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近くのホテルのディナーショーに田端さんが来て、両親を招待しました。父は、握手してもらったと、喜んでいましたもう、 二人ともいませんとても懐かしい、思いでです。
😢親孝行ですねぇ~😖
@@鏡豊-r1p 佐は府はススフスブランドルルドプロぬく
9らラサハと言ってしまう⁉️
良かったですね。ご両親今でも忘れてないでしょう😊
私の父もこの唄が大好きでした。支那ヘ戦車兵として戦った事私に良く話をしてくれた。終戦で引揚げ船からの玄界灘を越えて日本みた時のことが、この唄にあると言っていたのが懐かしく寂しい気持ちと亡き父との思いだす唄です。
この歌は泣けます。私の父もシベリアに抑留され、帰国後結婚し、私は昭和25年に生まれました。父は96歳で健在。私が小学生の頃、家の近くの戦友のかたが、時々夜、話に来て、夜更までまで話をして帰っていました。農家の父は、それでも朝早くから夜遅くまで働いていました。戦地を思えば、少しくらい寝ないことなど何でもなかったのでしょう。
亡き兄が大ファンで帝国ホテルのディナショーに連れていってくれました。思い出して涙とまりません😔
😅😅😅😅😮😊
戦争が終わって帰還船に乗る婦女子や男達の写真を複数枚見た。彼らの顔に明るい笑顔があった。戦いに負けた悔しさよりも、戦いが終わって日本に帰れる嬉しさが勝っていたのかもしれない。彼らが、戦後の復興に汗を流したのだ。
令和3年10月28日に亡くなったばあばが大好きな歌でした。毎回この動画みてカラオケ練習してました
かえり船、戦後の悲しい歌です。帰れなかった人も大勢います。田端さん有り難う。
私の父も戦後、旧帝国海軍の経歴をかわれてか、引き揚げ船(武装解除された駆逐艦”萩”)で中国の残留兵士や民間人の帰国ための仕事していました。父は、戦時中のことはあまり語りませんでしたが、戦後に母国に帰る旧兵士や在中国の民間人の帰還のおりの様々なエピソードを話してくれました。そんなこともあり、戦後5年後に生まれた私も、小学校時代にはこの歌の意味深さに幼稚ながらも感激しました。ちなみに、その既に故人の私の父も茨城県人です。
田端義夫の歌を聴きたい
山口様私も田端さんの歌声は悲しいですが、とても懐かしく、残された私が頑張ラナと、励ましてもくれました。 2:49
「皆様、本当にご苦労様でした。こね船は日本の船です…」と言った船内放送を聞いて、引き揚げ船は涙の帰還を果たしました。異国の地で、祖国の為に戦った人達。引き揚げ船は胸を張って、威風堂々と祖国を目指しました。今在る日本は、こうした先人の人々の過酷な苦労の上にある!と言う事を忘れてはならない。
敗戦の1945年生まれの私も満州からの引き揚げの一人です。哈爾浜市から2カ月掛けて九州へ家族5人で帰国、その間に起きた出来事も何度か聞きましたが…文字にするにも憚るような現実でした。それでも周囲の人々にも恵まれて家族5人誰ひとり欠けることなく無事本土上陸出来ました。栄誉失調の末っ子の私は帰国後間もなく肺炎やらで生死をさまよいながらも運良く生還し令和まで元気に暮らしてます。物心の付いた頃から何故かラジオから流れる“端”ヤンの帰り船の歌に魅せられてました。近所に手巻き式蓄音器を持つ家がありよくおねだりして78回転SP盤でこの歌を聴いてました。後に時代は白黒TV、カラーTV時代へと変わり両親と一緒にこの歌を聴いてました。
@@村山ザトペック ㄷ
昭和40年台後半、今は亡き父親のカーステレオのカセットに入っていた曲で車のバッテリーが上がる寸前まで聴きよく𠮟られましたが、曲もよく覚えています。戦争に行き鉄砲の弾が当たり、その上マラリアにもかかり死ぬ思いをしながら帰国した父親の形見の曲でもあります。本当に名曲だと思います。
私は昭和17年生まれ、戦後の苦しい疎開先でこの歌を聞きました。この歌は戦地から復員された兵隊さんの歌だけではなく日本人の心に語りかける名曲だと思います。苦しい生活を生き抜いてきた田端義夫さんだからこそみんなの心に染みとおるのだと思います。ありがとうございました。ご冥福を祈ります。
いつまでも元気でいてください。昭和25年生まれより!こうゆう歌や歌詞の分かる世代の方にいつまでも長生きして幸せにいてほしいと願います!ありがとう!😉🌄🌻🌷😆😅🤩😂😍はい、端やんのご冥福をいつも祈っています。端やん、ありがとう!
あの食べるにも事欠く時代を生きた者として日本人の心を歌ったばたやんを忘れてはなりません。効率一辺倒の世の中には人の心がありません。私は日本人の心を大切にして生きていきます。
この歌の記念碑が引き揚げ船が着く港の丘にありました。隣県に居て知りませんでした。静かで良い所です。
@@宇宙の光-m8c😊
「この船は日本の船です」このアナウンスにどれだけ安堵したことでしょう。そして流れてきたこの歌で本当に帰れるんだと実感がわいてきたのではないでしょうか。
1936年生まれの父が大好きな曲「バタヤンには他には真似できん哀愁があるから好きや」と言っていた気持ちが51歳になり今、気づく娘です
私の叔父さんも二人戦争に行き「 フィリピン」から引き上げ船で 帰国しました。叔父さをが 実家の駅に着くと叔父さんの兄の戦友からお兄さんは 戦死したと聞いた時、背負っていた「リック」が重くなり、涙が止まらなかったそうです。「 かえり船」をよく歌っていました。
この歌を聴く度 自然と涙が込み上げてきます。
一昨年父親が、父親が旅立ちました😢何時もお酒を飲んだ後かえり船と哀愁列車の2曲を🥢で茶碗を叩きながら唄って居た、あの頃を思い出します私が物心ついて一緒暮らしたのは数ヶ月でしたが、やはり自分に取っては世界で1人の父親なので、たった1枚の写真に語りかける事が有ります。昭和・平成・令和 時は流れても歌で勇気づけられる事に感謝しています。
私は広島県呉市に住む79歳の男です。戦後小学校2年生であったと思います。父親は 呉海軍工廠に努めていましたので、現在の中国 上海に出張して居る時、終戦に成りました。その頃呉駅は外国から帰国される父親や息子の帰国を待つ人で一杯でしたその中に?呉駅で 田畑義男さんの帰り船 が延々と流されていました。私も毎日呉駅で父の帰りを待っていました、ほとんど毎日(夜に)ある日列車から降りてきた父を見付け、大泣きで縋り付いた事を思い出します。そんなことで 田畑義男 さんの帰り船を聞くと、今でも、その時の事を思い出します。文章が下手ですみません。
石橋経
石橋経俊
石橋経俊 まだ、お元気ですか?
