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これがTH-camでタダで聴けるいい時代じゃな
一時間以上の長い動画ですが、小和田先生が全く澱みのない、とても聞き取りやすい講義をしてくださるのに驚きます。少しずつ時間を区切って、複数回に分けて聞いていますが、どこから聞いてもわかりやすいです。
やっぱり、小和田先生、凄いです。流石、一流の先生、ドンドン、話を掘り下げていただけるので、こちらも、ドンドン、耳を傾けてしまいました。誠に、ありがとうございました!
倍速で見ない数少ない動画です。優しいくゆっくりと伝える喋り方は聞いてて心地良く、そして楽しいです。ありがとうございます。
いろいろな説も取り入れ大変勉強になりました。ありがとうございます。
先生、ありがとうございます。おかげさまでいろんなことがわかるようになりました。
昨日の大河を観て先生のお話が聞きたくなり、着到。本当に面白いし、勉強になります。今後もご活躍を楽しみにしています。
「17万 回視聴」おめでとうございます。74歳、団塊の世代です。大高城の城下、侍屋敷や商家を防禦する戦国期の環濠曲輪の中に暮らしています。町内会には、敵の襲撃によって、大高城の土塁に逃げ登る手前には環濠を用いた「屏風折れ」の「捨て曲輪」も目視でき、戦国期の緊張感が今も強く感じる事ができます。でも、著名な城郭研究の教授陣や講演者の誰一人として、、、指定された国の史跡「大高城」の範囲に残る城郭だけの遺構の詳細を研究・論述されるだけで、、、小和田教授の新たな説に言及され、、、大高城が水城としての機能:軍港や、国際貿易港の波止場、更には中国からの最先端の干拓堤防や広大な干拓地について、、、詳細に言及される先生が一人もいないのは、とても寂しい!ですね。 44:15 頃:大高城を今川水軍の軍事基地にしようとした可能性 45:53 頃:今川 東海王国の夢(駿河 遠江 三河 尾張 伊勢 の五ヶ国)大高では、既に小和田教授の新たな説が、水軍の軍港の遺構や、中国の寧波からの文献などの現物で実証できています。大高城の今川水軍の軍事基地としての大きさに広さにビックリ!しています。「桶狭間の戦い」以前からの大高の軍港を支配・活用していた伊勢・志摩から渡来の「下村水軍」の50家は、今も健在で「下村牡丹餅」として「水軍の団結の風習」が今も残り、、、左様な、強い団結力で「桶狭間の戦い」を生き延びています。48:52 頃:「大高城の兵糧入れ」、、、「寺部の戦いと混同している」との指摘ですが、、、駿府城内で、外戚の家臣であった「お亀の方」の実家、父の志水宗清と弟:志水忠宗 親子の家臣団は、、、今も大高城の城下に暮らしています。 我ら家臣団には、駿府城内で書いた?と考えられる、、、「徳川家康口述筆記」の写し、、、が残っています。隠居されていた家康の言葉では、大高城の兵糧入れは、、、「大高城兵糧入れ」 永禄二年大高城址 大高町字城山ニアリ<中略>(永禄)二年義元大擧シテ尾張ヲ攻メントス、、、<中略>義元命メ糧ヲ大高ニ納レシム四月九日夜家康兵千騎許ヲ大高ノ左右ニ備エ敵ノ形勢ヲ窺ヒ間ヲ得テ数百石ノ軍糧ヲ城中ニ納ルゝヲ得タリ三年五月十九日家康已ニ丸根ヲ抜キ、、、兵糧入れは、年初から計画され永禄2年4月9日の夜に実行兵力1000で数百石の軍糧を搬入した。、、、とあり、寺部を攻め、鷲巣・丸根の兵を援軍に向かわせた隙に入れた!、、、とは家康本人は言っていません。一方、、、・ 鷲津砦趾 大高町字鷲津ニアリ永禄二年 織田信長ノ築リ所ニシテ其将飯尾近江定宗 飯尾隠岐守信宗 織田玄蕃允 等ヲシテ五百二十騎ヲ以テ之ヲ守ラシメ 丸根 丹家 善照寺、寺部 挙母諸砦ト互ニ應援セシム 三年五月 義元兵数万ヲ率井テ桶狭ニ軍シ、十九日 其将 朝比奈備中守泰能ヲシテ来リ攻シム 砦 遂ニ陥注). 丸根 丹家 善照寺、寺部 挙母 諸砦ト互ニ應援セシム、、、とあり家康が認識していた、当時の織田軍の多くの砦の位置と戦略上の価値を、、、口述したものを、、、徳川家の正史「朝野舊聞裒藁 」(1819-1841)では、上記の晩年の家康の口述を、、、神君の「大高城兵糧入れ」の記述に盛った!可能性が考えられる。、、、と理解しています。
ありがとうございました。面白くて1時間半があっという間でした。
戦国時代の変動と共に先生の説得力のある新説の桶狭間の戦いを楽しませていただきました。3代奇襲になる程だし、また、大勢の名武将達の関わりも改めて知識を得ました。やはり歴史は面白いです。
有り難う御座いました。岡崎生まれで名古屋育ちです。若い時から地元のお祭りを見て育ちました。今川義元、信長、秀吉、家康の歴史を教えられ育ちました。東北に縁があり離れましたが詳しく又、故郷の偉人の講演を学び、有り難く詳細を教えられ嬉しかったです。家来の人の様子をも詳しく教えて頂いて、嬉しく思いました。生き生きとした映像が脳裏に浮かんで分かりやすい講演でした。楽しかったです。
面白いお話を聞かせて頂き、ありがとうございます。
初めて小和田先生の論調に接し心から納得致しました本当にありがとうございます。徳川家康その名は日本人として誇りに思う所です。人は重い荷を背負いて坂道を行くが如しと我が人生を説いた家康、その生涯は波瀾万丈生きているのか死んでいるのかわからないほどの苦渋に耐えた力、それは於大と言う母の祈りであろうかと思えば泣けてきます。同じ母親として😥
