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ありがとうございます!ついに次回は吉川さまとの対談ですね。非常に楽しみです!!今回のお話を踏まえると、関ヶ原のお話が吉川家内でどう語り継がれているのかなども触れられるんですかね?興味深いです秀吉の九州攻めと毛利家の関係はあまり知らなかったので勉強になりました。調べてみようと思います!!
いつもいつも、ありがとうございます!そして、お心遣いにも感謝です!
新幹線車窓から🚄「佐和山城」の看板が見えますね🏯そもそも輝元公が西軍総大将になったのが、謎🤔
え?それは、気づかなかった、、、近日、新幹線で徳山に戻るので、探してみよう👍謎、、ですか。
関白秀吉は亡くなり、豊臣家の為に戦う理由が無いでしょう👋散々利用されて、恩も義理もないのに何故総大将になったのだろうか🤔?と、思ってました。関ヶ原後に領土を減らされたのは、伊達政宗と同じ事をしていたからではないだろうか?
確かにね、、、👍
みなさんは、とても歴史に詳しいですね。私なんか全然勉強不足です。毛利家歴史チャンネルで、故郷を愛する心を教わりました。今後私のように多くの人が、歴史素人から歴史好きになっていくのを願っています。殿、これからもよろしくお願いします。
いつもありがとうございます😊ここにコメント下さる方々は猛者です(笑)もう少し、馴染める動画にしなきゃいけませんね。こちらこそ、同郷のよしみで、今後とも宜しくお願いいたします🙇
就慶公。益々のご活躍ご健康をお祈りし、徳山毛利家の弥栄をお慶び申し上げますm(_ _)m関ヶ原~~~・・・????うぅ~~~ン?????( ,,`・ω・´)ンンン?いやぁ~毛利家のお立場・視点から見ますと通説の解釈こそ至極もっともだなぁ・・・とお話をお伺い致しますとさもありなん。と受け止めるのですが・・・広家公、秀秋公も“家康の調略”によって東軍へ寝返った。昔から関ヶ原に関しては学者所説の論争が喧々諤々ありまして。最近は事の発端上杉討伐の原因とされる直江兼続の挑発文「直江状」さえも後世の創作。戦場も関ヶ原ではなく中山道赤坂宿辺りで開戦早々小早川軍が要衝を抑えていた大谷吉継軍を急襲、撃破したため西軍は大混乱。戦は正午どころか開戦1時間で既に終わっていた。と別府大学の白峰教授。お城大好き城郭考古学で有名な奈良大学千田教授等が提唱しております。実際家康の調略の被害者は毛利家はおろか五大老前田家、宇喜多家、そしてなぜかゴロかまされた細川家。特に宇喜多家はお家騒動にまで発展。家臣の半分近くが徳川家に寝返る程の大混乱になる始末。そういえば秀吉子飼いの賤ヶ岳7本槍福島正則、加藤清正、加藤嘉明等おねの方こと北政所を養母とする俗にいう「武断派」は、家康が実子のいない正妻(これがまた肝っ玉母ちゃんで気性が荒い)を大切に持ち上げうまく誑し込んだので関ヶ原以前より家康寄りだったと。人を化かす“タヌキ”とあだ名される家康ですが、人心掌握権謀術算に関しては秀吉に引けを取らない。いや元就公には及びませんがwww(ゴマすりw)戦術の吉川、戦略の小早川という比喩は非常に面白いですね!まさに仰る通りかと存じます。最も安芸国及び周辺国の地盤固め。江良、祝、蜂塚、内藤、宇都宮らの諸豪族制圧には元春公の武勲なければ成り立たなかったでしょう。こういう戦場で戦働きが長けている武将に求められるのは足軽一兵卒共々苦楽を共にする気概が重要です。毛利家の方の前で島津や家康の話をするのは大変申し訳ないのですが、島津の退口で有名な島津義弘公は常にお手製の傷薬を常備しており、傷を負った者は身分の上下関係なく自ら傷口に薬を塗ってやったと。それゆえ将兵一丸の結束となり世界戦史例の無い敵陣真正面突き抜けて退却するという「島津の退き口」が出来た。その辺の気遣いに関して元春公は主だった話が拾われていませんが、「元春様の為ならばこの命惜しくはない!」という将兵がほとんどだったでしょう。それとは反対に戦略の隆景公。あの秀吉に天下を取らせた天才軍師黒田官兵衛さえも尊敬したという、実は天下第一の知恵者は隆景公ではなかったのではないか?と愚考致します。戦乱の世も後半になると大大名に人数が絞られ天下争奪戦もいかに戦わずして敵より優位。ないしは自国の安堵を図る事に要点が移ります。というのも大大名どうしが白黒つけようと大戦をすればそれだけ犠牲が大きくなる。共倒れの恐れが非常に強い。武田・上杉の第四次川中島合戦がいい例です。