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子供の頃父の明治天皇が英明だったので、大正天皇はどうしても評価が低いという話を周囲から聞きましたが、在位期間が短かったし長生きしていたらもっと評価は違っていたと思う。
大正天皇陛下は、とても優しそうな御顔をされておられる。
今まで大正天皇の事はほとんど知らなかったけど、この話しを聞きこの頃は神様的存在であった天皇が国民と気さくに話したりしたと言う所に大正天皇の優しい性格が感じられてとても良かったです
漢詩が千首以上というのは何度考えてもすごい。聡明な方だったのだろうなぁ。どうでもいいけどお顔がニコライ二世に似ている。
明治天皇は見た目厳ついかんじですが、大正天皇は落ち着いた見た目ですね。お身体が弱く長寿とまではいかなかったが、庶民に寄り添う優しい天皇でしたね。私の祖父と祖母は大正生まれなので、親近感がわいてきました。
生まれながら将来が決まっているのはかわいそうだけど病弱ながらも頑張ったと思います
昔は、赤ちゃん生まれてもなかなか育たなかったと、祖父が言ってました
昭和初期でも私の父母の兄弟が乳幼児期に何人も亡くなっています…原戸籍から家系図を書いてみて驚きました。
「七歳までは神の子」と言われてましたね。
時代が時代でしたからね。戦争で食べる物もなかなか難しい中でしたし、医療も今に比べたら発展もしてない時代ですし😢
大正天皇は幼少時山に犬と散歩に行って侍従を置き去りにし、山中の茶屋のおじいさんと世間話をしたり当時流行っていた自転車に乗って近隣農家へふいに赴いてお茶を飲んで帰ってきたりと、身分を気にしない活発だったエピソードもあるそうです。ある程度物がわかる年になると、明治天皇が偉大過ぎたせいかプレッシャーが凄かったんでしょうね。
時代を間違えたよ。開かれた今の時代だと大正天皇の優しさが活かされたはずなのに。
@@tomohiromori1709 日本国の君主の理想とされたのが明治天皇だったので、当時の明治天皇の側近や宮廷人からは相手の立場や自分の身分を気にしない自由闊達な在りようは異常に見えたらしいです。自由な行動を明治天皇に叱られたことは一度もないのですが、周囲があまりにも明治天皇を偉大だと言い神格化して、父君の様になりなさいと押し付けてくるものだから、大正天皇は小さい頃から父君に恐怖や苦手意識があったそう。もっとも当時の習慣では天皇皇后手づから子供を育てたりせず、子供は両親とは別の家で乳母や教育係が育てていくので、小さい時から一週間に一度か二度、数時間くらいしか顔を合わさず、ほぼ決まった言葉しか交わさない間柄では、親子でもお互いを知りようがないですよね。
@@さいたま2000-f6j 日本だけでなく世界の王族というものは、大抵そういう環境ですよね。皇族・王族に限らず、君主的な身分として生まれた人達は、乳母や教育係に育てられるのが普通でした。子供の頃は奇妙に思え、同情したものですが、ある宮家を見るに、そうした方がお家・系統を安定的に維持できるのかもなぁと思うようになりました。大衆と同じようにでは済まされない気概と言いますか。
大正天皇にとても興味があったので 色々なエピソードか知れて良かったです。とてもご聡明でなかなか進まない文明開化を大正ロマンと共に開花させたお優しく皇后様のエスコートもされ、欧米作法も熟されるスマートさもあり日本中を周り飛行場建設を指示されたり、未来を据えた広い才覚をお持ちであった
御身体のためにと田舎を巡回された時、国民にも普通に接したり、学習院を退学せざるを得なくても遅れても努力をされたこと、即位されてから政治家に利用されたことを、遠眼鏡事件は、もしかしたらユーモアまじりにからかわれたのではないでしょうか?と、思ってしまいました😂母親の柳原愛子が乳児期実家にて育てられたことも、無事に成長された奇跡ですね。4人の男子に恵まれて、生涯愛嬌のある性格の大正天皇、あまり多くを聞かなかったけれど、昭和様へとつなぐ奇跡の人生ですね。何度か拝見しておりますが、貴重な配信有難うございます。
@@user-cl5vt7zy6v9 大正天皇は病弱だったので在位期間も短くてと~~こんなに詳しく知れて有り難うございます現在 皇室と 庶民の距離が近くなったのも 大正天皇の足跡があったのですd(^-^)ネ!👏👏👏💕
大正天皇陛下は晩年、陸軍演習で我が故郷を訪問されたが、平坦な地形から判断して、ここに軍隊の為の飛行場を作るよう指示された。それが故郷のまちが発展するきっかけとなり、現在に至る。
私の祖父は、職業軍人であり、明治天皇の近衛騎兵でした。幼年学校では、大正天皇とご一緒に、南部修平師から馬の稽古を受けた、との事でした🐎
白粉(おしろい)に主に含まれていた有毒物質は水銀ではなくて「鉛(なまり)」ですね。白粉としての性質は非常に優秀で伸びも付きも大変良く、今でもこれに勝るものは無いほどだそうですが、原料である鉛白(えんぱく)の強い毒性については当時まだよく分かっていませんでした。側付きの女官たちが高貴な方々の身の回りのお世話をする際には、手指〜手首までと顔〜首〜胸(乳首含む)までを全て真っ白に、それも厚く白粉を塗るのが礼儀だとされ、白粉が薄いのは下品だという文化でしたので、やはり身体の小さな乳幼児から鉛白の毒の犠牲となり、ほとんどが1歳ぐらいまでの間に脳膜炎のような症状でバタバタと亡くなって行ったようです。大正天皇は生母である柳原愛子(なるこ)が周囲からの嫉妬を恐れ、仮病を使って実家に宿下りして密かに出産したとも聞きましたので、結果としてですが、宮中で生まれ育つよりは毒の影響が少なく済んだという可能性はありそうです。身分が高ければ高いほど、鉛白の毒によく当たり命を縮めて行ったというのは何とも皮肉な話です。当時の女官たちの衣服も現存していますが、袖口や襟元などが(経年劣化で)黒く酸化した鉛白がべったり付着しており、どれもひどく黒ずんでいるのが特徴的だということです。
水銀じゃなく鉛だし、ハングル語じゃなくハングル。こういう間違いはよくないですね。
😊😊
昔は水銀の物も有ったようですよ。伊勢白粉がそうです。しかし、江戸時代では伸びの良い鉛タイプがもてはやされたそうですね。ひょっとしたら、伊勢白粉のようなものが献上されていたのかもしれませんよ。
漫画の「薬屋のひとりごと」でも描かれていました。当時は肌が見えるところは厚塗り真っ白にしていたのですね。肌が浅黒い皇后様の美貌について揶揄されたのはその為でしょうか。
ハングル語についてですが、現在朝鮮半島で話されている言語の呼称を「韓国語」とするか「朝鮮語」とするかで議論がありまして(南朝鮮と北朝鮮では言語に少し違いができているようです)、それで統一的な呼称として「ハングル語」がNHKで採用されました。確かにおかしな名称ではあるんですが、一応こういう言い方があることも知ってもらえれば幸いです。
夫として、父親としては優しく立派な方だったんでしょうね。そうでなければ、昭和天皇が皇后が皇子を産めない事を理由に、側室を迎える勧めを断ったりはしなかっただろう。
漢詩を作れる時点で頭脳明晰だよ。漢詩をかじった人ならこの意味すぐ理解できると思うw
わたしの祖父は、大正天皇の近衛兵をしていました。天皇は相撲がお好きで、近衛兵同士、相撲をとらされたときいています。
