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さとりに付いてのお話し有難く拝聴いたしました。私、以前から息子の事で悩んでいます、悩みすぎて自殺も考えた事もありました。お話のなかで気付かされた事があります。悩みを悩みと思わず、そこから逃げずに生き抜く、逃げることを考えて楽になる事ばかり考えていたから駄目だ。気付かされた。
隆 堀場様ご視聴、コメントありがとうございます。二者選択。楽な道と険しい道。楽な道を選び続けても…その楽な道で必ず『難しい問題』が出てきます。楽な道を選んでいるはずなのにです。なぜか…簡単なことです。楽な道は、自分にとって楽な道であって、問題の解決の道ではないからです。また…逃げても、逃げても、悩みは追いかけて来ます。これも至極当然のことです。なぜなら…悩みに立ち向かわなければ、悩みは悩みのままです。立ち向かった時、悩みは悩みでなくなります。どうしたら良いかの『問題』に変わります。問題に変わったとたん、その問題を、どうすれば解決出来るかを考える!という意識が生まれます。こう意識出来れば、悩みは問題となり、課題となり、その課題を解くための『解』を探せばよいのです。…そう言う物事の考え方もあります。…こう言う物事の捉え方が浄土真宗であります。南無阿彌陀仏合掌高科修
何も気にしなければ・・・子供のことを信じたらどうですか? 悟ると雑念が減り心穏やかになりますよ!生意気なことを書きました ありがとうございました。 感謝‼ 合掌
ゴン チビ様ご視聴、コメントありがとうございます。「生意気なことを書きました」とのゴン チビ様のお言葉。ゴン チビ様は、生意気ことなど書いてはございません。 ゴン チビ様が書かれたことは、親が決して出来ないことが書かれているだけです。親だから!子供を信頼していても心配するのです。(ちなみに…子供を心配するのに、その子供を信じているかいないかは無関係です)親だから!何も気にしないようにできないのです。ゴン チビ様の仰るように出来たなら、それはもう『親』ではありません。ゴン チビ様が何を信じ、何を信仰され、何を自分の人生を生きる軸にされているのかは、ゴン チビ様のご自由であります。ただ、この動画は、浄土真宗大谷派の宗教宗派の仏教的解釈を、浄土真宗大谷派の僧侶がお話をしております。浄土真宗大谷派は、「悟ると雑念が減り心穏やかになりますよ」には成らないと説く宗教宗派であります。その由縁は、動画でお話をしております。ご認知くださいませ。南無阿弥陀仏合掌高科修
その通りと思いました。全てのことにおいて、不安とか、心配とか心穏やかになる事はあり得ないですね。人間生きているうちに悟ることは無いですね。人間として生きているから不安や心配が無くなることは無いですね。人間として生きる事は悩むことでもありますね。しかし、悩みながら如何に生きていくかが問題ですかね。よくよく分かりました。ありがとうございます。合掌。
とびなわ様ご視聴、コメントありがとうございます。『人間として生きているから不安や心配が無くなることは無いですね。人間として生きる事は悩むことでもありますね。しかし、悩みながら如何に生きていくかが問題です』とびなが様のお言葉に、浄土真宗の…親鸞聖人の正信偈の中の一句…『不断煩悩得涅槃』の『姿』を見せて頂きました。『不断煩悩得涅槃』とは、まさに…『人間として生きているから不安や心配が無くなることは無いですね。人間として生きる事は悩むことでもありますね。しかし、悩みながら如何に生きていくかが問題です』との意識、自覚、決心、告白のことなのですから…合掌高科修
@@buddhism_japan 様不断煩悩得涅槃ですね。ありがとうございました。
16:00からのお話、心に刺さりました。悩みがあると言うことは自分にあたわったものがそれだけ多いある。あたわったものに感謝していきたいと思いました。ざわつく心も自分の糧に。
She she様ご視聴、コメントありがとうございます。「ざわつく心」それは、何も自分にとって都合の悪い事だけに涌き出てくる心ではありません。自分にとって都合の良いことにでも涌き出てくる心です。さらに、都合の良し悪しに関わらず、何も起こらなくても、ざわつく心は涌き出てきます。私たちは、この「ざわつく心」と共に生きていくしか道はありません。それこそ、死にたくないと願っても、必ず死ななければならない「わたしが居る」のと同様です。ならば、She she様のおっしゃる通り、すべてを「糧」として生きていく術しか私たちには残されていません。She she様のコメントに、She she様の生きるということに対する「決意」を私も学ばせて頂きました。ありがとうございます。合掌 高科 修
「悟る」私の知りたかったのは、「覚り」の意味でした。15年前に、色々な事柄が腑に落ちるようになり始め、点と点が結び始め、線になり、線と線が結ぶ。そして他の点に繋がるために2次元から3次元へ思考が変わり「あ、これって、このまま繋がると球体になるのか?確かバランスの取れた完全な形は球。これって悟り始めているのか?」と。それを叔母に話したところ「悟りとはそういうものではないよ。」と一言言われました。それから、「悟りとは」とずっと考えておりました。高科様が、先刻「ご門徒さんとの一コマ法話「礼儀を知らないではすまされない」コメント回答&解説 撮影後記」で、私が「腑に落ちる」について質問をしたところ膝が折れ、身体が震え、心が叫ぶ、その場にうずくまることしか出来ないないほどの『頷き』……とお答えくださり。15年前、初めてこのような体験をした事がまさにこれなのです。つまり、私が「悟り始めたのか?」と感じた事は、単に「腑に落ちる」を体感したに過ぎなかったのですね。そして、「覚る」とは、「覚れないこと」以前、職場の上司が「人はミスをする生き物だから」で話しが終わり。私は心の中で。「え?いや、ミスする生き物だよ。でも、その先が大事でしょ。ミスをするからミスをしないように気をつけるんでしょ。それが人間でしょ。」と、叱りたくなりました。私は、今まで多くの人から考え方、生き方を否定され続け、しかしそれでも正しいと信じて変えずに生き抜いてきました。その中で、高科様のお話しは、そんな私の生き方を唯一肯定してくださる内容ばかりなのです。とても感謝しております。
ボスミン様ご視聴、コメントありがとうございます。私が肯定しているのではないですよ(笑)浄土真宗の説く教えを宗に、軸に生きていれば、至極当たり前、当然のことだというだけです。私の生き方が、浄土真宗だということです。南無阿弥陀仏合掌高科修
いつも有り難くお説法を拝聴させて頂いてます。🙏有難うございます。🙏「悟り」はわかり易くお話し頂け‚「そうなんだ!」と楽な気持ち(穏やか)にならせて頂きました。幾つに成っても親は子供を気遣う気持ちを子を信じて見守って生きたいです。ありがとうございました。🙏 合掌
谷花文子様「幾つになっても親は子を気遣う気持ちを子を信じて見守って生きたいです」親ならば誰もが深く深く頷く念(おも)いに他なりません。ある意味「ざわつく」ことが親であることの証明です。「不断煩悩得涅槃」↓「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」↓煩悩(ざわつく心)を無くそうとせず涅槃(ざわつく心は無くせないと自覚する・ざわつく心は自分にあると覚メザめる)を得るなり。↓ざわつく心が無くならないと覚(メザ)めたならば、そのざわつきは邪魔にはならない。そのざわつきこそが私自身であると認めて生きていける。谷花文子様のコメント。そのすべてが、まさに「不断煩悩得涅槃」だと深く頷かせて頂きました。合掌 高科 修
