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南日本で《12.15战爭》として知れる動乱事件が米中央情󠄁报局による自演策動であったことは世界に遍󠄁く認󠄁知されてゐます。对話と融和に依る祖国統一を揭る社会党属の大統領就任を苦々しく見た米国は自らの利权を護ろうと、南日本人民が我々共和国に敵忾心を抱くよう《北が南に攻擊した》と騷立てたのです。又、米国は度々列島平󠄁和統一交訬を妨碍し、破綻させました。米国は統一後の列島に米軍の継続駐󠄁屯を求めながら蘇中朝軍抶退󠄁を一方的に求めてゐましたが、是を列島の中立性を失せるとしてソヴェト联盟や中国は强く反発してゐました。米国は自らの利益󠄁を固守する爲に北南日本の平󠄁和を碍げ、この時の北南国际联合同時加盟交訬も《北匪間諜事件》を捏造󠄁して決裂に追󠄁遣󠄁ったのです。
今回も北日本人の方からコメントを頂きました。正直に言うと南北における歴史認識の違いを実感して大変ショックを受けました。なんと、12.15戦争の責任がアメリカにあるというのです。大変驚きました。ですが、北日本の方からの貴重なご意見としてありがたく受け止めさせていただきます。
12月戦争、米CIAによる工作か?北日本国民が真実を明かす【南北共同通信】
12月戦争、米CIAによる工作か 北日本国民が真実を明かす【南北共同通信】
北日本在住の方、いつも貴重なご意見をありがとうございます
北朝鮮🇰🇵🇰🇵🇰🇵🇰🇵🇰🇵
緊急時特有のニューススタジオが騒がしくなるのリアルで好き。
日本分割統治計画が、実際に起きていたらこんなことになっていただろう…まるでスパイファミリーの世界だ😅
「明日のことはとても考えられる状況じゃない」という言葉を聞き逃さなかった
5:39
国電の話、懐かしいですね。当時国電多摩線の電車に乗っていましたが停電から1時間程度電車から降りられず、凍えていたのを思い出します
@@y-ange8018
どこの小田Qなんだ
まさか、31年後の2018年の関東の大雪で小田急電鉄が「明日のことはとても考えられる状況にない」と関東国電とほぼまんま同じコメントをするとは(なおJR東日本「会議をこれから開いて検討する」、東京メトロ&京王電鉄「今の段階では何も決まっていない」)…
1987年ということはきっとゴルバチョフはせっかく融和ムードを推し進めてたのにこれのせいで冷戦続行になって頭抱えただろうな。
小林源文の架空戦記漫画でそういうのあったぞ
ゴルバチョフマジギレしそう金日成は思い出に浸ってそう
@@user-zz7st1dy9k 源文先生の「バトルオーバー北海道」がその設定に近いね
@@user-wg4ue1id7p そうそれ
@@user-wg4ue1id7p地理的にはレイド・オン・トーキョーがちょっと混ざってる感はある
日本人民陸軍出身です。 私は当時、第5管領区域の第26自動車化狙撃兵連隊に所属していました。当時は国境沿いでの総合軍事演習だと聞いていましたが、実際行ってみると砲弾や銃弾が飛んでくる戦場でした。私の任務は当時最新鋭のBMP-2に搭乗し、兵員を強襲輸送する任務を受けていました。高崎方面へ進出し高崎攻略戦に参加しましたが、南日軍の激しい抵抗により私達が乗っていた装甲車は大破炎上。操縦士以外はなんとか後部から脱出して一命を取り留めましたが、私は一番最後脱出し、その間に胴部と脚部に銃弾を浴びて歩くこともできなくなり、仲間に置いていかれました。自決用の弾丸も長い作戦行動で駄目になっていたのか不発。そのまま殺されるかと思っていましたが、南日軍の野戦病院に連れて行かれ、そのまま捕虜として収容所に入りました。
もしかしたら甲府の捕虜収容所あたりであっていたかもしれませんね、あそこには26自狙の捕虜が集められていましたから、よろしければ詳しい所属部隊と氏名はいいので階級をお教え願えないでしょうか?自分も26自狙の自動車整備中隊にいました。当時自分たちも比較的軽い損傷を受けた装甲戦闘車の前線修理のために第11中隊のBMPに便乗し、高崎駅より数キロ地点の中学校の体操場に位置し、待機していました、もう日もまたごうかというころ、当時我々は整備3小隊として弾を撃ち尽くして退却してきたBMPの補給任務に従事していたときです。ようやく弾薬と燃料の補給を終えて、休めると思ったその時、たしか11時48分頃と記憶していますが、付近で警戒と休息を行っていた第96警察連隊の上級警察軍曹と上等兵一等兵の3名が逃げてきて、なんだろうと思ったら我が整備中隊の陣地がある学校の柵を乗り越えて南日軍機械化部隊が陣地内に突入してきて、我々を攻撃してきました、しかし我々のいたところは比較的前線から離れていたのもあって、付近には警察連隊の2個中隊と、我々自動車整備中隊、それとたしか高射機関砲の小部隊しかおらず、運の悪いことにBMPの搭乗員は全員降車しており軽戦車とと機械化歩兵を有する有力な敵部隊を前に雑多な後方部隊しか持たない我々は蹴散らされ、本来戦闘を行わないはずの整備中隊の兵も手榴弾や爆薬で敵戦車に肉薄攻撃をしたり、敵と銃火を交えることになってしまいました。そんな緊迫した状況下で運がいいのか悪いのか足に敵弾を受け痛みにもがき苦しみ、意識が遠のいていたところを南日軍の捕虜となり、今に至ります。いまでは埼玉県南部の地方都市でカフェを営んでいますが、今でもあの日のことは夢に見るほど私の中で強く印象に残っています。結局あの日捕虜になったのは自分を含め整備中隊の2名と警察部隊の1名のみで、他は南日軍部隊が撤収する頃にはほとんどが倒れていて、生死は不明なんだそうです。あなたもきっと捕虜となって色々思うところはあるでしょうが貴方は一人ではありません。来月に行われる高崎攻囲戦参加部隊の戦友会には参加されますか?されるのであればそこで又会えることを楽しみにしています。元第26自動車狙撃連隊自動車整備中隊第3自動車整備小隊所属整備伍長より
父が貴方と同じ部隊でした…私が生まれる前に戦死してしまい、会ったこともありません、もし、あなたと父が会っていたらお話聞きたいです。名前は、後藤信夫 です。
日本共和軍第42普通科連隊出身の者です。私も同じ区域で、戦闘しました。
日本語お上手ですねぇ
当時、父がNCTに勤めていました。私はまだ保育園生で、その日はたまたま保育園で早めのクリスマス会があり、わざわざ休みを取って父は参加してくれました。残業が当たり前の時代、父と夕方には一緒に家にいられたのが嬉しかった記憶があります。報道があった頃には私はもう寝ていたのですが、突然母に叩き起こされました。その時すでに父は家におらず、最近になって聞いた話では停電の報道があった時点で母に私と避難するよう言い残してテレビ局に向かったのだそうです。「これは間違いなく有事になるだろう、局に戻らないといけない」。母は止めたそうですが町内放送で警報が流れ始めた頃には動かない国電に乗るわけにもいかず、走り去っていったそうです。報道の人間として何かしなければ気が済まなかったのかもしれません。こんなことを書くと父が亡くなっているかのようですが、今も存命です笑!電車が動かないので局にたどり着くことができず攻撃を回避することができたのだそうです。「同胞の民間施設を攻撃するなんて、メディアの重要性は頭で分かってはいたが信じられなかった」と私が二十歳になった時当時の心境を語ってくれました。結局がむしゃらに走っているところを自衛隊に発見され、危うく射殺寸前というところで身分を明かし近くの避難所で夜を明かしたそうです。その後、第二次暫定軍事合意が成立する頃にやっと東京放送局に出向くことができ、数名の同期が亡くなったこと、当分東京放送局での仕事が無理なことが分かり、他の放送局への単身赴任も考えたそうですが結局家族のことを考え転職し今に至っています。当時真っ先に駆け出した父は今もそれが正しかったのか考えているようで「俺はもしかしたら怖くなっただけなのかもしれない。報道に携わる自覚が足りていなかった」とこぼしたことがあります。長々と書いてしまいました。この動画をきっかけにまた父と話すことができました。祖父はいわゆる特別在住者で元々青森の戸籍を持っています。いつか家族で青森に旅行に行くことがささやかな夢です。現在も南北分断は解消されていませんが、一刻も早い戦争の終結と祖父のような人の故郷への帰還が実現されることを願っています。貴重な動画をありがとうございました。
12月15日の北日本軍による大規模テロと関東広域空襲は30年経った今でも昨日の事のように覚えています。当時中学2年生だった私は市原に住んでおり、家族でドラマを見ていたところ、激しい爆発音がした後停電し、外を見ると発電所から火の手が上がり、夜空を真っ赤に染めていました。その後空襲警報が街中に轟き、家族と小学校の地下シェルターに避難しました。父は遂に戦争が始まった街は終わりだと言ってました。避難が解除された後、外に出ると街は破壊され、家は無くなっていました。母は涙を流し、父は無言で立ち尽くしていました。あの日、関東地域だけで30万人以上の命が奪われ、関東甲信越は北日本に奪われ、私たち家族も名古屋に移住しました。
西長野市の中でも沿境付近に住んでいた私は、退避命令が出る前に爆発音?銃声?と緊急車両のサイレンで飛び起きました。訳も分からぬまま家でブレーカーを弄っていると警察官が息切らしながら家にやってきて、ここでは直ちに北日本との交戦の可能性があるとマイクロバスで数キロ離れた退避シェルターまで送ってくれました。しかし東京方面に逃げる渋滞のせいで全く動かず結局歩くことになりました。松本の方の空を見ると炎の光りで夜の雲がくっきりと浮かび上っていた風景を今でも覚えています。
私も同じく西長野市に住んでました。北日本の長野県飯山市から小さな頃に西長野市に脱北した者です。私はたまたまその日は大阪(畿内方面)へ旅行をしていたのですが…
松本城が焼失した原因はこの時のミサイルが着弾したからでしたっけ?
静岡に住んでる電力会社員(関東電力じゃないほう)です。勤務を終えた帰り道に外食していたらこのニュースを見て、「これは大変なことになる」と思った矢先に招集がかかり、慌てて会社に取って返しました。そのあとはしばらく泊まり込み。関東電力管内に応援職員として送られた仲間も大勢いましたが、皆あの日々の事には口を閉ざします。
あの日私は大阪にいました。16日に呉で参謀をしていた同期が結婚式を挙げる予定だったので、それに友人代表として参加するはずだったのです。久しぶりに地元の穏やかな雰囲気の中で気を抜いて過ごせると思った矢先に緊急速報が入ってきたときの絶望感は今でも鮮明に覚えています。仕方なく新幹線を使って呉基地に行くと、同期がうんざりした顔ながらも最初に「お疲れ様」と言ってくれました。私はそれに「せっかくスピーチを考えてきたのに悪いな、戦争が終わったら聞かせてやるよ」と返し、敬礼を交わして別れました。今でも夢に見ます。なぜ、あの時彼ともっと話さなかったのだろう。彼は戦争末期の、北日本が半ば自棄になって行った呉への反応弾搭載型ミサイルの攻撃で、結婚する予定だった奥様もろとも亡くなってしまいました。読み上げるはずだった手紙は、今でも私の鞄にしまってあります。彼を、そして伝えるべきことを伝えられなかった愚かな私を忘れないために。
「東京放送局は何らかの原因により放送を接続できない状況のため、大阪放送局から放送を再開します」の絶望感
異次元世界の公共放送で列島ニュースを大阪からやってるのは東京のバックアップのためなんだな
工作員が乱入したのか。
工作員か、それともミサイルの着弾か、はたまた……!?