父は関東軍として満州に渡り、命からがら、日本に帰って来ました、この歌を聴くと父がどんな思いで故郷の土を踏んだか、考えさせらます。
昭和は遠くなりましたが、田端義雄さんが歌った〔かえり舟〕復員して帰ってくる兵士の心情、時代背景が本当に切ない。
田端義夫のが帰り船は間違いなく昭和の歌謡史を飾る不朽の名曲です
日本人にとって特別の歌「かえり船」をばたやん田端義夫に歌わせたのは神の采配ではないでしょうか。
三十年くらい前、父母と私の三人でコンサートに行きました。父がこらえきれずに泣いていたのを思い出します。
この歌でどれくらいの国民が戦地から帰って来た人達を涙して迎えたことか。ギターで最初に覚えた歌がかえり船でした。
私の父がNHKのビックショーでこれを聴きながら涙を流していたのを忘れない。昭和21年の曲、父が復員した年だ。
終戦直後に生まれた私は、軍属の父、母、2歳の姉と共に南方の島から引き上げてきましたが、廃墟の故国にたどりついた父母の胸のうちを偲ばせてくれる歌です。里の秋と同様に大好きな歌です。田端義夫さんの最高の歌唱力で涙が出そうになりました。
そうでしたか。戦地から、帰って来る人びとの哀愁が伝わりますね。
立派です。ありがとうございます。
私も、戦後生まれです。私の父も、満州に行きました。無事で帰国をしましたが、毎晩の様に夢でうなされていました。なぜ?と聞きました。いつも、木の陰に隠れてる夢を見ていると言っていました。主人がいつもこの歌をカラオケで歌ってくれました。この歌詞をみると父の心情がわかりました。どれだけ辛かった事か、ロシアとウクライナの戦争が1日も早く終わる事を願っています。
戦陣に散り、職域に殉じた先輩に対して、厚く御礼申し上げます。シベリア抑留や満州などからの引き揚げて来られた方々のご苦労を思いますと熱いものが頬をつたいます。父親が大好きなこの歌が忘れ去られることがないように守っていきたいと思います。
私の母は昭和3年生まれでし坨。激動の時代を生き抜き、今年3月永眠いたしました。この歌が大好きで激動の時代をに思いをはせながら余生を送りました。最後にこの歌で天国へ送ることができました。ありがとう
@@武田兼春 キェか赤果皮なおきた
良い歌だよね。俺たちは、こうした時代を大切にすべきだよ。
works1173
まさしくそのとおりだと思います。ありがとうね🌷🌺🌹
昭和時代のおばあちゃんこの時代とてもつらい時代でしたね🎉この歌で元気をもらい田端さんの苦労を一緒に頑張りました❤ありがとう
介護施設に入所している母が今日か明日かわからない状態ですのでこの曲を聞かせてやっています
コメント拝見させていただき、目頭が、熱く涙がとまりませんでした。私は、すでに両親は他界しております。何年経っても、両親の事を思いだします。もうすぐ、親子です見慣れていない家を、売却します。悲しいです。
@@山田寛-j5f ふ ?
戦争経験のない私でも、聴く度に涙が出ます。凄い曲ですね。
湖畔宿
そうですね。すごい曲です。我々で歌い繋いで行きましょう
ずっと疎遠だった父親が亡くなりました。私が中学の時に🍶飲んでは、田端義夫さんの帰り舟歌ってましたが今日突然聞いて😢母親と父親の離婚で、私達3人は施設で育って中3の2学期に突然継母が来て、高校も行きたかったのも残念して就職で、父親を憎みましたが何故か亡くなったって聞いて涙が溢れて😓来世生まれ来る時は離れ離れになった家族と暮らしたいです。今日は父が好きだった帰り舟聴きながら多少の思い出に浸りたいですね!どんなに憎んだ父でも亡くなってしまえば寂しいです😢😢
コメントを見て父親に対する優しさが素晴らしいと思います。これからの人生があなた様にとって良き人生でありますように❗
純子檜山さん!両親が離婚をしご兄弟が施設で暮らすようになり、そりゃお父さんをさぞ憎んだでしょうね~私も両親をなくしてついおもうのですが、いつまで経っても親は親ですものね~私は最近殊に夜に晩酌をする時に、千昌夫の「望郷酒場」の歌詞の件の~オヤジみたいなよ~酒呑みなどにならぬつもりがなっていた~と独り言を言ってお酒を呑んでるんですね~そういう時はやけに親父もお袋にもっと親孝行しておけばと老年の今になってつくづく思う今日この頃ですよ~
血の繋がりは、憎んでも憎んでも理解出来ない程の不可思議な繋がりがあると私も経験して思います。
無念ですね。
私は昭和32年生まれ。私を含め、戦後生まれの日本人は直立不動で敬礼をして聴かなければいけないくらいの歌だと思います。どんな思いで祖国を目指したのでしょうか。どんな思いで大切な人を待っていたのでしょうか。 本当に、本当にお疲れ様でした。
taro meso (
vb
尾崎mj昭子 た
そう思います。ありがとう!
96歳で亡くなった祖父がいつもお酒を飲んだ時に歌ってました。戦争に行く前の自身の写真と乗っていた軍艦の写真を飾っていたのを今でも覚えています。何故かふと思い出して検索してみたらこんなに有名な歌だとは知りませんでした。
船上でこれを聞いて本当に帰れるんだと号泣した方もいたでしょう今想像しても胸が熱くなりますまた田端義夫の歌で強く心に響いたでしょうねむせび泣く様なバタやんの声いいですね。
父親の大好きな曲でした、戦争から帰るときに船内で聞いたと言っただけで戦争の事は一切言わなかったです、父の一生涯の運命の曲だったと思います、
pm86ca せ
私の父もこの歌が大好きでした。この歌を聞くと今でも父を思い出します。
祖国の土を踏むまでは。今の若者には想像もつかない。
私の父も何も語りませんでした。語ったところでお前たちにはわからない、と言うことでしょう。
ただただ泣けてきます。
このジャンルでの730万視聴、これは驚異的ではないでしょうか。如何にこの曲が戦中戦後世代の心に染み込んでいたのか、実感されます。またパタヤんの歌い方、その時代を生きてきたからこそのものです、歌の上手な歌手が色々カバーされていますが、うまさだけではこの曲は馴染みません。
私も満州からの引揚者でした。戦争にとられていた父は、シベリアから戦後4~5年してから帰ってきました。母と2人で、母の実家に帰ってきた父を迎えに行き、父の膝の上にだっこしてもらったことを今もって忘れられません。京都の叔母・父の姉が今日か明日か、と言って、舞鶴まで迎えに行っていた、という話を、何回となしに聞かされました。この歌は、私にしても、涙がこみ上げてくる思い出多い歌です。
私と大矢さんは多分5歳前後の差しかないと思いますが、物凄く大きく重苦しいほどの差がありますよね。私は団塊世代です。子供の頃(7歳)呉の警固屋の親戚に行きかくれんぼをして、自分は間違えてある長屋の中に入ってしまいました。その時、自分の当時の目には12歳前後の女の人が共同の長し場で黙々と茶碗を洗っているその人と一瞬目が合いました。その時のその女の子の目の表情が何故かずっと記憶にありました。そして時間は流れ、私が40歳を過ぎた頃、母に「この道の上に長屋みたいな建物があったよね」と言うと「ああ、満州からの引揚者の方達が一時期住んでいた…」この時に、やっとあの少女の瞳の奥に感じたものがなんであったのかがやっと識ったという思いでした。ひょっとしたら両親は亡くなった後で縁者と引き上げて来たのか、又は、兄弟姉妹のいづれかと死に別れたのか…推測ですが、そういう人生の修羅場をくぐって来た人(たとえ子供であれ)の目だったなと思います。大矢さんも、中国残留孤児となった同級の人もいたあの時代を生き抜いてこられた。m(_ _)m氷川きよしが当時のそうした時代背景がわからず、彼の美声だけでカバーするから響いてこないがこの本物の歌には戦後生まれの私にも涙がでます。
@@seijishino5555 戦争の悲惨さは、戦後の貧しさ、食べる物が無くて、散々苦労した事、幸い私の父は、敗戦後4~5年で引き上げて来ましたが、友達のお父さんが戦死して、生活苦が凄かった事を忘れられません。だから、どんなことがあっても、戦争は許せません。
@@大矢靖史-k2p 返信ありがとうございます。歴史はいろんな考え方や捉え方は様々あれど、結局「戦争」は古今東西、つつましく平和に生きていた家族がバラバラにされたり死んで行く…戦争だけは、してはいけませんね。
話を聞いていると心にぐさときます。戦争はこの世の最も悲惨な人を不幸にする人為的狂気です。あってはならない、あってはならない!!と痛感します。
二十歳の時、上司が忘年会で歌ってたのを聴いてからバタやんのファンに。そんな私もあと3年半で還暦です
昨年亡くなった母が好きな曲でした。在宅介護だったので、枕元でTH-camで聞かせてました。私は演歌は聞く方ではありませんが、この曲を聞くと母が口ずさんでいたのを思い出します。
田端義夫は演歌じゃありませんよ。
涙が自然と出てくる。他の歌い手では決して出ない
僕の叔父は海軍の軍人でした。昭和20年4月軍艦とともに東シナ海に沈みました。24歳~どんなにか本土に帰って来たかったか!今曲を聴く度に叔父の心が偲ばれます。
武之天
武之天野 ひ?
