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00:00:00 創世記2章8節~9節まで。00:00:08 「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、00:00:14 その造った人をそこに置かれた。00:00:17 また主なる神は、見て美しく、00:00:20 食べるに良い全ての木を土からはえさせ、00:00:23 更に園の中央に命の木と、00:00:26 善悪を知る木とをはえさせられた。」00:00:30 アーメン。00:00:33 今日初めてエデンの園と多く聞いていた、00:00:39 エデンの園の名が出て来ました。00:00:41 それから園にある00:00:43 木の話しも出て来ます。00:00:46 先週私たちが見ていた00:00:49 地に雨を降らせず、00:00:52 また土を耕す人もなかったでしょう。00:00:56 しかしようやく雨が降って来たでしょう。00:01:01 その降って来たものは何ですか。00:01:04 神が土ちりで人を造り、00:01:12 命の息をその鼻に吹き入れられた。00:01:14 そこで人は生きた者となった。00:01:15 これが雨が雨が降ったってことです。00:01:18 アダムはもはや土を耕す人になったのです。00:01:23 すると当然この人は00:01:27 どういう存在になっていたってことですか。00:01:31 先週聞いていたお話しで、このアダムは生きた者となったのですから、00:01:38 つまり何になったってことですか。00:01:39 神の子と神殿になったということです。00:01:48 コリント第一3章16節で、00:01:51 「あなたがたは神の宮であって」00:01:53 つまりエデンの園の話しが出て来たのは、00:01:57 当然順序上正しいのです。00:01:59 アダムは自分の心に宮が造られると、00:02:06 当然それはエデンであり園なのです。00:02:11 だからエデンの園の話が出て来るというのは、00:02:15 その宮の話をするわけです。00:02:21 エデンの園と言うけれど、00:02:24 新しいエルサレム、エルサレムはエルサレムで、00:02:29 エデンの園、もちろんこれは00:02:34 実際に可視的なことをもって00:02:37 神が私たちに話したい00:02:39 福音の話をされているので、00:02:41 私たちにはエデンの園がどうのこうの00:02:45 という問題ではありませんね。00:02:46 私たちにエデンの園が00:02:50 本当にあったというのと00:02:53 私の救いとは何の関係もありません。00:02:55 でしょう?だから私たちは聖書でその真理を発見し、00:03:00 その真理が自分のものになれば、00:03:03 それこそ主が私たちに向けられた00:03:05 目的が成就するのです。00:03:09 だから今日の御言葉を見る時、00:03:12 昔むかし神が、00:03:16 エデンの園を造られたんだって。00:03:18 そこに二本の木を植えておき、00:03:21 それを食べてはいけないという話しだよ。00:03:24 そのようにおとぎ話として聞いて終わってしまっては00:03:28 何の益もないということです。00:03:30 それでは本文8節を再度見ましょう。00:03:33 「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、00:03:38 その造った人をそこに置かれた。」00:03:42 エデンといったとき、00:03:44 ヘブライ語は原文のままのエデンです。00:03:50 しかし園という字は私たちの言葉に置き換えてますね。00:03:55 元々園というとき原語は00:03:58 ヘブライ語で「ガン」と言います。00:04:02 エデンといったときは、平穏00:04:06 それから喜びの地という意味があります。00:04:13 それではエデンを何と読んだでしょうか。00:04:16 楽園、喜びの園、喜びの地00:04:22 という意味を持っています。00:04:24 つまり神が最も喜ばれる00:04:28 その地とは宮というものです。00:04:32 私たちが宮になることが00:04:34 神が最も喜ばれることなのです。00:04:37 そういう意味からエデンは00:04:38 宮を意味するのです。00:04:41 それから「エデンに一つの園を設けて」と、00:04:49 なっていますが、園は「ガン」と言いましたね。00:04:51 「ガン」は英語で言うとガーデン、庭、00:04:59 フェンスに囲まれている庭園という意味です。00:05:04 つまり私たちの宮でいうならばエデンは聖殿であり00:05:11 ヘブライ語の「ガン」は、庭園、庭、至聖所の00:05:16 意味でしょう。00:05:19 聖所と至聖所、00:05:21 だからエデンというと範囲が広いのです。00:05:25 聖殿という範囲もあり、00:05:27 その中の至聖所と言うと、00:05:31 園は至聖所に当たるでしょう。00:05:36 至聖所に神の箱があるのですが、00:05:41 御言葉、律法。それが命の木と善悪を知る木なのです。00:05:48 さてエデンの園の中央に00:05:49 木を生えさせたとありますね。00:05:53 ヘブライ語の「ガン」は園と言いましたが、00:05:58 「ガン、ベ、エデン」となっています。00:06:00 エデンの園というと、「ガン、べ、エデン」となっていて、00:06:06 ヘブライ語の「ベ」は、何々の中にという意味です。00:06:10 ヘブライ語の「べレシト」で、その「ベ」は、何々の中に、00:06:17 「レシト」は、「頭」で、00:06:20 「ロシ」から出て来た由来した用語です。00:06:23 始まりと最初という意味なのですが、00:06:25 その内面的意味は「頭」です。00:06:28 頭の中で始められるのが「初めに」と言ったでしょう。00:06:34 「頭」頭は誰ですか。00:06:37 イエス・キリスト、神、同じことばです。00:06:41 その「ガン、ベ、エデン」は、00:06:45 エデンの中にある園という意味です。00:06:51 それがつまり聖殿ということです。00:06:54 つまりその宮を設けられ、00:07:02 「その造った人をそこに置かれた」とありますが。00:07:06 その造られた人は誰ですか。00:07:08 アダムです。「ハ・アダム」00:07:11 そのアダムを園に置かれた00:07:14 理由は何ですか。00:07:17 15節を見るならば、00:07:19 「主なる神は人を連れて行って00:07:22 エデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」00:07:29 アダムをエデンの園に置かれた理由は何ですか。00:07:34 15節で、耕させ、これを守らせられる為00:07:41 つまり私が今この世にいる00:07:47 理由は何ですか。00:07:49 耕させ、守るためなのです。00:07:54 ところでここで一つ大切なことを見ましょう。00:07:59 園を設けられたのですが、
00:15:16 つまりことばというのは、00:15:19 話しことばになる根本です。00:15:22 ことばが出て来る根本、00:15:23 思想のことです。00:15:26 その人の思考、考えなどが00:15:29 そのようになっていることを言っています。00:15:32 その思想を私たちのことばで話すとき、00:15:39 キリスト教で言うならば、教理が同じということです。00:15:43 キリスト教の教理は、一つの教理です。00:15:49 一つの教理から出て来る言葉は同じでしょう。00:15:53 世的なことばをもっています。00:15:58 世的な考えを持っている人々が00:16:01 一緒に対話をすると00:16:03 その非真理の中でのコミュニケーションでしょう。00:16:07 その状態のことを言っているのです。00:16:09 だからその当時の人々の状態は00:16:14 とても全く真理のない状態、00:16:18 神に対するその真理が00:16:21 全く悟れてない人々が00:16:25 非真理として一つになっている00:16:28 状態ということです。00:16:30 その為、彼らが話すことも00:16:32 非真理の中で彼らだけのコミュニケーションでしょう。00:16:36 だから神がそれを悪いと言われたわけです。00:16:44 そのことを嫌われたってことです。00:16:45 その非真理のことばで一つになっていたからです。00:16:49 放っておくとどうなるでしょうか。00:16:52 真理はそのまま消えてしまうでしょう。00:16:55 だから神が全地に散らされたのです。00:16:58 その散らされる方法は何だったのですか。00:17:01 ことばが通じなくすることだったのです。00:17:05 例えば、00:17:07 一つの教会に聖徒たちが00:17:09 5千名いるとしましょう。00:17:14 一つの教理から一つの教訓を受け、00:17:18 全ての教会員が一つの言葉を話しているとします。00:17:22 しかし神からすれば00:17:25 非真理のことばであり、00:17:27 その教理が非真理の教理だった場合、00:17:30 神はそのことばを散らされるのです。00:17:33 散らされる方法があるでしょう。00:17:35 それを本文のことばで言うならば、00:17:39 ことばで混乱させたということです。00:17:42 するとその中に他の教理が入って来るのです。00:17:46 神がある人に他の教理を植え付けると、00:17:51 その人は別なことばを話すでしょう。00:17:54 それが同じ非真理であるにもかかわらず00:17:59 一つの教理から別な教理が出て来ると、00:18:03 互いに争うようになります。00:18:05 だから昔、長老教はメソジスト教と00:18:10 コミュニケーションを取らなかったのです。00:18:12 メソジストはウェスレー教理です。00:18:16 長老教はカルヴァン主義で、00:18:19 その代表的なのが世定論、そういう所が結構違うのです。00:18:26 しかし今は平準化されていますね。00:18:27 今は超教派的です。00:18:31 今こそまさにことば、話しことばが一つです。00:18:37 昔はヨイド純福音教会は00:18:44 神の聖会が純福音教会なのですが、00:18:51 何の教団ですか。00:18:53 神の恵みと真理、五旬節派と言います。00:19:06 彼らは異言で話さないと、00:19:16 人間扱いされません。00:19:18 犬も異言を語ると言い、00:19:23 彼ら同士一つのことばになっています。00:19:28 だから長老教では二、三回言われていましたよ。00:19:31 その都度、あれは異端だと。00:19:35 そうしているうちに00:19:37 うやむやに受け入れ00:19:40 今はそれら全てが受け入れられ皆が同じだと。00:19:45 これが一つのことばなのです。00:19:49 神は散らされるときどのようにされるのか。00:19:54 新しい教理を登場させます。00:19:58 しかしそれは皆が異端と言います。00:20:04 しかしそっちが正しいと思う人は00:20:06 そっちについていくでしょう。00:20:08 またあそこが正しいと思う人は00:20:10 あそこに行くでしょう。00:20:11 ですから散らされるのです。00:20:16 神の方法は、そのように使われるのです。00:20:21 さて、今日非真理のことばが一つとなった00:20:30 そういう事例を考えて見ましょう。00:20:33 思い出せば発表してください。00:20:39 例えば、イエスを信じることで天国に行く。00:20:43 このことばは正しいですか。00:20:45 間違った言葉ですか。00:20:46 一旦は正しい言葉に聞こえます。00:20:49 みなそのようになっているでしょう。00:20:51 それが一つのことばです。00:20:51 それが私がイエスを信じることで、00:20:53 天国へ行くということです。00:20:55 そのことばはどの教会でも00:20:58 間違って言う教会はありません。A00:21:00 つまりこのようになることでしょう。00:21:03 私がイエスを信じれば、00:21:05 天国に行くいうことでしょう。00:21:08 つまり私が信じるというのが前提なので、00:21:11 私の意志をもって信じるか信じないかによって00:21:16 その救いは変わるでしょう。00:21:20 つまりこれは正しいようでも00:21:22 良く考えて見ると語弊があるのです。00:21:25 つまりこのことを真理の言葉に置き換えると、00:21:32 イエスを信じることで天国に行けるのではなく、00:21:35 イエスになることで天国だ。00:21:37 と言えるのです。00:21:41 ことばが人となったイエス・キリスト00:21:43 イエス様のように私もそういう状態になることで、00:21:49 天国に行けるのではなく、00:21:51 その心の状態が天国なのです。00:21:55 心の貧しい者は天国がそのものである。
