#108

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  • เผยแพร่เมื่อ 7 พ.ย. 2024

ความคิดเห็น • 3

  • @岩本光永
    @岩本光永 3 ปีที่แล้ว +2

    中川先生のお話しを何時も神様に感謝して、聞かせていた誰いています、実は、キリスト教会に行かない,仏教との人、ヌ神社、しんこう、ヌ偶像、仏教の、人の中に、聖書を勝手な解釈で、自分たちをあてはめて、いる用で、自分はキリストだと思っている人がいる用で、くるった、虚偽、てきな、考え、の用に思うのですが、主イエス キリストを信じて、やまない、クリスチャの人、困らせる、世の中は変わらないのでしょうか、主イェス キリストの十字架はどをな思いでの救いだったかと胸が痛む思いがしないのかと、悲しくてたまりません、それでも神様は彼らのために祈りなさいと言われます、?

    • @岩本光永
      @岩本光永 3 ปีที่แล้ว

      彼らをお許し下さりと祈られたのは神様だから、私は彼らが自分はキリストだと思って、極悪人の人より、遥かにたちの悪い、人種が出る世の中になってしまったのか、?聖書預言の素晴らしさ、神様に感謝しています、自分たちがキリスト神の用にたとえる、人の救いのために救リたくないと思う私は、救われていないのでしょうか、又、信仰のしっかく者なんでしょうか、?

    • @ミツバチ-v8r
      @ミツバチ-v8r 6 หลายเดือนก่อน

      (終わりの日における神の裁きの働きを受け入れないことの結果と結末)
      終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。
       終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。
       規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。
       ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。
       このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。
       あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。
       そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。
       今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。
      『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」
      主イエスが人類を贖ったにもかかわらず、神が終わりの日に裁きの働きを依然行う必要があるのはなぜか
      参考聖書箇所:
      「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)
      「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書 8:34-35)
      「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブル人への手紙 9:28)
      「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)
      (全能神の終わりの日のキリストの御言葉)
      あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。
      古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。
      内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。
      あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。
      よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。
      『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より引用