こういう場合戦とは無縁(一応形として)の徳の高いお坊さん。毛利家ならば安国寺恵瓊。後北条家では板部岡江雪斎などの僧籍の者が外交役として交渉しますが、実務的な協議になると軍配者。後世でいう所の軍師が領土問題などの協議を行います。小早川隆景公と黒田官兵衛の両軍のブレーンが備中高松城を間に交渉の駆け引きを行いますが、その最中に本能寺の変勃発。秀吉中国遠征軍は主君織田信長の討ち死によって大混乱!・・・になるかと思いきや全くそうはならなかった!とある一説の話ですが、信長討ち死にの知らせは毛利方に既に入っていた。ややもすればここで秀吉を討ち取る事も不可能ではない!しかしあちらには天才軍師官兵衛がいる!欲をかいて下手に手を出せばどんな痛手を喰らうか分からん。ならばいっそ秀吉の仇討ちに手を貸して恩を売れば毛利家存続、本領安堵は間違いなく死守できる!父元就公が教訓状に残した「余計な戦をするな!巻き込まれるな!領土の保全を第一とせよ」の遺訓を守る事ができる!時に戦略とは「損して得とれ」という苦渋の決断ともなりますが、武家社会においてお家大事を優先することが良策。尚更主君の仇討ちは下剋上の乱世の中で途方もない美徳でした。それに隆景公は先の未来。恐らくこの秀吉が天下人となる。という所まで見えていたのではないか?現に官兵衛に乞われ毛利の軍旗を貸し。畿内で既に毛利は我々の軍門に下り、後ほど大軍を連れてくるので我々の味方になる方が得であるとの流言飛語で畿内勢力を秀吉方にまとめあげた。そして中国大返しの際武具甲冑並びに軍事物資は船を使って運び、先に摂津の港まで運んだ。このような手助けができるのは水軍豪族の小早川隆景公しかおりません。今回は以前にもまして長文、駄文につき頓首再拝九叩頭でございます。どうぞ就慶公の戦術力・戦略力にてご容赦賜りたく。伏してお願い申し上げます。
いや!相変わらずの素晴らしい論説でした✨とても、勉強にもなります。幅が広いですねえ👍👍👍
@@mourihistory お返事遅くなりまして申し訳ございません。殿よりの感状誠に有難き幸せm(_ _)m子々累代末代までの家宝とさせて頂きま💖(´∀`*)ポッ
またまたあ(笑)でも、いつも感心仕切りです!
@@mourihistory おぉ!そうじゃ!そげんこつゆうちょる場合じゃねかったんっじゃ!殿は元就公、実際は吉川元春公が先陣切っての安芸国及び周囲の国人衆平定戦において鎮圧した宮氏っちゅう豪族がおったんを・・・ご存知ですよねぇ?(;^ω^)こん宮一族の生き残りの末裔が今大人気の吉本芸人におっちょるんですわ!なんと岡山弁漫才コンビで有名なあの千鳥のノブさん!本名早川信行さん!ちゅうか某国営放送の自分のルーツを辿るっちゅう人気の番組でもう紹介されちょんのですが、樹齢450年以上の老木。国の天然記念物「早川のカヤ」(井原市芳井町)という名勝がございましてのう!宮一族の生き残りが逃れ逃れて備後国と備中国の国境にたどり着きます。その時いつの日にか毛利氏により追われた故地を取り戻さんと願いカヤの木を植樹した。それが起源だそうで。また今回も駄文・長文過ぎまして失礼致しましたが、かつての仇敵の末裔の方々と交誼の対談を重ねあそばす殿にとりましては、ノブさんとの対談企画(恐らく吉本興業挟んでとなりますでしょうからギャランティー交渉必要になると思いますが😢)かなり面白い企画になり、当チャンネルの益々の発展に繋がるものと豊前国国人衆一同うやうやしく就慶公謹言奉ります事何卒お許し賜りたく頓首再拝m(_ _)m
某総理大臣を揶揄したコメディアンが、安倍政権の経済対策を毛利家三本の矢になぞらえて”三本の矢が折れれば六本になる。より頑丈になるから問題ない”などと言って笑いを誘っていましたが、神ならぬ人間、兄弟肉親と言えど、意思・感情の疎通は容易でなく、むしろ他人の始まりだという事も認識させられます。
安倍さん。三本の矢。良く提示してましたもんね(笑) 今、現代でも骨肉の争いは絶えません。難しいですね、、、
私にとって初めて見た大河ドラマは1997年の「毛利元就」です!!当時、弱小国衆だった毛利家を守る為、謀略の鬼となり大内・尼子を呑み込み成長を続けた元就公偉大な父と優秀な弟二人に悩みながらも次期当主として奮闘を続けるも夭折してしまった隆元公類い稀な武勇で御家存亡を掛けた大戦を豪快に勝ち抜き暴れ回った常勝無敗の豪傑吉川元春公父譲りの権謀術数を駆使して毛利家を盤石なモノと成し後に太閤秀吉も認めた名将小早川隆景公私が、歴史オタクにハマるキッカケになりました!!
