ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
この御書は短いけれども、内容は深いものがあります。其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給候、又何よりも重宝たるあし山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候。 夫について経王御前の事・二六時中に日月天に祈り申し候、先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ、其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり、師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし、いかなる処にて遊びたはぶるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。 経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん、又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎ・いそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし、法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申し候、浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。 八月十五日 日蓮花押 経王御前御返事其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給(たび)候昔は、電報とか電話とかがありませんから、その後どうしたであろうと思っていたというのです。そこへ、人をつかわして、このたびの訪れがあった。このように大聖人様はお喜びであるけれども、その内容たるや、わが子の病気を御祈念願おうというお手紙であるゆえに、ご心配があるのです。又何よりも重宝たるあし山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候御供養に対するお礼です。金吾殿からお金をたてまつったのです。四条金吾殿という方は、大聖人様が、由比ケ浜辺で首を斬られるならば、自分も追い腹切って死のうとした方です。この方は、ご家老の身分ですから、たてまつるものはたいてい金なのです。 「いま、日蓮が貧乏している。そのときに、この金をもらったのは、まことにありがたい」といわれるのは、大聖人様がお使いになるのではなく、折伏にだす弟子たちにやるお金がないところに、そこへいただいたことは、ありがたいというお言葉です。夫(それ)について経王御前(ごぜ)の事・二六時中に日月天に祈り申し候経王殿とは四条金吾殿の子供だろうと思う。その子が、病弱であるか、あるいはなにかのお願いであるか、大聖人様が、天地神明に誓って、大聖人様のお心に思いをこめて祈ると仰せられているのです。このあいだも、東京で、こういう話があった。臨時総会を開いたときに、こんど大阪で、私の精神に反した連中を除名処分にした。ところが「除名処分だけでは、あきたらない」とこういう者がいた。あきたらないといっても、それ以外に私に力はありません。なぐるわけにも、けとばすわけにもゆかない。だが、戸田城聖の除名処分を受け、満足にこの人生を送る者があったら、私の命にかけてもお目にかける(大拍手)。諸君らも、私の除名処分にだけは、ならないようにしなさい。私の除名処分は、たんなる名目の除名処分であるとしても、仏法律からいって、力があるのです。それで満足にこの世の中が送れたら、除名処分の資格はありません。そういう者は一人もいないのです。この前に、いまから四、五年前だったと思うけれども、仙台の原ノ町というところで、班長ですけれども、四、五十人の会員をもっていた。なにかインチキをやりたくなったので、会員はわからないのだが、上の五人ほどの者が、学会脱退を申し出てきたのです。「よろしい。戸田城聖に弓をひいて、満足な生活ができるなら、やってみなさい」といった。案の定です。君らが行って調べてきたほうが早い。大聖人様が経王殿のことを、日夜お祈りくださった。私も本山でよく御祈念をいたしますが、「祈りとして叶わざるなし」です。しかしそれも信心の程度によるのです。もったいないけれども、戸田城聖が大御本尊様にお願い申し上げて、叶わぬことはない。ましてや御本尊様御自体に偉大なお力があるのです。経王殿の命をどこまでお助けあそばしたか、必ず祈りが叶っているはずです。