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大河ドラマで観ました。原田甲斐は平幹さん、伊達兵部が俳優座の先輩佐藤慶、他にも志村喬、など素晴らしい名優が演技を競いました、ラスト平さん、がこれで伊達百万石は安泰でございます、と言われて落命された。私は山本周五郎の、もみの木は残った、を二十歳過ぎて読み、大河ドラマ同様、感動しました。
「樅の木は残った」は確かに超名作やが、史実とは完璧に違う。原田甲斐は逆上して、刃傷に及んだのや。
「全ては、この原田甲斐の乱心でございます」そう言って絶命する平さん、カッコ良かったな🎵
山本周五郎の小説「椎ノ木は残った」でそれまで悪人として描かれてきた原田甲斐が伊達家取り潰しのの危機を救った大忠臣に変わりました
誰かがケリつけないと、幕府に取り潰しの口実を与えてしまうからねーそう考えるとね
当時、伊達家の人々も山本周五郎氏と同じ結論だったようです。それは死後の原田甲斐に対する彼らの態度に表れています。
樅ノ木は残っただね。ドラマで見た。
そのドラマはウソ800やで。
@@神戸屋著述堂 知っとるよ。お宅の意見は聞いてないよ。因みに、他の方に食って掛かってコメント消して逃げるなら始めからするなよ(笑)
幼君は歴史をみても利用されやすいからね。でもよかった改易されなくて。
大河ドラマのオープニングに出てくる能面が怖かった❗
伊達宗勝、一関。土佐山内家に預かり、。墓所はひっそりと山中にあります。地元でもあまり知られていないですよ
伊達騒動ですね 原田甲斐はそれまで言い伝えられたことが小説では逆転よくまあ取り潰されなかったものだと思います 大きすぎて潰せなかったというところでしょうか?
原田甲斐は遺伝的には伊達政宗の孫なんだと知った時の驚愕&暗澹とした気分…
今朗読チャンネルで「樅の木は残った」聞いてるけど、人物多すぎて全く把握できてない。この動画でちょっと理解できた。
「伽羅先代萩」腹が減ってもひもじゅうない
原田甲斐は領民には慕われていて、昭和の中頃に、甲斐の所領であった場所のお堂を改築したら、甲斐を慕う面々が侍中間、百姓にいたるまで供養に馳せ参じたとあります。逆賊であった甲斐をこのように手厚い供養を行うなど一角の人物であったと思うのです。山本周五郎の樅ノ木は残ったの通りとはおもいませんが、領民思いの甲斐が悪巧みを宗勝に与したとは思えないのです。
考えが甘い。原田はそんな敏腕ではなかった。もっと歴史を勉強すべし❗
@@神戸屋著述堂 これ原田が悪人かアホかわかりまへんが、連判状が出てきて事実としてNHKが報道しました。
明智光秀は領民に慕われていた吉良上野介は領民に慕われていた
@@けんちゃん-l7i 当時は封建社会。上には這いつくばって、忠誠心を見せているだけやで。
ナメ矢作め思い知るがいい
こんな小説を読んだ人が、これが史実だと思ってしまいますよ。山本周五郎「私は、これが史実だと思っています」
家綱時代、大藩の御家騒動として伊達(仙台)騒動と越後(高田)騒動があったが家綱の気性が優しかったこともあってかどちらも穏便に済ませている。弟綱吉五代将軍就任早々再従兄弟(はとこ)の越後藩松平光長は再審改易、仙台藩は既の所で再審改易を免れている。因みに宇和島伊達家の二代宗利の舅は光長であり、仙台伊達家三代綱宗従兄弟に当たる。伊達政宗の庶長子秀宗(宗勝長兄)と徳川家康の庶長子秀康(光長は家康の直曾孫)の夫々の家系が複雑に絡みあっている。高田城は伊達政宗が普請したという因縁からも何かと両藩は幕府にとって厄介な存在だったのでは。
家綱は酒井の言いなりやで。
@@神戸屋著述堂 そう、左樣せい樣。
綱吉と光長は従兄弟
@@北川裕治-l4g 光長の父忠直と母勝姫(秀忠娘、詰まり千姫等の妹であり家光や忠長や和子や正之等の姉に当たる)はいとこ(従兄弟)同士。勝姫と綱吉の父家光は姉弟ですから、女系では光長と綱吉は従兄弟。秀康の孫が光長、秀忠の孫が家綱、綱重、綱吉等だから男系では祖父が兄弟の再従兄弟、詰まり光長と綱吉は家康の曾孫に当たります。又八代将軍吉宗も家康曾孫に当たります。
@@wa33785 さん綱吉って会津の従兄弟には葵のご紋と松平の性を与えているのにね越後の従兄弟には厳しいですね将軍就任時に勝姫が存命ならば伯母上も同罪💢なんて言ったかも家光の子供4人で徳川一門のデカい後ろ盾がなく育ったのは綱吉だけ?千代は嫁ぎ先の尾張家綱は叔父の正之綱重は伯母の千姫綱吉には…いない?
