白起|中華全土を恐怖に陥れた最強武将!戦に勝ち続けた男の運命とは!?【春秋戦国時代】
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- เผยแพร่เมื่อ 10 ส.ค. 2022
- 漫画「キングダム」において、戦神と言われるほど戦に明け暮れた名君「昭王」の時代。
白起は、秦の六代将軍の筆頭として、秦の領土拡張に大きく貢献し、各国を恐怖のどん底に陥れます。
天才すぎる戦術を用いて、戦えば必ず勝利を収める一方、残酷すぎる一面も垣間見れました。
そんな白起は史実では、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、地図を使って白起が活躍した合戦を分かりやすく解説しながら、戦国七雄の時代から秦一強の時代へと導いた白起の一生を追ります。
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#キングダム #中国史 #白起
王翦はこれを教訓に生き延びたんだろーな🤔
●リクエストで、白起を死に追いやった昭王もお願いします。その後、老齢になった昭王は、「武安君(白起)は死に、鄭安平らは背いて、秦の国内に良将がいない。」とボヤいていたそうです。何か、自分勝手な王様だった気もします。自分勝手な昭王の即位も運命的なものでした。●(昭王の即位の経緯)武王4年(紀元前307年)、異母兄の武王が孟説という大力の持ち主と鼎の挙げ比べを行って、脛骨を折って死んだ。武王に子がいないまま急逝したために後継者争いが起こった。若い時の公子稷(昭王)は、は当時は燕国にいたが、趙国の武霊王の計らいで、代国の宰相の趙固によって燕から趙に迎え入れられ、さらに秦に送り届けられた。秦では群臣のほとんどが反対するなか、有能な人物の「魏冄」(ぎ ぜん)らの支援により、異母兄である武王の後を継いで王として即位した。即位した公子稷が、昭王と呼ばれる。
●武王の遺臣である甘茂の出奔とか、身内との争いも興味深いです。昭王2年(紀元前305年)、先の後継者争いに敗れた庶長の公子壮は、兄弟の公子雍らと、「反昭王勢力」を結集し、昭王と魏冄に対して反乱を起こすが、鎮圧される事件が起こった(庶長壮の反乱、季君の乱とも言う)。この乱はすぐに鎮圧され、昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされ、先王の武王の母である恵文后も処刑され、武王の正室の武王后は故国の魏に追放された。この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。昭王は年少で即位したので最初は、母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握っていた。●魏 冄(ぎ ぜん)は、宣太后の弟で、秦の恵文君(恵文王)・武王・昭襄王の三王に仕え、丞相・相国となり権勢を誇った。 武王4年(紀元前307年)に、武王が急逝し、その弟たちで王位継承争いが起こった。その際に魏冄だけが燕にいた昭王を擁立した。魏冄の導きで、昭王は王位についたので、昭王の恩人になります。
魏 冄(ぎ ぜん)は、昭王が成人して、范雎(はん しょ)を登用して政治を行うようになると、相国位を罷免されて隠居生活をしています。
●●宰相の魏冄は白起を将軍として推挙した。昭襄王は従わざるを得ず、白起を左庶長に任じた。この白起の登用が秦の国土を大きく飛躍することになった。昭王14年(紀元前293年)、白起を左吏に昇格させ、韓・魏を討たせた。伊闕の地で首を斬ること24万を数え、5城を抜くことに成功した(伊闕の戦い)。増強する国力を背景に紀元前288年に昭王は西帝を称した。そして、魏冄を斉国に遣わして斉の湣王に東帝の帝号を贈ったが、斉がすぐに帝号を捨てたので、昭襄王もとりやめた。 ●●周王朝の周を滅ぼした事例について、昭王52年(紀元前255年)、西周の民は残っていた東周君の領地に逃げ、周に伝わった九鼎は秦に接収された。ここに800年続いた周は滅亡した。残った東周君も、荘襄王元年(紀元前249年)に呂不韋によって攻め滅ぼされた。 昭王54年(紀元前253年)、昭王は秦の最初の都である雍城で上帝に祭祀を挙げた。これは秦が諸侯から朝覲を受け、天下を屈服させたことを誇示したものだった。昭王56年(紀元前251年)閏9月、昭襄王は75歳で薨去した。
キングダムで少し名前が出てて凄い気になってたので助かりますし嬉しいです!ありがとうございます😊
こちらこそありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします!
