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「空」それは実態がないこと敵だと思えば敵になるし、味方だと思えば味方になる今までどんな結果を残そうとも、どんな強い相手に勝とうとも過去の物には実態がない全ては空っぽであり自分の心が物物事に色をつけるという事かな〜と
宮本武蔵と佐々木小次郎の足跡を巡り調べる旅に出た事が在ります。私は想いに更けました。枯木鳴鵙図…おそらく武蔵は現状の自分を反映させて描いたのでは?…枯木鳴鵙図には枝の先に止る鳥と、枝を這うイモ虫が描かれています。武蔵は何方が自分と思い描いたのか…イモ虫にとって鳥は絶対的恐怖の対象です。恐らく己をイモ虫として描いたのでは?…そう思えてならないのです。武蔵も何時でも怖かった。人間だから。要するに己の弱さと向き合い打ち勝ってゆく事が肝要であるって事なのかもしれませんね。己の心に刀は在るか!って事かな…私も弱い人間です。武蔵の様な強さが欲しいもんです。(笑)
武蔵は一流だと思うけど、超一流とは思わない。小次郎は地方の藩の剣術師範なだけでしょう?アバタローさんは無念無想の剣を使った(水の巻)で言ってたが、無想剣を使えて、教えて初めて超一流だと思う。一刀斎や夕雲はそれが使えた様だから超一流だと思うが。
散髪をしなかったのは刃物による暗殺を避ける為、風呂嫌いは常時帯刀している刀が錆びるから、投石で云々は農民を斬りたくなくて怪我をしたと嘘を吐いて退場した、とか?
というか、庶民が風呂に入る(いわゆる入浴)ようになったのって、江戸時代中期くらいからなんですよ。この時代って風呂入ったことない人はわりと普通にいたと思います。濡らした手拭いで体を拭くぐらいのもので。あとは、散髪もそうですが、ただ身なりに無頓着だっただけかもしれません。アインシュタインみたいなタイプというか。
武蔵の姓である新免氏は美作の豪族。生誕の地問題が云々されていますが、生まれは播磨、育ちは美作と考えるのが自然かと思われます。
今回もお疲れ様です。先日、下関から観光船に乗り、巌流島へ行ってきました。なるほど、あの決闘が史実ならふさわしい海岸が1ヶ所ありました。時代劇の撮影はいつもあそこでするのかな?その象徴として壊れた伝馬船も置いてありましたね。小次郎は武蔵以上に謎が多き人物。実在しなかった説までありますね。実在しても武蔵とは全く世代が違う高齢者と言われ、武蔵が生まれる前に亡くなった塚原卜伝と武蔵が勝負して武蔵が敗れたとかの創作話があるように小次郎との決闘のも後世の創作の可能性大ですね。何しろ、武蔵の晩年の著書「五輪書」にはそのことについて何も書いてありませんからね。小倉藩の兵法師範役を決める勝負を何でわざわざあんな関門海峡の激しい荒波に囲まれた絶海の孤島に上陸してやらなければならないのか。そんな勝負にわざとであってもなくても遅れて来ただけで負けですよ。そんな勝負なら小倉藩の藩内にいくらでも場所はありますからね。場所といい、武蔵の心理戦といい、あれは私闘の類いですよ、史実ならばですが。
好きな歴史で興味深いけれど、何を言っているかハッキリ聞き取れない
無二斎の養子じゃなくて無二斎の未亡人の養子という説もある。もしそうなら無二斎の稽古道具や兵法についての簡単な書置き位はあったろうが、武蔵は師を持つことなくほぼ独学で武芸を身に着けていたことになる。
よく云われる 武蔵複数人説 確認されているだけでも2人は居ますよね宮本武蔵信玄 宮本武蔵摂名ソレが、出生地(岡山や兵庫説)や出生年があやふやな理由?当時は、当然スマホや写真機などが無いので...少し身体が大きく、本人が『私は宮本武蔵である』と名乗れば、皆んな信用した?そうすれば、剣客として迎え入れられ、食うには困らなかったから...五輪書も、書き上げられてから亡くなった とあったが...完成したのは、武蔵の没後三年経ってたから と云われており、実は養子の伊織が描いたのでは?と云われていますよね?吉岡一門にしても、巌流島にしても...見届け人は誰?特に巌流島に至っては、1対1 立会人すら立てなかった との事そもそも、決闘前の島の名前は 舟島 巌流島 とは、佐々木小次郎の字名 巌流島佐々木小次郎何故、負けた方の名前を島の名に?島には、小次郎の 慰霊塔みたいなのがありますよね?卑怯なやられ方をした小次郎の魂を鎮魂する為?そもそも本来の 二天一流 と言う考え方は...二刀を同時に振る ということでは無く...本来、剣は両手で振るもの...