コメントありがとうございます😊あの、大河は本当に面白かったですね。それが、入り口とは👍👍👍👍
元春公だけが秀吉に対して首を立てに降らなかった人物、其だけでも生涯無敗の証、歴史上にもっと評価されたし、、、と個人的に思います。
あ、嬉しいです。確かに!本当に、もう少し皆さんに知られて評価されたら良いですよね。
近年の研究では秀秋は開戦前から東軍だった説が有力ですね
はい!確かにその節も出てますね👍
錦帯橋の近くの吉香公園に吉川広家の像ができたので一度見に来てください
はい! 今回、吉川様の案内で行って参りました👍カッコ良かった!
驚き!あのマツダ3代目RX-7rotary engine開発責任者が、毛利家の人だったとは!
そうなんです! とても、優秀なんでしょうね。
最近マツダの株式投資を応援と見込の関係で少々しましたが、まさか小早川家の方がいらっしゃるとは恐れ多いです^o^)💦
マツダは今も、いい車作ってますよね👍👍優秀なんですよ。小早川さん!
武の元春、智の隆景のイメージですね
その通りですね! お互い併せ持ってはいるのでしょうけど。
錦帯橋のバック、雨のツーショット、楽しみです♪あと獺祭とか出てくるかな?
いや、、、岩国藩、、、吉川家、、、底力拝見してきました。凄い!夜は、ワインでした(笑)
前田、上杉、毛利。は狙われてたんですね。
ですね! 徳川の基盤を盤石にするために、、、。
この辺りからチャンネル登録をした気がします。まさに琴線のお話しを聞くことが出来ました。元春 元長の相次ぐ死去… 関ヶ原以降の小早川家への家臣同士の内紛操作狡猾 謀略がうごめく中、武家の毛利家にとって戦のない時代を生き抜くことの方が大変だったのかも知れません。また明治期小早川家をしっかり毛利家が再興していることは素晴らしいです。一度小早川秀秋についてお尋ねしたいと思っていたのですが良く教科書や検索で出てくる秀秋画はホントに御本人なのでしょうか…。本人ならかわいそ過ぎます。
当初から応援頂いてありがとうございます😊やはり、この辺りが一番面白いかも知れませんね。そして、あの肖像画。。。後世のプロパガンダで作成されたのでは?
民草1号今回のお話し最高でした。
いつもいつも、お褒めに預かり光栄です✨
小早川家も波乱な家なんですね!復活できて良かったです!
