どのアメリカ人は、広島長崎への原爆投下は正しいと思っている。それによって多数のアメリカ人の兵士の命を救えたからだ。 今日本が平和なのは、戦争に負けた後にパックスアメリカーナの傘下に入って、アメリカが日本の安全と安定のコミットメントを保証してくれていたからです。それは、原爆投下の贖罪だろう。 日本が戦後急激に経済発展できたのは、そのコミットメントによる物です。勿論 日本人の勤勉性も大きな要因ですけどね。 国際社会と言うのは、強い者が法律です。即ち軍事力が強い者が世界を制覇出来るのです。だから核兵器を持ちたがるのです。 When our arms are sufficient beyond the doubt can we be certain beyond the doubt that they’ll never be employed. 我々の戦力が疑いも無く十分で、それが疑いも無く十分で有ると分かれば、それを使用する事は、絶対にないだろう。とケネディ大統領は、就任演説で言った。
Hola. Gracias por ofrecernos videos de mucho valor histórico. Lamento no entender el idioma pero me gustó mucho la música. Puedes compartir más de esa música marcial. Gracias. Conoces un himno del cuerpo de enfermería de esa época. Hello. Thank you for there offering us videoes of very much historical value. I regret not understanding the language but I liked very much the music. You can share more of this martial music. Thank you. You know an anthem of the body of infirmary of this epoch.
I see you all speak Japanese, but maybe someone reads my comment in english. This song has a some really catching points. It brings yamato spirit in the hearts. Tennoheika Banzai!
When I was young, my mother taught me this song. At that time, it was a Japanese song, so I didn't know the meaning at all and sang along to my mother's song. My mother was born in Korea during the Japanese colonial period. Japan was defeated, Korea was liberated in 1945 and the Korean War five years later. With Kim Il-sung's Invasion from North Korea, South Korea was devastated. The year after the war, my mother gave birth to me in 1954. Now I am over 70 years old.
若い頃、軍歌が好きで、この歌をスナックで歌ったら丁度、当時予科練に所属してた方々がお客さんで来てて、歌い終わったら握手を求められました。皆さん涙を浮かべて…ワシら、昔予科練だったんだ。若い人が歌ってくれるとは思わなかった…ありがとう、ありがとう…って。元予科練の方々に思わずもらい泣きしてしまった思い出があります。色々と当時の事を教えて貰いましたが…。
うぅ…それはそれはあの時本当にスナックで勇気を持って歌って良かったですね。
感動しました。
めちゃいいエピソード
ご縁とは何気なく、スナックで歌を歌っていても突然くるもんなんですね。
子孫に語り継いでいけるような、素晴らしい話だな。
私に歳の離れた従兄弟の予科練生がいました。実家の古いアルバムに幼い顔(中学生の様)に日の丸🇯🇵に文字が書かれた布を襷掛けした写真と、白と黒の軍服の凛々しい写真が有ります。戦後は、警察官👮♀️に成りSP等の要職に付き2年前に天寿を全うしました。戦争🪖は、2度としては成りません合掌🙏
すごい経験ですね。感動です!
今は亡き母の背中におんぶされて、よく聞きました。涙ながらによくこの歌を唄っていました・・・・今でも、あの母の悲しそうな顔が忘れられません。終戦間際に、海軍で戦死した弟を思い出しながら歌っていたと思います。 いまから70年前の想い出です。
大正10年がご存じのように酉年に当たり、亡き私の父の誕生の年でもあるのです。元来、私の父は生前にTVでの「鷲のマークの大正製薬」というCMになぜか機嫌をよくしたような気配を感じたのですが、この時点の私自身にはそれがやがて如何なる先行きが待ち受けているかも知ることすらあり得なかったのです。この終戦後の現在には私たちはこんなことが或いは人の幸不幸を現出するや否やは言うまでもないことでもあります。この「若鷲の歌」には現在には通用しない語とも言いうる語句も込められ、特に日本の軍歌にはそれが多いことは言うまでありませんが、それは常識的に日本はもとより国際的にはかねてよりのこととは多くの人々には周知のことと思います。とかく旧大日本に於いてはひとつの立ち遅れ或いはアジア色という意味合いを以て亜感覚への偏見という姿勢をも示し得ているようにすら私には感じます。好戦的にも振る舞い、ときには一陣一同を以て一方向へ動く姿勢に日本体質と称し、Fascismという呼称と相まって指導者原理とまで名付けられた政治思想のもとに、この東亜やアジア色たる民族組成やその体質には欧米諸国の視線がときには熱くまた暖かく、そして共感と或いはひとつの貶みにも似た世界的動きを示してもいるという感じが私にも及んで来るのです。
日本人だからこそ何か感じるものがある
自分が日本人で本当に良かった!