それはすごい!天皇家が相撲好きなお陰で相撲が明治政府から消されなかったので、相撲ファンは天皇家に感謝です
僕のひいひいじいちゃん大正天皇を守るエリート警察官だったのに関東大震災で大正天皇を守って、死んでしまいました。
@@ireallyjapanese2442死んだと言うより殉職ですね ご冥福をお祈りします
@@ireallyjapanese2442😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮ー😮お
昭和帝と幼少期の愛子樣も相撲好きだって聞いた😊
祖父は私と80歳以上離れており、95歳まで元気で頭もしっかりしていたので、昔話をいろいろ聞きました。大正天皇のご即位のときはラジオもない時代で、国民全員が同じ時間に万歳三唱したそうです。当時祖父は広島にいたはずですが、町の中心?に集まって万歳したと言っていました。
晩年は早発性のアルツハイマー病に罹っていたと見られる。当時の侍医が、アルツハイマー医師の論文を読んで、この症状だと思い当たり、アルツハイマー医師に直接教えを乞うため、休暇を得て欧州へと向かっていた時、崩御した。侍医は帰国して職を辞した。大正天皇の病気を治せなかったので辞めさせられたように見る向きもあるが、そういうことではなかったらしい。昔は人間の寿命が短く、アルツハイマー病の患者も今より少なく、どういう病気かよく知られていなかった。
当時は画像診断などが出来ない時代でしたので真相は何ともですが、かなり納得の行くお話です。晩年は(と言っても40代でしたが)どうも認知症のような症状を呈していたようですしね。動画にも少し出てきますが、慣れているはずの静養先で入浴する際にも、浴室にあった小さな階段をひどく怖がって嫌がり難儀した、というエピソードなども目にしました。後年は特にまとまった言葉が出ず会話が成立しにくくなっていたという話からも、単に精神的なものというよりは、やはり脳から来る諸症状と捉えるのが妥当かと思われます。
何故皇室ではこの大正天皇の御墓参りをしないのか?折りに触れ明治天皇と昭和天皇の御墓参りはやるのに大正天皇は無視ですよね?
すみませんが、天皇両陛下は八王子にある陵墓には昭和天皇陵墓もあり、大正天皇陵墓にちゃんとお参りされておりますよ。ニュースで言わないだけです。何も解ってないのですね。目でみたニュースや動画が全てでは御座いません。
近代以降の天皇で、大正天皇だけ誕生日が祝日として残っていないのはなんかモヤッとしますね…。在位期間が(近代基準では)短かったとはいえ、国家元首であったことは変わりないのに…。皇室にそこまで詳しくない私は、大正天皇の現代における扱いはある意味「不敬」に感じてしまいます。※上皇陛下は存命なので誕生日が祝日になっていないことは納得です。
心優しい天皇ですよね。明治天皇は厳格でしたけど。
母親は明治天皇より大正天皇陛下の人間性が好きだと言ってたのを思い出しました 成る程と思いました☺️
昭和天皇に影響を与えた人物だと思う。天皇が各地へ旅をし、ある漁師の家に入りご飯を食べるエピソードは大好き。国民の生活と幸せを考えているところは昭和天皇またはその後の皇族の考え方の基本じゃないかなと思っている。
国民の幸せを考えるのは初代天皇からですよ😊昔は人前に出なかったから知られてないけど。
容姿端麗でないとされた貞明皇后ですが、残された若い頃の真影を見ると綺麗な御方だと思います。
俺も思った。白黒写真だからかもしれないけどね。黒姫は失礼やなぁw
@@tomohiromori1709LaLaなふすすふすくふるふぬぬふるるり
明治大正昭和で1番病弱な大正天皇が健康な男子4人に恵まれて跡継ぎ問題がなかったのはある意味皮肉なもんですね
健康で丈夫な皇太子妃を迎えたからかな
あの頃の47年はそんなに短くないぞ。 明治・大正時代の平均寿命は44歳前後
それは乳幼児の死亡が平均値を一気に下げているだけなんで。。当時成人まで生きた方は平均60歳までは生きています
子孫を残した功績は大きい☺️
えっ、そこ?😅😅
@@My0018Tube様大事かと。だって昭和天皇がお子様ですよ。
大事なことだけど彼の功績とは言い難いな白粉をやめたり国民の健康状態が改善したからだ
昭和の記憶も少ない私ですが、大正天皇の遠眼鏡事件は子供の頃に聞いた記憶があります。大正天皇は病気がちで、若くして崩御されたから大正時代は短かった。という話も聞きました。ですが、私が大人になってから大正天皇はお優しい方だったという話を、祖母から聞いたことがあります。私の母方の曾祖父は昭和天皇の学校の送迎をしていました。その頃の話を一度だけ、祖母から聞いた時に話していました。祖母の他界後にその話を母にすると、そんな話は聞いたことがないと……長い間、私の聞き間違いだったのかなと思っておりました。こちらの動画を視聴させていただいて、聞き間違いではなかったと確信出来ました。大正天皇の壮絶な人生だけでなく、優しいお人柄も知ることが出来る素敵な動画をありがとうございました。
近代で大正天皇の誕生日だけが国民の祝日になってないのはなぜだろう
うちの近所にも行幸の記念碑があるけど、そこの記録みてもフランクで天皇の権威を損なわないギリギリを見極めたサービス上手、アドリブでさらっと漢詩をしたためたり、当時の民衆には人気があったみたいでそれだけ見れば、相当な人物に思える。
亡くなられた桂宮宜仁親王が大正天皇にそっくりだと思った共に病に苦しんだ人生だった昭和天皇を始め子供達は皆ひょうきんな一面を持ち合わせていたが、大正天皇譲りだったのかも知れないね
それ分かります。特に目元とか似ていましたね。
犬の散歩中、漁夫の家に上がり込んで「お前の家いい眺めだな。ところで猫いない?」って猫を連れて来させて抱き上げたら威嚇されて大笑いした逸話が好きです
悲しい、生まれながら病弱の大正天皇、側近があたたかく見守り援助すべきですね、47年間、太く短く生き抜いた、子孫も4人、御立派です、
最近ヨーロッパ大正天皇がヨーロッパの皇太子に書き送ったフランス語の手紙をテレビでたまたま見ました。とても綺麗な字で描かれた長い手紙でした。大正天皇はとても知的な方であったのでは?と思います。
私は多摩御陵のお膝元、八王子市長房町の生まれなので皇室を大変身近に感じています。
大正時代はたった15年だったけど、日本に欠かせない15年だったのだと思う。15年という短さでいえば大正時代も激動の時代。大正天皇は気さくな優しいそれでいてどこか寂しげなお方だったときく
大正時代はたった15年だったけど、日本にかかせない15年だったと思う。15年という短さでいえば大正時代も激動の時代
九条節子様は、素敵な方だと思います。
うちのひい爺さんが、貨物列車1両分の正月用のカズノコの商談をまとめ、手打ちをしようとしたところで大正天皇崩御の知らせが入って大損をしたと聞いたことがあります。
大正天皇に漢詩を手ほどきした三島中州は現在、下の子が在学している二松学舎大学の創立者。また、陛下からの元帥就任の任命を拒否った桂太郎は上の子が今年卒業した拓殖大学の創立者。子どもふたりがお世話になってる(なった)大学の創立者が揃って陛下の生涯に深く関わっていたのかと思うと、変な話だが偏差値やネームバリュー(ブランド力)ってあまり関係ないのかと思うようになった。素晴らしい動画に出会えて感謝!