伊達騒動有名だよな。天下に向けて「カロリーゼロ!」と喧伝したあの事件。幕府から「ちょっと何言ってるかわからない」と制せられた仙台の事件。
もみの木は残ったフィクションが勝手に過去の人物を改変評価するとはおちおち死ねないな
昔の大河ドラマみたけど、よくわからない😖。結局 重臣達の斬りあいになって、みんな死んでしまって、幼い藩主はお咎め無しで、大藩すぎて、おとりつぶし、は出来ずうやむやに…。っていう事なの
保科正之はまだ存命隣の藩で起きている騒動をどう見ていたんだ?大老の酒井忠清とは対立していたらしいので密かに伊達家に助け船を出していたかもしれない
保科は口先だけ。酒井にはかてない。
可能性はあるね。特に酒井は親藩であろうがなかろうが大藩は絶対潰すマンと言わんばかりの政治思想の持ち主だったから、保科から見れば平地に乱を起こしかねない男と言う目で見ていただろう。ちなみに家康も幕府にとっての真の敵は関が原で豊臣に味方した西国大名と見ていたらしいし、実際、明治維新でその予想が当たったのだから、酒井の思考は暴走でしかなかった。
実際は隣じゃない。会津藩の隣は米沢藩(上杉家)。でも保科は上杉家の存続にも尽力してる。結果、親類の吉良上野介(妻が綱勝の姉)の息子綱憲が継ぐが領地を半分にされた(関ヶ原で120万石から30万石に減らされたが更に福島一帯を没収されて米沢一帯の15万石に)。勿論、その影には当時、末期養子自体が前代未聞だったこと、加えて大老酒井忠清による大藩潰しも大きく影響したからだ。それに酒井は上杉家は家康時代から敵対的と見なしていたふしも。
伊達さんお家騒動多すぎじゃね?天分の大乱も起こしてるし
天文の乱は伊達家中が真っ二つに分かれた上に奥羽諸大名を巻き込む大乱に発展しており、規模からしてお家騒動というレベルではない気がします。あと「お家騒動」という言葉は江戸時代の大名家中の内紛のことを指し、戦国時代のそれには使わないと思います。
良く改易にならなかったな。
5代将軍の時代なら確実に改易、良くても減封処分。
@@ウッドリバー 五代将軍綱吉の時代の出来事だと思っていたが違ったのか。
どっちが本当に藩を思っていたのかわかりませんが真面目な将軍秀忠だったらこの裁定は出ないでしょうね。
山本周五郎「樅ノ木は残った」は名作ですけど、やはり政争は醜いものですね。初代藩主の末子が幕府重役と結んで本家を狙うお家騒動は真田家も有名ですな。┐(´д`)┌ヤレヤレ
長谷川一夫の映画も良かったな。
忠宗の嫡男でもある光宗が後を継いでいたらこのような騒動が起こらなかったと思います。綱宗が家督を相続したことを快く思わなかった物がいたことで騒動が起こったのではないでしょうか?