自分は日本で生まれて本当に幸せです
日本精神を感じる最高の軍歌だと思います!
親父は予科練でした。以前の職場の支店長は海軍兵学校の最後の卒業生でした。戦争中のいろいろな苦労を聞いています。戦争でお亡くなりになった方のご冥福を心中より祈っております。ありがとうございました。
お勤めご苦労さまでございました。海軍兵学校最後の卒業生は74期生になりますね。我が叔父も陸軍幼年学校最後の入校生になります。
祖母が何曲も何曲も軍歌を歌ってくれました。聴くたび血が疼くっ!。
心が萎えそうな時 ここにきて元気をもらいます。この歌を聴いて鼓舞される自分にも この映像の方たちと同じ「大和魂」が少しでもあるのかも・・・とうれしくなります。
軍国主義的だとか批判はあるにせよ、間違いなく彼等が今の日本の礎になったのです。彼等に対して敬礼!
何度聴いてもいいですね〜‼️
そのとをりですね👍
[若鷲の歌]は小学生の頃に母方の叔父(*昭和4年生まれ)がよく歌っていたのを聞いているうちに歌詞を憶えました。今、64歳になって聴くと色々な感情が沸いて来ます。母方のもう一人の叔父は太平洋戦争で戦死しました。
貴殿も亡くなられた方の分も長生きして下さい。自分は膵臓癌で長くはないですが。
この前新宿で右派の街頭演説が終わった後街宣車からこの曲流れてた。
横断歩道の隣にいた、おばあちゃんが涙流して口ずさんでいた。
もらい泣き💧
素晴らしい名曲。 一生聞いていく
私も同感です😀
Lili Marleen..
海行かば
若鷲の歌
異国の丘......
これらの曲を聴くと反射的に黙祷している自分がいます。
純情だったあの頃の各国の国民..
戦争の悲しさ 愚かさ..
人類はいつになれば完全平和.絶対平和の世界に辿り着けるのだろうか.....
有史以来のすべての戦没者の御霊に心より謹んで合掌し、
平和希求の祈りを捧げます.
追伸
予科練平和記念館の設立、
運営にご尽力頂いています
茨城県阿見町の皆様をはじめ筑波大学.三澤義一先生に
channel様の余白をお借り致しまして厚く御礼を申し上げます。
channel様
upload いつも有難うございます
😊日蓮宗
この唄が好きだった、有村行動隊長、有り難うございました。
ご冥福をお祈り致しますと共に反戦のご遺志を継ぎ後輩の諸君達に繋いでまいります
安らかに。
この歌の映像にある赤トンボ練習機見ると、練習生の皆様のご苦労が忍ばれます。
最後は赤トンボ練習機も特攻隊の一翼担ったと聞きます。あの足の遅い練習機で特攻された方を思うと胸張り裂けそうです。
何度聞いても心が熱くなる歌です!日本人の心が響き渡ります!悲しき強さを感じます!この時代を通り過ぎてきた日本!やはり強く!悲しく!せつなさを感じさせます‼️
卒業し、生き残りは僅かでした。多くの有為の青年たちよ、安らかに眠れ。鎮魂歌として、謳い続けます。
霞ヶ浦での訓練中、命を落とした予科練生も少なくなかった
と聞きました。
卒業されて生き延びられたのは本当に良かったと思います‼️予科練の若い兵士は弾替わりですから‼️
僕は25の韓国人の男です.81の私のおばあさんがかすかに覚えてる幼い頃の歌だって私に探してって言いました.世界が発電して80年前の歌もこんなに簡単に探せたことに驚きました.でもおばあさんの記憶の欠片の歌が軍歌だったということはちょっと心が痛かったです.
