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千代田線のホームで、ホームと車両の隙間からモワーっと上ってくる熱風は忘れられません。
東西線もすごかったよ。雨の日なんか 地下に入る時、窓あけにご協力下さいアナウンスが流れた。
103系1000番代では敬遠されつつも、地上に出た後、それも105系になってからのほうが重宝されて長生きしているのは、どこか皮肉なような不思議なかんじです。人生「塞翁が馬」ともいわれるように
@@user-bw8zb5zt7m クハの非常口が貫通路として使えたからかも知れません。今の地下鉄直通車では出来ない芸当です
地下鉄乗り入れの緩行線運用より個人的には爆音轟かせて快速線走ってたイメージだなあ
地元の首都圏よりも、都落ちした先の西日本(関西や広島)でよくお世話になった。
東西線に1200番台が引退まで走ってましたが1000番台もいましたね。乗務員室とドアの間の戸袋に窓があるかないかの差だけで、見た目は変わらず。301系と仲良く走ってました。集中クーラーか分散クーラー設置まで地下鉄線内の暑さと音が酷かった思い出がある。
超多段のなめらかな加速なのに乗り心地が固すぎる103系1000以降、フワフワで快適な乗り心地なのにガックンガックンと加速する301系、お前ら何故合体しないのか!って思いながら乗ってた。
『鉄板焼き電車』とあだ名の付いたこの電車 千代田線内で本当に床から発煙して大騒ぎになった事もありました。地上線快速に転用されて 8M2T&モーター限流値アップのスペシャル仕様が初めて活かされた感があります。なんたって瞬く間に100km/hまで加速したし(運転士さんの証言では 3ノッチでもそこまで加速したそう)時にはモーター音から判断して100km/hオーバーで走っていた事もありました。尚この電車は 国鉄在来線用で初めてCSATCを載せた車両でもありました。当初は老朽化した武蔵野線の 101系1000番台置き換え用の候補にもなっていたとか。ドアを閉める時 0番台のような「シッ!」という応荷重装置のアームが引っ込むエア音がしなかったのも特徴でした。
武蔵野線に入れたらまた長大トンネルで熱を撒き散らしてたのかも……当時はまだそんなに列車本数多くなかったから有り得たのかも。
@@hisakounosuke2474 さま千代田線で排熱が逃げずに籠もったのは 一部区間の『単線並列トンネル』で しかもそこを低速で走っていた為で(ノッチオフでLBから「スコンッ!」と音がすると同時に 青白い火花が勢い良く飛んでいた)複線で風通しが良く 高速で突っ走る武蔵野線のトンネルなら そこまで問題にはならなかったと思います。実際その後 一般型の(当初は 各所よりかき集めた 色とりどりの)103系に置き換えられましたので。逆に サムネの画像は成田線のどこかの駅のようで 実際8M2Tのまま同線にも乗り入れましたが よく変電所がパンクしなかったと思います。まぁ こちらも当時は列車本数が少なかったですけどね。(朝ラッシュ時の上りのみ20分 日中は60分ヘッド)
大火事にならなくて、焦げた程度で済んでよかったですね。
韓国の地下鉄火災みたいになりかけた地下鉄直通仕様の103系
銀座線はトンネル断面が小さかったので昔はトンネル自体に冷房が効いていて、車内放送で乗客に窓開けご協力を呼びかけると、あちこちで窓が開けられていた頃があったのだ!
騒音すごそう
昭和55年 当時トップアイドルだった松田聖子さんの『夏は窓を開けてね❤』の車内ポスターが 続々と盗難被害に遭った事もありました。銀座線に限らず 他線でもトンネル冷房する方針でいましたが 全線のトンネルを冷房化するのはコストが掛かる事と 省エネ制御の場合 制御装置からの発熱が極めて少ない事がわかって 昭和63年から車両冷房に方針変更したんですよね。
@@toriri-serviceさん:この方針のせいで、営団地下鉄は関東地方で最後迄冷房を入れないグループでした。
トンネル内とはいえ鉄道敷地全体を冷房するなんて、まるで屋外を冷房するようなことよりも電車内を冷房するのが合理的という、最初から分かってた定期ですね。
実際騒音は大きかったけど、サードレール独特のカチャカチャと響く音がよく聞けた思い出あります。
西日本では105系化されてから長らく活躍してましたね僕自身も昔、和歌山線で乗った事あるんですが殆どの車両に戸袋窓が残ってて中には純正の先頭車も混じってました
路盤が貧弱な桜井線だと、コイルばねですから揺れが凄まじかったですよ(゚∀゚)(゚∀゚)
@@schimitch3277 桜井線で乗った事はありませんが和歌山線もまたかなり揺れまくって凄くワイルドな走りっぷりでした
583系が419系として永らえたように103系1000代も105系としての車生が永かったですよね。お疲れ様でした。
東西線103-1200番台を非冷房時だから乗ってましたが、当時冷房が無いのが当たり前なので、現在と比べると良く乗ってたなと思います。国鉄もまだ通勤車両は非冷房車が多い時代だったので、ただ地下トンネル内は国鉄車は爆音でしたね、動画内にはありませんでしたが、103-1000番台は東西線直通に数本使われてました。
103系1200番台や 301系が東西線地上区間を快速で100km/h走行した時の迫力は凄かった。あの当時は 夏も今ほど暑くはなかったので 窓を開けていればなんとかなりましたね。その窓の話ですが 1000番台を東西線直通に転用した時は その前に地上線の快速で使っていた時に 側窓の下段のストッパーを外して全開可能としていた事を忘れて そのまま東西線直通に入れてしまい 大慌てしたとか。
103系1000番台、地上に移ってからは自然通風式抵抗器でも100キロでぶっ飛ばせば良かったのかもしれませんね。
6000系の初期車は貫通扉の通路化の仕様はなかったはずで更新工事によって追加された気がしました。
そういや似たようなカタチの301系は乗り心地が全然違ってメチャクチャ良かった。
空気ばね台車のおかげです。
ガキの頃に非冷房時代に乗った事がある。 言われてみれば床が暖かかった記憶があり、冬だったから気にならなかった。 我孫子から北柏まで乗った気がする。
千代田線のホームであからさまに避けられてたなあ…
常磐緩行線沿線 北小金駅近隣生まれです(笑)小学生だった昭和の40年代後半新しく走り出した6000系を水彩画で写生した思い出有るなぁ。小金小学校の思いで。❤
『地下を走るのに 冷房がない』というのは 当時他の103系も非冷房が当り前でしたが 昭和の営団地下鉄では 制御装置からの排熱+冷房装置からの排熱で トンネル温度が上昇するのを防ぐ理由から 車両には冷房装置を載せずに トンネルや駅構内を冷房する方針だったからです。乗り入れて来る 小田急や東急の電車や203系も トンネル内では冷房を切っていたし 営団地下鉄も 01系の初期までの新車には冷房が載りませんでした。(8000系 以降他社に乗り入れる車両は『冷房準備車』で落成)パワーエレクトロニクスの発展で 省エネ制御車両は 発熱がそれほどでもなく トンネル温度上昇にそれほど影響がない事がわかり 昭和63年からようやく冷房付きの新車が出るようになり 在来車も冷房改造が進められました。