先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へお守り御本尊様を授けてあるのですから、体から離さず、身につけておきなさいとおっしゃるのです。其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕(あらわ)し奉る事たえたり 正法というのは釈尊滅後千年のあいだ、像法というのは釈尊滅後二千年の間に、誰も書き顕したものがないという。そのお守り御本尊様を、いま顕して、あなたに授けたのだから、体から離してはあいならんぞと、おっしゃっているのです。師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり ライオンの働きを、お示しになって、大聖人様も、それと同じだと仰せられているのです。たとえ、小さな物をとるときでも、前へ三歩出て、後へまた一歩退(ひ)いて、それから襲いかかっていくという。それと同じ心をもって書き顕した御本尊であるからして、これを大事にしなさいという御教訓であります。日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからずいま大聖人様が、大御本尊様をおしたためあそばされた境地というものは、獅子王にも劣らぬ用心をもって、したためてあるというのです。
経に云く「師子奮迅(ふんじん)之力」とは是なり獅子奮迅の力というのは、法華経の従地涌出品にあらわされた言葉であります。「師子奮迅の心をもって、真実を今まさに語らん」とおっしゃった時の、経文をお引きになっているのです。又此の曼荼羅(まんだら)能(よ)く能(よ)く信ぜさせ給うべし曼荼羅というのは、功徳聚(くどくじゅ)ともいいます。曼荼羅というのは、梵語(ぼんご)でありまして、功徳の集まりと読むのです。みなさんのお家に、まつってある御本尊様のことを申し上げるのです。その御本尊様を、よくよく信じよということです。南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや獅子は、けだもののなかでは、一番力のあるものです。獅子の吠(ほ)ゆるがごとき、力をもつのです。南無妙法蓮華経と唱えるその声は、獅子の吠ゆるがごとき勢いをもつものであると、大聖人様が仰せられているのです。鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたりこれは、法華経の陀羅尼品(だらにほん)第二十六にある誓いなのです。鬼子母神というのは、人の子供を食うのです。十羅刹女とは、鬼子母神の十人の子供で、羅刹というのも鬼のことです。それらが、南無妙法蓮華経と唱える者を、必ず護(まも)るという誓いを陀羅尼品でしているのです。それを大聖人様がお引きになっていらっしゃるのです。さいはいは愛染(あいぜん)の如く福は毘沙門(びしゃもん)の如くなるべし愛染明王、毘沙門天、これは多聞天(たもんてん)ともいいますが、御本尊様の左の肩の上に、おしたためになられている、天界の力の強い衆生です。それらのように、南無妙法蓮華経と唱えるならば、その功徳は、この体に集まると仰せられているのです。いかなる処にて遊びたはぶるとも・つつがあるべからず遊行(ゆぎょう)して畏(おそ)れ無きこと師子王の如くなるべしどこで、経王殿が遊んでおられようとも、この御本尊を体につけているならば、獅子王のごとく、誰人も体に手をつけられない。つつがなくおられるであろうから、安心して、この御本尊を体につけてやりなさいとの仰せです。十羅刹女の中にも皐諦女(こうだいにょ)の守護ふかかるべきなり皐諦女というのは、十羅刹女の中の一番の姉さんで、その皐諦女が必ず護(まも)ってるからして、安心していなさいと仰せなのです。但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なししかし、それも親の信心がもとだと言われるのです。親がしっかりと、信心をしていきなさいというのです。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし法華経の功徳の剣(つるぎ)というものは、信心のある者が使えるのであって、信心のない者には使いようがないというのです。夫婦ゲンカなどに鬼にカナボウなどと、火箸(ひばし)なんか持って、こられたのではたいへんです(笑い)。そういうカナボウではない。鬼がどんなに強いといっても、カナボウがなくては戦えないのですから、法華経の剣も、それと同じであるぞとおっしゃっているのです。日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ御本尊のことです。