現実のNHKも、東京がダメになった時は大阪側で送出できるようになっている
この続編の動画では放送局へのミサイル攻撃らしい時代的におそらく核ではなさそうだが
歴史的資料ですね。当時の空気が伝わってきて鳥肌が立ちます。
親が奈良県出身ですが半月たった12月30日関東から避難してきた人々で溢れていたそうです大阪などの大都市ならともかく奈良のような地方都市で避難民で溢れていたというのは想像できないですね。
結局4年後のソ連崩壊によって北日本と講話したそうですが北日本政府はその後10年ともたず打倒されたそうですが北日本政府は何がしたかったんでしょうね
弟が産まれるから母がいなくて、遅く帰ったオヤジのきまぐれでラーメン屋に連れてかれて、ラーメン食べてたら店のテレビが急にこんな放送して、大人達は丼と箸持って外に出て空を見てて、そしたら黄色い庇の店の上を黄色い光を放ちながらミサイルが飛んでったのを覚えてる…。店の前は道路工事しててその発電機の照明で明るかったけどさらに明るかった。家族は無事だったけど、どうもその思い出からラーメンが食べられない。
自分は当時千葉県船橋市在住でしたが、あの日突如発射されたミサイルが習志野の駐屯地の方向に次々と落着していったのを何がなんだか理解できずに居た覚えがありますその後侵略してきた北軍によって逃げる隙もなく街は制圧され、自分の近所にあった中山競馬場や船橋競馬場は北軍の物資集積地として次々とトラックが入って行きました自分は親が競馬場関係者だったので物資集積地となった競馬場に入り込んでいましたが、政治将校と思わしき人達は横暴でしたが末端の兵士には良くして貰ったのを覚えています殆どの兵士たちは東北や北海道の農村出身者ばかりでしたので馬の扱いにも慣れたもので、戦利品としてどの馬を持って帰ろうかと物色していた幹部達を皆侮蔑していました年明けの自衛隊の反撃で北軍は総崩れとなって引き返していきましたが、両競馬場に係留されていた競走馬を略奪して我先に逃げていった北軍の士官たちの姿を今も覚えていますその略奪された競走馬の中に87年の三冠馬サクラスターオーが居たそうですが、まさか北政府によって飼育され両日本統一で発見されるとは思いもしませんでしたね今となってはサクラスターオーの父の系譜の馬は珍しいそうですが、北では舶来品の馬として重宝され、北日本系のサラブレッドの大半にその血が流れていると聞きます
追記ですが、略奪されたサクラスターオー号は北政府によって北海道安平町の中央畜産センター(現在の社台ノーザンファーム)に輸送されたそうです北日本でも農業の機械化などで農耕馬需要は無いに等しかったそうですが、軍事訓練として乗馬などを国家が奨励していた為、種馬として国家財産に編入されましたですが名前の「オー」が「王」から命名されたと言う事から「反動的」だとされた為、宣伝の意味も込めて父馬の名前から「戦勝号」と改名されたと資料にありますそれから北政府がとうとう経済破綻から西政府への合併を承認、国有財産の整理の過程で見つかり、元オーナーであったモランボンの全演植氏に返還されたそうですしかしながらオーナーは「北の皆さんに丁寧に扱って頂いた以上、今更返して貰うのもおかしい」と、その後設立された北海道軽種牡馬協会に彼を寄贈されたようですその後のサンデーサイレンス旋風が北に吹き荒れたことから、スターオーの血統であるパーソロンの血は衰退していますが、それでも地味に残っているそうです
なんでコメントまで世界観の構築が重厚なんだよ
この世界線だとサクラスターオーは無事に生きてるんだな…。
当時は大阪に住んでて戦火には巻き込まれなかったけど、空襲警報の真っ赤な画面からの砂嵐がいまだにトラウマ
東海地方の私鉄沿線の商店街育ちなんですが、隠してた軍刀を出して表を見張ると言って聞かない魚屋のじいちゃんがいたり、もっと物騒なものを持ちつつタバコを吸ってた近所のヤクザを夜襲の的になると殴ってタバコを消さしたお医者さんがいたりと不謹慎ですが前の大戦を知る年寄りが妙に張り切ってた覚えがあります。そんな被害があった場所の方々とは違う、教科書には載らない変な話もありました。
境界線の位置が違うけど同じようなことをやっているチャンネルの世界とオーバーラップさせてみると面白い
当時、木更津市に住んでいた者です。小学生だった私は、両親に連れられ避難所となっていた小学校へ行きました。外は昼間と錯覚してしまうほど真っ赤な空でした。避難所に着くと多くの同級生がおり、不謹慎ながらもその非日常にワクワクしたことを覚えています。しかし、時間が経つに連れ、異様な臭いが漂ってくるようになりました。プレハブで作られた簡易校舎が遺体安置所となっており、空襲で亡くなった人々が運び込まれていたのです。すすり泣く遺族の姿、血と何かが焼けたような臭いは今でも鮮明に覚えています。
この報道を生で観ていたはずなんだよなぁ、私の曾祖父ちゃん。なのに何で未だに統一を望んでいるのか良く解らない…
あなた未来から?
函館第2人民航空部隊に所属していたものです。当時は有休をとって家族と暮らしていました。軍の上の人から「急な仕事が入ったから青森まで来てくれ。」と言われて、列車を使って、奥木軽陸軍基地に着きました。そこからは軍の列車に乗って福島の南会津郡空軍基地に着きました。幹部の人から「ミグに乗って南日本のさいたま市を攻撃しろ。」と言われました。このとき初めて南日本と戦争しているということを知りました。その後は栃木で自分の乗っていた戦闘機が南日本の対空砲におとされました。今は大阪の収容施設にいます。
確かこの数日前から脱北者が続発しててなんとなく当局が攻勢が近いと把握してたんだけどそんな事ないって政府が判断して対応が遅れたんだよね
ついに北日本が動いてきた感じがするし、果たしてこの戦争を全世界がどう捉えるのか非常に気になったし、フィクションと分かってても怖すぎる。
各国視点の動画、国際社会の反応の動画も作ってほしい...!
フィクションとは不謹慎ですね。1987年の北日本侵攻なんて最近の社会科の教科書には必ず載るような大事件なのに…
投稿主の製作クオリティえぐいよなコレ
@@KAWACHI102 彼は別の世界線の日本から来た方のようです
@@user-zz7st1dy9kきっと天皇陛下が生存ルートから来たんだろうな
当時(17)も今も横須賀に住んでます。この時は港からみんな一斉に笛を鳴らして出航されました。うちは停電してなかったのでテレビでこれを見たのですが、「ああ本当の出来事なんだ」という絶望感が漠然と襲ってきました。空襲の被害はどうやら横浜の一部ではあったようですが、こちらは基地がある関係もあってほぼ爆撃の被害はありませんでした。いやしかしNCTが大阪と東京でいきなり分裂?してて、私は詳しくなかったので今も分からずじまいですが、同じ電波帯で別の放送を互いに流してるから電波強度によって表示のされ方が変わるとか。とにかく言ってることがめちゃくちゃだったり伝わってなかったんですよね。だからもう専らラジオ。ラジオでニュースとか聞いてました。この日の21:00に統一庁から発表があって、その時初めて北日本当局が宣戦布告もなしにテロ行為から軍事侵略を始めたのだと知った時には怒りで震えていました。結果今こうなっている現状として、我が国のために努力なさった全ての国民に、米兵にも、今一度感謝を申し上げます。天皇陛下におかれましても宮内庁の発表では20:30に皇居を離れられたと拝聴したのですが、実際には東京都から逆に戦場近くまで行って鼓舞なさっていたと聞きましたのでそれはもうとんでもない驚きでした。今の評論家は愚かな行為だと言っているようですが、私は心底陛下を尊敬しました。あの後僅か2年でご崩御あらせられたとは…陛下は全国行幸を果たせられなかったことを悔やみながら崩御されたと聞きます。でも、陛下は間違いなくこの国をお救いになられた。その力の一つでありました。 後書き今でこそ南北統一は美談になっていますが…正直言ってこんな卑劣な政府があったことは今でも怨恨に限る次第です。横須賀に住む者として防大も目指したのですが…結局落ちてしまい、今は某一般企業で働いてます(笑)でもまあ。結局平和になってくれたのが何よりも幸せです
後書きの後書きそういえばあの後、3年間ぐらいかな?復興庁ができて、私はそれに志願して横浜の復興を手伝ったんですよ。確か…あっ!そうだ!今となっては有名かもしれませんが、ランドマークタワーは横浜復興のランドマークとして建てられたんです!私もまあほんの少しですけど手伝ったんですよ。あの時はほんと大変で。でも楽しかった…不謹慎ですよね。横浜でもあの忌まわしい空襲のせいで何人も死者が出て…みんな大変だったのに…炊き出しにも参加しました。横浜出身の方がいて、その方と一緒に炊き出しをしたんですけど、確か寿町だったかな?そこでもともとホームレスとかが多かったらしいんですけど、空襲で家を失った人とかがまた集まってもっと酷くなってたみたいです。確かに横入りとかはあの時の人らはして、その方に怒られてました「横入りする卑怯者には飯なんかねえ!」って。今思えば酷いですよね。炊き出しだって聞いて歩って来た人もいっぱいいたと思うんですけど。でもやっぱ腐ってないんですよ。そう言われた人も悪態とか吐かずに周りの人に謝ってたんですよ。いやあれを見て日本に生まれてよかったって思いました。結局私は半年も手伝わずに横須賀に帰っちゃったんですけど、でも今でも子供に話したりします。この間なんて丁度公民かな?で習ったみたいでしきりに聞いてきましたよ。空襲は酷かったの?とか停電したの?とか。でもうちはそんな被害受けなかったんだよって言ったら複雑な顔して、まあ「よかった?ね」っておかしくなっちゃって笑っちゃって。あれ?何の話でしたっけ?そうだ復興庁だ。3年ぐらい民間から募集して10年ぐらいで無くなったわけですけど、あれは大きな復興の原動力でした。「官僚もやりゃあできるじゃん!!」って親もはしゃいでましたし(笑)既に申し上げてはありますが、本当にみなさま復興に苦心なさって、最上の努力をなさって。日本に生まれてよかった。本当にありがとうございます。お疲れ様でした。
Just a reminder, I think in this timeline South Japan was a republic instead of a constitutional monarchy, so the emperor shouldn't be there, FYI
@@user-lc2nj2cn8d ご指摘ありがとうございます。一応そのつもりです。と言いますのも、さすがに天皇制をいきなり破棄するのはもう不可能なんですよね、神話でないにせよ1000年を越える歴史ですから。神道の長、言ってしまえばローマ法王のようなものです。ローマ法王を君主に置く国家はバチカンくらいでしょうが、欧州各国などキリスト教国は彼を尊んでいると思います(詳しいことは分かりませんが)。故に、まあ現代日本のように宮内庁があっても何らおかしくはない。と判断したので天皇陛下の話題を出させていただきました。
この世界線の日本には天皇いないよ。共和国だから。仮想世界研究所さんのこのシリーズの他の動画とかXちゃんと見てんの?