それでも川島令三氏は地下鉄への冷房車投入は否定的ですけどね。
例外は都営浅草線でラッシュ時には乗り入れ会社の車両のクーラーを作動させていました、都の車両にはクーラーが付いてなかったので非冷房車でした。
@@N--jv3go さまその浅草線の駅は 夏は抵抗制御電車の発電ブレーキと冷房装置からの排熱で暑かった思い出があります。(そもそも 昭和50年代終わり頃までの乗り入れ規格自体が『2ハンドル抵抗制御』)5000形は最後まで非冷房 同じシステムながら セミステンレスの5200形は『冷房準備車(後に冷改)』でしたね。新宿線は トンネルにも排熱対策が施されましたが 都の財政難から10-000形電車は冷房準備車で落成(冷房装置を載せていた試作車も取り外し)新宿開業後 乗り入れて来る京王6000系のみが クーラーを効かせて走っていました。
@@toriri-service さんそうすると、直並列時は抵抗制御の京王6000形が冷房付けて、電機子チョッパの都営車が非冷房……排熱対策とは……??後都営車は当時は基本笹塚止まりなので冷房付けても効果薄いと判断したのでしょう。
@@hisakounosuke2474 さま昭和62年(1987年)頃の『鉄道ジャーナル』誌に『新宿線は他路線よりも 換気口を多めに設置して 排熱が籠もらないようにした。但し都の財政難から都営車には冷房がなく 京王の車のみがクーラーを効かせている。』と記載されていたのを読んだ記憶があります。京王車の冷房使用開始は同年から。自局車の使用開始は翌63年(1988年)からで この時に増備された10-000形4次車が都営初の営業用新製冷房車でした。確かに それまで排熱の少ない制御方式の車両の方が非冷房というのもおかしな話でしたが 前述した営団と共に 昭和63年は 東京の地下鉄冷房元年でもありましたね。尚 不確かな記憶ですが 都営は京王車の冷房使用開始と同じタイミングで 自局の冷房車を出したかったが 営団の顔を立てて1年遅らせたというのも何かの本で読んだ記憶があります。
過去にも迷列車で解説されていた電車ですね。鉄板焼き電車ともいわれてます。つい最近まで改造車が運転されていましたからね。
東西線の1000か1200番台も床焦げていた写真が出てました
確か103-1000は営団6000系と比べ消費電力が多かった為、当時の国鉄会計院から電力差額分の支払いを営団に払うに命じられたそうな、因みに後に乗り入れする界磁チョッパ制御・回生ブレーキ装備の小田急9000形さえ、営団6000系との消費電力に差があった為、電力差額分を支払らっていたらしい。
今ですと、東武9000系(電機子チョッパ)の方が東京メトロ17000系(フルSiC)より遥かに消費電力が多いので、東武は差額電力代を東京メトロに払っているのだろうか?
東武と交差する付近の線路沿いに住んでたから毎日至近で見てた。
学生時代に千代田線を使っていた際に運用されていました。営団車輌よりも本数が多かった印象があります。国鉄の車輌が入線すると「ありゃー、熱い奴が来た」と思ったものです。その上よくシートが外れて凹んでいて、なんか安っぽいやつだなと感じさせました。
床で焼き肉出来るというか今あったら迷惑系がやるだろな
注目点:地下を走る関係で安全のため、下段窓は途中までしか開かないようにレールにストッパーが入ってた。これ、105系に改造されたときも残ってたんたぞ。
103系1000番代と6000系の消費電力の違いは、当初国鉄も営団も気が付かなかったという噂も有ります。
@@dodemoyokunai 千代田線の開業当初は、営団も5000系を併用してたから、相対的に抵抗制御車も多かった気がします。その後、5000系は小田急NGで運用上の制約が生じたところで東西線の10連化が必要になり、北綾瀬用を除いて全車転出しましたが…
東西線用の1200番台もあったんだけど数が少ないせいかあまり話題に上がらない。両車とも非冷房車なのに地下鉄乗り入れのせいで窓が全開しなかったのが堪らなかったですね。また同時期の青電地上車や415系の赤電の冷房化率も低いと言える状態でしたし、山手線でも前後3両だけなんてのが走っていました。
営団6000系の1〜3次車は 窓の開口面積に関しては103系以下でした。(超広幅貫通路のお陰で 風通しは良かったけど)国鉄時代は『部分冷房車』がザラでしたよね。夏場の日中は冷房車が 立ち客もいる程なのに 非冷房車はガラガラでした。常磐線の415系は全車冷房化されていましたよ。403系が冷房改造途上で これまた改造のペースが遅く オンボロの401系はハナから冷改の予定はなく 万博輸送が終わると 早急に廃車されました。
当時乗った記憶ではモハ103→冬は快適、夏は地獄モハ102→モハ103よりマイルド快速転用後も、夏場の非冷房が来た時は、モハ103を避けてました(8M2Tだと、モハ103は3・5・7・9号車)
モハ102はコンプレッサー地獄ですよ…………。国鉄製C-2000は何故か他社より爆音…………。
千代田線開業時点では営団6000系の量産車製造が間に合わず、東西線と同じく5000系投入となったのだけどこちらの抵抗制御で狭隘トンネル区間など問題はなかったのだろうか。
@@にがうり坊 さん5編成しかない事もあって、6000系が充分な本数になると夏季に5000系の検査を集中させて極力運用に就かせないようにしたようですね。
103系15両はここだけでしたね~
運転席のユニット表示灯が4まで有りました、15両編成でも電動車が5ユニットにならない様に組み合わせていたみたいです。
末期の103系1000番代組み込み15両では、12M3Tという超爆音編成は忘れられません。
実際には1ユニットカットでの運行でした。
103系1000番台、東京の大学に通っていた頃よく乗りました。暑い(熱い)車両でしたね。冷房云々については当時、山手線に非冷房の車両がまだ残っていたので我慢できましたが、あの暑さは・・・。
103系1000番台、301系のコストが高すぎて、超多段制御以外はダウングレード。その超多段制御もカム軸の調整に難儀するという……個人的にはせっかく301系で実現した空気バネ台車、座席の改良、外嵌めユニットサッシまで全て元の仕様に戻されたのはどうなんだろう…と昔思ってました。ただ、103系1200番台は3本目からはユニットサッシ、改良型の座席、4.5本目は内装の無塗装化が行われたのはまだマシかも。
予算をケチってしまった結果の弊害からくる後悔と「営団に 迷惑は掛けられない。」という空気もあり 203系が開発されたものと思います。(だから 特に問題のなかった 東西線では 1200番台や 301系をそのまま冷房改造して走らせた。)その203系も 夏の暑さから制御装置を守る為に 床下機器を白く塗った事もありましたね。203系もそうでしたが301系も 高速走行すると 軽量なアルミ製のドアが風でバタバタと暴れて喧しかった思い出があります。
103-1200って少数のわりにそんなに細かい違いがあったのですね。途中からユニット窓になったのは知っていましたが・・・。301系って独特の側窓でしたよね。下段も103系の上段みたいなのでしたっけ?