原田甲斐の仙台屋敷門は市内某寺院の山門として現在でも残ってます。が、門は罪人ということで上下表裏を逆にして移築されてます。でも、本当に罪人なら解体されてたと思うので、そこは何かあったと私は思ってます
その寺院は伊達家の菩提寺・壮厳寺でしょう?そんなところの山門に反逆者の遺物を用いるというのはあからさまにおかしな話ですよ。しかも逆に組んだというのは「原田甲斐は悪人と言われているがその逆の善人だった」という表現だと住職が語り継いで、今ではその伝承を石に刻んで見れるようになっているそうです。
@@tevalleyluckman8746 その山門の意味は「原田甲斐よ、お前は悪人やが、アホでもある。感情的になり刃傷したので、結果的に兵部も消えた。バカとハサミは塚いよう」という意味や。もっと猛勉強を所望😜
@@神戸屋著述堂 君はまずその嘘つき病を直してからモノを言え。
@@tevalleyluckman8746 へ。俺様との議論に負けたからといって、悔しがつてはアカンねん。原田は老中前で満足に答える事が出来なかった。だからヤケになって刃傷になっただけや。いろいろな後世の同情行為は、あくまで「お人好し同情」やで。😜
@@神戸屋著述堂 声を聞くことも顔色をうかがう事も出来ない江戸時代の人間の本音を、碌な補足説明も無しで断定するようでは、嘘つきのそしりは免れないね。ましてやその言い分が当時の人間が残した声なき声のような”仕組み”や”暗号”に符合していないのでは、「何も考えていない」と言う事になるよ。例え原田甲斐が宇宙人だろうが、王政復古の志士だろうが、我々は立場の異なる人々が残した様々な符合や記録や伝承を突き合わせた上で、幕府の目をおもんばかる立場にあった伊達家の人々が後世に何を示したかったのか?を推察するしかないんだよ。例え君に敵意を持つ人間が書いた記録で君が精神異常者だったという記録が世間に出回ったとしても、私は君の友人や知人や家族が残したメッセージや日記や芸術作品などを突き合わせながら検証した方が君の実像を知る上で正確だと考えるだろう。だからこそ、たとえその記録の中にひいき目の情報があったとしても、異なる性格や立場の人間達から出た証拠を突き合わせる分析の方が正確な結果を出せると思っている。戦国時代の言葉にも「間は複で取れ、複を照合せよ」というものがある。これは異なる視点からの情報を照合する方が正確だという諺だ。君もそういう発想を持つべきだろう。”視野の狭さ”は決して自慢のタネにはならないぞ。
いつの世でも派閥争いは起こります。そして、勝者の歴史が残る。
このしもぶくれな顔おじさんにそっくりだよおじさんも亡くなりになられました
涌谷伊達氏家臣の子孫です。裁定が下っている歴史的事実に山本周五郎は細君の出身地の原田甲斐の汚名をそそぐため樅の木は残ったを書いてもらったようです。小説で何を書こうと自由ですが、原田甲斐忠臣説はいただけません。私に実父は大河ドラマを見て激怒しておりました。領民全員の素朴な感想です。
山本周五郎著「樅の木は残った」は物語としては名作やが、史実としてはあまりにも無理が多過ぎる。酒井忠清が兵部に、伊達家半分を与えるという証文を書くわけがない。大老が自分の首を締める証文を、書くわけがない。「樅の木は残った」は、たとえ名作といえども、資料にしてはアカン。
江戸時代初期= 武断政治の頃 なら絶対即改易されてたと思います😱😄時代が 文治政治の頃だったのでとりあえず 伊達家は 改易 を免れただけだと思います😌伊達騒動の時期が、たまたま 良かったおかげで、 伊達家は助かったと思います😄
まさにギリギリのタイミングだったのだろうね。あの世の政宗公も胸をなでおろしただろう。
家康時代ならアウトだよね家康は難癖つけて政宗改易したがってたし幸い秀忠と家光が親政宗だったから止められたけど
@@もふもふ-x4p 家康 時代だったら アウトだったでしょうね😱