@@user-lc2nj2cn8dまあそれはそうですね。このチャンネルの他の動画からもそういう推察は容易だ。
1:05 トーキョーデイライトニュースすごく好きだ
多分この一週間前くらいからNTTやアクアラインで火災が起きたり軍事施設に侵入者が出たり軍及び政府関係者や右派の弁護士、評論家が行方不明になったりと連日色々なことが「起きすぎている」状況だったと思う
アクアラインは87年には開通してません。
あと、NTTじゃなくて電電公社な
レイドオントーキョーだ
@@m16a2p90 分断されて千葉が孤立しないようにそういうの作ってるんじゃないかな….って考えた
@@keiichihemicuda1224 普通に間違えた….
WW2後に分割統治されていたら発生してもおかしくない事態ですね…
5:39大雪の小田急電鉄みたいなこと言ってるこの世界だと東武が大手私鉄で唯一列島分断で路線網が縮小してるってことになるんかな
もしかしたら北日本と南日本を結ぶ唯一の鉄道会社として東武は儲かって仕方ない大企業に成長してるかも
@@TOUFUuser-yk1pn9wj3v 南北朝鮮を結ぶ京義線って儲からなさ過ぎて単線化してるよ
NCTはCMが入っているのに呼称が全国で統一されているというのは、こちらの世界で「放送網」を名乗っている局が構想していた形ですかね。もしくはフランス2みたいな形か。とりあえず、大阪からの発信で「蛍の光」が使われているのが不穏です。あと、最初の天気予報でも多摩県が独立してましたね。
日本が分裂した後でも放送休止中の動画に出てくる国旗は日章旗のままなのいいね
関東電力社員忙しすぎてブチギレやろなぁ
北日本空軍の元軍人ですけど懐かしいですね… まだ鹵獲F-14乗る前の話ですね、これ その日は酷く眠くて基地で爆睡してたら上官に叩き起こされてmig-25で爆撃機の援護したっけ…なんか朝から頭痛が酷かったり吐き気がしたりして嫌な予感がしてたんですよね… ホントに上の連中がこんなことやるとは思ってもいなかったんで驚いたし正直上の連中を許したくありませんでした これ以降何回か亡命しようと思ったけど度胸がなくて結局亡命できませんでした お盆に神奈川の親父の実家に行くときに統一記念慰霊碑へ墓参りしに行きたいと思っています それに、陸軍所属でアーマードトルーパーのパイロットだった友人が神奈川での戦いで命を落としたので…
友人の名前キリコさんではないでしょうか?特殊部隊レッドショルダー時代の戦友でした。。
@@user-vm8no5og4yさん、残念ながら違いますね…ですけどキリコ君みたいに何度も乗機が爆破してもしぶとく生きてましたよ最後は敵軍の機甲猟兵にパイルバンカーでコクピットごと頭部を貫かれたそうです…ホント、戦争って良くないですね彼の乗機だったラビドリードッグは俺の家のガレージにしまってありますよというかあなたレッドショルダーだったんですか…最強のAT部隊に所属してたのはすごいですね
途中からアストラギウス銀河と混信しているような(^_^;)
西日本で高校生してたな、翌年に入学した短大時代に夏季休暇返上し国防軍の施設でカッター訓練・報告訓練・集合訓練等を受けたのを思い出す。
そうか..戦争の初期段階ってそうなんですね、蓄電池買っておかないと...
もしソ連とアメリカで日本が朝鮮半島の様に分断されていたら起こりえたかもしれない。やはりトルーマン大統領とマッカーサー元帥がソ連からの要望を受け入れなかった事で日本は救われた。
ルーズベルトがあと1年か半年ぐらい長生きしてたら、歴史は変わってたかもしれん・・・
トルーマン大統領就任の遅れによりヤルタ密約が実行され日本が地政学的に緩衝地帯と化してしまった世界線。30年戦争後の神聖ローマ帝国みたいだな
2145 進行前の破壊工作開始による大規模停電?2200 復旧不可能にするための追加破壊工作、或いは戦闘により火災発生?2213 ダム放流。攻勢時に進路を水没させるのは不利になるため、南側の防衛策がかなり厳重で抵抗が激しかった可能性?2221 有事宣言、避難命令まで僅か36分。大規模停電の相当前から侵攻に対して警戒体勢を敷いていて対応が早かった?2228 避難対象地域追加。水際防衛失敗?2229 本格攻勢開始。ノイズ、広範囲での放送能力完全喪失は核攻撃?やたらと恐怖を煽る警報音だったり過剰な演出が無いし、有事用の報道、国防プロトコルに沿って淡々と進む辺りが一番リアリティがあって、裏で何が起きてたのか思うと色々想像できつつぞっとする素晴らしい出来なので明日は小田急に乗って通勤します。
この世界線で首都直下地震おきたら北日本の侵攻誘発して致命傷だろう。首都圏人口の大半を支える利根川上流も握られてるし、冷戦末期まで生き残ってるのが奇跡。(なお現実でも同様のリスクはある)初手で原発をふっ飛ばさないのはせめてもの良心でしょうか。
北日本は別に南日本を滅ぼしたい訳ではなく、併合したいのだから、土地が汚染される原子炉攻撃はしなかったのでは無いでしょうか?まぁ、どの程度本気だったのかは今となっては分かりませんが…
ジョンタイターがこれを持ってきてたら絶対信じてたなぁ
急にテレビがこんなのになったらただ恐ろしいだけじゃ済まされない気が…こうならないといいよね
仕事で東京に出張していた姉が今も行方不明のままです。
初期報道ということなので次回作を期待してます!
私の家族はあの日北日本軍の攻撃で亡くなりました。当時私は仕事で大阪に居て戦争が始まった事を知り電話しましたが繋がらなくパニックに落ち入りそのまま私は精神病院で1ヶ月過ごし病院で私の家族、親戚が亡くなったと知らせが電報で届きました。北日本が憎い
幻想列島放送に触発されたのか、動画クオリティが劇的に上がってる。
また平行世界のTH-camからの書き込みがあるな……
南北に分断した場合、位置的に東京が首都のままなのはヤバそう...と思ったけど、ソウルがそんな感じだったか。北側は何処が首都になるんだろうか?
ソビエトに近い札幌ただし憲法上は東京
あの時私は軍需工場の仕事から国電で帰宅していました。停電して車内で待機していると、警報が聞こえてきて何が起きたのかわかりませんでした。外を見ると、遠くの空が赤く燃えているのをみました。とてもあの時は怖かったです。
ついに北日本が仕掛けてきたか...
この前、北にいる友達に電話したら「お前は南の人間だからもう二度と電話するな」って言われた。親戚も同様のことを言ってた。俺はただお話ししたかっただけなのにな
令和になってから、こういったものを始め昔へ遡りしたものが一気に流行ってるけど私も好きよ
当時、さいたま市の浦和(旧大宮)に住んでました。自分が住んでたところも停電し、近くの消防団員も火災の応援に行っていました。近くの川が氾濫しかけた状態だったので小学校に避難しようとしてたら、自分のガラケーにミサイル警報が出たので死ぬ覚悟でした。だけど友人の家はシェルターを完備していたので奇跡的に助かりました。ろくにテレビの情報を見れなかったので、見れてよかったと思いました。
5:41 ここでコメントがやけくそっぽくなってるの好き
2018伝説の小田急くんすき
@@chopdream942 どこかで聞いたことあるようなと思ったらそれ!ありがとうございます
私の両親が結婚した年だったので、生まれてから当時の事をよく話してくれました。父は当時箱根土木事務所に勤めていたのですが大規模停電の後、各地で道路の封鎖が相次ぎ三島方面へ向かう道路の封鎖を国から命じられて急遽大型除雪車などを用いて対応にあたったそうです。どうも後から聞く話によると北日本のスパイが静岡以南への浸透を開始していて、その一環で一時箱根は孤立状態だったそうです😢ただ、早期の対応の甲斐あってか、父の地元ではその後の北日本のスパイによる拉致・虐殺事件は発生しなかったとのこと。隣の山梨の身延方面は中央道経由で浸透が早かったため、身延中学校の爆破テロや、市内の女子高校生拉致事件が起きてしまいましたね…😢母方の遠縁の親戚がこの件に巻き込まれて、いまだに行方不明だそうです。。
当時4才だった私は父が運転するダンプに便乗して都内を走っていました。突然暗闇に襲われたのは記憶しており、交差点では警察官らしき方々が交通整理に務めてたところは幼い私が興味を惹かれたこともあり記憶してます。またラジオで何かを聞いて父が苦虫を潰した様な顔は今でもよく覚えてます。それでも工事に支障が無いと判断されたらしくそのまま継続されてましたが、渋谷方面当時のNCT東京放送局があった方角からもの凄い爆音があったらしく、音に驚いた私はそのまま気絶してしまいこんなことがあったとは今まで知りませんでした…
当時、私は福島県の沿岸部に住んでいて、まだ7年生でした。深夜に磐城街道(旧国道6号)を、大量のT62が南に移動して行ったのを目撃しました。親が懇意であった人民班の班長に話したところ、演習だと聞かされました。また、善意ゆえか班長には厳しく口止めをされていて(民警に目をつけらてしまう)、脱北するまでは人に話したことがありませんでした。脱北してから初めて事実を知りました。まさか戦争になっていたとは・・・
なるほど、、こんなことになってたんですね。教科書でしか12.15の情報は見たことなかったですが、とても貴重な資料ですね。学校でもこう言った情報を流してほしいです。
5:41一般通過小田急電鉄やめろw
昔からどんなホラー映画よりも「電波ジャック」の映像の方が怖かった私。この動画もそんな雰囲気がかなりあって恐ろしくなります。
4:11の地図の松本・静岡変電所とあるのを見てふと思ったのはこの南北分断世界だと戦後復興の過程で電気の交流が南日本は60Hz、北日本は50Hzで統一されてそう
素晴らしい動画だと思います。見入っちゃいました。
日本の分断統治は連合軍によって実際に検討されてただけに恐ろしい。
停電が起きてる家にテレビが呼びかけてもほとんどの家庭はテレビが見れないという…
当時はワンセグも無かったしな。ただ、当時はFMラジオの受信機でテレビの音声は聞けたよ。
@@user-zz7st1dy9k そういえば当時ラジオも発展してましたね。電池が使えるラジカセ懐かしいです。公園とかにラジカセ持って曲とかの流してる人いましたね❗
私の父親は当時 南日本国家安全保障局(現 国家安全保障省)の創設まもない緊急対応要員(ディビジョン)のエージェントでした、父親に科せられた任務は南日本首都圏の非常時における北日本工作員の排除、通称スカルプハンター(首狩人)で…
これ戦争規模どれくらいだろ。首都圏に打撃与えて政治的に有利にして講和とかとか?北朝鮮がソウルを火の海にするというかというレベルかな?
突然東京からの放送が停止してるから下手すれば核攻撃を受けたかピンポイントで放送局に攻撃している可能性が
北日本が目と鼻の先の茨城県南浦市に住んでいるものです。父や祖父母の話によると、この辺りはすぐに北日本に占領され、水戸収容所に連れて行かれたそうです。その後、農業を営んでいたため強制農業生産施設に移され、1日18時間労働だったそうです。私が生まれる少し前の2003年に南日本軍によって解放されました。現在は久慈川、桂川が戦線となっています。私はこの国の戦う兵士のために美味しく栄養価の高いものを作って参りたいと思います。
占守島の戦いが起きなかったとか多分そういう世界線
確かこの奇襲のあと稚内・能代・名取のミサイル基地と苫小牧・小樽・八戸の海軍基地を破壊したんですよね。実は鳥海山爆破計画もあったけどそこまでは行われなかったんですよ。
追記本来は名古屋局が放送を受け継ぐ予定も攻撃への対処のため大阪で再開流れ21時45分 停電22時08分 北・ダムを放流21分 北・攻撃開始28分 北・本格的攻撃30分 南・南北紛争対処法による紛争再開宣言34分 南・前述の基地攻撃開始37分 南、函館・米沢・平・村上の陸軍基地へ攻撃・空挺降下
三沢と千歳も 断続的に攻撃を受けてましたね…
@@masmo06sova ええ、あそこはソ連駐屯基地でしたのでかなり狙われてましたね....
