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小名木善行先生、あなたは素晴らしい❣️これからも、『日本をカッコよく🇯🇵』楽しみにしております♪
やっぱり小名木先生の話は凄い引き込まれてずっと聞ける
本当に日本には珍しい豪傑ですね。興味深いお話しをありがとうございます。
前回と今回の講話は正に小名木善行節と感じます。人に優しく自身は自由に自身の心は裏切らず。真っ直ぐ生きると感じます。
ありがとうございます...
佐賀県上峰町が為朝のアニメ作ってTH-camに上がってます❣️めちゃくちゃカッコいいアニメです!
小名木先生、今回もお疲れ様です。有難うございます。為朝は故ジャイアント馬場とほぼ同じ身長だったようですね。あの時代に考えられないですね。現代に生まれたらプロレスラーかお相撲さんになるしかないでしょうね。大河ドラマの主人公にしたい人物ですね。あの武蔵坊弁慶顔負けですね。次回を楽しみにしています。
これまた凄ぇお話をありがとうございます😳このような人物、初めて聞きました!
鎮西八郎は幼い頃に父から聞かされて凄いなと思っていました。日本で弓の名手というと義経配下の那須与一が有名ですが、鎮西八郎為朝の剛弓の方が圧巻の凄さで好きです。日本では豪傑や名将と呼ばれる当人で大成する人は少なく、人を動かす徳や才を持つ人が天下をとることが多いですね。
九州の悪代官をやっつけて崇徳上皇を助けて伊豆の人々を豊かにした源の為朝が好きになりました。英雄豪傑ですね。財力力のある奴に媚びない所が良い!
直木賞作家津本陽さんの小説で読みました。まさに豪傑中の豪傑で文句無しに痛快極まる内容でしたね。琉球王朝開祖説は義経のチンギスハーン説なみの伝説かも知れないですが読み終えてもしそれが事実だったのなら華々しい為朝らしい晩年だなと感じた次第です。
すげぇ豪傑!!なんかスサノオとかヤマトタケルの神話の話をほうふつとさせるような、突出した英雄ですね!!そんな才能ある人でも徳があって、人々のために働いて尊敬されてるのが日本人らしいカッコイイ生き様!!
滝沢馬琴の『椿説弓張月』が面白い。為朝の血湧き肉躍る冒険活劇。葛飾北斎のすばらしいイラスト付きがおすすめです。島から大凧に乗って脱出とか、荒唐無稽といえば荒唐無稽だけど、これが江戸時代に庶民向けの貸本屋で貸し出され読まれたということで、驚くべきことは、江戸の庶民の識字率の高さです。
かっこいい鎮西八郎為朝最強👍👍好きかっこいいヒーロー
へぇー、すごい人ですね♪初めてききました。すごい人がいるもんですね❣️なんか元気もらいました‼️
毎日楽しく、勉強になる配信ありがとうございます!小名木先生のおかげで毎日勉強が捗ります!これからも沢山の動画配信待ってます!!
鎮西八郎源為朝という、名前忘れません。ありがとうございます😊いつも、ワクワクする歴史のお話しを、ありがとうございます😊
我が家の家系は為朝と宇喜多秀家の血が入ってます。まさか為朝がこんなクローズアップされるような時代になるとは思いませんでした。笑
小学生時代に、社会科の授業中に「五人張りの弓矢」の余談に魅入られた思い出があります。
以前のお話にあった、源頼家の人物像やエピソードに共通点を感じました。
我が家は昔から武士の家系とは教えられてましたが、数年前じいちゃんが亡くなって大叔父から為朝の血筋だということを父ちゃんだけ家系図を見せてもらい知らされました。それまで為朝を全く知らなかったし、どこで狂ったのか身長低め家系ですが、こちらで勉強させてもらい、先祖がすごい人でなんだかとっても誇らしいです。
先生が講談師に見えるww素晴らしいお話でした
小名木先生、こんばんは☺︎🍙鎮西源為朝のお話しですね!わたしは博多に住んでおります。そして今年の1月に小名木先生と対談されていた大隈重信師範に、大東流合気柔術を習い始めました!本日稽古終わりの、つい先刻に道場で、新刊本を読ませていただき、しかも読んだところがまさしく源為朝公のくだりでした!昨年のゆにわ塾の半年間講座"ことのはむすび"を受講しておりまして、一ノ谷の合戦の章とともに読ませていただきました。本、買いまーす📖!日本を、かっこよく‼︎結美大学、弥栄🍙
少し相違点があり話が大きくなっています。関節では無く左腕の筋を切った筈。又、弓で船を引っ繰り返すのは物理的に不可能。鏑矢の様に矢先に大きな鏃が付いている屋で船に穴を開けて浸水で沈めた、と有ります。又300人乗りは当時では作れない、江戸時代ですら未だ。30人乗り程度の筈です。
将門と並んで為朝は好きな武神かな👍もっと平安時代のをしてほしいです😊
小名木先生と神田伯山の対談が観てみたい。
福岡の朝倉に、為朝まんじゅうがあります。朝倉高校の史学研究部の生徒さんが、為朝ゆかりの何かを発見したということで、おまんじゅうができたと聞きました。
放った弓が船をひっくり返すとか逸話越えてもはや神話の域だろw
対艦ミサイルで草
源 為朝ー1(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。生涯『愚管抄』には為朝が兄の頼賢とともに奮戦したとあり、『吾妻鏡』にも戦場で射られた大庭景義が為朝のことを「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、当時から世に聞こえた剛の武者であったことは確かである。以下本項では、主に『保元物語』の記すところにしたがって為朝の生涯をたどる。鎮西総追捕使為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがり容貌魁偉、また強弓の使い手で、前に出して弓を支える左腕が、後で弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長いという、弓を引くために生まれたような体つきをしていた。勇猛で兄たちにも傍若無人であった。13歳の時、乱暴が過ぎて父の為義に勘当され、九州に追放される。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。その後、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、菊池氏、原田氏など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めを繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまった。香椎宮の神人が為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、久寿元年(1154年)に出頭の宣旨が出されてしまう。為朝はこれに従わなかったが、翌久寿2年(1155年)に父が解官されてしまった。これを聞いて為朝は帰参することにし、九州の強者28騎を率いて上洛した。
坂本龍馬など、身長が190センチを超えていたって話があるが実際の坂本龍馬の来ていた着物などから推測した身長は170センチ余りくらいだ当時の日本人の平均身長は150センチくらいだから170センチの人はさぞ大柄に見えただろう。そこから坂本龍馬が大柄だって話から広がったのでしょうな源為朝の身長が2Mを超えていたというのは、実際のところ、ありえない話ではない実際に2Mを超えている人も現在でも幾らもいるわけですから。巨人症とかでそうなった可能性もありますししかし、それよりは大柄だったのが誇張して伝わったと考えた方が現実味がある170センチ以上なら、当時の人々の平均身長で考えれば現在人の感覚なら190センチや2Mを超える大男を見ている感じでしょうそういうことではないでしょうかね