今でも、生き埋めになったと言われる土地からは、骨がたくさん出ているらしいです。
その辺りには、『白起肉』『白起豆腐』と言う郷土料理があるそうです。豆腐を白起将軍に見立てて食べるそうです。
地元の人達には、かなり恨まれたみたいですね。
「人屠・白起」
おもしろかったです!
初めて拝見しましたが面白く勉強になりました。
すぐチャンネルも登録しました❤
ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
わかりやすいしええ声に聞き入ってしまう。
ありがとうございます♪
白起は記録があまり残っていないようですが、毎回敵軍の犠牲が尋常ではないところを見るとハンニバルタイプの包囲殲滅を得意技とする武将だったのではないかと推測しています。
奇襲心理戦が強い印象だけどね
呉起に近い
毎度のごとくの斬首ウン万だけじゃなくて将軍クラスの捕縛や処断もやたらと記述が多いんで
包囲や退路を潰す戦術に長けてたのは確かなんじゃないかな
あと南船北馬の例え通り北方と南方の性質が違う地域で縦横無尽に兵を動かした点でも白起とあと王センあたりは戦国期でも別格だと思うな
めっちゃくちゃ分かりやすくて面白い。
白起待ってました
ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします😄
9:30 「はんしょ」が王の目に留まった話の一つに、王族の庭に無許可に入り込み「秦に王など居ない、叔父たちが政治を担っているだけだ。」と豪語した。というのがあった。怖いw
現代にも通じる戦術を孫武が構築して戦争で戦術と同じく重視される情報戦を白起が有効活用しているので名将と呼ばれる人達は先見の明がありますよね。
絶対に負けない戦い方の重要性がひしひしと伝わってきます!
大体、超有能な武将って恩恵にあずからないんだよな。
私、個人的見解ですが白起将軍が居たから、後の中華統一が遭ったと思います。キングダムでは、如何にも
サイコパス見たいな劇写ですが、後の、張良、韓信両方を持ち合わせた
人物では無いでしょか。
猛将白起、本当に2万生き埋めが取りざされますが、この時代に其処まで、軍人が居たかわ疑問です。
唯、白起将軍の功績を妬んだ宮中の後付な感じは、拭えません。
本当に、宮中の馬鹿が最強将軍を追いやった最悪の事例。
本日も、大変楽しく視聴できました。有り難う御座います。
白起将軍には、もっと頑張って欲しかったです。
白起は名将ですが運が悪いですね。彼の主君の昭王は身内にも冷たい冷酷人間でした。昭王が冷酷な理由は、彼が君主になる時に、秦では群臣のほとんどが反対していたからです。
生き抜くことに専念していたら違った人生なのでしょうが、
当時の感覚は今と違うのでなんとも言えないですね〜
単純に中国の盛り癖思うと0が一個二個多くても驚かない
いつの時代も真の敵は
宮中にあり
最強‼︎最強‼︎ 最強‼︎最強‼︎ 最強‼︎最強‼︎
すばらし!
楽毅や李牧が居たらどう対応したんだろう。
キングダムでは実績も公式ブックの能力値も明らかに過少評価されているのが残念だった
今回も面白かったです!
主は春秋がメインですか?
三国はあまり好きではないですかね?
できれば三国も少し取り上げてくれると嬉しいです。
ありがとうございます!
三国志は一番好きです。
春秋戦国から後漢まで終われば三国志をガッツリやりたいと思っています!
ドラマの経久も「名将といわれるものは、みな悪徳と背中合わせに生きておる」と言われてるように
白起も戦略上の理由で敵兵や民を多数殺害しているので、敵の策とはいえ范雎からの提案で趙攻略の
取り止めになったのは納得いかないものがあったと思います。誰だって死ぬのも殺すのも嫌ですから
何の為にここまでやったんだって思いがずっとしこりとして残ってやる気が無くなってしまったのだ
と思います。
後から白起は戦場に赴くように促されてはいますが、やったふりとか言われたことを最低限しかや
らない事すらやらないというのはやる気が無いのもありますが、プライドが許さないのも有ったのか
もしれません。
でも正直縦横家の蘇代の舌先三寸の力はそれはそれで恐ろしいですね、毎回視聴してて思いますが
何かに秀でていても他の面でやられるって事がままあるのですけど人間なんて万能では無いですし必
ず欠点とか短所はある訳です。
天下統一した始皇帝ですら順風満帆ではなかったですし、まあだから戦国時代は面白いんですけどね。
そうですね。
良い教訓にもなりますし、単純に物語として面白いですよね。
ここまで人物像を描き切ってくれた司馬遷に感謝です。
キングダムの連載が終わったら
こういう春秋戦国時代のサイドストーリーを描いて欲しいね
三国志時代も描いて欲しいが
百年かかりそうw
毛沢東までやりたいらしい笑
後の項羽と劉邦に登場した項羽も函谷関での戦いで投降した秦兵を崖に追い詰めて突き落とし、崖の上から土砂を浴びせて大量の秦兵の捕虜を生き埋めにしてますが、こちらは白起と違い悪びれすらありませんけどね。
興味深い内容!素晴らしいチャンネル見つけました😂\(^o^)/即登録
うぽつ!!