この世界線では1987年時点ですでに妙高市が成立してるのか… この市域だったら上越市と妙高市区域で上越市となっていると思われるなんなら新潟県の範囲が狭すぎるので長野県に組み込まれてそうだな長野県民悲願の海が存在する世界線
こんだけ停電してたら対象地域では観られないだろうな
当時九州に住んでたんだけど、列島有事宣言出された後の広域空襲警報はマジで鳥肌立った記憶ある
本当なんでこんな軍事境界線に近い所に首都そのままにしておくかなぁ、と現実のソウルの件を考えると思ってしまう。
マジで日本降伏時にソ連を追い返せなかったら南北で分断されてたかもしれないんだよな
当時私は外地だった北海道の大学の学生でした。TVでこのニュースを見て大変びっくりしたことを思い出します。内地に戻ろうにもスカイメイトの座席が取れず家族に連絡を取ろうにも電話は10円で5秒しか話せませんでした。やっぱり平和が一番ですね。
地元の茨城県が初っ端から虫の息すぎる領土...追記 栃木の方がガチの虫の息でした
今だと電気だけじゃなく通信回線関係の大規模障害が…ニコニコのようなのが全回線域で発生するだろうね
関東は利根川で分断されて刀水橋付近にも規制線が張られてましたね・・・
今回も最高でした!野暮ですみませんが、リアルの80年代天気予報は、もっとゆーっくり話してたと思います😊
当時八戸に住んでたけど、この一週間くらい前から三沢基地へ行き来する貨物列車の本数がやけに増えたので、演習にしても不自然だとはと思ってたあれから1年、南日本軍の北東北解放作戦の時、北海道へ半強制的に疎開させられるところだったけど、青函連絡船が米軍の空襲で出港できず、そうこうしているうちに南日本軍が進駐してきた思い出
北日本側の立場にたった番組や映像もつくってほしいです。
あれ…私のほうが異世界生まれ…なのか…?
日本が分断されずに戦後を歩むって小説はいくつもあるけど、あんたはそっちの世界から来たのか?
気を取り直せ、PTSDで頭がおかしくなったのか?
あの時は大変だったなぁ結局、東京が焼け野原になっちゃって再建を断念して霞ヶ関や丸ノ内の機能を京都に、それ以外の機能を大阪に移転しちゃったんだよなぁんで、うちは小田原に残り続けたけど、小田急線が単線化したり、伊豆箱根鉄道が廃線になったり、東海道線の編成が短くなったり、箱根に行く路線バスが大きく減ったりしたなぁ鉄道以外だと、デパートが軒並み潰れたり、小中学校の統廃合が一気に進んだり、小田原市内の高校だと普通科高校が2校にまで減ったり、市内唯一の工業高校が平塚の工業高校に統廃合されたりして若者が少なくなっていったのを覚えているなぁそういえば、この前野暮用で東京へ行くことがあったけど、嘗ての高級住宅街が庶民の住宅街に成り下がり、それ以外は貧民窟と化していたなぁそういう姿を見ると、あの出来事がなければ、東京は今も栄えていたんじゃないかなって思うな
小田原市民ですが、その後がリアルすぎて先人の皆様には頭が上がりません。
すごい。学校の授業でなかなかこういう映像取り扱ってくれないけど見ると当時の状況がはっきりわかりますね。それと、5:39 JKRがまだ関東国電だった時代。鉄オタとしてこれは見逃せませんでしたよ。
ホント、こんなんが来ないとも限らないのが怖い
続きがあれば見たいです‼️
当時の仙台首都圏では、有事に備え特車隊が配備されていました。南日本の方は知らないと思いますが、警備用特別車両機器パトレイバアが仙台湾岸地区の警備にあたっていたんですよ。田母神隊長率いる特車二課隊は、1988年2月の南日本シンパによる仙台クーデターを未然に防いだ功労者だったとか。 この1987年の架空戦争においても、軍用パトレイバアの使用が確認されているらしいですね。結局、この年末の騒動はマスメディアを利用した見せかけの戦争だったらしいです。実は、仙台首都圏でも同様の事件が発生しており、七北田川と名取川に架かる橋が破壊され、帝都仙台も一時機能不全に陥りました。
子供ながらよく覚えてる事案でしたね。自分はイギリス管轄してる九州南部だったけど、確か駐留英軍、情報将校のデイビッド防諜准尉家族とポーカーゲームしてた時だった。近く東で、断末魔とも言える事案が起きそうだから分断国境線付近の親戚を迎える準備してた方が良いと思う。時期はまだ不明って言ってた時にこの放送だったから、大人達が顔真っ青にしてた。残念ながら親戚を九州南部で迎える事は無かった。時期が分かって生き延びていたら、、、、親戚たちはどんな人生送ったんだろう。冬至時期でのすぐ暗くなり寒さが強気なるあの時期に、長い夜に飲み込まれる夢か幻みたいなイリュージョンにふけってしまう。
国鉄が分割されてる.......(国電呼ばわりな当たり多分民営化はしてないんだろうな。)
東日本大震災の時こんなだったな〜
これ以上の精度の音声AIあるからもっと使ってほしい
多分不気味な雰囲気を増進させるためにあえてこのような音声にしているんだと思う
はじめまして。私も、あの日の事は良く覚えています。当時、近くに住んでいた宇都宮東部にあった清原航空基地から、幾機もの大型爆撃機が飛んで行ったのを目にしました。あれは恐らく北日本製の物ではなく、ソヴィエト製の最新爆撃機だったのではないかと、今では思います。その後、唯一の親族だった幼かった弟が、当時東京に保護されており、心配で脱北し探しに行ったのですが、東京に近づくにつれ、空襲の被害が大きくなっていき、弟の住まいとなっていた建物は、爆撃の直撃を受けて…。すいません、これ以上は…。一つ言える事は、あの日の事は、私は決して忘れません。それだけです。
テレ朝っぽさが良い。後ろでわちゃわちゃしてる感じがリアル
この世界線の群馬県や茨城県などは北日本に面しているから常に緊迫した空気なんだろうな‥その地域の街並みや鉄道なども我々がいる世界線と比べて全く違ったものになってそう自分は実際に栃木県足利に行った事が何回かあるけどそこもこの動画の世界線では北日本のそばだから12.15戦争で少なからず被害を受けると思うとビビる鑁阿寺などの歴史ある文化財は果たして無事だろうか‥
足利町ですからね。渡良瀬川以北の旧市街の大半は北になってしまっているんですよ。渡良瀬橋もずっと落とされたままだし、旧国鉄足利駅からフラワーパーク駅の間はマジノラインをほうふつとさせるトーチカ群が建設されているんですよ。
当時生まれる前でしたが、父母共に突然放送が休止したことに大変驚いたと話しています。その後伊勢崎やいくつかの街が洪水で浸水し、住んでいる多摩県にもたくさんの避難者が流れ込んできたそうです。私の友達にも昔伊勢崎に家族が住んでいたと言う人がちらほらいます。沿境界地域には何度か鉄道旅で訪れたことがありますが、現在もその傷跡やモニュメントが残る場所は多いです。北日本の残虐で卑劣な行為に我々は屈してはいけません。
これは本当にあった事ですか?多少のフィクションはあれど、これに似た事があったのですか?ググっても出てこないので…真実を知りたいです。
朝鮮分断がモチーフですが、完全なフィクションです
91年京都生まれです。埼玉生まれの親父がこの時国防軍にいました。埼玉南部は入間、朝霞、大宮、と基地や駐屯地がひしめく軍都で、練馬の師団司令部もすぐそばにある立地でした。私の父も朝霞で補給関連の部隊に勤めていましたが、実は広域空襲警報発令前から軍が警戒態勢に入ったため、父は家を空けていたようです。大きな爆発音がしたため思わず母が駐屯地の方角を見ると、夜にも関わらず黒煙が見えたといいます。その煙は灼熱の炎に照らされ、やがて数キロ離れた我が家にも焦げた臭いが漂ってきたのでした。父も父でジェット機のような甲高い轟音を聞くや隊舎の屋上に上がると、駐屯地の端が炎に包まれているのがわかりました。ソ連から技術供与を受けたのでしょう、当時最新鋭の巡航ミサイルが訓練場端にある地対空ミサイル(SAM)部隊に弾着したのだと一瞬で理解したそうです。そしてSAMを潰されたらそのあとは敵機が来襲することも。それどころではない父は救援に向かう車に飛び乗り現場に到着すると、そこはもう地獄でした。自分と同じ作業服を着た兵士がちぎれ飛んでいます。仰向けで目を開いたまま動かない上半身はつい先日食堂で列を譲った若い兵士でした。まだ20歳くらいの子供っぽさが残るあどけない顔で、白飯をてんこ盛りによそって嬉しそうな笑顔だったのを今でも思い出す、と父は生前に語っていました。それだけではありません。下半身が燃えている兵士も、そこに落ちている腕先だって、同じ食堂で同じ釜の飯を食い同じ風呂に入った大切な仲間です。部隊は違えどこんなに惨たらしい仲間を見せつけられた父は、終生北への憎悪が消えることはありませんでした。それと同時にどうして同じ日本人で殺し合わなければならないのか、本当の敵は個々人ではなく北の体制そのものだと酒を飲むたび噛み締めるように溢していたのを覚えています。その後戦争の激化により足が不自由になった父は京都の弾薬庫勤務となり、やがて私が生まれました。この戦争のことはなんとなくネット上でもタブー視されていますが、コメントを見る限り対南スパイ分子による破壊工作活動だけでなく開戦劈頭から関東各地が攻撃を受けていたようですね。統一による南北融和なんて政府とマスコミが流す虚構でしかないと思います。ここまで緻密かつ卑劣な攻勢で多数の同胞の命を奪った旧北政府関係者は地獄の底でその罪を償ってほしいと思います。
皆さん想像力スゲェなぁ😅
過去脱北して南に来た元ボクサーの知人がいるんですけど彼の口癖は「おーれは南の人、ことばナマっててわがんね。」です。会津というところで生まれた人です。(注:かなりの割合で実話)
シーンが変わる時のアイキャッチ? 説明? はない方が良かったと思う。あと大阪放送局に代わってからの内容も欲しかった。
あ、まずいことが起きてるな、って徐々にわかってく感じゾクゾクするわ
0:37第二次世界大戦終結後、新潟は東西に分断された。冷戦と呼ばれる時代の幕開けである。
南日本での千葉県民です国境付近でしたのでドキドキして過ごしておりました私の叔父が本拠地の方で戦っておりまして何度も目の前であの世に逝く瞬間を見たと言います停電の時はギリギリ自分達は停電しませんでした国境に近い以外は満足でした攻められると知ったときは急いで房総に逃げました今も生きていますがまだ少し怖い部分もあります
南日本で《12.15战爭》として知れる動乱事件が米中央情󠄁报局による自演策動であったことは世界に遍󠄁く認󠄁知されてゐます。对話と融和に依る祖国統一を揭る社会党属の大統領就任を苦々しく見た米国は自らの利权を護ろうと、南日本人民が我々共和国に敵忾心を抱くよう《北が南に攻擊した》と騷立てたのです。又、米国は度々列島平󠄁和統一交訬を妨碍し、破綻させました。米国は統一後の列島に米軍の継続駐󠄁屯を求めながら蘇中朝軍抶退󠄁を一方的に求めてゐましたが、是を列島の中立性を失せるとしてソヴェト联盟や中国は强く反発してゐました。米国は自らの利益󠄁を固守する爲に北南日本の平󠄁和を碍げ、この時の北南国际联合同時加盟交訬も《北匪間諜事件》を捏造󠄁して決裂に追󠄁遣󠄁ったのです。