00:50:01 それらのものがふん土のように思っていると。00:50:05 犬の糞のように見捨てる。00:50:11 自分がそのように思っているかどうかを見なさいということです。00:50:17 だから世の価値観は00:50:22 真に価値がないということとして00:50:24 私がそのことに気づき00:50:26 そこからだんだん遠ざかって行ってるのか。00:50:30 そのことを見ればキリストがおられるかどうか、00:50:35 それが基準になるのではないか。00:50:38 で、キリストがおられることを00:50:40 ちょっと抽象的に考えることがあります。00:50:44 例えば、幻を見る、00:50:47 幻聴が聞こえる、神霊な夢を見る。00:50:55 ということではありません。00:50:58 決してそういうことではありません。00:51:01 異言を言ったり、按手によって悪霊を追い出したとか00:51:08 そういうことではありません。00:51:12 それから良く祁答院に通う人もいますでしょう。00:51:15 祁答院、みな悪霊に取りつかれているのですよ。00:51:18 なぜかご存じですか。00:51:21 一つだけお話ししましょう。00:51:23 神はこの山に向かって動いて海に移れと、00:51:29 からし種ほどの信仰さえあれば良いと言われました。00:51:33 その山とは何ですか。00:51:35 シオン山、まあいいでしょう。それを文字のまま見るとごく普通の山のことでしょう。00:51:49 冠岳山、道峰山など、その山を移した人いますか。00:51:52 今まで一人もなければ、からし種ほどの信仰はないのです。00:51:56 その山は律法のことです。00:52:00 それは律法で悪霊です。00:52:01 山というと、00:52:05 私たちは真っ先に00:52:07 シナイ山を思い出さなければなりません。00:52:09 シナイ山は律法を授かった山です。00:52:13 それから山は何ですか。00:52:16 イエス様が最初、00:52:21 山上の垂訓のとき、どこでされましたか。00:52:26 山で、「山へ登られた。」00:52:31 ところが何の山なのかは出て来ません。00:52:34 なぜ?イエス?あの方が山なので、00:52:41 あの方ご自身が山だから00:52:43 何の山とは言えないのですが、00:52:46 しかしその山を追いかける人々は00:52:50 すべてがシナイ山に属した人々、00:52:53 律法に属した人々です。00:52:57 つまりそこに属した代表的人が00:53:01 サマリアの女です。00:53:03 彼女の心の中には00:53:05 あなたがたはエルサレムというあの丘、00:53:10 丘ですね。シオン山で、00:53:12 シオン山はエルサレムです。00:53:15 その次の山はゲリジム山、00:53:19 サマリア人たちが00:53:23 礼拝していた所も山です。00:53:25 しかしイエス様があの山でもこの山でもない。00:53:30 霊とまことをもって父を礼拝する時が来る、00:53:33 そうだ、今来ていると言われたでしょう。00:53:35 だから祁答院に行っていたときを思い返すと、00:53:38 祁答院って殆ど山にあるでしょう。00:53:45 そこに行けば神に近づけると00:53:47 思うのです。00:53:49 人知れずまあそうだということです。00:53:52 そして祁答院に行くと00:53:54 私たちも霊的な人となって00:53:56 来るような勘違いをするのです。00:53:59 だから私も3日間断食祈祷をしたり00:54:02 結構祁答院に行ってましたね。00:54:04 また新正月や旧正月には必ず祁答院に行ってました。00:54:09 本当に結構行ってましたね。00:54:11 だから信仰があるかどうかは00:54:13 そのキリストが私の中に入ってくること、00:54:16 それが信仰の者と言ったでしょう。00:54:19 つまりそれがからし種ほどの信仰なのです。00:54:21 しかしその信仰が入って来ると、00:54:24 何かが分かるようになるのです。00:54:25 その律法が何か、真理が何か、00:54:28 自分の中で分別が出来るのです。00:54:30 まさに山が移されたということです。00:54:37 その海は聖所に入って来られない00:54:43 群れは海なのです。この世、00:54:44 この世、キリスト教とは言えない00:54:48 この世です。00:54:50 この世に送ったという意味です。00:54:53 豚たちに悪霊が入って00:54:57 海におぼれ死んだでしょう。00:55:00 そういう意味があるのです。00:55:04 だから地も消え海も見えない。00:55:12 黙示録に出て来ることばです。00:55:15 つまり真理のことばによって00:55:18 私が真理になれば、00:55:23 その律法はすべて消えるようになります。00:55:27 悪霊が追い出されるのです。00:55:28 そのことが山が動いたことと、00:55:32 同じ話です。00:55:35 そのようになっているのを00:55:37 自分で分かるのです。00:55:39 その程度は分かるのです。00:55:41 その状態が、キリストがおられるということです。
00:29:03 それから主日を良く守らなければならないと言いますね。00:29:07 主日を良く守ること。00:29:10 教会に行くと主日を良く守りなさいと言いますね。00:29:13 世の教会でこのことを言われない所はないと思います。00:29:15 それではこの言葉に誤りがあるってことを00:29:20 説明すること出来ますか。00:29:22 主日を守らなければならない。00:29:25 それは日付を守ることなので、00:29:30 教会に行かねばなりませんね。00:29:36 元々主日という概念は安息から出て来たのです。00:29:40 安息のある概念をもって00:29:43 日付だけを変えたものです。00:29:44 主が復活されたということで、00:29:47 その日を守っているのですが、00:29:49 週に一度ずつ本当に安息日を守っていたのです。00:29:53 しかし文字的に見るとそうなのであって、00:29:55 真理の言葉に置き換えると、どうなるのか。00:30:00 毎日が安息日で毎日が主日です。00:30:08 つまり安息を守るという概念は00:30:10 週に一回守ると言う概念は00:30:13 間違った概念です。00:30:16 私たちは毎日主日として生きているでしょう。00:30:19 それから什一献金のことも外すことが出来ませんね。00:30:24 什一献金は必ず捧げるべきだと。00:30:28 私たちはそのように学ばされました。00:30:36 つまりこれを真理の言葉に置き換えると、00:30:38 どうなるのか。00:30:40 什一は私たち自身のことです。00:30:46 イエス・キリストが什一となられ捧げられたのです。00:30:53 そのように私も什一として00:30:58 私自身を神に捧げるものです。00:31:01 私自身を捧げるのです。00:31:05 私のすべてのことを、00:31:08 私の所有と言わず、00:31:11 全てのもの、私に関連するすべてのこと、00:31:14 私のいのちまでをも神に捧げるのが、00:31:17 什一献金、什一という概念なのです。00:31:21 だから10分の1というそういう概念として00:31:25 考えてはいけません。00:31:29 それから律法は廃するためではなく、00:31:33 律法は完成された。00:31:36 こういう概念、廃するためではないので、00:31:40 律法は守るべきだと。00:31:42 その代表的なのが十の戒めです。00:31:46 十の戒めを守るべきだと言われるでしょう。00:31:50 これらを真理のことばに置き換えると、00:31:54 表面的律法は廃するのが正しいでしょう。00:32:01 だから十の戒めというと、00:32:02 その文字的な十の戒めは00:32:05 私たちが良く知っている00:32:06 そういう十の戒めではなかったでしょう。00:32:09 その内面的な十の戒めとして00:32:11 私たちが分かった時、00:32:14 その内面的に気づくこと自体が00:32:17 完成されたという意味です。00:32:21 つまり律法が完成されたという00:32:23 意味でもあるし、00:32:26 律法が廃されたという00:32:27 意味でもあります。00:32:29 二つの意味が含まれているのです。00:32:32 私たちは見分けることが出来ますね。00:32:35 それから福音の核心を00:32:39 教会ではどのように言っているのかというと、00:32:41 イエスを信じれば天国に行くと言いますね。00:32:45 祈りと礼拝と奉仕はなぜするのですか。00:32:51 それらをすることによって00:32:54 天国でご褒美が一つ一つ積み上げられることで、00:32:58 この世で祝福されると、00:33:03 教えているでしょう。00:33:04 それが全地の一つのことばなのです。00:33:08 それを真理に置き換えるとどうなるのか。00:33:13 福音の核心とは何ですか。00:33:16 なることでしょう。00:33:18 その順序を言って見ましょう。00:33:21 なる前に先ず何があるべきですか。00:33:26 イエス・キリストと共に十字架で死に、00:33:32 死ぬことでイエス・キリストと共に復活し、00:33:35 その復活を味わうことでしょう。00:33:39 これが福音の核心です。00:33:41 しかしそのように学ばれましたか。00:33:54 だからこういったものが結構多いのです。00:33:58 考えて見ると今もそうなのですが、00:34:02 時間もないので、この程度で終わりたいと思いますが、00:34:05 重要なのは「集団」が作られるでしょう。00:34:10 教会も集団で出来ていますね。00:34:12 私たちの教会も小さな集団です。00:34:13 集団が出来ると必ず00:34:17 生じるのがあります。00:34:19 集団的倫理です。00:34:23 集団的な倫理は福音とは関係がありません。00:34:28 しかし福音を入れる為に生じるものです。00:34:32 時間が経つにつれて主客転倒するものです。00:34:41 例えば、礼拝の時間や00:34:46 またある職分を受ける為には、00:34:51 資格要件が生じるでしょう。00:34:53 教会ごとに多少違いはあるものの00:34:55 資格要件があります。00:34:57 それから奉仕、献身とかも00:35:02 それぞれがされるのです。00:35:04 そして一生懸命に奉仕をされるひとは立派な人、00:35:09 弱い人などと00:35:10 何で区分しますか。00:35:12 教会のそれぞれの規制に良く従えば、00:35:17 信仰の厚い人になれるわけです。00:35:20 立派な人と言われるでしょう。00:35:22 それに従わなければ、00:35:23 悪い人のなるのです。00:35:26 だからこの集団共同体は00:35:33 そういう規制は少ないほど良いのです。00:35:37 多ければ多いほど人々が真理から00:35:40 どんどん遠ざけるものです。00:35:44 そして規制に良く従えば、00:35:47 従った人自身はどう思うでしょうか。00:35:52 誇りを感じるでしょう。00:35:55 自分の義を満たしてくれるのです。