そうなんです。時代に、翻弄された感じですね。
お疲れさまです。本日殿がお話されていた吉川広家の密約が「大乱関ヶ原」の4巻に取り上げられておりました。広家が恵瓊に・自分が家康と通じておくから東軍が勝っても毛利家存続を取り計らう、西軍が勝ったら家康と通じた者として私を処罰せよ総てはお家存続の為・的なそして4巻では輝元公大活躍 上杉討伐で内乱必死の豊臣政権をまとめ上げて五大老の宇喜多・上杉・前田(利家亡くなって混乱中)五奉行は全員毛利家支持にまわって反徳川派形成されておりました。某大河ドラマでは少し落ち着きのない大名として描かれていたそうですが史実では日本史の転換期を引き起こした人物間違いなし。某大河ドラマの脚本・演出家は輝元像を改めるべし。ネタバレ失礼しました。来週は殿×殿の対談動画楽しみです。
おお!佐藤さん!。タイムリーですね。わかってもらえて嬉しい(涙)しかし、勉強されてますねえ。
前回のコメントの続きみたいな感じになりますが、元春が正式に吉川家の次期当主に決定する直前に元就公は隆元公に家督を譲り、表向きは隠居の身分になりますが、しかしその実、すべての実権を元就公が握るわけです。🙂それが戦国大名毛利家の始まりと言っていいわけですが、逆に言えば、隆元公が毛利家を継げる器であったからこそ元就公は得意の戦略の才を思い切り振るえたわけだし、元春、隆景も思い切り後世に残る実績を残せたわけです。😄そうなると、過小評価されがちな隆元公こそが扇の要のような存在と言えるのかも知れません。毛利家を戦国大名に成長させた隠れた功績者、隆元公にもっとスポットライトが当たってほしいと切に願います。🤩実質的に毛利両川を引き継いだのは吉川広家と毛利秀元で、小早川秀包は筑後久留米で13万石の独立大名となっていたので、ほぼ毛利の家政に関与できず。😅殿の解説通り小早川秀秋は豊臣一族なので、隆景引退後は実質小早川本家は乗っ取られた形。秀秋の小早川家相続が確定すると隆景が急速に出世していますが、隆景の家格を上げてそれを秀秋に継がせる事で秀秋に花を持たせようとする秀吉の思惑だと思われるので、古くから仕えている小早川譜代や毛利家からの出向家臣は肩身が狭くなるのが目に見えるので隆景についていき、隆景没後は毛利家に再雇用されていますね。その代表例が以前殿の動画で取り上げた清水宗治の嫡男清水景治や、益田元祥の次男益田景祥です。しかし吉川広家も毛利秀元もそれぞれに思惑があり、主君の輝元公とのずれもあり、これが家康の毛利家内部に対する干渉を招いてしまった事が関ヶ原の敗戦を招いた一因である事を考えると、隆景が亡くなった時点で毛利両川が実質的に消滅したと考えていいと思います。😫隆景没後から防長二国への減封に伴う輝元公の家督譲渡までの4年間(1597~1601)は元就公以後の毛利家の歴史の中では異常事態のような輝元公の独裁政権であり、それは元就公の作り上げた仕組みをある意味否定したような形であり、関ヶ原の敗戦は輝元公の独裁政権に対する通信簿なんだろうなと。🥺輝元公が養子に出ていた各毛利一門を毛利に復姓させ、一門六家を創設したのは、毛利両川に代わる新しい毛利宗家を支える仕組みを復活させようという狙いがあり、さらに自ら秀就公に家督を譲ったのは、かつての元就公や豊臣政権時代の隆景ポジションに輝元公がなることで、江戸期の毛利家を生き残らせる狙いがあると考えられます。結果的にこれは功を奏し、江戸期を乗り切り現在まで続いていますから、吉川家当主様がどのような話が出るか、今から楽しみです。😆
本当に隆元公にスポットを!そして、本当に素晴らしいまとめ。流石だなあ、、、🙏🙏🙏👍👍😁
殿様が家康と同じ立場でしたら、豊臣の内輪揉めしてる時、どうされます?又、戦後の賞罰はどのようになされます。
うーん!それは、難しいですね。家康のやり方を知ってしまっているので、、、。ただ、もう少し温和な解決策を見いだしますかね。それが、命取りかも(笑)
毛利元就の良いところをそれぞれ受け継いた三人の子息達。そして正室以外の子息達もそれぞれ優秀な武将。
そう!本当に子供にも恵まれた元就ですよね!😃
お疲れ様です😊タイトルが火サスのタイトルみたいでドキドキしながら見ました(*^^*)何回か繰り返し見て勉強します(笑)
いつもありがとうございます!なんか、嬉しい!😁
武の元春公・知の隆景公かっこよすぎる!隆景公が輝元公の教育係をやってて超絶スパルタで教育してたってエピソード本当なんですかね?