今回も北日本人の方からコメントを頂きました。正直に言うと南北における歴史認識の違いを実感して大変ショックを受けました。なんと、12.15戦争の責任がアメリカにあるというのです。大変驚きました。ですが、北日本の方からの貴重なご意見としてありがたく受け止めさせていただきます。
12月戦争、米CIAによる工作か?北日本国民が真実を明かす【南北共同通信】
12月戦争、米CIAによる工作か 北日本国民が真実を明かす【南北共同通信】
北日本在住の方、いつも貴重なご意見をありがとうございます
北朝鮮🇰🇵🇰🇵🇰🇵🇰🇵🇰🇵
緊急時特有のニューススタジオが騒がしくなるのリアルで好き。
日本分割統治計画が、実際に起きていたらこんなことになっていただろう…
まるでスパイファミリーの世界だ😅
「明日のことはとても考えられる状況じゃない」という言葉を聞き逃さなかった
5:39
国電の話、懐かしいですね。当時国電多摩線の電車に乗っていましたが停電から1時間程度電車から降りられず、凍えていたのを思い出します
@@y-ange8018
どこの小田Qなんだ
まさか、31年後の2018年の関東の大雪で小田急電鉄が「明日のことはとても考えられる状況にない」と関東国電とほぼまんま同じコメントをするとは(なおJR東日本「会議をこれから開いて検討する」、東京メトロ&京王電鉄「今の段階では何も決まっていない」)…
1987年ということはきっとゴルバチョフはせっかく融和ムードを推し進めてたのにこれのせいで冷戦続行になって頭抱えただろうな。
小林源文の架空戦記漫画でそういうのあったぞ
ゴルバチョフマジギレしそう
金日成は思い出に浸ってそう
@@user-zz7st1dy9k 源文先生の「バトルオーバー北海道」がその設定に近いね
@@user-wg4ue1id7p そうそれ
@@user-wg4ue1id7p地理的にはレイド・オン・トーキョーがちょっと混ざってる感はある
日本人民陸軍出身です。
私は当時、第5管領区域の第26自動車化狙撃兵連隊に所属していました。
当時は国境沿いでの総合軍事演習だと聞いていましたが、実際行ってみると砲弾や銃弾が飛んでくる戦場でした。
私の任務は当時最新鋭のBMP-2に搭乗し、兵員を強襲輸送する任務を受けていました。
高崎方面へ進出し高崎攻略戦に参加しましたが、南日軍の激しい抵抗により私達が乗っていた装甲車は大破炎上。操縦士以外はなんとか後部から脱出して一命を取り留めましたが、私は一番最後脱出し、その間に胴部と脚部に銃弾を浴びて歩くこともできなくなり、仲間に置いていかれました。自決用の弾丸も長い作戦行動で駄目になっていたのか不発。
そのまま殺されるかと思っていましたが、南日軍の野戦病院に連れて行かれ、そのまま捕虜として収容所に入りました。
もしかしたら甲府の捕虜収容所あたりであっていたかもしれませんね、あそこには26自狙の捕虜が集められていましたから、よろしければ詳しい所属部隊と氏名はいいので階級をお教え願えないでしょうか?自分も26自狙の自動車整備中隊にいました。当時自分たちも比較的軽い損傷を受けた装甲戦闘車の前線修理のために第11中隊のBMPに便乗し、高崎駅より数キロ地点の中学校の体操場に位置し、待機していました、もう日もまたごうかというころ、当時我々は整備3小隊として弾を撃ち尽くして退却してきたBMPの補給任務に従事していたときです。ようやく弾薬と燃料の補給を終えて、休めると思ったその時、たしか11時48分頃と記憶していますが、付近で警戒と休息を行っていた第96警察連隊の上級警察軍曹と上等兵一等兵の3名が逃げてきて、なんだろうと思ったら我が整備中隊の陣地がある学校の柵を乗り越えて南日軍機械化部隊が陣地内に突入してきて、我々を攻撃してきました、しかし我々のいたところは比較的前線から離れていたのもあって、付近には警察連隊の2個中隊と、我々自動車整備中隊、それとたしか高射機関砲の小部隊しかおらず、運の悪いことにBMPの搭乗員は全員降車しており軽戦車とと機械化歩兵を有する有力な敵部隊を前に雑多な後方部隊しか持たない我々は蹴散らされ、本来戦闘を行わないはずの整備中隊の兵も手榴弾や爆薬で敵戦車に肉薄攻撃をしたり、敵と銃火を交えることになってしまいました。そんな緊迫した状況下で運がいいのか悪いのか足に敵弾を受け痛みにもがき苦しみ、意識が遠のいていたところを南日軍の捕虜となり、今に至ります。いまでは埼玉県南部の地方都市でカフェを営んでいますが、今でもあの日のことは夢に見るほど私の中で強く印象に残っています。結局あの日捕虜になったのは自分を含め整備中隊の2名と警察部隊の1名のみで、他は南日軍部隊が撤収する頃にはほとんどが倒れていて、生死は不明なんだそうです。あなたもきっと捕虜となって色々思うところはあるでしょうが貴方は一人ではありません。来月に行われる高崎攻囲戦参加部隊の戦友会には参加されますか?されるのであればそこで又会えることを楽しみにしています。元第26自動車狙撃連隊自動車整備中隊第3自動車整備小隊所属整備伍長より
父が貴方と同じ部隊でした…
私が生まれる前に戦死してしまい、会ったこともありません、
もし、あなたと父が会っていたらお話聞きたいです。
名前は、後藤信夫 です。
日本共和軍第42普通科連隊出身の者です。私も同じ区域で、戦闘しました。
日本語お上手ですねぇ
当時、父がNCTに勤めていました。私はまだ保育園生で、その日はたまたま保育園で早めのクリスマス会があり、わざわざ休みを取って父は参加してくれました。残業が当たり前の時代、父と夕方には一緒に家にいられたのが嬉しかった記憶があります。
報道があった頃には私はもう寝ていたのですが、突然母に叩き起こされました。その時すでに父は家におらず、最近になって聞いた話では停電の報道があった時点で母に私と避難するよう言い残してテレビ局に向かったのだそうです。「これは間違いなく有事になるだろう、局に戻らないといけない」。母は止めたそうですが町内放送で警報が流れ始めた頃には動かない国電に乗るわけにもいかず、走り去っていったそうです。報道の人間として何かしなければ気が済まなかったのかもしれません。
こんなことを書くと父が亡くなっているかのようですが、今も存命です笑!電車が動かないので局にたどり着くことができず攻撃を回避することができたのだそうです。「同胞の民間施設を攻撃するなんて、メディアの重要性は頭で分かってはいたが信じられなかった」と私が二十歳になった時当時の心境を語ってくれました。結局がむしゃらに走っているところを自衛隊に発見され、危うく射殺寸前というところで身分を明かし近くの避難所で夜を明かしたそうです。
その後、第二次暫定軍事合意が成立する頃にやっと東京放送局に出向くことができ、数名の同期が亡くなったこと、当分東京放送局での仕事が無理なことが分かり、他の放送局への単身赴任も考えたそうですが結局家族のことを考え転職し今に至っています。当時真っ先に駆け出した父は今もそれが正しかったのか考えているようで「俺はもしかしたら怖くなっただけなのかもしれない。報道に携わる自覚が足りていなかった」とこぼしたことがあります。
長々と書いてしまいました。この動画をきっかけにまた父と話すことができました。祖父はいわゆる特別在住者で元々青森の戸籍を持っています。いつか家族で青森に旅行に行くことがささやかな夢です。現在も南北分断は解消されていませんが、一刻も早い戦争の終結と祖父のような人の故郷への帰還が実現されることを願っています。貴重な動画をありがとうございました。
12月15日の北日本軍による大規模テロと関東広域空襲は30年経った今でも昨日の事のように覚えています。当時中学2年生だった私は市原に住んでおり、家族でドラマを見ていたところ、激しい爆発音がした後停電し、外を見ると発電所から火の手が上がり、夜空を真っ赤に染めていました。
その後空襲警報が街中に轟き、家族と小学校の地下シェルターに避難しました。父は遂に戦争が始まった街は終わりだと言ってました。避難が解除された後、外に出ると街は破壊され、家は無くなっていました。母は涙を流し、父は無言で立ち尽くしていました。
あの日、関東地域だけで30万人以上の命が奪われ、関東甲信越は北日本に奪われ、私たち家族も名古屋に移住しました。
西長野市の中でも沿境付近に住んでいた私は、退避命令が出る前に爆発音?銃声?と緊急車両のサイレンで飛び起きました。訳も分からぬまま家でブレーカーを弄っていると警察官が息切らしながら家にやってきて、ここでは直ちに北日本との交戦の可能性があるとマイクロバスで数キロ離れた退避シェルターまで送ってくれました。しかし東京方面に逃げる渋滞のせいで全く動かず結局歩くことになりました。松本の方の空を見ると炎の光りで夜の雲がくっきりと浮かび上っていた風景を今でも覚えています。
私も同じく西長野市に住んでました。
北日本の長野県飯山市から
小さな頃に西長野市に脱北した者です。
私はたまたまその日は
大阪(畿内方面)へ旅行をしていたのですが…
松本城が焼失した原因はこの時のミサイルが着弾したからでしたっけ?
静岡に住んでる電力会社員(関東電力じゃないほう)です。
勤務を終えた帰り道に外食していたらこのニュースを見て、
「これは大変なことになる」と思った矢先に招集がかかり、
慌てて会社に取って返しました。そのあとはしばらく泊まり込み。
関東電力管内に応援職員として送られた仲間も大勢いましたが、
皆あの日々の事には口を閉ざします。
あの日私は大阪にいました。16日に呉で参謀をしていた同期が結婚式を挙げる予定だったので、それに友人代表として参加するはずだったのです。久しぶりに地元の穏やかな雰囲気の中で気を抜いて過ごせると思った矢先に緊急速報が入ってきたときの絶望感は今でも鮮明に覚えています。仕方なく新幹線を使って呉基地に行くと、同期がうんざりした顔ながらも最初に「お疲れ様」と言ってくれました。私はそれに「せっかくスピーチを考えてきたのに悪いな、戦争が終わったら聞かせてやるよ」と返し、敬礼を交わして別れました。
今でも夢に見ます。なぜ、あの時彼ともっと話さなかったのだろう。彼は戦争末期の、北日本が半ば自棄になって行った呉への反応弾搭載型ミサイルの攻撃で、結婚する予定だった奥様もろとも亡くなってしまいました。読み上げるはずだった手紙は、今でも私の鞄にしまってあります。彼を、そして伝えるべきことを伝えられなかった愚かな私を忘れないために。
「東京放送局は何らかの原因により放送を接続できない状況のため、大阪放送局から放送を再開します」の絶望感
異次元世界の公共放送で列島ニュースを大阪からやってるのは東京のバックアップのためなんだな
工作員が乱入したのか。
工作員か、それともミサイルの着弾か、はたまた……!?