@@user-ve5rr9bl4i さん301系の側窓は103系を上下逆にした感じでしたね。上段がラッチ式で下降、下段が引っ掛け式で少しだけ上昇。1200番台の第4.5編成は昭和53年製で時期的には103系ATC車の後期。但し製造当初は非冷房でした。
常磐線沿線に住んでいたけど、当時は営団の車両が来たら当たりで国鉄(途中からJR)の車両が来たらハズレって感じだった。そんな103系1000番台も何割かは余生を穏やかに過ごせた事を知り庵としました
貫通扉を着けないといけないので仕方ないです
いらない子扱いされながらも、本来の意図とは違った形で長生きしたんですね
本当、活躍の場を間違えたというだけで、車両自体は悪いものではなかったんだよなぁ。
普通の103系より加速は良かったですね。
@@N--jv3go通常の103系は6M4T、1000番台は8M2Tと電動車の比率を上げてたので。
@@大好きはやぶさ 快速線に移ってからもモーターの煩さと乗り心地の悪さと走行性能の低さで遅れを回復できないなどの問題があったけどね。じゃあ103系の想定していた運用線区の山手線でどうだったかというと低速でもクソやかましいモーター音。武蔵野線で跳ねるようにかっ飛ばしていて楽しかったから103系は大好きな車両だけど、車両自体はやっぱり悪いと思う。
@@tomohikoo8949 そりゃ昭和の頃の通勤電車、特に私鉄と競合するとなると空気バネ必須なのに、コイルばねの前時代的な新車を誰がいいと言うのだろうか。古い電車好きの当時の方によると、東武沿線民の方だが7800系の旧性能車の方が103系よりもよかったらしい。なお、8000系の足元にも及ばないので、103系を東武線の同じ線路で走らせたら、8000系に秒で抜かれるんじゃないか?とブラックジョークをかましていました。じゃあ東武の9000系と戦わせて見たら、こんなのそもそも勝負にならねぇし、201だっておそらく東武の9000には勝てないだろう。
話しはズレるが、国鉄は東武9000系レベルの車両を作れなかったら、私鉄に負ける。東急8000や京急旧1000、東武8000とか昭和の名だたる名通勤電車に勝つなんて、そもそも変電所の改良しないと103系レベルでは既に勝てなかった.......。
ちょっと昔の70年代後半京浜急行も同じ感じだったな😂
他の方のコメントにもありますが、ついにぞオリジナル車に乗る機会はなく、なれのはての105系500番台には奈良線でお世話になりました😊
改造車のクハ105 0番台の運転席のスピードメーターにはATC信号を埋めた痕跡があって好きでした...ベージュに赤帯もよく似合っていましたが、青一色に変更されたのはいただけなかった...
103系、中央総武緩行線では、配電盤から火を噴いたことがある。これが切欠で、103系を排除して、209系500番台・E231系に置き換えられた。
地上ホームでも夏は地獄だったw駅間距離が短い地下鉄線内での加速性能を上げるため、8M2Tだったと後で知った。
あと地下区間で走行不能になった時に別な列車で押し出せるように電動車を多めに入れてたそうです、よって地上勤務になった時は電動車を一組減らしてサハ2両に変えていました。
103系1000番台と103系と千代田線の6000系のチョッパー車どちらも乗った事がある。また写真でも撮影している。北千住や松戸に行って,撮影していた。
面白かった。103系が、地下鉄で働いたけど出禁を食らう。のは、大変だったと思う。記憶にあるのは、5両編成のクモハのついている編成に乗ったことがある。大変にやかましく、うるさかった。また、常磐快速線区間では、連結面あたりが、ギコギコキュキュの音が響いてた。生きてる。ってこんな感じなのかなと思った。(たぶん)
当時の地下鉄は非冷房が当たり前で、駅とトンネルを冷房化して車内に送り込む考えが一般的でした。半蔵門線の8000系も冷房準備車として登場しています。
条件が違う千代田線に、東西線のノリのまま製造したのがマズかったのでしょうなぁ。地下鉄乗入車両としては短命でしたが、その後は長命でした。
103系1000番台が昭和61年に営団から出禁になったと言われてますが、103系1200番台は2003年まで営団東西線で走ってますよ?103系1000番台と103系1200番台の違いなんてATC機器の違いくらいしか無いですし。
1000番台、一旦常磐快速線に異動してから301系と1200番台の冷改と東西線10両化で所要数が足りなくなって総武線に再転属、地下鉄直通運用に返り咲いたのがいました。東西線では101系ベースの5000系だったので抵抗制御でも問題がなかったのだと思います。
天を焦がすD51三重連(伯備線)2:46床を焦がす103系(1000番台...😅)
サウナーにはたまらんだろうな
105系に改造されて奈良・和歌山・広島に転用されたが227系に置き換えられて幕を閉じた
6000系に対して103系。デザインやインテリアが違い過ぎる。
暑い、うるさい、揺れるの三拍子揃った電車。
私はむしろ好んで乗ってました😂
まだ千代田線が代々木上原迄開業する前、代々木公園が終着駅だった1975年頃に小田急の代々木八幡から歩いて乗り換えで、当時4歳位で初めて乗った千代田線、6000系の初期非冷房車のデザインにも驚かされた「カッコいい」とは思ったものの、乗降扉の窓が高くて車窓風景見れなかった事、例の編成ごと一室に見える超広幅貫通路故の轟音が酷くて乗った印象は悪かった。帰路で乗った103系1000番代は窓が低くて車窓風景も見れたし、車内騒音も6000系より小さく感じられて好印象、グレーにグリーンのライン、特急電車以外だとよそ行き電車にしか無かったJNRマーク付きなのも何かカッコ良く見えてお気に入りに。後日、代々木上原迄開業すると小田急に乗り入れこそしないものの引き上げ線に停まっているのを見るのが楽しみだった。当時遊んでたプラレールにはラインナップされる訳も無く、Nゲージ初めて暫くしてマイクロエースの前身、しなのマイクロから製品化されて親に全力でねだったものの金属車体で高く却下されたのは悲しかった。最近になってマイクロエースやトミックスから緩行線仕様の製品発売され、いつかは買い揃えたいと思っている。
203系投入開始で快速線転用決まっていたクハ【勿論ATC対応】が青緑のまま緩行線運用に入り、綾瀬で交代した営団の乗務員が困惑したそうです。また雨・雪の日の北千住から荒川鉄橋に入るまでは6000より103の方が多少良かった・・・と言う話を聞いております。【6000は軽いので空転しやすかったとか・・・】