isao hosumi ほま
武之天野 私の曽祖父も軍人でした。他国で敵の軍人に足を打たれましたが、93歳まで長生きをしてくれました。もしかしたら、あなとの叔父さまとどこかで関わっていたかも知れませんね...。
心化粧
🐼 かえり船 田端義夫 バタやんの名曲ですね、わたしが二十歳頃歌われていた歌ですが今もカラオケ🎤🎤🎧🎧に行った時には必ず歌う歌です。懐かしい かえり船🤗🤗 !配信さんありがとうございました ]👩👩👧👧👨👨👦
田端さんの歌と村田さんの曲が!!父のオハコでした。。この歌を聞くたびに父を思い出し涙が止まりません!俺は男!誰にファザコンと言われようが!お父ちゃん大好きやで!!俺の一番やで!ありがとう!ありがとう!ごめん!ごめん!ごめん!来世も!お父ちゃんの息子にしてくな!孝行させてくれな!次は最後まで笑ってよな!あまやかすなよ頼むから。。。
倫道 ;
51歳、男です。昭和14年生まれの父、平成12年に病死しました。中卒で食いぶちべらしでホウコウに出て、結婚し、私を大学にいれてくれました。バタヤンの大ファンでした。私自身はプログレ、ズージャー、ヘビメタと、洋物一色ですが、バタヤンのギターは、世界に誇れるスタイルだと思っています。戦後の悲哀、実情そして鼓舞を歌い上げた永遠の名シンガープレイヤーです!
どんなに辛かった事か 本当にご苦労様でした
かえり船は我が人生の応援歌。母が好きだった歌です。私は戦後生まれです。戦争経験はありません。また復員列車を迎えに行った経験もありません。だけど、戦争の厳しさ残虐さは見聞きしています。かつてサイパンでは悲惨な悲劇は何度か現地の人や経験者の声を聴きました。ばたやんが大切に歌われた「かえり船」を大切にします。
私も、樺太からの引揚者です。函館港に着き下船前夜に船員による慰安会で「かえり船」が歌われ今でも耳に残っています。この歌を聴くたびに当時のことを思い出しています。
引き揚げしたときはやっぱり舞鶴ですか?
時代が懐かしい
函館でした。@@才谷梅太郎-e5c
ありがとうございます。稚内市へ行きますと、氷雪の門の九人の乙女の慰霊碑が立っております。昭和天皇様行幸碑が傍らに立っております。忘れてはならないと思います。
田端義夫さんの歌が大好きだった主人を思い出し涙が出ます。
中国大陸を転戦し、内地に引き上げてきた九州の港で流れていたと今は亡き父が話していました。現在59歳ですが、この歌を聞くと、泣いてしまいます。
私の父は戦争中潜水艦に乗船していました。この曲が好きでした。私もステージを拝見したら涙が止まりませんでした。
昭和50年生まれの僕ですが、明治生まれの祖母がよく僕が小さい頃に口ずさんでたのを耳に聴いて、未だに記憶に残ってます。歌の力って凄いですね。心に染みますね。
80年近い歌手人生、本当にご苦労様でした。よっくりとそして安らかにお休みください。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
昨年末亡くなった父は、若い頃から田端義夫さんに憧れて、ギター弾きながらをよく歌っていました。このかえり船もよく歌っていました。声がバタやんに似ていたので、涙しながら聴いています。
私の父も昭和22年に復員戦で佐世保に帰ってきました其のときを想像するに同じ心境ではなかったかといつも聴けば涙が出ます。
泣けます。昭和25年生まれです。父はシベリアから帰りましたが、言葉の意味をロシア人に誤解され死んだ人も多かったと言っていました。父は見よう見まねのロシア語を喋りタバコをロシア兵士からよくもらい死なずに住んだようです。陸軍士官学校出です。私は戦争や天皇は嫌いです。純真な日本人は騙されていたのです。だからこの歌を聴くと泣けてくる。日本の軍人さんは素晴らしい人達だと思いますが。
帰ってきた人も辛かっただろうけど、帰って来れなかった人や家族のことを思うと、もっと辛い。
3年のシベリア抑留を終え帰還した親父 帰国の船でこの唄を聴いただろうか何回も「ダモイ」と言う言葉に翻弄されたと聞いてます 抑留生活の辛さは殆ど話しませんでしたが 「俺の命はシベリアで終わってる」と必死に子供5人を育ててくれました 勿論恋仲にあったお袋と結ばれたからこそです親父の支えとなったお袋も偉かったと想います 両親には只々感謝しかありません何の孝行もせずに両親を失いました 悔やまれます この世で1番怖い男それは親父この世で1番尊敬する男それは親父 そして1番優しかったお袋 二人の間に生まれてこんな幸せはありません! 生前親父が言ってました 「どんな事があっても戦争はしてはならない!」戦地で苦労難儀した親父の言葉ですから間違いない言葉です!
僕の三重県の先輩バタヤンの懐かしい歌を聞いて居ると戦後の貧しい時代を思い出して懐かしく、涙が止まりませんありがとう🙇
この人は。。本当にうまい。最近の歌手には。。ない。。。魂が歌っている。。。心を。。鷲掴む。。
渡哲也
大畑広 super
ほんまや。
端やん最高やなぁ、俺は、まだ生まれてなかったけど、親父の影響で、大好きになった。これからも頑張って下さい。
戦争は知りませんが、目頭が熱くなります。 本当にご苦労様でした。
「夢もわびしく よみがえる」最後の「るぅぅぅ~♪」のビブラート、実に心地よい響きではありませんか!!…美しい•丁寧…色々と良い言葉が並んでしまいます。田端義夫さんは勿論ですが、この頃の歌い手さんは、言葉一つ一つを大切に歌われていました。それが良い歌唱であり、味わい深い歌唱だったと私は思っています。昨今のようなヘラヘラ•チャラチャラした歌唱では、その歌本来の味が出るはずはありません。丁寧で味わいのある歌唱を聴きたいのなら、やはりこの頃の歌い手さんの歌唱を聴くことが一番だと思います。
全く同感です当方88歳の高齢者です
県立高校で社会を教えてますが、今の高校生、太平洋戦争終戦日が1945年8月15日だということも知らない生徒が、とても多いです。これは由々しき事態だと感じています。日本国が崩壊に向かって確実に進んでいるのを、教育現場で身近に痛感してます😓
ばたやんの歌は哀愁が漂って素晴らしい!
私わ戦時中生まれですが、きく旅に、悲しくなり、何度も繰り返して聞いて、息子が、また聞いていると、いわれます、80歳
よう端やんいいね、昭和の歌手の演歌いいね👍心に染みるね日本人で良かったです。そう思いませんか?
