ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
従来言われている戦場と実際の戦場は別の場所らしいね。従来の場所からは鉄砲の弾とか出てこない、別の場所からは出てくると。小早川は途中で裏切ったのでは無く開戦前から東軍だし、長時間戦ったという事も無くあっさり短時間で西軍は敗れたという。一番最初にやられたのが大谷吉継。
「大乱 関ケ原」でどう描かれるか楽しみ
まぁ実際に「小早川に鉄砲を撃ちかけい!」となっても戦闘中にそんなん見えないし聞こえないくらい遠い、って話は前からあったな
今の当たり前が実は…勉強になります
城や地勢から見るのも面白いですよ。松尾山は小早川に向けて空堀が掘ってあります。合戦場の西側に巨大な山城があって、秀頼出陣を期待してた説もありますね。
島津はなぜか何もせず見ていたかのような印象だけど戦ってなかったわけじゃなく退き口までに相当消耗してる。
戦闘開始から小早川が裏切ったのではなく松尾山布陣の時点で小早川が裏切っておりではなぜ、西軍は関ケ原に陣取ったのか?となるそれはやはり南宮山に毛利本隊が陣取ったからだろうが家康が桃配山に本陣を構えた時点で、南宮山の毛利は無力化されていたと見るべきだろう無力化されていなかったら家康はJR稲荷山トンネルあたりにそれなりの規模の部隊を配置して退路を確保しなくてはならない西軍は木曽川渡河を許し岐阜城が陥落した時点で大垣城を主とした防衛線を放棄せざるおえすかといって関ケ原では大軍を擁するには地形が狭く一旦退いて決戦場を再構築すべく大津や若狭方面の勢力と連携し闘う体制を整えようとしていたのではないかと思う。その場合、佐和山城を捨て駒の防衛線として近江八幡鶴翼城を主に、観音寺城・安土城を生かし東軍を削っていくほかなかっただろう。もっぱら近江八幡の湖沼を防御の要にしなくてはならないが、若干西軍に利がある。もっとも、家康は巧みで、東軍諸将にはっぱをかけて木曽川渡河や岐阜城攻略を競わせ軍勢の士気を高め時勢の勢いを得ている。一方西軍は、明確なリーダー不在で後退後退となり裏切りに次ぐ裏切り(小早川・毛利)で疑心暗鬼となり軍勢の体を成していない
宇喜多秀家がまだ少年だった嫡男の秀高を伴って戦っていたこともあまり語られないね。落ち延びて流されるまでずっと一緒だったことも。この秀高は前田利家とまつの孫でもあったから秀家は秀吉への恩とともに利家の遺志に報いようと戦ってたのかも。同じく年少だった秀頼の出陣を願う意味もあったのかもしれない。
ありがとうございます!
応援いただきありがとうございます!
関ヶ原よりも大垣城での戦闘の方が大規模だったらしいですね
関ヶ原は慶長5年9/15で当日9/15付で家康が伊達政宗に送った書状には「午の刻(12時)頃戦が終わりその日のうちに佐和山へ入った」と書かれていて9/17付で石川康通と彦坂元正が松平家乗へ出した連書状には「関ヶ原本戦は巳の刻(10時頃)に始まった」と書いてあるから少なくとも井伊直政や福島正則が西軍に攻めかかってから約2時間程で決着したのは確かなようです。書状も現存していますね。
やっぱり歴史はロマンあるね〜
家康が天下を握った重要な戦だから、盛り上がってもらわないと困るという要請から歴史書で盛りに盛られた結果なんでしょうね(*ΦωΦ*)近年の弥助騒動に似てますねあれもつい最近までNHKで放送されたりしてましたからね
まあよくもあれだけの軍勢を関ヶ原に送り込んだなって思います。わらじだけでもどれだけいったことか。船と馬くらいしか助けが無い時代に。兵站含めて。福島や池田なんて小山から引き返して岐阜などで戦闘もしてるし西軍も伏見にて・・・。物資の補給だけでも並大抵ではない。いつまで続くかわからない戦。そりゃ。消耗を考えると1日も早く終わらせたかっただろうよ。