なので、通常は片手を斬られたらもう戦えないしかし、武士たるもの、片手を失ったくらいで戦いを諦めて良いのか?右手が斬られたら左手で戦えばいいその為に、両方の手どちらでも剣を振れるように鍛錬すべし...と言う考えの事 だと云われています。ソレと、巌流島の決闘のきっかけは、弟子同士のいざこざ というより...武道に増資が深かった、藩主が、剣術指南役の佐々木小次郎と剣客として迎え入れている 剣豪と名高い宮本武蔵果たしてどちらの方が強いのか?と言い出した事がきっかけ と云われています。剣客として滞在している手前、断る事も出来ず...それまでも、色々な 策 を弄し凌いできたが...決闘に遅れたのも、色々と思考し、時間を引き伸ばしていたが...ついに引き伸ばしきれなくなり...みたいな?弟子達による撲殺弟子達は、折角 宮本武蔵の弟子 という事で、細川藩の剣客として高待遇を受けていた...この高待遇を継続させる為に、佐々木小次郎を撲殺したのでは?と云われています。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣など、参戦はしていたようですが...指したる活躍もしなかったようですね...60数度の戦い 本当に誰が見たのでしょうね?www
吉川英治が作品中で武蔵が立ち寄ったとした地が、地元で史実の如く扱われるのに困ったそうで(w秩父三峯の祭りで2刀流開眼も、完全なフィクションです(吉川先生断言)。
吉岡一門70~100人斬りした一乗寺の決闘は実話でしょ。まぁ刃はボロボロになろうが重症は負わせられるだろうし。謎ならば日本一の剣豪と呼ばれてる以上 それで良いじゃない。私は幼い頃に父に宮本武蔵の話しを聞かされて剣道に打ち込んだもんです(笑)宮本武蔵の役を佐藤健でやってくれないかなぁ。
武蔵は岡本朝予の指導を受け教養、剣術など学んでいます。吉川栄治の小説を真に受けると武蔵を誤解することになるので注意しましょう。尚、現在では播磨国、今の高砂市が出生というのが定説です。
あの時代の資料って殆ど無いし謎のままでしょうね。刀が折れやすいってのが良く分からんが決闘で?合戦で着る鎧兜に対して?謎だな。。。
横からの力には弱いらしい
二天記は武蔵のしご書かれたものなので、創作が多いそうで、宍戸どの戦いも事実かどうか怪しいそうです
いや、死後に書かれたのかどうかも確定はしていません。まだ研究段階です。
武蔵は負けた事が無く、芸術にも恵まれて、長生きして、最後の5巻が今もかなり読まれているって凄い人やな
現代に蘇って警察と闘うぐらいだもんな凄い人やな
「武蔵は本当は弱かった説」が、どうにも理解できない。私自身、剣術を習っていて、五輪書も何度も読んでいますが、あれはちゃんと剣をやってて理が分かっていないと書けない内容ですよ。刀の握り方や扱い方、肩から連なる腕の振り方、足の運び……挙げ句の果てに立ち会っている際の顔面の表情まで、本当に細かく書かれています。それらも、人間の身体の構造を知らなければ書けないものです。投石で負傷したから弱いと言うのも疑問。向こうが投げた石が一つだけぽーんっと飛んでくるなんてわけがなく、色んな方向から雨のように飛んでくるわけですから、それに当たって負傷したから弱いというのは無茶です。というか、中途半端に日本史をやったり資料を読んでいるだけのような人はもちろん別にして、実際に武術&武道をある程度やっていて五輪書を読んでいる人で「宮本武蔵は弱い」って言ってる人っていないんですよね。
五輪書を「当たり前のことしか書いてない、俺でも書ける」と批判してる人もいますが、勝負事が当たり前の積み重ねだと思わず、兵法書を便利な魔法の書と勘違いしているのでしょう。五輪書の様に自分の経験、知識だけで実用に足る書を書く事が出来る人間がどれだけ居る事やら。どっかの小説家の「築城と合戦が似ているなんて理解できない」は流石に頭を抱えましたが・・・
実際武蔵はえげつない事を結構ヤラカシでいた様ですね、決闘に負けた小次郎を武蔵の弟子が集団リンチで殺して、追われて逃げ回ったと聞いた事が有ります。
美作に生まれたのか播磨に生まれたのか定かですらないけど、邪馬台国みたいにお互いがご当地争いしてるよね。智頭急行の宮本武蔵駅はずっこだと思うわ。
山口県には佐々木小次郎の墓と言われるお墓があります。 奥様がお守りしておられたとの事です が 楊貴妃や安徳天皇のお墓も残っていますから伝承かも知れませんが。
五輪書がおもろかったので見に来た
佐々木小次郎は、クリスチャンだっけかな?
