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打算を捨て他者にどう見られるかを考えず、自らのこころと向き合い、必死に真剣に生きている人の作る作品は、自らの生き方や作品に対する満足感を満たし、人々の心の琴線に触れる確率が高い気がします。お金のことを気にせず心の赴くままに生きられる社会なら良いのですが、現実はほど遠いですね。AIのお話がありましたが、そんな心を持ったAIがもしあるのなら、作品を見てみたいですね。
「カウンターであるか?」という視点はいかがでしょう。時勢に対して離れた位置や枠外の活動にも関わらず説得力があると評価されることが多い気がします。
自分のエゴ的な想いだけをのせて生み出したものは自分の作品だと思ってます。芸術的観点とは無関係です。私は仕事で撮っている写真を作品とはまだ思えていない段階です。そもそも人の人生そのものが作品なのかもしれない。
自分が撮っている作品は芸術作品とは違うということに気がつきました。誰かに何かを伝えたいとも思わないし後世に残ってほしいとも思わないからです。今この瞬間に自分が満足するためだけに存在しているのが私の作品です。世間に公表する必要すらもないとも思えます。世の中で一般的に言われる「作品」はそういうものではないですね。残そう、誰かに何かを伝えようとした時点でマーケティング的思考の介在したものになるという意味では芸術のほとんどが打算的なものな気がしてきます。しかし伝えたい気持ちが根源的な原動力の人にとってはそれが自身の全てにもなり得るでしょうし嘘偽りのなく純粋な作品でしょう。同じ「作品」という言葉でひとまとめにされてしまっているだけでもっと何種類もあるのかもしれませんね。
林さん ななしきさんこんにちは。興味深いコンテンツでした! お二方とも 思考のキレが良すぎて会話についていくのが大変です!美術におけるマーケティング論は画期的な素晴らしい視点だと思いました。結局のところ作品は、作品と言わしめる、ということが根本だと思います。基本的にどんな手段でも方法でもアリです。美術作品が成立するのは条件として需要があるということが大前提で、なぜ需要があるのかというと現代が資本主義だからです。資本主義はお金の洗浄がどうしても必要になるもので、それと美術作品は非常に相性が良いです。もう1点、美術、芸術に関して興味深いことは、作品を説明できる人は作品を造れず、作品を造れる人は作品を説明できないというジレンマがあり、両方できる場合は大概どちらかが建前になっている、というのがほとんどで、時間的淘汰に遭いやすいように見えます。
伝えたい事があれば作品なんじゃないですか?作品として提出されたら作品として鑑賞しますし、情報として渡されたら単なる情報として受け取るなーって思います。商品として渡されたら機能が欲しいですし
満足できる作品とは?または残る作品とは?と言い換えても良かったかもしれません。僕は伝えたいことは沢山ありますが、それを満足できる作品または残る作品に出来たことは無いなと感じます。作品と満足できる作品の違い、或いは残る作品をつくるために必要なことは何なのか?という問いへの回答を持っていないと、「これは作品だ」というだけで満足してしまいそうになります。
@@hayashi_hayashi あーなるほど。それでマーケティングになっちゃうとかの話になってたんですね。理解できました。ありがとうございます。
そもそも「作品撮り」って、商業カメラマンやファッションモデルの業界において、モデル、カメラマン、ヘアメイク、スタイリスト等、プロ同士が各自のポートフォリオ(モデルの場合はコンポジ)の充実のために協力して写真を撮ることを「作品撮り」と呼んでいたはずです。この場合、別に作家性が強い写真を撮ることを作品撮りと呼んでいるわけではありません。そこへ昨今、アマチュアカメラマンにも写真を他人に見せることが簡単になり、アマチュアがプロの言葉だけを真似て「作品撮り」という言葉を使うようになったことによって、「作品撮り」という言葉が大袈裟に捉えられたり、どっちの「作品撮り」を指しているかわからなくて混乱を呼んでいる気がしています。
いつも動画で勉強させていただいています。もの、モデルを伝えるものor それ自体が伝えたいことみたいな感じかなと思っていました。図面とグラフィック表現みたいな感じです。どちらも要素は一緒ですが、手段として写真なのか写真が伝えたいものなのか。
自分が作品と思えば作品。自己に帰結するのかなと。