三島中洲でしたか!嬉しい事です!
馬の目利きに優れており、原敬を驚かせたというエピソードが好きです乗馬もお好きだったとか
生まれつきお体が弱かった大正天皇良く結婚され四人の男のお子さまに恵まれたのとは何よりでした。貞名皇后の健康と並々ならぬ献身の賜物国を想う真の心に頭が下がります。まさに国母そのものです。素晴らしい動画ありがとうございました。
大変な間違いをして失礼しました。貞明皇后です。お許しください。
わたしも大正天皇に4人男のこ出来なたの知っていたのでそれをスマホに載せたのですが私の間違いと注意されました。そのちゅういしたかたは4人息子持ったのは明治天皇です。と、間違いでしょうか?
@@ハッチ-x9rあなた様が正しいですよ。昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮です。
めっちゃいい人
そうですね!私、祖父から色々聞いいました。
明治生まれの祖母(もちろんただの神戸在住の市民ですw)が大正天皇を語るときは決まって「頼りない天皇さんやったな」と目を細めますが、決して嫌な印象があったわけではなく、むしろ愛着を感じる言い方だったことを不思議に思っていました。おそらく皇室やマスコミのプロパガンダも影響していると思われますが、軍人や政治家としての資質に欠けていたのは事実かも知れません。ただ第二次大戦後の「象徴天皇」を是とするなら、時代の先取りという意味でその存在は重要だったのかもしれませんね。裕仁天皇の時代、苦しい戦時下の昭和を生きた祖母は皇室に複雑な感情を持っていたかもしれませんが、平成の世になり、娘時代を平和に過ごした大正を懐かしく想い起こしていたのではないかとも思うのです。
大正天皇を誤認していました。時代が合っていなかったんですね…🥲
大正天皇陛下といえば三ツ矢サイダーですね。😀✨
そういうことで、明治以降の天皇で、死後大正天皇の誕生日だけ祝日にならなかったと聞いたけどなあ
大正天皇の「漢詩」についてもっと深堀りして頂きたくお願い致します。
皇子4人❗️今の皇室に1人欲しいですね😃💕
浅田宗伯先生が救ったんですよ。
昔の天皇家は血縁関係が濃かったのだと思う
八王子市の大正天皇陵には毎月1回は参拝へ行っております。
あなたのような方がおられて大正天皇もお喜びになられていらっしゃいますね。私は遠くてで向けませんが、これからも続けて頂けるようお願いいたします。
タブー視なんてされていましたっけ?明治と昭和がフォーカスされ過ぎていて大正自体をあまり教わらず記憶も曖昧、と言った感じですが。
水銀でなく酸化鉛です。
時代は短かったが、激動の時代を生き抜き、偉大な天皇であった
遠眼鏡の事はお身体の調子が良くない中でも、元気ですアピールであられたのでは無いかと思います。
高明皇后は大変立派なお方で、とくに福祉事業に尽力された
天皇を神と讃えていた時代に、もし実際に暗愚であったならばそのことを隠蔽するのが普通ではないだろうか。とても不自然に感じる。実は世の見識に秀でており、傀儡となることを拒み続けた故かとも勘ぐってしまう。
大正天皇が長生きしてたら、今はどうなってたんだろう?って思った!
兄君が薨去されず即位していたら、一皇族としてまた文化人として歴史にその名を残していたのかもしれない。
大正天皇は、暗愚だとか言われバカにされ続けてきたけど、私はそんな風には思えなかった。
国民には伏せているが遠眼鏡事件は功績に伝えるべきだと思う。
でも、結構知られている話ですよね😂ウチの祖父母も何回も話してました❤
貞明皇后は皇太后になってからは日課として大正天皇の遺影を飾ってある御影殿に一人でこもられ日常のニュースなどを語られていたそうです。本当に愛されていたんですね。
平成天皇以降の国民との接し方を最初に始めた天皇だと思う。
「平成天皇」はまるで違います。このような元号を冠した呼び名は天皇陛下が崩御された際に使われる諡(おくりな)であって、「平成天皇」は上皇陛下にとても失礼です。
ご存命の上皇陛下を平成天皇と呼ぶのは失礼ですよ。
昭和天皇と良く似てるね。
けっこうトガッてるんだよな~かっこいい
「ハングル文字」はありますが「ハングル語」はありませんね
明治期以降、大正天皇の御代が一番安定していたような気がします
激動の明治と昭和に挟まれた束の間の安定していた時期でしたからね。ただ大正時代生まれは現役兵の中核として大勢が戦没されましたので、男性の割合が極端に少ない様です。
自分の父親が明治天皇だったと想像してみろ、それだけでメンタルやられるわ。
何か昨今の多くの陰謀説に毒されてるのか日本の闇に触れた気がした。。。
明治天皇と昭和天皇の間で影は薄いですが、歌と、書は素晴らしいと、今東光が書いてました。
時代が変わるとこうも話が変わるのには驚きです。
大正天皇拝見するたびにムーディ勝山に見えてしょうがない
'`,、('∀`) '`,、
病気がちな天皇に子供が様が4人もうまれられた、おめでたいことですね
この時代、平民は子沢山が多かったようですね。
公務員試験で日本史に出るので勉強になりました‼︎
試験、頑張れ!
私は自慢では有りませんが皇室に色々、所縁があります。先ず私が生まれたのが「地久節」で今の方々は知らない方が多いですが、この日は昭和天皇陛下の、お后さまの、お生まれになった月日を「地久節」と言います。また私の実母は結婚で、お暇を頂くまで宮中に居りました。私が生まれた「地久節」にちなみ「節克」と名付けられました。読みを、どうするか「せつかつ」では妙だし、そこで母が考えたのが「大正天皇」のお后様「節子」(さだこ)様から頂き「さだかつ」と命名しました。役所に届けに行った母は役人から、畏れ多くも皇室に関係する名前を付けるとは「不敬罪」だと怒られ許可されず帰宅し母が仕えた女官に経緯を書いたところ「お構いなし」と返事を頂き、それを持って再度、役所に行きましたところ、今度は皇室に所縁が有る方だと許可して呉れたそうです。三上女官の写真や手紙類は未だに我が家に残っております。長くなりましたが、この様な経緯で私の名前が付けられました。今まで読めた方は高校時代の国語の先生だけで「もしかして(さだかつ)か??と聞かれました。これは我が家に残された大切な経緯です。
素晴らしい家族の歴史ですね。子々孫々語り継いでいかれて下さい。
自慢じゃないって言うのはたいがい自慢だったりするよね
中山忠能さんは大正天皇の曽祖父で明治天皇の祖父では?明治天皇の曽祖父で中山さんなら中山忠頼だと思います。間違ってたらすみません💦
北投中和街,復興公園對面 ,(何嘉仁書店),聯鎖店, 後換(松青超市),又換(全聯超市)到現在, 何嘉仁搬到, 北投市場(磺港路)三角窗一,二樓整棟,
命令を無視した山県有朋らの方が不敬ではないか。晩年の山県に大命したのも『お前が推した者は何かと短命であったり事件を起こしたりするので責任を取ってお前が組閣せよ。』というお怒りがあっての事だったと思う。
大正天皇の誕生日を祝日に
これ以上、休みを増やしても学業がおろそかになる。
皇室を「タブー化」してはいけません。
もし御長命であれば真珠湾攻撃は無かったのではないかなどと思う。
でしょうね。更には中国朝鮮東南アジア諸国を大日本帝国が支配しているでしょう。
私の住むところは、大正天皇の御即位の時、主基殿に選ばれました。今でもその時の品々が残っていますね、ありがたいことです。お宮には、記念の石碑が在ります!