本日も有り難うこざいます。ただ見れば、何の苦もなき水鳥の、足に暇なき、我が思いかな水戸光圀が詠んだといわれる歌ですね。あぁなれば良い、こうなれば良いと欲し、叶えば叶ったでどう維持していけば…もっと何とかならないか…とキリなく欲が湧き…留まることを知らず、有無同然を思い知らされます。悟りと覚りの点から観ましても、所詮自分の気持ち(欲)に蓋など出来ぬ私達。それどころか、自分の命を繋ぐために他の命を頂いている私達。私達が今ここに存在出来ている根底には何があるのか?、物質的なものだけでなく、掛けられた思い、目に見えるもの見えぬもの全ての下に私達が存在していることを感じ、考え、明日に生き、活かせる「私」でありたいと切に思います。
ちゃんぴー様ご視聴、コメントありがとうございます。すべての命ある生き物は、他の命を食せねば命を繋ぐことができません。仏教では「殺生」を一番の「罪」としています。先に書いたように、他の生き物を殺生せねば自分の命を生きれないのにです。どうころんでも殺生せずには生きれないのにです。それはなぜ?なのでしょうか。それは一番の罪とすることで、その「殺生」に「ありがとう」と「ごめんなさい」を私自身に自覚させるためです。では、なぜ自覚させる必要があるのでしょう。それは、「殺生」が避けされないからです。つまり避けられない殺生だから、「しょがないじゃないか!」「そんなこと言っても無理だから!」と殺生を当たり前だと思わないようにするためなのです。「当たり前」の意識には、「ありがとう」も「ごめんなさい」も生まれません。命ある物の宿命としてある殺生を「感謝」と「謝罪」をしながら、すべての命を背負って、それこそ殺生した命に「恥ずかしく無いように生きていく」これが私たちが存在している意味だと思います。ちゃんぴー様がおっしゃる「~私でありたいと切に思います」の意思こそ、私達が存在している意味なのです。私は深くそう感じました。合掌 高科 修
@@buddhism_japan 高科先生、ご返信有り難うこざいます。当たり前の意識には、有り難うもごめんなさいも生まれない…とても心に響きました。
お坊さんゴメンなさい❗本当にゴメンなさい‼️
声哲 孫様声哲 孫様が何について、『ごめんなさい』なのかは、私には計り知ることは出来ませんが……このサイトでは、私に謝る必要はありません。もし謝る必要があるのなら、それは自分自身にです。自分自身か気づいて、自分自身にありがとうとごめんなさい。自分自身が今まで気づかなくて、自分自身にごめんなさいとありがとう。浄土真宗は、どこまでも、自分自身に問うて行く宗教宗派です。合掌高科修
@@buddhism_japan もう生きて行けないかも知れない
心配性の、親は子どもの芽が出にくいと思います。私は 73歳ですが、ぼうとして能無しになりました。
梅本陵仙様ご視聴、コメントありがとうございます。「能無し」と言わないで下さい。何をもって「能無し」と決めるのでしょう。今!生きている!73年という人生の積み重ね。楽しい事悲しい事嬉しい事寂しい事苦しい事辛い事様々なものを背負って生きて、そして「今」「生きている」そのどこが能無しなのでしょうか。自分自身の人生です。誰の人生でもありません。誰とも比べる必要の無い梅本陵仙様の73年の積み重ねです。能無しどころか堂々と胸を張れる能有り!です。本当ですよ。合掌 高科 修
こんばんわ ^_^今宵もまた、地に足をつけて生きてゆく為の、ありがたいお話を有難うございました。何があっても、物の捉え方を負の方に考えず、しっかりと見据えて、これからも上手に苦しんだり、悩んだりして人間らしく成長していきたいと思いました。そして、悟りとは、決して悟れない事を知りました。今までに悟られた方は、ただ1人ブッダ(お釈迦様)だけですね〜🙏南無阿弥陀仏🙏
M Kwaguchi様お釈迦様が仏陀(ブッダ・Buddha)と呼ばれるのはサンスクリット語で目覚めた人・覚者を指すBuddhaからとられたものです。目覚めた人・覚者とは、「真理・本質・実相に目覚めた人(気づいた人)」と言う意味です。悟られたお釈迦様でさえ、その悟りとは「生老病死」というどうにもならないものを、「そうなのだ!」と受け入れて生きていくというものです。無くせないものを無くそうとしたり、有るものを有ると認めなかったり、それが人をざわつかせ、苦しませるのです。無くせないものは無くせないと認め、有るものは有ると受けとめる。その自覚が、心のざわつきも悩みも苦しみも辛さも悲しみも、それがあるまま生きいく力となっていくと私は思っています。ちなみに浄土真宗の教えのことを「究極のボジテブ思考」と私は呼んでいます(笑)合掌 高科 修
山中鹿之助も、「憂き事の尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言ってっていますね、気持ちだけでも前向きに生きたいです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以前・・・ある都会の住宅団地自治会で、子供たちが挨拶をすることを、止めさせるように取り決めた、と言うのをテレビのニュースかなんかで耳にしました、で、おかしい事を決めたもんだなあ、と思い聞いてると、その理由は、「子供が誰にでも挨拶をしてると、誘拐されるかもしれないから」と言う事だったが、・・・複雑な思いがしました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その事だけについてどうこう言うつもりはありませんが、総じて思う事団塊の世代の自分も身の回りで毎日いろんなことが有り最近自分が感じる事、愚痴になるかもしれませんが、・・・・・・・・・・・・・・・正しい将来の為に必要な事でもそれがその人(不特定多数の民衆)にとっていま面倒な事であれば、避けて通ってしまうか、本末転倒の間違った楽な方向で解決策をこうじる、その結果後で物事がより悪化してしまう、言い換えれば正しい事が葬り去られ、正直者が排除されて無責任で自堕落な事が常態化してしまって、「今、自分が楽する事」それが全てで当たり前だと捉えられてしまう、果ては筋違いの楽することがそれが権利だとのたまうだんだんそんな事が多い世の中になってきているように思います、我儘でだらしない事を、癒しとか、優しいとか、ゆとりとか、曲解してきているように思います30年以上前に亡くなった祖父さんは、「若い時の苦労は買うてでもせないかん」と教えてくれました、今の時代もっとその意味をかみしめてみるべきだと思います自分がいま楽しければ、どこで理不尽な事柄に耐え続けている人が居ようが知ったこっちゃない、・・・・・・・・・・本当の幸せは、そんなものではないはず
