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ホッケンハイムリンクは、うっそうとした、ドイツの黒い森の中にある。 旧コースは、森の中を走る二本のストレートを、高速コーナーでつなぎ、一番先端はヘアピン・カーブとなった全長7・725キロである。 その後、ヘアピンの上に、アウトバーンが走ることになってヘアピンがなくなり、その補償金によって、正面の大グランド・スタンドが完成し、今の形となったのである。 ともあれ、国光たちは、森の中の小さなドイツらしいホテルに泊まり、プラクティスを重ねた。 ここは、名にし負う高速サーキット。 平均スピードは180キロを超える。 練習日、予選日と、国光は尻上がりに調子を出し、気分も良くなってきたが、もうひとつ、パドックが出来、森の中にキャンプ場が現れ、人が繰り出してくる様を見ると、国光の心は、高らかにマーチが鳴り出す。 そう、お祭り好きな国光の血が、ドイツで騒ぎはじめたのだ。 「何かやりそうな予感がする」 国光は、そう感じていた。 決勝は5月14日であった。 朝はトマト・ジュースを飲んだ。 バルコム貿易の通訳、山田治郎が好きで飲んでいて、真似をしてみたら、自分も好きになった。フト、浅間を思い出す。そして、ソーセージと目玉焼きとコーヒーとライ・ブレッド。 日本食より、そういったものが良かった。 高橋家は、外人ハウスをやっていた関係で、中学生の頃から、そういう朝食に慣れていた。 宿舎から、サーキットまでニッサンのマイクロバスで移動する。バスの中でも国光は、まさか今日、勝つなんて気持ちはサラサラなかった。 ただ、心の中にマーチが鳴っていた。 国光のRC162は、カウリングに100番のゼッケンが冠せられている。チームメイトのジム・レッドマンは107番である。 これらは、主催者が決めてライダーに与えていたゼッケン番号である。 スタート前、国光は、東京のガールフレンドがプレゼントしてくれたハンカチを、首に巻き、口を覆った。 やがて、フラッグが振られると、30台近いマシンは、カン高いエクゾースト・ノウトを響かせ、森の中の高速バトルが始まった。 MVアグスタのガーリー・ホッキング。 モリーニのタルキニオ・プロビーニ。 MZツインにのるエルンスト・デグナー(鈴鹿のデグナー・カーブは、彼の名前)。 そしてジム・レッドマンと高橋国光、2台のホンダが、トップ・グループを形成していく。 国光にとって、ホッキングやプロビーニは、雲の上の存在。その強豪と、同等に走ることが出来ることは快感であった。 直線では、時速200キロを軽く超える。森の松の幹が、ものすごい速さで後方へ飛んでいった。 やがて、MZツインに乗るデグナーが、後退し、トップ・グループは4台になった。 国光は時々、ブレーキを遅らせ、体をうまく傾けて、4人の中のトップに立つ。 やや大男のレッドマンは、コーナーで、はらんだりしていた。 やがて再び直線に入ると、1万3500回転は廻るエンジンにムチをくれ、他を引き離す。 しかし、チームメイトのレッドマンが、軽く抜いていく。 激しいトップ争いに耐えられなくなったのか、MVアグスタは、ピストンにダメージを負い、ストップした。さらにプロビーニが乗ったモリーニも、オーバーヒート症状になり、レーススピードを無くしていった。 ついにレッドマンと国光の、チームメイト同士の一騎打ちである。 チーム・オーダーなどない。国光が、そこまでやるとは思っていなかったから、ミーティングもなかった。 レッドマンは、国光を引き離そうと、持てるテクニックを駆使していくが、国光の、心の中のマーチは、まだ高らかに鳴っている。 国光は動じない。 完全に乗れているのだ。 最終ラップの最終コーナー。 国光はカウルの中に、すっぽりともぐり込み、ジム・レッドマンのスリップ・ストリームに入って全力で加速した。 国光が前。国光が前。国光、トップでゴール。 2車身差でレッドマンが過ぎた。 高橋国光が優勝したのだ。 日本人初の、世界グランプリ優勝と、ホンダの、世界グランプリ250ccクラスの初勝利。 昭和三十六年、1961年、5月14日。 二十一歳の国光は、ホッケンハイム・リンクを駆け抜けた。ー走れ クニミツ 小説高橋国光物語 高桐唯詩 1999 株式会社ニューズ出版 P114-117