小和田先生の講演をぜひ拝聴したいと思っていたのでものすごくうれしいです。
小和田さんの解説は聞いててここちいい👍
小和田先生、静大で真面目に聴いて いればと後悔しています。学び直しています。
今まで桶狭間の戦いって、てっきり義元が京へ上洛する過程のなかで信長に急襲を受けた戦いだと思ってましたが、そうではなく尾張奪取が目的の出陣だったんですね。知らなかったです😂
1時間のご講演を有難うございました。これまでは武田家は強い国だと思っていましたが、松平元康側の立場で動画を聞いていると、今のロシアのように武田家は信用できない国だったのだなと感じました。そう感じられたのも面白かったです。
有難うございました!😅
昔の戦国読み物なども桶狭間の戦いは今川義元上洛(京都足利将軍に代わるため)が目的で、その途中にある織田信長との戦いはという捉え方だったと思いますね
自転車操業論、納得です。よくドラマなどで「戦のない平和な時代を作るため 自分が天下をとらなければ」なんて台詞を聞きますが、「万人の幸せのために戦う」という概念が果たしてこの時代にあったのか?精々「我が一族の繁栄のため」だろうと思っていたので。
一歩間違ったら、滅亡に直結する すんげー緊張感!!戦国時代のリーダーってきっついなぁー。この時代、「人間50年」もいきれたら、長生きだよー!
かなり前のマンガで服部半蔵と家康との関係を主軸にしたマンガありました。そのなかで、今川義元が尾張平定後、後の家康に跡継ぎとして育てるか?とか考えを巡らしたシーンが有りました。
その漫画、半蔵の門は自分も読みました!
ご講義勉強になりました。m(_ _)m
39:38 からの小和田先生自身の自転車操業論、まんま現代資本主義を説明するものである事に驚いた。
静岡市大岩の臨済寺は、行きましたお堂の太原雪斎-像、拝見しました。
磯田よりはるかに信頼性、説得力がある。
小和田先生、こんにちは。ももです。^_−☆家康公は、人質の身分でありながら、今川義元公に可愛がられるような逸材の持ち主でしたよね。義元公は我が子氏康より、人質の家康公を大事にしていたと言われます。我が子氏康と家康自身の前で、家康公を今川の当主にすると言ったようです。ま、実際は義元公が、甘えん坊の我が子氏康を家康と対立させて早く独り立ちさせるためのスパルタを用いたものだと思われますが、この時のことを家康は出世してからも今川義元公に対してまるで本当の父として感謝をしていたと言われます。あと、小和田先生はTV『知ってるつもり?』や『その時歴史が動いた』で、家康の出世いくさである三方ヶ原の戦いを通して、「家康の戦術は信長流を継いでいる訳ではなく、武田流を継いでいる」と発言されていましたが、それは違います。家康公が本当に継いでいる流派はわたしは今川流だと思います。小和田先生の戦国三英傑の説明で、信長が戦国乱世の終止符の扉を開き、秀吉がまたぎ、家康が次の世を網羅したと言う説明はまさにgoodでした。 『桶狭間の戦い』で信長2千は疑問です。今川と戦うと言うことで、信長軍の一部はあまり積極的ではなかった筈ですから、せいぜい信長正規軍の実情は500が精一杯だったと思われますね。それを大学院の研究家の生徒に発言したら、『500などもっての外です。500じゃ奇襲もかなわない』と言われましたよ。『でもそう言うなら、2万5千の大軍に対して2千の奇襲でもかなわないと思われないのですか?』と問うと、あまり明確な返答が聞き出せませんでした。私はこの『桶狭間の戦い』の謎は、奇襲などで説明がつくようなものではなく、斎藤道三や織田信長が用いた兵法の境地に達しなければ、解明されない謎だと思いますね。あと、『桶狭間の戦い』後に家康が寺で自害しようとしたことに小和田先生が信用していないと思われたことにわたしは同感です。家康は義元を殺した信長、かつて織田信秀の人質になった際、愚れてヤンキーになっていて周囲から〝うつけ〟と身降りを受けていて、顔も合わせたこともない信長に恨みを抱き、義元の子氏康と共に恩人の今川義元公の弔い合戦をしようことはまず間違いないことだと思われます。ただそう使用とした矢先、松平配下からまず松平家復興をしなされと促され自重したのだと思いますけれど。
川中島の戦いは武田も上杉も結局得るものなく、武田は破滅の方向に向かったわけですね。
21万回の視聴、、、驚きの数値ですね。■ 名古屋市教育委員会の大高城(内堀)発掘調査により、、、大高城の本丸の居館は、鷲津山の尾張守護:土岐頼康の一族の、鷲津殿の城館・居館を大高城に移築した可能性が大きくなりました。故に、、、大高城は、、、記紀の時代~現在までに、、、大高町地内に三世代の大高城が存在している事が確認できました。・ 第1期(第一世代)の「大高城」:ヤマト東征軍の兵站を担った姥神丘陵の山頂の「久米氏の城館」・ 第2期(第二世代)の「大高城」:鷲津山の尾張守護:土岐一族の鷲津殿~後の守護代:花井方に引き継がれた鷲津山の城館と居館。・ 第3期(第三世代)の「大高城」:守護代:花井備中守が応仁の乱の戦乱に対応する為に現在の大高城に鷲津山の城館と居館を移築し堀や土塁を設けた1450年以降から現在まで■ 桶狭間の戦いの時、、、大高に進駐した今川義元が、、、第一世代と第二世代の「大高城」を修復して使えば、、、【考察】今川軍25000を収容する大高城とは、、、■ 小豆坂の戦い 場所: 岡崎市字羽根町字小豆坂◎ 第二次小豆坂の戦い: 天文17年(1548)今川軍: 太原雪斎 戦力、約10,000松平軍: 戦力、不明◎ 桶狭間の戦い: 永禄3年(1560)今川(約10,000+α) + 松平(2500~3000人) 連合軍: 戦力、合計 25,000人 注). 