凄い映像ありがとうございます‼️よくこんな凄い映像作れましたね🎉感謝感激感動です🎉
皇室だけは、側室を保っても良かった気がする、そうしないと今みたいに女しか生まれないとか後継問題がでるし
大正天皇は病弱だったと言う事しか知らなかったので大変参考になりました。動画中にも有りましたが私達の世代は徳川慶喜(よしのぶ)では無く(けいき)と習いましたよ。(けいき)が正しいんじゃないの❓
徳川慶喜公の「慶」は十二代将軍徳川家慶公の偏諱を賜ったもので正式には間違いなく「よしのぶ」です。隠退後過ごされた静岡でも市民が親愛の情を込めて「けいきさま」と呼んでいましたが皆大正天皇が呼ばれた愛称を真似ていたのでしょうね。偏諱を賜ることはたいへん名誉なことで古くは後醍醐天皇の尊治から賜った足利尊氏、歴代足利将軍家から賜った守護大名や戦国大名の諱があります。江戸時代も有力大名や親藩大名は皆将軍の諱から一文字を賜った諱を名乗っていました。
皇室はやはり政治とは切り離した方が良い。皇室が悪い訳ではなく皇室を牛耳る連中の思惑だけで日本が左右される羽目になる。そんな感じ。
此れまでに以上に皇室の偉大さを覚えました。有難うございます。
現行憲法下に生まれた方が幸せだったと思う。
現行憲法皇室典範下でも、かなり窮屈そうですよね。
@@QTX1234さん 確かにそうですね。大正天皇の自由気ままな言動ですと、マスコミの恰好のネタになってしまいますからね。
皇室を繋ぎ、偉大な昭和天皇、平成天皇、今上天皇陛下まで繋いで頂き、ありがとうというしかないよね?今の皇族にも見習って欲しいですね?
お話を聞いて分かるように、天皇である以上何があっても天命を全うすべきだと考えます。生前退位などありえません。象徴天皇であっても、日本で唯一神に近い立場であり、毎日神に国民の安寧を祈っていただける方なのですから、徳仁天皇陛下には天皇を全うして頂きたいと思います。残念でも延命治療はしないで尊いままでいていただきたいです。令和、彌栄。有難うございました。
以外な人柄が強い印象です。現在にお生まれだったら、少しは気が楽だったと思います。偉大な父親を持つと、存在だけでもプレッシャーだと思います。
よくもまあ、こんだけ糊塗したストーリーを盲信する人(B⚪︎KAたれ)の多いことに驚きです。こんな輩が身近にいたらどんだけ周囲が大変か全く想像できないんでしょうね。正直なこと言ってごめんなさい。
大正天皇のお妃選びといい、昭和天皇の時の懸命に草むしりをしていた良子女王のエピソードと言い、お難儀所の変なオバサンが皇后に相応しくないことがよく分かった。
良子妃(香淳皇后)は姑である貞明皇后よりも身分の高い生まれだったこと、その点で嫉妬から軋轢を生んでしまったというのが残念なことでしたね。それというのもやはり、明治天皇の子供たちがあまりにも育たなかったせいで、正妻である昭憲皇后が皇太子妃選びを行った際には「身分は度外視で、とにかく本人が健康で丈夫な子を沢山産めそうな女子であること」を最優先にして選んだ、という事情があったわけですが。貞明皇后(九条節子/さだこ)自身は身分の低い側室の腹の生まれで、早くから農村に里子に出され、平民と一緒の野山育ちで「九条の黒姫さま」とあだ名されるほどの色黒ワイルドで頑強なお身体だったがゆえに、目に留まったということでしたが。そもそもあの特殊な事情が無ければ、皇太子妃に選ばれて皇后に上がるようなことも有り得なかったと思われます。そういった部分がご本人の中でも密かに根強いコンプレックスとなって、後年の嫁(良子/香淳皇后)いびりにまでつながって行ったようですし。しかもその余波はさらにその下の美智子妃にまで及んだわけですから、なんとも累の深いお話です…。
当主ではなく妃だけを目の敵にしている人を見ると不思議な気がします。それぞれの価値観なので批判ではないですが、個人的には当主の方に言葉に出来ぬほどの思いを抱えています。大黒柱とも言いますので。妃は「お印の植物を庭に植えたので、満開のアーチの下を娘とともに歩きたい」といった意味の事を会見で述べておられました。勘当したものだと思っていたので、再び御所内に入れる気でいた、そのご意向を国民に向けて発したというズレっぷりに驚愕しました。ただ、そのような事を仰ったという事は、妃もまたご自分でお庭の手入れをされているのかもしれません。勿論、させているのかもしれませんが、ご自分でされている印象を受けました。
@@南風-h7x 私は婚約会見での「皇族の方とは存じ上げなくて」という言葉で、それまでの秋〇宮の発言からも「宮の御魂相応の野心家が嫁いでくるか」と、若輩ながら感じたのを今も覚えています。
@@ats4wd 検索すればすぐに事実確認できることなのに、あの一家の姿を見るのが絶えらず確認できない。毎週皇室番組を見る程だったのに、自分でも信じられない。帰国子女である事や実家にTVが無かった事を差し引いても、親王だと知らなかったとは俄かに信じられない発言。本当に言葉がない。滅茶苦茶です。
この人が名君なら太平洋戦争に突き進んだろうか。昭和天皇は若すぎた
国民側(東宮・天皇に接する人々)が言うことを聞かなかったので、誰であっても同じなのではないでしょうか。明治天皇は国民が共感できる考えであったから評価が高かったとも考えられます。神輿なのでしょう。
優しくて繊細な方だから、富国強兵の時代ならではの生きづらさがあったのだと思う。今の時代の天皇なら国民に愛されたと思う。実際大正天皇の皇子方は兄弟仲が良かったのか、戦後長兄の昭和天皇を助けながら各々公務をされていたし。
風呂や階段を恐がるて😮誰が言い出したんだってか誰かの意思を感じる。
ハングル語とは
脳膜炎からかろうじて助かった😢
子供の頃父の明治天皇が英明だったので、大正天皇はどうしても評価が低いという話を周囲から聞きましたが、在位期間が短かったし長生きしていたらもっと評価は違っていたと思う。
大正天皇陛下は、とても優しそうな御顔をされておられる。
今まで大正天皇の事はほとんど知らなかったけど、この話しを聞きこの頃は神様的存在であった天皇が国民と気さくに話したりしたと言う所に大正天皇の優しい性格が感じられてとても良かったです
漢詩が千首以上というのは何度考えてもすごい。
聡明な方だったのだろうなぁ。
どうでもいいけどお顔がニコライ二世に似ている。
明治天皇は見た目厳ついかんじですが、大正天皇は落ち着いた見た目ですね。
お身体が弱く長寿とまではいかなかったが、庶民に寄り添う優しい天皇でしたね。
私の祖父と祖母は大正生まれなので、親近感がわいてきました。
生まれながら将来が決まっているのはかわいそうだけど病弱ながらも頑張ったと思います
昔は、赤ちゃん生まれてもなかなか育たなかったと、祖父が言ってました
昭和初期でも私の父母の兄弟が乳幼児期に何人も亡くなっています…