田島為三郎田端さんが逝かれて以来早くも三回目のお盆が終わりました。現在八十六歳の私は老人クラブの芸能発表会や、所属している歌謡クラブなどで 田端さんの名曲 かえの船 をよく歌っております。歌っている最中 当時の社会状況や若かった自分の事など思い出し涙が流れます。作詞、作曲の先生もさることながら田端さんが歌ったから良かったと思います。田端さん本当に良い歌有難うございました。
田島為三郎 私の父もシナから帰った者です。 何も語らずに逝ってしましました。それがかえって今となればつらいです。その父が大好きだつた田端義夫さんです。
田島為三郎 、
歳をとる共にジーンと来る歌であります、バタやん貴方はほんと心に沁みる歌を歌っていたんですね、泣けます。
この歌を聴くと、今は亡き父が中国戦地から帰還した時のことを思い出し、泣かずにはいられません。
田端義夫さんの帰り船、涙なしには聞けません。私の父は11年前に他界しました。運よく敗戦後すぐに朝鮮半島から船に乗る事が出来たそうです。ただ船の中でもうすぐ日本に着くのに、病気などで亡くなっていく方が何人もいたと言っていました。
この歌は特別ですね。戦争経験のない僕もジンときます。凄い歌ですね!
まさしく!
戦争に行かれた方々大変苦労されたと思います。やはり戦争はいけないと思います。先人の方々のおかげで今の日本の平和と繁栄があり世界に誇れる日本があると思います。
今から40年前、中学生の頃に欲しいレコードを買いに行ったんですが、身体が弱いのに働く母が好きな田端義夫さんのカセットテープをたまたま見つけて買ってしまい私は欲しいレコードをあきらめました。母は喜んでました。その当時はあ~これが母の好きな唄なのか程度で、祖父が満州で戦死して父が満州から帰ってきたのが、田端義夫さんの唄とダブるとかなんとかがまったくわかりませんでした。終戦の日が近づいて母がカセットテープからCDに録音してと言うので今日録音してたら、昭和52年7月9日NHKホールのでした。「ふるさとの丘」の前に田端義夫さんが、母と弟と3人でいた頃に田端義夫さんがでっち奉公に行く事になり、母と丘で語ったと聞いて涙腺が緩んでしまいました。そんな事を今の今までまったく知らずに、ただ母の好きな田端義夫さんの唄を聴いていた私はショックをうけました。これからは詳しく母にバタヤンの事を聞いてみるつもりでおります。すばらしい画像をありがとうございます。
泣けてきますよ、日本人の心の故郷ですね。
悲しい(x_x;)😭😭😭😭⤵️⤵️⤵️⤵️。
職場の認知症のおじいさんが毎日歌っていたこの歌、先日なくなられたのでふと聞きたくなりました
何もかも戦争絶対反対‼️‼️良い歌です。日本の地に、つけなかった方々も沢山いらしょったでしょう
戦後70年の今年、久しぶりに聴きました。名曲ですね!!
兄の好きなうた、かえレ無い人に、涙がこぼれます
いま亡き祖父がよく聴いていた。戦争を知らない世代の私は想像だにできないが当時の祖父の気持ちを想像すると涙が出てきます
I
分かる気がします!素晴らしい。
日本を守るために命を懸けてくださった方の思いを忘れてはいけないと、心の隅にいつも感じています。戦後生まれ33年ですが兵隊さんたちの思いに感謝して生きてきたように思っています。戦後の単なる反戦教育にはどこか違和感を感じても居ました。その時代に生きた方たちを時代背景を無視して批判するのは偽善に思います。植民地にされない数少ないアジアの国です、日本は。感謝すべきことではないでしょうか?親戚には多くの戦士者・被爆兵・帰還兵もいました。戦争がなかったらと思います、反省はすべきでしょうがただ単に批判している人たちを信用できません。こんな名曲が愛されるのは、単なる反戦教育とは違ったところに日本人の家族愛、祖国愛を感じるところの何かがあるように感じています。涙が滲んできます。
戦後の単なる反戦教育と言われますが、どのようなことを指すのか私には理解できません。決して時代背景を無視して批判しているのではないと思います尊い犠牲があってこの平和があるのです。だからこの平和を守らなければなりません
戦後の単なる反戦教育と言われますが、どのようなことを指すのか私には理解できません。決して時代背景を無視して批判しているのではないと思います尊い犠牲があってこの平和があるのです。だからこの平和を
バタヤーンおおきに、泣けるね。泣かせないでよ。この深淵な心があるだけで人生は万歳や。🌷🌷🌷大好きな歌です。当時の日本人は純真で大好きです。愛大きな愛があったと思います。
帰り船良い歌ですょ昔親父が良く歌ってて懐かしいです
満洲から帰国した人々の苦労と悲しみが伝わっています
父は終戦の時、九州で本土決戦に備えていたそうです。でも当時のことはほとんど話すことはありませんでした。ただ亡くなった父の大好きな曲でした。
田端よしおさんの歌は、今は亡き夫の大好きの歌でした。声も、良く似ているので、懐かしい感じです。
どうでしょうもう 20回以上聴きました !! この世代の人達の想い少しでも伝ないと。
このかえり船は、「武装警官隊」という映画の中で 田端義夫が満員列車の網棚の上に寝そべって唱った歌です。*主題歌ではなかったかも、、、。原 保美 徳大寺 伸主演 日本の警察が拳銃を持たせる持たせない、が政治課題ー論争のあったころ。 田端義夫はチンピラ役だったけど、 この歌を唱うと、ぎゅうぎゅう詰め、満員で殺気だった車内の人も涙を流すシーン、映画館の観客も一緒になって泣いていました。日本人は明日の食うものさえないほど飢えていたけれど、心は純粋だったと今思う。 映画ではみんな泣きました。 波の瀬の瀬に・・・・満州、朝鮮、樺太引き揚げ者が身につまされた歌ダツタでしょう
バタヤン以上に日本人の哀愁の心理をギターで表現出来るギタリストはいない。
mikuni1199さん、私と同じ境遇ですね、私の家族は樺太からの引き上げです、福井県の三国町で21年の3月生まれです、父も母も苦労した事と思い涙が出てたまりません、
Kida Hedesan 甘いわな
父を思い出しました.兄弟旅行で歌っていました。その父も去年なくなりました92歳このうたを聞くと思い出して涙が止まりません
14年前に76才で逝った父の愛唱歌でした。父の棺を、かえり船で送った送った事を思い出しました。
まだ新幹線も開業してない昭和37年近所の電気店にバタヤンと大村崑、川上のぼるさんが来店してリンゴ箱の上に乗って帰り船や島育ちを歌われ初めて見た芸能人でした。
私の最も好きな一曲です!日本の歴史を綴る一曲です!
いい歌!涙涙や!
船村徹の歌は何回聴いても心に沁みるねー。歌は心で唄うものだね、本当に。
パタヤンの歌かえり船懐かし歌ですまたほく若いのにパタヤン唄タイ好き手すありがとうございましたお世話になります。いつも家いてもうたています
祖父は、シベリア抑留経験者でした。ほんとに、この歌は祖父を思い出す名曲です。
なくなった父がそうでした。
父が好きな歌でした!