♪見事撃沈した敵艦を母へ写真おくりたい!!!!ここのフレーズで涙が止まらなくなり折ます。
親が歌っていたこと、思い出します。ちなみに、私も歌います。
中学生3年だけど、めっちゃこの歌好き
古関祐而さんの[暁に祈る]歌は泣けて泣けて来ます
戦争は絶対に無くさなくてはなりませんが、この歌詞に込められた意味は素晴らしいと思います。
朝ドラの影響ですね😀
ここに来ると、ごく当たり前の日本人が多いので安心する。
日本もまだまだ捨てたもんじゃないな。
65の爺になったら涙腺が弱った。涙が止まらん。聞くたび歌うたびに。でも、目ヤニを出す為にも。2分十秒に出て来る士官の姿勢大好きだ。戦争なら軍人を殺すのは合法だ、しかし、民間人を殺すのは国際法違反、原爆を落とすのも無差別の殺戮だぞ。
どのアメリカ人は、広島長崎への原爆投下は正しいと思っている。それによって多数のアメリカ人の兵士の命を救えたからだ。
今日本が平和なのは、戦争に負けた後にパックスアメリカーナの傘下に入って、アメリカが日本の安全と安定のコミットメントを保証してくれていたからです。それは、原爆投下の贖罪だろう。
日本が戦後急激に経済発展できたのは、そのコミットメントによる物です。勿論
日本人の勤勉性も大きな要因ですけどね。
国際社会と言うのは、強い者が法律です。即ち軍事力が強い者が世界を制覇出来るのです。だから核兵器を持ちたがるのです。
When our arms are sufficient beyond the doubt can we be certain beyond the doubt that they’ll never be employed.
我々の戦力が疑いも無く十分で、それが疑いも無く十分で有ると分かれば、それを使用する事は、絶対にないだろう。とケネディ大統領は、就任演説で言った。
私も、軍歌のなかで若鷲の歌が、大好きです。でもこの歌が、流れる映像をみたときは、涙が出てきました。
祖父や父母、叔父、村の大人、年寄りが歌っていました。何度も聞いているうちに私も歌詞の一部をいつの間にか覚えました。私は昭和28年生まれです。中学校の体育祭では「棒倒し」、「組立体操」がありました。
何時もながら涙。
ルーズベルトの企みに乗ってしまった。
御国の為に散って行った英霊の方々に感謝。
本当にそうですね 日本アジや家族の為に尊い命を捧げた英霊のおかげですね
日本人であることの幸せ
心に響き懐かしい
小学生のとき良くききました😊
「エール」を見て、戦争の恐ろしさ、改めて学びました。自分も年齢的には、予科練に志願できる年齢、今は留年とかテストとか死なない平和なことを考えて苦しむが、この歳で自分の死を考えなければいけない、辛い時代だと思う。いくら国だからって人の命を塵扱いするのだけは良くないと思った。勉強が出来なかった彼らに、日本の未来のために死んでいった彼らに、深深と敬礼。
「僕らの生きる今日は彼らが生きれなかった明日だ」
一日一日を大切に生きていこう。
そう改めて思わせる。
私のおじさんが予科練出身者です、鹿屋の出撃基地で2週間後の出撃を待っていて、辛くも8月15日を迎えました、母に最後の写真をと、写真館で撮った特攻服姿でしたが、先に逝った同期に申し訳ないと言っておりました、昨年「平成27年」8月、霞ヶ浦の予科練記念館にいきました「頭を丸刈りにされて笑っている練習性の方の写真があり、まさに少年です、その横にあるかまぼこ型の格納庫に綺麗にレストアされた、あの零戦があったのには驚きました、記念館にある15歳で予科練に入隊、丸坊主姿のまさに童顔の中学生が18.19歳で操縦桿を握り、中国、南方「ニューギニア」で日夜戦い、疲労困憊、出撃が8回を超えるとほとんど散華した、、、とお聞きしました、最後は生存率20パーセントだったそうです、小生の地元にある鈴鹿海軍航空隊の予科練の方の遺書を見るにつけ、一度識字が可能な小学生になったら、先生方はこの記念館に生徒を連れて言って、いただきたいです、しかしこんな記念館があったことを地元で20年も教員をしている人が知らなかった、、と小生に言われた時には、さすがに驚き、殴りたくなったことを覚えています、もしよろしければ、鈴鹿市の雲出という所にあります、そこに碑があり「南の空に逝ったきり、帰らぬ我が子に、たまには帰っておくれ母の枕元に」との、、、、、
辻正則 鈴鹿市ですか、私も三重に住んでおります。私はまだ青二才の学生ですが、受験を終えたらそこを訪れようと思います。
あの飛行服を特攻服というのだけは、おやめになったほうが・ ・ ・
これ好きやなぁ でも兵隊死んだら戦争負けるで 次は生き残って勝たんとね!!