伊達安芸を亘理氏から藤原秀衡の子孫と説明しているが千葉氏流なので間違っているのでは。いつも、楽しくみています。
森鴎外の小説の 阿部一族 も解説希望です(_ _)
諸藩もまだまだ戦国の余風がなあ
「樅ノ木」は読めなかった
名作やで。ただし史実とは、完璧に違う。
すみません、史実と違います。
やまうち家じゃなく、やまのうち家
やまうちですよ子孫の方の話だと正式には「やまうち」だそうです
海鮮丼の負け嘘を知ったかで書くなよw
樅ノ木は残ったを学生時代に、読み嵌まりましたね。大河では平幹二朗さんが原田甲斐を渋く演じて酒井雅楽守を北大路さんが、演じて緊迫感溢れる名作でしたね。
名作やが史実ではなぃ原田を善玉にしたてあげた無理な筋書き。
原田の行動が 結果的にプラスになっただけだからね伊達に片倉 ありと言われた片倉家のことが微塵も乗ってないからね
@@神戸屋著述堂 死後の原田甲斐に対する伊達家の行動を見るとその名作が真実を突いていたと思うよ。一例をあげると仙台市青葉区新坂の荘厳寺の山門は、旧原田甲斐屋敷の門を再利用したものだ。 この門は逆臣の門ということもあって、全てが通常の反対の造りで再利用されており「逆さ門」と言い伝えられてきたけど、平成時代に解体修理された際、伝承どおり、上下左右が反対に組み立てられていたことが確認されていた。もし原田甲斐が、世に言われるような逆臣であれば、常識的に考えてそのような人物の門など再利用されるはずがないという人だっている。伊達家を二つに割き、多くの犠牲を出した事件で、全ての泥をかぶって死んだ男の屋敷門をあえて用い、表向きの悪人という評価が実は逆であるという意味を込めて逆に作ったのだという言い伝えを壮厳寺の住職も伝えている。
@@tevalleyluckman8746 原田の刃傷の理由は、ただ弁明が出来なくなって感情的になっただけ。しかし結果的に悪の兵部が追放されたから、その山門は正しく作られたにすぎない。原田はアホやが、「結果的に」伊達家のためになっただけやで。
@@神戸屋著述堂 感情的になったぁ?・・・君は彼の顔色の変化や様相を実際に目で見たと言い張るのだね。白昼夢でも見たの?それと住職が言い伝えて来たことを自説に合わせて軽々しく捻じ曲げるんじゃない。住職は寺の言い伝えとしてはっきりと「悪を逆にして善であるという意味を込めて」と石に刻んで残したくらいなのだから君の意見とは違いすぎる。当時の幕府が軽々しく藩を潰したり、減封処分にしてきたことをよく考えた上で、当時の状況を考えた方が良いと思う。それとも政治と言うものを知らないのか?何よりも原田甲斐がアホかどうかは、実際に彼の人となりを見て来た人が書き記したことを見た限りでは明らかに違うと思う。さらに言うと今生きて目の前にいる人間の顔の皮膚一枚の下の本心さえ読み取るのは難しいというのに、何百年も昔に生きていた人間の気質について、当時彼に接してきた人間の証言を無視してまで、軽々しく貶めるのは、君自身が軽佻浮薄な性情の持ち主だとしか思えないね。それに私は死後、その首を秘かな形とはいえ、東陽寺の裏に葬られるほど家臣に慕われていたような人間が唯の乱心者とは思えないし、何よりも、後に東陽寺が現在地に移った際、その首を梵鐘に隠す形で運ばれて本堂の裏に密葬されるような配慮をしてもらったという事実は、やはり公式発表では収まらない物語があったと思うよ。少なくとも”原田甲斐が忠臣だった”などと伊達家が発表しようものなら、幕府の面目を潰してしまうような状況だったからこその密葬だったと私は見ている。
大河ドラマで観ました。原田甲斐は平幹さん、伊達兵部が俳優座の先輩佐藤慶、他にも志村喬、など素晴らしい名優が演技を競いました、ラスト平さん、がこれで伊達百万石は安泰でございます、と言われて落命された。私は山本周五郎の、もみの木は残った、を二十歳過ぎて読み、大河ドラマ同様、感動しました。
「樅の木は残った」は確かに超名作やが、史実とは完璧に違う。