俺も源為朝みたいな豪傑になりとうございます!(>_
期待しています👍
琉球王家の流れの家系は、朝という字を子供の名前に取り入れるという話もあります。無関係ではないのかも。
琉球まで行って欲しかったです。沖縄観光していると、看板には、沖縄の、なぜか二代目の王?から…
尚巴志が琉球統一をして、親父を初代の王様にしたんですよ。
為朝、弁慶をみるに、大谷さんは普通の日本人。
ヴィンランドサガのトルケルだ‼️🤣🤣🤣根っからの海賊という点が為朝と真逆‼️
源為朝ー3伊豆大島の流人やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の三郎大夫忠重の婿となり伊豆諸島を従え年貢も出さなくなった。伊豆諸島を所領とする伊豆介・工藤茂光を恐れた忠重は密かに年貢を納めるが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまう。伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)は鬼の子孫で大男ばかりが住む鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰った。為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配する。嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下った。同年4月、茂光は伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせた。為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、島で生まれた9歳になる我が子・為頼を刺し殺した。自害しようと思うが、せめて一矢だけでもと思い、300人ほどが乗る軍船に向けて得意の強弓を射かけ、見事に命中し、船はたちまち沈んでしまった[注釈 1]。館に帰り、「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」[注釈 2]とつぶやき、南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って自害した。享年32。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったが[注釈 3]、加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた。没年は治承元年(1177年)ともいわれる(『尊卑分脈』)。伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。
落語にすれば大うけしそう。おもしろいですね。
源為朝の守護神は卑弥呼だとされているが、そのあたりについて調べてください。
一部はタルタリア文明圏の人たちの混血?の人も日本人として存在したのかな?東日本の東北地方は蝦夷地と言われていたが実際はタルタリア文明圏の共存地域だったのでは?その蝦夷地?の人たちが大和の勢力圏に下った数十年までは大柄な人たちやその混血の人たちが多く存在していた?のかも
源 為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経・源範頼・源義仲らの祖父。当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代の河内源氏六代目棟梁。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経・源範頼らの父。源義家の死後、河内源氏は源義光を発端とする内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族(多くは坂東平氏)を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶長子。通称は鎌倉悪源太(悪源太[2]、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女[3] または三浦義明の娘[4] であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。生涯大蔵合戦詳細は「大蔵合戦」を参照久寿2年(1155年)、父・義朝が叔父・源義賢(義朝の異母弟、木曾義仲の父)と対立した際には義賢の居館武蔵国比企郡の大蔵館[注釈 1] を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ちとって武名を轟かせた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。なお、この事件の後に義平が処罰されていないのは、当時、武蔵守であった藤原信頼と義朝が関係を深めており、信頼の黙認があって起こした事件であるからとする説がある[5][6]。この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。中世の悪党の用法もこれと同じである。保元の乱保元元年(1156年)保元の乱が勃発し、義朝は後白河天皇側に立って参戦し、戦後は左馬頭に任じられているが、義平の動向は定かではない。平治の乱詳細は「平治の乱」を参照保元の乱の後、摂関家の影響力が後退し、強大な権力を有していた治天の君の不在という事態に陥っていた。そのような中、信西が頭角を現すが、従来の院近臣の間には急速に勢力を台頭させた信西に対する反感が生じた。また後白河天皇が二条天皇に譲位すると、こんどは天皇側近が天皇の親政を目指し、院の側近たる信西を敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる。信頼は武士にとって必要な物産を産出する陸奥国を押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国の知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、平清盛にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。平治元年(1159年)12月9日、反信西派により三条殿焼き討ちが発生し、信西が殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初、信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍を要請した。義平は三浦氏・上総介氏・山内首藤氏など、自身や義朝に私的に親しい東国武士のみを率いて都に上った。