まだ103-1000が日根野にいたのかよ…
床が焦げたり火花が出ていた電車が千代田線を走っていたとは恐ろしい😨
1000番台は乗った事あるけど、常磐線快速に格上げされた時だったな。地下鉄でトラブル起こした各駅停車用車両が「格上げ」と言って上位種別で大活躍するのは、何だか複雑な感じだ。
103系1000番台奈良線と和歌山線に使われていました。
105系の種車自体厄介者扱いされて決して次車も新しくない103系1000番台の中でも特に機器の状態が悪めなモハユニットが多かったのに結果として首都圏配置の103系ではトップクラスの長命だから何があるか分からないもんですな
実は1200番台も床は焦げていた。断熱材を厚めに挟み、対処はしていたので1000番台程ではなかったので、長く運用された訳だが、1000番台は、常磐線快速の運用では問題無く使われた。冷房改造の上東西線で一本だけ転属した。非冷房と6000系との格差が問題であって、東西線は5000系で抵抗制御と違いが無かった。というのも、運命を分けた。かくて千代田線は、チョッパ車で統一されたのだが、国鉄にとって、あまりにも高額な出費を強いられた。後に、チョッパ制御は、ある問題を起こす。チョッパ制御を採り入れた鉄道会社がアタマを抱えた問題高額出費の補修費である。30年と保たず、各社共にVVVF化の波に飲まれ消える。
奈良線電化の際に酷鉄が余った103系1000番代を改造して使用したのが105系の4ドア車でしたね。
どっこい生き残っていたんですね。😮
いつの間にか、地下鉄乗入れ用の国電型車両は無くなった感じ。そして後継型もあまりパッとしないか、登場しないかのどちらか。
乗ったコトも無いしなんなら画でしか観たコトないけど…あははは…大変じゃん、コレ(笑)
我孫子駅場合は我孫子駅成田行きは103系が担当だったけど編成は5┼5編成もあったかな先頭車クモハ103ーモハ102ーモハ1031000番台ーモハ1021000番台ークハ103500番台ークモハ103ーモハ102ーモハ1031000番台ーモハ1031000番台ークハ1031000番台の編成もあったかなあとで撮影をしたかな今は懐かしいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊まだフイールムネガは残っているかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
103系で一番好きだよ
常磐線15両編成化のおかげで延命した話もある。
千代田線に走っていた103系を生で見たことがなかったです。千代田線、常磐線から離れた103系がどこにいたかは全然知らなかったです。東西線に走っていた103系は知っています。千代田線から出禁になった103系が東西線に走っていたのを生で見たかは記憶にないです。
ガキの頃に見た103系黒焦げの床は当時タバコが吸い放題だったからマナーの悪い客が床で煙草を消した跡が溜まりに溜まって拡張されて極太の筋になっていたものだと思ってた。
私奴は中央線沿線民。301系や103系1200番代に乗っておりましたが、東西線では、いわゆる鉄板焼き騒動は無かったように思います。何故なのでしょう?
千代田線には区間によって(断面の小さい)『単線並列トンネル』があり そこを低速で走行したり 発電ブレーキを掛けたりで 抵抗器の排熱が逃げずにそうなってしまいました。床下のケーブル類も熱にやられて傷むのが早く 交換サイクルも地上用車より短かかったそうです。複線トンネルで断面が大きい東西線ではそのような問題はなかったようで だから 千代田線直通に203系や 207系900番台が登場しても 301系や1200番台をそのまま冷房改造して使い続けました。
@@toriri-service様私奴の疑問に、お答えいただき、ありがとうございます。技術的なことは、無知なる私奴、なんとなく納得の域で、モヤモヤしております。そういえば、と、云いますか、昔はネズミがトンネル内のケーブルを齧ってショート、停電なんてことが頻発していましたね。地上を走るも、地下を走るも、鉄道のお守りは大変、ですね…、これからも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
ミディアム?レア?ウェルダン?
まさか103系にも失敗作がいたなんて……多くの人たちはこの103系が大嫌いだったけど、105系に改造されて生き延びたけど最後はクビにされた挙句重機のご飯にされてこの世にいないとは……
何故、非冷房だったかについては、当時は、地下鉄のトンネル内ごと冷房で冷却していた点を説明しておかないと。知らない人に対して誤解を招く。
迷惑系がこの時代に生きていたら、焦げた床で肉でも焼いてた可能性ありそうだ
因みに103系1500番台も福岡市地下鉄から出禁となりました。
鉄 板 焼 き ト レ イ ン
東上線のオンボロ電車もいつも焦げ臭いけどあれ地下鉄で火災とかおこさないのかな?怖くてしょうがない。
営団6000系は、今でも十分通用するデザインだと思う。
後に改造されてしまいましたが連結面の造作が個性的でした。
元々『20年後でも古さを感じさせない』という(製造時点での)近未来的デザインを目標としていましたからね。乗り入れ先の小田急では『監獄電車』というあだ名を付けられました。
可部線!呉線!
私はずっと東西線沿線住みなので、103系1000番台の姉妹車である103系1200番台によく乗っていました。301系も含めて国鉄車両は暑くて車内もボロかったです。東京メトロのほうも5000系でボロかったときにはそれほど気にならなかったのですが、05系に代わるとJR車のボロさが際立ちました。今は後継のE231系800番台で、ボロいとまではいかないんですが、何となく乗る気がせず、もし来たら東京メトロ車や東葉高速車が来るまで待ちます。JRは中野〜西船橋が総武線と被るので、東西線乗り入れ車両にわざと手抜きをしているのが分かります。
千代田線では追い出されたけど、東西線では平成入っても103系1200番台と301系で乗り入れていて、冷房改造工事の予備編成確保で1000番台も1編成東西線で地下鉄乗り入れに復帰してたりする。営団は当初駅や路線への冷房を入れることで車両側の冷房には否定的で、203系は冷房付いているのに綾瀬に着くと冷房を切られる状況だったんだけど、営団も冷房導入に踏み切ってからは冷房率の低い6000系は避けられがちだったよ。
腫れ物扱い…火傷の水膨れ的な意味で?