大聖人様の御生命(いのち)を、墨に染め流して書きて候ぞ、しっかり信じなさいと、こうおっしゃっているのです。仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなしここが、めんどうな読み方なのです。仏というのは、釈迦仏をいっているのです。釈迦如来は法華経をもって生命(いのち)とし、大聖人様は、南無妙法蓮華経をもって生命となさっていらっしゃる。ここに、釈迦仏法と大聖人様の仏法との相違を明らかにお示しになっている。いまの邪宗の僧侶には、これが読めないのです。法華経だ、法華経だと思っている。 これほどはっきりした違いが、読めてもよさそうなものだと思うのですが、勉強をしない者は読めない。読めない者には、しかたがないから教えるけれども、それでも、まだわからない者がある。みなさんぐらいは、これを覚えておきなさい。
妙楽云く「顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)を以て其の命と為す」と釈し給う妙楽という方は、天台より約二百年後に生まれた人でありますが、法華経の学問では、天台か、妙楽か、日本では伝教かと言われているほどの人です。顕本遠寿というのは、われわれの生命論を論じたものであります。 われわれの生命(いのち)というものは、顕本、もとをただせば、遠寿であると。遠い昔に生命があったんだと。仏はもちろんです。十億劫とかいう短い声明では、仏になれないといわれている。仏というのは顕本遠寿。それが寿量品の極理なのです。それを妙楽はこういっていると、大聖人様は、妙楽の文を用いて説明するのです。経王御前には・わざはひも転じて幸となるべしすなわち禍(わざわ)いが起こる、その禍いを福としなければならない。いま体の弱いことをもって、こんどは丈夫な体にしなければいけないと、それを変毒為薬(へんどくいやく)とします。毒を変じて薬となす。これが妙法蓮華経の極理であります。あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へだからここで、御本尊を信じきらなければならないというご説法であります。何事か成就せざるべき、「充満其願(じゅうまんごがん)如清涼池(にょしょうりょうち)・現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」疑なからんここで信心を強くしたならば、現在は幸福になり、後の世は幸せなところへ生まれることは疑いのないことであります。法華経の薬王品の言葉をお用いになっているのでありますが、これは実際の問題なのです。又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎ・いそぎ鎌倉へ上(のぼ)り見参いたすべし急ぎ鎌倉へよって、何事かあらば勤めなさい。武士としての仕事に精励せよということです。いまの言葉でいえば、商売をきちんとやりなさいということです。豆腐屋は豆腐屋、米屋は米屋、魚屋は魚屋で、商売をきちんとやりなさいとの仰せです。法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命(ろめい)計(ばか)りなり天たすけ給へと強盛(ごうじょう)に申し候法華経の功徳は、商売や日常生活に現れるけれども、ただ問題は命の問題です。この御書から拝しますと、経王殿はきっと弱かったのでしょう。ただ天たすけたまえ、御本尊様お助けくださいと祈る以外に道はないぞと仰せなのです。私も時おり、命の危ない人から、いろいろ言われることがあって、御本尊様へお願い申し上げるときがあります。だが、命ばかりは、金では買えません。御本尊様でも、時によってはお助けいただけないときもある。向島支部の支部長は、いま若い人ですけれども、前に、そのお父さんがやっていた時に、この父親がインチキ者なのです。支部長でいながらインチキばかりやっていたのです。そうしたところが、いよいよ病気になって、ぼくに詫(わ)びにきたいというのです。気にかけていて、飯も一か月くらい食わないでいるというのだから、かわいそうで私のところへこいと言うわけにいかないのです。医者はもうぜんぜんダメだと言い、死ぬばかりなのです。「そんな無理をさせるな。では私が行ってやろう」と私が行ってやりました。場合にもよりけりですが、命ばかりは助けられません。もう何にも食べないし、ぜんぜんダメなのです。そこで御本尊様へ、三言、お願いしたのです。そうしたら「飯を食べたい」と言いだしたのです(笑い)。奥さんが、リンゴの汁(しる)なんかを湯飲みに入れ、飲ましたら、三口ほど飲んだ。焼酎(しょうちゅう)ばかり飲んでた人だから、「何だ、お前」と私が言った。「そんなもの飲んで、平気なのか。