霞ヶ浦の練習生の姿拝見しました、相当厳しい訓練されたと卒業生の手記で知りました。
白黒の画像の練習生の方々で、何人の方々が無事に終戦迎えられたのでしようか、それを思うと胸がしめつけられます。
勇ましい歌詞なのに、なぜか切ない。
この当時の人たちはどんな気持ちで飛び立ったのでしょうか・・・
全国から、競争率何十倍という中選び抜かれた精鋭です。それぞれに故郷の誇りと期待を担って入隊した若者達です。かりそめにもいい加減な生き方はできなかったでしょう。私の知っている予科練生は戦後中学校の校長までおなりになりました。
Barak Obama 日本.台灣永遠合力加油!辛苦了!
この歌を聴いて、理由の説明できない涙する人が増えますように…。
この歌、高校のときに覚えて、自転車通学のときに口ずさんでいました。
幸せとは何か。立ち向かう人の心は鏡なり。世の中は困っている人に手を差しのべる人を待っている。世界はどこでもハリネズミ。もぐらも多い。にらめっこしても噴火は止まらない。 ― トムとジェリー
近日中に土浦の平和祈念館に行ってきます。通算5回目になります。
懐かしく感慨深い意味のある歌ですね、昭和19年台湾ですごく流行った軍歌で、おそらく小学生は誰でも口ずさむことができます、戦争を知っている私たち世代はもう人生の年輪を重ねた年寄りなので、昔の思い出を心の中に刻むしかありません、昭和16年真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切られました、軍国教育のせいか、(つづく)
勇ましいが、どこか悲しさを感じる曲ですな
「もはや戦後ではない、昭和30年代」に生まれた者なのですが、
20代の頃、読んだ「聞け、わだつみの声を!」を忘れません。
日本の将来を考えていた、十代の若者の「詩」でした。
「悲しみ」と「希望」が、この曲の軽快さと、その裏にあるように
思われてなりません。
ありがとうございました。
三鷹淳さんだろうと思います。素晴らしい。
ちなみにこの曲原盤は霧島昇と波平昭男さんのデュエットです!4番あり1.3番は霧島昇さんが、2番は波平昭男さんのソロ最後の4番は2人のデュエットです
中学1年の時予科練に合格した3年の先輩を、駅頭で帽子を打ち振りこの歌を何回も歌って見送った。先輩の最後が不明なのが悔しい。
每日必聽的感動又心痛的軍歌!
我也有同感啊
多くの犠牲の上に今の平和が、あることを肝に命じないとね!
作詩はあの西条八十だったのですね!今でも聞きに来る
我が子孫にいつまでも伝えていかなければならない。戦争は絶対にいけない事だが、この若者たちの意気やよしと。
Hola. Gracias por ofrecernos videos de mucho valor histórico. Lamento no entender el idioma pero me gustó mucho la música. Puedes compartir más de esa música marcial. Gracias. Conoces un himno del cuerpo de enfermería de esa época.
Hello. Thank you for there offering us videoes of very much historical value. I regret not understanding the language but I liked very much the music. You can share more of this martial music. Thank you. You know an anthem of the body of infirmary of this epoch.
やけに懐かしいな、この歌は。
昭和30年代の小学生は、
遠足の時にはバスの中で、
みんなでこの歌を歌っていたもんだ。
これと「戦友」とが一番を争ってたな!
俺も、30年代の小学生だった、兄貴たちがよく歌ってた、長男は特攻隊で帰らぬ人になったけど、本当に涙が出るほど懐かしいです。でも一番は、!軍艦マーチ” 糞韓のパチンコマーチじゃねーよなー。
+akira kanazawa どの ご苦労さまでございました。死して後も護国の英霊として靖國の宮に神と祀られておられるのですね。
kurotanuki1021 嘘
若者達に勇気を与える、いい動画です。
大和染料奉天工場に勤めていた父の名刺があります。昭和10年ごろなのか、大正6年生まれです。
「はだしのゲン」の作中で、主人公がこの替え歌を歌ってましたね。
おかげで軍歌に興味を持ち、この歌を聴いてから愛国心に目覚めました。
反戦、反愛国心を煽るつもりで、この漫画を薦めていた日教組は、見事に裏目に出たって事なんですかね?(笑)
精神的情緒的に安定を欠いてる幼少時の被爆者のやらかしを反愛国なんて考えすぎですよ。