武井健二様ご視聴、コメントありがとうございます。「気持ちだけでも前向きに」…気持ちが前向きならば、人は生きて行けます!歯を食いしばって、唇を噛んで生きて行けます!あきらめずなげださずくさらず、生きて行けます!けれど…『後ろ向き』な時ほど…『全ての私に起こる事象は私の生きる糧に成る』という南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏の『気づき』が必要です。後ろ向きを前向きにする。武井健二様のお考え、お話しは…決して愚痴ではありません。まっとうな、正しい『大人』の見識であり意見です。そして、その正しい大人の見識・意見は、後人を導くものです。さらに、その正しい大人の見識・意見を言い続けることが、私も含めて、年長者の『その時(死)』が来るまで、『その時』のその瞬間までの『仕事』なのです。そういう意味では、私たち人間は、生涯現役であります。我が人生に定年はありません。本末転倒のお話しは…山ほどあります。そして恐ろしいことに、それが本末転倒であると『気づかない人』の多さです。子供が百円ライターで遊び火事になりました。世の中は、簡単に、百円ライターに火が着くから悪いと言い出しました。百円ライターは『危険』だと…企業は急ぎ百円ライターを改良し、百円ライターの着火を簡単には着火出来ないようにしました。結果、女性…特に力の弱い年長者の女性は百円ライターでの着火に戸惑い、または、着火することが困難になりました。私の年代でも、「あれ?これってどうやって着けるの?」ってなってしまいます。『子供の火遊び』…最初にしなければならないことは…子供に、火遊びをしてはイケないと教えることです。毎日毎日、いつもいつも、繰り返し繰り返し教え続けることです。それが、教育であり、躾であり、親の親たる『つとめ』です。その上で、子供が火遊びをしないように、火元になるようなモノを、子供の手の届かないところに仕舞って置くことです。川で子供が遊んでいて、その川に子供が転落して亡くなりました。世の中は、そこに冊(さく)がないからだと市が、町が悪いと言い出します。安全対策がなっていないと…確かに安全対策は必要です。けれど、冊があっても子供はその冊を登ります。その冊で遊びます。それが子供です。大切なのは、大事なのは、重要なのは、まず……そう…百円ライターの時と同じです。『その場所は危険だから遊ぶな!』と教え続けることです。先ず、『それ』なのです。なんでもかんでも『他の責任』で済ませてしまう。この風潮こそが世の中を狂わせています。蒔かない種は咲かないが望まぬ花が咲いたなら昔その種を蒔いたのだろう世の中のあらゆる事を、他人の責任にせず、世界の片隅にいる自分も『種を蒔いたかもしれない』と我が事として受け止め、一人ひとりが、謙虚かつ平静に生きることを求めるこの『句』が全てです。浄土真宗の『宗(中心・軸)の句であります。故に…そのことを、広く伝えて行くためのTH-camの法話配信であります。武井健二様。武井健二様におかれましては、すでにご存知であるかもしれませんが…『幸』と言う漢字には…すでに『辛』と言う漢字が入っております。辛いに『一』を付け加えると幸の漢字と成ります。つまり、辛く、苦しく、悲しく、悩み苦しみ、七転八倒しなければ、本当に…何が有り難いのか!何が大切なのか!何が重要なのか!何が必要なのか!それが心底わからない!と言うのが『幸』の漢字の持つ本当の意味であります。武井健二様の身の内にあるお言葉…『若い時の苦労は買うてでもせないかん』もまた、幸の中にある辛の意味そのものであります。追伸武井健二様…出来ることなら、一度ゆっくりと、一献かたむけながら、お話しをしたいものですね。南無阿彌陀仏合掌高科修
まずもって、自分のような「ざけんじゃねえぞばかやろう」と言う言葉が大好きな頑固な愚痴男の意見にもまともに受け、懇切丁寧にお答えしていただいたことに、感謝いたします子供のライターの話。子供が落ちないための川の柵の話・・・本当に同感、御坊のおっしゃっる通りです、こんな愚痴をまっとうに評価してくれたのは初めてです有難い事です、愚痴ついでにもう一つ、自分の町で気に食わないことが有りました何十年も前に息子2人が通っていた小学校での事です、何年か前に学校の放課後と休日の子供たちの学校への入門を禁止して校門の扉に鍵をかけたと言う話を近所の父兄から聞きました自分たちが小さい時、学校は放課後一番の遊び場でした、家にカバンを放り投げて一目散に学校へ・・・夏休みソフトボールをしたり竹登りをしたり、なのに…またなんでだろうと思って、聞いてみると、とある日曜日に子供たちが学校の砂場にある鉄棒をしていて,手がすべって砂場にこけて腕を骨折したらしい、そしたら骨折した子供の親が、学校側へ、管理不行き届き、とかいう事で捻じ込んできたと言う、・・・まあそれも筋違いのような事だと思って聞いていましたがそれにたいして学校側が、だったら時間外の校庭の子供たちの使用は禁止すると言う事に決めたと言う、・・・・なんと両者大人げない狭い考えの人間ばかりになってしまったもんだなあ、と思っていましたが、しばらくして遊び場がなかったのでしょう、たまたま学校前の道路で子供が遊んでいてボールを追いかけていて車と接触する事故がありました、・・けがは大したことは無かったようですが・・・・で自分が思った事は、それみろあまつさえ子供を守る事が主務である者たち自身が、身勝手で短絡的なメンツとかしょうもない感情だけで行動に出た結果、子供たちの遊び場を奪ってしまい自動車事故に追いやったのです、なんと愚かな!!いみじくも御坊が仰った・・・・・・・・・・・・・・・・・・>そして恐ろしいことに、それが本末転倒であると『気づかない人』の多さです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・>蒔かない種は咲かないが望まぬ花が咲いたなら昔その種を蒔いたのだろうそのことを親も教育者である学校側も全然認識してないと言う子供を健全に守り育み成長を祈る聖地であるべき学校と言うところが自分の責任逃れさえできればその為に子供が危険な場所へ追いやられても知ったこっちゃないそれが現実です・・・正直言って腹立たしい限りでした、世も末です本当に末法です、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そして御坊のご意見・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・>世の中のあらゆる事を、他人の責任にせず、世界の片隅にいる自分も『種を蒔いたかもしれない』と我が事として受け止め、一人ひとりが、謙虚かつ平静に生きることを求めるこの『句』が全てです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このことを言う方がおられたことが感激です、嬉しいです探し求めていた言葉です自分は常常、世の中でいろんな事件をテレビで知りますが以前新宿のスクランブル交差点の雑踏にトラックで突っ込んでゆき何人もの人を死傷させた事件がありましたが、その後それと同類の事件もいくつかありました、若い犯人は「誰でもよかった人を轢きたかった、」などと供述したのを見て思う事は、・・・けっして犯人が正しいとは思いません・・・ただ若い犯人にこんな世の中なんて、と思わせてしまってる社会の中の、自分も一員なんだと、責任の何万分の一か感じていなければいけないと、思っておりました、社会全体もそう思ってほしいものだと思っていました、それを機会があり何人かの人に話すとほとんどすべての人が「そんなことない、あれは犯人が思うのが間違いで、悪人なだけで社会も貴方も何の罪もない」という答えでしたが、今でも私はそうではない・・・自分を含む社会が反省するべきところはあると思っていますが、思ってるだけで何もできていません御坊のご見識で胸のつかえがとれる思いです・・・・・・・・・・・・・・・・・・>出来ることなら、一度ゆっくりと、一献かたむけながら、お話しをしたいものですね。・・・・・・・・・・・・・・・望むところです有難うございました
悟、という言葉はお釈迦さまの言葉で、一般庶民も同じような気持ちになる訳ではないかも知れません。生きている間は形のある世界ですのでどうしても形のある物に心が奪われますがそれはそれで良いかと思います。お金も家も車も食べ物も必要な物ですので全く否定して生きる事は出来ないと思います。同時に形の無い世界の考え方も必要だと思います。