いつもありがとうございます!2人とも、めちゃくちゃ厳しかったみたいですよ👍
殿、動画撮影お疲れ様でございました。今回も大変勉強になりました。秀包も嫡子としてででなくても小早川家に籍をを残していれば、今頃に隆景公に認められた正統な小早川家が存続していたのにな、と考えてしまいます。三原5万石の引継ぎでも良いと思いますし。学生の頃から毛利家の本やら資料は沢山読んできましたが、御大将自ら語られると深みが全然違いますね。何と言うか人間同士の関わりの裏側が垣間見えるというか、さすがは勤勉でいらっしゃる御一門ならでは、という気がいたしました。次回も楽しみにしています。
いやいや!なかなか、勉強してらしてビックリ。凄いですね👍
三原には三万石せんべいというお菓子があります。
へえ! 知らなかった。小早川の三万石でしょうか?👍👍👍
毛利家の相関関係は複雑でなかなか理解するのが大変です。それぞれ優秀な人物も多くこれらも評価が高くなる人物として吉敷毛利の祖 秀包もその一人だと思います。関ヶ原の時は彼は小早川の筑紫の領地である確か久留米で家臣が東軍の鍋島軍、黒田軍を迎え撃ってますね。有能な武将が毛利家は何人いたのやら。元就公の遺伝子が幕末には養子縁組みを通じ、一門八家はもちろん高禄の家臣団の殆んどに繋がっています。驚く家系です。
刀禰さん!と、言いながら把握してる刀禰さんは凄い(笑)そうかあ、元就の血は様々に受け継がれてるんですね!👍
関ヶ原の戦いで東軍が勝ったのは、西軍のまとまりが悪かった事が原因でしたね。石田三成が、相手や周りの配慮を欠いた言動や行動をしていたり、裏方として活躍をしていた事で表に立つ活躍に向いていなかったりと、やはり表に立つ活躍をする時は家康のように表に立つ活躍の経験と相手や周りに配慮する行動や言動が大切ですね!
南の方はいとこってことばいか?~(=^・ω・^)σ
そうなるバイね!😨
@ ま〜いとこならギリokばいねあんまり続くとあかんやろけど~(=^・ω・^)σ
殿おはようございます😊秀吉の甥っこ、もらわない方が良かったと思うんですが、なかなか断ること出来なかったんですね…💦どのドマだったかな?ねねさんが小早川秀秋に家康につくように諭してるシーンがあったんですが、割と早い段階で三成を裏切る予定というか要素があったんですかね…?
またまた、良く勉強されてますね👍👍あ、秀秋に関しては、、、うーん。難しい質問だなあ!
益田氏では元春が攻めてくるって噂だけで家臣一同パニック状態になってます。藤兼も生きた心地がしなかったと思われます。😂
おおおお!やはり👍👍👍あ、そちらにも是非、伺わないとですね!
これからワクワクが続くなぁ。
はい!とうとう、ご当主が参上です✨
毛利目線ありがとうございます。小早川秀秋の裏切りは最近では否定されていて、布陣が西軍ではありえない場所だったことからも伺えます。あの鉄砲掛けの逸話は小説の中の物語です。ちなみに石田三成は関ケ原の首謀者ではなく、現役奉行衆の増田や長束により輝元も三成も担ぎ出された、というほうが出陣しなかった輝元公と出陣するしかなかった三成公という構図が成り立ち自然だと思います。
いつもありがとうございます!確かに、それは言えるなあ、、、👍👍
殿、投稿お疲れ様です。吉川広家の養子の話というのは、もともと吉川松寿丸が小笠原氏に養子に行く話で、松寿丸が早逝したために広家が養子に行きたいと言い出した話だったと思い出しました。去年の話なのですが、吉敷毛利家の企画展が山口の歴史民俗資料館であったので、見に行きました。すごく面白かったです。毛利秀兼の肖像画が間近に見ることもできました。さて、とうとう会談が迫ってきて、吉川重幹様のお話も聞けることに大変光栄です。殿×殿第二弾、ものすごく楽しみです!!
おお!流石、勉強されてますね👍👍あ、それ、僕も行きたかったです!いよいよ、今週になります!
勇の吉川と智の小早川を上手くコントロール出来たのは仁の毛利隆元ではないかと思います。
おお!流石。いい得て妙です!