丸根砦の織田軍500人余りへの攻撃には5倍の兵力を用いるのが、妥当!【大いなる疑問!】第二次小豆坂の戦いの約2倍の 25,000人 の兵を常駐させる容量(敷地)が大高城に有る!、、、のか?◎ 第二次「小豆坂の戦い」より増員された、、、10000人の役割について、、、鳴海城城下の西に広がる天白川の低地に、既に構築済み!だった(中国風の呼び名の)最中堤塘と下拾貫目堤塘の先に残っていた、、、「澪筋」を閉め切る!、、、澪止め!工事(堤防工事)には、、、10000人が必要である。鳴海城の西の広大な干拓地に稲田が造成されれば、、、食糧自給率が向上する。◎ 第一世代~第三世代までの大高城を合計した敷地面積は、1km四方であり、、、 使われなくなっている第一世代と第二世代の大高城を修復すれば、、、 100万㎡=30万坪の城塞都市が出現させる事が可能となる。 東京ドーム(46,755㎡)、、、約21個分の城塞に、、、25000の兵力では、この規模の大高城を敵から守り、城郭を維持・管理する事は、とても出来ない!!!#大高城 #今川軍2500人
信玄も義元も信長も秀吉も当代が亡くなると 一気に家が引っくり返る。偉大な英雄の力だよなー。それに比べ家康はすげー!!
梁田政綱が、毛利新介や服部小平太より勲功上位と位置付けた信長の評価制度を時折思い出し、胸高鳴らせています。
確かに小和田先生が、言われるように東海道筋-太平洋ラインは、戦国大名が、生まれにくかったと思いますかえって地方の豪族が、勢力、拡大した。長州-山口県の大内氏、九州の島津、大友氏、越後の上杉、甲州の武田氏とかですか⁈
人生、運も大いに関係あるようです。もし、桶狭間の戦いで死んでいたら、江戸時代はなかったでしょう。
ホントに、良く分かりました。信長が西へ、家康は東へ〜と言う説は?疑問に思う、信長は、東の方へも、目を向けてる感じデス
今川義元の東海王国戦略にに賛同します。
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。桶狭間はどうですか?今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。当時の地形は実際、どうなっているのですか。今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように?しかし衛星写真を見ると。そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも?思い込みですか?それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか?山地戦?平押し戦のような感じも?そのあたり。単なる思い込みだとおもうのですが。よろしくおねがいします。
織田軍の攻撃により、松永久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。とネットで書いてあったのですが、信長と茶器やりとりはあったのですか?信長の死を以って武家の目的が終わったと考えるのは間違いですか?対象は本能的に寺。
今川義元は、かなり、強大な勢力圏だったんですネ~😟
今川義元は上洛を目指していたと教えられました?桶狭間の戦いの時には信長は兵農分離を行っていたのですか?であれば兵が少ないけれども強かったですね。
説明はありませんが、このとき信長は自領の百姓の挑発を行わなかったということでしょう。時間的余裕もなかったでしょうし。ゼロではなかったでしょうが戦いなれた連中ばかりだったでしょう。
三河安城の本證寺は、過去に行きました。
松平信康が大高城兵糧入れ時に着ていたといわれる金陀美具足。本当に大将が目立つ格好をしていたのは疑問が残る。現在、静岡・東照宮にこの具足が展示されている。博物館の宮司さんの話によると以前、具足を修理した時に金箔の下に赤色が残っていた、この具足は元々赤色の具足ではと話していたのが印象的だった。元康の初陣の寺部城の戦いの甲冑は赤色(赤威しの鎧)といわれているが?
That is very interesting information
この頃の松平氏と井伊氏は同格なんですか?
井伊氏は鎌倉御家人、松平氏は単なる郷衆ですから、鎌倉以来の家格に関していえば井伊氏の方が断然上ですね~ただ、今川氏の組織の中では、松平元康さんは一門衆並みですから、松平氏の方が断然上になります~
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?その時の将軍は足利義輝ですか?もしそうならその後の織田との関係は?このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。信長が上洛する際は伊勢を。信玄が上洛する際は信濃を。ということはーーーないですか。勝手な思い込みです。それとこれも思い込みですが。"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?義元は大髙城へ向っていたようですが。織田に横腹を突かれたーーーということですか?
信長と家康!桶狭間から本能寺まで?