松尾山城守将の伊藤盛正は小早川秀秋からの攻撃を受けて、大垣城の石田三成のもとに逃げ込んだ。って聞いてたけど・・西軍の布陣図だけを見ると、誰と対峙していたのか。なんとなくわかるんじゃない・・戦闘自体は6時間かかったんじゃない?東軍が参戦してから2時間で終わっただけでしょ・・家康を神聖化していた陸軍が関ケ原の戦いを創作したのだから、目が曇っていたんじゃないかな?このコメントは時間的違和感だけを辻褄が合うように考察しただけだから。まだまだ考察のし甲斐があると思いますよ。通説を信じるなら、日の出から4時間以上包囲状態であったなら、東軍の兵士の心は恐慌状態になりかねない。戦上手な家康が兵力拮抗状態において士気の欠損を許容するとは考えづらい。そして東軍の先方が西軍と小早川秀秋の間に突撃をするとかも違和感はある。まるで西軍対小早川の構図を強引に西軍対東軍に置き換えた感は、多くの人が気づくものでしょう。
2:26 島義義弘 は草
フクション😂
当初、秀吉は秀秋を毛利輝元の養子にしようとしていたけど、小早川隆景が輝元の従兄弟にあたる秀元を輝元の後継者として秀吉に紹介した上で秀秋を自分の養子に貰いたいと秀吉に交渉したため、秀秋は小早川家に入ることになった。
知ってるよ!
@@tukasa3451んまぁっ!
島義義弘って誰やねん笑
どんな戦いだろうと決着がつくのは1日なのだから関ケ原ばかり一日で決着がついたっていうのはおかしい。
小牧長久手とかライプツィヒとかゲティスバーグとかスターリングラードと1日以上かかったのはたくさんある。
@@yaizudamashii それは違います。例えばスターリングラードの決着がついた日をスターリングラード〇〇の戦のように名前を付ければ必ず1日になります。関ケ原にも前哨戦がありましたが別の名前です。
従来言われている戦場と実際の戦場は別の場所らしいね。従来の場所からは鉄砲の弾とか出てこない、別の場所からは出てくると。小早川は途中で裏切ったのでは無く開戦前から東軍だし、長時間戦ったという事も無くあっさり短時間で西軍は敗れたという。一番最初にやられたのが大谷吉継。
「大乱 関ケ原」でどう描かれるか楽しみ
まぁ実際に「小早川に鉄砲を撃ちかけい!」となっても
戦闘中にそんなん見えないし聞こえないくらい遠い、って話は前からあったな
今の当たり前が実は…
勉強になります
城や地勢から見るのも面白いですよ。
松尾山は小早川に向けて空堀が掘ってあります。
合戦場の西側に巨大な山城があって、秀頼出陣を期待してた説もありますね。
島津はなぜか何もせず見ていたかのような印象だけど戦ってなかったわけじゃなく退き口までに相当消耗してる。
戦闘開始から小早川が裏切ったのではなく
松尾山布陣の時点で小早川が裏切っており
ではなぜ、西軍は関ケ原に陣取ったのか?となる
それはやはり南宮山に毛利本隊が陣取ったからだろうが
家康が桃配山に本陣を構えた時点で、南宮山の毛利は無力化されていたと見るべきだろう
無力化されていなかったら家康はJR稲荷山トンネルあたりにそれなりの規模の部隊を配置して退路を確保しなくてはならない
西軍は木曽川渡河を許し岐阜城が陥落した時点で大垣城を主とした防衛線を放棄せざるおえす
かといって関ケ原では大軍を擁するには地形が狭く
一旦退いて決戦場を再構築すべく大津や若狭方面の勢力と連携し闘う体制を整えようとしていたのではないかと思う。
その場合、佐和山城を捨て駒の防衛線として近江八幡鶴翼城を主に、観音寺城・安土城を生かし東軍を削っていくほかなかっただろう。
もっぱら近江八幡の湖沼を防御の要にしなくてはならないが、若干西軍に利がある。
もっとも、家康は巧みで、東軍諸将にはっぱをかけて木曽川渡河や岐阜城攻略を競わせ軍勢の士気を高め時勢の勢いを得ている。
一方西軍は、明確なリーダー不在で後退後退となり裏切りに次ぐ裏切り(小早川・毛利)で疑心暗鬼となり軍勢の体を成していない
宇喜多秀家がまだ少年だった嫡男の秀高を伴って戦っていたこともあまり語られないね。落ち延びて流されるまでずっと一緒だったことも。この秀高は前田利家とまつの孫でもあったから秀家は秀吉への恩とともに利家の遺志に報いようと戦ってたのかも。同じく年少だった秀頼の出陣を願う意味もあったのかもしれない。
ありがとうございます!