現実のNHKも、東京がダメになった時は大阪側で送出できるようになっている
この続編の動画では放送局へのミサイル攻撃らしい
時代的におそらく核ではなさそうだが
歴史的資料ですね。当時の空気が伝わってきて鳥肌が立ちます。
親が奈良県出身ですが半月たった12月30日関東から避難してきた人々で溢れていたそうです大阪などの大都市ならともかく奈良のような地方都市で避難民で溢れていたというのは想像できないですね。
結局4年後のソ連崩壊によって北日本と講話したそうですが
北日本政府はその後10年ともたず打倒されたそうですが北日本政府は何がしたかったんでしょうね
弟が産まれるから母がいなくて、遅く帰ったオヤジのきまぐれでラーメン屋に連れてかれて、ラーメン食べてたら店のテレビが急にこんな放送して、大人達は丼と箸持って外に出て空を見てて、そしたら黄色い庇の店の上を黄色い光を放ちながらミサイルが飛んでったのを覚えてる…。
店の前は道路工事しててその発電機の照明で明るかったけどさらに明るかった。
家族は無事だったけど、どうもその思い出からラーメンが食べられない。
自分は当時千葉県船橋市在住でしたが、あの日突如発射されたミサイルが習志野の駐屯地の方向に次々と落着していったのを何がなんだか理解できずに居た覚えがあります
その後侵略してきた北軍によって逃げる隙もなく街は制圧され、自分の近所にあった中山競馬場や船橋競馬場は北軍の物資集積地として次々とトラックが入って行きました
自分は親が競馬場関係者だったので物資集積地となった競馬場に入り込んでいましたが、政治将校と思わしき人達は横暴でしたが末端の兵士には良くして貰ったのを覚えています
殆どの兵士たちは東北や北海道の農村出身者ばかりでしたので馬の扱いにも慣れたもので、戦利品としてどの馬を持って帰ろうかと物色していた幹部達を皆侮蔑していました
年明けの自衛隊の反撃で北軍は総崩れとなって引き返していきましたが、両競馬場に係留されていた競走馬を略奪して我先に逃げていった北軍の士官たちの姿を今も覚えています
その略奪された競走馬の中に87年の三冠馬サクラスターオーが居たそうですが、まさか北政府によって飼育され両日本統一で発見されるとは思いもしませんでしたね
今となってはサクラスターオーの父の系譜の馬は珍しいそうですが、北では舶来品の馬として重宝され、北日本系のサラブレッドの大半にその血が流れていると聞きます
追記ですが、略奪されたサクラスターオー号は北政府によって北海道安平町の中央畜産センター(現在の社台ノーザンファーム)に輸送されたそうです
北日本でも農業の機械化などで農耕馬需要は無いに等しかったそうですが、軍事訓練として乗馬などを国家が奨励していた為、種馬として国家財産に編入されました
ですが名前の「オー」が「王」から命名されたと言う事から「反動的」だとされた為、宣伝の意味も込めて父馬の名前から「戦勝号」と改名されたと資料にあります
それから北政府がとうとう経済破綻から西政府への合併を承認、国有財産の整理の過程で見つかり、元オーナーであったモランボンの全演植氏に返還されたそうです
しかしながらオーナーは「北の皆さんに丁寧に扱って頂いた以上、今更返して貰うのもおかしい」と、その後設立された北海道軽種牡馬協会に彼を寄贈されたようです
その後のサンデーサイレンス旋風が北に吹き荒れたことから、スターオーの血統であるパーソロンの血は衰退していますが、それでも地味に残っているそうです
なんでコメントまで世界観の構築が重厚なんだよ
この世界線だとサクラスターオーは無事に生きてるんだな…。
当時は大阪に住んでて戦火には巻き込まれなかったけど、空襲警報の真っ赤な画面からの砂嵐がいまだにトラウマ
東海地方の私鉄沿線の商店街育ちなんですが、隠してた軍刀を出して表を見張ると言って聞かない魚屋のじいちゃんがいたり、もっと物騒なものを持ちつつタバコを吸ってた近所のヤクザを夜襲の的になると殴ってタバコを消さしたお医者さんがいたりと不謹慎ですが前の大戦を知る年寄りが妙に張り切ってた覚えがあります。
そんな被害があった場所の方々とは違う、教科書には載らない変な話もありました。
境界線の位置が違うけど
同じようなことをやっているチャンネルの世界とオーバーラップさせてみると面白い
当時、木更津市に住んでいた者です。小学生だった私は、両親に連れられ避難所となっていた小学校へ行きました。外は昼間と錯覚してしまうほど真っ赤な空でした。避難所に着くと多くの同級生がおり、不謹慎ながらもその非日常にワクワクしたことを覚えています。しかし、時間が経つに連れ、異様な臭いが漂ってくるようになりました。プレハブで作られた簡易校舎が遺体安置所となっており、空襲で亡くなった人々が運び込まれていたのです。すすり泣く遺族の姿、血と何かが焼けたような臭いは今でも鮮明に覚えています。
この報道を生で観ていたはずなんだよなぁ、私の曾祖父ちゃん。なのに何で未だに統一を望んでいるのか良く解らない…
あなた未来から?
函館第2人民航空部隊に所属していたものです。当時は有休をとって家族と暮らしていました。軍の上の人から「急な仕事が入ったから青森まで来てくれ。」と言われて、列車を使って、奥木軽陸軍基地に着きました。そこからは軍の列車に乗って福島の南会津郡空軍基地に着きました。幹部の人から「ミグに乗って南日本のさいたま市を攻撃しろ。」と言われました。このとき初めて南日本と戦争しているということを知りました。その後は栃木で自分の乗っていた戦闘機が南日本の対空砲におとされました。今は大阪の収容施設にいます。
確かこの数日前から脱北者が続発してて
なんとなく当局が攻勢が近いと把握してたんだけど
そんな事ないって政府が判断して対応が遅れたんだよね
ついに北日本が動いてきた感じがするし、果たしてこの戦争を全世界がどう捉えるのか非常に気になったし、フィクションと分かってても怖すぎる。
各国視点の動画、国際社会の反応の動画も作ってほしい...!
フィクションとは不謹慎ですね。
1987年の北日本侵攻なんて最近の社会科の教科書には必ず載るような大事件なのに…
投稿主の製作クオリティえぐいよなコレ
@@KAWACHI102 彼は別の世界線の日本から来た方のようです
@@user-zz7st1dy9kきっと
天皇陛下が生存ルートから来たんだろうな
当時(17)も今も横須賀に住んでます。この時は港からみんな一斉に笛を鳴らして出航されました。うちは停電してなかったのでテレビでこれを見たのですが、「ああ本当の出来事なんだ」という絶望感が漠然と襲ってきました。空襲の被害はどうやら横浜の一部ではあったようですが、こちらは基地がある関係もあってほぼ爆撃の被害はありませんでした。いやしかしNCTが大阪と東京でいきなり分裂?してて、私は詳しくなかったので今も分からずじまいですが、同じ電波帯で別の放送を互いに流してるから電波強度によって表示のされ方が変わるとか。とにかく言ってることがめちゃくちゃだったり伝わってなかったんですよね。だからもう専らラジオ。ラジオでニュースとか聞いてました。この日の21:00に統一庁から発表があって、その時初めて北日本当局が宣戦布告もなしにテロ行為から軍事侵略を始めたのだと知った時には怒りで震えていました。結果今こうなっている現状として、我が国のために努力なさった全ての国民に、米兵にも、今一度感謝を申し上げます。天皇陛下におかれましても宮内庁の発表では20:30に皇居を離れられたと拝聴したのですが、実際には東京都から逆に戦場近くまで行って鼓舞なさっていたと聞きましたのでそれはもうとんでもない驚きでした。今の評論家は愚かな行為だと言っているようですが、私は心底陛下を尊敬しました。あの後僅か2年でご崩御あらせられたとは…陛下は全国行幸を果たせられなかったことを悔やみながら崩御されたと聞きます。でも、陛下は間違いなくこの国をお救いになられた。その力の一つでありました。
後書き
今でこそ南北統一は美談になっていますが…正直言ってこんな卑劣な政府があったことは今でも怨恨に限る次第です。横須賀に住む者として防大も目指したのですが…結局落ちてしまい、今は某一般企業で働いてます(笑)でもまあ。結局平和になってくれたのが何よりも幸せです
後書きの後書き
そういえばあの後、3年間ぐらいかな?復興庁ができて、私はそれに志願して横浜の復興を手伝ったんですよ。確か…あっ!そうだ!今となっては有名かもしれませんが、ランドマークタワーは横浜復興のランドマークとして建てられたんです!私もまあほんの少しですけど手伝ったんですよ。あの時はほんと大変で。でも楽しかった…不謹慎ですよね。横浜でもあの忌まわしい空襲のせいで何人も死者が出て…みんな大変だったのに…炊き出しにも参加しました。横浜出身の方がいて、その方と一緒に炊き出しをしたんですけど、確か寿町だったかな?そこでもともとホームレスとかが多かったらしいんですけど、空襲で家を失った人とかがまた集まってもっと酷くなってたみたいです。確かに横入りとかはあの時の人らはして、その方に怒られてました「横入りする卑怯者には飯なんかねえ!」って。今思えば酷いですよね。炊き出しだって聞いて歩って来た人もいっぱいいたと思うんですけど。でもやっぱ腐ってないんですよ。そう言われた人も悪態とか吐かずに周りの人に謝ってたんですよ。いやあれを見て日本に生まれてよかったって思いました。結局私は半年も手伝わずに横須賀に帰っちゃったんですけど、でも今でも子供に話したりします。この間なんて丁度公民かな?で習ったみたいでしきりに聞いてきましたよ。空襲は酷かったの?とか停電したの?とか。でもうちはそんな被害受けなかったんだよって言ったら複雑な顔して、まあ「よかった?ね」っておかしくなっちゃって笑っちゃって。あれ?何の話でしたっけ?そうだ復興庁だ。3年ぐらい民間から募集して10年ぐらいで無くなったわけですけど、あれは大きな復興の原動力でした。「官僚もやりゃあできるじゃん!!」
って親もはしゃいでましたし(笑)既に申し上げてはありますが、本当にみなさま復興に苦心なさって、最上の努力をなさって。日本に生まれてよかった。本当にありがとうございます。お疲れ様でした。
Just a reminder, I think in this timeline South Japan was a republic instead of a constitutional monarchy, so the emperor shouldn't be there, FYI
@@user-lc2nj2cn8d ご指摘ありがとうございます。一応そのつもりです。と言いますのも、さすがに天皇制をいきなり破棄するのはもう不可能なんですよね、神話でないにせよ1000年を越える歴史ですから。神道の長、言ってしまえばローマ法王のようなものです。ローマ法王を君主に置く国家はバチカンくらいでしょうが、欧州各国などキリスト教国は彼を尊んでいると思います(詳しいことは分かりませんが)。故に、まあ現代日本のように宮内庁があっても何らおかしくはない。と判断したので天皇陛下の話題を出させていただきました。
この世界線の日本には天皇いないよ。共和国だから。仮想世界研究所さんのこのシリーズの他の動画とかXちゃんと見てんの?