もしかしたら、某日曜日の海鮮一家の家長とその兄は杖術の使い手^_^⁉︎ご先祖は文字通り黒田武士だし。よく分からんが、色々な実力や人脈があっから良くても数百石で採用されるのが普通なのが、三千石で採用された。沼田って言うと一時期幽斎公に使えて最終的に津軽家に使えた武将の関係者かな?
濃厚接触者待機が終わったら速攻買いに行きます。
11:28夢想権之助の杖術は6尺(約180cm)ではなく4尺2寸1分(約128cm)ですよ。
漫画のバガボンドどうなったの?
マス大山は、空手界の宮本武蔵を目指して鍛練したという。
武の道は点を起とし円を終とする。直線はこれに付随するものなり。🎵この意味がわかってこその生きる道ぞ!因みにわしは、杖道三段や!!🎵
バガボンドはよ
ちなみに「宮本」は後世に付けられた姓であり本名ではありません。新免武蔵守藤原玄信(しんめんむさしのかみ・ふじわらのはるのぶ)が本名とされています。五輪書等で使用されている通称名・略名は新免武蔵であり、出身説が岡山県美作市宮本のため、後世に宮本という姓が付けられました。
木剱を使ったのは小次郎で、その木剱は現存する。小次郎は約束通り一人でいったが、武蔵は浪人を引き連れて襲わせた。
こくらはんがおぐらはんに…
宮本武蔵と言えば、飛んでいるハエを箸で捕まえたとか言う逸話があるけど、それは事実だったのかな?
柔よく剛を制す。それが剣道にも当てはまるけどね❗
う~ん、お話としては盛り上がりやオチもあり面白いんですが事実の探求としては一次資料を中心に客観的な事実のみでまとめた方が良いのでは?
武蔵は相応に強かったにせよ、当時から弟子達や兵法家達による虚実入り混じった伝承が流布されていたんですよね。おかげで没後も武名は高まり養子の伊織はもちろん弟子達も武蔵に連なる栄誉に浴したわけで、それもまた武蔵が教えた兵法という事なんでしょう。
巌流島の決闘が私闘ではなく細川家立ち合いの下でどちらも剣術指南役としての名誉をかけて行われたなら武蔵の遅刻や弟子による止めはあり得ないと思うけどなぁ
そうですね。tvのドキュメンタリーかなんかで見ましたが武蔵は戦で個人の能力がいくら有っても天下を変えられないない事を悟っていて、剣術指南役の話が有っても受けず確か現在の中隊か大隊位を編成出来る馬や武器を要請した為採用されず、浪人のまま最後は客人として終わったと聞きました。
杖術は四尺じゃないですかね…?
吉川英治の罪の重さwww普通に兵庫県南西部、揖保郡太子町や高砂市・加古川市が出身地としては有力でしょう。美作はないわwww
美作は養子先で出生地ではありません。
名声があり、いつでも命を狙われて可笑しくない立場であったにも関わらず、最期は病シというのも"やはり最後まで強かったから"という解釈も過ぎてはないと思う。
1:09 天正12年は江戸時代じゃないよ?天正は安土桃山時代か戦国時代だね。
渡辺幸庵対話は十中八九偽書ですのでw史料に使わないでくださいね。まあ多分孫引きだと思うので、引用元の情報は押さえておいた方が宜しいかと思います。この史料が出典なら「竹村武蔵」伝承も大分怪しいと言わざるを得ないです。
塚原卜伝です😁
兵書の中には、勝てない相手とは戦わないって事も、書いてあるとかないとか⁉️(笑)
「自分より強い相手と戦う方法」は書いてありますが……。
あっそうなんですね!失礼しました。どの様に書かれているんですか?