原田甲斐は逆上して、刃傷に及んだのや。
「全ては、この原田甲斐の乱心でございます」
そう言って絶命する平さん、カッコ良かったな🎵
山本周五郎の小説「椎ノ木は残った」でそれまで悪人として描かれてきた原田甲斐が伊達家取り潰しのの危機を救った大忠臣に変わりました
誰かがケリつけないと、幕府に取り潰しの口実を与えてしまうからねーそう考えるとね
当時、伊達家の人々も山本周五郎氏と同じ結論だったようです。
それは死後の原田甲斐に対する彼らの態度に表れています。
樅ノ木は残っただね。
ドラマで見た。
そのドラマはウソ800やで。
@@神戸屋著述堂
知っとるよ。
お宅の意見は聞いてないよ。
因みに、他の方に食って掛かってコメント消して逃げるなら始めからするなよ(笑)
幼君は歴史をみても利用されやすいからね。でもよかった改易されなくて。
大河ドラマのオープニングに出てくる能面が怖かった❗
伊達宗勝、一関。土佐山内家に預かり、。墓所はひっそりと山中にあります。
地元でもあまり知られていないですよ
伊達騒動ですね 原田甲斐はそれまで言い伝えられたことが小説では逆転
よくまあ取り潰されなかったものだと思います 大きすぎて潰せなかったというところでしょうか?
原田甲斐は遺伝的には伊達政宗の孫なんだと知った時の驚愕&暗澹とした気分…
今朗読チャンネルで「樅の木は残った」聞いてるけど、人物多すぎて全く把握できてない。
この動画でちょっと理解できた。
「伽羅先代萩」腹が減ってもひもじゅうない
原田甲斐は領民には慕われていて、昭和の中頃に、甲斐の所領であった場所のお堂を改築したら、甲斐を慕う面々が侍中間、百姓にいたるまで供養に馳せ参じたとあります。逆賊であった甲斐をこのように手厚い供養を行うなど一角の人物であったと思うのです。山本周五郎の樅ノ木は残ったの通りとはおもいませんが、領民思いの甲斐が悪巧みを宗勝に与したとは思えないのです。
考えが甘い。
原田はそんな敏腕ではなかった。
もっと歴史を勉強すべし❗
@@神戸屋著述堂 これ原田が悪人かアホかわかりまへんが、連判状が出てきて事実としてNHKが報道しました。
明智光秀は領民に慕われていた
吉良上野介は領民に慕われていた
@@けんちゃん-l7i
当時は封建社会。上には這いつくばって、忠誠心を見せているだけやで。
ナメ矢作め思い知るがいい
こんな小説を読んだ人が、これが史実だと思ってしまいますよ。山本周五郎「私は、これが史実だと思っています」
家綱時代、大藩の御家騒動として伊達(仙台)騒動と越後(高田)騒動があったが家綱の気性が優しかったこともあってかどちらも穏便に済ませている。弟綱吉五代将軍就任早々再従兄弟(はとこ)の越後藩松平光長は再審改易、仙台藩は既の所で再審改易を免れている。因みに宇和島伊達家の二代宗利の舅は光長であり、仙台伊達家三代綱宗従兄弟に当たる。伊達政宗の庶長子秀宗(宗勝長兄)と徳川家康の庶長子秀康(光長は家康の直曾孫)の夫々の家系が複雑に絡みあっている。高田城は伊達政宗が普請したという因縁からも何かと両藩は幕府にとって厄介な存在だったのでは。
家綱は酒井の言いなりやで。
@@神戸屋著述堂 そう、左樣せい樣。
綱吉と光長は従兄弟
@@北川裕治-l4g 光長の父忠直と母勝姫(秀忠娘、詰まり千姫等の妹であり家光や忠長や和子や正之等の姉に当たる)はいとこ(従兄弟)同士。勝姫と綱吉の父家光は姉弟ですから、女系では光長と綱吉は従兄弟。秀康の孫が光長、秀忠の孫が家綱、綱重、綱吉等だから男系では祖父が兄弟の再従兄弟、詰まり光長と綱吉は家康の曾孫に当たります。又八代将軍吉宗も家康曾孫に当たります。
@@wa33785 さん
綱吉って
会津の従兄弟には
葵のご紋と松平の性を
与えているのにね
越後の従兄弟には
厳しいですね
将軍就任時に
勝姫が存命ならば
伯母上も同罪💢
なんて言ったかも
家光の子供4人で
徳川一門の
デカい後ろ盾がなく
育ったのは綱吉だけ?