@@user-lc2nj2cn8dまあそれはそうですね。このチャンネルの他の動画からもそういう推察は容易だ。
1:05 トーキョーデイライトニュースすごく好きだ
多分この一週間前くらいから
NTTやアクアラインで火災が起きたり
軍事施設に侵入者が出たり
軍及び政府関係者や右派の弁護士、評論家が行方不明になったりと
連日色々なことが「起きすぎている」状況だったと思う
アクアラインは87年には開通してません。
あと、NTTじゃなくて電電公社な
レイドオントーキョーだ
@@m16a2p90 分断されて千葉が孤立しないようにそういうの作ってるんじゃないかな….って考えた
@@keiichihemicuda1224 普通に間違えた….
WW2後に分割統治されていたら発生してもおかしくない事態ですね…
5:39
大雪の小田急電鉄みたいなこと言ってる
この世界だと東武が大手私鉄で唯一列島分断で路線網が縮小してるってことになるんかな
もしかしたら北日本と南日本を結ぶ唯一の鉄道会社として東武は儲かって仕方ない大企業に成長してるかも
@@TOUFUuser-yk1pn9wj3v 南北朝鮮を結ぶ京義線って儲からなさ過ぎて単線化してるよ
NCTはCMが入っているのに呼称が全国で統一されているというのは、こちらの世界で「放送網」を名乗っている局が構想していた形ですかね。もしくはフランス2みたいな形か。とりあえず、大阪からの発信で「蛍の光」が使われているのが不穏です。
あと、最初の天気予報でも多摩県が独立してましたね。
日本が分裂した後でも放送休止中の動画に出てくる国旗は日章旗のままなのいいね
関東電力社員忙しすぎてブチギレやろなぁ
北日本空軍の元軍人ですけど懐かしいですね…
まだ鹵獲F-14乗る前の話ですね、これ
その日は酷く眠くて基地で爆睡してたら上官に叩き起こされてmig-25で爆撃機の援護したっけ…なんか朝から頭痛が酷かったり吐き気がしたりして嫌な予感がしてたんですよね…
ホントに上の連中がこんなことやるとは思ってもいなかったんで驚いたし正直上の連中を許したくありませんでした
これ以降何回か亡命しようと思ったけど度胸がなくて結局亡命できませんでした
お盆に神奈川の親父の実家に行くときに統一記念慰霊碑へ墓参りしに行きたいと思っています
それに、陸軍所属でアーマードトルーパーのパイロットだった友人が神奈川での戦いで命を落としたので…
友人の名前キリコさんではないでしょうか?特殊部隊レッドショルダー時代の戦友でした。。
@@user-vm8no5og4yさん、残念ながら違いますね…
ですけどキリコ君みたいに何度も乗機が爆破してもしぶとく生きてましたよ
最後は敵軍の機甲猟兵にパイルバンカーでコクピットごと頭部を貫かれたそうです…
ホント、戦争って良くないですね
彼の乗機だったラビドリードッグは俺の家のガレージにしまってありますよ
というかあなたレッドショルダーだったんですか…最強のAT部隊に所属してたのはすごいですね
途中からアストラギウス銀河と混信しているような(^_^;)
西日本で高校生してたな、翌年に入学した短大時代に夏季休暇返上し国防軍の施設でカッター訓練・報告訓練・集合訓練等を受けたのを思い出す。
そうか..戦争の初期段階ってそうなんですね、蓄電池買っておかないと...
もしソ連とアメリカで日本が朝鮮半島の様に分断されていたら起こりえたかもしれない。
やはりトルーマン大統領とマッカーサー元帥がソ連からの要望を受け入れなかった事で日本は救われた。
ルーズベルトがあと1年か半年ぐらい長生きしてたら、歴史は変わってたかもしれん・・・
トルーマン大統領就任の遅れによりヤルタ密約が実行され日本が地政学的に緩衝地帯と化してしまった世界線。
30年戦争後の神聖ローマ帝国みたいだな
2145 進行前の破壊工作開始による大規模停電?
2200 復旧不可能にするための追加破壊工作、或いは戦闘により火災発生?
2213 ダム放流。攻勢時に進路を水没させるのは不利になるため、南側の防衛策がかなり厳重で抵抗が激しかった可能性?
2221 有事宣言、避難命令まで僅か36分。大規模停電の相当前から侵攻に対して警戒体勢を敷いていて対応が早かった?
2228 避難対象地域追加。水際防衛失敗?
2229 本格攻勢開始。ノイズ、広範囲での放送能力完全喪失は核攻撃?
やたらと恐怖を煽る警報音だったり過剰な演出が無いし、有事用の報道、国防プロトコルに沿って淡々と進む辺りが一番リアリティがあって、裏で何が起きてたのか思うと色々想像できつつぞっとする素晴らしい出来なので明日は小田急に乗って通勤します。
この世界線で首都直下地震おきたら北日本の侵攻誘発して致命傷だろう。
首都圏人口の大半を支える利根川上流も握られてるし、冷戦末期まで生き残ってるのが奇跡。
(なお現実でも同様のリスクはある)
初手で原発をふっ飛ばさないのはせめてもの良心でしょうか。
北日本は別に南日本を滅ぼしたい訳ではなく、併合したいのだから、土地が汚染される原子炉攻撃はしなかったのでは無いでしょうか?
まぁ、どの程度本気だったのかは今となっては分かりませんが…
ジョンタイターがこれを持ってきてたら絶対信じてたなぁ
急にテレビがこんなのになったらただ恐ろしいだけじゃ済まされない気が…こうならないといいよね
仕事で東京に出張していた姉が今も行方不明のままです。
初期報道ということなので次回作を期待してます!
私の家族はあの日北日本軍の攻撃で亡くなりました。当時私は仕事で大阪に居て戦争が始まった事を知り電話しましたが繋がらなくパニックに落ち入りそのまま私は精神病院で1ヶ月過ごし病院で私の家族、親戚が亡くなったと知らせが電報で届きました。北日本が憎い
幻想列島放送に触発されたのか、動画クオリティが劇的に上がってる。
また平行世界のTH-camからの書き込みがあるな……
南北に分断した場合、位置的に東京が首都のままなのはヤバそう...と思ったけど、ソウルがそんな感じだったか。
北側は何処が首都になるんだろうか?
ソビエトに近い札幌
ただし憲法上は東京
あの時私は軍需工場の仕事から国電で帰宅していました。停電して車内で待機していると、警報が聞こえてきて何が起きたのかわかりませんでした。外を見ると、遠くの空が赤く燃えているのをみました。とてもあの時は怖かったです。
ついに北日本が仕掛けてきたか...
この前、北にいる友達に電話したら「お前は南の人間だからもう二度と電話するな」って言われた。
親戚も同様のことを言ってた。
俺はただお話ししたかっただけなのにな
令和になってから、こういったものを始め昔へ遡りしたものが一気に流行ってるけど私も好きよ
当時、さいたま市の浦和(旧大宮)に住んでました。自分が住んでたところも停電し、近くの消防団員も火災の応援に行っていました。近くの川が氾濫しかけた状態だったので小学校に避難しようとしてたら、自分のガラケーにミサイル警報が出たので死ぬ覚悟でした。だけど友人の家はシェルターを完備していたので奇跡的に助かりました。ろくにテレビの情報を見れなかったので、見れてよかったと思いました。
5:41 ここでコメントがやけくそっぽくなってるの好き
2018伝説の小田急くんすき
@@chopdream942 どこかで聞いたことあるようなと思ったらそれ!ありがとうございます
私の両親が結婚した年だったので、生まれてから当時の事をよく話してくれました。
父は当時箱根土木事務所に勤めていたのですが大規模停電の後、各地で道路の封鎖が相次ぎ三島方面へ向かう道路の封鎖を国から命じられて急遽大型除雪車などを用いて対応にあたったそうです。
どうも後から聞く話によると北日本のスパイが静岡以南への浸透を開始していて、その一環で一時箱根は孤立状態だったそうです😢
ただ、早期の対応の甲斐あってか、父の地元ではその後の北日本のスパイによる拉致・虐殺事件は発生しなかったとのこと。
隣の山梨の身延方面は中央道経由で浸透が早かったため、身延中学校の爆破テロや、市内の女子高校生拉致事件が起きてしまいましたね…😢
母方の遠縁の親戚がこの件に巻き込まれて、いまだに行方不明だそうです。。
当時4才だった私は父が運転するダンプに便乗して都内を走っていました。
突然暗闇に襲われたのは記憶しており、交差点では警察官らしき方々が交通整理に務めてたところは幼い私が興味を惹かれたこともあり記憶してます。
またラジオで何かを聞いて父が苦虫を潰した様な顔は今でもよく覚えてます。それでも工事に支障が無いと判断されたらしくそのまま継続されてましたが、渋谷方面当時のNCT東京放送局があった方角からもの凄い爆音があったらしく、音に驚いた私はそのまま気絶してしまいこんなことがあったとは今まで知りませんでした…
当時、私は福島県の沿岸部に住んでいて、まだ7年生でした。
深夜に磐城街道(旧国道6号)を、大量のT62が南に移動して行ったのを目撃しました。
親が懇意であった人民班の班長に話したところ、演習だと聞かされました。また、善意ゆえか班長には厳しく口止めをされていて(民警に目をつけらてしまう)、脱北するまでは人に話したことがありませんでした。
脱北してから初めて事実を知りました。まさか戦争になっていたとは・・・
なるほど、、こんなことになってたんですね。
教科書でしか12.15の情報は見たことなかったですが、とても貴重な資料ですね。
学校でもこう言った情報を流してほしいです。
5:41
一般通過小田急電鉄やめろw
昔からどんなホラー映画よりも「電波ジャック」の映像の方が怖かった私。
この動画もそんな雰囲気がかなりあって恐ろしくなります。
4:11の地図の松本・静岡変電所とあるのを見てふと思ったのはこの南北分断世界だと戦後復興の過程で電気の交流が南日本は60Hz、北日本は50Hzで統一されてそう
素晴らしい動画だと思います。
見入っちゃいました。
日本の分断統治は連合軍によって実際に検討されてただけに恐ろしい。
停電が起きてる家にテレビが呼びかけてもほとんどの家庭はテレビが見れないという…
当時はワンセグも無かったしな。ただ、当時はFMラジオの受信機でテレビの音声は聞けたよ。
@@user-zz7st1dy9k そういえば当時ラジオも発展してましたね。
電池が使えるラジカセ懐かしいです。
公園とかにラジカセ持って曲とかの流してる人いましたね❗
私の父親は当時 南日本国家安全保障局(現 国家安全保障省)の創設まもない緊急対応要員(ディビジョン)のエージェントでした、父親に科せられた任務は南日本首都圏の非常時における北日本工作員の排除、通称スカルプハンター(首狩人)で…
これ戦争規模どれくらいだろ。首都圏に打撃与えて政治的に有利にして講和とかとか?
北朝鮮がソウルを火の海にするというかというレベルかな?
突然東京からの放送が停止してるから
下手すれば核攻撃を受けたかピンポイントで放送局に攻撃している可能性が
北日本が目と鼻の先の茨城県南浦市に住んでいるものです。父や祖父母の話によると、この辺りはすぐに北日本に占領され、水戸収容所に連れて行かれたそうです。その後、農業を営んでいたため強制農業生産施設に移され、1日18時間労働だったそうです。私が生まれる少し前の2003年に南日本軍によって解放されました。現在は久慈川、桂川が戦線となっています。私はこの国の戦う兵士のために美味しく栄養価の高いものを作って参りたいと思います。
占守島の戦いが起きなかったとか多分そういう世界線
確かこの奇襲のあと稚内・能代・名取のミサイル基地と苫小牧・小樽・八戸の海軍基地を破壊したんですよね。実は鳥海山爆破計画もあったけどそこまでは行われなかったんですよ。
追記
本来は名古屋局が放送を受け継ぐ予定も攻撃への対処のため大阪で再開
流れ
21時45分 停電
22時08分 北・ダムを放流
21分 北・攻撃開始
28分 北・本格的攻撃
30分 南・南北紛争対処法による紛争再開宣言
34分 南・前述の基地攻撃開始
37分 南、函館・米沢・平・村上の陸軍基地へ攻撃・空挺降下
三沢と千歳も 断続的に攻撃を受けてましたね…
@@masmo06sova ええ、あそこはソ連駐屯基地でしたのでかなり狙われてましたね....