焼酎でも飲むようになれよ」と言ったら、「へへへ…」と笑っていました(笑い)。そうしたら奥さんが、ワーッと泣きだした。オヤジさんが笑ったのは、何十日ぶりだって言うのです。とうとう治って、僕のところへあいさつにきたのです。みんなは、幽霊ではないかと言うのです。 それから私は、女房や子供に言ったのです。「これは治ったのではない。死ぬ前の状況だ。死ぬから」と。案の定、年の暮れの三十一日に死んだ。正月の葬式です。だけど、いっぺんは、治ってあいさつにきたのです。御本尊の功力というものは、すごいものです。私がやったのではないのです。御本尊様に頼んだから、してくださったのです。ひとつ私のほうも、先生が頼んで借金取りが来ないようにしてくれなどと、言ったってだめです(笑い)。浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。 八月十五日 日蓮花押 経王御前御返事浄徳夫人については、またおもしろい話があるのです。これは法華経の妙荘厳王品(みょうしょうごんのうぼん)というところに出てくる人の名前なのですけれども、浄徳夫人というのは、おもしろい奥さんです。何遍も話したと思いますが、昔、四人の同志がいて、仏になろうという研究会をやっていたのです。いまの座談会みたいなものです。食べるのが忙しいから「だれか一人、弁当係をやれ」ということになった。一人が「私がやろう」と言った。「ただし、あなた方が仏になったら、私を助けるのだよ」という約束をした。そうすると、その弁当係をやった男が、来世に、妙荘厳王という王様に生まれたのです。仏の修行をする者に供養した功徳なのです。その他の三人が、一人は浄徳夫人という奥さんに生まれ、二人は、浄蔵、浄眼という息子に生まれてきた。そうして、とうとう妙荘厳王を法華経に帰依(きえ)させて、仏の力を得させたのです。 竜女というのは、また別な話でありますけれども、そういうふうに、女でも仏になることができる。それと同様に、あなたもおやりなさいよという、大聖人様の御説法です。
ごしよの解説ありがとうございますしつかりまなんでいきます
戸田先生のご指導引き込まれます✨🍀✨
戸田先生の大確信凄い❗
日蓮大聖人様🎉牧口先生🎉戸田先生🎉池田先生🎉ありがとうございます🌈🌈🌈
戸田先生ありがとうございます😭
生まれ変わったてたら出会いたい😊🎉
むつかしいなあ〜
この御書は短いけれども、内容は深いものがあります。
其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給候、又何よりも重宝たるあし山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候。
夫について経王御前の事・二六時中に日月天に祈り申し候、先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ、其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり、師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし、いかなる処にて遊びたはぶるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。
経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん、又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎ・いそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし、法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申し候、浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。
八月十五日 日蓮花押
経王御前御返事
其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給(たび)候
昔は、電報とか電話とかがありませんから、その後どうしたであろうと思っていたというのです。そこへ、人をつかわして、このたびの訪れがあった。
このように大聖人様はお喜びであるけれども、その内容たるや、わが子の病気を御祈念願おうというお手紙であるゆえに、ご心配があるのです。
又何よりも重宝たるあし山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候