Kiniti Ootani様ご視聴、コメントありがとうございます。悟り…お釈迦様ご自身も自分で悟ったなどとは仰っておりません。お釈迦様は、真実・真理に『気づいた』と仰っておられます。その真実・真理とは…『人生は苦である』その一言であります。『悟る』という言葉に囚われて、無いものを追いかける生き方は、如何なものか…そういう主旨の動画であります。ご認知下さいませ。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 有難いご法話を有難うございます。お釈迦さまのお話をご存知かと思います。釈迦族の王様で何不自由なく生活出来るのに自分が幸福なのかが分からない。お城の外に出て、生老病死という不幸を知って自分を苦しめて初めて自分は幸福だった事に気付かれたのだと思います。つまり人は相対的に認識する生き物で、苦というものが無ければ幸福が認識出来ないようになっているのだと思います。世界が白という色しか無かったら白と認識出来ない。白ではない他の色が存在する事によって初めてこの色は白である、と認識出来るわけです。ですからお釈迦さまは幸福に相対する苦が必要である為にこの世は苦であると表現されたのだと思います。これはお釈迦さまに限らず、社長の御曹司であったりお寺の跡継ぎであったり又、豊かな日本に生まれているのに、その豊かさがわからない人など、恵まれているのにそれに気づかない人が山ほどいます。日本の当たり前は外国では凄い事だと子供たちに教えてあげると良いと思います。
後の弘法大師は、遣唐使で派遣される前、独自の修行で悟られました。 一方、後の親鸞聖人は、20年間比叡山で一心に修行され、麒麟児とまで褒め称えられましたが、密教を悟れずに山を下りられました。ここはどう解釈されますか?
きたきた様空海。親鸞。歴史上に名を列ねる偉大な僧お二人。そのお二人の胸の内。それも「さとり」というご本人にしか分からないお心。他人にはとうていはかり知れない境地を、私ごとき浄土真宗大谷派の末席を汚す一僧侶が、このお二人を「解釈」するなど…恐れ多いことで御座います。私は…自分で…感じたことしか話せません。思ったことしか語れません。どうぞご理解頂ければ幸いです。合掌高科修
大学の受験番号9642つまり苦労死にかと思ったけど、三十年経って苦労の連続だった。
小松晃様苦労のない人などこの世の中に居ません。悩みのない人もこの世の中に居ません。人は誰一人漏れることなく悩みや自分自身ではどうにもならないことに苦しみもがきながら生きております。他人に、そのことを語らないだけでございます。私たちが、そのことに気づかないだけでございます。ちなみに…私の誕生日は…4月の29日です。0429。シンデモニクマレル死んでも憎まれる。で御座います。で…それがどうした(大笑い)と思っております。合掌高科修
子供のことに心 おだやか でおられる人はほんとに おやだか?
りんりんりんCHIP様ご視聴、コメントありがとうございます。親が子を心配し続ける『親心』を例にとり……そのことからも……人が、おだやかな心境=さとりという心境に至ることなどあり得ない!とお話を致している動画であります。動画の主旨を、汲み取って頂ければと願っております。南無阿弥陀仏合掌高科修
生きて行くと言うのは、ある意味、生き地獄ですか?
晃小松様『生きて行く』それは…人がどうすることも出来ない『生老病死』の中で生きて行かねばならないということです。人間がどうあがいても…生まれ老いて病になり死すことはどうすることも出来ません。この『どうすることも出来ない』ことをお釈迦様は『苦』という言葉を使い表しました。一般的に、日常的に、私たちが使う『苦(苦しみ)』という意味ではありません。『生きていく』ということは『苦』です。けれど、それを『生き地獄』『地獄』ととらえるのは、いかがなものかと思うのです。実は、地獄も極楽も『在る』ものではありません。地獄も極楽も実は『感じる』ものなのです。晃小松様にお願いがあります。動画『地獄と極楽』th-cam.com/video/DGN-ylwzz0g/w-d-xo.htmlを是非ご視聴頂きたく思っております。晃小松様のお尋ねに対して、何らかの手助けになると思っております。よろしくお願い致します。合掌高科修
生かされてるのかな…
khon ghand afffuf 075様ご視聴、コメントありがとうございます。「生かされいるのかな…」との khon ghand afffuf 075様のお言葉。khon ghand afffuf 075様は、いったい誰に生かされていると思っておいでなのですか…誰かに『命』を握られておられるおつもりですか…『自分の命』を生きているのは、まぎれもなく『自分』です。『無有代者』…代わる者有ること無しの私が自分の命を生きております。先ず、この、厳しい事実を背負う自覚なしに、「生かされてる」などという言葉は意味を持ちません。ことあるごとに……アカウントを代え、アイコンを代え、貴方にはわからないと駄々をこねる ……アカウントを代えても、アイコンを代えても、村上祥様は村上祥様なのです。自分自分を自分自身で、『無有代者』…代わる者有ること無しの有難い私(村上祥)であるという自覚なしには、何も見えては来ません。自分が成長することと、リセットしようとすることとは、違うのです。一度、真剣に、考えてみられては如何でしょうか………………南無阿弥陀仏合掌高科修
娘の事で、イライラしでいます。いま付き合っている、人がいるのですか、名前顔も知らないのです、おやが新ばいしたら、行けないのでさか?今の世の中いろいろあるので、
崎昭子 様親が子供のことを心配しないでいることは、不可能です。逆に、子供のことが『心配でなくなった』のなら、それは『親』ではありません。親とはそういう者です。『今の世の中いろいろあるので…』これは至極当然の親の心配ごとです。親ならば誰一人漏れることのない心配ごとです。ですので…子供に…邪魔くさがれても、嫌がられても、邪険にされても、『今の世の中いろいろあるから心配だ』と話すしかありません。話し続ける。心配し続ける。それが逆に、親としての覚悟となります。どうぞ、親としての覚悟を持って心配だといい続け、心配し続けていってください。私も人の親です。子供が何歳になっても、勝手に心配しておる毎日です。勝手に…でもそれが親という者です。だからこそ、逆に、私も崎昭子様も、自身の親に今も心配されていると気づいていけるのではないのでしょうか。私も崎昭子様も、共に親に心配をかけていた、そして今も心配してもらっていると。合掌高科修
@@buddhism_japan いつも、ありがとございます。
さとりに付いてのお話し有難く拝聴いたしました。私、以前から息子の事で悩んでいます、悩みすぎて自殺も考えた事もありました。お話のなかで気付かされた事があります。悩みを悩みと思わず、そこから逃げずに生き抜く、逃げることを考えて楽になる事ばかり考えていたから駄目だ。気付かされた。
隆 堀場様
ご視聴、コメントありがとうございます。
二者選択。
楽な道と険しい道。
楽な道を選び続けても…
その楽な道で必ず『難しい問題』が出てきます。
楽な道を選んでいるはずなのにです。
なぜか…
簡単なことです。
楽な道は、自分にとって楽な道であって、問題の解決の道ではないからです。
また…
逃げても、逃げても、悩みは追いかけて来ます。
これも至極当然のことです。
なぜなら…悩みに立ち向かわなければ、悩みは悩みのままです。
立ち向かった時、悩みは悩みでなくなります。
どうしたら良いかの『問題』に変わります。
問題に変わったとたん、その問題を、どうすれば解決出来るかを考える!という意識が生まれます。
こう意識出来れば、悩みは問題となり、課題となり、その課題を解くための『解』を探せばよいのです。
…そう言う物事の考え方もあります。
…こう言う物事の捉え方が浄土真宗であります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
何も気にしなければ・・・子供のことを信じたらどうですか?