00:36:00 だからなるべくこの集団共同体は00:36:06 そういう集団倫理を作らないのが良いのです。00:36:09 しかし私たちも倫理が一つありますね。00:36:13 集う時間があるでしょう。00:36:14 集う時間が4時半というのをご存じですか。00:36:19 私たちの集う時間は4時半です。00:36:22 すると4時半より早く00:36:24 来られる方は立派で、00:36:27 遅く来られる方はちょっとみたいな00:36:32 区分付けるのはやめましょうということです。00:36:35 その意味を知っておきましょう。00:36:40 だから強調しない理由が00:36:44 そこにあるのです。00:36:45 私自身もそれを強調すると、00:36:48 皆さんも居心地悪くされるのです。00:36:51 そういうことに縛られてはいけません。00:36:54 集いに出なくも大丈夫です。00:36:56 遅れても良いのです。00:36:57 そういうものに縛られてはいけません。00:36:59 お仕事があれば出なく良いのです。00:37:04 つまり先ほど東の方の話しで出て来た言葉です。00:37:09 東の方という東側、00:37:11 東側はその神がおられる側であっていますが、00:37:18 ある部類はその場所にとんでもないものを積み上げるのです。00:37:25 巌の上に家を建てるのではなく、00:37:27 砂の上に家を建てているのです。00:37:29 それでは本文9節を見ましょう。00:37:34 創世記2章9節です。00:37:36 「また主なる神は、見て美しく、00:37:40 食べるに良いすべての木を土からはえさせ、00:37:42 更に園の中央に命の木と、00:37:45 善悪を知る木とをはえさせられた。」00:37:48 ここに深刻な誤りが一つあるのですよ。00:37:51 それは9節のことばを文字のまま見た時、00:38:01 木は何本に見えますか。00:38:03 二本に見えますね。00:38:05 しかしこの木は一本であることは00:38:08 すでに皆さんはご存じでしょう。00:38:10 だから説明が必要なのです。00:38:12 「また主なる神は、見て美しく、00:38:16 食べるに良い全ての木を土からはえさせ」となってるので、00:38:20 あのエデンという広い平地に見て美しく、00:38:32 食べるのに良い木がたくさんあると、00:38:35 思い想像するのです。00:38:38 園の中央と、エデンという00:38:45 その土には様々な木があって、00:38:49 その園の中央には00:38:52 命の木と善悪を知る木があるかのように00:38:56 見えるのです。00:38:58 ところが、その木は原語ヘブライ語で「エツ」と言います。00:39:07 木々と書くときは「エツイム」になります。00:39:10 「エツイム」、複数を現す木々という意味です。00:39:15 いまそのエデンに00:39:19 様々な木があると表現する為には、00:39:22 「エツイム」と書かなければなりません。00:39:26 しかしどれも「エツ」、単数になっています。00:39:33 そしてこの後に続く木の話も00:39:36 すべてが「エツ」の単数です。00:39:41 要は、エデンの園にある木の話は、00:39:43 つまり一本の木のことを説明しているということです。00:39:49 一本の木を説明していて00:39:52 「また主なる神は、見て美しく、00:39:58 食べるのに良いすべての木」となっていますが、00:40:00 「食べるのに」という単語が間違って使われたのです。00:40:06 「食べるのに」は、00:40:09 ヘブライ語の「マアカル」という00:40:10 「食べる」という単語があります。00:40:12 ここでは「マアカル」という単語が使われています。00:40:16 「マアカル」とは何かというと、00:40:18 糧という意味です。00:40:22 もちろん食べるに良い木と言っても00:40:24 間違いではありません。00:40:26 しかし「食べるに」を外して00:40:29 「糧」を入れ替えると意味が変わってきます。00:40:32 「糧に良い」になりますね。00:40:36 糧に良い木をはえさせられたという意味になります。00:40:40 このように訳した方がより正確です。00:40:43 ですからそのエデンには一本の木があって、00:40:48 その木は糧として食べるに00:40:51 良い木という意味です。00:40:54 その木だけが真の糧であるという意味です。00:40:59 他にも糧があるけれど、00:41:01 この木もまあ良い糧だ。00:41:03 という意味ではありません。00:41:05 この木だけが食べるべき糧だという意味です。00:41:10 そして出て来たことばが00:41:13 「園の中央には命の木と00:41:18 善悪を知る木とをはえさせられた。」00:41:23 さっきもお話ししたように00:41:24 木はすべてが単数になっています。00:41:26 「エツ」、つまり複数は「エツイム」と言いましたね。00:41:29 ところが「エツイム」という単語は00:41:33 一回も出て来ません。00:41:34 この箇所から3章までを見ても、00:41:38 一回も使われてません。00:41:39 この木はたった一つで、00:41:43 それをどのように訳したのかというと、00:41:46 命の木と善悪を知る木と00:41:49 訳した為、00:41:53 二本の木があるかのように見えたわけです。00:41:56 この箇所を正しく訳すならば、00:41:59 「命の木が善悪を知る木としてはえさせられた。」00:42:04 となるのです。00:42:07 この命の木が善悪を知る木としてはえさせられた。00:42:16 という意味です。00:42:17 すると木とは何でしょうか。00:42:18 善悪を知る木と命の木は00:42:23 何を象徴していますか。00:42:27 イエス・キリスト、ことばと同じ話です。00:42:33 聖書を真理として見るならば、命の木で、00:42:39 律法の行いとして見るならば善悪を知る木になります。00:42:44 しかしことばは一つですね。00:42:46 聖書のことばは一つでしょう。それと同じということです。00:42:52 ということで、次の週により詳細に00:42:58 この木について見て見たいと思います。
00:43:02 今日はここまでを見ることにして終わりたいと思います。00:43:07 この木はキリストであり、00:43:10 そのキリストを命として見る者がいれば、00:43:13 そのキリストを仕える対象として00:43:16 見る者がいます。00:43:22 だからこの命の木について、00:43:26 黙示録ではこのように言われています。00:43:30 私が読みましょう。00:43:31 黙示録2章7節を見ると、00:43:34 『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを00:43:37 聞くがよい。00:43:38 勝利を得る者には、神のパラダイスにある00:43:42 いのちの木の実を食べることをゆるそう。』00:43:45 パラダイスにある命の木、00:43:48 エデンがパラダイスだと言います。00:43:51 まさにこのことばを今00:43:53 再解釈してくれているのです。00:43:56 この命の木、善悪を知る木が00:44:01 パラダイスにある命の木で、00:44:03 それは勝利を得る者に与える実、00:44:07 キリスト、御霊を意味するのです。00:44:12 また、黙示録22章2節には、00:44:14 「都の大通りの中央を流れている。00:44:16 川の両側には命の木があって、00:44:20 十二種の実を結び、その実は毎月みのり、00:44:24 その木の葉は諸国民をいやす。」00:44:29 と書かれております。00:44:30 つまり毎月実り、00:44:36 その葉は00:44:38 諸国民を癒す為にあるということです。00:44:39 諸国民とは何でしょうか。00:44:43 諸国民は「私」です。00:44:46 聖書に万物が出て来たら、00:44:47 万物は「私」なのです。諸国民も私のことなのです。00:44:52 黙示録は私について書かれた話なのです。00:44:56 私を癒すのです。00:44:57 あのキリストのことば、命の御霊が00:45:02 私を癒すのです。00:45:04 毎月実を結ぶ実は何ですか。00:45:08 ことばと真理は一つなのに、00:45:13 色んな種に見える00:45:16 木があるでしょう、実、ことばがあります。00:45:20 今週に聞いていたことば、00:45:22 来週に聞くことば、00:45:24 月ごとに実を結ぶそういう実です。00:45:27 だから私たちが毎週集い、00:45:30 食べるでしょう。00:45:35 毎日のように食べているでしょう。00:45:45 だから恵みと真理はどこから来ましたか。00:45:58 イエス・キリストによって恵みと真理が与えられています。00:46:03 すると律法はどこから来ていますか。00:46:07 モーセから律法が来ています。00:46:10 しかしこの律法も00:46:14 モーセが与えたのではありません。00:46:16 へブル人への手紙に、御使いたちを通して語られたとあります。00:46:20 神が与えた一つのことばです。00:46:25 しかしある人は00:46:27 キリストの恵みと真理として受け入れ、00:46:31 ある人はモーセを通して00:46:34 シナイ山から与えられた00:46:35 律法として受け入れられる00:46:36 人がいるということです。00:46:38 それがひとりのアブラハムから00:46:41 サラ、ハガルを通して出て来た子たちが00:46:46 ふたりの子を説明しているみたいに00:46:49 同じ話なのです。00:46:51 それでは最後に一か所だけ見て00:46:54 終わりたいと思います。00:46:55 コリント第二13章5節です。00:47:00 大変重要なことばになるでしょう。00:47:03 コリント第二13章5節開きましたね。00:47:07 ご一緒に読みましょう。00:47:12 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、00:47:14 自分を反省し、自分を吟味するがよい。00:47:19 それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、00:47:21 悟らないのか。00:47:24 もし悟らなければ、あなたがたは、偽物として見捨てられる。」00:47:28 ちょっと怖く聞こえますが、00:47:31 ことば一節一節を見てみましょう。00:47:33 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、00:47:34 自分を反省し」で、00:47:36 反省はギリシャ語で「ペイラゾ」という単語で、00:47:40 つまり試験のことです。00:47:41 テストをするのです。00:47:44 自分で自分を00:47:45 テストしなさいということです。00:47:48 キリストが私の中にあるかどうか、00:47:51 これをテストしなさいということです。00:47:52 そうしてから「自分を吟味するがよい」で、00:47:57 吟味とは、ギリシャ語で「ドキマゾ」という単語で、00:48:00 ドキマゾとは何かというと、00:48:03 相手方に証拠として見せなさいという意味ではありません。00:48:08 自分で自分を分別しなさいという意味です。00:48:12 自分で自分の中にキリストがおられるかどうかをテストし、00:48:19 おられるかどうかを自分で00:48:21 分別しなさいということです。00:48:24 そして分別して見ると、00:48:29 イエス・キリストがあなたがたの中におられるかどうか、00:48:31 自分で知るか知らないかの00:48:34 どちらかでしょう。00:48:37 そうして知らなければ見捨てられるとなっているけれど、00:48:41 これは意訳したものです。00:48:42 「見捨てられた者だ」と、原語を見ると、00:48:51 ギリシャ語の「アドキモス」です。00:48:57 ドキモスは何ですか。合格です。00:49:01 ドキモスは合格なのですが、00:49:03 一番前にアをつけると、00:49:06 何々でないという意味になります。00:49:08 すると何ですか。不合格、00:49:13 自分で自分を試してみてキリストがおられないでしょう。00:49:17 そうすれば不合格という意味です。00:49:21 それでは何によってあの方がおられるか00:49:25 どうかを判別することが出来るのですか。00:49:31 私はこのような基準を置きたいと思うのです。00:49:35 使徒パウロの告白のように00:49:42 いっさいのものをふん土のように思っている00:49:49 私に有益だったもの00:49:52 それらが私に有益だったもの00:49:57 自分のいのちのように大事に寄り縋っていたすべてのものを