わが先祖は松平家とは親戚関係と聞いてます。是非数正を調べてください。南部家もわが先祖です。詳しいことのせてください。よろしくお願いいたします
自分は広島だから毛利家か浅野家になるけど、戦国時代はどうしても東海地方や近畿関西圏、甲信越辺りがメインだから仕方ないですね。
浅野は他所者じゃないんですか? 小和田先生はやっぱり東海がご専門ですから毛利はもう少し先になるんじゃないでしょうか。大河ドラマが決定すれば急遽もあるかもしれませんが、ちょっとなさそうですね。
@@tunhikdl 様戦国時代なら毛利家で、関ヶ原後は福島正則〜浅野家となるので【忠臣蔵】しかない。もし大河ドラマでやるなら浅野本家から見た【忠臣蔵】物か、幕末の長州征討の話くらいしかない😰😭😢
◆ 広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張)【この絵図が持つ情報】尾張藩が派遣した「大高城」 測量隊も知らない、戦国期の大高城の縄張りを明記している事に驚く!大高城の城郭研究者へは、、、下記のアドバイスをしています。大高城へ来られる時には、是非!・蓬左文庫「知多郡大高村古城絵図」・広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張)・S30年名古屋市航空写真・蓬左文庫「尾州知多郡大高古城」TH-cam:th-cam.com/video/PFZO56532L4/w-d-xo.html【史跡大高城跡講演会】大高城と尾張の中世城館(2021.09.18)動画24:00-24:35を持参されると良い。これらの大高城の資料を参照されると江戸期に抹消され改築された・城の正門と西門・馬出し曲輪「向山」地区・城下町に ・日本最古の総曲輪(環濠曲輪 二ヶ所) ・屏風折れの環濠を用いた「捨て曲輪」、、が 目視可能です。・土橋を渡る手前の「馬出し」は、江戸期に改築した事が理解できます。、、、とアドバイス。広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張) は、、、軍学書の墨線の描き方で、、、蓬左文庫「知多郡大高村古城絵図」とは、まったく別物のような印象を受けますが、、、・蓬左文庫「知多郡大高村古城絵図」・広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張)・S30年名古屋市航空写真・蓬左文庫「尾州知多郡大高古城」TH-cam:th-cam.com/video/PFZO56532L4/w-d-xo.html【史跡大高城跡講演会】大高城と尾張の中世城館(2021.09.18)動画24:00-24:35と、、、から得られる城郭の位置情報と城郭機能の情報は、全て正確に一致しています。豊臣方の有力大名が、徳川の、しかも家康ゆかりの大高城の「桶狭間の戦い」当時の縄張り情報を持っていた事に驚愕しています。
桶狭間住民の私は「大高城」と聞くと「大高イオン」をイメージしてしまう😂😂😂 バカですみません🙏
馬に乗って行けば良かったのにね〜、今川義元。そうしたら命は取られず、逃げられたかもしれないね?
今川義元、運がなかったね?可愛そうに。
秀吉は農民出身で代々仕えていた家来がいなかった。家康にはそれが多かった。その差で2代目以降に政権が引き継げた。といった話を聞いたことが。あやふやなので。家康の代々の家来は何人くらいいたのですか?教えて下さい。それと今川の人質?となった時の松平家の地位は?地方豪族程度ーーーということは?それなら地方豪族の子弟を集めて寺子屋で。他にも似たような立ち位置の者はいたのですか?それと大阪夏の陣で豊臣方の秀頼直臣の活躍があまり描かれていませんが。その兵数と主な武将の名を教えて下さい。
み かわではなく みかわです。同じくお↗️かざきでなく おかざきです。イントネーションは大事ですのでお願いします。
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。古地図と現在の地図を参考にこの時代は海抜何メートルまで海が。そうなると関東は、関西は、中部地方は?ここまで海岸線が。その時代の日本の姿はこうだった。日本全土は海岸線がこうなっていた。現代の地図に重ね合わせると。こうなる。江戸城周辺は。大阪城周辺は。桶狭間は。そういう事を書いた資料はありませんか?年代毎にそのような地図があれば。もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。その地図をもとに。
信長は尾張を統一したのでしょ。その翌年の保有兵力が2000?とは。どの程度の兵力があれば統一できるのか。信長の尾張統一過程でどの程度の兵力を保有していたのか?どのように増えていったのか。教えて下さい。
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。古地図と現在の地図を参考にこの時代は海抜何メートルまで海が。1500年代ですか。そうなると関東は、関西は、中部地方は?ここまで海岸線が。その時代の日本の姿はこうだった。日本全土は海岸線がこうなっていた。現代の地図に重ね合わせると。こうなる。江戸城周辺は。大阪城周辺は。桶狭間は。そういう事を書いた資料はありませんか?年代毎にそのような地図があれば。もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。その地図をもとに。
確定した話だけで終われませんか。幻想に税金かかる点についてどうおもいますか?
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。それを大義名分に尾張侵攻を。考えすぎですか。尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。上洛というのは道を開けてくれるようですし。桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。何もないのに上洛、上洛というのも。尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。信長の時は伊勢。信玄には信濃ですか、三河ですか。まあ勝手な思い込みです。その時の将軍は足利義輝ですか?もしそうならその後の織田との関係は?このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。信長が上洛する際は伊勢を。信玄が上洛する際は信濃を。ということはーーーないですか。勝手な思い込みです。それとこれも思い込みですが。"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?義元は大髙城へ向っていたようですが。織田に横腹を突かれたーーーということですか?
話しを聞いていると、分からない事ばかりじゃないか。
レジュメも下記リンク先からダウンロードできますので、合わせてご覧いただければと思います。
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これがTH-camでタダで聴ける
いい時代じゃな
一時間以上の長い動画ですが、小和田先生が全く澱みのない、とても聞き取りやすい講義をしてくださるのに驚きます。
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やっぱり、小和田先生、凄いです。
流石、一流の先生、ドンドン、話を掘り下げていただけるので、こちらも、ドンドン、耳を傾けてしまいました。
誠に、ありがとうございました!