原戸籍から家系図を書いてみて驚きました。
「七歳までは神の子」と言われてましたね。
時代が時代でしたからね。
戦争で食べる物もなかなか難しい中でしたし、医療も今に比べたら発展もしてない時代ですし😢
大正天皇は幼少時山に犬と散歩に行って侍従を置き去りにし、山中の茶屋のおじいさんと世間話をしたり
当時流行っていた自転車に乗って近隣農家へふいに赴いてお茶を飲んで帰ってきたりと、身分を気にしない活発だったエピソードもあるそうです。
ある程度物がわかる年になると、明治天皇が偉大過ぎたせいかプレッシャーが凄かったんでしょうね。
時代を間違えたよ。開かれた今の時代だと大正天皇の優しさが活かされたはずなのに。
@@tomohiromori1709 日本国の君主の理想とされたのが明治天皇だったので、当時の明治天皇の側近や宮廷人からは相手の立場や自分の身分を気にしない自由闊達な在りようは異常に見えたらしいです。
自由な行動を明治天皇に叱られたことは一度もないのですが、周囲があまりにも明治天皇を偉大だと言い神格化して、父君の様になりなさいと押し付けてくるものだから、大正天皇は小さい頃から父君に恐怖や苦手意識があったそう。
もっとも当時の習慣では天皇皇后手づから子供を育てたりせず、子供は両親とは別の家で乳母や教育係が育てていくので、小さい時から一週間に一度か二度、数時間くらいしか顔を合わさず、ほぼ決まった言葉しか交わさない間柄では、親子でもお互いを知りようがないですよね。
@@さいたま2000-f6j 日本だけでなく世界の王族というものは、大抵そういう環境ですよね。皇族・王族に限らず、君主的な身分として生まれた人達は、乳母や教育係に育てられるのが普通でした。
子供の頃は奇妙に思え、同情したものですが、ある宮家を見るに、そうした方がお家・系統を安定的に維持できるのかもなぁと思うようになりました。大衆と同じようにでは済まされない気概と言いますか。
大正天皇にとても興味があったので 色々なエピソードか知れて良かったです。
とてもご聡明でなかなか進まない文明開化を大正ロマンと共に開花させた
お優しく皇后様のエスコートもされ、欧米作法も熟されるスマートさもあり
日本中を周り飛行場建設を指示されたり、未来を据えた広い才覚をお持ちであった
御身体のためにと田舎を巡回された時、国民にも普通に接したり、学習院を退学せざるを得なくても
遅れても努力をされたこと、即位されてから
政治家に利用されたことを、遠眼鏡事件は、もしかしたらユーモアまじりにからかわれたのではないでしょうか?と、思ってしまいました😂
母親の柳原愛子が乳児期実家にて育てられたことも、無事に成長された奇跡ですね。4人の男子に恵まれて、生涯愛嬌のある性格の大正天皇、あまり多くを聞かなかったけれど、昭和様へとつなぐ奇跡の人生ですね。
何度か拝見しておりますが、貴重な配信有難うございます。
@@user-cl5vt7zy6v9
大正天皇は病弱だったので在位期間も短くてと~~こんなに詳しく知れて有り難うございます
現在 皇室と 庶民の距離が近くなったのも 大正天皇の足跡があったのですd(^-^)ネ!👏👏👏💕
大正天皇陛下は晩年、陸軍演習で我が故郷を訪問されたが、平坦な地形から判断して、ここに軍隊の為の飛行場を作るよう指示された。それが故郷のまちが発展するきっかけとなり、現在に至る。
私の祖父は、職業軍人であり、明治天皇の近衛騎兵でした。
幼年学校では、大正天皇とご一緒に、南部修平師から馬の稽古を受けた、との事でした🐎
白粉(おしろい)に主に含まれていた有毒物質は水銀ではなくて「鉛(なまり)」ですね。
白粉としての性質は非常に優秀で伸びも付きも大変良く、今でもこれに勝るものは無いほどだそうですが、原料である鉛白(えんぱく)の強い毒性については当時まだよく分かっていませんでした。
側付きの女官たちが高貴な方々の身の回りのお世話をする際には、手指〜手首までと顔〜首〜胸(乳首含む)までを全て真っ白に、それも厚く白粉を塗るのが礼儀だとされ、白粉が薄いのは下品だという文化でしたので、やはり身体の小さな乳幼児から鉛白の毒の犠牲となり、ほとんどが1歳ぐらいまでの間に脳膜炎のような症状でバタバタと亡くなって行ったようです。
大正天皇は生母である柳原愛子(なるこ)が周囲からの嫉妬を恐れ、仮病を使って実家に宿下りして密かに出産したとも聞きましたので、結果としてですが、宮中で生まれ育つよりは毒の影響が少なく済んだという可能性はありそうです。
身分が高ければ高いほど、鉛白の毒によく当たり命を縮めて行ったというのは何とも皮肉な話です。
当時の女官たちの衣服も現存していますが、袖口や襟元などが(経年劣化で)黒く酸化した鉛白がべったり付着しており、どれもひどく黒ずんでいるのが特徴的だということです。
水銀じゃなく鉛だし、ハングル語じゃなくハングル。こういう間違いはよくないですね。
😊😊
昔は水銀の物も有ったようですよ。伊勢白粉がそうです。しかし、江戸時代では伸びの良い鉛タイプがもてはやされたそうですね。
ひょっとしたら、伊勢白粉のようなものが献上されていたのかもしれませんよ。
漫画の「薬屋のひとりごと」でも描かれていました。
当時は肌が見えるところは厚塗り真っ白にしていたのですね。
肌が浅黒い皇后様の美貌について揶揄されたのはその為でしょうか。
ハングル語についてですが、現在朝鮮半島で話されている言語の呼称を「韓国語」とするか「朝鮮語」とするかで議論がありまして
(南朝鮮と北朝鮮では言語に少し違いができているようです)、それで統一的な呼称として「ハングル語」がNHKで採用されました。
確かにおかしな名称ではあるんですが、一応こういう言い方があることも知ってもらえれば幸いです。
夫として、父親としては優しく立派な方だったんでしょうね。
そうでなければ、昭和天皇が皇后が皇子を産めない事を理由に、側室を迎える勧めを断ったりはしなかっただろう。
漢詩を作れる時点で頭脳明晰だよ。漢詩をかじった人ならこの意味すぐ理解できると思うw
わたしの祖父は、大正天皇の近衛兵をしていました。天皇は相撲がお好きで、近衛兵同士、相撲をとらされたときいています。
それはすごい!天皇家が相撲好きなお陰で相撲が明治政府から消されなかったので、相撲ファンは天皇家に感謝です
僕のひいひいじいちゃん大正天皇を守るエリート警察官だったのに関東大震災で大正天皇を守って、死んでしまいました。
@@ireallyjapanese2442死んだと言うより殉職ですね ご冥福をお祈りします
@@ireallyjapanese2442😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮ー😮お
昭和帝と幼少期の愛子樣も相撲好きだって聞いた😊