00:22:02 すでに心が貧しい人は00:22:05 天国が到来しているってことでしょう。00:22:07 だから私が天国に行くのではなく、00:22:10 死んでから行けるのが天国ではないということです。00:22:13 もちろん死んでも天国だし、00:22:15 今からが天国ってことです。00:22:16 この瞬間からが天国ってことで、00:22:23 天国がやって来るのです。00:22:24 だからこの信仰というのをかなり誤解しているのですが、00:22:31 この際しっかりまとめてから次に進みたいと思います。00:22:35 ローマ3章22節。00:22:41 誤解させやすい代表的な御言葉という00:22:44 ところでしょうか。00:22:47 「それは、イエス・キリストを信じる信仰による00:22:54 神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。00:22:57 そこにはなんらの差別もない。」00:22:59 ここで、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による」00:23:04 となっています。00:23:06 イエス・キリストを信じる信仰による」00:23:08 つまり誰が信じるってことですか。00:23:10 私が信じることでしょう。00:23:11 しかし原文からすれば、00:23:13 そのようにはなってません。00:23:15 この信仰という単語は00:23:16 ギリシャ語の「ピスティス」で、00:23:18 全てが所有格になっています。00:23:20 所有格とは何ですか。00:23:22 私が勝ち取るものではなく00:23:24 与えられて所有するようになったという00:23:27 意味の単語です。00:23:28 だから「キリストを」ではなく、00:23:34 キリストの信仰です。00:23:36 所有格なのでキリストの信仰によって00:23:43 私が信じる者になったという意味です。00:23:50 この箇所は英語訳が上手く訳されていますね。00:23:55 英語では所有格になっています。00:23:57 イエス・キリストの信仰です。00:24:01 それから「すべて信じる人に」で、00:24:06 「信じる者」は、ギリシャ語で「ピスティオ」です。00:24:09 信仰がギリシャ語の「ピスティス」ならば、00:24:11 ピスティオはその信仰を持つ者という意味です。00:24:17 つまりイエス・キリストは信仰で、00:24:20 その信仰が私に与えらえると、00:24:23 私がもはやその信仰を持つ者に00:24:25 なったということです。00:24:29 この状態が神の義になったということです。00:24:36 だからイエスを信じることで、00:24:37 天国に行くという意味ではなく、00:24:40 イエスの信仰によって00:24:43 イエスの信仰を持つことによって00:24:46 天国に行くと言うならば、00:24:48 少しは正解に近いでしょう。00:24:52 もう信仰がまとまりましたね。00:25:02 英語聖書にはそのようになっています。00:25:12 それから私たちが今まで、00:25:14 多く聞いて来た終末という話しです。00:25:20 この世はもう終わりだ。00:25:22 この世はいつかなくなると言います。00:25:28 いつ?イエス様が再臨されれば、00:25:33 この世は終わりと言いますね。00:25:34 それは地球に地震が起こって終わるのか、00:25:38 核爆弾によって終わるのか、00:25:41 そういう想像をしていたでしょう。00:25:43 また終わりの時の為、00:25:45 火を保管しておいたとか、00:25:46 そういう話しもあるからです。00:25:50 ですからこの世はいつか終わるのだと。00:25:55 イエス様が再臨されれば終わると。00:25:57 このように考えるのが一つのことばなのです。00:26:01 しかしそれらを真理の言葉に置き換えると、00:26:06 どうなるでしょうか。00:26:08 その世の滅亡とは何でしょうか。00:26:13 私が死ぬことでしょう。00:26:16 私が死ぬこと、つまり「タナトス」の死が臨まれば、00:26:24 キリストはどうなりますか。00:26:25 そのとき私に来られるのです。00:26:29 すべてがその話しなのです。00:26:31 それらは全て私の中で起こることです。00:26:35 それを文字的に受け止めれば、00:26:37 この世は滅び、00:26:39 イエス様を私たちの目に見える状態で00:26:41 この世に来られるのを00:26:44 再臨と考えているのです。00:26:46 見たままの姿で来られると書かれているからです。00:26:53 だから肉的なイエス・キリストが可視的に00:26:56 この世に来られると思っていた00:26:59 代表的な人々はどこに行きましたか。00:27:04 エルサレムのあるその地に来られると言われたので、00:27:09 バックトゥザイスラエルと言ながら行ったのです00:27:15 決して聖書的ではありません。00:27:16 本当にそのように可視的に来られる方であるならば、00:27:22 もうすでに来られてます。00:27:23 なぜ?2千年前の当時イエス・キリストを00:27:28 信じていた人々も00:27:30 誤解して待ち焦がれていたからです。00:27:35 つまり2千年前にも来られてないのに、00:27:39 もうすぐ来られると言うならば、00:27:42 今まで来られてないのに、00:27:43 神はどこか行っておられるか、それとも、00:27:45 眠っておられるかでしょう。00:27:49 彼らは待っているでしょう。00:27:51 その当時生きていた人々に00:27:55 おい、2千年も過ぎたのにまだ来てないよ。00:27:57 じゃあ鬱蒼だったのかよ。00:28:00 と思うでしょう。00:28:05 また私たちが教会に行っていると00:28:10 神のことばを良く守ろうとするでしょう。00:28:16 しかし神の言葉を00:28:18 守るなと言われる人は00:28:19 恐らくいないでしょう。00:28:21 守りなさいと言われますね。00:28:24 それはどの部分に誤りがあるのでしょうか。00:28:28 神のことばを守る。00:28:32 つまり心に刻み付けなさいということなのですが、00:28:36 行いとして守ることを教えてるでしょう。00:28:42 しかしこれを真理の言葉に置き換えると、00:28:46 神の言葉を心に刻みつけることと、00:28:50 神の言葉になることなのです。00:28:53 私たちという存在になるのです。00:28:58 このように直せば良いでしょう。
00:08:01 エデンの園をどこに設けられたとありますか。00:08:06 どこに?8節を再度見ましょう。00:08:10 東の方でしょう。00:08:12 東の方って何ですか。00:08:16 これは簡単に通り過ぎてしまいがちなのですが、00:08:20 これはちょっと大切なのです。00:08:24 なぜ東の方にエデンの園を設けられたでしょうか。00:08:30 設けられたという意味は00:08:32 立てた、植えたという意味です。00:08:34 それでは園をそこに立てられたのですが、00:08:38 東の方って何でしょうか。00:08:40 東の方はヘブライ語で「ケデム」です。00:08:43 言葉通り東の方、東側という意味です。00:08:46 東の方だけれど、別な意味としても使われています。00:08:53 昔むかしのとき、ヘブライ語の「ケデム」が00:08:59 そのまま使われるのです。00:09:01 また永遠な、永久的な00:09:04 という意味としても使われます。00:09:07 それでは永遠なものは何ですか。神の国00:09:14 永遠なのは神の国しかないでしょう。00:09:17 だから東の方のとき、00:09:20 この東の方は「永遠のある方向、東側」00:09:27 という意味が含まれているのです。00:09:32 東の博士は何の意味ですか。00:09:39 東洋から来た博士でしょうか。00:09:41 そういう意味ではないということですね。00:09:44 真理の国から来た。00:09:49 その永遠の国に属した人が来たのです。00:09:54 その東の方、東側は日が昇る方向です。00:09:59 日が昇る側は神のある永遠な国、00:10:04 そのことを指していると見受けられます。00:10:08 しかし要は、東側、東の方が同じ単語なのです。00:10:16 東の方と言っても良いし、00:10:17 東側と言っても良いのです。00:10:19 エデンの東側って、00:10:20 結構聞いてるでしょう。00:10:21 00:10:22 それが同じ単語「ケデム」というヘブライ語です。00:10:24 しかし東側というとき00:10:28 その永遠の国を誰でも憧れるでしょう。00:10:32 だからどの宗教も00:10:34 そこに向かっていくのです。00:10:40 東側、東の方と使われたからと言って、00:10:44 全てが真理にある人々ではありません。00:10:48 二つに分けられることがあるのです。00:10:50 一つの部類は砂の上に城を建てているのです。00:10:54 砂の上に建てた家という比喩があります。00:11:00 もう一つの部類は巌の上に建てる家です。00:11:06 ですから同じ地、00:11:09 その東側の地という所に00:11:12 ある部類は砂の上に家を建て、00:11:17 ある部類は巌の上に家を建てるのです。00:11:20 ということで創世記で代表的に00:11:25 その二つの部類を探して見ました。00:11:27 一つの部類は、創世記11章に出て来るのですが、00:11:33 私たちが良く知っているバベルの塔の出来事です。00:11:39 その部分を開いて見ましょう。00:11:43 創世記11章1節をご一緒に見ましょう。00:11:48 「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。00:11:51 そのころ、人々は東の方から移動してきて、00:11:56 スヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」00:11:59 つまりシヌアルの地に平地を見つけたのです。00:12:02 シヌアルの平地に何を建てるのかというと、00:12:06 塔を建てることになったのです。00:12:08 目的とは何でしょう。00:12:10 3節、「彼らは互いに言った。00:12:12 「さあ、れんがを作って良く焼こう。」00:12:15 彼らは石の代わりにれんがを用い、00:12:17 粘土の代わりに瀝青を用いた。」そのあとにずっと続きますね。00:12:21 つまりいま彼らは00:12:27 東側、東のほうに移動してきて、00:12:32 シヌアルの地に平地を見つけたのです。00:12:34 それでそこに定住し、00:12:38 そこに塔を建てたということでしょう。00:12:41 それを神がご覧になるのです。00:12:44 6節を見ると、00:12:46 「主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、00:12:49 一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、00:12:53 今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」00:12:59 ちょっと冷静に考えて見ましょう。00:13:02 この人々はみな、一つのことばといったでしょう。00:13:05 一つの話しことばだったのです。00:13:07 だから彼らは全地に散らされるといけないからということで、00:13:10 そこで一つに団結して生きるってことでしょう。00:13:13 神はそのことを悪く見られたのです。00:13:16 なぜ悪いでしょうか。00:13:18 一つのことばを話すことって良いことですか。悪いことですか。00:13:27 良さそうでしょう。00:13:29 一つのことばを使えば宣教も楽でしょう。00:13:34 ところでなぜ神は悪く見られたでしょうか。00:13:37 それは神との関係がなされず00:13:46 地にある見える00:13:51 そういうものと関係を結ぶってのは00:13:55 神に敵対することでしょう。00:14:00 しかしその敵対というのが00:14:03 私たちが考えるそういう敵対では00:14:05 ないでしょう。00:14:08 霊的なことばだからです。00:14:11 1節をもう一度見ましょう。00:14:13 「さて、全地は一つのことば、00:14:17 一つの話ことばであった。」とあります。00:14:20 全地は一つのことばと言うと、00:14:23 その当時いた全ての人々が00:14:28 一つのことばを使っていたということです。00:14:30 しかし一つのことば、00:14:34 一つの話しことばと言いました。00:14:36 つまりことばと話しことばはちょっと違った概念でしょう。00:14:40 ではことばは何でしょうか。ことばが一つという意味は、00:14:47 話し言葉が一つとは何ですか。
00:00:00 創世記2章8節~9節まで。
00:00:08 「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、
00:00:14 その造った人をそこに置かれた。
00:00:17 また主なる神は、見て美しく、
00:00:20 食べるに良い全ての木を土からはえさせ、
00:00:23 更に園の中央に命の木と、
00:00:26 善悪を知る木とをはえさせられた。」
00:00:30 アーメン。
00:00:33 今日初めてエデンの園と多く聞いていた、
00:00:39 エデンの園の名が出て来ました。
00:00:41 それから園にある
00:00:43 木の話しも出て来ます。
00:00:46 先週私たちが見ていた
00:00:49 地に雨を降らせず、
00:00:52 また土を耕す人もなかったでしょう。
00:00:56 しかしようやく雨が降って来たでしょう。