悟ると雑念が減り心穏やかになりますよ!
生意気なことを書きました
ありがとうございました。 感謝‼ 合掌
ゴン チビ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「生意気なことを書きました」とのゴン チビ様のお言葉。
ゴン チビ様は、生意気ことなど書いてはございません。
ゴン チビ様が書かれたことは、親が決して出来ないことが書かれているだけです。
親だから!
子供を信頼していても心配するのです。
(ちなみに…子供を心配するのに、その子供を信じているかいないかは無関係です)
親だから!
何も気にしないようにできないのです。
ゴン チビ様の仰るように出来たなら、それはもう『親』ではありません。
ゴン チビ様が何を信じ、何を信仰され、何を自分の人生を生きる軸にされているのかは、ゴン チビ様のご自由であります。
ただ、この動画は、浄土真宗大谷派の宗教宗派の仏教的解釈を、浄土真宗大谷派の僧侶がお話をしております。
浄土真宗大谷派は、
「悟ると雑念が減り心穏やかになりますよ」には成らないと説く宗教宗派であります。
その由縁は、動画でお話をしております。
ご認知くださいませ。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
その通りと思いました。全てのことにおいて、不安とか、心配とか心穏やかになる事はあり得ないですね。人間生きているうちに悟ることは無いですね。人間として生きているから不安や心配が無くなることは無いですね。人間として生きる事は悩むことでもありますね。しかし、悩みながら如何に生きていくかが問題ですかね。よくよく分かりました。ありがとうございます。合掌。
とびなわ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『人間として生きているから不安や心配が無くなることは無いですね。人間として生きる事は悩むことでもありますね。しかし、悩みながら如何に生きていくかが問題です』
とびなが様のお言葉に、浄土真宗の…
親鸞聖人の正信偈の中の一句…
『不断煩悩得涅槃』
の『姿』を見せて頂きました。
『不断煩悩得涅槃』
とは、まさに…
『人間として生きているから不安や心配が無くなることは無いですね。人間として生きる事は悩むことでもありますね。しかし、悩みながら如何に生きていくかが問題です』
との意識、自覚、決心、告白のことなのですから…
合掌
高科修
@@buddhism_japan 様
不断煩悩得涅槃ですね。
ありがとうございました。
16:00からのお話、心に刺さりました。
悩みがあると言うことは自分にあたわったものがそれだけ多いある。
あたわったものに感謝していきたいと思いました。
ざわつく心も自分の糧に。
She she様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「ざわつく心」
それは、何も自分にとって都合の悪い事だけに涌き出てくる心ではありません。
自分にとって都合の良いことにでも涌き出てくる心です。
さらに、都合の良し悪しに関わらず、何も起こらなくても、ざわつく心は涌き出てきます。
私たちは、この「ざわつく心」と共に生きていくしか道はありません。
それこそ、死にたくないと願っても、必ず死ななければならない「わたしが居る」のと同様です。
ならば、She she様のおっしゃる通り、すべてを「糧」として生きていく術しか私たちには残されていません。
She she様のコメントに、She she様の生きるということに対する「決意」を私も学ばせて頂きました。
ありがとうございます。
合掌
高科 修
「悟る」私の知りたかったのは、「覚り」の意味でした。
15年前に、色々な事柄が腑に落ちるようになり始め、点と点が結び始め、線になり、線と線が結ぶ。そして他の点に繋がるために2次元から3次元へ思考が変わり
「あ、これって、このまま繋がると球体になるのか?確かバランスの取れた完全な形は球。これって悟り始めているのか?」
と。
それを叔母に話したところ「悟りとはそういうものではないよ。」と一言言われました。
それから、「悟りとは」とずっと考えておりました。
高科様が、
先刻「ご門徒さんとの一コマ法話「礼儀を知らないではすまされない」コメント回答&解説 撮影後記」
で、私が「腑に落ちる」について質問をしたところ
膝が折れ、身体が震え、心が叫ぶ、その場にうずくまることしか出来ないないほどの『頷き』……
とお答えくださり。
15年前、初めてこのような体験をした事がまさにこれなのです。
つまり、私が「悟り始めたのか?」と感じた事は、単に「腑に落ちる」を体感したに過ぎなかったのですね。
そして、「覚る」とは、「覚れないこと」
以前、職場の上司が「人はミスをする生き物だから」で話しが終わり。
私は心の中で。「え?いや、ミスする生き物だよ。でも、その先が大事でしょ。ミスをするからミスをしないように気をつけるんでしょ。
それが人間でしょ。」と、叱りたくなりました。
私は、今まで多くの人から考え方、生き方を否定され続け、しかしそれでも正しいと信じて変えずに生き抜いてきました。
その中で、高科様のお話しは、そんな私の生き方を唯一肯定してくださる内容ばかりなのです。
とても感謝しております。
ボスミン様
ご視聴、コメントありがとうございます。
私が肯定しているのではないですよ(笑)
浄土真宗の説く教えを宗に、軸に生きていれば、至極当たり前、当然のことだというだけです。
私の生き方が、浄土真宗だということです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
いつも有り難くお説法を拝聴させて頂いてます。🙏
有難うございます。🙏
「悟り」はわかり易くお話し頂け‚「そうなんだ!」と楽な気持ち(穏やか)にならせて頂きました。
幾つに成っても親は子供を気遣う気持ちを子を信じて見守って生きたいです。
ありがとうございました。🙏 合掌
谷花文子様
「幾つになっても親は子を気遣う気持ちを子を信じて見守って生きたいです」
親ならば誰もが深く深く頷く念(おも)いに他なりません。
ある意味「ざわつく」ことが親であることの証明です。
「不断煩悩得涅槃」
↓
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
↓
煩悩(ざわつく心)を無くそうとせず涅槃(ざわつく心は無くせないと自覚する・ざわつく心は自分にあると覚メザめる)を得るなり。
↓
ざわつく心が無くならないと覚(メザ)めたならば、そのざわつきは邪魔にはならない。そのざわつきこそが私自身であると認めて生きていける。
谷花文子様のコメント。
そのすべてが、まさに
「不断煩悩得涅槃」だと深く頷かせて頂きました。
合掌
高科 修
本日も有り難うこざいます。
ただ見れば、何の苦もなき水鳥の、足に暇なき、我が思いかな
水戸光圀が詠んだといわれる歌ですね。