遅くなりました。ふと思ったのですが毛利家の強さはやはり血縁軸なのではないでしょうか…😊(それだけではありません、勿論。)でも血縁軸は本当に大切であり、毛利家お一人お一人が「全ては毛利の為に」的ですよね。かっこいい!次のご対談楽しみです。"吉香神社は友人に連れられ何度か参りました。…御兄弟でしっかりお守りされていると思います。😊(そうであります様願っています。)"
やはり、血は結束を高めるんですかね。これもまた、大事な事かも知れませんね。そして、え?え?吉香神社、、、御兄弟って、、、。そこまで知ってる、、、とは。
関ヶ原での広家のエピソードは何度聞いても辛いですね「毛利家一門」の説明はノートに書き写します!これは覚えられない😅次回の岩国での対談も楽しみにしております
うわ!凄い勉強熱心(笑)いつもありがとうございます😊
お疲れ様です。いつも楽しく拝見しています。吉川元春は尼子氏討伐の陣中で太平記を書写した逸話が有名ですね。小早川隆景公は黒田官兵衛(くゎんびょうゑ)公に対し「貴殿はあまりに頭が良く物事を即断即決してしまうことから後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから十分に時間をかけたうえで判断するので後悔することが少ない」と言ったとされる逸話が有名ですね。薩摩藩豆知識第23弾(だいぶ長くなってきました)大混乱に陥った龍造寺軍に見つからないように山手側から隆信本陣を目指す若武者がいた。本陣にはでっぷりと肥えた体躯の隆信本人が床几に腰かけていた。隆信は周囲の兵が喧嘩しているものと思い隆信の前で喧嘩をするなと兵を叱り飛ばした。そこに軍議の席で「隆信の頸を取る」と宣言した川上忠堅が隆信の駕籠かきを槍で突いた。慌てた駕籠かきたちは隆信を置いて逃げ出した。護る者がいなくなった隆信は忠堅によってあっさりと首を討たれた。総大将隆信の死によって龍造寺軍は算を乱して敗走した。島津・有馬連合軍は三会城まで追撃を行った結果二千の戦死者と三千の負傷者を出し木下正直以外の龍造寺四天王、江里口信常、円城寺信胤、成松信勝、百武賢兼ら重臣たちが多数討死した。
隆景と官兵衛。どちらが知恵者なのか、、、そして、やっぱり でっぷり なんだ!とうとう、やられてしまったあ、、、
三原かぁ😅。懐かしいなぁ。20年近く前、仕事の関係で三原市に1年半住んでました😊。小早川の城があるって言うのは聞いてましたよ。
良いところですよね。三原城は、海城で秀吉も褒め称えたとか👍
吉川元春は山陰戦略の要だったともきくので、あちらがわは石見銀山とかがあって地域の人たちが金持ちなので当然戦闘経験も豊富で武器もいいものを持っていたはずでものすごく経営が難しいエリアのはずですけど目立った内乱もなく統治しているのと吉川元春の嫁とりの逸話は実は諸葛孔明の嫁とりになぞらえているんじゃないかという説を聞いたんで、実は大規模な戦略のほうも高く評価されていた可能性もあるのかも?というわけで、吉川さんとの対談回たのしみにしてます。
いや、おっしゃる通りだと思います!実は、文武にも優れ、大きな目で見られる元春公だったと思います。
毛利輝元の考え的に吉川広家が出て毛利秀元も出てたら小早川秀秋の裏切りもなかったんじゃないかと思ったんじゃね?~(=^・ω・^)σそしたらワンチャンあったんじゃね?的な?
そうだねえ、、、。それは、本当に歴史のIf バイね!
@ もしを言ってたらなんでもありになるからおいら好きじゃないけど考えてしまう時あるばい(。-`ω´-)ンー
毛利家の血を引く殿の話、鳥肌が立ちます。世襲...本来は治める民たちを命がけで守る時代時代の猛将たちの間のことだと思います。私利私欲だけの奴らを表す言葉ではないと思います。
ありがとうございます😊私利私欲に走ったら、おしまいですね。でも、最近の政治家などは、、、。
@mourihistory わかっちゃいましたか…明日も御安全に。
つい最近輝元を考察してる動画を見てたのですが、輝元、広家、秀元と仲が悪く広家、秀元とお互いの思惑かドロドロしててよく潰れなかったな!と思った。(笑)
ですね。その辺も、想像の域を出ないのですが、やはりそうだったのかも知れませんね。その辺も、今後の対談で出てくるかも👍
毛利家の話は深いね〜😲それを頭の中に入れてる殿は凄い❗次回、吉川家当主との会談、楽しみだよ👍
ありがとう!福島。返信遅くなりました🙏
吉川家と言えば、元春公、関ヶ原で兵を動かさなかった広家公、幕末の様々な危機を救った経幹公などを輩出した凄い藩、やはり、元就公の「三矢の訓え」が、浸透しているのでは?秀包公は、元就公が70過ぎてからの子という事で、随分可愛がられたとか、、。また「天下無双」と言われた立花宗茂公と義兄弟の様だったんですね。凄さがわかります。やはり、1番聞きたいのは、関ヶ原の時の広家公の思いです。日記の様なものが残っていれば教えていただきたいです。対談、いよいよですね。楽しみです‼️
う~~ん。すずさんは、良く勉強してますね👍👍的を得すぎてる(笑)さて、対談で聞けるか否か。
私の情報の殆どは、乱読の歴史小説と歴博の講演会の資料からですが、多くの小説家がビックリする様な新説や解釈があれば、是非お聞きしたいので、そこは頑張って頂きたいです🙇♀️
プレッシャー(笑)
吉川元春は孫武みたいな感じちゃうと?目立つのは戦が始まってから~(=^・ω・^)σ戦略も見れるから隠居したんじゃないと?隆景はプラスアルファで政治的感情も見れる目があったのかな?