千代は嫁ぎ先の尾張
家綱は叔父の正之
綱重は伯母の千姫
綱吉には…いない?
伊達騒動有名だよな。天下に向けて「カロリーゼロ!」と喧伝したあの事件。
幕府から「ちょっと何言ってるかわからない」と制せられた仙台の事件。
もみの木は残った
フィクションが勝手に過去の人物を改変評価するとはおちおち死ねないな
昔の大河ドラマみたけど、よくわからない😖。
結局 重臣達の斬りあいになって、みんな死んでしまって、幼い藩主はお咎め無しで、大藩すぎて、おとりつぶし、は出来ずうやむやに…。っていう事なの
保科正之はまだ存命
隣の藩で起きている
騒動をどう見ていたんだ?
大老の酒井忠清とは
対立していたらしいので
密かに伊達家に助け船を
出していたかもしれない
保科は口先だけ。
酒井にはかてない。
可能性はあるね。
特に酒井は親藩であろうがなかろうが大藩は絶対潰すマンと言わんばかりの政治思想の持ち主だったから、保科から見れば平地に乱を起こしかねない男と言う目で見ていただろう。
ちなみに家康も幕府にとっての真の敵は関が原で豊臣に味方した西国大名と見ていたらしいし、実際、明治維新でその予想が当たったのだから、酒井の思考は暴走でしかなかった。
実際は隣じゃない。会津藩の隣は米沢藩(上杉家)。でも保科は上杉家の存続にも尽力してる。結果、親類の吉良上野介(妻が綱勝の姉)の息子綱憲が継ぐが領地を半分にされた(関ヶ原で120万石から30万石に減らされたが更に福島一帯を没収されて米沢一帯の15万石に)。勿論、その影には当時、末期養子自体が前代未聞だったこと、加えて大老酒井忠清による大藩潰しも大きく影響したからだ。それに酒井は上杉家は家康時代から敵対的と見なしていたふしも。
伊達さんお家騒動多すぎじゃね?
天分の大乱も起こしてるし
天文の乱は伊達家中が真っ二つに分かれた上に奥羽諸大名を巻き込む大乱に発展しており、規模からしてお家騒動というレベルではない気がします。
あと「お家騒動」という言葉は江戸時代の大名家中の内紛のことを指し、戦国時代のそれには使わないと思います。
良く改易にならなかったな。
5代将軍の時代なら確実に改易、良くても減封処分。
@@ウッドリバー 五代将軍綱吉の時代の出来事だと思っていたが違ったのか。
どっちが本当に藩を思っていたのかわかりませんが真面目な将軍秀忠だったらこの裁定は出ないでしょうね。
山本周五郎「樅ノ木は残った」は名作ですけど、やはり政争は醜いものですね。初代藩主の末子が幕府重役と結んで本家を狙うお家騒動は真田家も有名ですな。┐(´д`)┌ヤレヤレ
長谷川一夫の映画も良かったな。
忠宗の嫡男でもある光宗が後を継いでいたらこのような騒動が起こらなかったと思います。
綱宗が家督を相続したことを快く思わなかった物がいたことで騒動が起こったのではないでしょうか?