あぁなれば良い、こうなれば良いと欲し、叶えば叶ったでどう維持していけば…もっと何とかならないか…とキリなく欲が湧き…留まることを知らず、有無同然を思い知らされます。
悟りと覚りの点から観ましても、所詮自分の気持ち(欲)に蓋など出来ぬ私達。それどころか、自分の命を繋ぐために他の命を頂いている私達。私達が今ここに存在出来ている根底には何があるのか?、物質的なものだけでなく、掛けられた思い、目に見えるもの見えぬもの全ての下に私達が存在していることを感じ、考え、明日に生き、活かせる「私」でありたいと切に思います。
ちゃんぴー様
ご視聴、コメントありがとうございます。
すべての命ある生き物は、他の命を食せねば命を繋ぐことができません。
仏教では「殺生」を一番の「罪」としています。
先に書いたように、他の生き物を殺生せねば自分の命を生きれないのにです。
どうころんでも殺生せずには生きれないのにです。
それはなぜ?なのでしょうか。
それは一番の罪とすることで、その「殺生」に「ありがとう」と「ごめんなさい」を私自身に自覚させるためです。
では、なぜ自覚させる必要があるのでしょう。
それは、「殺生」が避けされないからです。つまり避けられない殺生だから、「しょがないじゃないか!」「そんなこと言っても無理だから!」と殺生を当たり前だと思わないようにするためなのです。
「当たり前」の意識には、「ありがとう」も「ごめんなさい」も生まれません。
命ある物の宿命としてある殺生を「感謝」と「謝罪」をしながら、すべての命を背負って、それこそ殺生した命に「恥ずかしく無いように生きていく」これが私たちが存在している意味だと思います。
ちゃんぴー様がおっしゃる「~私でありたいと切に思います」の意思こそ、私達が存在している意味なのです。
私は深くそう感じました。
合掌
高科 修
@@buddhism_japan
高科先生、ご返信有り難うこざいます。
当たり前の意識には、有り難うもごめんなさいも生まれない…とても心に響きました。
お坊さんゴメンなさい❗本当にゴメンなさい‼️
声哲 孫様
声哲 孫様が何について、『ごめんなさい』なのかは、私には計り知ることは出来ませんが……
このサイトでは、私に謝る必要はありません。
もし謝る必要があるのなら、それは自分自身にです。
自分自身か気づいて、
自分自身に
ありがとう
と
ごめんなさい。
自分自身が今まで気づかなくて、
自分自身に
ごめんなさい
と
ありがとう。
浄土真宗は、どこまでも、自分自身に問うて行く宗教宗派です。
合掌
高科修
@@buddhism_japan もう生きて行けないかも知れない
心配性の、親は子どもの芽が出にくいと思います。私は 73歳ですが
、ぼうとして能無しになりました。
梅本陵仙様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「能無し」と言わないで下さい。
何をもって「能無し」と決めるのでしょう。
今!生きている!
73年という人生の積み重ね。
楽しい事
悲しい事
嬉しい事
寂しい事
苦しい事
辛い事
様々なものを背負って生きて、そして「今」「生きている」
そのどこが能無しなのでしょうか。
自分自身の人生です。
誰の人生でもありません。
誰とも比べる必要の無い
梅本陵仙様の73年の積み重ねです。
能無しどころか
堂々と胸を張れる能有り!です。
本当ですよ。
合掌
高科 修
こんばんわ ^_^
今宵もまた、地に足をつけて生きてゆく為の、ありがたいお話を有難うございました。
何があっても、物の捉え方を負の方に考えず、しっかりと見据えて、これからも上手に苦しんだり、悩んだりして人間らしく成長していきたいと思いました。
そして、悟りとは、決して悟れない事を知りました。
今までに悟られた方は、ただ1人ブッダ(お釈迦様)だけですね〜🙏
南無阿弥陀仏🙏
M Kwaguchi様
お釈迦様が仏陀(ブッダ・Buddha)と呼ばれるのはサンスクリット語で目覚めた人・覚者を指すBuddhaからとられたものです。
目覚めた人・覚者とは、「真理・本質・実相に目覚めた人(気づいた人)」と言う意味です。
悟られたお釈迦様でさえ、その悟りとは「生老病死」というどうにもならないものを、「そうなのだ!」と受け入れて生きていくというものです。
無くせないものを無くそうとしたり、有るものを有ると認めなかったり、それが人をざわつかせ、苦しませるのです。
無くせないものは無くせないと認め、有るものは有ると受けとめる。
その自覚が、心のざわつきも悩みも苦しみも辛さも悲しみも、それがあるまま生きいく力となっていくと私は思っています。
ちなみに浄土真宗の教えのことを「究極のボジテブ思考」と私は呼んでいます(笑)
合掌
高科 修
山中鹿之助も、「憂き事の尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」
と言ってっていますね、気持ちだけでも前向きに生きたいです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前・・・ある都会の住宅団地自治会で、子供たちが
挨拶をすることを、止めさせるように取り決めた、と言うのをテレビのニュースかなんかで耳にしました、で、おかしい事を決めたもんだなあ、と思い聞いてると、
その理由は、「子供が誰にでも挨拶をしてると、誘拐されるかもしれないから」
と言う事だったが、・・・複雑な思いがしました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その事だけについてどうこう言うつもりはありませんが、総じて思う事
団塊の世代の自分も身の回りで毎日いろんなことが有り最近自分が感じる事、
愚痴になるかもしれませんが、
・・・・・・・・・・・・・・・
正しい将来の為に必要な事でもそれがその人(不特定多数の民衆)にとっていま面倒な事であれば、避けて通ってしまうか、本末転倒の間違った楽な方向で解決策をこうじる、
その結果
後で物事がより悪化してしまう、言い換えれば正しい事が葬り去られ、正直者が排除されて
無責任で自堕落な事が常態化してしまって、「今、自分が楽する事」それが全てで当たり前だと捉えられてしまう、果ては筋違いの楽することがそれが権利だとのたまう
だんだんそんな事が多い世の中になってきているように思います、
我儘でだらしない事を、癒しとか、優しいとか、ゆとりとか、曲解してきているように思います
30年以上前に亡くなった祖父さんは、「若い時の苦労は買うてでもせないかん」
と教えてくれました、今の時代もっとその意味をかみしめてみるべきだと思います
自分がいま楽しければ、どこで理不尽な事柄に耐え続けている人が居ようが
知ったこっちゃない、・・・・・・・・・・本当の幸せは、そんなものではないはず
武井健二様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「気持ちだけでも前向きに」…
気持ちが前向きならば、人は生きて行けます!
歯を食いしばって、唇を噛んで生きて行けます!
あきらめず
なげださず
くさらず、生きて行けます!