ホッケンハイムリンクは、うっそうとした、ドイツの黒い森の中にある。
旧コースは、森の中を走る二本のストレートを、高速コーナーでつなぎ、一番先端はヘアピン・カーブとなった全長7・725キロである。
その後、ヘアピンの上に、アウトバーンが走ることになってヘアピンがなくなり、その補償金によって、正面の大グランド・スタンドが完成し、今の形となったのである。
ともあれ、国光たちは、森の中の小さなドイツらしいホテルに泊まり、プラクティスを重ねた。
ここは、名にし負う高速サーキット。
平均スピードは180キロを超える。
練習日、予選日と、国光は尻上がりに調子を出し、気分も良くなってきたが、もうひとつ、パドックが出来、森の中にキャンプ場が現れ、人が繰り出してくる様を見ると、国光の心は、高らかにマーチが鳴り出す。
そう、お祭り好きな国光の血が、ドイツで騒ぎはじめたのだ。
「何かやりそうな予感がする」
国光は、そう感じていた。
決勝は5月14日であった。
朝はトマト・ジュースを飲んだ。
バルコム貿易の通訳、山田治郎が好きで飲んでいて、真似をしてみたら、自分も好きになった。フト、浅間を思い出す。そして、ソーセージと目玉焼きとコーヒーとライ・ブレッド。
日本食より、そういったものが良かった。
高橋家は、外人ハウスをやっていた関係で、中学生の頃から、そういう朝食に慣れていた。
宿舎から、サーキットまでニッサンのマイクロバスで移動する。バスの中でも国光は、まさか今日、勝つなんて気持ちはサラサラなかった。
ただ、心の中にマーチが鳴っていた。
国光のRC162は、カウリングに100番のゼッケンが冠せられている。チームメイトのジム・レッドマンは107番である。
これらは、主催者が決めてライダーに与えていたゼッケン番号である。
スタート前、国光は、東京のガールフレンドがプレゼントしてくれたハンカチを、首に巻き、口を覆った。
やがて、フラッグが振られると、30台近いマシンは、カン高いエクゾースト・ノウトを響かせ、森の中の高速バトルが始まった。
MVアグスタのガーリー・ホッキング。
モリーニのタルキニオ・プロビーニ。
MZツインにのるエルンスト・デグナー(鈴鹿のデグナー・カーブは、彼の名前)。
そしてジム・レッドマンと高橋国光、2台のホンダが、トップ・グループを形成していく。
国光にとって、ホッキングやプロビーニは、雲の上の存在。その強豪と、同等に走ることが出来ることは快感であった。
直線では、時速200キロを軽く超える。森の松の幹が、ものすごい速さで後方へ飛んでいった。
やがて、MZツインに乗るデグナーが、後退し、トップ・グループは4台になった。
国光は時々、ブレーキを遅らせ、体をうまく傾けて、4人の中のトップに立つ。
やや大男のレッドマンは、コーナーで、はらんだりしていた。
やがて再び直線に入ると、1万3500回転は廻るエンジンにムチをくれ、他を引き離す。
しかし、チームメイトのレッドマンが、軽く抜いていく。
激しいトップ争いに耐えられなくなったのか、MVアグスタは、ピストンにダメージを負い、ストップした。さらにプロビーニが乗ったモリーニも、オーバーヒート症状になり、レーススピードを無くしていった。
ついにレッドマンと国光の、チームメイト同士の一騎打ちである。
チーム・オーダーなどない。国光が、そこまでやるとは思っていなかったから、ミーティングもなかった。
レッドマンは、国光を引き離そうと、持てるテクニックを駆使していくが、国光の、心の中のマーチは、まだ高らかに鳴っている。
国光は動じない。
完全に乗れているのだ。
最終ラップの最終コーナー。
国光はカウルの中に、すっぽりともぐり込み、ジム・レッドマンのスリップ・ストリームに入って全力で加速した。
国光が前。国光が前。国光、トップでゴール。
2車身差でレッドマンが過ぎた。
高橋国光が優勝したのだ。
日本人初の、世界グランプリ優勝と、ホンダの、世界グランプリ250ccクラスの初勝利。
昭和三十六年、1961年、5月14日。
二十一歳の国光は、ホッケンハイム・リンクを駆け抜けた。
ー走れ クニミツ 小説高橋国光物語 高桐唯詩 1999 株式会社ニューズ出版 P114-117