広島ではああいうやらかしをする人が多いのでやらかし部は受け流してます。
+田中リレンザ どの 子供の目で見ているので誤解している部分もたくさんありますし、気が付いていないところも多々あります。これだけを見て真実だと信じ込むことは大変危険です。
+田中リレンザ どの それを聞いて安心いたしました。まだ、日本には真実を見抜く目を持っている人間がいるのですね。
田中リレンザがが
自分の父も、この「歌声に送られ」 戦に いきました。
我々、日本人 いざというとき 国家危急存亡のときは、
腹を決めて 戦うのです。
コノハナサクヤロウカ?しおれた花も、稲にとっては水は不可欠だが、水害となると季節は春が一番よい。🌸🐦物の順序は与えられること(無→有)
桜は咲いて咲き続ける。身近なところから、ユートピアを。
みなさん必死で頑張っていらっしゃったんですね。自分の周りでそんなにがむしゃらな姿を見せている人がいないので新鮮で、少し羨ましいです。お空に旅立った先人たちを尊敬します。「神様は見ている」はパワーワードですね。
霞ヶ浦へも予科練平和祈念館へも何度も行ったけどまた行く。
元気になりました
うちの母親もまだ小さいときに教えてうたいました。意味もわからずうたっていましたがいい歌ですね〜、
礼と節を重んじた教育を受けた日本国軍人がアジアの多くの国を救ってきた。その救ったことそのものも余り公にしない日本の姿勢は、我々日本人が最も高く評価して、誇りに思っている。
靖国神社に眠る多くの英霊に感謝。
おっしゃるとおりですが、そのおかけでお隣の半島さんに食い物にされています。英霊の功績を知らしめ、(いや最近は世界の方が英霊に近づいてきたように思う出来事がいくつかありますがそれはまたの機会に書きたいと思います)汚名を拂拭する時期が来たようです。
これも貴重な映像だね。
曲もいいね。
美しい歌!非常に美しいメロディー!日本人、あなたは偉大な国家である。ロシアでは、多くは、日本の歴史に興味を持っているし、彼女を尊重します。
戦争は今でも否定します。しかし現代の私達には、不足している誠心誠意をこの歌に感じます。
この歌好きでよく歌ってます
15歳から自衛隊員❗️日本最後の職業軍人だと思ってます。もしものときはいきます。(^^)
サムライ(DNA)👍
私もいずれ赴きます!「14歳男子」
I see you all speak Japanese, but maybe someone reads my comment in english.
This song has a some really catching points. It brings yamato spirit in the hearts. Tennoheika Banzai!
10 year late
BANZAI
btw, your profile pic
it looks like one guy is not japanese
いい歌詞だね‼️日本人は本当に素敵だ⁉️
失ってからでは遅すぎる。戦争してから悔やむなら、はじめから、平和利に導けばよかったのです。争いの因果は、どこにでもある。過去ほど悔やむものはない。現在を平和(平静心)に生きればよいことです。
この映画を見て予科練を志願した昭和19年4月の入学生、『帝國海軍に貴様らの乗る飛行機はもはやない』と聞かされ、華やかな航空兵から海中特攻の回天隊員に、、、
これ も いい 歌 日本人 なら 毎日 聞け 命令 だ !!
この歌は、軍歌の中で一番のいい歌です、悩み後と、嫌なこと、これを聞くと、どことなく勇気がわき、パーァット、スッキリしますね、調子が良い曲で、カラオケでは、かならずうたいます、マイクで これから行って参りますと、わたくし達は 戦争は知らないがリズムといい詩といい、いいですねぇー
こんな立派な兵器があっても使い方を間違えるととんでもない事になる。
それは現代も同じ。
今の日本は大丈夫か。
戦術、戦略を見直す必要もある。
泣けてきますね‼️泣けます😂
名曲ですよね、今度、靖国参拝した際に歌います!
「若鷲の歌」は大東亜戦争を代表する軍歌です。作曲家であった古関裕而は軍歌を作曲することで戦争に協力しました。戦後、彼はそのことを少しも後悔していませんし、反省などしていません。むしろ誇りにさえ思っているようです。誰もが彼の自伝を読めば、そう思うに違いありません。昭和40年のテレビドラマ「若いいのち」の主題歌で同名の軍歌を作曲しています。もし軍歌を作曲したことを反省しているのなら、そんな曲は作らない筈です。私はそんな古関裕而を愛してやみません。
私も好きでしたね〜🥰🥰🥰👍👍👍👍👏👏👏
RESPECT FROM TURKEY ! OTTOMANS AND SAMURAI SPIRIT FOREVER ...
曲の冒頭部分が、少しだけ阪神タイガースの「六甲おろし」に似てますね。
・・・と思ったら、作曲されたのが古関先生なんですね!なるほど、納得です!