00:01:01 その降って来たものは何ですか。
00:01:04 神が土ちりで人を造り、
00:01:12 命の息をその鼻に吹き入れられた。
00:01:14 そこで人は生きた者となった。
00:01:15 これが雨が雨が降ったってことです。
00:01:18 アダムはもはや土を耕す人になったのです。
00:01:23 すると当然この人は
00:01:27 どういう存在になっていたってことですか。
00:01:31 先週聞いていたお話しで、このアダムは生きた者となったのですから、
00:01:38 つまり何になったってことですか。
00:01:39 神の子と神殿になったということです。
00:01:48 コリント第一3章16節で、
00:01:51 「あなたがたは神の宮であって」
00:01:53 つまりエデンの園の話しが出て来たのは、
00:01:57 当然順序上正しいのです。
00:01:59 アダムは自分の心に宮が造られると、
00:02:06 当然それはエデンであり園なのです。
00:02:11 だからエデンの園の話が出て来るというのは、
00:02:15 その宮の話をするわけです。
00:02:21 エデンの園と言うけれど、
00:02:24 新しいエルサレム、エルサレムはエルサレムで、
00:02:29 エデンの園、もちろんこれは
00:02:34 実際に可視的なことをもって
00:02:37 神が私たちに話したい
00:02:39 福音の話をされているので、
00:02:41 私たちにはエデンの園がどうのこうの
00:02:45 という問題ではありませんね。
00:02:46 私たちにエデンの園が
00:02:50 本当にあったというのと
00:02:53 私の救いとは何の関係もありません。
00:02:55 でしょう?だから私たちは聖書でその真理を発見し、
00:03:00 その真理が自分のものになれば、
00:03:03 それこそ主が私たちに向けられた
00:03:05 目的が成就するのです。
00:03:09 だから今日の御言葉を見る時、
00:03:12 昔むかし神が、
00:03:16 エデンの園を造られたんだって。
00:03:18 そこに二本の木を植えておき、
00:03:21 それを食べてはいけないという話しだよ。
00:03:24 そのようにおとぎ話として聞いて終わってしまっては
00:03:28 何の益もないということです。
00:03:30 それでは本文8節を再度見ましょう。
00:03:33 「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、
00:03:38 その造った人をそこに置かれた。」
00:03:42 エデンといったとき、
00:03:44 ヘブライ語は原文のままのエデンです。
00:03:50 しかし園という字は私たちの言葉に置き換えてますね。
00:03:55 元々園というとき原語は
00:03:58 ヘブライ語で「ガン」と言います。
00:04:02 エデンといったときは、平穏
00:04:06 それから喜びの地という意味があります。
00:04:13 それではエデンを何と読んだでしょうか。
00:04:16 楽園、喜びの園、喜びの地
00:04:22 という意味を持っています。
00:04:24 つまり神が最も喜ばれる
00:04:28 その地とは宮というものです。
00:04:32 私たちが宮になることが
00:04:34 神が最も喜ばれることなのです。
00:04:37 そういう意味からエデンは
00:04:38 宮を意味するのです。
00:04:41 それから「エデンに一つの園を設けて」と、
00:04:49 なっていますが、園は「ガン」と言いましたね。
00:04:51 「ガン」は英語で言うとガーデン、庭、
00:04:59 フェンスに囲まれている庭園という意味です。
00:05:04 つまり私たちの宮でいうならばエデンは聖殿であり
00:05:11 ヘブライ語の「ガン」は、庭園、庭、至聖所の
00:05:16 意味でしょう。
00:05:19 聖所と至聖所、
00:05:21 だからエデンというと範囲が広いのです。
00:05:25 聖殿という範囲もあり、
00:05:27 その中の至聖所と言うと、
00:05:31 園は至聖所に当たるでしょう。
00:05:36 至聖所に神の箱があるのですが、
00:05:41 御言葉、律法。それが命の木と善悪を知る木なのです。
00:05:48 さてエデンの園の中央に
00:05:49 木を生えさせたとありますね。
00:05:53 ヘブライ語の「ガン」は園と言いましたが、
00:05:58 「ガン、ベ、エデン」となっています。
00:06:00 エデンの園というと、「ガン、べ、エデン」となっていて、
00:06:06 ヘブライ語の「ベ」は、何々の中にという意味です。
00:06:10 ヘブライ語の「べレシト」で、その「ベ」は、何々の中に、
00:06:17 「レシト」は、「頭」で、
00:06:20 「ロシ」から出て来た由来した用語です。
00:06:23 始まりと最初という意味なのですが、
00:06:25 その内面的意味は「頭」です。
00:06:28 頭の中で始められるのが「初めに」と言ったでしょう。
00:06:34 「頭」頭は誰ですか。
00:06:37 イエス・キリスト、神、同じことばです。
00:06:41 その「ガン、ベ、エデン」は、
00:06:45 エデンの中にある園という意味です。
00:06:51 それがつまり聖殿ということです。
00:06:54 つまりその宮を設けられ、
00:07:02 「その造った人をそこに置かれた」とありますが。
00:07:06 その造られた人は誰ですか。
00:07:08 アダムです。「ハ・アダム」
00:07:11 そのアダムを園に置かれた
00:07:14 理由は何ですか。
00:07:17 15節を見るならば、
00:07:19 「主なる神は人を連れて行って
00:07:22 エデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」
00:07:29 アダムをエデンの園に置かれた理由は何ですか。
00:07:34 15節で、耕させ、これを守らせられる為
00:07:41 つまり私が今この世にいる
00:07:47 理由は何ですか。
00:07:49 耕させ、守るためなのです。
00:07:54 ところでここで一つ大切なことを見ましょう。
00:07:59 園を設けられたのですが、
00:15:16 つまりことばというのは、
00:15:19 話しことばになる根本です。
00:15:22 ことばが出て来る根本、
00:15:23 思想のことです。
00:15:26 その人の思考、考えなどが
00:15:29 そのようになっていることを言っています。
00:15:32 その思想を私たちのことばで話すとき、
00:15:39 キリスト教で言うならば、教理が同じということです。
00:15:43 キリスト教の教理は、一つの教理です。
00:15:49 一つの教理から出て来る言葉は同じでしょう。
00:15:53 世的なことばをもっています。
00:15:58 世的な考えを持っている人々が
00:16:01 一緒に対話をすると
00:16:03 その非真理の中でのコミュニケーションでしょう。
00:16:07 その状態のことを言っているのです。
00:16:09 だからその当時の人々の状態は
00:16:14 とても全く真理のない状態、
00:16:18 神に対するその真理が
00:16:21 全く悟れてない人々が
00:16:25 非真理として一つになっている
00:16:28 状態ということです。
00:16:30 その為、彼らが話すことも
00:16:32 非真理の中で彼らだけのコミュニケーションでしょう。
00:16:36 だから神がそれを悪いと言われたわけです。
00:16:44 そのことを嫌われたってことです。
00:16:45 その非真理のことばで一つになっていたからです。
00:16:49 放っておくとどうなるでしょうか。
00:16:52 真理はそのまま消えてしまうでしょう。
00:16:55 だから神が全地に散らされたのです。
00:16:58 その散らされる方法は何だったのですか。
00:17:01 ことばが通じなくすることだったのです。
00:17:05 例えば、
00:17:07 一つの教会に聖徒たちが
00:17:09 5千名いるとしましょう。
00:17:14 一つの教理から一つの教訓を受け、
00:17:18 全ての教会員が一つの言葉を話しているとします。
00:17:22 しかし神からすれば
00:17:25 非真理のことばであり、
00:17:27 その教理が非真理の教理だった場合、
00:17:30 神はそのことばを散らされるのです。
00:17:33 散らされる方法があるでしょう。
00:17:35 それを本文のことばで言うならば、
00:17:39 ことばで混乱させたということです。
00:17:42 するとその中に他の教理が入って来るのです。
00:17:46 神がある人に他の教理を植え付けると、
00:17:51 その人は別なことばを話すでしょう。
00:17:54 それが同じ非真理であるにもかかわらず
00:17:59 一つの教理から別な教理が出て来ると、
00:18:03 互いに争うようになります。
00:18:05 だから昔、長老教はメソジスト教と
00:18:10 コミュニケーションを取らなかったのです。
00:18:12 メソジストはウェスレー教理です。
00:18:16 長老教はカルヴァン主義で、
00:18:19 その代表的なのが世定論、そういう所が結構違うのです。
00:18:26 しかし今は平準化されていますね。
00:18:27 今は超教派的です。
00:18:31 今こそまさにことば、話しことばが一つです。
00:18:37 昔はヨイド純福音教会は
00:18:44 神の聖会が純福音教会なのですが、
00:18:51 何の教団ですか。
00:18:53 神の恵みと真理、五旬節派と言います。
00:19:06 彼らは異言で話さないと、
00:19:16 人間扱いされません。
00:19:18 犬も異言を語ると言い、
00:19:23 彼ら同士一つのことばになっています。
00:19:28 だから長老教では二、三回言われていましたよ。
00:19:31 その都度、あれは異端だと。
00:19:35 そうしているうちに
00:19:37 うやむやに受け入れ
00:19:40 今はそれら全てが受け入れられ皆が同じだと。
00:19:45 これが一つのことばなのです。
00:19:49 神は散らされるときどのようにされるのか。
00:19:54 新しい教理を登場させます。
00:19:58 しかしそれは皆が異端と言います。
00:20:04 しかしそっちが正しいと思う人は
00:20:06 そっちについていくでしょう。
00:20:08 またあそこが正しいと思う人は
00:20:10 あそこに行くでしょう。
00:20:11 ですから散らされるのです。
00:20:16 神の方法は、そのように使われるのです。
00:20:21 さて、今日非真理のことばが一つとなった
00:20:30 そういう事例を考えて見ましょう。
00:20:33 思い出せば発表してください。
00:20:39 例えば、イエスを信じることで天国に行く。
00:20:43 このことばは正しいですか。
00:20:45 間違った言葉ですか。
00:20:46 一旦は正しい言葉に聞こえます。
00:20:49 みなそのようになっているでしょう。
00:20:51 それが一つのことばです。
00:20:51 それが私がイエスを信じることで、
00:20:53 天国へ行くということです。
00:20:55 そのことばはどの教会でも
00:20:58 間違って言う教会はありません。A
00:21:00 つまりこのようになることでしょう。
00:21:03 私がイエスを信じれば、
00:21:05 天国に行くいうことでしょう。
00:21:08 つまり私が信じるというのが前提なので、
00:21:11 私の意志をもって信じるか信じないかによって
00:21:16 その救いは変わるでしょう。
00:21:20 つまりこれは正しいようでも
00:21:22 良く考えて見ると語弊があるのです。
00:21:25 つまりこのことを真理の言葉に置き換えると、
00:21:32 イエスを信じることで天国に行けるのではなく、
00:21:35 イエスになることで天国だ。
00:21:37 と言えるのです。
00:21:41 ことばが人となったイエス・キリスト
00:21:43 イエス様のように私もそういう状態になることで、
00:21:49 天国に行けるのではなく、
00:21:51 その心の状態が天国なのです。
00:21:55 心の貧しい者は天国がそのものである。
00:50:01 それらのものがふん土のように思っていると。
00:50:05 犬の糞のように見捨てる。
00:50:11 自分がそのように思っているかどうかを見なさいということです。
00:50:17 だから世の価値観は
00:50:22 真に価値がないということとして
00:50:24 私がそのことに気づき