原田甲斐の仙台屋敷門は市内某寺院の山門として現在でも残ってます。
が、門は罪人ということで上下表裏を逆にして移築されてます。
でも、本当に罪人なら解体されてたと思うので、そこは何かあったと私は思ってます
その寺院は伊達家の菩提寺・壮厳寺でしょう?
そんなところの山門に反逆者の遺物を用いるというのはあからさまにおかしな話ですよ。
しかも逆に組んだというのは「原田甲斐は悪人と言われているがその逆の善人だった」という表現だと住職が語り継いで、今ではその伝承を石に刻んで見れるようになっているそうです。
@@tevalleyluckman8746
その山門の意味は「原田甲斐よ、お前は悪人やが、アホでもある。感情的になり刃傷したので、結果的に兵部も消えた。バカとハサミは塚いよう」という意味や。
もっと猛勉強を所望😜
@@神戸屋著述堂
君はまずその嘘つき病を直してからモノを言え。
@@tevalleyluckman8746 へ。
俺様との議論に負けたからといって、悔しがつてはアカンねん。
原田は老中前で満足に答える事が出来なかった。だからヤケになって刃傷になっただけや。
いろいろな後世の同情行為は、あくまで「お人好し同情」やで。😜
@@神戸屋著述堂
声を聞くことも顔色をうかがう事も出来ない江戸時代の人間の本音を、碌な補足説明も無しで断定するようでは、嘘つきのそしりは免れないね。
ましてやその言い分が当時の人間が残した声なき声のような”仕組み”や”暗号”に符合していないのでは、「何も考えていない」と言う事になるよ。
例え原田甲斐が宇宙人だろうが、王政復古の志士だろうが、我々は立場の異なる人々が残した様々な符合や記録や伝承を突き合わせた上で、幕府の目をおもんばかる立場にあった伊達家の人々が後世に何を示したかったのか?を推察するしかないんだよ。
例え君に敵意を持つ人間が書いた記録で君が精神異常者だったという記録が世間に出回ったとしても、私は君の友人や知人や家族が残したメッセージや日記や芸術作品などを突き合わせながら検証した方が君の実像を知る上で正確だと考えるだろう。
だからこそ、たとえその記録の中にひいき目の情報があったとしても、異なる性格や立場の人間達から出た証拠を突き合わせる分析の方が正確な結果を出せると思っている。
戦国時代の言葉にも「間は複で取れ、複を照合せよ」というものがある。これは異なる視点からの情報を照合する方が正確だという諺だ。君もそういう発想を持つべきだろう。
”視野の狭さ”は決して自慢のタネにはならないぞ。
いつの世でも派閥争いは起こります。そして、勝者の歴史が残る。
このしもぶくれな顔おじさんにそっくりだよおじさんも亡くなりになられました
涌谷伊達氏家臣の子孫です。裁定が下っている歴史的事実に山本周五郎は細君の出身地の原田甲斐の汚名をそそぐため樅の木は残ったを書いてもらったようです。小説で何を書こうと自由ですが、原田甲斐忠臣説はいただけません。私に実父は大河ドラマを見て激怒しておりました。領民全員の素朴な感想です。
山本周五郎著「樅の木は残った」は物語としては名作やが、史実としてはあまりにも無理が多過ぎる。
酒井忠清が兵部に、伊達家半分を与えるという証文を書くわけがない。大老が自分の首を締める証文を、書くわけがない。
「樅の木は残った」は、たとえ名作といえども、資料にしてはアカン。
江戸時代初期= 武断政治の頃 なら絶対即改易されてたと思います😱😄
時代が 文治政治の頃だったので
とりあえず 伊達家は 改易 を免れただけだと思います😌
伊達騒動の時期が、たまたま 良かったおかげで、 伊達家は助かったと思います😄
まさにギリギリのタイミングだったのだろうね。
あの世の政宗公も胸をなでおろしただろう。
家康時代ならアウトだよね