一時的に政権を掌握した反信西派であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂が生じる。やがて清盛が都に戻ると天皇親政派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討することを決定した。12月26日、清盛が弟の経盛・頼盛、嫡子・重盛などに命じて内裏に軍勢を派遣する。この日は数時間、都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦する(この奮戦の状況は虚実交えて『平治物語』に描かれている。後述)が、戦闘においては敗北。信頼は降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国を目指して落ち延びる。その途中で三弟・頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後『平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細は不明である。しかし翌年の永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。
源為朝ー4真偽不明ながらもその豪勇から各地に為朝の伝説が残っている。・「屋形石」の地名は鎮西八郎源為朝が黒髪山の悪蛇を退治する際に蟇目の法を行ったところ、余りの強弓から矢が石に突き刺さったことから、その石にちなんでこの地を矢形石村とした、とある(松浦拾風土記)。・為朝が幼少のころを過ごしたとされる大分市内には「為朝神社」があり、為朝が霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さった石が、ご神体として祀られていた。現在の大分雄城台高校の敷地内にある。・佐賀県上峰町に、鎮西山という山城のある山があり、為朝はそこを拠点とし、またその下にある屋形原(やかたばる)という地名の場所に住んでいたとも言われている。(「肥陽軍記」より)・佐賀県上峰町の鎮西山には、五万ケ池(ごまがいけ)があり、その池の名前の由来は、為朝を攻めた敵の五万騎が為朝の弓の力でこの場所で討たれたことから、池の名前がついたと言われている。・佐賀県上峰町の鎮西山には鎮西八郎為朝の慢心を戒める逸話が残っている。九州下向依頼二十余度の戦に一度も不覚を取らなかった為朝は都までその名を轟かせており、妻にした縫姫とともに平和な日々を送っていた。ある日、屋形原(やかたばる)の鎮西城の高楼で宴が催された。宴たけなわになったころ、老兵の一人が為朝に、「弓の実力を戦場ではよく拝見するが今ここでもその腕をみてみたい」といったところ為朝は「さらば」と八人張りの強弓を四寸長い左手の腕を差し伸べ満月のごとく引きしぼり、老兵にむけて放つと、その老兵の後ろのかごの真ん中を見事に射貫いてみせた。どっとほめやかす声のやまぬうちに一同の驚きはその老兵にうつった。老兵は為朝の射た矢を振り向きざまに抜くや否やはるか遠くの鎮西城の城門めがけて投げ返すとその矢は表門の柱にぐさっとぬかって立ったという。これには為朝はじめ一同茫然自失で、それよりのち人々は、これは「天狗様が老人になって為朝の慢心を戒めたのだ」と言い伝えたという。・福岡県朝倉地域には、源為朝の墓と伝承される石塔と為朝の愛馬の墓と伝承される石塔(馬塚)に加え、全国的にも珍しい源為朝の母の墓と伝承される石塔が存在している。これらは地元の朝倉高等学校史学部による調査活動により明らかにされ、新聞などの各メディアでも報じられ話題となった。その活動内容の一部は高校HPやTH-camにアップされている。・佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「牛津」と呼ばれるようになった。・為朝は疱瘡(天然痘)が流行した時代にも病にかからなかったといわれ疱瘡に対する守り神とする伝承が数多くある[3]。歌川国芳画「鎮西八郎為朝」の疱瘡絵では疱瘡神から病をり患させないよう手形を受け取る為朝の絵が描かれている[3]。このほか月岡芳年画「為朝の武威痘鬼神を退く図」(右図)などがある。・武蔵国足立郡宮内村(現在の埼玉県北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正・大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1208年)に八丈島に弥陀寺を創建した(現在の宗福寺)。太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原征伐後帰農して今に連綿と系譜が続いている。・薩摩平氏一門の阿多忠景(またはその子の阿多忠国)は、1159年(平治元年)に薩摩、大隅、日向の三国で専横したかどで追討の宣旨を受け、清盛郎党平家貞に攻められ平治元年(1159年)に「硫黄島」(鬼界ヶ島または貴海島)に流されたと伝わる。この阿多忠景(または忠国)の娘婿が為朝だったと言う伝記がある(保元物語)。・琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽は不明だが、この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この伝承に基づき、沖縄県今帰仁村の運天港に大正11年(1922年)為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている[注釈 4]。・運天の地で初確認されたハゼには、源為朝にあやかり「タメトモハゼ」という名がつけられた。命名者は黒岩恒。同様に「タメトモ」の名を冠する動植物にはタメトモマイマイ、タメトモヤスデ、タメトモユリなどがある。・鎌倉時代に現在の岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏の資料には、源為朝の遺児といわれる閉伊為頼(大嶋為家・閉伊頼基・佐々木十郎行光とも)が源頼朝より陸奥国閉伊郡・気仙郡を賜り、閉伊氏を称したとある。・信濃国伊那郡領主で江戸時代には交代寄合となった座光寺氏は、『寛政重修諸家譜』で為朝の後裔と称している。ただし、座光寺氏は諏訪氏の一族であると見られている。源義経は本当は八男だったが、源氏の勇者の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる。・伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、井戸ができたという。この場所が現在の六角ノ井といわれている。・「雁股(かりまた)の泉」伝説:奄美群島の喜界島の小野津集落には、為朝が琉球に渡ろうとした途中にシケに遭い喜界島の沖合を漂っているときに島に住人がいるかどうかを確かめるために雁股の矢を放ち、その矢を抜き取った後から清水が湧き出たと伝えられている。・奄美群島の加計呂麻島は為朝が琉球に渡る前に上陸した地として伝わっている。為朝の息子とされる実久三次郎の墓が残っており、神社も建てられている。・河内源氏義国流に連なる今川貞世は、自著『難太平記』の中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を為朝の子であるとし、係累である足利義康が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない[4]。・横浜市港南区上大岡東1-8付近は八郎ケ谷と呼ばれ、落人となった為朝が隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも4月25日に近隣の人々が供養している[5]。登場作品テレビドラマ『新・平家物語』(1972年、NHK大河ドラマ、演:伊吹吾郎)『平清盛』(1992年、TBS、演:金田賢一)『平清盛』(2012年、NHK大河ドラマ、演:橋本さとし)アニメ『鎮西八郎為朝』(2021年、声:武内駿輔)