コノメロディーを聞くと、戦後の内地での生活に追われていた人達の中にあって、外地からひっそりと復員された方達の当時の状況が思い浮かびます。職業軍人だった父が就職に奔走していた様子を思う時、復員してきた方達への処遇に不可思議なものを子供心に感じた事がありました。国の為に命を懸けて来た方への感謝的なものが在ったんだろうかと。
藤川英樹 ㅈ
藤川英樹 。む
帰り船のアナウンスの話「皆様本当にご苦労さまでした」のことを聞くと涙が止まりません。地獄のソ連抑留を生き抜いて日本へ帰れるんだと確信したときはどれほどうれしかったでしょう
亡き、父母は、満州からの引き上者です、父がよく口ずさんでいたのを懐かしさと、共に思い出されます
午前2時 訳もなく涙が止まりません 70才
近くのホテルのディナーショーに田端さんが来て、両親を招待しました。父は、握手してもらったと、喜んでいましたもう、 二人ともいませんとても懐かしい、思いでです。
😢親孝行ですねぇ~😖
@@鏡豊-r1p 佐は府はススフスブランドルルドプロぬく
9
らラサハと言ってしまう⁉️
良かったですね。
ご両親今でも忘れてないでしょう😊
私の父もこの唄が大好きでした。支那ヘ戦車兵として戦った事私に良く話をしてくれた。終戦で引揚げ船からの玄界灘を越えて日本みた時のことが、この唄にあると言っていたのが懐かしく寂しい気持ちと亡き父との思いだす唄です。
この歌は泣けます。私の父もシベリアに抑留され、帰国後結婚し、私は昭和25年に生まれました。父は96歳で健在。私が小学生の頃、家の近くの戦友のかたが、時々夜、話に来て、夜更までまで話をして帰っていました。農家の父は、それでも朝早くから夜遅くまで働いていました。戦地を思えば、少しくらい寝ないことなど何でもなかったのでしょう。
亡き兄が大ファンで帝国ホテルのディナショーに連れていってくれました。思い出して涙とまりません😔
😅😅😅😅😮😊
戦争が終わって帰還船に乗る婦女子や男達の写真を複数枚見た。彼らの顔に明るい笑顔があった。戦いに負けた悔しさよりも、戦いが終わって日本に帰れる嬉しさが勝っていたのかもしれない。彼らが、戦後の復興に汗を流したのだ。
令和3年10月28日に亡くなったばあばが大好きな歌でした。毎回この動画みてカラオケ練習してました
かえり船、戦後の悲しい歌です。帰れなかった人も大勢います。田端さん有り難う。
私の父も戦後、旧帝国海軍の経歴をかわれてか、引き揚げ船(武装解除された駆逐艦”萩”)で中国の残留兵士や民間人の帰国ための仕事していました。父は、戦時中のことはあまり語りませんでしたが、戦後に母国に帰る旧兵士や在中国の民間人の帰還のおりの様々なエピソードを話してくれました。そんなこともあり、戦後5年後に生まれた私も、小学校時代にはこの歌の意味深さに幼稚ながらも感激しました。ちなみに、その既に故人の私の父も茨城県人です。
田端義夫の歌を聴きたい
山口様私も田端さんの歌声は悲しいですが、とても懐かしく、残された私が頑張ラナと、励ましてもくれました。 2:49
「皆様、本当にご苦労様でした。こね船は日本の船です…」
と言った船内放送を聞いて、引き揚げ船は涙の帰還を果たしました。
異国の地で、祖国の為に戦った人達。
引き揚げ船は胸を張って、威風堂々と祖国を目指しました。
今在る日本は、こうした先人の人々の過酷な苦労の上にある!
と言う事を忘れてはならない。
敗戦の1945年生まれの私も満州からの引き揚げの一人です。哈爾浜市から2カ月掛けて九州へ家族5人で帰国、その間に起きた出来事も何度か聞きましたが…文字にするにも憚るような現実でした。それでも周囲の人々にも恵まれて家族5人誰ひとり欠けることなく無事本土上陸出来ました。栄誉失調の末っ子の私は帰国後間もなく肺炎やらで生死をさまよいながらも運良く生還し令和まで元気に暮らしてます。物心の付いた頃から何故かラジオから流れる“端”ヤンの帰り船の歌に魅せられてました。近所に手巻き式蓄音器を持つ家がありよくおねだりして78回転SP盤でこの歌を聴いてました。後に時代は白黒TV、カラーTV時代へと変わり両親と一緒にこの歌を聴いてました。
@@村山ザトペック ㄷ
昭和40年台後半、今は亡き父親のカーステレオのカセットに入っていた曲で車のバッテリーが上がる寸前まで聴きよく𠮟られましたが、曲もよく覚えています。戦争に行き鉄砲の弾が当たり、その上マラリアにもかかり死ぬ思いをしながら帰国した父親の形見の曲でもあります。本当に名曲だと思います。
私は昭和17年生まれ、戦後の苦しい疎開先でこの歌を聞きました。この歌は戦地から復員された兵隊さんの歌だけではなく日本人の心に語りかける名曲だと思います。苦しい生活を生き抜いてきた田端義夫さんだからこそみんなの心に染みとおるのだと思います。ありがとうございました。ご冥福を祈ります。
いつまでも元気でいてください。昭和25年生まれより!こうゆう歌や歌詞の分かる世代の方にいつまでも長生きして幸せにいてほしいと願います!ありがとう!😉🌄🌻🌷😆😅🤩😂😍はい、端やんのご冥福をいつも祈っています。端やん、ありがとう!
あの食べるにも事欠く時代を生きた者として日本人の心を歌ったばたやんを忘れてはなりません。効率一辺倒の世の中には人の心がありません。
私は日本人の心を大切にして生きていきます。
この歌の記念碑が引き揚げ船が着く港の丘にありました。隣県に居て知りませんでした。静かで良い所です。
@@宇宙の光-m8c😊
「この船は日本の船です」このアナウンスにどれだけ安堵したことでしょう。そして流れてきたこの歌で本当に帰れるんだと実感がわいてきたのではないでしょうか。
1936年生まれの父が
大好きな曲
「バタヤンには他には真似できん
哀愁があるから好きや」と
言っていた気持ちが
51歳になり今、気づく娘です
私の叔父さんも二人戦争に行き「 フィリピン」から引き上げ船で 帰国しました。叔父さをが 実家の駅に着くと叔父さんの兄の戦友からお兄さんは 戦死したと聞いた時、背負っていた「リック」が重くなり、涙が止まらなかったそうです。「 かえり船」をよく歌っていました。
この歌を聴く度 自然と涙が込み上げてきます。
一昨年父親が、父親が旅立ちました😢
何時もお酒を飲んだ後
かえり船と哀愁列車の2曲を
🥢で茶碗を叩きながら唄って居た、あの頃を思い出します
私が物心ついて一緒暮らしたのは数ヶ月でしたが、やはり自分に取っては世界で1人の父親なので、たった1枚の写真に語りかける事が有ります。
昭和・平成・令和 時は流れても歌で勇気づけられる事に感謝しています。
私は広島県呉市に住む79歳の男です。戦後小学校2年生であったと思います。父親は 呉海軍工廠に努めていましたので、現在の中国 上海に出張して居る時、終戦に成りました。その頃呉駅は外国から帰国される父親や息子の帰国を待つ人で一杯でしたその中に?呉駅で 田畑義男さんの帰り船 が延々と流されていました。私も毎日呉駅で父の帰りを待っていました、ほとんど毎日(夜に)ある日列車から降りてきた父を見付け、大泣きで縋り付いた事を思い出します。そんなことで 田畑義男 さんの帰り船を聞くと、今でも、その時の事を思い出します。文章が下手ですみません。
石橋経
石橋経俊
石橋経俊 まだ、お元気ですか?