おお!なんか最近、コメントが大人になってきたバイ😁
@ 大人( ̄^ ̄) エッヘン
アップありがとうございます^_^センター街で、って例えがわかりすぎますっ。(あと、やはり次は獺祭ゆかりの地の方ですね^_^)
こちらこそです✨傾奇者だったんですよね。そう!岩国のお殿様です。
あれ?小早川秀秋って岡山城で最後迎えたとおもったけど違うと?キョロ(・ω・`三′・ω・)キョロ
そうバイね👍👍👍福岡はその前。
@ 岡山城コンクリートばいシャキ━━ヾ(๑`꒳´๑)ノ━━ン
小早川秀包の息子の代で小早川は断絶したんじゃないの?
そうですね、その時に断絶しましたが、明治維新に男爵家として復活してるんですね。
吉川元春公、元長公のお墓。とてもきれいに整備されていますよね。元春館の周辺、開発もされておらず当時から時間が止まっています。関ヶ原のときに、元春、隆景両氏がいなくとも、戦経験豊富で毛利戦術を理解している小早川秀包と吉川元長がいれば、結果がどうなっていたかわかりませんね。本当に残念です。そうは言っても、実際は元長が毒殺(可能性)され、秀秋が入ったという時点で、すでに両川体制は弱体化されていたという感も受けます。全員若武者ですからね、家康に勝てないですよね。であれば広家の選択もわかる気がします。
いつもありがとうございます😊元春公の墓所は元就公と同じく、凛としたものがありますね。 そして、中々、通な分析👍👍👍
ありがとうございます!ついに次回は吉川さまとの対談ですね。非常に楽しみです!!今回のお話を踏まえると、関ヶ原のお話が吉川家内でどう語り継がれているのかなども触れられるんですかね?興味深いです
秀吉の九州攻めと毛利家の関係はあまり知らなかったので勉強になりました。調べてみようと思います!!
いつもいつも、ありがとうございます!
そして、お心遣いにも感謝です!
新幹線車窓から🚄「佐和山城」の看板が見えますね🏯
そもそも輝元公が西軍総大将になったのが、謎🤔
え?それは、気づかなかった、、、
近日、新幹線で徳山に戻るので、探してみよう👍
謎、、ですか。
関白秀吉は亡くなり、豊臣家の為に戦う理由が無いでしょう👋
散々利用されて、恩も義理もないのに何故総大将になったのだろうか🤔?と、思ってました。
関ヶ原後に領土を減らされたのは、伊達政宗と同じ事をしていたからではないだろうか?
確かにね、、、👍
みなさんは、とても歴史に詳しいですね。私なんか全然勉強不足です。
毛利家歴史チャンネルで、故郷を愛する心を教わりました。今後私のように多くの人が、歴史素人から歴史好きになっていくのを願っています。殿、これからもよろしくお願いします。
いつもありがとうございます😊
ここにコメント下さる方々は猛者です(笑)
もう少し、馴染める動画にしなきゃいけませんね。
こちらこそ、同郷のよしみで、今後とも宜しくお願いいたします🙇
就慶公。益々のご活躍ご健康をお祈りし、徳山毛利家の弥栄をお慶び申し上げますm(_ _)m
関ヶ原~~~・・・????うぅ~~~ン?????( ,,`・ω・´)ンンン?