@@千葉恵子-c6p まずAという技を打ち、それがダメだったらまたAを打ち、それでもダメだったらまたAを打ち、それでもダメだったらまたAを打つ……と見せかけてBを打て、みたいな感じだったような気がします。つまり、実力では相手に敵わないのだから、意表を突けというか、相手の思考を掴め的な感じだったかな?
あっその手がありましたね(笑)意表を突くかぁ~流石宮本武蔵‼️
逆に勝ち目のない相手にも戦いを挑むような兵法者っているのか?仮にいたとして、そんな未熟な者をどう評価するんだ?「実に清々しい!正々堂々とした武芸者の鏡だ!」とか?
小次郎にトドメはいた(小次郎が)藩からの刺客が刺したみたいな話は昔、テレビで観たことはある。やっぱ、タイムマシン欲しいなぁ( ゚д゚)🍫ホスィ…
TVもネットもない時代にどうやって諸国に名前を轟かせたのでしょうか?
残した水墨画の研究から武蔵は左利き。二刀流は利き手の違いを隠す為のカモフラージュ。という説が有る。
あの時代に左利きはありえません。昔は左利きは「ぎっちょ」などといい、不吉なものとして、幼少の頃から厳しく矯正されていましたから。新選組の斎藤一も同じく。
おそらく元々左利きだと私も思います。コピーですが、彼の書いた水墨画の掛け軸を持っていますが、どの画も右利きでは描きづらい描写となっています。おそらく元々左利きだったからこそ二刀を使う兵法を実践できたのではないかと思います。普通は両手で持っても自由に扱うことのできない日本刀を片手に一刀ずつ持つという発想は、誰しも思い付きはしても実践はできないでしょう。右手も左手も同じように扱えた武蔵だからこその二天一流でしょう。
@@弾正少弼 いや、二刀流って色々な流派に結構ありますよ。例えば、香取神道流に「両刀」と称して普通にありますから。
うーん…やっぱ胡散臭い
⚔バガボンド⚔
たしか、あずみと決闘して死んだんだっけ?
引き分けだよ
日本刀が直ぐ折れるというと、刀が脆いというよりも、どんな膂力だったんだろう?と、思う。小生の感覚としては真剣から木刀に持ち替えると、なんてソフトなモノなんだろうと感じる。
自分の考えですが、武蔵が大きくて物凄い鍛えていて実戦経験豊富な人であったなら「弱いはずはない」です。剣道の全国大会で二刀流が出てるのを見ましたが剣道のルールにおいては弱そうでした、少数派の二刀流で全国大会の上位に出てきてる段階で弱くないのかもしれませんが。武蔵について書いた本を3冊程よみました、それとは別に現代語訳版の五輪の書も読みました。強いかどうかは分かりませんでした。結果論ですが、名を挙げた後に再三の手合わせや命を狙われることも有ったろうに、当時天寿と思われる年齢まで生き抜けたということは、やはり「弱いはずがない」です。
180cm以上の体躯相手に小人位の当時の剣豪では間合いすら捕れ撒いて❗️強い弱いでは無い杖術が勝てた唯一の理由がそこに有る
居合を多少志さした者ですが 心地好い解釈だったです。
天正十二年 (1584年)は まだ江戸時代ではないでしょう。関ヶ原の戦い 慶長五年(1600年)徳川家康が征夷大将軍に任官 慶長八年(1603年・江戸幕府成立) 江戸時代の始まりを、豊臣秀吉が死去した時点から、という見方もあるが、それでも慶長3年(1593年)です。
見たことある?th-cam.com/users/shorts_tcLTlg_iNo?feature=share
宮本武蔵はいたらしいが巌流島の戦いは小説の作り話佐々木小次郎などと言う人は架空の人物!そんな人は不在だ!そんなことは日本人ならご承知のことだが!目が節なの人は信じているらしい!同じく森の石松も講談の作り話し。人気が出たので浪花節に登場!全くの架空の人物である!佐々木小次郎、森の石松は作り話しの架空の人物である❗️
舟島での闘いは本当だよ
1コメゲット
「空」それは実態がないこと
敵だと思えば敵になるし、味方だと思えば味方になる
今までどんな結果を残そうとも、どんな強い相手に勝とうとも過去の物には実態がない
全ては空っぽであり自分の心が物物事に色をつける
という事かな〜と
宮本武蔵と佐々木小次郎の足跡を巡り調べる旅に出た事が在ります。私は想いに更けました。枯木鳴鵙図…おそらく武蔵は現状の自分を反映させて描いたのでは?…枯木鳴鵙図には枝の先に止る鳥と、枝を這うイモ虫が描かれています。武蔵は何方が自分と思い描いたのか…イモ虫にとって鳥は絶対的恐怖の対象です。恐らく己をイモ虫として描いたのでは?…そう思えてならないのです。武蔵も何時でも怖かった。人間だから。要するに己の弱さと向き合い打ち勝ってゆく事が肝要であるって事なのかもしれませんね。己の心に刀は在るか!って事かな…私も弱い人間です。武蔵の様な強さが欲しいもんです。(笑)
武蔵は一流だと思うけど、超一流とは思わない。
小次郎は地方の藩の剣術師範なだけでしょう?