けれど…
『後ろ向き』な時ほど…
『全ての私に起こる事象は私の生きる糧に成る』という南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏の『気づき』が必要です。
後ろ向きを前向きにする。
武井健二様のお考え、お話しは…決して愚痴ではありません。
まっとうな、正しい『大人』の見識であり意見です。
そして、その正しい大人の見識・意見は、後人を導くものです。
さらに、その正しい大人の見識・意見を言い続けることが、私も含めて、年長者の『その時(死)』が来るまで、『その時』のその瞬間までの『仕事』なのです。
そういう意味では、私たち人間は、生涯現役であります。
我が人生に定年はありません。
本末転倒のお話しは…
山ほどあります。
そして恐ろしいことに、それが本末転倒であると『気づかない人』の多さです。
子供が百円ライターで遊び火事になりました。
世の中は、簡単に、百円ライターに火が着くから悪いと言い出しました。
百円ライターは『危険』だと…
企業は急ぎ百円ライターを改良し、百円ライターの着火を簡単には着火出来ないようにしました。
結果、女性…特に力の弱い年長者の女性は百円ライターでの着火に戸惑い、または、着火することが困難になりました。
私の年代でも、「あれ?これってどうやって着けるの?」ってなってしまいます。
『子供の火遊び』…
最初にしなければならないことは…
子供に、火遊びをしてはイケないと教えることです。毎日毎日、いつもいつも、繰り返し繰り返し教え続けることです。
それが、教育であり、躾であり、親の親たる『つとめ』です。
その上で、子供が火遊びをしないように、火元になるようなモノを、子供の手の届かないところに仕舞って置くことです。
川で子供が遊んでいて、その川に子供が転落して亡くなりました。
世の中は、そこに冊(さく)がないからだと市が、町が悪いと言い出します。
安全対策がなっていないと…
確かに安全対策は必要です。
けれど、冊があっても子供はその冊を登ります。
その冊で遊びます。
それが子供です。
大切なのは、大事なのは、重要なのは、まず……
そう…百円ライターの時と同じです。
『その場所は危険だから遊ぶな!』
と教え続けることです。
先ず、『それ』なのです。
なんでもかんでも『他の責任』で済ませてしまう。
この風潮こそが世の中を狂わせています。
蒔かない種は咲かないが
望まぬ花が咲いたなら
昔その種を蒔いたのだろう
世の中のあらゆる事を、他人の責任にせず、世界の片隅にいる自分も『種を蒔いたかもしれない』と我が事として受け止め、一人ひとりが、謙虚かつ平静に生きることを求めるこの『句』が全てです。
浄土真宗の『宗(中心・軸)の句であります。
故に…
そのことを、広く伝えて行くためのTH-camの法話配信であります。
武井健二様。
武井健二様におかれましては、すでにご存知であるかもしれませんが…
『幸』と言う漢字には…
すでに『辛』と言う漢字が入っております。
辛いに『一』を付け加えると幸の漢字と成ります。
つまり、辛く、苦しく、悲しく、悩み苦しみ、七転八倒しなければ、
本当に…
何が有り難いのか!
何が大切なのか!
何が重要なのか!
何が必要なのか!
それが心底わからない!と言うのが『幸』の漢字の持つ本当の意味であります。
武井健二様の身の内にあるお言葉…
『若い時の苦労は買うてでもせないかん』
もまた、幸の中にある辛の意味そのものであります。
追伸
武井健二様…
出来ることなら、
一度ゆっくりと、
一献かたむけながら、
お話しをしたいものですね。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
まずもって、自分のような
「ざけんじゃねえぞばかやろう」と言う言葉が大好きな
頑固な愚痴男の意見にも
まともに受け、懇切丁寧にお答えしていただいたことに、感謝いたします
子供のライターの話。子供が落ちないための川の柵の話
・・・本当に同感、御坊のおっしゃっる通りです、
こんな愚痴をまっとうに評価してくれたのは初めてです
有難い事です、
愚痴ついでにもう一つ、自分の町で気に食わないことが有りました
何十年も前に息子2人が通っていた小学校での事です、
何年か前に学校の放課後と休日の子供たちの学校への入門を
禁止して校門の扉に鍵をかけたと言う話を近所の父兄から聞きました
自分たちが小さい時、学校は放課後一番の遊び場でした、
家にカバンを放り投げて一目散に学校へ・・・夏休みソフトボールを
したり竹登りをしたり、なのに
…またなんでだろうと思って、聞いてみると、とある日曜日に子供たちが
学校の砂場にある鉄棒をしていて,手がすべって砂場にこけて
腕を骨折したらしい、そしたら骨折した子供の親が、学校側へ、
管理不行き届き、とかいう事で捻じ込んできたと言う、
・・・まあそれも筋違いのような事だと思って聞いていましたが
それにたいして学校側が、だったら時間外の校庭の子供たちの使用は
禁止すると言う事に決めたと言う、・・・・なんと両者大人げない狭い考えの人間ばかりになってしまったもんだなあ、
と思っていましたが、しばらくして遊び場がなかったのでしょう、
たまたま学校前の道路で子供が遊んでいてボールを追いかけていて
車と接触する事故がありました、・・けがは大したことは無かったようですが・・・・で自分が思った事は、それみろ
あまつさえ子供を守る事が主務である者たち自身が、身勝手で短絡的なメンツとかしょうもない感情だけで行動に出た結果、子供たちの遊び場を奪ってしまい
自動車事故に追いやったのです、
なんと愚かな!!
