市断層帯が活動したと考察した。
      関西電力ほか (2012)[21]は、フロイスの津波被害の記述は地すべりで琵琶湖に沈んだ長浜市の下坂浜千軒遺跡であることを示唆しており、本地震によって若狭湾沿岸で町が壊滅するほどの津波発生はなかったとしている。
      松岡ほか (2015)は本地震による伊勢湾沿岸及びその周辺での津波発生を示す信憑性が高い史料はないとした[22]。
      地震の規模
      文献による歴史記録や地殻変動の痕跡は年月の経過により失われ、地震像の詳細は不明である。規模は研究者により諸説あり、主な説は以下の通り。
      河角廣(1951):規模MK = 6. を与え[23]、マグニチュードは M - 7.9に換算されている。
      宇佐美龍夫(1996,2003):濃尾断層帯の武儀川断層から東北側を震源として、M - 7.8±0.1 程度[24]。
      安達(1979):M - 8.1
      飯田汲事(1978,1987):震度分布から M - 8.2[25]。法林寺断層で、11月27日に M - 6.6 と養老断層の延長部で木曽川河口付近において、11月29日に M - 8.1[8]。
      村松郁栄(1998):富山側で、11月27日に M - 6.6 と養老断層付近で M - 7.8[26]。
      被害
      帰雲城趾。背後の地滑り痕が天正地震による崩壊地[27]。
      帰雲山の崩壊跡(中央部)
      飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没[注釈 1]、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した[注釈 2]。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた[28]。『顕如上人貝塚御座所日記』に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没[29]。
      美濃国 - 大垣城が全壊焼失した[27]。また、恵那市上矢作町の上村川では山体崩壊があった可能性がある。奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
      越中国 - 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
      尾張国 - 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された[30]。また蟹江城が壊滅した。
      伊勢国 - 織田信雄の居城であった長島城が倒壊、桑名宿は液状化により壊滅するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清洲城に移した。亀山城も被害を受けた。
      京都 - 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた[31]。
      琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した[32]。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡したが、見性院は無事であった。
      若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった(後述)。
      津波
      琵琶湖湖北(『山槐記』)[33]、若狭湾、伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる[33]。しかし、海底下に変位領域が及んでいなくても海面の変動を引き起こす事があり[34]、必ずしも断層が海底に有る必要はない。
      海岸線から約4.8kmの距離にある水月湖の湖底堆積物調査からは、水月湖に海水が流入した痕跡は見つかっていない[35]。しかし、水月湖までは到達する規模で無ければ痕跡が見つからないのは当然であり、見つからなかったことが津波が生じなかったとする証拠ではないとしている[35]。
      伊勢湾
      伊勢湾に津波があったとされる。加路戸、駒江、篠橋、森島、符丁田、中島などは地盤沈下したところに津波が襲来し水没した。善田は泥海と化した。伊勢湾岸では地震とともに海水があふれ溺死者を出した[36][37]。
      若狭湾
      『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾沿岸の町で山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある[38]。 他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』[39][40])や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある[41][42]。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告[43][44]を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている[45]。2012年12月、再調査結果として大きな津波の跡は見つからなかったとしている[46]。
      2015年(平成27年)5月、山本博文らは福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表した[47][注釈 3][48]。
      フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章)
      ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
      その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
      若狭の国には、海に沿ってやはりナガハマと称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
      (高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。