祖父は私と80歳以上離れており、95歳まで元気で頭もしっかりしていたので、昔話をいろいろ聞きました。大正天皇のご即位のときはラジオもない時代で、国民全員が同じ時間に万歳三唱したそうです。当時祖父は広島にいたはずですが、町の中心?に集まって万歳したと言っていました。
晩年は早発性のアルツハイマー病に罹っていたと見られる。当時の侍医が、アルツハイマー医師の論文を読んで、この症状だと思い当たり、アルツハイマー医師に直接教えを乞うため、休暇を得て欧州へと向かっていた時、崩御した。侍医は帰国して職を辞した。大正天皇の病気を治せなかったので辞めさせられたように見る向きもあるが、そういうことではなかったらしい。昔は人間の寿命が短く、アルツハイマー病の患者も今より少なく、どういう病気かよく知られていなかった。
当時は画像診断などが出来ない時代でしたので真相は何ともですが、かなり納得の行くお話です。
晩年は(と言っても40代でしたが)どうも認知症のような症状を呈していたようですしね。
動画にも少し出てきますが、慣れているはずの静養先で入浴する際にも、浴室にあった小さな階段をひどく怖がって嫌がり難儀した、というエピソードなども目にしました。
後年は特にまとまった言葉が出ず会話が成立しにくくなっていたという話からも、単に精神的なものというよりは、やはり脳から来る諸症状と捉えるのが妥当かと思われます。
何故皇室ではこの大正天皇の御墓参りをしないのか?折りに触れ明治天皇と昭和天皇の御墓参りはやるのに大正天皇は無視ですよね?
すみませんが、天皇両陛下は八王子にある陵墓には昭和天皇陵墓もあり、大正天皇陵墓にちゃんとお参りされておりますよ。ニュースで言わないだけです。何も解ってないのですね。目でみたニュースや動画が全てでは御座いません。
近代以降の天皇で、大正天皇だけ誕生日が祝日として残っていないのはなんかモヤッとしますね…。
在位期間が(近代基準では)短かったとはいえ、国家元首であったことは変わりないのに…。
皇室にそこまで詳しくない私は、大正天皇の現代における扱いはある意味「不敬」に感じてしまいます。
※上皇陛下は存命なので誕生日が祝日になっていないことは納得です。
心優しい天皇ですよね。明治天皇は厳格でしたけど。
母親は明治天皇より大正天皇陛下の人間性が好きだと言ってたのを思い出しました 成る程と思いました☺️
昭和天皇に影響を与えた人物だと思う。天皇が各地へ旅をし、
ある漁師の家に入りご飯を食べるエピソードは大好き。
国民の生活と幸せを考えているところは昭和天皇またはその後の
皇族の考え方の基本じゃないかなと思っている。
国民の幸せを考えるのは初代天皇からですよ😊
昔は人前に出なかったから知られてないけど。
容姿端麗でないとされた貞明皇后ですが、残された若い頃の真影を見ると綺麗な御方だと思います。
俺も思った。白黒写真だからかもしれないけどね。黒姫は失礼やなぁw
@@tomohiromori1709LaLaなふすすふすくふるふぬぬふるるり
明治大正昭和で1番病弱な大正天皇が健康な男子4人に恵まれて跡継ぎ問題がなかったのはある意味皮肉なもんですね
健康で丈夫な皇太子妃を迎えたからかな
あの頃の47年はそんなに短くないぞ。 明治・大正時代の平均寿命は44歳前後
それは乳幼児の死亡が平均値を一気に下げているだけなんで。。
当時成人まで生きた方は平均60歳までは生きています
子孫を残した功績は大きい☺️
えっ、そこ?
😅😅
@@My0018Tube様
大事かと。
だって昭和天皇がお子様ですよ。
大事なことだけど彼の功績とは言い難いな
白粉をやめたり国民の健康状態が改善したからだ
昭和の記憶も少ない私ですが、大正天皇の遠眼鏡事件は子供の頃に聞いた記憶があります。
大正天皇は病気がちで、若くして崩御されたから大正時代は短かった。という話も聞きました。
ですが、私が大人になってから大正天皇はお優しい方だったという話を、祖母から聞いたことがあります。
私の母方の曾祖父は昭和天皇の学校の送迎をしていました。
その頃の話を一度だけ、祖母から聞いた時に話していました。
祖母の他界後にその話を母にすると、そんな話は聞いたことがないと……
長い間、私の聞き間違いだったのかなと思っておりました。
こちらの動画を視聴させていただいて、聞き間違いではなかったと確信出来ました。
大正天皇の壮絶な人生だけでなく、優しいお人柄も知ることが出来る素敵な動画をありがとうございました。
近代で大正天皇の誕生日だけが国民の祝日になってないのはなぜだろう
うちの近所にも行幸の記念碑があるけど、そこの記録みてもフランクで天皇の権威を損なわないギリギリを見極めたサービス上手、アドリブでさらっと漢詩をしたためたり、当時の民衆には人気があったみたいでそれだけ見れば、相当な人物に思える。
亡くなられた桂宮宜仁親王が大正天皇にそっくりだと思った
共に病に苦しんだ人生だった
昭和天皇を始め子供達は皆ひょうきんな一面を持ち合わせていたが、大正天皇譲りだったのかも知れないね
それ分かります。特に目元とか似ていましたね。
犬の散歩中、漁夫の家に上がり込んで「お前の家いい眺めだな。ところで猫いない?」って猫を連れて来させて抱き上げたら威嚇されて大笑いした逸話が好きです
悲しい、生まれながら病弱の大正天皇、側近があたたかく見守り援助すべきですね、47年間、太く短く生き抜いた、子孫も4人、御立派です、
最近ヨーロッパ大正天皇がヨーロッパの皇太子に書き送ったフランス語の手紙をテレビでたまたま見ました。
とても綺麗な字で描かれた長い手紙でした。
大正天皇はとても知的な方であったのでは?と思います。
私は多摩御陵のお膝元、八王子市長房町の生まれなので皇室を大変身近に感じています。
大正時代はたった15年だったけど、日本に欠かせない15年だったのだと思う。15年という短さでいえば大正時代も激動の時代。大正天皇は気さくな優しいそれでいてどこか寂しげなお方だったときく
大正時代はたった15年だったけど、日本にかかせない15年だったと思う。15年という短さでいえば大正時代も激動の時代
九条節子様は、素敵な方だと思います。
うちのひい爺さんが、貨物列車1両分の正月用のカズノコの商談をまとめ、手打ちをしようとしたところで大正天皇崩御の知らせが入って大損をしたと聞いたことがあります。
大正天皇に漢詩を手ほどきした三島中州は現在、下の子が在学している二松学舎大学の創立者。
また、陛下からの元帥就任の任命を拒否った桂太郎は上の子が今年卒業した拓殖大学の創立者。
子どもふたりがお世話になってる(なった)大学の創立者が揃って陛下の生涯に深く関わっていたのかと思うと、変な話だが偏差値やネームバリュー(ブランド力)ってあまり関係ないのかと思うようになった。
素晴らしい動画に出会えて感謝!