いつもありがとうございます!!
秦と言う国自体が軍事大国ですからね。ローマにも似た土木作業もこなせる頭の良い兵を擁しているし新兵器の開発にも積極的
中華統一を成し遂げたのは当然の帰結だった様にも思えます
軍事の天才には、癖の強い者が多い
キングダムの白起👍👍
白起は天才すぎて……ビビる……躊躇せず捕虜生き埋め数回やってるのも合理的すぎて((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
20万人、邪魔だから生き埋め
人間に感情があることはわからなかったんだな。
やりすぎると最終的に天寿をまっとうできなくなる。能力が高くても酷い目にあう。
勉強になります。
まさに、返り血を浴びるですね。
京観(けいかん)について、京観(けいかん)とは、古代中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習。『三国志』や『新唐書』などにもこの表現がみられる。考古学的には河北省易県燕下都遺址にある高さ10m・直径数十mの円形の版築をした烽火台の遺構の中から2000人分の人頭骨が出土している。骨には戦闘による痕跡のあるものや鏃が付いたままのものもあることから、紀元前284年に燕の楽毅が斉を破った時の斉軍の首級であるとする説もある。(烽火台は全部で14基あるため、合計で3万人近い人頭骨が埋められた可能性がある)
魏晋南北朝時代になると戦乱が多発したこと、華北に北方少数民族の政権が相次いで建てられたこともあり、戦功の誇示や人々への威圧の意味を込めてしばしば京観が作られた。その一方で、こうした風潮に対する批判も現れるようになり、東晋の「檀道済」は捕えた俘虜を悉く殺害して京観を築くべきとの意見を斥けて解放したことで敵方の心を靡かせた。梁の武帝は、敵方の遺体を家族に返すように努め、出来なかった者は地方官に命じて手厚く葬らせた。そして、隋を建国した楊堅(文帝)は、京観の代わりに寺院を建立して味方兵士の冥福を祈るとともに敵兵士の「従闇入明」(闇から抜けて明に従うように)を祈ったのである。この動きは、唐の李世民(太宗)によって徹底され、敵味方の戦死者のために昭仁寺など7つの寺を建立したのに続いて、貞観5年(631年)2月14日には新旧問わず京観を破壊するように命じる詔を出したのである。全ての京観が破壊できた訳ではなく、また薛挙が李世民を破った際に唐軍兵士の遺骸で作った京観を破壊する意図も含まれていたとみられているが、実際に各地で京観が破壊されたとみられている。
蕭衍・楊堅・李世民が京観に否定的な態度を示した背景には仏教信仰との関連性が考えられているが、その路線は彼らの後継者に継承された訳ではなく、唐でも7世紀末になると、積極的に京観が築かれるようになり、その後も規模は小さくなりつつも宋・元・明・清でも築かれている。日本や朝鮮でも中国の故事にならい、「京観」を作った事例が残るが、日本では首塚や耳塚などの類が一般的であり京観そのものはあまり一般的にはならなかったようである。
@@yugureyamanaka2730
学ばせていただきました。ありがとうございます。
楚を攻める時、堤を作り河を作り壊すのは堤なのでは?
宮城谷昌光さんはダム+坑道を使い逆サイフォンで『城内に』水を流し込んだって話を紹介されていましたね。高い城壁が仇になり副都全域が満水状態の桶にされ、楚軍どころか住民全員が溺死したとか。白起は水を抜いた副都で悠々と越冬し首都を攻める準備をしたっていうから、死者の恨みって類の迷信は全く信じていなかったみたい。また塚本青史さんは、白起のはっきりしない前半生時に韓の地で墨者とつるんでいた話を出しています。こうなると野戦以外でも坑道戦や心理戦に長けていた理由がわかりますね。まあ史的証拠はないですが、墨者と組んでいたっていうのはそんなに間違っていないのでは?と観ます。
ちらほら知ってる策があったけど元はこの人だったのか。捕虜をあっさり処刑するのがモンゴル軍との違いかな。延命と褒美をちらつかせて捨て駒にしてたらもっと拡大してそう。まぁ野戦と違って市街戦だと管理しきれず離脱されかねないから仕方なかったのかな。
あとモンゴルは捕虜を他国(言葉の通じない)に責めさせてるのもちょっと大きい、言葉通じない土地勘が働かないところだと脱走はリスクが大きい
この当時の中国王朝は当然のように兵数を10倍以上誇張するから、10万とか20万とかいってもまったく真実味がないわ。
24万とかだと2万4千人くらいに思っといた方がいい。
チャイナだからなw
お勧めの中国の書籍はなんでしょうか?