      「やはりナガハマと称する別の大きい町」というのは、前の文章に「長浜城下で大地が割れた」と書いてあり、区別するためである。長浜城については「関白殿が信長に仕えていた頃に居住していた長浜と言うところ」という説明もあり、これは1574年(天正2年)に秀吉が築城を開始した琵琶湖東岸の長浜市にある長浜城を指し、若狭湾のナガハマとは別であることを明確に書いている。ナガハマは現在の福井県高浜町のことである[49]。
      吉田兼見『兼見卿記』[50]
      廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユ(ア)リ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知云々、江州・勢州以外人死云々
      丹後・若州(若狭)・越州(越前)沿岸を津波が襲い、家々はすべて押し流され、死者は無数であった[注釈 4]。
      『舜旧記』(十一月二十九日条)
      近国之浦浜々屋,皆波ニ溢レテ,数多人死也,其後日々ニ動コト,十二日間々也
      クラッセ『日本教会史』(1689年)[42]
      若狭の国内貿易の為に屢々(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう、津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、恰も(あたかも)元来無人の境の如く全市を乾浄したり
      これには津波が若狭湾を襲ったのは、旧暦11月29日ではなく、その後の連動地震(または誘発地震)による津波であったとしている[注釈 5]。
      『イエズス会日本書翰集』
      若狭の国には海の近くに大変大きな別の町があって町全体が恐ろしいことに山と思われるほど大きな波浪に覆われてしまった。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。
      理學博士大森房吉 「日本ノ大地震二就キテ」 理學博士大森房吉 『震災予防調査会報告』32号、 p57-58
      天正十三年十一月二十九曰(西暦千五百八十六年一月十八日)
      山城、大和、河内、和泉、攝津、讃岐、淡路、伊賀、伊勢、尾張、三河、美濃、遠江、飛彈、越前、若狹、加賀大地震」沿海ニ津浪アリ
      富山湾
      富山湾で津波が発生し溺死者多数といった情報や、庄川流域での被害多数といった情報[51]があるものの、実際発生したのは、同年1月16日に発生した越中地震による液状化現象であり、津波ではない[52]。庄川上流では天正地震により天然ダムが形成され、のちに決壊し、庄川流域に被害を与えている[53]。
      三陸沿岸
      宮城県本吉郡戸倉村(現在の南三陸町戸倉)口碑に、「天正13年11月29日畿内、東海、東山、北陸大地震の後に津波来襲」という記述があり、太平洋北部にも津波が来襲したか、連動地震による津波があった疑いがある[注釈 6][54][55]。
      一方で戸倉の口碑は天正十三年五月十四日(1585年6月11日)と記した史料もあり[5]、日付は異なるが1586年7月9日リマ地震による遠地津波との見方もある[56][57]。
      三陸大震災史(1933)[58]
      正親町天皇天正十三年乙酉十一月二十九日、夜亥時、至子時、地大震、畿内及東海、束山、北陸三道殊甚、地裂水湧、屋舎毀壊、壓死者無算、是時濱海水溢、溺死者数多、斯後震動十二日。
      按スルニ県下本吉郡戸倉村民ノ口碑二天正十三年五月十四日海嘯アリシト云フモノ蓋シ之ヲ指スモノナラン
      噴火
      『四ツ半時、大地震あり。この時、硫黄山(焼岳)大噴火を起こし、麓中尾村は地形を大きく変貌する。』(顕如上人貝塚御座所日記)。 焼岳が噴火したという口碑がある[59][60]。しかし、有効な記録の残る文献による裏付けもないため真偽は不明である。
      地震後
      1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっている。
      1596年9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0。
      1596年9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8。
      1596年9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0〜7.1。
      1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震(東海・東南海・南海連動型地震) - M7.9〜8。
      1608年12月30日(慶長13年11月23日) 仙台で地震 - 津波で50人死亡[49]。
      1611年 9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
      1611年12月2日(慶長16年10月28日) 慶長三陸地震 - M 8.1。
      1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 高田領大地震- M 7.7 ...同じ日に日本海側の越後高田領と太平洋側の伊豆、銚子の両方の津波記録がある他、京、会津、伊豆、紀伊、山城、松山の地震被害記録があり、これらの記録を満足する単一の地震はあり得ないとされる[61]。
      1662年 6月16日(寛文2年5月1日) 寛文近江・若狭地震(寛文地震)(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震、近江・山城地震) - M 7 1/4〜7.6、死者数千人。
      朝鮮出兵のために肥前の名護屋にいた秀吉が伏見城を築いた際、1592年(文禄元年)に普請を担当した京都所司代の前田玄以に送った書簡に、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と記されていた。“なまず大事”=城の建築にあたっては地震対策を万全にせよ、という意味であるが、これは1586年の天正地震を念頭に置いたものとみられている[注釈 7]。
      日本原子力発電などによる2012年12月の発表では、天正地震の津波の記録を基にした調査により、敦賀市の猪ヶ池で約5,500年前の地層から津波によるとみられる砂が見つかった[63]。

