『琴似屯田兵物語 第四話』 〜西南戦争と屯田兵〜

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  • เผยแพร่เมื่อ 18 พ.ย. 2024

ความคิดเห็น • 9

  • @あぶさん-f3e
    @あぶさん-f3e 2 ปีที่แล้ว +4

    私は湧別屯田兵の四代目で、曾祖父が明治30年9月に熊本より入植しています。曾祖父は明治5年生まれです。曾祖父の父親、私の五代目の先祖は、明治10年西南戦争に官軍で従軍しており、当時黒田清隆指揮下で西郷軍と戦ったのです。
    その時、五代前の曾々祖父は黒田から直接屯田兵のことを聞き、曾祖父が25歳の明治30年に屯田兵入隊に合格して9月に曾々祖父母、曾祖父母、曾祖父兄弟等一家10人で北湧別に入植します。その後日露戦争に従軍、負傷して湧別町に帰還し、湧別町芭露の祖となります。永峰先生のお説は全くその通りです。
    屯田兵識別番号6375です。

  • @hironobusahara2349
    @hironobusahara2349 หลายเดือนก่อน

    西南戦争といえば抜刀隊の歌を想い起こす。佐川官兵衛や斎藤一など戊辰幕軍の生き残りも参戦した。

  • @yasuyoshi
    @yasuyoshi 3 ปีที่แล้ว +2

    西南戦争で屯田兵が戦ったことはそれ程知りませんでした。西郷どんが発狂し破滅したのは知ってましたが、発端など知らないことばかりで非常によくわかりました。

  • @リック石丸
    @リック石丸 3 ปีที่แล้ว +1

    何故 西南戦争で わざわざ 屯田兵を北海道から呼び寄せたのか、不思議です。
    もっと 近くにいる部隊を 派遣すれば良いのに。

  • @wan-bj6pd
    @wan-bj6pd 6 ปีที่แล้ว +5

    黒田清隆は確かに明治10年4月に、屯田兵全部隊に出征を命じましたが、NTTによると確かに明治7年10月に2条の海底ケーブルが施設されていますが、同年12月にはそのうち1条が不通となり、さらに明治9年4月にもう一つのケーブルも残念ながら不通となってしまいます。
    いったいどうやって熊本県八代から札幌まで電報を打てたと言うのでしょうか?
    思い込みも甚だしいのではないでしょうか。

  • @wan-bj6pd
    @wan-bj6pd 6 ปีที่แล้ว +5

    警視抜刀隊=元会津藩士などと、どこかの小説をもとに解説されていますが
    警視抜刀隊の主力は、西郷と袂を分かち東京に残った元薩摩藩士です。
    元会津藩士もわずかながらいましたが遊軍であって主力部隊ではありませんし、藤田五郎(斎藤一)や元会津藩家老佐川官兵衛なども残念ながらいませんよ。
    おそらくは警視隊(別動第三旅団)と警視抜刀隊とを混同または、同一視されているものと思われます。
    誤解や物語を元に解説なさると、長峰氏の解説すべてが残念ながら史実に基づかない私見やフィクションであると誤解されかねません。
    西南戦争に関してはもう少しお勉強が必要なようです。

  • @wan-bj6pd
    @wan-bj6pd 6 ปีที่แล้ว +5

    城山で西郷が撃たれたのは「肩」と「太もも」ではなくて「腹」と「太もも」です。
    そして西郷は別府晋介に「晋どん、晋どん、もうこれでよか」ではなくて「ここらでよか」です。
    これについては、いったい誰が聞いていたのか、だれが伝えたのか(別府晋介はその後切腹、西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、あるいは私学校近くの一塁に籠もって戦死したそうです)わかりませんがそう言ったそうです。
    やはり長峰氏の解説はツッコミどころ満載のようです。