父は関東軍として満州に渡り、命からがら、日本に帰って来ました、この歌を聴くと
父がどんな思いで故郷の土を踏んだか、考えさせらます。
昭和は遠くなりましたが、田端義雄さんが歌った〔かえり舟〕復員して帰ってくる兵士の心情、時代背景が本当に切ない。
田端義夫のが帰り船は間違いなく昭和の歌謡史を飾る不朽の名曲です
日本人にとって特別の歌「かえり船」をばたやん田端義夫に歌わせたのは神の采配ではないでしょうか。
三十年くらい前、父母と私の三人でコンサートに行きました。父がこらえきれずに泣いていたのを思い出します。
この歌でどれくらいの国民が戦地から帰って来た人達を涙して迎えたことか。ギターで最初に覚えた歌がかえり船でした。
私の父がNHKのビックショーでこれを聴きながら涙を流していたのを忘れない。
昭和21年の曲、父が復員した年だ。
終戦直後に生まれた私は、軍属の父、母、2歳の姉と共に南方の島から引き上げてきましたが、廃墟の故国にたどりついた父母の胸のうちを偲ばせてくれる歌です。里の秋と同様に大好きな歌です。田端義夫さんの最高の歌唱力で涙が出そうになりました。
そうでしたか。戦地から、帰って来る人びとの哀愁が伝わりますね。
立派です。ありがとうございます。
私も、戦後生まれです。
私の父も、満州に行きました。
無事で帰国をしましたが、
毎晩の様に夢でうなされていました。
なぜ?と聞きました。
いつも、木の陰に隠れてる夢を見ていると言っていました。
主人がいつもこの歌をカラオケで歌ってくれました。
この歌詞をみると父の心情がわかりました。
どれだけ辛かった事か、
ロシアとウクライナの戦争が1日も早く終わる事を願っています。
戦陣に散り、職域に殉じた先輩に対して、厚く御礼申し上げます。シベリア抑留や満州などからの引き揚げて来られた方々のご苦労を思いますと熱いものが頬をつたいます。父親が大好きなこの歌が忘れ去られることがないように守っていきたいと思います。
私の母は昭和3年生まれでし坨。激動の時代を生き抜き、今年3月永眠いたしました。この歌が大好きで激動の時代をに思いをはせながら余生を送りました。最後にこの歌で天国へ送ることができました。ありがとう
@@武田兼春 キェか赤果皮なおきた
良い歌だよね。俺たちは、こうした時代を大切にすべきだよ。
works1173
まさしくそのとおりだと思います。ありがとうね🌷🌺🌹
昭和時代のおばあちゃんこの時代とてもつらい時代でしたね🎉この歌で元気をもらい田端さんの苦労を一緒に頑張りました❤ありがとう
介護施設に入所している母が今日か明日かわからない状態ですのでこの曲を聞かせてやっています
コメント拝見させていただき、目頭が、熱く涙がとまりませんでした。
私は、すでに両親は他界しております。
何年経っても、両親の事を思いだします。もうすぐ、親子です見慣れていない家を、売却します。悲しいです。
@@山田寛-j5f ふ
?
戦争経験のない私でも、聴く度に涙が出ます。凄い曲ですね。
湖畔宿
そうですね。すごい曲です。我々で歌い繋いで行きましょう
ずっと疎遠だった父親が亡くなりました。
私が中学の時に🍶飲んでは、田端義夫さんの帰り舟歌ってましたが今日突然聞いて😢
母親と父親の離婚で、私達3人は施設で育って中3の2学期に突然継母が来て、高校も行きたかったのも残念して就職で、父親を憎みましたが何故か亡くなったって聞いて涙が溢れて😓
来世生まれ来る時は離れ離れになった家族と暮らしたいです。
今日は父が好きだった帰り舟聴きながら多少の思い出に浸りたいですね!
どんなに憎んだ父でも亡くなってしまえば寂しいです😢😢
コメントを見て父親に対する優しさが素晴らしいと思います。これからの人生があなた様にとって良き人生でありますように❗
純子檜山さん!両親が離婚をしご兄弟が施設で暮らすようになり、そりゃお父さんをさぞ憎んだでしょうね~私も両親をなくしてついおもうのですが、いつまで経っても親は親ですものね~私は最近殊に夜に晩酌をする時に、千昌夫の「望郷酒場」の歌詞の件の~オヤジみたいなよ~酒呑みなどにならぬつもりがなっていた~と独り言を言ってお酒を呑んでるんですね~そういう時はやけに親父もお袋にもっと親孝行しておけばと老年の今になってつくづく思う今日この頃ですよ~
血の繋がりは、憎んでも憎んでも理解出来ない程の不可思議な繋がりがあると私も経験して思います。
無念ですね。
私は昭和32年生まれ。私を含め、戦後生まれの日本人は直立不動で敬礼をして聴かなければいけないくらいの歌だと思います。
どんな思いで祖国を目指したのでしょうか。どんな思いで大切な人を待っていたのでしょうか。 本当に、本当にお疲れ様でした。
taro meso (
vb
尾崎mj昭子 た
そう思います。ありがとう!
96歳で亡くなった祖父がいつもお酒を飲んだ時に歌ってました。戦争に行く前の自身の写真と乗っていた軍艦の写真を飾っていたのを今でも覚えています。
何故かふと思い出して検索してみたらこんなに有名な歌だとは知りませんでした。
敗戦の1945年生まれの私も満州からの引き揚げの一人です。哈爾浜市から2カ月掛けて九州へ家族5人で帰国、その間に起きた出来事も何度か聞きましたが…文字にするにも憚るような現実でした。それでも周囲の人々にも恵まれて家族5人誰ひとり欠けることなく無事本土上陸出来ました。栄誉失調の末っ子の私は帰国後間もなく肺炎やらで生死をさまよいながらも運良く生還し令和まで元気に暮らしてます。物心の付いた頃から何故かラジオから流れる“端”ヤンの帰り船の歌に魅せられてました。近所に手巻き式蓄音器を持つ家がありよくおねだりして78回転SP盤でこの歌を聴いてました。後に時代は白黒TV、カラーTV時代へと変わり両親と一緒にこの歌を聴いてました。
船上でこれを聞いて本当に帰れるんだと号泣した方もいたでしょう
今想像しても胸が熱くなります
また田端義夫の歌で強く心に響いたでしょうね
むせび泣く様なバタやんの声いいですね。
父親の大好きな曲でした、戦争から帰るときに船内で聞いたと言っただけで戦争の事は一切言わなかったです、父の一生涯の運命の曲だったと思います、
pm86ca せ
私の父もこの歌が大好きでした。この歌を聞くと今でも父を思い出します。
祖国の土を踏むまでは。今の若者には想像もつかない。
私の父も何も語りませんでした。語ったところでお前たちにはわからない、と言うことでしょう。
ただただ泣けてきます。
このジャンルでの730万視聴、これは驚異的ではないでしょうか。
如何にこの曲が戦中戦後世代の心に染み込んでいたのか、実感されます。
またパタヤんの歌い方、その時代を生きてきたからこそのものです、
歌の上手な歌手が色々カバーされていますが、うまさだけではこの曲は馴染みません。
私も満州からの引揚者でした。戦争にとられていた父は、シベリアから戦後4~5年してから帰ってきました。母と2人で、母の実家に帰ってきた父を迎えに行き、父の膝の上にだっこしてもらったことを今もって忘れられません。京都の叔母・父の姉が今日か明日か、と言って、舞鶴まで迎えに行っていた、という話を、何回となしに聞かされました。この歌は、私にしても、涙がこみ上げてくる思い出多い歌です。
私と大矢さんは多分5歳前後の差しかないと思いますが、物凄く大きく重苦しいほどの差がありますよね。私は団塊世代です。子供の頃(7歳)呉の警固屋の親戚に行きかくれんぼをして、自分は間違えて
ある長屋の中に入ってしまいました。その時、自分の当時の目には12歳前後の女の人が共同の長し場で黙々と茶碗を洗っているその人と一瞬目が合いました。その時のその女の子の目の表情が何故かずっと記憶にありました。そして時間は流れ、私が40歳を過ぎた頃、母に「この道の上に長屋みたいな建物があったよね」と言うと「ああ、満州からの引揚者の方達が一時期住んでいた…」この時に、やっとあの少女の瞳の奥に感じたものがなんであったのかがやっと識ったという思いでした。ひょっとしたら両親は亡くなった後で縁者と引き上げて来たのか、又は、兄弟姉妹のいづれかと死に別れたのか…推測ですが、そういう人生の修羅場をくぐって来た人(たとえ子供であれ)の目だったなと思います。大矢さんも、中国残留孤児となった同級の人もいたあの時代を生き抜いてこられた。m(_ _)m
氷川きよしが当時のそうした時代背景がわからず、彼の美声だけでカバーするから響いてこないがこの本物の歌には戦後生まれの私にも涙がでます。
@@seijishino5555 戦争の悲惨さは、戦後の貧しさ、食べる物が無くて、散々苦労した事、幸い私の父は、敗戦後4~5年で引き上げて来ましたが、友達のお父さんが戦死して、生活苦が凄かった事を忘れられません。だから、どんなことがあっても、戦争は許せません。
@@大矢靖史-k2p 返信ありがとうございます。歴史はいろんな考え方や捉え方は様々あれど、結局「戦争」は古今東西、つつましく平和に生きていた家族がバラバラにされたり死んで行く…戦争だけは、してはいけませんね。
話を聞いていると心にぐさときます。戦争はこの世の最も悲惨な人を不幸にする人為的狂気です。あってはならない、あってはならない!!