御供養に対するお礼です。金吾殿からお金をたてまつったのです。四条金吾殿という方は、大聖人様が、由比ケ浜辺で首を斬られるならば、自分も追い腹切って死のうとした方です。この方は、ご家老の身分ですから、たてまつるものはたいてい金なのです。
「いま、日蓮が貧乏している。そのときに、この金をもらったのは、まことにありがたい」といわれるのは、大聖人様がお使いになるのではなく、折伏にだす弟子たちにやるお金がないところに、そこへいただいたことは、ありがたいというお言葉です。
夫(それ)について経王御前(ごぜ)の事・二六時中に日月天に祈り申し候
経王殿とは四条金吾殿の子供だろうと思う。その子が、病弱であるか、あるいはなにかのお願いであるか、大聖人様が、天地神明に誓って、大聖人様のお心に思いをこめて祈ると仰せられているのです。
このあいだも、東京で、こういう話があった。
臨時総会を開いたときに、こんど大阪で、私の精神に反した連中を除名処分にした。ところが「除名処分だけでは、あきたらない」とこういう者がいた。あきたらないといっても、それ以外に私に力はありません。なぐるわけにも、けとばすわけにもゆかない。
だが、戸田城聖の除名処分を受け、満足にこの人生を送る者があったら、私の命にかけてもお目にかける(大拍手)。諸君らも、私の除名処分にだけは、ならないようにしなさい。私の除名処分は、たんなる名目の除名処分であるとしても、仏法律からいって、力があるのです。それで満足にこの世の中が送れたら、除名処分の資格はありません。そういう者は一人もいないのです。
この前に、いまから四、五年前だったと思うけれども、仙台の原ノ町というところで、班長ですけれども、四、五十人の会員をもっていた。なにかインチキをやりたくなったので、会員はわからないのだが、上の五人ほどの者が、学会脱退を申し出てきたのです。「よろしい。戸田城聖に弓をひいて、満足な生活ができるなら、やってみなさい」といった。案の定です。君らが行って調べてきたほうが早い。
大聖人様が経王殿のことを、日夜お祈りくださった。私も本山でよく御祈念をいたしますが、「祈りとして叶わざるなし」です。しかしそれも信心の程度によるのです。
もったいないけれども、戸田城聖が大御本尊様にお願い申し上げて、叶わぬことはない。ましてや御本尊様御自体に偉大なお力があるのです。経王殿の命をどこまでお助けあそばしたか、必ず祈りが叶っているはずです。
先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ
お守り御本尊様を授けてあるのですから、体から離さず、身につけておきなさいとおっしゃるのです。
其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕(あらわ)し奉る事たえたり
正法というのは釈尊滅後千年のあいだ、像法というのは釈尊滅後二千年の間に、誰も書き顕したものがないという。そのお守り御本尊様を、いま顕して、あなたに授けたのだから、体から離してはあいならんぞと、おっしゃっているのです。
師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり
ライオンの働きを、お示しになって、大聖人様も、それと同じだと仰せられているのです。たとえ、小さな物をとるときでも、前へ三歩出て、後へまた一歩退(ひ)いて、それから襲いかかっていくという。それと同じ心をもって書き顕した御本尊であるからして、これを大事にしなさいという御教訓であります。
日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず
いま大聖人様が、大御本尊様をおしたためあそばされた境地というものは、獅子王にも劣らぬ用心をもって、したためてあるというのです。
経に云く「師子奮迅(ふんじん)之力」とは是なり
獅子奮迅の力というのは、法華経の従地涌出品にあらわされた言葉であります。「師子奮迅の心をもって、真実を今まさに語らん」とおっしゃった時の、経文をお引きになっているのです。
又此の曼荼羅(まんだら)能(よ)く能(よ)く信ぜさせ給うべし
曼荼羅というのは、功徳聚(くどくじゅ)ともいいます。曼荼羅というのは、梵語(ぼんご)でありまして、功徳の集まりと読むのです。みなさんのお家に、まつってある御本尊様のことを申し上げるのです。その御本尊様を、よくよく信じよということです。
南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや
獅子は、けだもののなかでは、一番力のあるものです。獅子の吠(ほ)ゆるがごとき、力をもつのです。南無妙法蓮華経と唱えるその声は、獅子の吠ゆるがごとき勢いをもつものであると、大聖人様が仰せられているのです。
鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり
