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やたら神格化や魔王化されてる信長より、こっちの信長の方が人間臭くて共感持てるな
この戦いシリーズ、武将の心理とかが分かりやすくて好き時々みせる、鼻水とかよだれとか、心理状態が分かりやすい
主要人物が、どいつもこいつも鼻水とヨダレ垂らしているのが面白い🤣
鼻水とヨダレと白目が、内心をリアルに表現していて秀逸
漫☆画太郎の影響だね。
妙にリアリティーがあって説得力がある。面白いよ。
交感神経から副交感神経のゆりもどしのくだりめちゃ好き。
どっちが腐れ外道なのか、もうよく分からない所が最高。
最高のクオリティーです。これからの作品を楽しみにしております!(^^)
素晴らしい動画です。絵もよく話もわかりやすい。チャンネル登録しました。
まあ桶狭間の戦いはマジで織田信長に運が味方したからなあ
ヤクザ漫画のようなテイストがいいですね。実際似たようなものだったでしょうし。
ヨダレとかも面白いのですけど、桶狭間の戦いのきっかけになった今川西上の理由がよかった。司馬遼太郎ですら上洛が目的とか言ってた気がします。それにしては斎藤や朝倉や六角、三好などなど、今川が外交してる気配はなさそうだったし。今までの説の中でも今回の動画の大高城の救援が一番しっくりきました。
どうしたこのチャンネルガラッと代えてきたな…
新説!面白いです!動画ありがとう御座います!
名古屋市南区あたりがまだ海や川だったんだよな東海市、知多市も海岸線は東側だった
じわじわくる
テンポ良い解説なので見る気にさせてくれます。当事者と側近の作戦討議のやり取りもリアルです。
戦国時代の、しかも足軽達が交感神経と副交感神経を知ってるのはwww
わかりやすいよく勝てたなと
豪雨という幸運を活かして義元を討ち取れたのは、日頃から将兵を鍛錬していたからこそ出来た。
やはり、この戦いは「ラッキーパンチ的電撃戦」みたいな感じでしたな😃 それにしても、特に梁田某もなかなかやるよねぇ👍️ NHK大河ドラマ「武田信玄」の該当画面のシーン+「信長」の該当画面の最後のシーン+α的みたいなイメージでみるとなかなか面白いですよねw🖐️にしても、義元も呑気に酒宴なんか開いてドンチャン騒ぎみたいなことをして能天気に舞まで舞ってるような場合でもネェだろうに😅 一瞬の気の緩みがとんだ災難まで招いてしまいましたな💦 クワバラクワバラ(激謎
名古屋広域圏育ちの者です。 あの酒宴に出た酒が地元住民や神社神主辺りが進上したモノであり信長の使嗾(~若しくは無関係でも今川支配に入った後を考えた、旨の可能性アリ)で宛がわれた足止め目的の酒であった、との話を現地周辺で伺っており、三河蒲郡出身の終戦時陸軍中佐で戦後は経営者の大橋武夫先生は「織田方の工作」と断言していたりします。近年作成の動画や著述は、当時の地形や海岸線、河川流路等を史実に則した体裁になっていて本当に良くなりました。昭和期までの書籍は明治維新以降の地図だけしか見ていない様な記述が到る処で散見されて、地元~近隣住民には失笑するしかない水準のモノが多過ぎましたw
大変ためになりました。今川の方が深慮遠謀な感じですね。今川は、信長が自分程度に深慮遠謀で、罠を仕掛けたりしてると思って後退し安全策を取ったところ、策を弄するより奇襲攻撃という方針の信長の作戦がまぐれ当たりしたみたいな感じでしょうか?。今川は、自信の慎重さと、信長の行動の読みが外れて、負けてしまったんですね。
ちょっと違うかも知れませんけど、義元は「策士策に溺れ」てしまった感がありますね。
@@AtsushiMizobe さんたしかに、策に溺れたのかもしれませんね。最初から奇襲する予定だったので、織田軍の砦を簡単に落とせて、今川の戦線が延長しており、軍隊の連携が難しくなってしまいました。なんとなく異様に思った義元は、本陣のみを撤退させ、余計今川大軍の連携が取れなくなってしまいました。織田軍の罠ではなく、奇襲の準備してただけなのですが、罠と勘違いした義元は余計奇襲しやすい状況を作った感がしますね。
@@hirofumihorio3471 視界の悪い後方への本陣のみの撤退は、この説の不自然さを表していると思います。義元が大高城に向かう途上の昼の休憩中に信長の攻撃を受けた説の方が矛盾がない気がします。そして、信長は義元の本陣位置を把握していたのは間違いないです。
実際 今川を蹴散らして さっさと駿府へ帰ってもらえたら万々歳だったと言うね。それがまさかの王手だもん大金星だよね
(チラッとだけど)湿地の話が出ていて嬉しいな。昔「歴史への招待」という番組で、湿地を一要因として取り上げていたのに、その後、あまり取り上げられるのを見なかったので(笑)。山・谷は遠目にも観測できるが、足を踏み込んで初めてわかるような雨などで増減する湿地・沼の広がりって、当時の行軍‣陣地構築には相当厄介だったと思う。敵は見えているが援軍に駆け付けたり、退却しようにも先頭の兵が足を取られて渋滞起こして動けん…みたいに。熟知する地元民の協力をどちらが得るかの勝負か。その情報戦も描いてほしかった。
名古屋広域圏育ちで、成人後に原付で周囲を縦走し、「根(小山)と久手(窪地/低地)が多い」と云う記述を実感致しました。ああいう高低差の錯綜した地形、海が近く藪を形成する草木の育ちも良い、更に低地=湿地になる場所、で戦うとなれば地元民の優位は通常以上になる訳で遠征/侵攻軍側が迎撃を受けて大損害に到る実証例だったと見ます。
@@harima1330057実地で体験できたのはうらやましいです、私も行かねば(笑)。地図や航空写真では分かりにくいですからね。情報収集というと忍者?斥候的な発想をしがちですが、それより地元民の支持・協力を得る方が圧倒的に強いでしょうね。会津戦争でも官軍は地元の村々に酒・金品を配ってアウェーの不利を無くすことに尽力していたと本で読んだことあります。
ギャグ顔が心理状態をよく表していて面白いですね。