  • @宮崎三郎-y9e
    @宮崎三郎-y9e ปีที่แล้ว +1

    ちょっと無理がある説ですね。野望を持たないような人物に天下の仕置きというのは、最初から無理ですので、家康にも野望があって当然かと思います。家康の秀吉死後の行動は、他の大老を一人ひとり潰していくというものでした。したがって関ケ原での最大の標的は大老の一人宇喜多秀家と見るのが自然です。関ケ原の1年後、家康は全国の鉱山、港などへ兵を送り、豊臣家から支配権を奪っています。そこで日本の財政を手中にし、独裁権力を手中にしたという流れかと思います。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว +2

    大久保 長安
    (おおくぼ ながやす/ちょうあん)/土屋 長安(つちや ながやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。
    生涯
    出生
    天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
    武田家臣時代
    父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
    武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
    ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
    徳川家臣時代
    遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[1]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[2]と記され黒印が押されている
    甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
    長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
    天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
    また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
    天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
    長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
    慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
    慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
    慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
    慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
    慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
    これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
    慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[3]。
    しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[4]。享年69。
    長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・藤二郎(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・運十郎(29歳)、五男・藤五郎(27歳)、六男・権六郎(23歳)、七男・藤七郎(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
    人物・逸話
    ほとんど外様に近い立場から[5]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
    無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
    金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[6]。
    一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたと言われている。
    家族
    長安嫡男の大久保藤十郎は奈良奉行を勤め、石川康長の娘が嫁いでいた。長安次男の大久保外記には、池田輝政養女(下間頼龍娘)が嫁いでいる[7]。三男の成国は奉行衆青山成重の婿養子になっている。六男の右京長清には松平忠輝の異父姉で重臣の花井吉成の娘が嫁いでいる。
    長安による開発が行われた都市
    桐生市(群馬県)
    八王子市(東京都)

  • @コメント羊
    @コメント羊 ปีที่แล้ว

    大阪は銀 江戸は金
    これに繋がる?