アバタローさんは無念無想の剣を使った(水の巻)で言ってたが、無想剣を使えて、教えて初めて超一流だと思う。
一刀斎や夕雲はそれが使えた様だから超一流だと思うが。
散髪をしなかったのは刃物による暗殺を避ける為、風呂嫌いは常時帯刀している刀が錆びるから、投石で云々は農民を斬りたくなくて怪我をしたと嘘を吐いて退場した、とか?
というか、庶民が風呂に入る(いわゆる入浴)ようになったのって、江戸時代中期くらいからなんですよ。
この時代って風呂入ったことない人はわりと普通にいたと思います。
濡らした手拭いで体を拭くぐらいのもので。
あとは、散髪もそうですが、ただ身なりに無頓着だっただけかもしれません。
アインシュタインみたいなタイプというか。
武蔵の姓である新免氏は美作の豪族。
生誕の地問題が云々されていますが、生まれは播磨、育ちは美作と考えるのが自然かと思われます。
今回もお疲れ様です。
先日、下関から観光船に乗り、巌流島へ行ってきました。
なるほど、あの決闘が史実ならふさわしい海岸が1ヶ所ありました。
時代劇の撮影はいつもあそこでするのかな?
その象徴として壊れた伝馬船も置いてありましたね。
小次郎は武蔵以上に謎が多き人物。
実在しなかった説までありますね。
実在しても武蔵とは全く世代が違う高齢者と言われ、武蔵が生まれる前に亡くなった塚原卜伝と武蔵が勝負して武蔵が敗れたとかの創作話があるように小次郎との決闘のも後世の創作の可能性大ですね。
何しろ、武蔵の晩年の著書「五輪書」にはそのことについて何も書いてありませんからね。
小倉藩の兵法師範役を決める勝負を何でわざわざあんな関門海峡の激しい荒波に囲まれた絶海の孤島に上陸してやらなければならないのか。
そんな勝負にわざとであってもなくても遅れて来ただけで負けですよ。そんな勝負なら小倉藩の藩内にいくらでも場所はありますからね。
場所といい、武蔵の心理戦といい、あれは私闘の類いですよ、史実ならばですが。
好きな歴史で興味深いけれど、何を言っているかハッキリ聞き取れない
無二斎の養子じゃなくて無二斎の未亡人の養子という説もある。もしそうなら無二斎の稽古道具や兵法についての簡単な書置き位はあったろうが、武蔵は師を持つことなくほぼ独学で武芸を身に着けていたことになる。
よく云われる 武蔵複数人説 確認されているだけでも2人は居ますよね
宮本武蔵信玄 宮本武蔵摂名
ソレが、出生地(岡山や兵庫説)や出生年があやふやな理由?
当時は、当然スマホや写真機などが無いので...少し身体が大きく、本人が『私は宮本武蔵である』と名乗れば、皆んな信用した?
そうすれば、剣客として迎え入れられ、食うには困らなかったから...
五輪書も、書き上げられてから亡くなった とあったが...
完成したのは、武蔵の没後三年経ってたから と云われており、実は養子の伊織が描いたのでは?と云われていますよね?
吉岡一門にしても、巌流島にしても...見届け人は誰?特に巌流島に至っては、1対1 立会人すら立てなかった との事
そもそも、決闘前の島の名前は 舟島 巌流島 とは、佐々木小次郎の字名 巌流島佐々木小次郎
何故、負けた方の名前を島の名に?島には、小次郎の 慰霊塔みたいなのがありますよね?