今川義元さん、知略も戦略もいい感じだったけど、最後の最後で油断したか。織田信長さんも勢いで行った感じが新鮮だわ。この視点で大河見てみたいな。
「元康、おみゃあ、駿河のお殿様のご恩が、まだわからにゃーか!!」
最後に男食(ホモ)が出てきて草
うp主様の茶番が秀逸すぎる今川方雑兵の交感神経~略奪したいの下りと信長の今まで散々男色してきたけど~の下りで思わず噴いたw動画中の義元のセリフ通り戦略に瑕疵はなかったと思うのですが気になるのが合戦当日の義元本陣の進路おそらく私の解釈が的外れなだけなのだが理解が及ばない名古屋市の南半分くらいは江戸時代以降の埋め立て地なので現在と地形(特に海岸線)が違い私は当時の正確な地形を把握できていないのですが現在は宅地造成され平らになっているが当時は丘陵地域沓掛城(城址公園より西に約200mにそれらしい遺構がある説もあるのでそちらか?)から漆山(名鉄左京山駅と緑区区役所間、手越川を挟んで中島砦推定地のすぐ傍、鳴海城址まで約6、700m、大高城址まで約1㎞)までは直線距離では約3㎞強だが直線でつなぐ道が見当たらない比較的直線ルートに近いのは鎌倉街道を道なりに西進このルートなら問題なく2時間で移動できるだろうが途中で道を逸れ南下しないと善照寺に出てしまう南からの迂回ルート東浦街道→東海道(少人数なら2時間で漆山へ到達可能だが当時の東海道は整備が不十分で大軍だと渋滞が起きるか?ただ、豊明市の古戦場伝説地を通る)東浦街道→大高道(いわゆるおけはざま山と推定される緑区の古戦場公園の脇を通過するが、遠回りし過ぎで2時間で漆山到達は全軍で駆け足しないとできない 戦術機動ならまだしも行軍で駆け足はよほど急ぐ理由がないと考えづらい)『三河物語』がどの程度信頼できるか問題だがそこの記述のような合戦前日に大高城に入って当日は大高城→漆山→東へ撤退(?)のほうがまだ無理のない経路設定のようがしますし大軍で大高城の付け城を攻略もできるでしょうし合戦当日、夜明け前からの朝駆けや行軍の疲労が蓄積されたため苦戦し敗走したとも妄想できるような気がします
珍遊記みたいな表情になるのがいいわ
キャラクター、変わりましたな。生き残るためにか。
youtubeも戦国時代w、手を変え品を変え視聴者を飽きさせない戦略なのかも
今川家最大の失敗は本拠地を駿河し続けたのだと個人的に思います。同盟相手とはいえ甲斐武田と距離が近すぎるし最前線の三河まで遠すぎます。
確かに、松平家を取り込む意味で岡崎城に本拠を移す事はできなかったんでしょうけど、駿河衆と遠江衆の対立が酷くなかったら、引馬城か、掛川城あたりに本拠を移していた方が良かったかもしれませんね。
氏真を駿府で義元は隠居して浜松で上洛の準備なら確かにいいかも
新興勢力で成功を収めた戦国大名であればこそ出来る~出来たからこそ成功に到った、と云えるのが「本拠地の移動」ですね。武田、上杉、今川、北条(小田原に入って以降) と勢力拡大は出来ても何処か「もっと行けたのでは?」と考えさせる御家の成長限界上限値を設定してしまうのが”動かせない本拠地と前線までの距離増大”にあると見るのは充分な妥当性を感じます。
今川義元は勝ちすぎたんだな
信長の下へ3000人も集まったと言う事が結構な奇跡ですからここら辺に信長って人に義元さんに無い何かが有った気がしますね。
地元民、迎撃側、の長所ですね。 策源地からの距離が近い場合は通常の動員限界を超えた兵数を集める事は難しくなく、遠征側は策源地からの距離の増大で兵站への負荷が増大しどうしても兵数上限が厳しくなります。加えて、尾張上四郡の米収穫量、熱田&津島の商港交易収入等で織田家の動員力は早い段階から意外に大きかった事実も有ります。 また、特筆すべきは信長直卒の兵団が事実上、完全専一の「純戦闘部隊」として(短時日の前提で)運用出来た事は、公称値2万に届く今川軍兵力も相当数が士気や練度、忠誠心に疑問の残る占領地徴募兵、更には小荷駄や占領支配用駐留兵等の数も多く純然たる「戦闘部隊」としての兵数は意外に割合としては高くなかった可能性が指摘出来ます。以上の点を踏まえて、更には現地の地勢や当日の天候、諜報能力、周辺住民の向背など多くの「地元/迎撃側有利、侵攻側不利」の条件が重なった事に依って本隊vs本隊の直接戦闘に於いて今川義元敗死と云う結果に到った旨、元名古屋広域圏育ちの身は考えております。
髙根山を迂回するって簡単にいうけれど、義元の本陣と髙根山の今川軍の間に入る(つまり挟撃される)ということで、そっちも尋常な度胸じゃないよなあ。
獣道しかない山道、進軍、後退は、大変だったはず、
後世の創作だと、信長がいろいろ計算してたみたいに描かれることもあるけど。実際は、その場の戦況に応じて、必死に行動してたら、たまたま運よく勝利した。それが真実なんだろうね。
実際前線に出てから敵軍の配置を大まかに把握してのまずは本隊正面(後退しつつあった為後詰軍)からの強襲だよね、その後義元の位置を把握し天候を利用して迂回し側面から奇襲をかけた感じ。最初の強襲を成功させたのは運だけでなく尾張統一期の信長本隊が強かったから、信長自身が直接指揮した時って実はかなり強いんだよね。
後詰がない中で籠城するのは愚の骨頂というものですね。
久ですね。嬉しいな。
今川は大軍の圧力で織田の城を奪って、信長の選択肢を奪い続けて、戦局を優位に進めていたが、最後に油断したスキを信長に突かれて破れた印象。もし今川が油断せず本陣を適正な場所に布陣してたら、信長の突撃も失敗して歴史が変わったかもしれない。
今川は天才
上様も動員兵力が少ない若い頃は家臣と共に前線で危険な戦いを繰り返してるよね。
織田信長の本当の偉大さは、戦術指揮官としては2000~3000程度の兵数を上限に自らの手足の如く自在に動かして多少の兵力差を覆せる水準、である事を早くに自認して、上洛戦以降は基本的に戦略体制と大兵力、兵站や兵装の整備と云う方面に重心を移す”戦略型指揮官への脱皮”を成功させた点にある旨、御教示を受けた事が御在ます。それでも、金ヶ崎撤退や天王寺戦などの局面に於いては戦術指揮官型の行動を取っていますが、その際には往年の戦術的能力を発揮し目的の達成が出来ている事は、もう少し脚光を浴びて良さそうです。