義経もホントは八郎なのだが、為朝おじさんの八郎と被るのを避けて九郎を名乗ったのだとか(笑)また、義経があやまって弓を流した時、あわてて回収してこう言ったという「平家に拾われて、なんと源氏の大将の弓はか弱いものかと笑われたくなかった。為朝おじさんのような強弓ならわざわざ拾わなかった…」
前田慶次みたいな描き方でスーパーヒーロー的に描くべき武将ですね今まで漫画になってない方がおかしいレベル
本当に沖縄で王朝を築いたのでしょうか
椿説弓張月 ちんせつゆみはりづき
スサノオみたいな人柄ですね人情味のある不良といったイメージ
大谷翔平が今の聖人じゃなくてやべーやつだった世界線
リアル大豪院邪鬼
さすがに情報がザックリしすぎ
琉球王朝の始まりの話は、間違いであると今ではなっていますよ。あれは、南走平家とそれを追ってきた源氏です。
彼はサイヤ人ではないか説‥。
縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?日本人の身長に関して、意外なデータがあります。日本史上で、古代から見ても江戸時代の人が一番平均身長が低かったというデータです。今回は気になる日本人の身長の変遷の謎に迫ります。日本人はもともと小さかったわけではない明治期以前の日本人の平均身長を見てみましょう。縄文人の男性平均身長は158cm、女性平均身長は149cm。弥生時代に入ると更に伸び、古墳時代には男性平均身長163cm、女性平均身長152cmに。そしてそれをピークとして、平安以降は下がってゆくのです。平安時代初期の男性平均身長は161cmでしたが、末期には157cmに。更に時代下って江戸時代になると、人々の平均身長は男性で155cm~156cm、女性で143~145cmと日本史上最も低い値をマークします。男性に限って言えば、江戸時代はピークの古墳時代に比べて8cm以上小さくなっているというわけです。これはいったいなぜなのでしょうか。Japaaan Japaaanマガジン 歴史・文化 縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか? 縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?歴史・文化小山 桜子@2018/09/23 日本人の身長に関して、意外なデータがあります。日本史上で、古代から見ても江戸時代の人が一番平均身長が低かったというデータです。今回は気になる日本人の身長の変遷の謎に迫ります。日本人はもともと小さかったわけではない明治期以前の日本人の平均身長を見てみましょう。縄文人の男性平均身長は158cm、女性平均身長は149cm。弥生時代に入ると更に伸び、古墳時代には男性平均身長163cm、女性平均身長152cmに。そしてそれをピークとして、平安以降は下がってゆくのです。平安時代初期の男性平均身長は161cmでしたが、末期には157cmに。更に時代下って江戸時代になると、人々の平均身長は男性で155cm~156cm、女性で143~145cmと日本史上最も低い値をマークします。男性に限って言えば、江戸時代はピークの古墳時代に比べて8cm以上小さくなっているというわけです。これはいったいなぜなのでしょうか。その原因は?鎌倉~江戸期の低身長化には様々な原因が考えられますが、その中の1つは「動物性たんぱく質の不足」。江戸時代には獣肉があまり食べられていなかった事などから動物性たんぱく質が欠乏し、骨の成長の停滞につながったというのです。長さの単位メートル(SI単位) インチ フィート ヤード 寸 曲尺 鯨尺1 m = 1 ≈ 39.370 ≈ 3.2808 ≈ 1.0936 = 33 = 3.3 = 2.641 in = 0.0254 = 1 ≈ 0.083333 ≈ 0.027778 = 0.8382 = 0.08382 = 0.0670561 ft = 0.3048 = 12 = 1 ≈ 0.33333 = 10.0584 = 1.00584 = 0.8046721 yd = 0.9144 = 36 = 3 = 1 = 30.1752 = 3.01752 = 2.4140161 寸 ≈ 0.030303 ≈ 1.1930 ≈ 0.099419 ≈ 0.033140 = 1 = 0.1 = 0.081 尺(曲尺) ≈ 0.30303 ≈ 11.930 ≈ 0.99419 ≈ 0.33140 = 10 = 1 = 0.81 尺(鯨尺) ≈ 0.37879 ≈ 14.913 ≈ 1.2427 ≈ 0.41425 = 12.5 = 1.25 = 1鯨尺くじらじゃく江戸時代から使われていた裁縫用の物差し。尺貫法の1尺2寸5分(約37.9センチメートル)を1尺とする。出現の時期は不明確であるが、室町末期に1尺2寸の裁縫用の呉服尺が出現し、それがさらに5分伸びたものと考えられる。名称は、クジラのひげでつくられたことによる。したがって呉服尺も鯨尺とよばれた時期がある。江戸時代には両方とも民間において使われたが、官用としては使われなかった。また、鯨尺は東北地方には普及しなかった。1875年(明治8)に政府は呉服尺を廃し、鯨尺を残した。1959年(昭和34)以後は、鯨尺の製造は、メートル法による統一のため禁止された。しかし、放送作家の永六輔(えいろくすけ)らの運動によって1977年に、鯨尺本来の単位目盛りを用いずにメートル法で表記するという条件で復活した
仏教の影響で肉を食べなくなったからではと思う。
小名木さん 日本人の平均身長が150センチなのは、江戸時代ですよ。戦国時代は、160センチぐらいが正解です。それより前は、しりませんから 小名木さんがあっているかもしれませんが、リベラルの日本人落としの嘘情報に騙されないで欲しいです。
講談?落語?一人芝居 草
アンドレw
300人の船が弓矢1発でひっくり返るかファンタジーや。
いい視点を持ち上げていると思うのですが、歴史好きの人間側からとすると話し方が下手すぎる。惜しい。
父君とご本人やご兄弟には時代に乗り損ねた感しか持ってないわおの情報が偏ってるんやろか
講釈師見て来たような嘘を言う
小名木善行先生、あなたは素晴らしい❣️これからも、『日本をカッコよく🇯🇵』楽しみにしております♪
やっぱり小名木先生の話は凄い引き込まれてずっと聞ける
本当に日本には珍しい豪傑ですね。興味深いお話しをありがとうございます。
前回と今回の講話は正に小名木善行節と感じます。人に優しく自身は自由に自身の心は裏切らず。真っ直ぐ生きると感じます。
ありがとうございます...