応援いただきありがとうございます!
関ヶ原よりも大垣城での戦闘の方が大規模だったらしいですね
関ヶ原は慶長5年9/15で
当日9/15付で家康が伊達政宗に送った書状には
「午の刻(12時)頃戦が終わり
その日のうちに佐和山へ入った」
と書かれていて
9/17付で石川康通と彦坂元正が
松平家乗へ出した連書状には
「関ヶ原本戦は巳の刻(10時頃)に始まった」
と書いてあるから
少なくとも井伊直政や福島正則が
西軍に攻めかかってから
約2時間程で決着したのは確かな
ようです。
書状も現存していますね。
やっぱり歴史はロマンあるね〜
家康が天下を握った重要な戦だから、盛り上がってもらわないと困るという要請から歴史書で盛りに盛られた結果なんでしょうね
(*ΦωΦ*)近年の弥助騒動に似てますね
あれもつい最近までNHKで放送されたりしてましたからね
まあよくもあれだけの軍勢を関ヶ原に送り込んだなって思います。
わらじだけでもどれだけいったことか。
船と馬くらいしか助けが無い時代に。兵站含めて。
福島や池田なんて小山から引き返して岐阜などで戦闘もしてるし西軍も伏見にて・・・。
物資の補給だけでも並大抵ではない。
いつまで続くかわからない戦。そりゃ。消耗を考えると1日も早く終わらせたかっただろうよ。
松尾山城守将の伊藤盛正は小早川秀秋からの攻撃を受けて、大垣城の石田三成のもとに逃げ込んだ。って聞いてたけど・・
西軍の布陣図だけを見ると、誰と対峙していたのか。なんとなくわかるんじゃない・・
戦闘自体は6時間かかったんじゃない?
東軍が参戦してから2時間で終わっただけでしょ・・
家康を神聖化していた陸軍が関ケ原の戦いを創作したのだから、
目が曇っていたんじゃないかな?
このコメントは時間的違和感だけを辻褄が合うように考察しただけだから。
まだまだ考察のし甲斐があると思いますよ。
通説を信じるなら、日の出から4時間以上包囲状態であったなら、
東軍の兵士の心は恐慌状態になりかねない。
戦上手な家康が兵力拮抗状態において士気の欠損を許容するとは考えづらい。
そして東軍の先方が西軍と小早川秀秋の間に突撃をするとかも違和感はある。
まるで西軍対小早川の構図を強引に西軍対東軍に置き換えた感は、
多くの人が気づくものでしょう。
2:26 島義義弘 は草
フクション😂
当初、秀吉は秀秋を毛利輝元の養子にしようとしていたけど、小早川隆景が輝元の従兄弟にあたる秀元を輝元の後継者として秀吉に紹介した上で秀秋を自分の養子に貰いたいと秀吉に交渉したため、秀秋は小早川家に入ることになった。
知ってるよ!
@@tukasa3451
んまぁっ!
島義義弘って誰やねん笑
どんな戦いだろうと決着がつくのは1日なのだから
関ケ原ばかり一日で決着がついたっていうのはおかしい。
小牧長久手とかライプツィヒとかゲティスバーグとかスターリングラードと1日以上かかったのはたくさんある。
@@yaizudamashii
それは違います。
例えばスターリングラードの決着がついた日をスターリングラード〇〇の戦のように名前を付ければ必ず1日になります。関ケ原にも前哨戦がありましたが別の名前です。