千秋、佐々は注目を逸らす揺動だと思いますよ。それと現地を見れば解りますが、桶狭間の神明社が今川義元休息地で奇襲を受け、沓掛城まで引き返す途中で支えきれなくなり田楽狭間の寺に入る直前で討ち取られてると思います。その詳細を梁田政綱や蜂須賀等の国衆が逐一報告してたでしょうが、現地に行くと当時は林道が毛細血管の様に尾根と言う尾根に広がり織田軍が散り散りに蟻が群がる様にテロ戦術で今川本陣にタカるとかなり混乱し、合戦のセオリーとも違いハチャメチャに成ったはずです。山歩き趣味の人はよき知ってますが江戸期より昔の道は一筋の街道ではなく間道の様な尾根道が無数に広がり進みやすい道をチョイスする感じで、近世〜現代の平地の街道の認識とも違いますし。役小角さん行基菩薩や若光高麗王や弘法大師さんが整備したり、一遍さんや日蓮さんが歩いた山の道筋を知った上で桶狭間の神明社に行き周りの藪を歩くと良く当時の景色が見えるかと思いますよ。揺動部隊以外が山の道筋を幾筋にも分散し群がったなら雨天で音も消えて全く織田軍の行動なんか見えなかったでしょうね。ホームタウンの利ですわ。
左様で御在ます。 周辺(知多半島)育ちで成人後に原付で縦走した時に地形/高低差の錯綜や当時の道路事情を考察して至極納得が行きました。 ああいう錯綜した地形と天候条件など多くの要因が「ホーム側有利、アウェー側不利」を強調した結果と思いました。
こう見ると義元も土壇場でけっこうやらかしてるよね見通しが悪いとわかって居ながら隊同時の連携が取れないレベルまで離れるのは奇襲してくれと言ってるようなもの
よだれが秀逸😀
面白い
今川義元老けすぎ享年42だぞ…
あもしろーい😆
あれ?一番の手柄って義元の本陣を見つけた人でしょ?
ふむ、海軍を元康の後続としたのですね。しかし、元康の時に陸海2方面同時作戦で信長を混乱させた方が効果的だった気がします。海側からも上陸され陸側からも本体が来れば信長は本体と交戦中に挟撃される恐怖で思い切った全軍突撃は出来なかったと思います。もっとも、信長も突撃したのが本体だとは思って無くて出鼻をくじいて追い払えればラッキー程度に思ってた様ですから、桶狭間での勝利は奇跡の第1歩では有りましたね。しかし、やはり油断が有ったとは言へ海軍を上陸させなかったのは失敗でしたね。此の辺りの事情がイマイチハッキリしないのが今も気に為る所ですね。
今川の水軍戦力は伊勢湾内まで自力で来れていたか?に疑問が残ります。渥美半島の戸田氏や知多半島の水野氏、津島や熱田と反目する船手衆など地元の水上勢力を時宜折々で傭徴していた、と見る方が自然に思えます。
この棒読みが段々癖になってくるw
8:30じんかんって読みは必ずしも間違ってないんだな🤔慣れって恐ろしい😅
間違いだよ。にんげん読みが正しい。じんかん読みが普及するのは明治以降だしね。少なくとも信長の時代は、仏教用語の「人間」は呉音の「にんげん」読みだね。幸若舞が、にんげん読みなのもそういう理由。
1:34 はぁい?の反応が面白い🤣
15:22 当時の今川方の本陣は田楽狭間に置かれていたはず。俗称である桶狭間は田楽狭間から数間離れた所です。一次資料にも田楽狭間と明記されているにもかかわらず、何故、桶狭間と書くのか不思議でなりません。
孫子の兵法では、桶狭間は窮地と言って大軍が近づいてはいけない場所に該当する。義元の失敗は地形の入り組んだ場所に進軍してしまったこと。これでは大軍の意味がなくなってしまう。
全く以て、その通りで御在ます。 現地に原付/電動自転車で赴いて眺めれば一発で理解出来ますが高低差の錯綜と、通りそうで通らない視程(逆に意外な距離で見える角度が有る)等の地形的条件は地元側が充分な準備と精兵の錬磨が有った場合には極めて大きな「迎撃側/地元民有利・侵攻側不利」を顕現してしまいます。本戦は多くの条件的有利を積み重ねた上で更に天運まで味方した信長が不利を緩和克服する尽力が届かなかった義元を討てた、と見るのが妥当であって、昭和までのステレオタイプな「ラッキーヒット」「凄い幸運」ではなく、事前の準備と条件構築が有った事をもう少し、世間に広まって欲しくあります。
あへ顔が良かったです
ナレーション絵クォリティーが高くなってる😅
迂回ではなく、正面攻撃が現在の説。
よだれいいね!👍
信長さん…滝田栄さんのようなお声の方ですね。
おもしろかった(小並感)
これ、読み上げアプリかなんか?知ってる人教えてー。
今より、この頃の画とヨダレと「腐れ外道」の方が面白くて何度も見返しています。
今川が油断しおった。信長も用意周到に攻めた。みごとに。これで 天下がうごいた。あの大代名が、まさか?
思惑が面白いな
戦国大名の戦死って本当に稀なんだよね大抵は降伏するからそれだけ義元が油断していたのかまあ、武田勝頼あたりも実質的に戦死だけど
この当時でさえも、信長自身も勝てるなんて思わなかったし、後になって「まぐれ」と言っていましたから、天気が雨でなければ今川義元勝っていましたから、結果として運ですかね。
当初、桶狭間の戦いは、いつもの如く、今川勢と少し戦って、あわよくば織田から和睦を提案して終わり。と信長は考えてたみたいだが、なんか知らんけど上手く行って義元の首まで取れちゃったって感じ。尾張兵は胴長短足気味で体力も少なく、戦国最弱兵とも言われるほど。一方で東海の兵は屈強でしかも兵数も圧倒的。これを見ても最初から少数の奇襲で大将の首を狙うなんて無謀な計画は立てない。偶然に偶然が重なって天候も合わさった結果といえる。
「幸運と勇敢さの勝利」個人的には、勇敢より「ヤケクソ」とか「無謀」とか「狂気」くらいがより正鵠を射ているきがするのぉ。。。
大将たるもの多少の臆病は必要なのかもしれない
このド外道がぁ
1:06のあたりどうしたw
改めて観たけど。やっぱり。ヨダレ、鼻水、白目。最高やな!