佐賀県上峰町が為朝のアニメ作ってTH-camに上がってます❣️めちゃくちゃカッコいいアニメです!
小名木先生、今回もお疲れ様です。
有難うございます。
為朝は故ジャイアント馬場とほぼ同じ身長だったようですね。
あの時代に考えられないですね。
現代に生まれたらプロレスラーかお相撲さんになるしかないでしょうね。
大河ドラマの主人公にしたい人物ですね。
あの武蔵坊弁慶顔負けですね。
次回を楽しみにしています。
これまた凄ぇお話をありがとうございます😳
このような人物、初めて聞きました!
鎮西八郎は幼い頃に父から聞かされて凄いなと思っていました。
日本で弓の名手というと義経配下の那須与一が有名ですが、鎮西八郎為朝の剛弓の方が圧巻の凄さで好きです。
日本では豪傑や名将と呼ばれる当人で大成する人は少なく、人を動かす徳や才を持つ人が天下をとることが多いですね。
九州の悪代官をやっつけて崇徳上皇を助けて伊豆の人々を豊かにした源の為朝が好きになりました。
英雄豪傑ですね。財力力のある奴に媚びない所が良い!
直木賞作家津本陽さんの小説で読みました。まさに豪傑中の豪傑で文句無しに痛快
極まる内容でしたね。琉球王朝開祖説は義経のチンギスハーン説なみの伝説かも知
れないですが読み終えてもしそれが事実だったのなら華々しい為朝らしい晩年だな
と感じた次第です。
すげぇ豪傑!!なんかスサノオとかヤマトタケルの神話の話をほうふつとさせるような、突出した英雄ですね!!そんな才能ある人でも徳があって、人々のために働いて尊敬されてるのが日本人らしいカッコイイ生き様!!
滝沢馬琴の『椿説弓張月』が面白い。為朝の血湧き肉躍る冒険活劇。
葛飾北斎のすばらしいイラスト付きがおすすめです。
島から大凧に乗って脱出とか、荒唐無稽といえば荒唐無稽だけど、
これが江戸時代に庶民向けの貸本屋で貸し出され読まれたということで、
驚くべきことは、江戸の庶民の識字率の高さです。
かっこいい鎮西八郎為朝最強👍👍好きかっこいいヒーロー
へぇー、すごい人ですね♪初めてききました。すごい人がいるもんですね❣️
なんか元気もらいました‼️
毎日楽しく、勉強になる配信ありがとうございます!小名木先生のおかげで毎日勉強が捗ります!これからも沢山の動画配信待ってます!!
鎮西八郎源為朝という、名前忘れません。ありがとうございます😊
いつも、ワクワクする歴史のお話しを、ありがとうございます😊
我が家の家系は為朝と宇喜多秀家の血が入ってます。まさか為朝がこんなクローズアップされるような時代になるとは思いませんでした。笑
小学生時代に、社会科の授業中に「五人張りの弓矢」の余談に魅入られた思い出があります。
以前のお話にあった、源頼家の人物像やエピソードに共通点を感じました。
我が家は昔から武士の家系とは教えられてましたが、数年前じいちゃんが亡くなって大叔父から為朝の血筋だということを父ちゃんだけ家系図を見せてもらい知らされました。
それまで為朝を全く知らなかったし、どこで狂ったのか身長低め家系ですが、こちらで勉強させてもらい、先祖がすごい人でなんだかとっても誇らしいです。
先生が講談師に見えるww
素晴らしいお話でした
小名木先生、こんばんは☺︎🍙
鎮西源為朝のお話しですね!
わたしは博多に住んでおります。
そして今年の1月に小名木先生と対談されていた大隈重信師範に、大東流合気柔術を習い始めました!
本日稽古終わりの、つい先刻に道場で、新刊本を読ませていただき、しかも読んだところがまさしく源為朝公のくだりでした!昨年のゆにわ塾の半年間講座"ことのはむすび"を受講しておりまして、一ノ谷の合戦の章とともに
読ませていただきました。
本、買いまーす📖!
