夕張の鉄道(夕張線・夕張鉄道・大夕張鉄道)128年を4分で振り返る
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- เผยแพร่เมื่อ 8 ก.พ. 2025
- 1892年に最初の鉄道が開通した夕張市。
国鉄・夕張鉄道・大夕張鉄道、更にそれらに接続する各種専用線が市内を網羅していきました。
運営事業者は異なれど、そのほとんどは北炭(北海道炭礦鉄道→北海道炭礦汽船)が建設に関わった路線です。
石炭採掘が基幹産業であった時代、北炭の財政力はとてつもなく強靭なものでした。
この動画は1892年から2019年までの128年間の変遷をまとめたものです。
JR北海道,廃線
#夕張,#夕張支線,#夕張線,#夕張鉄道,#大夕張鉄道,#石勝線,#変遷
わたしは、角田小学校に通っておりました、小学生時
まだ、夕張鉄道が運行していた記憶があったのですが、時系列の地図を見ると、間違っていなかったのだと、感心しております、南幌方面を中心に、鉄道跡地は、きらら街道という道路になっていますが、時間が経つに連れ 元そこが鉄路だった事を覚えている人が、だんだんすくなくなっていくのですね、、
昔の技術で夕張の周りの山々に鉄道を引いたのは本当に大変だったと思います。夕張は道内でも豪雪地帯だし、今は無くなってしまいましたが昔の人の努力の証は覚えておこうと思います。
全盛期は50年代、ですね。
全盛期に行ってみたかったですね。
変遷が判りやすく、面白かったです。
そう言って頂けて嬉しいです。ありがとうございます。
祖父の家が継立でした。私が産まれた時は夕鉄バスでしたが、継立のバス停のことずっと駅って言っていたな。
国鉄以外の路線はまさに、「炭鉱と共に始まり、炭鉱と共に終わる」ですね
結局元に戻ってる
夕張支線は閉山から30年もの長きに渡ってよく頑張ったと思う😢
閉山後も地域の足を守るため、駅や線路をスリム化し、運転人員もワンマン化し、JR北海道もかなり粘ってくれたと思います。ですが、それも限界に来たということですね。
私は1970から約20年小中高を夕張で暮らしました、ちょうど炭鉱が斜陽となり観光へとシフトしたころ
です、南清水沢に住んでいたので鹿の谷の夕張北高には鉄道で通学していました、友人は鹿島から
三菱南大夕張鉄道で来ていました、車内にダルマストーブがあって木枠の窓だったと思います
小学生の頃は清水沢駅にSLのD-51が停車していて、運転台に入れてもらい石炭をくべさせていただいたり(くべるは放り込む、燃やす)しました。新夕張に石勝線が来た時に特急が止まる駅となり、当時の市長が「これで夕張の鉄道はなくならない」といってたのが印象的で、レースイスキー場、石炭の歴史村、ホテルシューパロ、映画祭などのリゾートに舵を切ったのが結果的に財政破綻になった原因なのでしょうね、炭鉱事故で友人の父親が亡くなりご遺体も戻らないまま水没させたときは何もこえをかけられませんでした、少年時代を過ごした夕張の鉄道の歴史の一部分を過ごしたものとして、懐かしく視聴
いたしました、動画を見て一気にあの頃の記憶がよみがえりとてもよかったです
ご視聴ありがとうございます。夕張に住まわれた貴重な経験を記述頂きありがとうございます。
夕張には石勝線夕張支線しかないと思ってましたが、まさかこんなにたくさん路線が伸びてたんですね
しかも私鉄まであったとは
そうなんです、当時の夕張市内は今では考えられない程賑わっていたと思います。
夕張の歴史を知ってもらえて嬉しいです。
1981年7月に、用事が有り登川に行きました。
その頃は鉄道マニアのことも知らず廃線のことも知らず、随分混むなと。
到着した駅には溢れる人だかりで、着いてから廃線を知りました。
偶然その日なので、感激も無い一般人でした。
もし北海道の主要空港が丘珠で千歳空港が存在していなかったら、道東に向かう鉄道をわざわざぐるっと千歳巡っての遠回りにせず、夕張鉄道の野幌→南幌→栗山→継立→(錦沢のあの辺りはトンネル)→清水沢→新夕張→帯広(石勝線)ルート成っていたのかなと妄想した事がある。
正直夕鉄が残っていればまだワンチャン、バリバリ夕張とかマウントレースイも生き残ってた可能性があるな…
夕鉄廃止時になんとか国鉄が買い取ってむしろ夕張支線を廃止した方が札幌とのアクセスからすると良かった気がする。
とても面白いのですが、川端専用鉄道について知りたくこの動画を拝見しました。載ってなかったので残念でした。
南幌まで残しておいて、
札幌の通勤圏とする手もあったと思うが…(^_^;)
夕鉄も学園都市線のように、南幌も当別くらいの街になっていたかもしれませんね。。
なんか夕鉄の方が便利そうな形してるけど?
2024年3月 滝ノ上駅廃止・・