三島中洲でしたか!嬉しい事です!
馬の目利きに優れており、原敬を驚かせたというエピソードが好きです
乗馬もお好きだったとか
生まれつきお体が弱かった大正天皇良く結婚され四人の男のお子さまに恵まれたのとは何よりでした。貞名皇后の健康と並々ならぬ献身の賜物国を想う真の心に頭が下がります。まさに国母そのものです。素晴らしい動画ありがとうございました。
大変な間違いをして失礼しました。貞明皇后です。お許しください。
わたしも大正天皇に4人男のこ出来なたの知っていたのでそれをスマホに載せたのですが私の間違いと注意されました。そのちゅういしたかたは
4人息子持ったのは明治天皇です。と、間違いでしょうか?
@@ハッチ-x9rあなた様が正しいですよ。昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮です。
めっちゃいい人
そうですね!
私、祖父から色々聞いいました。
明治生まれの祖母(もちろんただの神戸在住の市民ですw)が大正天皇を語るときは決まって「頼りない天皇さんやったな」と目を細めますが、
決して嫌な印象があったわけではなく、むしろ愛着を感じる言い方だったことを不思議に思っていました。
おそらく皇室やマスコミのプロパガンダも影響していると思われますが、軍人や政治家としての資質に欠けていたのは事実かも知れません。
ただ第二次大戦後の「象徴天皇」を是とするなら、時代の先取りという意味でその存在は重要だったのかもしれませんね。
裕仁天皇の時代、苦しい戦時下の昭和を生きた祖母は皇室に複雑な感情を持っていたかもしれませんが、
平成の世になり、娘時代を平和に過ごした大正を懐かしく想い起こしていたのではないかとも思うのです。
大正天皇を誤認していました。時代が合っていなかったんですね…🥲
大正天皇陛下といえば三ツ矢サイダーですね。😀✨
そういうことで、明治以降の天皇で、死後
大正天皇の誕生日だけ祝日にならなかったと聞いたけどなあ
大正天皇の「漢詩」についてもっと深堀りして頂きたくお願い致します。
皇子4人❗️今の皇室に1人欲しいですね😃💕
浅田宗伯先生が救ったんですよ。
昔の天皇家は血縁関係が濃かったのだと思う
八王子市の大正天皇陵には毎月1回は参拝へ行っております。
あなたのような方がおられて大正天皇もお喜びになられていらっしゃいますね。
私は遠くてで向けませんが、これからも続けて頂けるようお願いいたします。
タブー視なんてされていましたっけ?
明治と昭和がフォーカスされ過ぎていて大正自体をあまり教わらず記憶も曖昧、と言った感じですが。
水銀でなく酸化鉛です。
時代は短かったが、激動の時代を生き抜き、偉大な天皇であった
遠眼鏡の事はお身体の調子が良くない中でも、元気ですアピールであられたのでは無いかと思います。
高明皇后は大変立派なお方で、とくに福祉事業に尽力された
天皇を神と讃えていた時代に、もし実際に暗愚であったならばそのことを隠蔽するのが普通ではないだろうか。
とても不自然に感じる。実は世の見識に秀でており、傀儡となることを拒み続けた故かとも勘ぐってしまう。
大正天皇が長生きしてたら、今はどうなってたんだろう?
って思った!
兄君が薨去されず即位していたら、一皇族としてまた文化人として歴史にその名を残していたのかもしれない。
大正天皇は、暗愚だとか言われバカにされ続けてきたけど、私はそんな風には思えなかった。
国民には伏せているが遠眼鏡事件は功績に伝えるべきだと思う。
でも、結構知られている話ですよね😂ウチの祖父母も何回も話してました❤
貞明皇后は皇太后になってからは日課として大正天皇の遺影を飾ってある御影殿に一人でこもられ日常のニュースなどを語られていたそうです。本当に愛されていたんですね。
平成天皇以降の国民との接し方を最初に始めた天皇だと思う。
「平成天皇」はまるで違います。
このような元号を冠した呼び名は天皇陛下が崩御された際に使われる諡(おくりな)であって、「平成天皇」は上皇陛下にとても失礼です。
ご存命の上皇陛下を平成天皇と呼ぶのは失礼ですよ。
昭和天皇と良く似てるね。
けっこうトガッてるんだよな~かっこいい
「ハングル文字」はありますが「ハングル語」はありませんね
明治期以降、大正天皇の御代が一番安定していたような気がします
激動の明治と昭和に挟まれた束の間の安定していた時期でしたからね。ただ大正時代生まれは現役兵の中核として大勢が戦没されましたので、男性の割合が極端に少ない様です。
自分の父親が明治天皇だったと想像してみろ、
それだけでメンタルやられるわ。
何か昨今の多くの陰謀説に毒されてるのか日本の闇に触れた気がした。。。
明治天皇と昭和天皇の間で影は薄いですが、歌と、書は素晴らしいと、今東光が書いてました。
時代が変わるとこうも話が変わるのには驚きです。
大正天皇拝見するたびにムーディ勝山に見えてしょうがない
'`,、('∀`) '`,、
病気がちな天皇に子供が様が4人もうまれられた、おめでたいことですね
この時代、平民は子沢山が多かったようですね。
公務員試験で日本史に出るので勉強になりました‼︎
試験、頑張れ!
私は自慢では有りませんが皇室に色々、所縁があります。先ず私が生まれたのが「地久節」で今の方々は知らない方が多いですが、この日は昭和天皇陛下の、お后さまの、お生まれになった月日を「地久節」と言います。また私の実母は結婚で、お暇を頂くまで宮中に居りました。私が生まれた「地久節」にちなみ「節克」と名付けられました。読みを、どうするか「せつかつ」では妙だし、そこで母が考えたのが「大正天皇」のお后様「節子」(さだこ)様から頂き「さだかつ」と命名しました。役所に届けに行った母は役人から、畏れ多くも皇室に関係する名前を付けるとは「不敬罪」だと怒られ許可されず帰宅し母が仕えた女官に経緯を書いたところ「お構いなし」と返事を頂き、それを持って再度、役所に行きましたところ、今度は皇室に所縁が有る方だと許可して呉れたそうです。三上女官の写真や手紙類は未だに我が家に残っております。長くなりましたが、この様な経緯で私の名前が付けられました。今まで読めた方は高校時代の国語の先生だけで「もしかして(さだかつ)か??と聞かれました。これは我が家に残された大切な経緯です。
素晴らしい家族の歴史ですね。子々孫々語り継いでいかれて下さい。
自慢じゃないって言うのはたいがい自慢だったりするよね
中山忠能さんは大正天皇の曽祖父で明治天皇の祖父では?