と痛感します。
二十歳の時、上司が忘年会で歌ってたのを聴いてから
バタやんのファンに。そんな私もあと3年半で還暦です
昨年亡くなった母が好きな曲でした。在宅介護だったので、枕元で
TH-camで聞かせてました。
私は演歌は聞く方ではありませんが、この曲を聞くと母が口ずさん
でいたのを思い出します。
田端義夫は演歌じゃありませんよ。
涙が自然と出てくる。他の歌い手では決して出ない
僕の叔父は海軍の軍人でした。昭和20年4月軍艦とともに東シナ海に沈みました。
24歳~どんなにか本土に帰って来たかったか!
今曲を聴く度に叔父の心が偲ばれます。
武之天
武之天野 ひ?
isao hosumi ほま
武之天野
私の曽祖父も軍人でした。他国で敵の軍人に足を打たれましたが、93歳まで長生きをしてくれました。もしかしたら、あなとの叔父さまとどこかで関わっていたかも知れませんね...。
心化粧
🐼 かえり船 田端義夫 バタやんの名曲ですね、わたしが二十歳頃歌われていた歌ですが今もカラオケ🎤🎤🎧🎧に行った時には必ず歌う歌です。懐かしい かえり船🤗🤗 !配信さんありがとうございました ]👩👩👧👧👨👨👦
田端さんの歌と村田さんの曲が!!
父のオハコでした。。この歌を聞くたびに父を思い出し涙が止まりません!
俺は男!誰にファザコンと言われようが!お父ちゃん大好きやで!!俺の一番やで!
ありがとう!ありがとう!ごめん!ごめん!ごめん!来世も!お父ちゃんの息子にしてくな!
孝行させてくれな!次は最後まで笑ってよな!
あまやかすなよ頼むから。。。
倫道 ;
51歳、男です。昭和14年生まれの父、平成12年に病死しました。中卒で食いぶちべらしでホウコウに出て、結婚し、私を大学にいれてくれました。バタヤンの大ファンでした。私自身はプログレ、ズージャー、ヘビメタと、洋物一色ですが、バタヤンのギターは、世界に誇れるスタイルだと思っています。戦後の悲哀、実情そして鼓舞を歌い上げた永遠の名シンガープレイヤーです!
どんなに辛かった事か 本当にご苦労様でした
かえり船は我が人生の応援歌。母が好きだった歌です。私は戦後生まれです。戦争経験はありません。また復員列車を迎えに行った経験もありません。だけど、戦争の厳しさ残虐さは見聞きしています。かつてサイパンでは悲惨な悲劇は何度か現地の人や経験者の声を聴きました。ばたやんが大切に歌われた「かえり船」を大切にします。
私も、樺太からの引揚者です。函館港に着き下船前夜に船員による慰安会で「かえり船」が歌われ今でも耳に残っています。この歌を聴くたびに当時のことを思い出しています。
引き揚げしたときは
やっぱり舞鶴ですか?
時代が懐かしい
函館でした。@@才谷梅太郎-e5c
ありがとうございます。稚内市へ行きますと、氷雪の門の九人の乙女の慰霊碑が立っております。昭和天皇様行幸碑が傍らに立っております。忘れてはならないと思います。
田端義夫さんの歌が大好きだった主人を思い出し涙が出ます。
中国大陸を転戦し、内地に引き上げてきた九州の港で流れていたと今は亡き父が話していました。
現在59歳ですが、この歌を聞くと、泣いてしまいます。
私の父は戦争中潜水艦に乗船していました。この曲が好きでした。私もステージを拝見したら涙が止まりませんでした。
昭和50年生まれの僕ですが、明治生まれの祖母がよく僕が小さい頃に口ずさんでたのを耳に聴いて、未だに記憶に残ってます。歌の力って凄いですね。心に染みますね。
80年近い歌手人生、本当にご苦労様でした。
よっくりとそして安らかにお休みください。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
昨年末亡くなった父は、若い頃から田端義夫さんに憧れて、ギター弾きながらをよく歌っていました。
このかえり船もよく歌っていました。声がバタやんに似ていたので、涙しながら聴いています。
私の父も昭和22年に復員戦で佐世保に帰ってきました其のときを想像するに同じ心境ではなかったかといつも聴けば涙が出ます。
泣けます。昭和25年生まれです。父はシベリアから帰りましたが、言葉の意味をロシア人に誤解され死んだ人も多かったと言っていました。父は見よう見まねのロシア語を喋りタバコをロシア兵士からよくもらい死なずに住んだようです。陸軍士官学校出です。私は戦争や天皇は嫌いです。純真な日本人は騙されていたのです。だからこの歌を聴くと泣けてくる。日本の軍人さんは素晴らしい人達だと思いますが。
帰ってきた人も辛かっただろうけど、帰って来れなかった人や家族のことを思うと、もっと辛い。
3年のシベリア抑留を終え帰還した親父 帰国の船でこの唄を聴いただろうか
何回も「ダモイ」と言う言葉に翻弄されたと聞いてます 抑留生活の辛さは
殆ど話しませんでしたが 「俺の命はシベリアで終わってる」と必死に子供
5人を育ててくれました 勿論恋仲にあったお袋と結ばれたからこそです
親父の支えとなったお袋も偉かったと想います 両親には只々感謝しかありません
何の孝行もせずに両親を失いました 悔やまれます この世で1番怖い男それは親父
この世で1番尊敬する男それは親父 そして1番優しかったお袋 二人の間に生まれて
こんな幸せはありません! 生前親父が言ってました 「どんな事があっても
戦争はしてはならない!」戦地で苦労難儀した親父の言葉ですから間違いない言葉です!
僕の三重県の先輩バタヤンの懐かしい歌を聞いて居ると戦後の貧しい時代を思い出して懐かしく、涙が止まりませんありがとう🙇
この人は。。本当にうまい。
最近の歌手には。。ない。。。魂が歌っている。。。
心を。。鷲掴む。。
渡哲也
大畑広 super
ほんまや。
端やん最高やなぁ、俺は、まだ生まれてなかったけど、親父の影響で、大好きになった。これからも頑張って下さい。
戦争は知りませんが、目頭が熱くなります。
本当にご苦労様でした。
「夢もわびしく よみがえる」最後の「るぅぅぅ~♪」のビブラート、実に心地よい響きではありませんか!!…美しい•丁寧…色々と良い言葉が並んでしまいます。
田端義夫さんは勿論ですが、この頃の歌い手さんは、言葉一つ一つを大切に歌われていました。それが良い歌唱であり、味わい深い歌唱だったと私は思っています。昨今のようなヘラヘラ•チャラチャラした歌唱では、その歌本来の味が出るはずはありません。
丁寧で味わいのある歌唱を聴きたいのなら、やはりこの頃の歌い手さんの歌唱を聴くことが一番だと思います。
全く同感です当方88歳の高齢者です
県立高校で社会を教えてますが、今の高校生、太平洋戦争終戦日が1945年8月15日だということも知らない生徒が、とても多いです。これは由々しき事態だと感じています。
日本国が崩壊に向かって確実に進んでいるのを、教育現場で身近に痛感してます😓
ばたやんの歌は哀愁が漂って素晴らしい!
私わ戦時中生まれですが、きく旅に、悲しくなり、何度も繰り返して聞いて、息子が、また聞いていると、いわれます、80歳
よう端やんいいね、昭和の歌手の演歌いいね👍心に染みるね日本人で良かったです。そう思いませんか?