私の場合は103系1000番台の国鉄緩行色は撮影しなかったけど2001年頃から103系1000番台のエメラルドグリーン色を撮影を開始初めてたところかな最初は我孫子駅でスタートをしてから最終は取手駅で撮影をしたかなまだ231系は1編成たつたかな103系エメラルドグリーン色編成はバライティだった見ても飽きなかったかなでも撮影をしたかな今は懐かしいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
東武の先輩が言ってたけど、後継の203系ですら9000の足元にも及ばないとか言ってた。東武の9000なら関東狭軌直通車なら最強クラスの性能なんじゃない?とのことです。東急の8000・8500ブラザーズなんてただ爆音まき散らしてるだけで下品だし、うちの10000や10030の方が同じ界磁チョッパでもバーニアついてて滑らかで気持ちいいだとか。先輩が9000にもバーニア付けて抑速つけたらどうなんだろうって言ってたけど、皆さんお答えくださると幸いです。
営団の英断だったんですね〜
千代田線のホームで、ホームと車両の隙間からモワーっと上ってくる熱風は忘れられません。
東西線もすごかったよ。
雨の日なんか 地下に入る時、窓あけにご協力下さいアナウンスが流れた。
103系1000番代では敬遠されつつも、地上に出た後、それも105系になってからのほうが重宝されて長生きしているのは、どこか皮肉なような不思議なかんじです。
人生「塞翁が馬」ともいわれるように
@@user-bw8zb5zt7m クハの非常口が貫通路として使えたからかも知れません。今の地下鉄直通車では出来ない芸当です
地下鉄乗り入れの緩行線運用より個人的には爆音轟かせて快速線走ってたイメージだなあ
地元の首都圏よりも、都落ちした先の西日本(関西や広島)でよくお世話になった。
東西線に1200番台が引退まで走ってましたが1000番台もいましたね。乗務員室とドアの間の戸袋に窓があるかないかの差だけで、見た目は変わらず。301系と仲良く走ってました。集中クーラーか分散クーラー設置まで地下鉄線内の暑さと音が酷かった思い出がある。
超多段のなめらかな加速なのに乗り心地が固すぎる103系1000以降、フワフワで快適な乗り心地なのにガックンガックンと加速する301系、お前ら何故合体しないのか!って思いながら乗ってた。
『鉄板焼き電車』とあだ名の付いたこの電車 千代田線内で本当に床から発煙して大騒ぎになった事もありました。
地上線快速に転用されて 8M2T&モーター限流値アップのスペシャル仕様が初めて活かされた感があります。
なんたって瞬く間に100km/hまで加速したし(運転士さんの証言では 3ノッチでもそこまで加速したそう)時にはモーター音から判断して100km/hオーバーで走っていた事もありました。
尚この電車は 国鉄在来線用で初めてCSATCを載せた車両でもありました。
当初は老朽化した武蔵野線の 101系1000番台置き換え用の候補にもなっていたとか。
ドアを閉める時 0番台のような「シッ!」という応荷重装置のアームが引っ込むエア音がしなかったのも特徴でした。
武蔵野線に入れたらまた長大トンネルで熱を撒き散らしてたのかも……
当時はまだそんなに列車本数多くなかったから有り得たのかも。
@@hisakounosuke2474 さま
千代田線で排熱が逃げずに籠もったのは 一部区間の『単線並列トンネル』で しかもそこを低速で走っていた為で(ノッチオフでLBから「スコンッ!」と音がすると同時に 青白い火花が勢い良く飛んでいた)複線で風通しが良く 高速で突っ走る武蔵野線のトンネルなら そこまで問題にはならなかったと思います。実際その後 一般型の(当初は 各所よりかき集めた 色とりどりの)103系に置き換えられましたので。
逆に サムネの画像は成田線のどこかの駅のようで 実際8M2Tのまま同線にも乗り入れましたが よく変電所がパンクしなかったと思います。
まぁ こちらも当時は列車本数が少なかったですけどね。(朝ラッシュ時の上りのみ20分 日中は60分ヘッド)
大火事にならなくて、焦げた程度で済んでよかったですね。
韓国の地下鉄火災みたいになりかけた地下鉄直通仕様の103系
銀座線はトンネル断面が小さかったので昔はトンネル自体に冷房が効いていて、車内放送で乗客に窓開けご協力を呼びかけると、あちこちで窓が開けられていた頃があったのだ!
騒音すごそう
昭和55年 当時トップアイドルだった松田聖子さんの『夏は窓を開けてね❤』の車内ポスターが 続々と盗難被害に遭った事もありました。
銀座線に限らず 他線でもトンネル冷房する方針でいましたが 全線のトンネルを冷房化するのはコストが掛かる事と 省エネ制御の場合 制御装置からの発熱が極めて少ない事がわかって 昭和63年から車両冷房に方針変更したんですよね。
@@toriri-serviceさん:この方針のせいで、営団地下鉄は関東地方で最後迄冷房を入れないグループでした。
トンネル内とはいえ鉄道敷地全体を冷房するなんて、まるで屋外を冷房するようなことよりも電車内を冷房するのが合理的という、最初から分かってた定期ですね。
実際騒音は大きかったけど、サードレール独特のカチャカチャと響く音がよく聞けた思い出あります。
西日本では105系化されてから長らく活躍してましたね
僕自身も昔、和歌山線で乗った事あるんですが殆どの車両に戸袋窓が残ってて中には純正の先頭車も混じってました
路盤が貧弱な桜井線だと、コイルばねですから揺れが凄まじかったですよ(゚∀゚)(゚∀゚)
@@schimitch3277
桜井線で乗った事はありませんが和歌山線もまたかなり揺れまくって凄くワイルドな走りっぷりでした
583系が419系として永らえたように103系1000代も105系としての車生が永かったですよね。お疲れ様でした。
東西線103-1200番台を非冷房時だから乗ってましたが、当時冷房が無いのが当たり前なので、現在と比べると良く乗ってたなと思います。
国鉄もまだ通勤車両は非冷房車が多い時代だったので、ただ地下トンネル内は国鉄車は爆音でしたね、
動画内にはありませんでしたが、103-1000番台は東西線直通に数本使われてました。
103系1200番台や 301系が東西線地上区間を快速で100km/h走行した時の迫力は凄かった。
あの当時は 夏も今ほど暑くはなかったので 窓を開けていればなんとかなりましたね。その窓の話ですが 1000番台を東西線直通に転用した時は その前に地上線の快速で使っていた時に 側窓の下段のストッパーを外して全開可能としていた事を忘れて そのまま東西線直通に入れてしまい 大慌てしたとか。
103系1000番台、地上に移ってからは自然通風式抵抗器でも100キロでぶっ飛ばせば良かったのかもしれませんね。
6000系の初期車は貫通扉の通路化の仕様はなかったはずで更新工事によって追加された気がしました。
そういや似たようなカタチの301系は乗り心地が全然違ってメチャクチャ良かった。
空気ばね台車のおかげです。
ガキの頃に非冷房時代に乗った事がある。
言われてみれば床が暖かかった記憶があり、冬だったから気にならなかった。
我孫子から北柏まで乗った気がする。
千代田線のホームであからさまに避けられてたなあ…
常磐緩行線沿線 北小金駅近隣生まれです(笑)
小学生だった昭和の40年代後半新しく走り出した6000系を水彩画で写生した思い出有るなぁ。
小金小学校の思いで。❤
『地下を走るのに 冷房がない』
というのは 当時他の103系も非冷房が当り前でしたが 昭和の営団地下鉄では 制御装置からの排熱+冷房装置からの排熱で トンネル温度が上昇するのを防ぐ理由から 車両には冷房装置を載せずに トンネルや駅構内を冷房する方針だったからです。乗り入れて来る 小田急や東急の電車や203系も トンネル内では冷房を切っていたし 営団地下鉄も 01系の初期までの新車には冷房が載りませんでした。(8000系 以降他社に乗り入れる車両は『冷房準備車』で落成)パワーエレクトロニクスの発展で 省エネ制御車両は 発熱がそれほどでもなく トンネル温度上昇にそれほど影響がない事がわかり 昭和63年からようやく冷房付きの新車が出るようになり 在来車も冷房改造が進められました。
それでも川島令三氏は地下鉄への冷房車投入は否定的ですけどね。
例外は都営浅草線でラッシュ時には乗り入れ会社の車両のクーラーを作動させていました、都の車両にはクーラーが付いてなかったので非冷房車でした。
@@N--jv3go さま
その浅草線の駅は 夏は抵抗制御電車の発電ブレーキと冷房装置からの排熱で暑かった思い出があります。(そもそも 昭和50年代終わり頃までの乗り入れ規格自体が『2ハンドル抵抗制御』)5000形は最後まで非冷房 同じシステムながら セミステンレスの5200形は『冷房準備車(後に冷改)』でしたね。
新宿線は トンネルにも排熱対策が施されましたが 都の財政難から10-000形電車は冷房準備車で落成(冷房装置を載せていた試作車も取り外し)新宿開業後 乗り入れて来る京王6000系のみが クーラーを効かせて走っていました。
@@toriri-service さん
そうすると、直並列時は抵抗制御の京王6000形が冷房付けて、電機子チョッパの都営車が非冷房……
排熱対策とは……??