卑怯なやられ方をした小次郎の魂を鎮魂する為?
そもそも本来の 二天一流 と言う考え方は...二刀を同時に振る ということでは無く...
本来、剣は両手で振るもの...なので、通常は片手を斬られたらもう戦えない
しかし、武士たるもの、片手を失ったくらいで戦いを諦めて良いのか?右手が斬られたら左手で戦えばいい
その為に、両方の手どちらでも剣を振れるように鍛錬すべし...と言う考えの事 だと云われています。
ソレと、巌流島の決闘のきっかけは、弟子同士のいざこざ というより...
武道に増資が深かった、藩主が、剣術指南役の佐々木小次郎と剣客として迎え入れている 剣豪と名高い宮本武蔵
果たしてどちらの方が強いのか?と言い出した事がきっかけ と云われています。
剣客として滞在している手前、断る事も出来ず...それまでも、色々な 策 を弄し凌いできたが...
決闘に遅れたのも、色々と思考し、時間を引き伸ばしていたが...ついに引き伸ばしきれなくなり...みたいな?
弟子達による撲殺
弟子達は、折角 宮本武蔵の弟子 という事で、細川藩の剣客として高待遇を受けていた...
この高待遇を継続させる為に、佐々木小次郎を撲殺したのでは?と云われています。
関ヶ原の戦い、大坂夏の陣など、参戦はしていたようですが...指したる活躍もしなかったようですね...
60数度の戦い 本当に誰が見たのでしょうね?www
吉川英治が作品中で武蔵が立ち寄ったとした地が、地元で史実の如く扱われるのに困ったそうで(w
秩父三峯の祭りで2刀流開眼も、完全なフィクションです(吉川先生断言)。
吉岡一門70~100人斬りした一乗寺の決闘は実話でしょ。
まぁ刃はボロボロになろうが
重症は負わせられるだろうし
。謎ならば日本一の剣豪と呼ばれてる以上 それで良いじゃない。私は幼い頃に父に宮本武蔵の話しを聞かされて剣道に打ち込んだもんです(笑)
宮本武蔵の役を佐藤健でやってくれないかなぁ。
武蔵は岡本朝予の指導を受け教養、剣術など学んでいます。
吉川栄治の小説を真に受けると武蔵を誤解することになるので注意しましょう。
尚、現在では播磨国、今の高砂市が出生というのが定説です。
あの時代の資料って殆ど無いし謎のままでしょうね。
刀が折れやすいってのが良く分からんが決闘で?
合戦で着る鎧兜に対して?
謎だな。。。
横からの力には弱いらしい
二天記は武蔵のしご書かれたものなので、創作が多いそうで、宍戸どの戦いも事実かどうか怪しいそうです
いや、死後に書かれたのかどうかも確定はしていません。
まだ研究段階です。
武蔵は負けた事が無く、芸術にも恵まれて、長生きして、最後の5巻が今もかなり読まれているって凄い人やな
現代に蘇って警察と闘うぐらいだもんな
凄い人やな
「武蔵は本当は弱かった説」が、どうにも理解できない。
私自身、剣術を習っていて、五輪書も何度も読んでいますが、あれはちゃんと剣をやってて理が分かっていないと書けない内容ですよ。
刀の握り方や扱い方、肩から連なる腕の振り方、足の運び……挙げ句の果てに立ち会っている際の顔面の表情まで、本当に細かく書かれています。
それらも、人間の身体の構造を知らなければ書けないものです。
投石で負傷したから弱いと言うのも疑問。
向こうが投げた石が一つだけぽーんっと飛んでくるなんてわけがなく、色んな方向から雨のように飛んでくるわけですから、それに当たって負傷したから弱いというのは無茶です。
というか、中途半端に日本史をやったり資料を読んでいるだけのような人はもちろん別にして、実際に武術&武道をある程度やっていて五輪書を読んでいる人で「宮本武蔵は弱い」って言ってる人っていないんですよね。
五輪書を「当たり前のことしか書いてない、俺でも書ける」と批判してる人もいますが、
勝負事が当たり前の積み重ねだと思わず、兵法書を便利な魔法の書と勘違いしているのでしょう。
五輪書の様に自分の経験、知識だけで実用に足る書を書く事が出来る人間がどれだけ居る事やら。
どっかの小説家の「築城と合戦が似ているなんて理解できない」は流石に頭を抱えましたが・・・
実際武蔵はえげつない事を結構ヤラカシでいた様ですね、決闘に負けた小次郎を武蔵の弟子が集団リンチで殺して、追われて逃げ回ったと聞いた事が有ります。
美作に生まれたのか播磨に生まれたのか定かですらないけど、邪馬台国みたいにお互いがご当地争いしてるよね。智頭急行の宮本武蔵駅はずっこだと思うわ。
山口県には佐々木小次郎の墓と言われるお墓があります。 奥様がお守りしておられたとの事です が 楊貴妃や安徳天皇のお墓も残っていますから伝承かも知れませんが。
五輪書がおもろかったので見に来た
佐々木小次郎は、クリスチャンだっけかな?