日本を、かっこよく‼︎結美大学、弥栄🍙
少し相違点があり話が大きくなっています。関節では無く左腕の筋を切った筈。
又、弓で船を引っ繰り返すのは物理的に不可能。鏑矢の様に矢先に大きな鏃が
付いている屋で船に穴を開けて浸水で沈めた、と有ります。
又300人乗りは当時では作れない、江戸時代ですら未だ。30人乗り程度の筈です。
将門と並んで為朝は好きな武神かな👍
もっと平安時代のをしてほしいです😊
小名木先生と神田伯山の対談が観てみたい。
福岡の朝倉に、為朝まんじゅうがあります。朝倉高校の史学研究部の生徒さんが、為朝ゆかりの何かを発見したということで、おまんじゅうができたと聞きました。
放った弓が船をひっくり返すとか
逸話越えてもはや神話の域だろw
対艦ミサイルで草
源 為朝ー1
(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。
生涯
『愚管抄』には為朝が兄の頼賢とともに奮戦したとあり、『吾妻鏡』にも戦場で射られた大庭景義が為朝のことを「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、当時から世に聞こえた剛の武者であったことは確かである。以下本項では、主に『保元物語』の記すところにしたがって為朝の生涯をたどる。
鎮西総追捕使
為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがり容貌魁偉、また強弓の使い手で、前に出して弓を支える左腕が、後で弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長いという、弓を引くために生まれたような体つきをしていた。勇猛で兄たちにも傍若無人であった。
13歳の時、乱暴が過ぎて父の為義に勘当され、九州に追放される。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。その後、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、菊池氏、原田氏など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めを繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまった。香椎宮の神人が為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、久寿元年(1154年)に出頭の宣旨が出されてしまう。為朝はこれに従わなかったが、翌久寿2年(1155年)に父が解官されてしまった。これを聞いて為朝は帰参することにし、九州の強者28騎を率いて上洛した。
坂本龍馬など、身長が190センチを超えていたって話があるが
実際の坂本龍馬の来ていた着物などから推測した身長は170センチ余りくらいだ
当時の日本人の平均身長は150センチくらいだから170センチの人はさぞ大柄に見えただろう。
そこから坂本龍馬が大柄だって話から広がったのでしょうな
源為朝の身長が2Mを超えていたというのは、実際のところ、ありえない話ではない
実際に2Mを超えている人も現在でも幾らもいるわけですから。巨人症とかでそうなった可能性もありますし
しかし、それよりは大柄だったのが誇張して伝わったと考えた方が現実味がある
170センチ以上なら、当時の人々の平均身長で考えれば現在人の感覚なら190センチや2Mを超える大男を見ている感じでしょう
そういうことではないでしょうかね
俺も源為朝みたいな豪傑になりとうございます!(>_
期待しています👍
琉球王家の流れの家系は、朝という字を子供の名前に取り入れるという話もあります。
無関係ではないのかも。
琉球まで行って欲しかったです。
沖縄観光していると、看板には、沖縄の、なぜか二代目の王?から…
尚巴志が琉球統一をして、親父を初代の王様にしたんですよ。
為朝、弁慶をみるに、大谷さんは普通の日本人。
ヴィンランドサガのトルケルだ‼️🤣🤣🤣
根っからの海賊という点が為朝と真逆‼️
源為朝ー3
伊豆大島の流人
やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の三郎大夫忠重の婿となり伊豆諸島を従え年貢も出さなくなった。伊豆諸島を所領とする伊豆介・工藤茂光を恐れた忠重は密かに年貢を納めるが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまう。
伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)は鬼の子孫で大男ばかりが住む鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰った。為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配する。
嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下った。同年4月、茂光は伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせた。
為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、島で生まれた9歳になる我が子・為頼を刺し殺した。自害しようと思うが、せめて一矢だけでもと思い、300人ほどが乗る軍船に向けて得意の強弓を射かけ、見事に命中し、船はたちまち沈んでしまった[注釈 1]。
館に帰り、「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」[注釈 2]とつぶやき、南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って自害した。享年32。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったが[注釈 3]、加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた。
没年は治承元年(1177年)ともいわれる(『尊卑分脈』)。
伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。
落語にすれば大うけしそう。おもしろいですね。
源為朝の守護神は卑弥呼だとされているが、そのあたりについて調べてください。
一部はタルタリア文明圏の人たちの混血?の人も日本人として存在したのかな?
東日本の東北地方は蝦夷地と言われていたが実際はタルタリア文明圏の共存地域だったのでは?
その蝦夷地?の人たちが大和の勢力圏に下った数十年までは大柄な人たちやその混血の人たちが
多く存在していた?のかも
源 為義
(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経・源範頼・源義仲らの祖父。当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。
源 義朝
(みなもと の よしとも)は、平安時代の河内源氏六代目棟梁。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経・源範頼らの父。源義家の死後、河内源氏は源義光を発端とする内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族(多くは坂東平氏)を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。
源 義平
(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶長子。通称は鎌倉悪源太(悪源太[2]、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女[3] または三浦義明の娘[4] であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。
生涯
大蔵合戦
詳細は「大蔵合戦」を参照
久寿2年(1155年)、父・義朝が叔父・源義賢(義朝の異母弟、木曾義仲の父)と対立した際には義賢の居館武蔵国比企郡の大蔵館[注釈 1] を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ちとって武名を轟かせた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。なお、この事件の後に義平が処罰されていないのは、当時、武蔵守であった藤原信頼と義朝が関係を深めており、信頼の黙認があって起こした事件であるからとする説がある[5][6]。
この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。中世の悪党の用法もこれと同じである。
保元の乱
保元元年(1156年)保元の乱が勃発し、義朝は後白河天皇側に立って参戦し、戦後は左馬頭に任じられているが、義平の動向は定かではない。
平治の乱
詳細は「平治の乱」を参照
保元の乱の後、摂関家の影響力が後退し、強大な権力を有していた治天の君の不在という事態に陥っていた。そのような中、信西が頭角を現すが、従来の院近臣の間には急速に勢力を台頭させた信西に対する反感が生じた。また後白河天皇が二条天皇に譲位すると、こんどは天皇側近が天皇の親政を目指し、院の側近たる信西を敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる。信頼は武士にとって必要な物産を産出する陸奥国を押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国の知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、平清盛にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。