倍速で見ない数少ない動画です。優しいくゆっくりと伝える喋り方は聞いてて心地良く、そして楽しいです。ありがとうございます。
いろいろな説も取り入れ大変勉強になりました。ありがとうございます。
先生、ありがとうございます。おかげさまでいろんなことがわかるようになりました。
昨日の大河を観て先生のお話が聞きたくなり、着到。
本当に面白いし、勉強になります。
今後もご活躍を楽しみにしています。
「17万 回視聴」おめでとうございます。
74歳、団塊の世代です。大高城の城下、侍屋敷や商家を防禦する戦国期の環濠曲輪の中に暮らしています。
町内会には、敵の襲撃によって、大高城の土塁に逃げ登る手前には環濠を用いた「屏風折れ」の「捨て曲輪」も目視でき、戦国期の緊張感が今も強く感じる事ができます。
でも、著名な城郭研究の教授陣や講演者の誰一人として、、、指定された国の史跡「大高城」の範囲に残る城郭だけの遺構の詳細を研究・論述されるだけで、、、小和田教授の新たな説に言及され、、、大高城が水城としての機能:軍港や、国際貿易港の波止場、更には中国からの最先端の干拓堤防や広大な干拓地について、、、詳細に言及される先生が一人もいないのは、とても寂しい!ですね。
44:15 頃:大高城を今川水軍の軍事基地にしようとした可能性
45:53 頃:今川 東海王国の夢(駿河 遠江 三河 尾張 伊勢 の五ヶ国)
大高では、既に小和田教授の新たな説が、水軍の軍港の遺構や、中国の寧波からの文献などの現物で実証できています。
大高城の今川水軍の軍事基地としての大きさに広さにビックリ!しています。
「桶狭間の戦い」以前からの大高の軍港を支配・活用していた伊勢・志摩から渡来の「下村水軍」の50家は、今も健在で「下村牡丹餅」として「水軍の団結の風習」が今も残り、、、左様な、強い団結力で「桶狭間の戦い」を生き延びています。
48:52 頃:「大高城の兵糧入れ」、、、「寺部の戦いと混同している」との指摘ですが、、、
駿府城内で、外戚の家臣であった「お亀の方」の実家、父の志水宗清と弟:志水忠宗 親子の家臣団は、、、今も大高城の城下に暮らしています。 我ら家臣団には、駿府城内で書いた?と考えられる、、、「徳川家康口述筆記」の写し、、、が残っています。
隠居されていた家康の言葉では、大高城の兵糧入れは、、、
「大高城兵糧入れ」 永禄二年
大高城址 大高町字城山ニアリ
<中略>
(永禄)二年義元大擧シテ尾張ヲ攻メントス、、、
<中略>
義元命メ糧ヲ大高ニ納レシム四月九日夜家康
兵千騎許ヲ大高ノ左右ニ備エ敵ノ形勢ヲ窺ヒ
間ヲ得テ数百石ノ軍糧ヲ城中ニ納ルゝヲ得タリ
三年五月十九日家康已ニ丸根ヲ抜キ、、、
兵糧入れは、年初から計画され永禄2年4月9日の夜に実行
兵力1000で数百石の軍糧を搬入した。
、、、とあり、寺部を攻め、鷲巣・丸根の兵を援軍に向かわせた隙に入れた!、、、とは家康本人は言っていません。
一方、、、
・ 鷲津砦趾 大高町字鷲津ニアリ
永禄二年 織田信長ノ築リ所ニシテ其将
飯尾近江定宗 飯尾隠岐守信宗 織田
玄蕃允 等ヲシテ五百二十騎ヲ以テ之ヲ
守ラシメ 丸根 丹家 善照寺、寺部 挙母
諸砦ト互ニ應援セシム 三年五月 義元兵
数万ヲ率井テ桶狭ニ軍シ、十九日 其将 朝
比奈備中守泰能ヲシテ来リ攻シム 砦 遂
ニ陥
注). 丸根 丹家 善照寺、寺部 挙母 諸砦ト互ニ應援セシム、、、とあり
家康が認識していた、当時の織田軍の多くの砦の位置と戦略上の価値を、、、口述したものを、、、
徳川家の正史「朝野舊聞裒藁 」(1819-1841)では、上記の晩年の家康の口述を、、、神君の「大高城兵糧入れ」の記述に盛った!可能性が考えられる。
、、、と理解しています。
ありがとうございました。面白くて1時間半があっという間でした。
戦国時代の変動と共に先生の説得力のある新説の桶狭間の戦いを楽しませていただきました。3代奇襲になる程だし、また、大勢の名武将達の関わりも改めて知識を得ました。やはり歴史は面白いです。
有り難う御座いました。岡崎生まれで名古屋育ちです。若い時から地元のお祭りを見て育ちました。今川義元、信長、秀吉、家康の歴史を教えられ育ちました。東北に縁があり離れましたが詳しく又、故郷の偉人の講演を学び、有り難く詳細を教えられ嬉しかったです。家来の人の様子をも詳しく教えて頂いて、嬉しく思いました。生き生きとした映像が脳裏に浮かんで分かりやすい講演でした。楽しかったです。
面白いお話を聞かせて頂き、ありがとうございます。
初めて小和田先生の論調に接し心から納得致しました本当にありがとうございます。徳川家康その名は日本人として誇りに思う所です。人は重い荷を背負いて坂道を行くが如しと我が人生を説いた家康、その生涯は波瀾万丈生きているのか死んでいるのかわからないほどの苦渋に耐えた力、それは於大と言う母の祈りであろうかと思えば泣けてきます。同じ母親として😥
小和田先生の講演をぜひ拝聴したいと思っていたのでものすごくうれしいです。
小和田さんの解説は聞いててここちいい👍
小和田先生、静大で真面目に聴いて いればと後悔しています。学び直しています。
今まで桶狭間の戦いって、てっきり義元が京へ上洛する過程のなかで信長に急襲を受けた戦いだと思ってましたが、そうではなく尾張奪取が目的の出陣だったんですね。知らなかったです😂
1時間のご講演を有難うございました。
これまでは武田家は強い国だと思っていましたが、松平元康側の立場で動画を聞いていると、
今のロシアのように武田家は信用できない国だったのだなと感じました。そう感じられたのも面白かったです。
有難うございました!😅
昔の戦国読み物なども桶狭間の戦いは今川義元上洛(京都足利将軍に代わるため)が目的で、その途中にある織田信長との戦いはという捉え方だったと思いますね
自転車操業論、納得です。よくドラマなどで「戦のない平和な時代を作るため 自分が天下をとらなければ」なんて台詞を聞きますが、「万人の幸せのために戦う」という概念が果たしてこの時代にあったのか?精々「我が一族の繁栄のため」だろうと思っていたので。
一歩間違ったら、滅亡に直結する すんげー緊張感!!