これは、法華経の陀羅尼品(だらにほん)第二十六にある誓いなのです。鬼子母神というのは、人の子供を食うのです。十羅刹女とは、鬼子母神の十人の子供で、羅刹というのも鬼のことです。それらが、南無妙法蓮華経と唱える者を、必ず護(まも)るという誓いを陀羅尼品でしているのです。それを大聖人様がお引きになっていらっしゃるのです。
さいはいは愛染(あいぜん)の如く福は毘沙門(びしゃもん)の如くなるべし
愛染明王、毘沙門天、これは多聞天(たもんてん)ともいいますが、御本尊様の左の肩の上に、おしたためになられている、天界の力の強い衆生です。それらのように、南無妙法蓮華経と唱えるならば、その功徳は、この体に集まると仰せられているのです。
いかなる処にて遊びたはぶるとも・つつがあるべからず遊行(ゆぎょう)して畏(おそ)れ無きこと師子王の如くなるべし
どこで、経王殿が遊んでおられようとも、この御本尊を体につけているならば、獅子王のごとく、誰人も体に手をつけられない。つつがなくおられるであろうから、安心して、この御本尊を体につけてやりなさいとの仰せです。
十羅刹女の中にも皐諦女(こうだいにょ)の守護ふかかるべきなり
皐諦女というのは、十羅刹女の中の一番の姉さんで、その皐諦女が必ず護(まも)ってるからして、安心していなさいと仰せなのです。
但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし
しかし、それも親の信心がもとだと言われるのです。親がしっかりと、信心をしていきなさいというのです。
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし
法華経の功徳の剣(つるぎ)というものは、信心のある者が使えるのであって、信心のない者には使いようがないというのです。夫婦ゲンカなどに鬼にカナボウなどと、火箸(ひばし)なんか持って、こられたのではたいへんです(笑い)。そういうカナボウではない。鬼がどんなに強いといっても、カナボウがなくては戦えないのですから、法華経の剣も、それと同じであるぞとおっしゃっているのです。
日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ
御本尊のことです。大聖人様の御生命(いのち)を、墨に染め流して書きて候ぞ、しっかり信じなさいと、こうおっしゃっているのです。
仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし
ここが、めんどうな読み方なのです。仏というのは、釈迦仏をいっているのです。釈迦如来は法華経をもって生命(いのち)とし、大聖人様は、南無妙法蓮華経をもって生命となさっていらっしゃる。ここに、釈迦仏法と大聖人様の仏法との相違を明らかにお示しになっている。いまの邪宗の僧侶には、これが読めないのです。法華経だ、法華経だと思っている。
これほどはっきりした違いが、読めてもよさそうなものだと思うのですが、勉強をしない者は読めない。読めない者には、しかたがないから教えるけれども、それでも、まだわからない者がある。みなさんぐらいは、これを覚えておきなさい。
妙楽云く「顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)を以て其の命と為す」と釈し給う
妙楽という方は、天台より約二百年後に生まれた人でありますが、法華経の学問では、天台か、妙楽か、日本では伝教かと言われているほどの人です。顕本遠寿というのは、われわれの生命論を論じたものであります。
われわれの生命(いのち)というものは、顕本、もとをただせば、遠寿であると。遠い昔に生命があったんだと。仏はもちろんです。十億劫とかいう短い声明では、仏になれないといわれている。仏というのは顕本遠寿。それが寿量品の極理なのです。それを妙楽はこういっていると、大聖人様は、妙楽の文を用いて説明するのです。
経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし
すなわち禍(わざわ)いが起こる、その禍いを福としなければならない。いま体の弱いことをもって、こんどは丈夫な体にしなければいけないと、それを変毒為薬(へんどくいやく)とします。毒を変じて薬となす。これが妙法蓮華経の極理であります。
あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ
だからここで、御本尊を信じきらなければならないというご説法であります。
何事か成就せざるべき、「充満其願(じゅうまんごがん)如清涼池(にょしょうりょうち)・現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」疑なからん