後都営車は当時は基本笹塚止まりなので
冷房付けても効果薄いと判断したのでしょう。
@@hisakounosuke2474 さま
昭和62年(1987年)頃の『鉄道ジャーナル』誌に『新宿線は他路線よりも 換気口を多めに設置して 排熱が籠もらないようにした。但し都の財政難から都営車には冷房がなく 京王の車のみがクーラーを効かせている。』と記載されていたのを読んだ記憶があります。
京王車の冷房使用開始は同年から。
自局車の使用開始は翌63年(1988年)からで この時に増備された10-000形4次車が都営初の営業用新製冷房車でした。
確かに それまで排熱の少ない制御方式の車両の方が非冷房というのもおかしな話でしたが 前述した営団と共に 昭和63年は 東京の地下鉄冷房元年でもありましたね。
尚 不確かな記憶ですが 都営は京王車の冷房使用開始と同じタイミングで 自局の冷房車を出したかったが 営団の顔を立てて1年遅らせたというのも何かの本で読んだ記憶があります。
過去にも迷列車で解説されていた電車ですね。鉄板焼き電車ともいわれてます。
つい最近まで改造車が運転されていましたからね。
東西線の1000か1200番台も床焦げていた写真が出てました
確か103-1000は営団6000系と比べ消費電力が多かった為、当時の国鉄会計院から電力差額分の支払いを営団に払うに命じられたそうな、因みに後に乗り入れする界磁チョッパ制御・回生ブレーキ装備の小田急9000形さえ、営団6000系との消費電力に差があった為、電力差額分を支払らっていたらしい。
今ですと、東武9000系(電機子チョッパ)の方が東京メトロ17000系(フルSiC)より遥かに消費電力が多いので、東武は差額電力代を東京メトロに払っているのだろうか?
東武と交差する付近の線路沿いに住んでたから毎日至近で見てた。
学生時代に千代田線を使っていた際に運用されていました。営団車輌よりも本数が多かった印象があります。
国鉄の車輌が入線すると「ありゃー、熱い奴が来た」と思ったものです。その上よくシートが外れて凹んでいて、なんか安っぽいやつだなと感じさせました。
床で焼き肉出来るというか今あったら迷惑系がやるだろな
注目点:地下を走る関係で安全のため、下段窓は途中までしか開かないようにレールにストッパーが入ってた。
これ、105系に改造されたときも残ってたんたぞ。
103系1000番代と6000系の消費電力の違いは、当初国鉄も営団も気が付かなかったという噂も有ります。
@@dodemoyokunai 千代田線の開業当初は、営団も5000系を併用してたから、相対的に抵抗制御車も多かった気がします。
その後、5000系は小田急NGで運用上の制約が生じたところで東西線の10連化が必要になり、北綾瀬用を除いて全車転出しましたが…
東西線用の1200番台もあったんだけど数が少ないせいかあまり話題に上がらない。両車とも非冷房車なのに地下鉄乗り入れのせいで窓が全開しなかったのが堪らなかったですね。また同時期の青電地上車や415系の赤電の冷房化率も低いと言える状態でしたし、山手線でも前後3両だけなんてのが走っていました。
営団6000系の1〜3次車は 窓の開口面積に関しては103系以下でした。(超広幅貫通路のお陰で 風通しは良かったけど)
国鉄時代は『部分冷房車』がザラでしたよね。
夏場の日中は冷房車が 立ち客もいる程なのに 非冷房車はガラガラでした。
常磐線の415系は全車冷房化されていましたよ。
403系が冷房改造途上で これまた改造のペースが遅く オンボロの401系はハナから冷改の予定はなく 万博輸送が終わると 早急に廃車されました。
当時乗った記憶では
モハ103→冬は快適、夏は地獄
モハ102→モハ103よりマイルド
快速転用後も、夏場の非冷房が来た時は、モハ103を避けてました(8M2Tだと、モハ103は3・5・7・9号車)
モハ102はコンプレッサー地獄ですよ…………。国鉄製C-2000は何故か他社より爆音…………。
千代田線開業時点では営団6000系の量産車製造が間に合わず、東西線と同じく5000系投入となったのだけどこちらの抵抗制御で狭隘トンネル区間など問題はなかったのだろうか。
@@にがうり坊 さん
5編成しかない事もあって、6000系が充分な本数になると夏季に5000系の検査を集中させて極力運用に就かせないようにしたようですね。
103系15両はここだけでしたね~
運転席のユニット表示灯が4まで有りました、15両編成でも電動車が5ユニットにならない様に組み合わせていたみたいです。
末期の103系1000番代組み込み15両では、12M3Tという超爆音編成は忘れられません。
実際には1ユニットカットでの運行でした。
103系1000番台、東京の大学に通っていた頃よく乗りました。暑い(熱い)車両でしたね。冷房云々については当時、山手線に非冷房の車両がまだ残っていたので我慢できましたが、あの暑さは・・・。
103系1000番台、301系のコストが高すぎて、超多段制御以外はダウングレード。
その超多段制御もカム軸の調整に難儀するという……
個人的にはせっかく301系で実現した空気バネ台車、座席の改良、外嵌めユニットサッシまで全て元の仕様に戻されたのはどうなんだろう…と昔思ってました。
ただ、103系1200番台は3本目からはユニットサッシ、改良型の座席、4.5本目は内装の無塗装化が行われたのはまだマシかも。
予算をケチってしまった結果の弊害からくる後悔と「営団に 迷惑は掛けられない。」という空気もあり 203系が開発されたものと思います。
(だから 特に問題のなかった 東西線では 1200番台や 301系をそのまま冷房改造して走らせた。)
その203系も 夏の暑さから制御装置を守る為に 床下機器を白く塗った事もありましたね。
203系もそうでしたが301系も 高速走行すると 軽量なアルミ製のドアが風でバタバタと暴れて喧しかった思い出があります。
103-1200って少数のわりにそんなに細かい違いがあったのですね。途中からユニット窓になったのは知っていましたが・・・。
301系って独特の側窓でしたよね。下段も103系の上段みたいなのでしたっけ?