00:50:26 そこからだんだん遠ざかって行ってるのか。
00:50:30 そのことを見ればキリストがおられるかどうか、
00:50:35 それが基準になるのではないか。
00:50:38 で、キリストがおられることを
00:50:40 ちょっと抽象的に考えることがあります。
00:50:44 例えば、幻を見る、
00:50:47 幻聴が聞こえる、神霊な夢を見る。
00:50:55 ということではありません。
00:50:58 決してそういうことではありません。
00:51:01 異言を言ったり、按手によって悪霊を追い出したとか
00:51:08 そういうことではありません。
00:51:12 それから良く祁答院に通う人もいますでしょう。
00:51:15 祁答院、みな悪霊に取りつかれているのですよ。
00:51:18 なぜかご存じですか。
00:51:21 一つだけお話ししましょう。
00:51:23 神はこの山に向かって動いて海に移れと、
00:51:29 からし種ほどの信仰さえあれば良いと言われました。
00:51:33 その山とは何ですか。
00:51:35 シオン山、まあいいでしょう。それを文字のまま見るとごく普通の山のことでしょう。
00:51:49 冠岳山、道峰山など、その山を移した人いますか。
00:51:52 今まで一人もなければ、からし種ほどの信仰はないのです。
00:51:56 その山は律法のことです。
00:52:00 それは律法で悪霊です。
00:52:01 山というと、
00:52:05 私たちは真っ先に
00:52:07 シナイ山を思い出さなければなりません。
00:52:09 シナイ山は律法を授かった山です。
00:52:13 それから山は何ですか。
00:52:16 イエス様が最初、
00:52:21 山上の垂訓のとき、どこでされましたか。
00:52:26 山で、「山へ登られた。」
00:52:31 ところが何の山なのかは出て来ません。
00:52:34 なぜ?イエス?あの方が山なので、
00:52:41 あの方ご自身が山だから
00:52:43 何の山とは言えないのですが、
00:52:46 しかしその山を追いかける人々は
00:52:50 すべてがシナイ山に属した人々、
00:52:53 律法に属した人々です。
00:52:57 つまりそこに属した代表的人が
00:53:01 サマリアの女です。
00:53:03 彼女の心の中には
00:53:05 あなたがたはエルサレムというあの丘、
00:53:10 丘ですね。シオン山で、
00:53:12 シオン山はエルサレムです。
00:53:15 その次の山はゲリジム山、
00:53:19 サマリア人たちが
00:53:23 礼拝していた所も山です。
00:53:25 しかしイエス様があの山でもこの山でもない。
00:53:30 霊とまことをもって父を礼拝する時が来る、
00:53:33 そうだ、今来ていると言われたでしょう。
00:53:35 だから祁答院に行っていたときを思い返すと、
00:53:38 祁答院って殆ど山にあるでしょう。
00:53:45 そこに行けば神に近づけると
00:53:47 思うのです。
00:53:49 人知れずまあそうだということです。
00:53:52 そして祁答院に行くと
00:53:54 私たちも霊的な人となって
00:53:56 来るような勘違いをするのです。
00:53:59 だから私も3日間断食祈祷をしたり
00:54:02 結構祁答院に行ってましたね。
00:54:04 また新正月や旧正月には必ず祁答院に行ってました。
00:54:09 本当に結構行ってましたね。
00:54:11 だから信仰があるかどうかは
00:54:13 そのキリストが私の中に入ってくること、
00:54:16 それが信仰の者と言ったでしょう。
00:54:19 つまりそれがからし種ほどの信仰なのです。
00:54:21 しかしその信仰が入って来ると、
00:54:24 何かが分かるようになるのです。
00:54:25 その律法が何か、真理が何か、
00:54:28 自分の中で分別が出来るのです。
00:54:30 まさに山が移されたということです。
00:54:37 その海は聖所に入って来られない
00:54:43 群れは海なのです。この世、
00:54:44 この世、キリスト教とは言えない
00:54:48 この世です。
00:54:50 この世に送ったという意味です。
00:54:53 豚たちに悪霊が入って
00:54:57 海におぼれ死んだでしょう。
00:55:00 そういう意味があるのです。
00:55:04 だから地も消え海も見えない。
00:55:12 黙示録に出て来ることばです。
00:55:15 つまり真理のことばによって
00:55:18 私が真理になれば、
00:55:23 その律法はすべて消えるようになります。
00:55:27 悪霊が追い出されるのです。
00:55:28 そのことが山が動いたことと、
00:55:32 同じ話です。
00:55:35 そのようになっているのを
00:55:37 自分で分かるのです。
00:55:39 その程度は分かるのです。
00:55:41 その状態が、キリストがおられるということです。
00:29:03 それから主日を良く守らなければならないと言いますね。
00:29:07 主日を良く守ること。
00:29:10 教会に行くと主日を良く守りなさいと言いますね。
00:29:13 世の教会でこのことを言われない所はないと思います。
00:29:15 それではこの言葉に誤りがあるってことを
00:29:20 説明すること出来ますか。
00:29:22 主日を守らなければならない。
00:29:25 それは日付を守ることなので、
00:29:30 教会に行かねばなりませんね。
00:29:36 元々主日という概念は安息から出て来たのです。
00:29:40 安息のある概念をもって
00:29:43 日付だけを変えたものです。
00:29:44 主が復活されたということで、
00:29:47 その日を守っているのですが、
00:29:49 週に一度ずつ本当に安息日を守っていたのです。
00:29:53 しかし文字的に見るとそうなのであって、
00:29:55 真理の言葉に置き換えると、どうなるのか。
00:30:00 毎日が安息日で毎日が主日です。
00:30:08 つまり安息を守るという概念は
00:30:10 週に一回守ると言う概念は
00:30:13 間違った概念です。
00:30:16 私たちは毎日主日として生きているでしょう。
00:30:19 それから什一献金のことも外すことが出来ませんね。
00:30:24 什一献金は必ず捧げるべきだと。
00:30:28 私たちはそのように学ばされました。
00:30:36 つまりこれを真理の言葉に置き換えると、
00:30:38 どうなるのか。
00:30:40 什一は私たち自身のことです。
00:30:46 イエス・キリストが什一となられ捧げられたのです。
00:30:53 そのように私も什一として
00:30:58 私自身を神に捧げるものです。
00:31:01 私自身を捧げるのです。
00:31:05 私のすべてのことを、
00:31:08 私の所有と言わず、
00:31:11 全てのもの、私に関連するすべてのこと、
00:31:14 私のいのちまでをも神に捧げるのが、
00:31:17 什一献金、什一という概念なのです。
00:31:21 だから10分の1というそういう概念として
00:31:25 考えてはいけません。
00:31:29 それから律法は廃するためではなく、
00:31:33 律法は完成された。
00:31:36 こういう概念、廃するためではないので、
00:31:40 律法は守るべきだと。
00:31:42 その代表的なのが十の戒めです。
00:31:46 十の戒めを守るべきだと言われるでしょう。
00:31:50 これらを真理のことばに置き換えると、
00:31:54 表面的律法は廃するのが正しいでしょう。
00:32:01 だから十の戒めというと、
00:32:02 その文字的な十の戒めは
00:32:05 私たちが良く知っている
00:32:06 そういう十の戒めではなかったでしょう。
00:32:09 その内面的な十の戒めとして
00:32:11 私たちが分かった時、
00:32:14 その内面的に気づくこと自体が
00:32:17 完成されたという意味です。
00:32:21 つまり律法が完成されたという
00:32:23 意味でもあるし、
00:32:26 律法が廃されたという
00:32:27 意味でもあります。
00:32:29 二つの意味が含まれているのです。
00:32:32 私たちは見分けることが出来ますね。
00:32:35 それから福音の核心を
00:32:39 教会ではどのように言っているのかというと、
00:32:41 イエスを信じれば天国に行くと言いますね。
00:32:45 祈りと礼拝と奉仕はなぜするのですか。
00:32:51 それらをすることによって
00:32:54 天国でご褒美が一つ一つ積み上げられることで、
00:32:58 この世で祝福されると、
00:33:03 教えているでしょう。
00:33:04 それが全地の一つのことばなのです。
00:33:08 それを真理に置き換えるとどうなるのか。
00:33:13 福音の核心とは何ですか。
00:33:16 なることでしょう。
00:33:18 その順序を言って見ましょう。
00:33:21 なる前に先ず何があるべきですか。
00:33:26 イエス・キリストと共に十字架で死に、
00:33:32 死ぬことでイエス・キリストと共に復活し、
00:33:35 その復活を味わうことでしょう。
00:33:39 これが福音の核心です。
00:33:41 しかしそのように学ばれましたか。
00:33:54 だからこういったものが結構多いのです。
00:33:58 考えて見ると今もそうなのですが、
00:34:02 時間もないので、この程度で終わりたいと思いますが、
00:34:05 重要なのは「集団」が作られるでしょう。
00:34:10 教会も集団で出来ていますね。
00:34:12 私たちの教会も小さな集団です。
00:34:13 集団が出来ると必ず
00:34:17 生じるのがあります。
00:34:19 集団的倫理です。
00:34:23 集団的な倫理は福音とは関係がありません。
00:34:28 しかし福音を入れる為に生じるものです。
00:34:32 時間が経つにつれて主客転倒するものです。
00:34:41 例えば、礼拝の時間や
00:34:46 またある職分を受ける為には、
00:34:51 資格要件が生じるでしょう。
00:34:53 教会ごとに多少違いはあるものの
00:34:55 資格要件があります。
00:34:57 それから奉仕、献身とかも
00:35:02 それぞれがされるのです。
00:35:04 そして一生懸命に奉仕をされるひとは立派な人、
00:35:09 弱い人などと
00:35:10 何で区分しますか。
00:35:12 教会のそれぞれの規制に良く従えば、
00:35:17 信仰の厚い人になれるわけです。
00:35:20 立派な人と言われるでしょう。
00:35:22 それに従わなければ、
00:35:23 悪い人のなるのです。
00:35:26 だからこの集団共同体は
00:35:33 そういう規制は少ないほど良いのです。
00:35:37 多ければ多いほど人々が真理から
00:35:40 どんどん遠ざけるものです。
00:35:44 そして規制に良く従えば、
00:35:47 従った人自身はどう思うでしょうか。
00:35:52 誇りを感じるでしょう。
00:35:55 自分の義を満たしてくれるのです。
00:36:00 だからなるべくこの集団共同体は
00:36:06 そういう集団倫理を作らないのが良いのです。
00:36:09 しかし私たちも倫理が一つありますね。
00:36:13 集う時間があるでしょう。
00:36:14 集う時間が4時半というのをご存じですか。
00:36:19 私たちの集う時間は4時半です。
00:36:22 すると4時半より早く
00:36:24 来られる方は立派で、
00:36:27 遅く来られる方はちょっとみたいな
00:36:32 区分付けるのはやめましょうということです。
00:36:35 その意味を知っておきましょう。
00:36:40 だから強調しない理由が
00:36:44 そこにあるのです。
00:36:45 私自身もそれを強調すると、
00:36:48 皆さんも居心地悪くされるのです。
00:36:51 そういうことに縛られてはいけません。
00:36:54 集いに出なくも大丈夫です。
00:36:56 遅れても良いのです。
00:36:57 そういうものに縛られてはいけません。
00:36:59 お仕事があれば出なく良いのです。
00:37:04 つまり先ほど東の方の話しで出て来た言葉です。
00:37:09 東の方という東側、
00:37:11 東側はその神がおられる側であっていますが、
00:37:18 ある部類はその場所にとんでもないものを積み上げるのです。
00:37:25 巌の上に家を建てるのではなく、