🤤、動画が面白い。
義元が引き返して桶狭間にいった事実はないんじゃないでしょうか?
太原雪斎が存命なら織田信長など相手にもならなかった。
その代わりが雪斎和尚が見込んで教育した松平元康実際 桶狭間で敗退後 岡崎で対織田への防波堤となって小競り合いしてる(すぐに織徳同盟はしていない)
元康さんは此の時は落ち武者だったから落ち武者狩りに遭って殺されるよりは松平の菩提寺で自決する積りで帰るべ何て言ってる状態じゃあ無かったんだよね。実際に落ち武者狩りの地元民がウジャウジャ来てたし。元康さんには無傷の三河勢が居たのと自分の城が空き城に偶然成ってて助かったって感じですよ。後に些細な事で家臣も含めた大一揆に為っちゃってとてもじゃあ無いけれど三河を元康さんが治めてる何て状態じゃあ無かったし。
義元さん大高城に入ってたら良かったのに、なんてのは素人考えなんでしょうか?
肥沃な尾張の地、熱田・津島からの財源、実は織田の勢力は決して小さくなかったのではないかと思っています。
尾張一国で54万石。対して駿河15万、遠江25万、三河29万、合わせて79万石。80万石の侵略動員可能兵士数は(3000人/1万石)×79万石=約24000で結構信憑性ある数字。でも54万石の内、大半の30万石支配の織田は防衛戦だから•••(5000人/10万石)×3=15000で総兵力は結構対抗出来る数字になる。北側美濃国境と西側伊勢国境防衛に15000を3分割すると対今川5000で、これも記録に近い数字になる。実は尾張1国支配で割りと今川とはやり合えたんだね、北の斉藤道三は同盟国でいざとなれば美濃側の防衛戦から戦力を東に分割して回せたし。尾張は石高も海上交易も河川物流でも豊か。
@@石川島療養所 すごい概算力!地図上の面積にだまされますが、きちんと情報を精査していく力が試されますね!
同感です。先に御返信して下さった方が数字を示した考察を入れて下さってますが概ね、首肯出来る数値で納得が行きます。また、今川軍の15000は小荷駄や雑多な非本国兵が多い筈ですが、織田方は防衛戦迎撃側の強みで2~3000の全てが純然たる戦闘部隊としての編成が可能だった点もあるので様々な条件的な有利と幸運を呼び寄せる果断の上積みが有って昭和期ステレオタイプなイメージ程の偶然ではなく、必然に近い部分も検証が進んで来た様に思われます。
結論、戦国時代は外道でないと生き残れない
👍👍👍👍
1:11 いや、これはある意味ミスかも。義元は絶対わかっててわざと忙殺して身内をそこに入れてる。2:05 あ、義元は知ってたのね5:31 義元めちゃくちゃ凄い戦略家やん。戦略なら雪斎より上かもしれん。なんで負けたんや❓10:36 なるほど。謀略戦では信長の勝ちかあ
たまたま林から出たら今川さん居たらしいよ?😮
合戦時、織田信秀に大量に金を貸していた多治見木下氏の李(西浦)頼長こと織田信長は何と今川義元の本陣に居て、今川義元と織田信長は会盟の宴席を伴にしており、其処を、斯波平氏の織田信秀の実弟の柴田勝家が天白から急に奇襲した
我々は液体から発生して液体まみれで生きている乾いたら終わりリアリズムに高い志がある傑作
サムネイル若干浦沢さんぽい
こうみるとbasaraの大友宗麟は史実に近いんだなw
で、あるか...
くされ外道w
えいえいおー
たまにヨダレを垂らすのは何故?
京を目指す駿河の大名 今川義元兵力約2万5000人尾張の小大名 織田信長兵力約3000人戦国時代の重要な節目2014年5月19日(月) ZIP! きょう検定ワールドより
桶狭間の戦い初めてどんなふうな感じに戦ったのかを見たけど、義元って酷い戦術とってるなあ。そりゃ負けるわ。戦のど素人としか思えん。太原雪斎が生きてたらという説納得できるわ
チャットgptで効率化と経費削減を狙ったんだけど視聴者は落ちてる。でも多分方針は変えない
回り込み(迂回ルート)説って今は否定されてたような。
現在の段階で否定されているのは、あくまでも、「従来からの通説」である「迂回ルート」ですよね。なので、一概に全面的には否定できないかと。
@@drycool5348つまり思っていたのとは別の迂回ルートを進軍したと?
@@tsutomuiwata778 当時の現地街道事情は江戸期以降の地図から想像すると実情を反映しない可能性が高い模様です。 当時の現地は高低差や干湿の錯綜した地形が酷くて、結果、網の目の様に四通八達した小径~間道水準の稜線道が多かった様で侵攻側大軍が一本線行軍するのは厳しく、逆に地元民(~迎撃側兵力)は小径毎に小部隊を分散合撃させ得る地勢であった、と申せます。故に、特定の一本道ルートを指し示し「このルート以外は考えられない‼」としてしまう主張は現地に赴いた経験を持たない人にしか出来ない暴論の押し付けになる危険を感じております。迂回ルート各説は特段に否定する必要が無く、「どの説も正解の部分と、必ずしも正解とだけ言い切るのが難しい」のが当日当座の実情であろうかと元名古屋広域圏住民は考えます。
アへ顔系歴史ユーチュバーか(困惑)
戦略でも織田信長の勝ちなんじゃないかな?
やはり汚いじじい達最高液体を垂れ流すおっさん達の戦い
じんかん50年ふいたw
どうもこういう動画を見ていると表層的なつじつま合わせの感が強い。いくさの基本は、現場や敵のさらにはこちらの現状を徹底的に把握・分析することのはず。ましてやいくさは一発勝負、実態はお互いの消耗戦、そう簡単にやらないし、ましてや総力戦ともなればね。この戦は、おそらく双方の総力戦に近かったのでしょう。色々調べると、信長の知略というか、地の利を生かした戦法を採用していますが、どうも桶狭間は、運を掴み生かし切った信長の勝ちという結果になったようですね。まあ仮に桶狭間がなくても、今回は織田は今川を跳ね返せたようには思えます。信長の行動力は大したものですな。軽くて速い !