ここで信心を強くしたならば、現在は幸福になり、後の世は幸せなところへ生まれることは疑いのないことであります。法華経の薬王品の言葉をお用いになっているのでありますが、これは実際の問題なのです。
又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎ・いそぎ鎌倉へ上(のぼ)り見参いたすべし
急ぎ鎌倉へよって、何事かあらば勤めなさい。武士としての仕事に精励せよということです。いまの言葉でいえば、商売をきちんとやりなさいということです。豆腐屋は豆腐屋、米屋は米屋、魚屋は魚屋で、商売をきちんとやりなさいとの仰せです。
法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命(ろめい)計(ばか)りなり天たすけ給へと強盛(ごうじょう)に申し候
法華経の功徳は、商売や日常生活に現れるけれども、ただ問題は命の問題です。この御書から拝しますと、経王殿はきっと弱かったのでしょう。ただ天たすけたまえ、御本尊様お助けくださいと祈る以外に道はないぞと仰せなのです。
私も時おり、命の危ない人から、いろいろ言われることがあって、御本尊様へお願い申し上げるときがあります。だが、命ばかりは、金では買えません。御本尊様でも、時によってはお助けいただけないときもある。
向島支部の支部長は、いま若い人ですけれども、前に、そのお父さんがやっていた時に、この父親がインチキ者なのです。支部長でいながらインチキばかりやっていたのです。そうしたところが、いよいよ病気になって、ぼくに詫(わ)びにきたいというのです。気にかけていて、飯も一か月くらい食わないでいるというのだから、かわいそうで私のところへこいと言うわけにいかないのです。医者はもうぜんぜんダメだと言い、死ぬばかりなのです。
「そんな無理をさせるな。では私が行ってやろう」と私が行ってやりました。場合にもよりけりですが、命ばかりは助けられません。もう何にも食べないし、ぜんぜんダメなのです。そこで御本尊様へ、三言、お願いしたのです。そうしたら「飯を食べたい」と言いだしたのです(笑い)。奥さんが、リンゴの汁(しる)なんかを湯飲みに入れ、飲ましたら、三口ほど飲んだ。焼酎(しょうちゅう)ばかり飲んでた人だから、「何だ、お前」と私が言った。「そんなもの飲んで、平気なのか。焼酎でも飲むようになれよ」と言ったら、「へへへ…」と笑っていました(笑い)。そうしたら奥さんが、ワーッと泣きだした。オヤジさんが笑ったのは、何十日ぶりだって言うのです。とうとう治って、僕のところへあいさつにきたのです。みんなは、幽霊ではないかと言うのです。
それから私は、女房や子供に言ったのです。「これは治ったのではない。死ぬ前の状況だ。死ぬから」と。案の定、年の暮れの三十一日に死んだ。正月の葬式です。だけど、いっぺんは、治ってあいさつにきたのです。御本尊の功力というものは、すごいものです。私がやったのではないのです。御本尊様に頼んだから、してくださったのです。ひとつ私のほうも、先生が頼んで借金取りが来ないようにしてくれなどと、言ったってだめです(笑い)。
浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。
八月十五日 日蓮花押
経王御前御返事
浄徳夫人については、またおもしろい話があるのです。これは法華経の妙荘厳王品(みょうしょうごんのうぼん)というところに出てくる人の名前なのですけれども、浄徳夫人というのは、おもしろい奥さんです。
何遍も話したと思いますが、昔、四人の同志がいて、仏になろうという研究会をやっていたのです。いまの座談会みたいなものです。食べるのが忙しいから「だれか一人、弁当係をやれ」ということになった。一人が「私がやろう」と言った。「ただし、あなた方が仏になったら、私を助けるのだよ」という約束をした。
そうすると、その弁当係をやった男が、来世に、妙荘厳王という王様に生まれたのです。仏の修行をする者に供養した功徳なのです。その他の三人が、一人は浄徳夫人という奥さんに生まれ、二人は、浄蔵、浄眼という息子に生まれてきた。そうして、とうとう妙荘厳王を法華経に帰依(きえ)させて、仏の力を得させたのです。
竜女というのは、また別な話でありますけれども、そういうふうに、女でも仏になることができる。それと同様に、あなたもおやりなさいよという、大聖人様の御説法です。
ごしよの解説ありがとうございますしつかりまなんでいきます
戸田先生のご指導
引き込まれます✨🍀✨
戸田先生の大確信凄い❗
日蓮大聖人様🎉牧口先生🎉戸田先生🎉池田先生🎉ありがとうございます🌈🌈🌈
戸田先生ありがとうございます😭
生まれ変わったてたら出会いたい😊🎉
むつかしいなあ〜