もしかしたら、某日曜日の海鮮一家の家長とその兄は杖術の使い手^_^⁉︎
ご先祖は文字通り黒田武士だし。
よく分からんが、色々な実力や人脈があっから良くても数百石で採用されるのが普通なのが、三千石で採用された。
沼田って言うと一時期幽斎公に使えて最終的に津軽家に使えた武将の関係者かな?
濃厚接触者待機が終わったら速攻買いに行きます。
11:28
夢想権之助の杖術は6尺(約180cm)ではなく
4尺2寸1分(約128cm)ですよ。
漫画のバガボンドどうなったの?
マス大山は、空手界の宮本武蔵を目指して鍛練したという。
武の道は点を起とし円を終とする。直線はこれに付随するものなり。🎵この意味がわかってこその生きる道ぞ!因みにわしは、杖道三段や!!🎵
バガボンドはよ
ちなみに「宮本」は後世に付けられた姓であり本名ではありません。
新免武蔵守藤原玄信(しんめんむさしのかみ・ふじわらのはるのぶ)が本名とされています。
五輪書等で使用されている通称名・略名は新免武蔵であり、出身説が岡山県美作市宮本のため、後世に宮本という姓が付けられました。
木剱を使ったのは小次郎で、その木剱は現存する。小次郎は約束通り一人でいったが、武蔵は浪人を引き連れて襲わせた。
こくらはんがおぐらはんに…
宮本武蔵と言えば、飛んでいるハエを箸で捕まえたとか言う逸話があるけど、それは事実だったのかな?
柔よく剛を制す。それが剣道にも当てはまるけどね❗
う~ん、お話としては盛り上がりやオチもあり面白いんですが
事実の探求としては一次資料を中心に客観的な事実のみでまとめた方が良いのでは?
武蔵は相応に強かったにせよ、当時から弟子達や兵法家達による虚実入り混じった伝承が流布されていたんですよね。おかげで没後も武名は高まり養子の伊織はもちろん弟子達も武蔵に連なる栄誉に浴したわけで、それもまた武蔵が教えた兵法という事なんでしょう。
巌流島の決闘が私闘ではなく細川家立ち合いの下でどちらも剣術指南役としての名誉をかけて行われたなら武蔵の遅刻や弟子による止めはあり得ないと思うけどなぁ
そうですね。tvのドキュメンタリーかなんかで見ましたが武蔵は戦で個人の能力がいくら有っても天下を変えられないない事を悟っていて、剣術指南役の話が有っても受けず確か現在の中隊か大隊位を編成出来る馬や武器を要請した為採用されず、浪人のまま最後は客人として終わったと聞きました。
杖術は四尺じゃないですかね…?
吉川英治の罪の重さwww
普通に兵庫県南西部、揖保郡太子町や高砂市・加古川市が出身地としては有力でしょう。美作はないわwww
美作は養子先で出生地ではありません。
名声があり、いつでも命を狙われて可笑しくない立場であったにも関わらず、最期は病シというのも"やはり最後まで強かったから"という解釈も過ぎてはないと思う。
1:09 天正12年は江戸時代じゃないよ?天正は安土桃山時代か戦国時代だね。
渡辺幸庵対話は十中八九偽書ですのでw
史料に使わないでくださいね。
まあ多分孫引きだと思うので、引用元の情報は押さえておいた方が宜しいかと思います。
この史料が出典なら「竹村武蔵」伝承も大分怪しいと言わざるを得ないです。
塚原卜伝です😁
兵書の中には、勝てない相手とは戦わないって事も、書いてあるとかないとか⁉️(笑)
「自分より強い相手と戦う方法」は書いてありますが……。
あっそうなんですね!失礼しました。どの様に書かれているんですか?