00:37:27 砂の上に家を建てているのです。
00:37:29 それでは本文9節を見ましょう。
00:37:34 創世記2章9節です。
00:37:36 「また主なる神は、見て美しく、
00:37:40 食べるに良いすべての木を土からはえさせ、
00:37:42 更に園の中央に命の木と、
00:37:45 善悪を知る木とをはえさせられた。」
00:37:48 ここに深刻な誤りが一つあるのですよ。
00:37:51 それは9節のことばを文字のまま見た時、
00:38:01 木は何本に見えますか。
00:38:03 二本に見えますね。
00:38:05 しかしこの木は一本であることは
00:38:08 すでに皆さんはご存じでしょう。
00:38:10 だから説明が必要なのです。
00:38:12 「また主なる神は、見て美しく、
00:38:16 食べるに良い全ての木を土からはえさせ」となってるので、
00:38:20 あのエデンという広い平地に見て美しく、
00:38:32 食べるのに良い木がたくさんあると、
00:38:35 思い想像するのです。
00:38:38 園の中央と、エデンという
00:38:45 その土には様々な木があって、
00:38:49 その園の中央には
00:38:52 命の木と善悪を知る木があるかのように
00:38:56 見えるのです。
00:38:58 ところが、その木は原語ヘブライ語で「エツ」と言います。
00:39:07 木々と書くときは「エツイム」になります。
00:39:10 「エツイム」、複数を現す木々という意味です。
00:39:15 いまそのエデンに
00:39:19 様々な木があると表現する為には、
00:39:22 「エツイム」と書かなければなりません。
00:39:26 しかしどれも「エツ」、単数になっています。
00:39:33 そしてこの後に続く木の話も
00:39:36 すべてが「エツ」の単数です。
00:39:41 要は、エデンの園にある木の話は、
00:39:43 つまり一本の木のことを説明しているということです。
00:39:49 一本の木を説明していて
00:39:52 「また主なる神は、見て美しく、
00:39:58 食べるのに良いすべての木」となっていますが、
00:40:00 「食べるのに」という単語が間違って使われたのです。
00:40:06 「食べるのに」は、
00:40:09 ヘブライ語の「マアカル」という
00:40:10 「食べる」という単語があります。
00:40:12 ここでは「マアカル」という単語が使われています。
00:40:16 「マアカル」とは何かというと、
00:40:18 糧という意味です。
00:40:22 もちろん食べるに良い木と言っても
00:40:24 間違いではありません。
00:40:26 しかし「食べるに」を外して
00:40:29 「糧」を入れ替えると意味が変わってきます。
00:40:32 「糧に良い」になりますね。
00:40:36 糧に良い木をはえさせられたという意味になります。
00:40:40 このように訳した方がより正確です。
00:40:43 ですからそのエデンには一本の木があって、
00:40:48 その木は糧として食べるに
00:40:51 良い木という意味です。
00:40:54 その木だけが真の糧であるという意味です。
00:40:59 他にも糧があるけれど、
00:41:01 この木もまあ良い糧だ。
00:41:03 という意味ではありません。
00:41:05 この木だけが食べるべき糧だという意味です。
00:41:10 そして出て来たことばが
00:41:13 「園の中央には命の木と
00:41:18 善悪を知る木とをはえさせられた。」
00:41:23 さっきもお話ししたように
00:41:24 木はすべてが単数になっています。
00:41:26 「エツ」、つまり複数は「エツイム」と言いましたね。
00:41:29 ところが「エツイム」という単語は
00:41:33 一回も出て来ません。
00:41:34 この箇所から3章までを見ても、
00:41:38 一回も使われてません。
00:41:39 この木はたった一つで、
00:41:43 それをどのように訳したのかというと、
00:41:46 命の木と善悪を知る木と
00:41:49 訳した為、
00:41:53 二本の木があるかのように見えたわけです。
00:41:56 この箇所を正しく訳すならば、
00:41:59 「命の木が善悪を知る木としてはえさせられた。」
00:42:04 となるのです。
00:42:07 この命の木が善悪を知る木としてはえさせられた。
00:42:16 という意味です。
00:42:17 すると木とは何でしょうか。
00:42:18 善悪を知る木と命の木は
00:42:23 何を象徴していますか。
00:42:27 イエス・キリスト、ことばと同じ話です。
00:42:33 聖書を真理として見るならば、命の木で、
00:42:39 律法の行いとして見るならば善悪を知る木になります。
00:42:44 しかしことばは一つですね。
00:42:46 聖書のことばは一つでしょう。それと同じということです。
00:42:52 ということで、次の週により詳細に
00:42:58 この木について見て見たいと思います。
00:43:02 今日はここまでを見ることにして終わりたいと思います。
00:43:07 この木はキリストであり、
00:43:10 そのキリストを命として見る者がいれば、
00:43:13 そのキリストを仕える対象として
00:43:16 見る者がいます。
00:43:22 だからこの命の木について、
00:43:26 黙示録ではこのように言われています。
00:43:30 私が読みましょう。
00:43:31 黙示録2章7節を見ると、
00:43:34 『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを
00:43:37 聞くがよい。
00:43:38 勝利を得る者には、神のパラダイスにある
00:43:42 いのちの木の実を食べることをゆるそう。』
00:43:45 パラダイスにある命の木、
00:43:48 エデンがパラダイスだと言います。
00:43:51 まさにこのことばを今
00:43:53 再解釈してくれているのです。
00:43:56 この命の木、善悪を知る木が
00:44:01 パラダイスにある命の木で、
00:44:03 それは勝利を得る者に与える実、
00:44:07 キリスト、御霊を意味するのです。
00:44:12 また、黙示録22章2節には、
00:44:14 「都の大通りの中央を流れている。
00:44:16 川の両側には命の木があって、
00:44:20 十二種の実を結び、その実は毎月みのり、
00:44:24 その木の葉は諸国民をいやす。」
00:44:29 と書かれております。
00:44:30 つまり毎月実り、
00:44:36 その葉は
00:44:38 諸国民を癒す為にあるということです。
00:44:39 諸国民とは何でしょうか。
00:44:43 諸国民は「私」です。
00:44:46 聖書に万物が出て来たら、
00:44:47 万物は「私」なのです。諸国民も私のことなのです。
00:44:52 黙示録は私について書かれた話なのです。
00:44:56 私を癒すのです。
00:44:57 あのキリストのことば、命の御霊が
00:45:02 私を癒すのです。
00:45:04 毎月実を結ぶ実は何ですか。
00:45:08 ことばと真理は一つなのに、
00:45:13 色んな種に見える
00:45:16 木があるでしょう、実、ことばがあります。
00:45:20 今週に聞いていたことば、
00:45:22 来週に聞くことば、
00:45:24 月ごとに実を結ぶそういう実です。
00:45:27 だから私たちが毎週集い、
00:45:30 食べるでしょう。
00:45:35 毎日のように食べているでしょう。
00:45:45 だから恵みと真理はどこから来ましたか。
00:45:58 イエス・キリストによって恵みと真理が与えられています。
00:46:03 すると律法はどこから来ていますか。
00:46:07 モーセから律法が来ています。
00:46:10 しかしこの律法も
00:46:14 モーセが与えたのではありません。
00:46:16 へブル人への手紙に、御使いたちを通して語られたとあります。
00:46:20 神が与えた一つのことばです。
00:46:25 しかしある人は
00:46:27 キリストの恵みと真理として受け入れ、
00:46:31 ある人はモーセを通して
00:46:34 シナイ山から与えられた
00:46:35 律法として受け入れられる
00:46:36 人がいるということです。
00:46:38 それがひとりのアブラハムから
00:46:41 サラ、ハガルを通して出て来た子たちが
00:46:46 ふたりの子を説明しているみたいに
00:46:49 同じ話なのです。
00:46:51 それでは最後に一か所だけ見て
00:46:54 終わりたいと思います。
00:46:55 コリント第二13章5節です。
00:47:00 大変重要なことばになるでしょう。
00:47:03 コリント第二13章5節開きましたね。
00:47:07 ご一緒に読みましょう。
00:47:12 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、
00:47:14 自分を反省し、自分を吟味するがよい。
00:47:19 それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、
00:47:21 悟らないのか。
00:47:24 もし悟らなければ、あなたがたは、偽物として見捨てられる。」
00:47:28 ちょっと怖く聞こえますが、
00:47:31 ことば一節一節を見てみましょう。
00:47:33 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、
00:47:34 自分を反省し」で、
00:47:36 反省はギリシャ語で「ペイラゾ」という単語で、
00:47:40 つまり試験のことです。
00:47:41 テストをするのです。
00:47:44 自分で自分を
00:47:45 テストしなさいということです。
00:47:48 キリストが私の中にあるかどうか、
00:47:51 これをテストしなさいということです。
00:47:52 そうしてから「自分を吟味するがよい」で、
00:47:57 吟味とは、ギリシャ語で「ドキマゾ」という単語で、
00:48:00 ドキマゾとは何かというと、
00:48:03 相手方に証拠として見せなさいという意味ではありません。
00:48:08 自分で自分を分別しなさいという意味です。
00:48:12 自分で自分の中にキリストがおられるかどうかをテストし、
00:48:19 おられるかどうかを自分で
00:48:21 分別しなさいということです。
00:48:24 そして分別して見ると、
00:48:29 イエス・キリストがあなたがたの中におられるかどうか、
00:48:31 自分で知るか知らないかの
00:48:34 どちらかでしょう。
00:48:37 そうして知らなければ見捨てられるとなっているけれど、
00:48:41 これは意訳したものです。
00:48:42 「見捨てられた者だ」と、原語を見ると、
00:48:51 ギリシャ語の「アドキモス」です。
00:48:57 ドキモスは何ですか。合格です。
00:49:01 ドキモスは合格なのですが、
00:49:03 一番前にアをつけると、
00:49:06 何々でないという意味になります。
00:49:08 すると何ですか。不合格、
00:49:13 自分で自分を試してみてキリストがおられないでしょう。
00:49:17 そうすれば不合格という意味です。
00:49:21 それでは何によってあの方がおられるか
00:49:25 どうかを判別することが出来るのですか。
00:49:31 私はこのような基準を置きたいと思うのです。
00:49:35 使徒パウロの告白のように
00:49:42 いっさいのものをふん土のように思っている
00:49:49 私に有益だったもの
00:49:52 それらが私に有益だったもの
00:49:57 自分のいのちのように大事に寄り縋っていたすべてのものを
00:22:02 すでに心が貧しい人は
00:22:05 天国が到来しているってことでしょう。
00:22:07 だから私が天国に行くのではなく、
00:22:10 死んでから行けるのが天国ではないということです。
00:22:13 もちろん死んでも天国だし、
00:22:15 今からが天国ってことです。
00:22:16 この瞬間からが天国ってことで、
00:22:23 天国がやって来るのです。
00:22:24 だからこの信仰というのをかなり誤解しているのですが、
00:22:31 この際しっかりまとめてから次に進みたいと思います。
00:22:35 ローマ3章22節。
00:22:41 誤解させやすい代表的な御言葉という
00:22:44 ところでしょうか。