ヨダレ垂らすのやめた方がいいですw
やたら神格化や魔王化されてる信長より、こっちの信長の方が人間臭くて共感持てるな
この戦いシリーズ、武将の心理とかが分かりやすくて好き
時々みせる、鼻水とかよだれとか、心理状態が分かりやすい
主要人物が、どいつもこいつも鼻水とヨダレ垂らしているのが面白い🤣
鼻水とヨダレと白目が、内心をリアルに表現していて秀逸
漫☆画太郎の影響だね。
妙にリアリティーがあって説得力がある。面白いよ。
交感神経から副交感神経のゆりもどしのくだりめちゃ好き。
どっちが腐れ外道なのか、もうよく分からない所が最高。
最高のクオリティーです。
これからの作品を楽しみにしております!(^^)
素晴らしい動画です。絵もよく話もわかりやすい。チャンネル登録しました。
まあ桶狭間の戦いはマジで織田信長に運が味方したからなあ
ヤクザ漫画のようなテイストがいいですね。実際似たようなものだったでしょうし。
ヨダレとかも面白いのですけど、桶狭間の戦いのきっかけになった今川西上の理由がよかった。司馬遼太郎ですら上洛が目的とか言ってた気がします。それにしては斎藤や朝倉や六角、三好などなど、今川が外交してる気配はなさそうだったし。
今までの説の中でも今回の動画の大高城の救援が一番しっくりきました。
どうしたこのチャンネル
ガラッと代えてきたな…
新説!面白いです!動画ありがとう御座います!
名古屋市南区あたりがまだ海や川だったんだよな
東海市、知多市も海岸線は東側だった
じわじわくる
テンポ良い解説なので見る気にさせてくれます。当事者と側近の作戦討議のやり取りもリアルです。
戦国時代の、しかも足軽達が交感神経と副交感神経を知ってるのはwww
わかりやすいよく勝てたなと
豪雨という幸運を活かして
義元を討ち取れたのは、
日頃から将兵を鍛錬していたからこそ出来た。
やはり、この戦いは「ラッキーパンチ的電撃戦」みたいな感じでしたな😃 それにしても、特に梁田某もなかなかやるよねぇ👍️
NHK大河ドラマ「武田信玄」の該当画面のシーン+「信長」の該当画面の最後のシーン+α的みたいなイメージでみるとなかなか面白いですよねw🖐️
にしても、義元も呑気に酒宴なんか開いてドンチャン騒ぎみたいなことをして能天気に舞まで舞ってるような場合でもネェだろうに😅 一瞬の気の緩みがとんだ災難まで招いてしまいましたな💦 クワバラクワバラ(激謎
名古屋広域圏育ちの者です。 あの酒宴に出た酒が地元住民や神社神主辺りが進上したモノであり
信長の使嗾(~若しくは無関係でも今川支配に入った後を考えた、旨の可能性アリ)で宛がわれた
足止め目的の酒であった、との話を現地周辺で伺っており、三河蒲郡出身の終戦時陸軍中佐で
戦後は経営者の大橋武夫先生は「織田方の工作」と断言していたりします。
近年作成の動画や著述は、当時の地形や海岸線、河川流路等を史実に則した体裁になっていて
本当に良くなりました。昭和期までの書籍は明治維新以降の地図だけしか見ていない様な記述が
到る処で散見されて、地元~近隣住民には失笑するしかない水準のモノが多過ぎましたw
大変ためになりました。今川の方が深慮遠謀な感じですね。
今川は、信長が自分程度に深慮遠謀で、罠を仕掛けたりしてると思って後退し安全策を取ったところ、策を弄するより奇襲攻撃という方針の信長の作戦がまぐれ当たりしたみたいな感じでしょうか?。今川は、自信の慎重さと、信長の行動の読みが外れて、負けてしまったんですね。
ちょっと違うかも知れませんけど、義元は「策士策に溺れ」てしまった感がありますね。
@@AtsushiMizobe さん
たしかに、策に溺れたのかもしれませんね。
最初から奇襲する予定だったので、織田軍の砦を簡単に落とせて、今川の戦線が延長しており、軍隊の連携が難しくなってしまいました。
なんとなく異様に思った義元は、本陣のみを撤退させ、余計今川大軍の連携が取れなくなってしまいました。
織田軍の罠ではなく、奇襲の準備してただけなのですが、罠と勘違いした義元は余計奇襲しやすい状況を作った感がしますね。
@@hirofumihorio3471 視界の悪い後方への本陣のみの撤退は、この説の不自然さを表していると思います。義元が大高城に向かう途上の昼の休憩中に信長の攻撃を受けた説の方が矛盾がない気がします。そして、信長は義元の本陣位置を把握していたのは間違いないです。
実際 今川を蹴散らして さっさと駿府へ帰ってもらえたら万々歳だったと言うね。それがまさかの王手だもん大金星だよね
(チラッとだけど)湿地の話が出ていて嬉しいな。昔「歴史への招待」という番組で、湿地を一要因として取り上げていたのに、その後、あまり取り上げられるのを見なかったので(笑)。山・谷は遠目にも観測できるが、足を踏み込んで初めてわかるような雨などで増減する湿地・沼の広がりって、当時の行軍‣陣地構築には相当厄介だったと思う。敵は見えているが援軍に駆け付けたり、退却しようにも先頭の兵が足を取られて渋滞起こして動けん…みたいに。熟知する地元民の協力をどちらが得るかの勝負か。その情報戦も描いてほしかった。
名古屋広域圏育ちで、成人後に原付で周囲を縦走し、「根(小山)と久手(窪地/低地)が多い」
と云う記述を実感致しました。ああいう高低差の錯綜した地形、海が近く藪を形成する
草木の育ちも良い、更に低地=湿地になる場所、で戦うとなれば地元民の優位は通常以上に
なる訳で遠征/侵攻軍側が迎撃を受けて大損害に到る実証例だったと見ます。
@@harima1330057実地で体験できたのはうらやましいです、私も行かねば(笑)。地図や航空写真では分かりにくいですからね。情報収集というと忍者?斥候的な発想をしがちですが、それより地元民の支持・協力を得る方が圧倒的に強いでしょうね。会津戦争でも官軍は地元の村々に酒・金品を配ってアウェーの不利を無くすことに尽力していたと本で読んだことあります。
ギャグ顔が心理状態をよく表していて面白いですね。
今川義元さん、知略も戦略もいい感じだったけど、最後の最後で油断したか。織田信長さんも勢いで行った感じが新鮮だわ。この視点で大河見てみたいな。
「元康、おみゃあ、駿河のお殿様のご恩が、まだわからにゃーか!!」
最後に男食(ホモ)が出てきて草
うp主様の茶番が秀逸すぎる
今川方雑兵の交感神経~略奪したいの下りと
信長の今まで散々男色してきたけど~の下りで
思わず噴いたw
動画中の義元のセリフ通り
戦略に瑕疵はなかったと思うのですが
気になるのが
合戦当日の義元本陣の進路
おそらく私の解釈が的外れなだけなのだが
理解が及ばない
名古屋市の南半分くらいは江戸時代以降の埋め立て地なので
現在と地形(特に海岸線)が違い
私は当時の正確な地形を把握できていないのですが
現在は宅地造成され平らになっているが
当時は丘陵地域
沓掛城(城址公園より西に約200mにそれらしい遺構がある説もあるのでそちらか?)から
漆山(名鉄左京山駅と緑区区役所間、手越川を挟んで中島砦推定地のすぐ傍、鳴海城址まで約6、700m、大高城址まで約1㎞)までは
直線距離では約3㎞強だが
直線でつなぐ道が見当たらない
比較的直線ルートに近いのは
鎌倉街道を道なりに西進
このルートなら問題なく2時間で移動できるだろうが
途中で道を逸れ南下しないと
善照寺に出てしまう
南からの迂回ルート
東浦街道→東海道
(少人数なら2時間で漆山へ到達可能だが当時の東海道は整備が不十分で大軍だと渋滞が起きるか?ただ、豊明市の古戦場伝説地を通る)
東浦街道→大高道
(いわゆるおけはざま山と推定される緑区の古戦場公園の脇を通過するが、遠回りし過ぎで2時間で漆山到達は全軍で駆け足しないとできない 戦術機動ならまだしも行軍で駆け足はよほど急ぐ理由がないと考えづらい)
『三河物語』がどの程度信頼できるか問題だが
そこの記述のような
合戦前日に大高城に入って
当日は
大高城→漆山→東へ撤退(?)