平治元年(1159年)12月9日、反信西派により三条殿焼き討ちが発生し、信西が殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初、信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍を要請した。義平は三浦氏・上総介氏・山内首藤氏など、自身や義朝に私的に親しい東国武士のみを率いて都に上った。
一時的に政権を掌握した反信西派であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂が生じる。
やがて清盛が都に戻ると天皇親政派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討することを決定した。12月26日、清盛が弟の経盛・頼盛、嫡子・重盛などに命じて内裏に軍勢を派遣する。この日は数時間、都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦する(この奮戦の状況は虚実交えて『平治物語』に描かれている。後述)が、戦闘においては敗北。信頼は降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国を目指して落ち延びる。
その途中で三弟・頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後『平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細は不明である。しかし翌年の永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。
源為朝ー4
真偽不明ながらもその豪勇から各地に為朝の伝説が残っている。
・「屋形石」の地名は鎮西八郎源為朝が黒髪山の悪蛇を退治する際に蟇目の法を行ったところ、余りの強弓から矢が石に突き刺さったことから、その石にちなんでこの地を矢形石村とした、とある(松浦拾風土記)。
・為朝が幼少のころを過ごしたとされる大分市内には「為朝神社」があり、為朝が霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さった石が、ご神体として祀られていた。現在の大分雄城台高校の敷地内にある。
・佐賀県上峰町に、鎮西山という山城のある山があり、為朝はそこを拠点とし、またその下にある屋形原(やかたばる)という地名の場所に住んでいたとも言われている。(「肥陽軍記」より)
・佐賀県上峰町の鎮西山には、五万ケ池(ごまがいけ)があり、その池の名前の由来は、為朝を攻めた敵の五万騎が為朝の弓の力でこの場所で討たれたことから、池の名前がついたと言われている。
・佐賀県上峰町の鎮西山には鎮西八郎為朝の慢心を戒める逸話が残っている。九州下向依頼二十余度の戦に一度も不覚を取らなかった為朝は都までその名を轟かせており、妻にした縫姫とともに平和な日々を送っていた。ある日、屋形原(やかたばる)の鎮西城の高楼で宴が催された。宴たけなわになったころ、老兵の一人が為朝に、「弓の実力を戦場ではよく拝見するが今ここでもその腕をみてみたい」といったところ為朝は「さらば」と八人張りの強弓を四寸長い左手の腕を差し伸べ満月のごとく引きしぼり、老兵にむけて放つと、その老兵の後ろのかごの真ん中を見事に射貫いてみせた。どっとほめやかす声のやまぬうちに一同の驚きはその老兵にうつった。老兵は為朝の射た矢を振り向きざまに抜くや否やはるか遠くの鎮西城の城門めがけて投げ返すとその矢は表門の柱にぐさっとぬかって立ったという。これには為朝はじめ一同茫然自失で、それよりのち人々は、これは「天狗様が老人になって為朝の慢心を戒めたのだ」と言い伝えたという。
・福岡県朝倉地域には、源為朝の墓と伝承される石塔と為朝の愛馬の墓と伝承される石塔(馬塚)に加え、全国的にも珍しい源為朝の母の墓と伝承される石塔が存在している。これらは地元の朝倉高等学校史学部による調査活動により明らかにされ、新聞などの各メディアでも報じられ話題となった。その活動内容の一部は高校HPやTH-camにアップされている。
・佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「牛津」と呼ばれるようになった。
・為朝は疱瘡(天然痘)が流行した時代にも病にかからなかったといわれ疱瘡に対する守り神とする伝承が数多くある[3]。歌川国芳画「鎮西八郎為朝」の疱瘡絵では疱瘡神から病をり患させないよう手形を受け取る為朝の絵が描かれている[3]。このほか月岡芳年画「為朝の武威痘鬼神を退く図」(右図)などがある。
・武蔵国足立郡宮内村(現在の埼玉県北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正・大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1208年)に八丈島に弥陀寺を創建した(現在の宗福寺)。太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原征伐後帰農して今に連綿と系譜が続いている。
・薩摩平氏一門の阿多忠景(またはその子の阿多忠国)は、1159年(平治元年)に薩摩、大隅、日向の三国で専横したかどで追討の宣旨を受け、清盛郎党平家貞に攻められ平治元年(1159年)に「硫黄島」(鬼界ヶ島または貴海島)に流されたと伝わる。この阿多忠景(または忠国)の娘婿が為朝だったと言う伝記がある(保元物語)。
・琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽は不明だが、この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この伝承に基づき、沖縄県今帰仁村の運天港に大正11年(1922年)為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている[注釈 4]。
・運天の地で初確認されたハゼには、源為朝にあやかり「タメトモハゼ」という名がつけられた。命名者は黒岩恒。同様に「タメトモ」の名を冠する動植物にはタメトモマイマイ、タメトモヤスデ、タメトモユリなどがある。
・鎌倉時代に現在の岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏の資料には、源為朝の遺児といわれる閉伊為頼(大嶋為家・閉伊頼基・佐々木十郎行光とも)が源頼朝より陸奥国閉伊郡・気仙郡を賜り、閉伊氏を称したとある。
・信濃国伊那郡領主で江戸時代には交代寄合となった座光寺氏は、『寛政重修諸家譜』で為朝の後裔と称している。ただし、座光寺氏は諏訪氏の一族であると見られている。
源義経は本当は八男だったが、源氏の勇者の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる。
・伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、井戸ができたという。この場所が現在の六角ノ井といわれている。
・「雁股(かりまた)の泉」伝説:奄美群島の喜界島の小野津集落には、為朝が琉球に渡ろうとした途中にシケに遭い喜界島の沖合を漂っているときに島に住人がいるかどうかを確かめるために雁股の矢を放ち、その矢を抜き取った後から清水が湧き出たと伝えられている。
・奄美群島の加計呂麻島は為朝が琉球に渡る前に上陸した地として伝わっている。為朝の息子とされる実久三次郎の墓が残っており、神社も建てられている。
・河内源氏義国流に連なる今川貞世は、自著『難太平記』の中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を為朝の子であるとし、係累である足利義康が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない[4]。
・横浜市港南区上大岡東1-8付近は八郎ケ谷と呼ばれ、落人となった為朝が隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも4月25日に近隣の人々が供養している[5]。
登場作品
テレビドラマ
『新・平家物語』(1972年、NHK大河ドラマ、演:伊吹吾郎)
『平清盛』(1992年、TBS、演:金田賢一)
『平清盛』(2012年、NHK大河ドラマ、演:橋本さとし)
アニメ
『鎮西八郎為朝』(2021年、声:武内駿輔)
義経もホントは八郎なのだが、為朝おじさんの八郎と被るのを避けて九郎を名乗ったのだとか(笑)
また、義経があやまって弓を流した時、あわてて回収してこう言ったという
「平家に拾われて、なんと源氏の大将の弓はか弱いものかと笑われたくなかった。為朝おじさんのような強弓ならわざわざ拾わなかった…」
前田慶次みたいな描き方でスーパーヒーロー的に描くべき武将ですね
今まで漫画になってない方がおかしいレベル
本当に沖縄で王朝を築いたのでしょうか
椿説弓張月 ちんせつゆみはりづき
スサノオみたいな人柄ですね
人情味のある不良といったイメージ
大谷翔平が今の聖人じゃなくてやべーやつだった世界線
リアル大豪院邪鬼
さすがに情報がザックリしすぎ
琉球王朝の始まりの話は、間違いであると今ではなっていますよ。
あれは、南走平家とそれを追ってきた源氏です。
彼はサイヤ人ではないか説‥。
縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?