@@千葉恵子-c6p
まずAという技を打ち、それがダメだったらまたAを打ち、それでもダメだったらまたAを打ち、それでもダメだったらまたAを打つ……と見せかけてBを打て、みたいな感じだったような気がします。
つまり、実力では相手に敵わないのだから、意表を突けというか、相手の思考を掴め的な感じだったかな?
あっその手がありましたね(笑)
意表を突くかぁ~流石宮本武蔵‼️
逆に勝ち目のない相手にも戦いを挑むような兵法者っているのか?
仮にいたとして、そんな未熟な者をどう評価するんだ?
「実に清々しい!正々堂々とした武芸者の鏡だ!」とか?
小次郎にトドメはいた(小次郎が)藩からの刺客が刺したみたいな話は昔、テレビで観たことはある。
やっぱ、タイムマシン欲しいなぁ( ゚д゚)🍫ホスィ…
TVもネットもない時代にどうやって諸国に名前を轟かせたのでしょうか?
残した水墨画の研究から武蔵は左利き。二刀流は利き手の違いを隠す為のカモフラージュ。という説が有る。
あの時代に左利きはありえません。
昔は左利きは「ぎっちょ」などといい、不吉なものとして、幼少の頃から厳しく矯正されていましたから。
新選組の斎藤一も同じく。
おそらく元々左利きだと私も思います。コピーですが、彼の書いた水墨画の掛け軸を持っていますが、どの画も右利きでは描きづらい描写となっています。
おそらく元々左利きだったからこそ二刀を使う兵法を実践できたのではないかと思います。
普通は両手で持っても自由に扱うことのできない日本刀を片手に一刀ずつ持つという発想は、誰しも思い付きはしても実践はできないでしょう。
右手も左手も同じように扱えた武蔵だからこその二天一流でしょう。
@@弾正少弼
いや、二刀流って色々な流派に結構ありますよ。
例えば、香取神道流に「両刀」と称して普通にありますから。
うーん…やっぱ胡散臭い
⚔バガボンド⚔
たしか、あずみと決闘して死んだんだっけ?
引き分けだよ
日本刀が直ぐ折れるというと、刀が脆いというよりも、どんな膂力だったんだろう?と、思う。小生の感覚としては真剣から木刀に持ち替えると、なんてソフトなモノなんだろうと感じる。
自分の考えですが、武蔵が大きくて物凄い鍛えていて実戦経験豊富な人であったなら
「弱いはずはない」です。
剣道の全国大会で二刀流が出てるのを見ましたが剣道のルールにおいては弱そうでした、
少数派の二刀流で全国大会の上位に出てきてる段階で弱くないのかもしれませんが。
武蔵について書いた本を3冊程よみました、それとは別に現代語訳版の五輪の書も読みました。
強いかどうかは分かりませんでした。
結果論ですが、名を挙げた後に再三の手合わせや命を狙われることも有ったろうに、
当時天寿と思われる年齢まで生き抜けたということは、やはり「弱いはずがない」です。
180cm以上の体躯相手に小人位の当時の剣豪では間合いすら捕れ撒いて❗️
強い弱いでは無い
杖術が勝てた唯一の理由がそこに有る
居合を多少志さした者ですが 心地好い解釈だったです。
天正十二年 (1584年)は
まだ江戸時代ではないでしょう。
関ヶ原の戦い
慶長五年(1600年)
徳川家康が征夷大将軍に任官
慶長八年(1603年・江戸幕府成立)
江戸時代の始まりを、豊臣秀吉が死去した時点から、という見方もあるが、それでも慶長3年(1593年)です。
見たことある?th-cam.com/users/shorts_tcLTlg_iNo?feature=share
宮本武蔵はいたらしいが巌流島の戦いは小説の作り話
佐々木小次郎などと言う人は架空の人物!そんな人は
不在だ!そんなことは日本人ならご承知のことだが!
目が節なの人は信じているらしい!同じく森の石松も
講談の作り話し。人気が出たので浪花節に登場!全く
の架空の人物である!佐々木小次郎、森の石松は作り
話しの架空の人物である❗️
舟島での闘いは本当だよ
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