  • @wiz_ku
    @wiz_ku ปีที่แล้ว

    家康は江戸に行きたくなかったんじゃなかったけ?
    長年住んできた国をすてるわけだから

  • @toyodaakio8564
    @toyodaakio8564 ปีที่แล้ว +7

    征夷大将軍は秀忠に譲っただけ。いつもながら話が粗雑。盲目の愛国心は感心しないな

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

    甲州金
    (こうしゅうきん)は、日本で初めて体系的に整備された貨幣制度、およびそれに用いられた金貨である。
    甲州一分金 背重
    戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間まで鋳造されていた。近世には武田晴信(信玄)の遺制とされ、大小切税法(だいしょうぎりぜいほう)、甲州枡(こうしゅうます)と併せて甲州三法と呼ばれている。
    戦国期の甲斐金山と甲州金
    甲州金の起源は不明であるが、『甲斐国志』に拠れば戦国期に都留郡を除く国中三郡で流通していた領国貨幣で、山下・志村・野中・松木の四氏が金座役人として鋳造を行い、碁石金や露金、太鼓判、板金、蛭藻金などの形態が存在していたという。
    戦国期の甲斐国・武田領国では黒川金山や湯之奥金山などの金山が存在し、採掘された金が灰吹法により精錬され製造されていたと考えられている。
    初見史料は三条西実隆『実隆公記』永正3年(1506年)8月22日条で、武田氏と推定される甲斐国某が実隆から源氏物語写本を所望され、黄金5枚を支払っている。以来、信虎・晴信(信玄)・勝頼期に渡り黄金に関する史料が見られ、交換・支払手段、寺社への贈答、軍事目的などの用途で使われている。「開山国師真前奉物子母銭帳」(国文学研究資料館所蔵臨川寺文書)は天文13年(1544年)に恵林寺から京都臨川寺に上納された甲州金と考えられる記述を含む点が注目されている。
    近世の甲州金
    武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て再び幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという。
    甲州金は元禄9年(1696年)に一時通用停止されるが、武田氏時代から近世初頭に鋳造されていた甲州金は古甲金と呼ばれ、以後の新甲金と区別される。
    近世の甲州金は、慶長13年(1608年)から翌慶長14年(1609年)にかけて、武田氏時代の金座役人四氏のうち松木氏が独占的に鋳造を行い、形態や品位が多様であった規格も統一される改革が行われているが、これは慶長6年(1602年)に慶長小判が鋳造されていることから、幕府による全国的な金貨に対する鋳造・流通の統制策を反映していると考えられている。
    江戸時代には川柳においても甲州金が詠まれ、「打栗のなりも甲州金のやう」「甲州のかしかり丸くすます也」など、甲州銘菓の「打ち栗」や丸形の金貨として認識されている[1][2]。
    幕府は文政から天保・安永・万延年間にかけて金貨の改鋳を相次いで行い、金位・量目ともに低下した[3]。このため、甲州金の両替相場は小判に対して高騰し、市場に流通する量は少なくなった。一方、甲州金固有の「小金」と呼ばれた少額金貨である弐朱判・壱朱判は名目金貨として大量に吹き立てられ、全国的に流通した[3]。文久元年(1861年)には甲州金の四倍通用令が出され、甲州金が一挙に二万両余り引き換えられたという[4]。
    1871年(明治4年)の新貨条例施行ではすでに甲州金に関する例外的な措置は見られず、同年11月13日には甲州金は正式に廃止された[5]。
    制度としての甲州金
    戦国期には、各地の大名が金貨を鋳造したが、それらは重さで価値を計る秤量貨幣であった。それに対して甲州金は、金貨に打刻された額面で価値が決まる計数貨幣である。
    甲州金で用いられた貨幣の単位は以下の通りで、4進法・2進法が採用されていた。
    両(りょう)
    分(ぶ、1/4両)
    朱(しゅ、1/4分)
    朱中(しゅなか、1/2朱)
    糸目(いとめ、1/2朱中)
    小糸目(こいとめ、1/2糸目)
    小糸目中(こいとめなか、1/2小糸目)
    この体系のうち、両・分・朱は江戸幕府に引き継がれる。
    「金に糸目をつけない」の糸目とは、この甲州金の通貨単位に由来する。すなわち僅かなお金は気に留めないということである[要出典]。(通常は、「糸目」とは、凧につける糸のことであり、それを付けないとは、凧の動きを制限しないように、物事に制限をしないことをいうと説明される[6]。)
    額面は重量に比例するように打刻され、一両(露一両金・駒一両金)・一分金・二朱金・一朱金・朱中金・糸目金など切りの良い単位だけでなく、古甲金では二分一朱金(1/2+1/16=9/16両)・一分朱中糸目金(1/4+1/32+1/64=19/64両)など中途半端な値をそのまま打刻したものもあった。
    金貨としての甲州金
    甲州金は、武田氏の作った地方通貨であったが、江戸時代になってからも文政年間まで甲府の金座で鋳造されていた。
    このため、おおよそ江戸時代以前に鋳造されたものを古甲金と呼び、それ以後のものは新甲金と呼んで区別する。
    鋳造された金貨の種類は
    露一両(つゆいちりょう)
    駒一両(こまいちりょう)
    甲安金(こうやすきん)
    甲重金(こうしげきん)
    甲定金(こうさだきん)
    甲安今吹金(こうやすいまぶききん)
    などがある