戦国時代のリーダーってきっついなぁー。
この時代、「人間50年」もいきれたら、長生きだよー!
かなり前のマンガで服部半蔵と家康との関係を主軸にしたマンガありました。
そのなかで、今川義元が尾張平定後、後の家康に跡継ぎとして育てるか?とか考えを巡らしたシーンが有りました。
その漫画、半蔵の門は自分も読みました!
ご講義勉強になりました。m(_ _)m
39:38 からの小和田先生自身の自転車操業論、まんま現代資本主義を説明するものである事に驚いた。
静岡市大岩の臨済寺は、行きました
お堂の太原雪斎-像、拝見しました。
磯田よりはるかに信頼性、説得力がある。
小和田先生、こんにちは。
ももです。^_−☆
家康公は、人質の身分でありながら、今川義元公に可愛がられるような逸材の持ち主でしたよね。義元公は我が子氏康より、人質の家康公を大事にしていたと言われます。
我が子氏康と家康自身の前で、家康公を今川の当主にすると言ったようです。
ま、実際は義元公が、甘えん坊の我が子氏康を家康と対立させて早く独り立ちさせるためのスパルタを用いたものだと思われますが、この時のことを家康は出世してからも今川義元公に対してまるで本当の父として感謝をしていたと言われます。
あと、小和田先生はTV『知ってるつもり?』や『その時歴史が動いた』で、家康の出世いくさである三方ヶ原の戦いを通して、
「家康の戦術は信長流を継いでいる訳ではなく、武田流を継いでいる」と発言されていましたが、それは違います。
家康公が本当に継いでいる流派はわたしは今川流だと思います。
小和田先生の戦国三英傑の説明で、
信長が戦国乱世の終止符の扉を開き、
秀吉がまたぎ、家康が次の世を網羅したと言う説明はまさにgoodでした。
『桶狭間の戦い』で信長2千は疑問です。今川と戦うと言うことで、信長軍の一部はあまり積極的ではなかった筈ですから、せいぜい信長正規軍の実情は500が精一杯だったと思われますね。
それを大学院の研究家の生徒に発言したら、『500などもっての外です。500じゃ奇襲もかなわない』と言われましたよ。
『でもそう言うなら、2万5千の大軍に対して2千の奇襲でもかなわないと思われないのですか?』と問うと、あまり明確な返答が聞き出せませんでした。
私はこの『桶狭間の戦い』の謎は、奇襲などで説明がつくようなものではなく、斎藤道三や織田信長が用いた兵法の境地に達しなければ、解明されない謎だと思いますね。
あと、『桶狭間の戦い』後に家康が寺で自害しようとしたことに小和田先生が信用していないと思われたことにわたしは同感です。
家康は義元を殺した信長、かつて織田信秀の人質になった際、愚れてヤンキーになっていて周囲から〝うつけ〟と身降りを受けていて、顔も合わせたこともない信長に恨みを抱き、義元の子氏康と共に恩人の今川義元公の弔い合戦をしようことはまず間違いないことだと思われます。ただそう使用とした矢先、松平配下からまず松平家復興をしなされと促され自重したのだと思いますけれど。
川中島の戦いは武田も上杉も結局得るものなく、武田は破滅の方向に向かったわけですね。
21万回の視聴、、、驚きの数値ですね。
■ 名古屋市教育委員会の大高城(内堀)発掘調査により、、、
大高城の本丸の居館は、鷲津山の尾張守護:土岐頼康の一族の、鷲津殿の城館・居館を大高城に移築した可能性が大きくなりました。
故に、、、大高城は、、、記紀の時代~現在までに、、、大高町地内に三世代の大高城が存在している事が確認できました。
・ 第1期(第一世代)の「大高城」:ヤマト東征軍の兵站を担った姥神丘陵の山頂の「久米氏の城館」
・ 第2期(第二世代)の「大高城」:鷲津山の尾張守護:土岐一族の鷲津殿~後の守護代:花井方に引き継がれた鷲津山の城館と居館。
・ 第3期(第三世代)の「大高城」:守護代:花井備中守が応仁の乱の戦乱に対応する為に現在の大高城に鷲津山の城館と居館を移築し堀や土塁を設けた1450年以降から現在まで
■ 桶狭間の戦いの時、、、大高に進駐した今川義元が、、、第一世代と第二世代の「大高城」を修復して使えば、、、
【考察】今川軍25000を収容する大高城とは、、、
■ 小豆坂の戦い
場所: 岡崎市字羽根町字小豆坂
◎ 第二次小豆坂の戦い: 天文17年(1548)
今川軍: 太原雪斎 戦力、約10,000
松平軍: 戦力、不明
◎ 桶狭間の戦い: 永禄3年(1560)
今川(約10,000+α) + 松平(2500~3000人) 連合軍: 戦力、合計 25,000人
注). 丸根砦の織田軍500人余りへの攻撃には5倍の兵力を用いるのが、妥当!