うちの今年亡くなった親父は
予科練ではなく、海軍特別年少兵でした、同じ年頃に志願して海軍に入りましたが、海軍電測学校で終戦を迎えてます、厚生労働省に親爺の軍歴証明書を請求したら、昭和ニ十年九月に一等水兵現役満期予備役編入と記載されてました😅
予科練は今の中学生や高校生くらいでしょうか?この時代の少年たちが現在の中高生と比べて生き生きとして見えるのは私だけでしょうか?力強い生命感を感じます。また必至に国の為に役立つ人間になるのだという確たる使命感、信念を感じます。こういう教育なら不良になることも自殺を考えることもないのでしょうね。
自殺に近い犠牲を行うことになるけどね。理論的には、宗教の狂信者と同じだよね。
実はこの歌現在JR常磐線土浦駅の総合発車メロディに採用され利用していますよ(^-^)/
本当ですか!?聞いてみたいですね・・・・
この歌を歌っている
霧島昇さんと波平暁男さんversionは
私も好きです
あの-私の叔父はスパイの学校にいってました。戦時中の話です。陸軍の学校だったそう。
310万人の英霊に感謝します。
一昨年亡くなった父は昭和19年、17歳で予科練に入隊しました。
出征時、最寄駅から列車に乗った時に、家族や親せき、ご近所の方々など大勢の人がこの歌を歌って見送ってくれたそうです。
祖父は日章旗を千切れるほどに振ったそうですが、祖母は涙で父の姿を十分に見られなかった、と述懐していました。
運よく父は生きて終戦を迎えましたけれど、あの時代、生と死は紙一重だったと思います。
命を賭して日本を護ってくれた英霊には、感謝と御霊安らかなれ、と願わずにはいられません。
若かりし頃、随分と歌いました。かれこれ60年以上も前です。
同時の同期生も少し数が減りました。16歳から10年、飽きたので、娑婆に出ましたが、それからも50年よ。
軍歌を聴くと意気揚々とするので好きですが、戦争は絶対ダメ!
この曲に旅立ちこの曲に帰って来ました。
いい歌ですね!
これぐらい強い日本なら周りの国が舐めてかからないのに
強い日本に戻ってほしい
占領という概念は、アメリカも自国との関わりで、無関係ではいられない、介入にあたるとすると、治安維持的な役割として、現在の交流が外部(国連)との世界の中の日本の位置付けがあると思います。月光の夏(映画)は、学校で拝聴しました。ちょうど地域の個人の宗教(神道)が、まだ、学校(政教分離)で、反社会性として、非公式に活動している時期です。どこにもない国(理想郷:ユートピア)、人の命を無駄にせず、争いは、業に業を重ねるほど、人の心は重たく、心の平安は、善念、善行、日々の成功。人は皆、平等だし(置かれる立場)、一人(孤立)では生きていけない。自立は独立、困難は執着から離れ、智慧でもってのりきるべしは真理です。
霞ヶ浦を練習機が編隊を組んで飛んでいたんですね。
感慨深い。
不謹慎かもしれないが,この映像を見ていると楽しそうに感じる。
不思議と,自分も飛行機に乗っていって,やってやろう,という気になってしまう。
😅懐かしいですね。
霞ヶ浦航空隊で訓練した長兄は帰らぬ人になった。1945年
+鹿島防人 ご苦労さまでございました。 死して尚、御国の守り神として靖国の宮に魂安かれと祈る次第でございます。
安全な屋根の下でだべってるだけの人達より立派に日本のために尽くしてくれていたと思う
あの戦争で失った優秀な若い才能が今この国にあればと思います。
後世に対しては、平和教育は必要ですし、個人の再生から、人生の再建まで、家庭から、国内、国外へ、歴史と史実と、一人一人の戦争に対する念いや、未来の設計も、対話から、知ることから始まる、見えざる、一人一人の理解は大切です。(苦しみの因縁)
有難う御座います。
When I was young, my mother taught me this song. At that time, it was a Japanese song, so I didn't know the meaning at all and sang along to my mother's song. My mother was born in Korea during the Japanese colonial period. Japan was defeated, Korea was liberated in 1945 and the Korean War five years later. With Kim Il-sung's Invasion from North Korea, South Korea was devastated. The year after the war, my mother gave birth to me in 1954. Now I am over 70 years old.
若鷲の歌
1960年生れ女子です。
歌詞の意味よくわからないまま、先輩に歌わされ、何かにつけ 鼓舞された。
なんか、頑張ろうかなぁと 思っちゃいました。