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 ปีที่แล้ว

      文化7年(1810年)には幕臣の近藤重蔵(守重、正斎)が『金銀図録』を現し、甲州金や越後国で算出された金貨・銀貨543品を図版で紹介している[7]。
      『甲陽軍鑑』における金
      江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』においては金に関する記述が散見され、貨幣として使用されている金や金子、金銀、碁石金(ごいし金)などの用法が見られる。戦国期の武田氏に関係する一次資料においては「黄金」がもっとも多く使用されているが、『軍鑑』においては一切見られないことを特徴とする。
      「碁石金」は巻16、巻18において合戦における褒美として与えられた二例が記され、巻16では信玄が陣中で軍功にあったものに与える褒美として証文や刀脇差、羽織などとともに碁石金を挙げている。また、巻18では元亀元年(1570年)頃に推定される伊豆における合戦において、三河浪人河原村伝兵衛に対し信玄自ら三すくいの碁石金を与えたとする逸話を記している。
      「金子」は巻8における逸話に記される。山県昌景の同心であった伊勢牢人の「北地」が領地替えを望むが同輩の「大場」による不正のため聞き届けられずに自害した。これを知った信玄が大場を成敗し、北地の葬儀を行った青白寺(山梨市の清白寺か)に使者を遣わし供養のため金子20両を収めたという。年代は不明であるが、武田氏が領国内において金を使用する永禄8年(1565年)以降であると考えられている[8]。寺社に対する祈祷や供養のための金の使用は文書においても確認されるが、この逸話における20両という金額は多額であるため、疑問視されている[8]。
      巻9では信玄と山本勘助の対話において金子が登場し、道具を購入するための交換手段として機能した金の使用事例が確認される。年代は不明であるが、山本勘助の死亡時期や交換手段としての金の使用事例から永禄4年(1561年)以前・1570年前後と推定される[9]。
      巻18では金の貸借に関する逸話が記され、甲府三日市場の「しほ屋弾左衛門」が尊躰寺脇坊の僧「ほうじゅん」から金子を借りていたが返済しなかったため、ほうじゅんが弾左衛門の下女を奪い、訴訟が発生したという。甲斐における金の借入は文書上からは元亀3年(1572年)12月に僧願念が武士である末木家重から10両の黄金を借り入れた事例が確認され、巻18における逸話の年代は不明であるが、同時期のことであったと考えられている[9]。
      巻20では勝頼期の天正6年(1578年)3月に発生した越後上杉家における御館の乱・甲越同盟の締結に際した上杉景勝から勝頼・勝頼側近の長坂光堅・跡部勝資に対する金子の贈答が記され、勝頼には一万両、長坂・跡部には二千両の金子が贈られたという。甲越同盟における景勝方からの黄金の贈答は文書の上からも確認され、金額や長坂・跡部に対する賄賂の実否に関しては議論があるが、甲越間の婚姻同盟に際しては実際に多額の黄金の贈答があったと考えられている。
      「金銀」は巻5、巻15、巻17などに記され、金銀が恩賞、蓄財、礼儀などの使用事例が確認され、文書における使用事例と符合することが指摘される[10]。
      これらの事例から『甲陽軍鑑』における金の使用事例はおおむね文書におけるそれと符合するが、年代や金額については検討を要することが指摘される(海老沼(2013)、p.45(56)。年代に関しては山本勘助や北条早雲(伊勢宗瑞)など貨幣としての金が普及する以前の時期の逸話として記されるものもあるが、総じて武田領国において金が交換手段として使用されはじめた1570年代前後の事例が多いことが指摘される[11]。
      研究史
      甲州金に関しては小葉田淳が1938年に『改訂増補日本貨幣流通史』において貨幣史の観点から検討を行い、以来論考を重ねている。
      ほか、赤岡重樹、斎藤廣宣、入江芳之助、小山田了三、今西嘉寿和、飯田文彌、西脇康、平山優らも専論を展開している。
      甲州金の研究は元禄・近世後期の展開過程を対象としていたが、2005年・2006年に平山優は戦国・近世初頭の甲州金について検討を行い、江戸幕府による貨幣統制政策のなかで甲州金を論じた。

  • @みゆみゆ-q4g4h
    @みゆみゆ-q4g4h ปีที่แล้ว +1

    金脈を見つけたり掘ったりする技術を得るためにフィリピンから連れてきたのはユダヤ系スペイン人ですか?

  • @dataunited7796
    @dataunited7796 ปีที่แล้ว

    面白いからタチが悪い。どこまでが定説かどこまでが私説か、織り交ぜて話すのはいかがなもんか

  • @japannonta5946
    @japannonta5946 ปีที่แล้ว

    こういうことを 日本史で教えるべきだよね すべてはビジネス 世づくり