【大いなる疑問!】
第二次小豆坂の戦いの約2倍の 25,000人 の兵を常駐させる容量(敷地)が大高城に有る!、、、のか?
◎ 第二次「小豆坂の戦い」より増員された、、、10000人の役割について、、、
鳴海城城下の西に広がる天白川の低地に、既に構築済み!だった(中国風の呼び名の)最中堤塘と下拾貫目堤塘の先に残っていた、、、「澪筋」を閉め切る!、、、澪止め!工事(堤防工事)には、、、10000人が必要である。
鳴海城の西の広大な干拓地に稲田が造成されれば、、、食糧自給率が向上する。
◎ 第一世代~第三世代までの大高城を合計した敷地面積は、1km四方であり、、、
使われなくなっている第一世代と第二世代の大高城を修復すれば、、、
100万㎡=30万坪の城塞都市が出現させる事が可能となる。
東京ドーム(46,755㎡)、、、約21個分の城塞に、、、25000の兵力では、この規模の大高城を敵から守り、城郭を維持・管理する事は、とても出来ない!!!
#大高城 #今川軍2500人
信玄も義元も信長も秀吉も
当代が亡くなると 一気に家が引っくり返る。
偉大な英雄の力だよなー。
それに比べ家康はすげー!!
梁田政綱が、毛利新介や服部小平太より勲功上位と位置付けた信長の評価制度を時折思い出し、胸高鳴らせています。
確かに小和田先生が、言われるように東海道筋-太平洋ラインは、戦国大名が、生まれにくかったと思います
かえって地方の豪族が、勢力、拡大した。長州-山口県の大内氏、九州の島津、大友氏、越後の上杉、甲州の武田氏とかですか⁈
人生、運も大いに関係あるようです。もし、桶狭間の戦いで死んでいたら、江戸時代はなかったでしょう。
ホントに、良く分かりました。信長が西へ、家康は東へ〜と言う説は?疑問に思う、
信長は、東の方へも、目を向けてる感じデス
今川義元の東海王国戦略にに賛同します。
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。
桶狭間はどうですか?
今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。
当時の地形は実際、どうなっているのですか。
今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。
三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように?
しかし衛星写真を見ると。
そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも?
思い込みですか?
それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか?
山地戦?
平押し戦のような感じも?
そのあたり。
単なる思い込みだとおもうのですが。
よろしくおねがいします。
織田軍の攻撃により、松永久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。とネットで書いてあったのですが、信長と茶器やりとりはあったのですか?信長の死を以って武家の目的が終わったと考えるのは間違いですか?対象は本能的に寺。
今川義元は、かなり、強大な勢力圏だったんですネ~😟
今川義元は上洛を目指していたと教えられました?桶狭間の戦いの時には信長は兵農分離を行っていたのですか?であれば兵が少ないけれども強かったですね。
説明はありませんが、このとき信長は自領の百姓の挑発を行わなかったということでしょう。時間的余裕もなかったでしょうし。ゼロではなかったでしょうが戦いなれた連中ばかりだったでしょう。
三河安城の本證寺は、過去に行きました。
松平信康が大高城兵糧入れ時に着ていたといわれる金陀美具足。本当に大将が目立つ格好をしていたのは疑問が残る。現在、静岡・東照宮にこの具足が展示されている。
博物館の宮司さんの話によると以前、具足を修理した時に金箔の下に赤色が残っていた、この具足は元々赤色の具足ではと話していたのが印象的だった。
元康の初陣の寺部城の戦いの甲冑は赤色(赤威しの鎧)といわれているが?
That is very interesting information
この頃の松平氏と井伊氏は同格なんですか?
井伊氏は鎌倉御家人、松平氏は単なる郷衆ですから、鎌倉以来の家格に関していえば井伊氏の方が断然上ですね~
ただ、今川氏の組織の中では、松平元康さんは一門衆並みですから、松平氏の方が断然上になります~
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?
その時の将軍は足利義輝ですか?
もしそうならその後の織田との関係は?
このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。
信長が上洛する際は伊勢を。
信玄が上洛する際は信濃を。
ということはーーーないですか。
勝手な思い込みです。
それとこれも思い込みですが。
"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?
義元は大髙城へ向っていたようですが。
織田に横腹を突かれたーーーということですか?
信長と家康!
桶狭間から本能寺まで?