00:22:47 「それは、イエス・キリストを信じる信仰による
00:22:54 神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。
00:22:57 そこにはなんらの差別もない。」
00:22:59 ここで、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による」
00:23:04 となっています。
00:23:06 イエス・キリストを信じる信仰による」
00:23:08 つまり誰が信じるってことですか。
00:23:10 私が信じることでしょう。
00:23:11 しかし原文からすれば、
00:23:13 そのようにはなってません。
00:23:15 この信仰という単語は
00:23:16 ギリシャ語の「ピスティス」で、
00:23:18 全てが所有格になっています。
00:23:20 所有格とは何ですか。
00:23:22 私が勝ち取るものではなく
00:23:24 与えられて所有するようになったという
00:23:27 意味の単語です。
00:23:28 だから「キリストを」ではなく、
00:23:34 キリストの信仰です。
00:23:36 所有格なのでキリストの信仰によって
00:23:43 私が信じる者になったという意味です。
00:23:50 この箇所は英語訳が上手く訳されていますね。
00:23:55 英語では所有格になっています。
00:23:57 イエス・キリストの信仰です。
00:24:01 それから「すべて信じる人に」で、
00:24:06 「信じる者」は、ギリシャ語で「ピスティオ」です。
00:24:09 信仰がギリシャ語の「ピスティス」ならば、
00:24:11 ピスティオはその信仰を持つ者という意味です。
00:24:17 つまりイエス・キリストは信仰で、
00:24:20 その信仰が私に与えらえると、
00:24:23 私がもはやその信仰を持つ者に
00:24:25 なったということです。
00:24:29 この状態が神の義になったということです。
00:24:36 だからイエスを信じることで、
00:24:37 天国に行くという意味ではなく、
00:24:40 イエスの信仰によって
00:24:43 イエスの信仰を持つことによって
00:24:46 天国に行くと言うならば、
00:24:48 少しは正解に近いでしょう。
00:24:52 もう信仰がまとまりましたね。
00:25:02 英語聖書にはそのようになっています。
00:25:12 それから私たちが今まで、
00:25:14 多く聞いて来た終末という話しです。
00:25:20 この世はもう終わりだ。
00:25:22 この世はいつかなくなると言います。
00:25:28 いつ?イエス様が再臨されれば、
00:25:33 この世は終わりと言いますね。
00:25:34 それは地球に地震が起こって終わるのか、
00:25:38 核爆弾によって終わるのか、
00:25:41 そういう想像をしていたでしょう。
00:25:43 また終わりの時の為、
00:25:45 火を保管しておいたとか、
00:25:46 そういう話しもあるからです。
00:25:50 ですからこの世はいつか終わるのだと。
00:25:55 イエス様が再臨されれば終わると。
00:25:57 このように考えるのが一つのことばなのです。
00:26:01 しかしそれらを真理の言葉に置き換えると、
00:26:06 どうなるでしょうか。
00:26:08 その世の滅亡とは何でしょうか。
00:26:13 私が死ぬことでしょう。
00:26:16 私が死ぬこと、つまり「タナトス」の死が臨まれば、
00:26:24 キリストはどうなりますか。
00:26:25 そのとき私に来られるのです。
00:26:29 すべてがその話しなのです。
00:26:31 それらは全て私の中で起こることです。
00:26:35 それを文字的に受け止めれば、
00:26:37 この世は滅び、
00:26:39 イエス様を私たちの目に見える状態で
00:26:41 この世に来られるのを
00:26:44 再臨と考えているのです。
00:26:46 見たままの姿で来られると書かれているからです。
00:26:53 だから肉的なイエス・キリストが可視的に
00:26:56 この世に来られると思っていた
00:26:59 代表的な人々はどこに行きましたか。
00:27:04 エルサレムのあるその地に来られると言われたので、
00:27:09 バックトゥザイスラエルと言ながら行ったのです
00:27:15 決して聖書的ではありません。
00:27:16 本当にそのように可視的に来られる方であるならば、
00:27:22 もうすでに来られてます。
00:27:23 なぜ?2千年前の当時イエス・キリストを
00:27:28 信じていた人々も
00:27:30 誤解して待ち焦がれていたからです。
00:27:35 つまり2千年前にも来られてないのに、
00:27:39 もうすぐ来られると言うならば、
00:27:42 今まで来られてないのに、
00:27:43 神はどこか行っておられるか、それとも、
00:27:45 眠っておられるかでしょう。
00:27:49 彼らは待っているでしょう。
00:27:51 その当時生きていた人々に
00:27:55 おい、2千年も過ぎたのにまだ来てないよ。
00:27:57 じゃあ鬱蒼だったのかよ。
00:28:00 と思うでしょう。
00:28:05 また私たちが教会に行っていると
00:28:10 神のことばを良く守ろうとするでしょう。
00:28:16 しかし神の言葉を
00:28:18 守るなと言われる人は
00:28:19 恐らくいないでしょう。
00:28:21 守りなさいと言われますね。
00:28:24 それはどの部分に誤りがあるのでしょうか。
00:28:28 神のことばを守る。
00:28:32 つまり心に刻み付けなさいということなのですが、
00:28:36 行いとして守ることを教えてるでしょう。
00:28:42 しかしこれを真理の言葉に置き換えると、
00:28:46 神の言葉を心に刻みつけることと、
00:28:50 神の言葉になることなのです。
00:28:53 私たちという存在になるのです。
00:28:58 このように直せば良いでしょう。
00:08:01 エデンの園をどこに設けられたとありますか。
00:08:06 どこに?8節を再度見ましょう。
00:08:10 東の方でしょう。
00:08:12 東の方って何ですか。
00:08:16 これは簡単に通り過ぎてしまいがちなのですが、
00:08:20 これはちょっと大切なのです。
00:08:24 なぜ東の方にエデンの園を設けられたでしょうか。
00:08:30 設けられたという意味は
00:08:32 立てた、植えたという意味です。
00:08:34 それでは園をそこに立てられたのですが、
00:08:38 東の方って何でしょうか。
00:08:40 東の方はヘブライ語で「ケデム」です。
00:08:43 言葉通り東の方、東側という意味です。
00:08:46 東の方だけれど、別な意味としても使われています。
00:08:53 昔むかしのとき、ヘブライ語の「ケデム」が
00:08:59 そのまま使われるのです。
00:09:01 また永遠な、永久的な
00:09:04 という意味としても使われます。
00:09:07 それでは永遠なものは何ですか。神の国
00:09:14 永遠なのは神の国しかないでしょう。
00:09:17 だから東の方のとき、
00:09:20 この東の方は「永遠のある方向、東側」
00:09:27 という意味が含まれているのです。
00:09:32 東の博士は何の意味ですか。
00:09:39 東洋から来た博士でしょうか。
00:09:41 そういう意味ではないということですね。
00:09:44 真理の国から来た。
00:09:49 その永遠の国に属した人が来たのです。
00:09:54 その東の方、東側は日が昇る方向です。
00:09:59 日が昇る側は神のある永遠な国、
00:10:04 そのことを指していると見受けられます。
00:10:08 しかし要は、東側、東の方が同じ単語なのです。
00:10:16 東の方と言っても良いし、
00:10:17 東側と言っても良いのです。
00:10:19 エデンの東側って、
00:10:20 結構聞いてるでしょう。
00:10:21
00:10:22 それが同じ単語「ケデム」というヘブライ語です。
00:10:24 しかし東側というとき
00:10:28 その永遠の国を誰でも憧れるでしょう。
00:10:32 だからどの宗教も
00:10:34 そこに向かっていくのです。
00:10:40 東側、東の方と使われたからと言って、
00:10:44 全てが真理にある人々ではありません。
00:10:48 二つに分けられることがあるのです。
00:10:50 一つの部類は砂の上に城を建てているのです。
00:10:54 砂の上に建てた家という比喩があります。
00:11:00 もう一つの部類は巌の上に建てる家です。
00:11:06 ですから同じ地、
00:11:09 その東側の地という所に
00:11:12 ある部類は砂の上に家を建て、
00:11:17 ある部類は巌の上に家を建てるのです。
00:11:20 ということで創世記で代表的に
00:11:25 その二つの部類を探して見ました。
00:11:27 一つの部類は、創世記11章に出て来るのですが、
00:11:33 私たちが良く知っているバベルの塔の出来事です。
00:11:39 その部分を開いて見ましょう。
00:11:43 創世記11章1節をご一緒に見ましょう。
00:11:48 「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
00:11:51 そのころ、人々は東の方から移動してきて、
00:11:56 スヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」
00:11:59 つまりシヌアルの地に平地を見つけたのです。
00:12:02 シヌアルの平地に何を建てるのかというと、
00:12:06 塔を建てることになったのです。
00:12:08 目的とは何でしょう。
00:12:10 3節、「彼らは互いに言った。
00:12:12 「さあ、れんがを作って良く焼こう。」
00:12:15 彼らは石の代わりにれんがを用い、
00:12:17 粘土の代わりに瀝青を用いた。」そのあとにずっと続きますね。
00:12:21 つまりいま彼らは
00:12:27 東側、東のほうに移動してきて、
00:12:32 シヌアルの地に平地を見つけたのです。
00:12:34 それでそこに定住し、
00:12:38 そこに塔を建てたということでしょう。
00:12:41 それを神がご覧になるのです。
00:12:44 6節を見ると、
00:12:46 「主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、
00:12:49 一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、
00:12:53 今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」
00:12:59 ちょっと冷静に考えて見ましょう。
00:13:02 この人々はみな、一つのことばといったでしょう。
00:13:05 一つの話しことばだったのです。
00:13:07 だから彼らは全地に散らされるといけないからということで、
00:13:10 そこで一つに団結して生きるってことでしょう。
00:13:13 神はそのことを悪く見られたのです。
00:13:16 なぜ悪いでしょうか。
00:13:18 一つのことばを話すことって良いことですか。悪いことですか。
00:13:27 良さそうでしょう。
00:13:29 一つのことばを使えば宣教も楽でしょう。
00:13:34 ところでなぜ神は悪く見られたでしょうか。
00:13:37 それは神との関係がなされず
00:13:46 地にある見える
00:13:51 そういうものと関係を結ぶってのは
00:13:55 神に敵対することでしょう。
00:14:00 しかしその敵対というのが
00:14:03 私たちが考えるそういう敵対では
00:14:05 ないでしょう。
00:14:08 霊的なことばだからです。
00:14:11 1節をもう一度見ましょう。
00:14:13 「さて、全地は一つのことば、
00:14:17 一つの話ことばであった。」とあります。
00:14:20 全地は一つのことばと言うと、
00:14:23 その当時いた全ての人々が
00:14:28 一つのことばを使っていたということです。
00:14:30 しかし一つのことば、
00:14:34 一つの話しことばと言いました。
00:14:36 つまりことばと話しことばはちょっと違った概念でしょう。
00:14:40 ではことばは何でしょうか。ことばが一つという意味は、
00:14:47 話し言葉が一つとは何ですか。