@@user-ve5rr9bl4i さん
301系の側窓は103系を上下逆にした感じでしたね。
上段がラッチ式で下降、下段が引っ掛け式で少しだけ上昇。
1200番台の第4.5編成は
昭和53年製で時期的には103系ATC車の後期。但し製造当初は非冷房でした。
常磐線沿線に住んでいたけど、当時は営団の車両が来たら当たりで国鉄(途中からJR)の車両が来たらハズレって感じだった。
そんな103系1000番台も何割かは余生を穏やかに過ごせた事を知り庵としました
貫通扉を着けないといけないので仕方ないです
いらない子扱いされながらも、本来の意図とは違った形で長生きしたんですね
本当、活躍の場を間違えたというだけで、車両自体は悪いものではなかったんだよなぁ。
普通の103系より加速は良かったですね。
@@N--jv3go
通常の103系は6M4T、1000番台は8M2Tと電動車の比率を上げてたので。
@@大好きはやぶさ
快速線に移ってからもモーターの煩さと乗り心地の悪さと走行性能の低さで遅れを回復できないなどの問題があったけどね。
じゃあ103系の想定していた運用線区の山手線でどうだったかというと低速でもクソやかましいモーター音。
武蔵野線で跳ねるようにかっ飛ばしていて楽しかったから103系は大好きな車両だけど、車両自体はやっぱり悪いと思う。
@@tomohikoo8949 そりゃ昭和の頃の通勤電車、特に私鉄と競合するとなると空気バネ必須なのに、コイルばねの前時代的な新車を誰がいいと言うのだろうか。古い電車好きの当時の方によると、東武沿線民の方だが7800系の旧性能車の方が103系よりもよかったらしい。なお、8000系の足元にも及ばないので、103系を東武線の同じ線路で走らせたら、8000系に秒で抜かれるんじゃないか?とブラックジョークをかましていました。じゃあ東武の9000系と戦わせて見たら、こんなのそもそも勝負にならねぇし、201だっておそらく東武の9000には勝てないだろう。
話しはズレるが、国鉄は東武9000系レベルの車両を作れなかったら、私鉄に負ける。東急8000や京急旧1000、東武8000とか昭和の名だたる名通勤電車に勝つなんて、そもそも変電所の改良しないと103系レベルでは既に勝てなかった.......。
ちょっと昔の70年代後半京浜急行も同じ感じだったな😂
他の方のコメントにもありますが、ついにぞオリジナル車に乗る機会はなく、なれのはての105系500番台には奈良線でお世話になりました😊
改造車のクハ105 0番台の運転席のスピードメーターにはATC信号を埋めた痕跡があって好きでした...
ベージュに赤帯もよく似合っていましたが、青一色に変更されたのはいただけなかった...
103系、中央総武緩行線では、配電盤から火を噴いたことがある。
これが切欠で、103系を排除して、209系500番台・E231系に置き換えられた。
地上ホームでも夏は地獄だったw駅間距離が短い地下鉄線内での加速性能を上げるため、8M2Tだったと後で知った。
あと地下区間で走行不能になった時に別な列車で押し出せるように電動車を多めに入れてたそうです、よって地上勤務になった時は電動車を一組減らしてサハ2両に変えていました。
103系1000番台と103系と千代田線の6000系のチョッパー車どちらも乗った事がある。また写真でも撮影している。北千住や松戸に行って,撮影していた。
面白かった。
103系が、地下鉄で働いたけど出禁を食らう。のは、大変だったと思う。
記憶にあるのは、5両編成のクモハのついている編成に乗ったことがある。
大変にやかましく、うるさかった。
また、常磐快速線区間では、連結面あたりが、ギコギコキュキュの音が響いてた。
生きてる。ってこんな感じなのかなと思った。(たぶん)
当時の地下鉄は非冷房が当たり前で、駅とトンネルを冷房化して車内に送り込む考えが一般的でした。半蔵門線の8000系も冷房準備車として登場しています。
条件が違う千代田線に、東西線のノリのまま製造したのがマズかったのでしょうなぁ。
地下鉄乗入車両としては短命でしたが、その後は長命でした。
103系1000番台が昭和61年に営団から出禁になったと言われてますが、103系1200番台は2003年まで営団東西線で走ってますよ?
103系1000番台と103系1200番台の違いなんてATC機器の違いくらいしか無いですし。
1000番台、一旦常磐快速線に異動してから301系と1200番台の冷改と東西線10両化で所要数が足りなくなって総武線に再転属、地下鉄直通運用に返り咲いたのがいました。東西線では101系ベースの5000系だったので抵抗制御でも問題がなかったのだと思います。
天を焦がすD51三重連(伯備線)
2:46床を焦がす103系(1000番台...😅)
サウナーにはたまらんだろうな
105系に改造されて奈良・和歌山・広島
に転用されたが227系に置き換えられて幕を閉じた
6000系に対して103系。デザインやインテリアが違い過ぎる。
暑い、うるさい、揺れるの三拍子揃った電車。
私はむしろ好んで乗ってました😂
まだ千代田線が代々木上原迄開業する前、代々木公園が終着駅だった1975年頃に小田急の代々木八幡から歩いて乗り換えで、当時4歳位で初めて乗った千代田線、6000系の初期非冷房車のデザインにも驚かされた「カッコいい」とは思ったものの、乗降扉の窓が高くて車窓風景見れなかった事、例の編成ごと一室に見える超広幅貫通路故の轟音が酷くて乗った印象は悪かった。
帰路で乗った103系1000番代は窓が低くて車窓風景も見れたし、車内騒音も6000系より小さく感じられて好印象、グレーにグリーンのライン、特急電車以外だとよそ行き電車にしか無かったJNRマーク付きなのも何かカッコ良く見えてお気に入りに。
後日、代々木上原迄開業すると小田急に乗り入れこそしないものの引き上げ線に停まっているのを見るのが楽しみだった。
当時遊んでたプラレールにはラインナップされる訳も無く、Nゲージ初めて暫くしてマイクロエースの前身、しなのマイクロから製品化されて親に全力でねだったものの金属車体で高く却下されたのは悲しかった。
最近になってマイクロエースやトミックスから緩行線仕様の製品発売され、いつかは買い揃えたいと思っている。
203系投入開始で快速線転用決まっていたクハ【勿論ATC対応】が青緑のまま緩行線運用に入り、綾瀬で交代した営団の乗務員が困惑したそうです。また雨・雪の日の北千住から荒川鉄橋に入るまでは6000より103の方が多少良かった・・・と言う話を聞いております。【6000は軽いので空転しやすかったとか・・・】
まだ103-1000が日根野にいたのかよ…
床が焦げたり火花が出ていた電車が千代田線を走っていたとは恐ろしい😨
1000番台は乗った事あるけど、常磐線快速に格上げされた時だったな。
地下鉄でトラブル起こした各駅停車用車両が「格上げ」と言って上位種別で大活躍するのは、何だか複雑な感じだ。
103系1000番台奈良線と和歌山線に使われていました。