わが先祖は松平家とは親戚関係と聞いてます。是非数正を調べてください。
南部家もわが先祖です。詳しいことのせてください。
よろしくお願いいたします
自分は広島だから毛利家か浅野家になるけど、戦国時代はどうしても東海地方や近畿関西圏、甲信越辺りがメインだから仕方ないですね。
浅野は他所者じゃないんですか? 小和田先生はやっぱり東海がご専門ですから毛利はもう少し先になるんじゃないでしょうか。大河ドラマが決定すれば急遽もあるかもしれませんが、ちょっとなさそうですね。
@@tunhikdl 様
戦国時代なら毛利家で、関ヶ原後は福島正則〜浅野家となるので【忠臣蔵】しかない。
もし大河ドラマでやるなら浅野本家から見た【忠臣蔵】物か、幕末の長州征討の話くらいしかない😰😭😢
◆ 広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張)
【この絵図が持つ情報】尾張藩が派遣した「大高城」 測量隊も知らない、戦国期の大高城の縄張りを明記している事に驚く!
大高城の城郭研究者へは、、、下記のアドバイスをしています。
大高城へ来られる時には、是非!
・蓬左文庫「知多郡大高村古城絵図」
・広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張)
・S30年名古屋市航空写真
・蓬左文庫「尾州知多郡大高古城」
TH-cam:th-cam.com/video/PFZO56532L4/w-d-xo.html
【史跡大高城跡講演会】
大高城と尾張の中世城館(2021.09.18)
動画24:00-24:35を持参されると良い。
これらの大高城の資料を参照されると
江戸期に抹消され改築された
・城の正門と西門
・馬出し曲輪「向山」地区
・城下町に
・日本最古の総曲輪(環濠曲輪 二ヶ所)
・屏風折れの環濠を用いた「捨て曲輪」
、、が 目視可能です。
・土橋を渡る手前の「馬出し」は、江戸期に改築した事が理解できます。、、、とアドバイス。
広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張) は、、、軍学書の墨線の描き方で、、、蓬左文庫「知多郡大高村古城絵図」とは、まったく別物のような印象を受けますが、、、
・蓬左文庫「知多郡大高村古城絵図」
・広島市立中央図書館「諸国古城之図」大高(尾張)
・S30年名古屋市航空写真
・蓬左文庫「尾州知多郡大高古城」
TH-cam:th-cam.com/video/PFZO56532L4/w-d-xo.html
【史跡大高城跡講演会】
大高城と尾張の中世城館(2021.09.18)
動画24:00-24:35と、、、から得られる城郭の位置情報と城郭機能の情報は、全て正確に一致しています。
豊臣方の有力大名が、徳川の、しかも家康ゆかりの大高城の「桶狭間の戦い」当時の縄張り情報を持っていた事に驚愕しています。
桶狭間住民の私は「大高城」と聞くと「大高イオン」をイメージしてしまう😂😂😂 バカですみません🙏
馬に乗って行けば良かったのにね〜、今川義元。そうしたら命は取られず、逃げられたかもしれないね?
今川義元、運がなかったね?可愛そうに。
秀吉は農民出身で代々仕えていた家来がいなかった。
家康にはそれが多かった。
その差で2代目以降に政権が引き継げた。
といった話を聞いたことが。
あやふやなので。
家康の代々の家来は何人くらいいたのですか?
教えて下さい。
それと今川の人質?となった時の松平家の地位は?
地方豪族程度ーーーということは?
それなら地方豪族の子弟を集めて寺子屋で。
他にも似たような立ち位置の者はいたのですか?
それと大阪夏の陣で豊臣方の秀頼直臣の活躍があまり描かれていませんが。
その兵数と主な武将の名を教えて下さい。
み かわではなく みかわです。
同じくお↗️かざきでなく おかざきです。イントネーションは大事ですのでお願いします。
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。
古地図と現在の地図を参考に
この時代は海抜何メートルまで海が。
そうなると関東は、関西は、中部地方は?
ここまで海岸線が。
その時代の日本の姿はこうだった。
日本全土は海岸線がこうなっていた。
現代の地図に重ね合わせると。
こうなる。
江戸城周辺は。
大阪城周辺は。
桶狭間は。
そういう事を書いた資料はありませんか?
年代毎にそのような地図があれば。
もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。
その地図をもとに。
信長は尾張を統一したのでしょ。
その翌年の保有兵力が2000?とは。
どの程度の兵力があれば統一できるのか。
信長の尾張統一過程で
どの程度の兵力を保有していたのか?
どのように増えていったのか。
教えて下さい。
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。
古地図と現在の地図を参考に
この時代は海抜何メートルまで海が。
1500年代ですか。
そうなると関東は、関西は、中部地方は?
ここまで海岸線が。
その時代の日本の姿はこうだった。
日本全土は海岸線がこうなっていた。
現代の地図に重ね合わせると。
こうなる。
江戸城周辺は。
大阪城周辺は。
桶狭間は。
そういう事を書いた資料はありませんか?
年代毎にそのような地図があれば。
もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。
その地図をもとに。
確定した話だけで終われませんか。幻想に税金かかる点についてどうおもいますか?
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?
上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。
それを大義名分に尾張侵攻を。
考えすぎですか。
尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。
上洛というのは道を開けてくれるようですし。
桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。
何もないのに上洛、上洛というのも。
尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。
信長の時は伊勢。
信玄には信濃ですか、三河ですか。
まあ勝手な思い込みです。
その時の将軍は足利義輝ですか?
もしそうならその後の織田との関係は?
このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。
信長が上洛する際は伊勢を。
信玄が上洛する際は信濃を。
ということはーーーないですか。
勝手な思い込みです。
それとこれも思い込みですが。
"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?
義元は大髙城へ向っていたようですが。
織田に横腹を突かれたーーーということですか?
話しを聞いていると
、分からない事ばかりじゃないか。