明治天皇の曽祖父で中山さんなら中山忠頼だと思います。
間違ってたらすみません💦
北投中和街,復興公園對面 ,(何嘉仁書店),聯鎖店, 後換(松青超市),又換(全聯超市)到現在, 何嘉仁搬到, 北投市場(磺港路)三角窗一,二樓整棟,
命令を無視した山県有朋らの方が不敬ではないか。晩年の山県に大命したのも『お前が推した者は何かと短命であったり事件を起こしたりするので責任を取ってお前が組閣せよ。』というお怒りがあっての事だったと思う。
大正天皇の誕生日を祝日に
これ以上、休みを増やしても学業がおろそかになる。
皇室を「タブー化」してはいけません。
もし御長命であれば真珠湾攻撃は無かったのではないかなどと思う。
でしょうね。更には中国朝鮮東南アジア諸国を大日本帝国が支配しているでしょう。
私の住むところは、大正天皇の御即位の時、主基殿に選ばれました。今でもその時の品々が残っていますね、ありがたいことです。お宮には、記念の石碑が在ります!
凄い映像ありがとうございます‼️よくこんな凄い映像作れましたね🎉感謝感激感動です🎉
皇室だけは、側室を保っても良かった気がする、そうしないと今みたいに女しか生まれないとか後継問題がでるし
大正天皇は病弱だったと言う事しか知らなかったので大変参考になりました。動画中にも有りましたが私達の世代は徳川慶喜(よしのぶ)では無く(けいき)と習いましたよ。(けいき)が正しいんじゃないの❓
徳川慶喜公の「慶」は十二代将軍徳川家慶公の偏諱を賜ったもので正式には間違いなく「よしのぶ」です。隠退後過ごされた静岡でも市民が親愛の情を込めて「けいきさま」と呼んでいましたが皆大正天皇が呼ばれた愛称を真似ていたのでしょうね。偏諱を賜ることはたいへん名誉なことで古くは後醍醐天皇の尊治から賜った足利尊氏、歴代足利将軍家から賜った守護大名や戦国大名の諱があります。江戸時代も有力大名や親藩大名は皆将軍の諱から一文字を賜った諱を名乗っていました。
皇室はやはり政治とは切り離した方が良い。
皇室が悪い訳ではなく皇室を牛耳る連中の思惑だけで日本が左右される羽目になる。
そんな感じ。
此れまでに以上に皇室の偉大さを覚えました。有難うございます。
現行憲法下に生まれた方が幸せだったと思う。
現行憲法皇室典範下でも、かなり窮屈そうですよね。
@@QTX1234さん 確かにそうですね。大正天皇の自由気ままな言動ですと、マスコミの恰好のネタになってしまいますからね。
皇室を繋ぎ、偉大な昭和天皇、平成天皇、今上天皇陛下まで繋いで頂き、ありがとうというしかないよね?
今の皇族にも見習って欲しいですね?
お話を聞いて分かるように、天皇である以上何があっても天命を全うすべきだと考えます。生前退位などありえません。
象徴天皇であっても、日本で唯一神に近い立場であり、毎日神に国民の安寧を祈っていただける方なのですから、徳仁天皇陛下には天皇を全うして頂きたいと思います。残念でも延命治療はしないで尊いままでいていただきたいです。令和、彌栄。
有難うございました。
ご存命の上皇陛下を平成天皇と呼ぶのは失礼ですよ。
以外な人柄が強い印象です。
現在にお生まれだったら、少しは気が楽だったと思います。
偉大な父親を持つと、存在だけでもプレッシャーだと思います。
よくもまあ、こんだけ糊塗したストーリーを盲信する人(B⚪︎KAたれ)の多いことに驚きです。
こんな輩が身近にいたらどんだけ周囲が大変か全く想像できないんでしょうね。
正直なこと言ってごめんなさい。
大正天皇のお妃選びといい、昭和天皇の時の懸命に草むしりをしていた良子女王のエピソードと言い、お難儀所の変なオバサンが皇后に相応しくないことがよく分かった。
良子妃(香淳皇后)は姑である貞明皇后よりも身分の高い生まれだったこと、その点で嫉妬から軋轢を生んでしまったというのが残念なことでしたね。
それというのもやはり、明治天皇の子供たちがあまりにも育たなかったせいで、正妻である昭憲皇后が皇太子妃選びを行った際には「身分は度外視で、とにかく本人が健康で丈夫な子を沢山産めそうな女子であること」を最優先にして選んだ、という事情があったわけですが。
貞明皇后(九条節子/さだこ)自身は身分の低い側室の腹の生まれで、早くから農村に里子に出され、平民と一緒の野山育ちで「九条の黒姫さま」とあだ名されるほどの色黒ワイルドで頑強なお身体だったがゆえに、目に留まったということでしたが。
そもそもあの特殊な事情が無ければ、皇太子妃に選ばれて皇后に上がるようなことも有り得なかったと思われます。
そういった部分がご本人の中でも密かに根強いコンプレックスとなって、後年の嫁(良子/香淳皇后)いびりにまでつながって行ったようですし。
しかもその余波はさらにその下の美智子妃にまで及んだわけですから、なんとも累の深いお話です…。
当主ではなく妃だけを目の敵にしている人を見ると不思議な気がします。それぞれの価値観なので批判ではないですが、個人的には当主の方に言葉に出来ぬほどの思いを抱えています。大黒柱とも言いますので。
妃は「お印の植物を庭に植えたので、満開のアーチの下を娘とともに歩きたい」といった意味の事を会見で述べておられました。勘当したものだと思っていたので、再び御所内に入れる気でいた、そのご意向を国民に向けて発したというズレっぷりに驚愕しました。ただ、そのような事を仰ったという事は、妃もまたご自分でお庭の手入れをされているのかもしれません。勿論、させているのかもしれませんが、ご自分でされている印象を受けました。
@@南風-h7x
私は婚約会見での「皇族の方とは存じ上げなくて」という言葉で、それまでの秋〇宮の発言からも「宮の御魂相応の野心家が嫁いでくるか」と、若輩ながら感じたのを今も覚えています。
@@ats4wd 検索すればすぐに事実確認できることなのに、あの一家の姿を見るのが絶えらず確認できない。毎週皇室番組を見る程だったのに、自分でも信じられない。帰国子女である事や実家にTVが無かった事を差し引いても、親王だと知らなかったとは俄かに信じられない発言。本当に言葉がない。滅茶苦茶です。
この人が名君なら太平洋戦争に突き進んだろうか。昭和天皇は若すぎた
国民側(東宮・天皇に接する人々)が言うことを聞かなかったので、誰であっても同じなのではないでしょうか。
明治天皇は国民が共感できる考えであったから評価が高かったとも考えられます。神輿なのでしょう。
優しくて繊細な方だから、富国強兵の時代ならではの生きづらさがあったのだと思う。今の時代の天皇なら国民に愛されたと思う。実際大正天皇の皇子方は兄弟仲が良かったのか、戦後長兄の昭和天皇を助けながら各々公務をされていたし。
風呂や階段を恐がるて😮誰が言い出したんだってか誰かの意思を感じる。
ハングル語とは
脳膜炎からかろうじて助かった😢