のほうが
まだ無理のない経路設定のようがしますし
大軍で大高城の付け城を攻略もできるでしょうし
合戦当日、夜明け前からの朝駆けや行軍の疲労が蓄積されたため苦戦し敗走したとも
妄想できるような気がします
珍遊記みたいな表情になるのがいいわ
キャラクター、変わりましたな。生き残るためにか。
youtubeも戦国時代w、手を変え品を変え視聴者を飽きさせない戦略なのかも
今川家最大の失敗は本拠地を駿河し続けたのだと個人的に思います。
同盟相手とはいえ甲斐武田と距離が近すぎるし最前線の三河まで遠すぎます。
確かに、松平家を取り込む意味で岡崎城に本拠を移す事はできなかったんでしょうけど、駿河衆と遠江衆の対立が酷くなかったら、引馬城か、掛川城あたりに本拠を移していた方が良かったかもしれませんね。
氏真を駿府で義元は隠居して浜松で上洛の準備なら確かにいいかも
新興勢力で成功を収めた戦国大名であればこそ出来る~
出来たからこそ成功に到った、と云えるのが「本拠地の移動」ですね。
武田、上杉、今川、北条(小田原に入って以降) と勢力拡大は出来ても
何処か「もっと行けたのでは?」と考えさせる御家の成長限界上限値を
設定してしまうのが”動かせない本拠地と前線までの距離増大”にある
と見るのは充分な妥当性を感じます。
今川義元は勝ちすぎたんだな
信長の下へ3000人も集まったと言う事が結構な奇跡ですからここら辺に信長って人に義元さんに無い何かが有った気がしますね。
地元民、迎撃側、の長所ですね。 策源地からの距離が近い場合は通常の動員限界を超えた
兵数を集める事は難しくなく、遠征側は策源地からの距離の増大で兵站への負荷が増大し
どうしても兵数上限が厳しくなります。
加えて、尾張上四郡の米収穫量、熱田&津島の商港交易収入等で織田家の動員力は早い段階から
意外に大きかった事実も有ります。 また、特筆すべきは信長直卒の兵団が事実上、完全専一の
「純戦闘部隊」として(短時日の前提で)運用出来た事は、公称値2万に届く今川軍兵力も相当数が
士気や練度、忠誠心に疑問の残る占領地徴募兵、更には小荷駄や占領支配用駐留兵等の数も多く
純然たる「戦闘部隊」としての兵数は意外に割合としては高くなかった可能性が指摘出来ます。
以上の点を踏まえて、更には現地の地勢や当日の天候、諜報能力、周辺住民の向背など多くの
「地元/迎撃側有利、侵攻側不利」の条件が重なった事に依って本隊vs本隊の直接戦闘に於いて
今川義元敗死と云う結果に到った旨、元名古屋広域圏育ちの身は考えております。
髙根山を迂回するって簡単にいうけれど、義元の本陣と髙根山の今川軍の間に入る(つまり挟撃される)ということで、そっちも尋常な度胸じゃないよなあ。
獣道しかない山道、進軍、後退は、大変だったはず、
後世の創作だと、信長がいろいろ計算してたみたいに描かれることもあるけど。
実際は、その場の戦況に応じて、必死に行動してたら、たまたま運よく勝利した。
それが真実なんだろうね。
実際前線に出てから敵軍の配置を大まかに把握してのまずは本隊正面(後退しつつあった為後詰軍)からの強襲だよね、その後義元の位置を把握し天候を利用して迂回し側面から奇襲をかけた感じ。最初の強襲を成功させたのは運だけでなく尾張統一期の信長本隊が強かったから、信長自身が直接指揮した時って実はかなり強いんだよね。
後詰がない中で籠城するのは愚の骨頂というものですね。
久ですね。嬉しいな。
今川は大軍の圧力で織田の城を奪って、信長の選択肢を奪い続けて、戦局を優位に進めていたが、最後に油断したスキを信長に突かれて破れた印象。
もし今川が油断せず本陣を適正な場所に布陣してたら、信長の突撃も失敗して歴史が変わったかもしれない。
今川は天才
上様も動員兵力が少ない若い頃は家臣と共に前線で危険な戦いを繰り返してるよね。
織田信長の本当の偉大さは、戦術指揮官としては2000~3000程度の兵数を上限に
自らの手足の如く自在に動かして多少の兵力差を覆せる水準、である事を早くに
自認して、上洛戦以降は基本的に戦略体制と大兵力、兵站や兵装の整備と云う
方面に重心を移す”戦略型指揮官への脱皮”を成功させた点にある旨、御教示を
受けた事が御在ます。それでも、金ヶ崎撤退や天王寺戦などの局面に於いては
戦術指揮官型の行動を取っていますが、その際には往年の戦術的能力を発揮し
目的の達成が出来ている事は、もう少し脚光を浴びて良さそうです。
千秋、佐々は注目を逸らす揺動だと思いますよ。
それと現地を見れば解りますが、桶狭間の神明社が今川義元休息地で奇襲を受け、沓掛城まで引き返す途中で支えきれなくなり田楽狭間の寺に入る直前で討ち取られてると思います。
その詳細を梁田政綱や蜂須賀等の国衆が逐一報告してたでしょうが、現地に行くと当時は林道が毛細血管の様に尾根と言う尾根に広がり織田軍が散り散りに蟻が群がる様にテロ戦術で今川本陣にタカるとかなり混乱し、合戦のセオリーとも違いハチャメチャに成ったはずです。
山歩き趣味の人はよき知ってますが江戸期より昔の道は一筋の街道ではなく間道の様な尾根道が無数に広がり進みやすい道をチョイスする感じで、近世〜現代の平地の街道の認識とも違いますし。