この世界線では1987年時点ですでに妙高市が成立してるのか… この市域だったら上越市と妙高市区域で上越市となっていると思われる
なんなら新潟県の範囲が狭すぎるので長野県に組み込まれてそうだな
長野県民悲願の海が存在する世界線
こんだけ停電してたら対象地域では観られないだろうな
当時九州に住んでたんだけど、列島有事宣言出された後の広域空襲警報はマジで鳥肌立った記憶ある
本当なんでこんな軍事境界線に近い所に首都そのままにしておくかなぁ、と
現実のソウルの件を考えると思ってしまう。
マジで日本降伏時にソ連を追い返せなかったら南北で分断されてたかもしれないんだよな
当時私は外地だった北海道の大学の学生でした。TVでこのニュースを見て大変びっくりしたことを思い出します。
内地に戻ろうにもスカイメイトの座席が取れず家族に連絡を取ろうにも電話は10円で5秒しか話せませんでした。
やっぱり平和が一番ですね。
地元の茨城県が初っ端から虫の息すぎる領土...
追記 栃木の方がガチの虫の息でした
今だと電気だけじゃなく通信回線関係の大規模障害が…ニコニコのようなのが全回線域で発生するだろうね
関東は利根川で分断されて刀水橋付近にも規制線が張られてましたね・・・
今回も最高でした!
野暮ですみませんが、リアルの80年代天気予報は、もっとゆーっくり話してたと思います😊
当時八戸に住んでたけど、この一週間くらい前から三沢基地へ行き来する貨物列車の本数がやけに増えたので、演習にしても不自然だとはと思ってた
あれから1年、南日本軍の北東北解放作戦の時、北海道へ半強制的に疎開させられるところだったけど、青函連絡船が米軍の空襲で出港できず、そうこうしているうちに南日本軍が進駐してきた思い出
北日本側の立場にたった番組や映像もつくってほしいです。
あれ…私のほうが異世界生まれ…なのか…?
日本が分断されずに戦後を歩むって小説はいくつもあるけど、あんたはそっちの世界から来たのか?
気を取り直せ、PTSDで頭がおかしくなったのか?
あの時は大変だったなぁ
結局、東京が焼け野原になっちゃって再建を断念して霞ヶ関や丸ノ内の機能を京都に、それ以外の機能を大阪に移転しちゃったんだよなぁ
んで、うちは小田原に残り続けたけど、小田急線が単線化したり、伊豆箱根鉄道が廃線になったり、東海道線の編成が短くなったり、箱根に行く路線バスが大きく減ったりしたなぁ
鉄道以外だと、デパートが軒並み潰れたり、小中学校の統廃合が一気に進んだり、小田原市内の高校だと普通科高校が2校にまで減ったり、市内唯一の工業高校が平塚の工業高校に統廃合されたりして若者が少なくなっていったのを覚えているなぁ
そういえば、この前野暮用で東京へ行くことがあったけど、嘗ての高級住宅街が庶民の住宅街に成り下がり、それ以外は貧民窟と化していたなぁ
そういう姿を見ると、あの出来事がなければ、東京は今も栄えていたんじゃないかなって思うな
小田原市民ですが、その後がリアルすぎて先人の皆様には頭が上がりません。
すごい。
学校の授業でなかなかこういう映像取り扱ってくれないけど見ると当時の状況がはっきりわかりますね。
それと、5:39 JKRがまだ関東国電だった時代。鉄オタとしてこれは見逃せませんでしたよ。
ホント、こんなんが来ないとも限らないのが怖い
続きがあれば見たいです‼️
当時の仙台首都圏では、有事に備え特車隊が配備されていました。南日本の方は知らないと思いますが、警備用特別車両機器パトレイバアが仙台湾岸地区の警備にあたっていたんですよ。田母神隊長率いる特車二課隊は、1988年2月の南日本シンパによる仙台クーデターを未然に防いだ功労者だったとか。
この1987年の架空戦争においても、軍用パトレイバアの使用が確認されているらしいですね。結局、この年末の騒動はマスメディアを利用した見せかけの戦争だったらしいです。実は、仙台首都圏でも同様の事件が発生しており、七北田川と名取川に架かる橋が破壊され、帝都仙台も一時機能不全に陥りました。
子供ながらよく覚えてる事案でしたね。
自分はイギリス管轄してる九州南部だったけど、
確か駐留英軍、情報将校のデイビッド防諜准尉家族とポーカーゲームしてた時だった。
近く東で、断末魔とも言える事案が起きそうだから
分断国境線付近の親戚を迎える準備してた方が良いと思う。
時期はまだ不明って言ってた時にこの放送だったから、
大人達が顔真っ青にしてた。残念ながら親戚を九州南部で迎える事は無かった。
時期が分かって生き延びていたら、、、、親戚たちはどんな人生送ったんだろう。
冬至時期でのすぐ暗くなり寒さが強気なるあの時期に、
長い夜に飲み込まれる夢か幻みたいなイリュージョンにふけってしまう。
国鉄が分割されてる.......(国電呼ばわりな当たり多分民営化はしてないんだろうな。)
東日本大震災の時こんなだったな〜
これ以上の精度の音声AIあるからもっと使ってほしい
多分不気味な雰囲気を増進させるためにあえてこのような音声にしているんだと思う
はじめまして。私も、あの日の事は良く覚えています。当時、近くに住んでいた宇都宮東部にあった清原航空基地から、幾機もの大型爆撃機が飛んで行ったのを目にしました。
あれは恐らく北日本製の物ではなく、ソヴィエト製の最新爆撃機だったのではないかと、今では思います。
その後、唯一の親族だった幼かった弟が、当時東京に保護されており、心配で脱北し探しに行ったのですが、
東京に近づくにつれ、空襲の被害が大きくなっていき、弟の住まいとなっていた建物は、爆撃の直撃を受けて…。
すいません、これ以上は…。
一つ言える事は、あの日の事は、私は決して忘れません。それだけです。
テレ朝っぽさが良い。後ろでわちゃわちゃしてる感じがリアル
この世界線の群馬県や茨城県などは北日本に面しているから常に緊迫した空気なんだろうな‥
その地域の街並みや鉄道なども我々がいる世界線と比べて全く違ったものになってそう
自分は実際に栃木県足利に行った事が何回かあるけどそこもこの動画の世界線では北日本のそばだから12.15戦争で少なからず被害を受けると思うとビビる
鑁阿寺などの歴史ある文化財は果たして無事だろうか‥
足利町ですからね。渡良瀬川以北の旧市街の大半は北になってしまっているんですよ。渡良瀬橋もずっと落とされたままだし、旧国鉄足利駅からフラワーパーク駅の間はマジノラインをほうふつとさせるトーチカ群が建設されているんですよ。
当時生まれる前でしたが、父母共に突然放送が休止したことに大変驚いたと話しています。その後伊勢崎やいくつかの街が洪水で浸水し、住んでいる多摩県にもたくさんの避難者が流れ込んできたそうです。私の友達にも昔伊勢崎に家族が住んでいたと言う人がちらほらいます。沿境界地域には何度か鉄道旅で訪れたことがありますが、現在もその傷跡やモニュメントが残る場所は多いです。北日本の残虐で卑劣な行為に我々は屈してはいけません。
これは本当にあった事ですか?
多少のフィクションはあれど、
これに似た事があったのですか?
ググっても出てこないので…
真実を知りたいです。
朝鮮分断がモチーフですが、完全なフィクションです
91年京都生まれです。
埼玉生まれの親父がこの時国防軍にいました。
埼玉南部は入間、朝霞、大宮、と基地や駐屯地がひしめく軍都で、練馬の師団司令部もすぐそばにある立地でした。
私の父も朝霞で補給関連の部隊に勤めていましたが、実は広域空襲警報発令前から軍が警戒態勢に入ったため、父は家を空けていたようです。
大きな爆発音がしたため思わず母が駐屯地の方角を見ると、夜にも関わらず黒煙が見えたといいます。
その煙は灼熱の炎に照らされ、やがて数キロ離れた我が家にも焦げた臭いが漂ってきたのでした。
父も父でジェット機のような甲高い轟音を聞くや隊舎の屋上に上がると、駐屯地の端が炎に包まれているのがわかりました。
ソ連から技術供与を受けたのでしょう、当時最新鋭の巡航ミサイルが訓練場端にある地対空ミサイル(SAM)部隊に弾着したのだと一瞬で理解したそうです。
そしてSAMを潰されたらそのあとは敵機が来襲することも。
それどころではない父は救援に向かう車に飛び乗り現場に到着すると、そこはもう地獄でした。
自分と同じ作業服を着た兵士がちぎれ飛んでいます。
仰向けで目を開いたまま動かない上半身はつい先日食堂で列を譲った若い兵士でした。
まだ20歳くらいの子供っぽさが残るあどけない顔で、白飯をてんこ盛りによそって嬉しそうな笑顔だったのを今でも思い出す、と父は生前に語っていました。
それだけではありません。下半身が燃えている兵士も、そこに落ちている腕先だって、同じ食堂で同じ釜の飯を食い同じ風呂に入った大切な仲間です。
部隊は違えどこんなに惨たらしい仲間を見せつけられた父は、終生北への憎悪が消えることはありませんでした。
それと同時にどうして同じ日本人で殺し合わなければならないのか、本当の敵は個々人ではなく北の体制そのものだと酒を飲むたび噛み締めるように溢していたのを覚えています。
その後戦争の激化により足が不自由になった父は京都の弾薬庫勤務となり、やがて私が生まれました。
この戦争のことはなんとなくネット上でもタブー視されていますが、コメントを見る限り対南スパイ分子による破壊工作活動だけでなく開戦劈頭から関東各地が攻撃を受けていたようですね。
統一による南北融和なんて政府とマスコミが流す虚構でしかないと思います。
ここまで緻密かつ卑劣な攻勢で多数の同胞の命を奪った旧北政府関係者は地獄の底でその罪を償ってほしいと思います。
皆さん想像力スゲェなぁ😅
過去脱北して南に来た元ボクサーの知人がいるんですけど
彼の口癖は「おーれは南の人、ことばナマっててわがんね。」です。
会津というところで生まれた人です。(注:かなりの割合で実話)
シーンが変わる時のアイキャッチ? 説明? はない方が良かったと思う。
あと大阪放送局に代わってからの内容も欲しかった。
あ、まずいことが起きてるな、って徐々にわかってく感じゾクゾクするわ
0:37
第二次世界大戦終結後、新潟は東西に分断された。
冷戦と呼ばれる時代の幕開けである。
南日本での千葉県民です国境付近でしたのでドキドキして過ごしておりました私の叔父が本拠地の方で戦っておりまして何度も目の前であの世に逝く瞬間を見たと言います停電の時はギリギリ自分達は停電しませんでした国境に近い以外は満足でした攻められると知ったときは急いで房総に逃げました今も生きていますがまだ少し怖い部分もあります