いみじくも御坊が仰った
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>そして恐ろしいことに、それが本末転倒であると『気づかない人』の多さです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>蒔かない種は咲かないが
望まぬ花が咲いたなら
昔その種を蒔いたのだろう
そのことを親も教育者である学校側も全然認識してないと言う
子供を健全に守り育み成長を祈る聖地であるべき学校と言うところが
自分の責任逃れさえできれば
その為に子供が危険な場所へ追いやられても知ったこっちゃない
それが現実です・・・正直言って腹立たしい限りでした、世も末です
本当に末法です、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして御坊のご意見
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>世の中のあらゆる事を、他人の責任にせず、世界の片隅にいる自分も『種を蒔いたかもしれない』と我が事として受け止め、一人ひとりが、謙虚かつ平静に生きることを求めるこの『句』が全てです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このことを言う方がおられたことが感激です、嬉しいです探し求めていた言葉です
自分は常常、世の中でいろんな事件をテレビで知りますが以前
新宿のスクランブル交差点の雑踏にトラックで突っ込んでゆき
何人もの人を死傷させた事件がありましたが、
その後それと同類の事件もいくつかありました、
若い犯人は「誰でもよかった人を轢きたかった、」などと供述したのを見て
思う事は、・・・けっして犯人が正しいとは思いません・・・ただ
若い犯人にこんな世の中なんて、と思わせてしまってる
社会の中の、自分も一員なんだと、責任の何万分の一か感じていなければいけない
と、思っておりました、社会全体もそう思ってほしいものだと思っていました
、それを機会があり何人かの人に話すとほとんどすべての人が
「そんなことない、あれは犯人が思うのが間違いで、悪人なだけで社会も貴方も何の罪もない」と
いう答えでしたが、今でも私はそうではない・・・自分を含む社会が反省するべきところはあると
思っていますが、思ってるだけで何もできていません
御坊のご見識で胸のつかえがとれる思いです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>出来ることなら、
一度ゆっくりと、
一献かたむけながら、
お話しをしたいものですね。
・・・・・・・・・・・・・・・望むところです
有難うございました
悟、という言葉はお釈迦さまの言葉で、一般庶民も同じような気持ちになる訳ではないかも知れません。生きている間は形のある世界ですのでどうしても形のある物に心が奪われますがそれはそれで良いかと思います。お金も家も車も食べ物も必要な物ですので全く否定して生きる事は出来ないと思います。同時に形の無い世界の考え方も必要だと思います。
Kiniti Ootani様
ご視聴、コメントありがとうございます。
悟り…
お釈迦様ご自身も自分で悟ったなどとは仰っておりません。
お釈迦様は、真実・真理に『気づいた』と仰っておられます。
その真実・真理とは…
『人生は苦である』
その一言であります。
『悟る』という言葉に囚われて、無いものを追いかける生き方は、如何なものか…
そういう主旨の動画であります。
ご認知下さいませ。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan 有難いご法話を有難うございます。
お釈迦さまのお話をご存知かと思います。釈迦族の王様で何不自由なく生活出来るのに自分が幸福なのかが分からない。
お城の外に出て、生老病死という不幸を知って自分を苦しめて初めて自分は幸福だった事に気付かれたのだと思います。
つまり人は相対的に認識する生き物で、苦というものが無ければ幸福が認識出来ないようになっているのだと思います。世界が白という色しか無かったら白と認識出来ない。白ではない他の色が存在する事によって初めてこの色は白である、と認識出来るわけです。ですからお釈迦さまは幸福に相対する苦が必要である為にこの世は苦であると表現されたのだと思います。
これはお釈迦さまに限らず、社長の御曹司であったりお寺の跡継ぎであったり又、豊かな日本に生まれているのに、その豊かさがわからない人など、恵まれているのにそれに気づかない人が山ほどいます。
日本の当たり前は外国では凄い事だと子供たちに教えてあげると良いと思います。
後の弘法大師は、遣唐使で派遣される前、独自の修行で悟られました。
一方、後の親鸞聖人は、20年間比叡山で一心に修行され、麒麟児とまで褒め称えられましたが、密教を悟れずに山を下りられました。ここはどう解釈されますか?
きたきた様
空海。
親鸞。
歴史上に名を列ねる偉大な僧お二人。
そのお二人の胸の内。
それも「さとり」というご本人にしか分からないお心。
他人にはとうていはかり知れない境地を、私ごとき浄土真宗大谷派の末席を汚す一僧侶が、このお二人を「解釈」するなど…恐れ多いことで御座います。
私は…
自分で…
感じたことしか話せません。
思ったことしか語れません。
どうぞご理解頂ければ幸いです。
合掌
高科修
大学の受験番号9642つまり苦労死にかと思ったけど、三十年経って苦労の連続だった。
小松晃様
苦労のない人などこの世の中に居ません。
悩みのない人もこの世の中に居ません。
人は誰一人漏れることなく悩みや自分自身ではどうにもならないことに苦しみもがきながら生きております。
他人に、そのことを語らないだけでございます。
私たちが、そのことに気づかないだけでございます。
ちなみに…
私の誕生日は…
4月の29日です。
0429。
シンデモニクマレル
死んでも憎まれる。
で御座います。
で…
それがどうした(大笑い)
と思っております。
合掌
高科修
子供のことに心 おだやか でおられる人はほんとに おやだか?
りんりんりんCHIP様
ご視聴、コメントありがとうございます。
親が子を心配し続ける『親心』を例にとり……
そのことからも……
人が、おだやかな心境=さとりという心境に至ることなどあり得ない!
とお話を致している動画であります。
動画の主旨を、汲み取って頂ければと願っております。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
生きて行くと言うのは、ある意味、生き地獄ですか?
晃小松様
『生きて行く』
それは…
人がどうすることも出来ない
『生老病死』の中で生きて行かねばならないということです。
人間がどうあがいても…
生まれ
老いて
病になり
死す
ことはどうすることも出来ません。
この『どうすることも出来ない』ことをお釈迦様は『苦』という言葉を使い表しました。
一般的に、日常的に、私たちが使う『苦(苦しみ)』という意味ではありません。
『生きていく』
ということは『苦』です。
けれど、それを『生き地獄』『地獄』ととらえるのは、いかがなものかと思うのです。
実は、地獄も極楽も『在る』ものではありません。
地獄も極楽も実は『感じる』ものなのです。
晃小松様にお願いがあります。
動画
『地獄と極楽』
th-cam.com/video/DGN-ylwzz0g/w-d-xo.html
を是非ご視聴頂きたく思っております。
晃小松様のお尋ねに対して、何らかの手助けになると思っております。
よろしくお願い致します。
合掌
高科修
生かされてるのかな…
khon ghand afffuf 075様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「生かされいるのかな…」との khon ghand afffuf 075様のお言葉。
khon ghand afffuf 075様
は、いったい誰に生かされていると思っておいでなのですか…
誰かに『命』を握られておられるおつもりですか…
『自分の命』を生きているのは、まぎれもなく『自分』です。
『無有代者』…代わる者有ること無しの私が自分の命を生きております。
先ず、この、厳しい事実を背負う自覚なしに、「生かされてる」などという言葉は意味を持ちません。
ことあるごとに……
アカウントを代え、アイコンを代え、貴方にはわからないと駄々をこねる ……
アカウントを代えても、
アイコンを代えても、
村上祥様は村上祥様なのです。
自分自分を自分自身で、
『無有代者』…代わる者有ること無しの有難い私(村上祥)であるという自覚なしには、何も見えては来ません。
自分が成長することと、リセットしようとすることとは、違うのです。
一度、真剣に、考えてみられては如何でしょうか………………
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
娘の事で、イライラしでいます。いま付き合っている、人がいるのですか、名前顔も知らないのです、おやが新ばいしたら、行けないのでさか?今の世の中いろいろあるので、
崎昭子 様
親が子供のことを心配しないでいることは、不可能です。
逆に、子供のことが『心配でなくなった』のなら、それは『親』ではありません。
親とはそういう者です。
『今の世の中いろいろあるので…』
これは至極当然の親の心配ごとです。
親ならば誰一人漏れることのない心配ごとです。
ですので…
子供に…
邪魔くさがれても、
嫌がられても、
邪険にされても、
『今の世の中いろいろあるから心配だ』
と話すしかありません。
話し続ける。
心配し続ける。
それが逆に、親としての覚悟となります。
どうぞ、親としての覚悟を持って心配だといい続け、心配し続けていってください。
私も人の親です。
子供が何歳になっても、勝手に心配しておる毎日です。
勝手に…
でもそれが親という者です。
だからこそ、逆に、私も崎昭子様も、自身の親に今も心配されていると気づいていけるのではないのでしょうか。
私も崎昭子様も、共に親に心配をかけていた、そして今も心配してもらっていると。
合掌
高科修
@@buddhism_japan いつも、ありがとございます。