役小角さん行基菩薩や若光高麗王や弘法大師さんが整備したり、一遍さんや日蓮さんが歩いた山の道筋を知った上で桶狭間の神明社に行き周りの藪を歩くと良く当時の景色が見えるかと思いますよ。
揺動部隊以外が山の道筋を幾筋にも分散し群がったなら雨天で音も消えて全く織田軍の行動なんか見えなかったでしょうね。
ホームタウンの利ですわ。
左様で御在ます。 周辺(知多半島)育ちで成人後に原付で縦走した時に地形/高低差の錯綜や
当時の道路事情を考察して至極納得が行きました。 ああいう錯綜した地形と天候条件など
多くの要因が「ホーム側有利、アウェー側不利」を強調した結果と思いました。
こう見ると義元も土壇場でけっこうやらかしてるよね
見通しが悪いとわかって居ながら隊同時の連携が取れないレベルまで離れるのは奇襲してくれと言ってるようなもの
よだれが秀逸😀
面白い
今川義元老けすぎ
享年42だぞ…
あもしろーい😆
あれ?
一番の手柄って義元の本陣を見つけた人でしょ?
ふむ、海軍を元康の後続としたのですね。しかし、元康の時に陸海2方面同時作戦で信長を混乱させた方が効果的だった気がします。海側からも上陸され陸側からも本体が来れば信長は本体と交戦中に挟撃される恐怖で思い切った全軍突撃は出来なかったと思います。もっとも、信長も突撃したのが本体だとは思って無くて出鼻をくじいて追い払えればラッキー程度に思ってた様ですから、桶狭間での勝利は奇跡の第1歩では有りましたね。しかし、やはり油断が有ったとは言へ海軍を上陸させなかったのは失敗でしたね。此の辺りの事情がイマイチハッキリしないのが今も気に為る所ですね。
今川の水軍戦力は伊勢湾内まで自力で来れていたか?に疑問が残ります。
渥美半島の戸田氏や知多半島の水野氏、津島や熱田と反目する船手衆など
地元の水上勢力を時宜折々で傭徴していた、と見る方が自然に思えます。
この棒読みが段々癖になってくるw
8:30
じんかんって読みは必ずしも間違ってないんだな🤔
慣れって恐ろしい😅
間違いだよ。にんげん読みが正しい。じんかん読みが普及するのは明治以降だしね。少なくとも信長の時代は、仏教用語の「人間」は呉音の「にんげん」読みだね。幸若舞が、にんげん読みなのもそういう理由。
1:34 はぁい?の反応が面白い🤣
15:22
当時の今川方の本陣は田楽狭間に置かれていたはず。俗称である桶狭間は田楽狭間から数間離れた所です。一次資料にも田楽狭間と明記されているにもかかわらず、何故、桶狭間と書くのか不思議でなりません。
孫子の兵法では、桶狭間は窮地と言って大軍が近づいてはいけない場所に該当する。義元の失敗は地形の入り組んだ場所に進軍してしまったこと。これでは大軍の意味がなくなってしまう。
全く以て、その通りで御在ます。 現地に原付/電動自転車で赴いて眺めれば一発で理解出来ますが
高低差の錯綜と、通りそうで通らない視程(逆に意外な距離で見える角度が有る)等の地形的条件は
地元側が充分な準備と精兵の錬磨が有った場合には極めて大きな「迎撃側/地元民有利・侵攻側不利」
を顕現してしまいます。本戦は多くの条件的有利を積み重ねた上で更に天運まで味方した信長が
不利を緩和克服する尽力が届かなかった義元を討てた、と見るのが妥当であって、昭和までの
ステレオタイプな「ラッキーヒット」「凄い幸運」ではなく、事前の準備と条件構築が有った事を
もう少し、世間に広まって欲しくあります。
あへ顔が良かったです
ナレーション絵クォリティーが高くなってる😅
迂回ではなく、正面攻撃が現在の説。
よだれいいね!👍
信長さん…滝田栄さんのようなお声の方ですね。
おもしろかった(小並感)
これ、読み上げアプリかなんか?
知ってる人教えてー。
今より、この頃の画とヨダレと「腐れ外道」の方が面白くて何度も見返しています。
今川が油断しおった。信長も用意周到に攻めた。みごとに。これで 天下がうごいた。あの大代名が、まさか?
思惑が面白いな
戦国大名の戦死って本当に稀なんだよね
大抵は降伏するから
それだけ義元が油断していたのか
まあ、武田勝頼あたりも実質的に戦死だけど
この当時でさえも、信長自身も勝てるなんて思わなかったし、後になって「まぐれ」と言っていましたから、天気が雨でなければ今川義元勝っていましたから、結果として運ですかね。
当初、桶狭間の戦いは、いつもの如く、今川勢と少し戦って、あわよくば織田から和睦を提案して終わり。と信長は考えてたみたいだが、なんか知らんけど上手く行って義元の首まで取れちゃったって感じ。尾張兵は胴長短足気味で体力も少なく、戦国最弱兵とも言われるほど。一方で東海の兵は屈強でしかも兵数も圧倒的。これを見ても最初から少数の奇襲で大将の首を狙うなんて無謀な計画は立てない。偶然に偶然が重なって天候も合わさった結果といえる。
「幸運と勇敢さの勝利」
個人的には、勇敢より「ヤケクソ」とか「無謀」とか「狂気」くらいがより正鵠を射ているきがするのぉ。。。
大将たるもの多少の臆病は必要なのかもしれない
このド外道がぁ
1:06のあたりどうしたw
改めて観たけど。
やっぱり。
ヨダレ、鼻水、白目。
最高やな!