105系の種車自体厄介者扱いされて決して次車も新しくない103系1000番台の中でも特に機器の状態が悪めなモハユニットが多かったのに結果として首都圏配置の103系ではトップクラスの長命だから何があるか分からないもんですな
実は1200番台も床は焦げていた。
断熱材を厚めに挟み、対処はしていたので1000番台程ではなかったので、長く運用された訳だが、1000番台は、常磐線快速の運用では問題無く使われた。冷房改造の上東西線で一本だけ転属した。
非冷房と6000系との格差が問題であって、東西線は5000系で抵抗制御と違いが無かった。というのも、運命を分けた。
かくて千代田線は、チョッパ車で統一されたのだが、国鉄にとって、あまりにも高額な出費を強いられた。
後に、チョッパ制御は、ある問題を起こす。チョッパ制御を採り入れた鉄道会社がアタマを抱えた問題
高額出費の補修費である。
30年と保たず、各社共にVVVF化の波に飲まれ消える。
奈良線電化の際に酷鉄が余った103系1000番代を改造して使用したのが105系の4ドア車でしたね。
どっこい生き残っていたんですね。😮
いつの間にか、地下鉄乗入れ用の国電型車両は無くなった感じ。そして後継型もあまりパッとしないか、登場しないかのどちらか。
乗ったコトも無いしなんなら画でしか観たコトないけど…あははは…大変じゃん、コレ(笑)
我孫子駅場合は我孫子駅成田行きは103系が担当だったけど編成は5┼5編成もあったかな先頭車クモハ103ーモハ102ーモハ1031000番台ーモハ1021000番台ークハ103500番台ークモハ103ーモハ102ーモハ1031000番台ーモハ1031000番台ークハ1031000番台の編成もあったかなあとで撮影をしたかな今は懐かしいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊まだフイールムネガは残っているかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
103系で一番好きだよ
常磐線15両編成化のおかげで延命した話もある。
千代田線に走っていた103系を
生で見たことが
なかったです。
千代田線、
常磐線から離れた103系が
どこにいたかは
全然知らなかったです。
東西線に走っていた103系は
知っています。
千代田線から
出禁になった103系が
東西線に走っていたのを
生で見たかは
記憶にないです。
ガキの頃に見た103系黒焦げの床は当時タバコが吸い放題だったから
マナーの悪い客が床で煙草を消した跡が溜まりに溜まって拡張されて極太の筋になっていたものだと思ってた。
私奴は中央線沿線民。301系や103系1200番代に乗っておりましたが、東西線では、いわゆる鉄板焼き騒動は無かったように思います。何故なのでしょう?
千代田線には区間によって(断面の小さい)『単線並列トンネル』があり そこを低速で走行したり 発電ブレーキを掛けたりで 抵抗器の排熱が逃げずにそうなってしまいました。
床下のケーブル類も熱にやられて傷むのが早く 交換サイクルも地上用車より短かかったそうです。
複線トンネルで断面が大きい東西線ではそのような問題はなかったようで だから 千代田線直通に203系や 207系900番台が登場しても 301系や1200番台をそのまま冷房改造して使い続けました。
@@toriri-service様
私奴の疑問に、お答えいただき、ありがとうございます。
技術的なことは、無知なる私奴、なんとなく納得の域で、モヤモヤしております。
そういえば、と、云いますか、昔はネズミがトンネル内のケーブルを齧ってショート、停電なんてことが頻発していましたね。
地上を走るも、地下を走るも、鉄道のお守りは大変、ですね…、これからも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
ミディアム?レア?ウェルダン?
まさか103系にも失敗作がいたなんて……
多くの人たちはこの103系が大嫌いだったけど、105系に改造されて生き延びたけど最後はクビにされた挙句重機のご飯にされてこの世にいないとは……
何故、非冷房だったかについては、当時は、地下鉄のトンネル内ごと冷房で冷却していた点を説明しておかないと。
知らない人に対して誤解を招く。
迷惑系がこの時代に生きていたら、焦げた床で肉でも焼いてた可能性ありそうだ
因みに103系1500番台も福岡市地下鉄から出禁となりました。
鉄 板 焼 き ト レ イ ン
東上線のオンボロ電車もいつも焦げ臭いけどあれ地下鉄で火災とかおこさないのかな?怖くてしょうがない。
営団6000系は、今でも十分通用するデザインだと思う。
後に改造されてしまいましたが連結面の造作が個性的でした。
元々『20年後でも古さを感じさせない』という(製造時点での)近未来的デザインを目標としていましたからね。
乗り入れ先の小田急では『監獄電車』というあだ名を付けられました。
可部線!呉線!
私はずっと東西線沿線住みなので、103系1000番台の姉妹車である103系1200番台によく乗っていました。
301系も含めて国鉄車両は暑くて車内もボロかったです。
東京メトロのほうも5000系でボロかったときにはそれほど気にならなかったのですが、05系に代わるとJR車のボロさが際立ちました。
今は後継のE231系800番台で、ボロいとまではいかないんですが、何となく乗る気がせず、もし来たら東京メトロ車や東葉高速車が来るまで待ちます。
JRは中野〜西船橋が総武線と被るので、東西線乗り入れ車両にわざと手抜きをしているのが分かります。
千代田線では追い出されたけど、東西線では平成入っても103系1200番台と301系で乗り入れていて、冷房改造工事の予備編成確保で1000番台も1編成東西線で地下鉄乗り入れに復帰してたりする。
営団は当初駅や路線への冷房を入れることで車両側の冷房には否定的で、203系は冷房付いているのに綾瀬に着くと冷房を切られる状況だったんだけど、営団も冷房導入に踏み切ってからは冷房率の低い6000系は避けられがちだったよ。
腫れ物扱い…火傷の水膨れ的な意味で?
私の場合は103系1000番台の国鉄緩行色は撮影しなかったけど2001年頃から103系1000番台のエメラルドグリーン色を撮影を開始初めてたところかな最初は我孫子駅でスタートをしてから最終は取手駅で撮影をしたかなまだ231系は1編成たつたかな103系エメラルドグリーン色編成はバライティだった見ても飽きなかったかなでも撮影をしたかな今は懐かしいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
東武の先輩が言ってたけど、後継の203系ですら9000の足元にも及ばないとか言ってた。東武の9000なら関東狭軌直通車なら最強クラスの性能なんじゃない?とのことです。東急の8000・8500ブラザーズなんてただ爆音まき散らしてるだけで下品だし、うちの10000や10030の方が同じ界磁チョッパでもバーニアついてて滑らかで気持ちいいだとか。先輩が9000にもバーニア付けて抑速つけたらどうなんだろうって言ってたけど、皆さんお答えくださると幸いです。
営団の英断だったんですね〜