できるだけ簡易なもので_(._.)_
おすすめと聞かれたら三国志演義です。
横山光輝さんの漫画から入ると理解が進むと思います!
イラストが動画の内容と合ってませんので違和感ですよ。
Reebokは李牧の子孫が設立した、、、訳ではない😅
白起は常勝将軍でしたが、唯一の負けは処世術を失敗した事ですね。
第二次世界大戦の将軍たちも処世術で失敗している人が多いですね。軍人教育では、処世術は教えてくれないようですね。
三国志の司馬懿は兵法や処世術が、どこで学んだのか気になります。
@@yugureyamanaka2730 ドラマで司馬懿は王翦をリスペクトしていた節が描かれてましたね
@@user-pi4ot1pz2y さん、孔明は、たしか別の人物を尊敬していましたね。王翦は、野球でいうと、監督みたいに視野は広いですね。
項羽は、野球でいうと、ホームラン狙いの4番打者かな
そうですね。
その点はとても残念です。。。
いつの時代も、「戦場に行かない豚共」によって軍人は侮られ消えていくんだなぁ。
白起は
中国語で
無駄に起きると言う
ごろ的な意味もある
情報戦が強すぎる。
敵の情報は筒抜けで、敵は嘘の情報ばかり掴ませられる。
後、万単位で首はねすぎw
数十万人のご飯やトイレの面倒誰が見るの?みたいな話になると思いますが中国人口多すぎですよね…
中国は昔から戦果を何倍にも盛るの
で兵力何十万とかはまず嘘ですよ!
当時の人口や兵站の問題で何十万の
兵力を動員するのは不可能ですから
ね、多くても数万、10万の兵力を
動員するのは余程特別な状態じゃな
ければ不可能だと思いますよ。
正直、キングダムとか三国志演義とか
はフィクションですからそこら辺の
兵士数とか信じ無い方が良いですよ!
@@ryo3116 数千年越しにも嘘の情報を掴ませて来てるんですね!
わかりやすい動画だったが、ナレーションなんか感情入ってないぞ
いい人材は王がいつも潰しちゃうよな
モッタイナイ😂
10-20万是很正常的士兵数字,先秦全民皆兵,这里面的人数包括士兵,也包括民夫,甚至上党的百姓
韓信の戦術と同じですか。。?
戦略的な白起と戦術的な韓信
戦略的…戦の方向性、全体的な流れ
戦術的…1つの戦においての敵との駆け引き
戦略的にする人は恐らく過去にもいるけど
1いくさで
それを戦術に入れるのは
韓信が初めてだと思う
普通は大敗するから
負かすのと殲滅するのは二つの結果です。負かすのは簡単ですが、殲滅するのは容易ではありません
この時代の人口で24万人とか根こそぎ動員か?
秦軍が谷地で趙軍を包囲した時から、すでに秦国全体全面的な軍事動員であり、全国のほとんどの男が動員され、すべての犯罪者は全員赦免されて従軍して出征した。河内郡のすべての15歳以上の男性は長平前線支援のための出征を命じられ、河内郡全体の男性庶民も爵位一級を与えられた。少なくとも、この時期に秦の全体国民はかなり戦争に熱中していた。秦軍が天下を征服する最も根本的な原動力は商鞅が制定した軍功授爵の制度であり、庶民にも軍功に頼って昇進する機会を与えた(二十等爵)。秦が早すぎる滅亡の原因はある意味でこの軍功授爵制度でもある…爵位の価値は秦が天下を統一する時になってすでに深刻な切り下げをして、爵位に相応する封地を与えることができないため、それ相応の爵位の奴隷として捕虜が足りなかった、爵位も徭役と罪を免除することができない
ホラ吹きチャイナw
@@tggewtg1286日本の戦国は中国と比べるとスケールが違いすぎておもろい
無感情なナレーション・・・疲れる