🤤、動画が面白い。
義元が引き返して桶狭間にいった事実はないんじゃないでしょうか?
太原雪斎が存命なら織田信長など相手にもならなかった。
その代わりが雪斎和尚が見込んで教育した松平元康
実際 桶狭間で敗退後 岡崎で対織田への防波堤となって小競り合いしてる(すぐに織徳同盟はしていない)
元康さんは此の時は落ち武者だったから落ち武者狩りに遭って殺されるよりは松平の菩提寺で自決する積りで帰るべ何て言ってる状態じゃあ無かったんだよね。実際に落ち武者狩りの地元民がウジャウジャ来てたし。元康さんには無傷の三河勢が居たのと自分の城が空き城に偶然成ってて助かったって感じですよ。後に些細な事で家臣も含めた大一揆に為っちゃってとてもじゃあ無いけれど三河を元康さんが治めてる何て状態じゃあ無かったし。
義元さん大高城に入ってたら良かったのに、なんてのは素人考えなんでしょうか?
肥沃な尾張の地、熱田・津島からの財源、実は織田の勢力は決して小さくなかったのではないかと思っています。
尾張一国で54万石。
対して駿河15万、遠江25万、三河29万、合わせて79万石。
80万石の侵略動員可能兵士数は(3000人/1万石)×79万石=約24000で結構信憑性ある数字。
でも54万石の内、大半の30万石支配の織田は防衛戦だから•••
(5000人/10万石)×3=15000で総兵力は結構対抗出来る数字になる。
北側美濃国境と西側伊勢国境防衛に15000を3分割すると対今川5000で、これも記録に近い数字になる。
実は尾張1国支配で割りと今川とはやり合えたんだね、北の斉藤道三は同盟国でいざとなれば美濃側の防衛戦から戦力を東に分割して回せたし。
尾張は石高も海上交易も河川物流でも豊か。
@@石川島療養所
すごい概算力!地図上の面積にだまされますが、きちんと情報を精査していく力が試されますね!
同感です。先に御返信して下さった方が数字を示した考察を入れて下さってますが
概ね、首肯出来る数値で納得が行きます。また、今川軍の15000は小荷駄や雑多な非本国兵が
多い筈ですが、織田方は防衛戦迎撃側の強みで2~3000の全てが純然たる戦闘部隊としての
編成が可能だった点もあるので様々な条件的な有利と幸運を呼び寄せる果断の上積みが有って
昭和期ステレオタイプなイメージ程の偶然ではなく、必然に近い部分も検証が進んで来た
様に思われます。
結論、戦国時代は外道でないと生き残れない
👍👍👍👍
1:11 いや、これはある意味ミスかも。義元は絶対わかっててわざと忙殺して身内をそこに入れてる。
2:05 あ、義元は知ってたのね
5:31 義元めちゃくちゃ凄い戦略家やん。戦略なら雪斎より上かもしれん。なんで負けたんや❓
10:36 なるほど。謀略戦では信長の勝ちかあ
たまたま林から出たら今川さん居たらしいよ?😮
合戦時、織田信秀に大量に金を貸していた多治見木下氏の李(西浦)頼長こと織田信長は何と今川義元の本陣に居て、今川義元と織田信長は会盟の宴席を伴にしており、其処を、斯波平氏の織田信秀の実弟の柴田勝家が天白から急に奇襲した
我々は液体から発生して
液体まみれで生きている
乾いたら終わり
リアリズムに高い志がある傑作
サムネイル若干浦沢さんぽい
こうみるとbasaraの大友宗麟は史実に近いんだなw
で、あるか...
くされ外道w
えいえいおー
たまにヨダレを垂らすのは何故?
京を目指す駿河の大名 今川義元
兵力約2万5000人
尾張の小大名 織田信長
兵力約3000人
戦国時代の重要な節目
2014年5月19日(月) ZIP! きょう検定ワールドより
桶狭間の戦い初めてどんなふうな感じに戦ったのかを見たけど、義元って酷い戦術とってるなあ。そりゃ負けるわ。戦のど素人としか思えん。太原雪斎が生きてたらという説納得できるわ
チャットgptで効率化と経費削減を狙ったんだけど視聴者は落ちてる。でも多分方針は変えない
回り込み(迂回ルート)説って今は否定されてたような。
現在の段階で否定されているのは、あくまでも、「従来からの通説」である「迂回ルート」ですよね。なので、一概に全面的には否定できないかと。
@@drycool5348
つまり思っていたのとは別の迂回ルートを進軍したと?
@@tsutomuiwata778 当時の現地街道事情は江戸期以降の地図から想像すると実情を反映しない
可能性が高い模様です。 当時の現地は高低差や干湿の錯綜した地形が酷くて、結果、網の目の様に
四通八達した小径~間道水準の稜線道が多かった様で侵攻側大軍が一本線行軍するのは厳しく、逆に
地元民(~迎撃側兵力)は小径毎に小部隊を分散合撃させ得る地勢であった、と申せます。
故に、特定の一本道ルートを指し示し「このルート以外は考えられない‼」としてしまう主張は
現地に赴いた経験を持たない人にしか出来ない暴論の押し付けになる危険を感じております。
迂回ルート各説は特段に否定する必要が無く、「どの説も正解の部分と、必ずしも正解とだけ
言い切るのが難しい」のが当日当座の実情であろうかと元名古屋広域圏住民は考えます。
アへ顔系歴史ユーチュバーか(困惑)
戦略でも織田信長の勝ちなんじゃないかな?
やはり汚いじじい達最高
液体を垂れ流すおっさん達の戦い
じんかん50年ふいたw
どうもこういう動画を見ていると表層的なつじつま合わせの感が強い。いくさの基本は、現場や敵のさらにはこちらの現状を徹底的に把握・分析することのはず。ましてやいくさは一発勝負、実態はお互いの消耗戦、そう簡単にやらないし、ましてや総力戦ともなればね。この戦は、おそらく双方の総力戦に近かったのでしょう。色々調べると、信長の知略というか、地の利を生かした戦法を採用していますが、どうも桶狭間は、運を掴み生かし切った信長の勝ちという結果になったようですね。まあ仮に桶狭間がなくても、今回は織田は今川を跳ね返せたようには思えます。信長の行動力は大したものですな。軽くて速い !
ヨダレ垂らすのやめた方がいいですw