作品って言った方が相手にわかりやすい
打算を捨て他者にどう見られるかを考えず、自らのこころと向き合い、必死に真剣に生きている人の作る作品は、自らの生き方や作品に対する満足感を満たし、人々の心の琴線に触れる確率が高い気がします。お金のことを気にせず心の赴くままに生きられる社会なら良いのですが、現実はほど遠いですね。
AIのお話がありましたが、そんな心を持ったAIがもしあるのなら、作品を見てみたいですね。
「カウンターであるか?」という視点はいかがでしょう。時勢に対して離れた位置や枠外の活動にも関わらず説得力があると評価されることが多い気がします。
自分のエゴ的な想いだけをのせて生み出したものは自分の作品だと思ってます。芸術的観点とは無関係です。私は仕事で撮っている写真を作品とはまだ思えていない段階です。そもそも人の人生そのものが作品なのかもしれない。
自分が撮っている作品は芸術作品とは違うということに気がつきました。誰かに何かを伝えたいとも思わないし後世に残ってほしいとも思わないからです。今この瞬間に自分が満足するためだけに存在しているのが私の作品です。世間に公表する必要すらもないとも思えます。
世の中で一般的に言われる「作品」はそういうものではないですね。残そう、誰かに何かを伝えようとした時点でマーケティング的思考の介在したものになるという意味では芸術のほとんどが打算的なものな気がしてきます。しかし伝えたい気持ちが根源的な原動力の人にとってはそれが自身の全てにもなり得るでしょうし嘘偽りのなく純粋な作品でしょう。同じ「作品」という言葉でひとまとめにされてしまっているだけでもっと何種類もあるのかもしれませんね。
林さん ななしきさんこんにちは。興味深いコンテンツでした! お二方とも 思考のキレが良すぎて会話についていくのが大変です!美術におけるマーケティング論は画期的な素晴らしい視点だと思いました。結局のところ作品は、作品と言わしめる、ということが根本だと思います。基本的にどんな手段でも方法でもアリです。美術作品が成立するのは条件として需要があるということが大前提で、なぜ需要があるのかというと現代が資本主義だからです。資本主義はお金の洗浄がどうしても必要になるもので、それと美術作品は非常に相性が良いです。もう1点、美術、芸術に関して興味深いことは、作品を説明できる人は作品を造れず、作品を造れる人は作品を説明できないというジレンマがあり、両方できる場合は大概どちらかが建前になっている、というのがほとんどで、時間的淘汰に遭いやすいように見えます。
伝えたい事があれば作品なんじゃないですか?
作品として提出されたら作品として鑑賞しますし、情報として渡されたら単なる情報として受け取るなーって思います。
商品として渡されたら機能が欲しいですし
満足できる作品とは?または残る作品とは?と言い換えても良かったかもしれません。
僕は伝えたいことは沢山ありますが、それを満足できる作品または残る作品に出来たことは無いなと感じます。
作品と満足できる作品の違い、或いは残る作品をつくるために必要なことは何なのか?という問いへの回答を持っていないと、「これは作品だ」というだけで満足してしまいそうになります。
@@hayashi_hayashi あーなるほど。それでマーケティングになっちゃうとかの話になってたんですね。
理解できました。ありがとうございます。
そもそも「作品撮り」って、商業カメラマンやファッションモデルの業界において、モデル、カメラマン、ヘアメイク、スタイリスト等、プロ同士が各自のポートフォリオ(モデルの場合はコンポジ)の充実のために協力して写真を撮ることを「作品撮り」と呼んでいたはずです。
この場合、別に作家性が強い写真を撮ることを作品撮りと呼んでいるわけではありません。
そこへ昨今、アマチュアカメラマンにも写真を他人に見せることが簡単になり、アマチュアがプロの言葉だけを真似て「作品撮り」という言葉を使うようになったことによって、「作品撮り」という言葉が大袈裟に捉えられたり、どっちの「作品撮り」を指しているかわからなくて混乱を呼んでいる気がしています。
いつも動画で勉強させていただいています。
もの、モデルを伝えるものor それ自体が伝えたいことみたいな感じかなと思っていました。
図面とグラフィック表現みたいな感じです。どちらも要素は一緒ですが、手段として写真なのか写真が伝えたいものなのか。
自分が作品と思えば作品。自己に帰結するのかなと。
作品って言った方が相手にわかりやすい