家康は難癖つけて政宗改易したがってたし
幸い秀忠と家光が親政宗だったから止められたけど
@@もふもふ-x4p
家康 時代だったら アウトだったでしょうね😱
伊達安芸を亘理氏から藤原秀衡の子孫と説明しているが千葉氏流なので間違っているのでは。いつも、楽しくみています。
森鴎外の小説の 阿部一族 も解説希望です(_ _)
諸藩もまだまだ戦国の余風がなあ
「樅ノ木」は読めなかった
名作やで。
ただし史実とは、完璧に違う。
すみません、史実と違います。
やまうち家じゃなく、やまのうち家
やまうちですよ
子孫の方の話だと正式には「やまうち」だそうです
海鮮丼の負け
嘘を知ったかで書くなよw
樅ノ木は残ったを学生時代に、
読み嵌まりましたね。
大河では平幹二朗さんが原田甲斐を
渋く演じて酒井雅楽守を北大路さんが、
演じて緊迫感溢れる名作でしたね。
名作やが史実ではなぃ
原田を善玉にしたてあげた無理な筋書き。
原田の行動が 結果的にプラスになっただけだからね伊達に片倉 ありと言われた
片倉家のことが微塵も乗ってないからね
@@神戸屋著述堂 死後の原田甲斐に対する伊達家の行動を見るとその名作が真実を突いていたと思うよ。
一例をあげると仙台市青葉区新坂の荘厳寺の山門は、旧原田甲斐屋敷の門を再利用したものだ。
この門は逆臣の門ということもあって、全てが通常の反対の造りで再利用されており「逆さ門」と言い伝えられてきたけど、平成時代に解体修理された際、伝承どおり、上下左右が反対に組み立てられていたことが確認されていた。
もし原田甲斐が、世に言われるような逆臣であれば、常識的に考えてそのような人物の門など再利用されるはずがないという人だっている。
伊達家を二つに割き、多くの犠牲を出した事件で、全ての泥をかぶって死んだ男の屋敷門をあえて用い、表向きの悪人という評価が実は逆であるという意味を込めて逆に作ったのだという言い伝えを壮厳寺の住職も伝えている。
@@tevalleyluckman8746
原田の刃傷の理由は、ただ弁明が出来なくなって感情的になっただけ。
しかし結果的に悪の兵部が追放されたから、その山門は正しく作られたにすぎない。
原田はアホやが、「結果的に」伊達家のためになっただけやで。
@@神戸屋著述堂
感情的になったぁ?・・・君は彼の顔色の変化や様相を実際に目で見たと言い張るのだね。白昼夢でも見たの?
それと住職が言い伝えて来たことを自説に合わせて軽々しく捻じ曲げるんじゃない。住職は寺の言い伝えとしてはっきりと「悪を逆にして善であるという意味を込めて」と石に刻んで残したくらいなのだから君の意見とは違いすぎる。
当時の幕府が軽々しく藩を潰したり、減封処分にしてきたことをよく考えた上で、当時の状況を考えた方が良いと思う。
それとも政治と言うものを知らないのか?
何よりも原田甲斐がアホかどうかは、実際に彼の人となりを見て来た人が書き記したことを見た限りでは明らかに違うと思う。
さらに言うと今生きて目の前にいる人間の顔の皮膚一枚の下の本心さえ読み取るのは難しいというのに、何百年も昔に生きていた人間の気質について、当時彼に接してきた人間の証言を無視してまで、軽々しく貶めるのは、君自身が軽佻浮薄な性情の持ち主だとしか思えないね。
それに私は死後、その首を秘かな形とはいえ、東陽寺の裏に葬られるほど家臣に慕われていたような人間が唯の乱心者とは思えないし、何よりも、後に東陽寺が現在地に移った際、その首を梵鐘に隠す形で運ばれて本堂の裏に密葬されるような配慮をしてもらったという事実は、やはり公式発表では収まらない物語があったと思うよ。
少なくとも”原田甲斐が忠臣だった”などと伊達家が発表しようものなら、幕府の面目を潰してしまうような状況だったからこその密葬だったと私は見ている。