田島為三郎
田端さんが逝かれて以来早くも三回目のお盆が終わりました。
現在八十六歳の私は老人クラブの芸能発表会や、所属している歌謡クラブなどで 田端さんの名曲 かえの船 をよく歌っております。歌っている最中 当時の社会状況や若かった自分の事など思い出し涙が流れます。作詞、作曲の先生もさることながら田端さんが歌ったから良かったと思います。田端さん本当に良い歌有難うございました。
田島為三郎 私の父もシナから帰った者です。 何も語らずに逝ってしましました。それがかえって今となればつらいです。その父が大好きだつた田端義夫さんです。
田島為三郎 、
歳をとる共にジーンと来る歌であります、バタやん貴方はほんと心に沁みる歌を歌っていたんですね、泣けます。
この歌を聴くと、今は亡き父が中国戦地から帰還した時のことを思い出し、泣かずにはいられません。
田端義夫さんの帰り船、涙なしには聞けません。私の父は11年前に他界しました。運よく敗戦後すぐに朝鮮半島から船に乗る事が出来たそうです。ただ船の中でもうすぐ日本に着くのに、病気などで亡くなっていく方が何人もいたと言っていました。
この歌は特別ですね。戦争経験のない僕もジンときます。凄い歌ですね!
まさしく!
戦争に行かれた方々大変苦労されたと思います。やはり戦争はいけないと思います。先人の方々のおかげで今の日本の平和と繁栄があり世界に誇れる日本があると思います。
今から40年前、中学生の頃に欲しいレコードを買いに行ったんですが、身体が弱いのに働く母が好きな田端義夫さんのカセットテープをたまたま見つけて買ってしまい私は欲しいレコードをあきらめました。母は喜んでました。その当時はあ~これが母の好きな唄なのか程度で、祖父が満州で戦死して父が満州から帰ってきたのが、田端義夫さんの唄とダブるとかなんとかがまったくわかりませんでした。終戦の日が近づいて母がカセットテープからCDに録音してと言うので今日録音してたら、昭和52年7月9日NHKホールのでした。「ふるさとの丘」の前に田端義夫さんが、母と弟と3人でいた頃に田端義夫さんがでっち奉公に行く事になり、母と丘で語ったと聞いて涙腺が緩んでしまいました。そんな事を今の今までまったく知らずに、ただ母の好きな田端義夫さんの唄を聴いていた私はショックをうけました。これからは詳しく母にバタヤンの事を聞いてみるつもりでおります。すばらしい画像をありがとうございます。
泣けてきますよ、日本人の心の故郷ですね。
悲しい(x_x;)😭😭😭😭⤵️⤵️⤵️⤵️。
職場の認知症のおじいさんが毎日歌っていたこの歌、先日なくなられたのでふと聞きたくなりました
何もかも戦争絶対反対‼️‼️良い歌です。日本の地に、つけなかった方々も沢山いらしょったでしょう
戦後70年の今年、久しぶりに聴きました。名曲ですね!!
兄の好きなうた、かえレ無い人に、涙がこぼれます
いま亡き祖父がよく聴いていた。
戦争を知らない世代の私は想像だにできないが当時の祖父の気持ちを想像すると涙が出てきます
I
分かる気がします!素晴らしい。
日本を守るために命を懸けてくださった方の思いを忘れてはいけないと、心の隅にいつも感じています。戦後生まれ33年ですが兵隊さんたちの思いに感謝して生きてきたように思っています。戦後の単なる反戦教育にはどこか違和感を感じても居ました。その時代に生きた方たちを時代背景を無視して批判するのは偽善に思います。植民地にされない数少ないアジアの国です、日本は。感謝すべきことではないでしょうか?親戚には多くの戦士者・被爆兵・帰還兵もいました。戦争がなかったらと思います、反省はすべきでしょうがただ単に批判している人たちを信用できません。こんな名曲が愛されるのは、単なる反戦教育とは違ったところに日本人の家族愛、祖国愛を感じるところの何かがあるように感じています。涙が滲んできます。
戦後の単なる反戦教育と言われますが、どのようなことを指すのか私には理解できません。決して時代背景を無視して批判しているのではないと思います
尊い犠牲があってこの平和があるのです。だからこの平和を守らなければなりません
戦後の単なる反戦教育と言われますが、どのようなことを指すのか私には理解できません。決して時代背景を無視して批判しているのではないと思います
尊い犠牲があってこの平和があるのです。だからこの平和を
バタヤーンおおきに、泣けるね。泣かせないでよ。この深淵な心があるだけで人生は万歳や。🌷🌷🌷
大好きな歌です。当時の日本人は純真で大好きです。愛大きな愛があったと思います。
帰り船良い歌ですょ昔親父が良く歌ってて懐かしいです
満洲から帰国した人々の苦労と悲しみが伝わっています
父は終戦の時、九州で本土決戦に備えていたそうです。でも当時のことはほとんど話すことはありませんでした。ただ亡くなった父の大好きな曲でした。
田端よしおさんの歌は、今は亡き夫の大好きの歌でした。声も、良く似ているので、懐かしい感じです。
どうでしょう
もう 20回以上聴きました !!
この世代の人達の想い
少しでも伝ないと。
このかえり船は、「武装警官隊」という映画の中で 田端義夫が満員列車の網棚の上に寝そべって唱った歌です。*主題歌ではなかったかも、、、。原 保美 徳大寺 伸主演 日本の警察が拳銃を持たせる持たせない、が政治課題ー論争のあったころ。 田端義夫はチンピラ役だったけど、 この歌を唱うと、ぎゅうぎゅう詰め、満員で殺気だった車内の人も涙を流すシーン、映画館の観客も一緒になって泣いていました。日本人は明日の食うものさえないほど飢えていたけれど、心は純粋だったと今思う。 映画ではみんな泣きました。 波の瀬の瀬に・・・・満州、朝鮮、樺太引き揚げ者が身につまされた歌ダツタでしょう
バタヤン以上に日本人の哀愁の心理をギターで表現出来るギタリストはいない。
mikuni1199さん、私と同じ境遇ですね、私の家族は樺太からの引き上げです、福井県の三国町で21年の3月生まれです、父も母も苦労した事と思い涙が出てたまりません、
Kida Hedesan 甘いわな
父を思い出しました.兄弟旅行で歌っていました。その父も去年なくなりました92歳このうたを聞くと思い出して涙が止まりません
14年前に76才で逝った父の愛唱歌でした。父の棺を、かえり船で送った送った事を思い出しました。
まだ新幹線も開業してない昭和37年近所の電気店にバタヤンと大村崑、川上のぼるさんが来店してリンゴ箱の上に乗って帰り船や島育ちを歌われ初めて見た芸能人でした。
私の最も好きな一曲です!日本の歴史を綴る一曲です!
いい歌!涙涙や!
船村徹の歌は何回聴いても心に沁みるねー。歌は心で唄うものだね、本当に。
パタヤンの歌かえり船懐かし歌ですまたほく若いのにパタヤン唄タイ好き手すありがとうございましたお世話になります。いつも家いてもうたています
祖父は、シベリア抑留経験者でした。ほんとに、この歌は祖父を思い出す名曲です。
なくなった父がそうでした。
父が好きな歌でした!
コノメロディーを聞くと、戦後の内地での生活に追われていた人達の中にあって、外地からひっそりと復員された方達の当時の状況が思い浮かびます。職業軍人だった父が就職に奔走していた様子を思う時、復員してきた方達への処遇に不可思議なものを子供心に感じた事がありました。国の為に命を懸けて来た方への感謝的なものが在ったんだろうかと。
藤川英樹 ㅈ
藤川英樹 。む
帰り船のアナウンスの話「皆様本当にご苦労さまでした」のことを聞くと涙が止まりません。
地獄のソ連抑留を生き抜いて日本へ帰れるんだと確信したときはどれほどうれしかったでしょう
亡き、父母は、満州からの引き上者です、父がよく口ずさんでいたのを懐かしさと、共に思い出されます
午前2時 訳もなく涙が止まりません 70才