日本人の身長に関して、意外なデータがあります。日本史上で、古代から見ても江戸時代の人が一番平均身長が低かったというデータです。今回は気になる日本人の身長の変遷の謎に迫ります。
日本人はもともと小さかったわけではない
明治期以前の日本人の平均身長を見てみましょう。縄文人の男性平均身長は158cm、女性平均身長は149cm。弥生時代に入ると更に伸び、古墳時代には男性平均身長163cm、女性平均身長152cmに。そしてそれをピークとして、平安以降は下がってゆくのです。
平安時代初期の男性平均身長は161cmでしたが、末期には157cmに。更に時代下って江戸時代になると、人々の平均身長は男性で155cm~156cm、女性で143~145cmと日本史上最も低い値をマークします。
男性に限って言えば、江戸時代はピークの古墳時代に比べて8cm以上小さくなっているというわけです。これはいったいなぜなのでしょうか。
Japaaan Japaaanマガジン 歴史・文化 縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?
縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?
縄文や平安時代よりも、江戸時代の人が日本史上一番身長が低かった説は本当だった。なぜなのでしょうか?
歴史・文化小山 桜子@2018/09/23
日本人の身長に関して、意外なデータがあります。日本史上で、古代から見ても江戸時代の人が一番平均身長が低かったというデータです。今回は気になる日本人の身長の変遷の謎に迫ります。
日本人はもともと小さかったわけではない
明治期以前の日本人の平均身長を見てみましょう。縄文人の男性平均身長は158cm、女性平均身長は149cm。弥生時代に入ると更に伸び、古墳時代には男性平均身長163cm、女性平均身長152cmに。そしてそれをピークとして、平安以降は下がってゆくのです。
平安時代初期の男性平均身長は161cmでしたが、末期には157cmに。更に時代下って江戸時代になると、人々の平均身長は男性で155cm~156cm、女性で143~145cmと日本史上最も低い値をマークします。
男性に限って言えば、江戸時代はピークの古墳時代に比べて8cm以上小さくなっているというわけです。これはいったいなぜなのでしょうか。
その原因は?
鎌倉~江戸期の低身長化には様々な原因が考えられますが、その中の1つは「動物性たんぱく質の不足」。江戸時代には獣肉があまり食べられていなかった事などから動物性たんぱく質が欠乏し、骨の成長の停滞につながったというのです。
長さの単位
メートル(SI単位) インチ フィート ヤード 寸 曲尺 鯨尺
1 m = 1 ≈ 39.370 ≈ 3.2808 ≈ 1.0936 = 33 = 3.3 = 2.64
1 in = 0.0254 = 1 ≈ 0.083333 ≈ 0.027778 = 0.8382 = 0.08382 = 0.067056
1 ft = 0.3048 = 12 = 1 ≈ 0.33333 = 10.0584 = 1.00584 = 0.804672
1 yd = 0.9144 = 36 = 3 = 1 = 30.1752 = 3.01752 = 2.414016
1 寸 ≈ 0.030303 ≈ 1.1930 ≈ 0.099419 ≈ 0.033140 = 1 = 0.1 = 0.08
1 尺(曲尺) ≈ 0.30303 ≈ 11.930 ≈ 0.99419 ≈ 0.33140 = 10 = 1 = 0.8
1 尺(鯨尺) ≈ 0.37879 ≈ 14.913 ≈ 1.2427 ≈ 0.41425 = 12.5 = 1.25 = 1
鯨尺
くじらじゃく
江戸時代から使われていた裁縫用の物差し。尺貫法の1尺2寸5分(約37.9センチメートル)を1尺とする。出現の時期は不明確であるが、室町末期に1尺2寸の裁縫用の呉服尺が出現し、それがさらに5分伸びたものと考えられる。名称は、クジラのひげでつくられたことによる。したがって呉服尺も鯨尺とよばれた時期がある。江戸時代には両方とも民間において使われたが、官用としては使われなかった。また、鯨尺は東北地方には普及しなかった。1875年(明治8)に政府は呉服尺を廃し、鯨尺を残した。1959年(昭和34)以後は、鯨尺の製造は、メートル法による統一のため禁止された。しかし、放送作家の永六輔(えいろくすけ)らの運動によって1977年に、鯨尺本来の単位目盛りを用いずにメートル法で表記するという条件で復活した
仏教の影響で肉を食べなくなったからではと思う。
小名木さん 日本人の平均身長が150センチなのは、江戸時代ですよ。戦国時代は、160センチぐらいが正解です。それより前は、しりませんから 小名木さんがあっているかもしれませんが、リベラルの日本人落としの嘘情報に騙されないで欲しいです。
講談?落語?
一人芝居 草
アンドレw
300人の船が弓矢1発でひっくり返るか
ファンタジーや。
いい視点を持ち上げていると思うのですが、歴史好きの人間側からとすると話し方が下手すぎる。惜しい。
父君とご本人やご兄弟には時代に乗り損ねた感しか持ってない
わおの情報が偏ってるんやろか
講釈師見て来たような嘘を言う