いやぁ~毛利家のお立場・視点から見ますと通説の解釈こそ至極もっともだなぁ・・・とお話をお伺い致しますとさもありなん。と受け止めるのですが・・・広家公、秀秋公も“家康の調略”によって東軍へ寝返った。
昔から関ヶ原に関しては学者所説の論争が喧々諤々ありまして。最近は事の発端上杉討伐の原因とされる直江兼続の挑発文「直江状」さえも
後世の創作。戦場も関ヶ原ではなく中山道赤坂宿辺りで開戦早々小早川軍が要衝を抑えていた大谷吉継軍を急襲、撃破したため西軍は大混乱。
戦は正午どころか開戦1時間で既に終わっていた。と別府大学の白峰教授。お城大好き城郭考古学で有名な奈良大学千田教授等が提唱しております。
実際家康の調略の被害者は毛利家はおろか五大老前田家、宇喜多家、そしてなぜかゴロかまされた細川家。特に宇喜多家はお家騒動にまで発展。
家臣の半分近くが徳川家に寝返る程の大混乱になる始末。そういえば秀吉子飼いの賤ヶ岳7本槍福島正則、加藤清正、加藤嘉明等おねの方こと北政所を養母とする俗にいう「武断派」は、家康が実子のいない正妻(これがまた肝っ玉母ちゃんで気性が荒い)を大切に持ち上げうまく誑し込んだので関ヶ原以前より家康寄りだったと。人を化かす“タヌキ”とあだ名される家康ですが、人心掌握権謀術算に関しては秀吉に引けを取らない。いや元就公には及びませんがwww(ゴマすりw)
戦術の吉川、戦略の小早川という比喩は非常に面白いですね!まさに仰る通りかと存じます。最も安芸国及び周辺国の地盤固め。江良、祝、蜂塚、内藤、宇都宮らの諸豪族制圧には元春公の武勲なければ成り立たなかったでしょう。
こういう戦場で戦働きが長けている武将に求められるのは足軽一兵卒共々苦楽を共にする気概が重要です。
毛利家の方の前で島津や家康の話をするのは大変申し訳ないのですが、島津の退口で有名な島津義弘公は常にお手製の傷薬を常備しており、傷を負った者は
身分の上下関係なく自ら傷口に薬を塗ってやったと。それゆえ将兵一丸の結束となり世界戦史例の無い敵陣真正面突き抜けて退却するという「島津の退き口」が出来た。その辺の気遣いに関して元春公は主だった話が拾われていませんが、「元春様の為ならばこの命惜しくはない!」という将兵がほとんどだったでしょう。
それとは反対に戦略の隆景公。あの秀吉に天下を取らせた天才軍師黒田官兵衛さえも尊敬したという、実は天下第一の知恵者は隆景公ではなかったのではないか?と愚考致します。
戦乱の世も後半になると大大名に人数が絞られ天下争奪戦もいかに戦わずして敵より優位。ないしは自国の安堵を図る事に要点が移ります。
というのも大大名どうしが白黒つけようと大戦をすればそれだけ犠牲が大きくなる。共倒れの恐れが非常に強い。武田・上杉の第四次川中島合戦がいい例です。
こういう場合戦とは無縁(一応形として)の徳の高いお坊さん。毛利家ならば安国寺恵瓊。後北条家では板部岡江雪斎などの僧籍の者が外交役として
交渉しますが、実務的な協議になると軍配者。後世でいう所の軍師が領土問題などの協議を行います。
小早川隆景公と黒田官兵衛の両軍のブレーンが備中高松城を間に交渉の駆け引きを行いますが、その最中に本能寺の変勃発。秀吉中国遠征軍は主君織田信長の討ち死によって大混乱!・・・になるかと思いきや全くそうはならなかった!
とある一説の話ですが、信長討ち死にの知らせは毛利方に既に入っていた。ややもすればここで秀吉を討ち取る事も不可能ではない!しかしあちらには
天才軍師官兵衛がいる!欲をかいて下手に手を出せばどんな痛手を喰らうか分からん。ならばいっそ秀吉の仇討ちに手を貸して恩を売れば毛利家存続、本領安堵は間違いなく死守できる!父元就公が教訓状に残した「余計な戦をするな!巻き込まれるな!領土の保全を第一とせよ」の遺訓を守る事ができる!
時に戦略とは「損して得とれ」という苦渋の決断ともなりますが、武家社会においてお家大事を優先することが良策。尚更主君の仇討ちは下剋上の乱世の中で途方もない美徳でした。それに隆景公は先の未来。恐らくこの秀吉が天下人となる。という所まで見えていたのではないか?
現に官兵衛に乞われ毛利の軍旗を貸し。畿内で既に毛利は我々の軍門に下り、後ほど大軍を連れてくるので我々の味方になる方が得であるとの流言飛語で
畿内勢力を秀吉方にまとめあげた。そして中国大返しの際武具甲冑並びに軍事物資は船を使って運び、先に摂津の港まで運んだ。このような手助けができるのは水軍豪族の小早川隆景公しかおりません。
今回は以前にもまして長文、駄文につき頓首再拝九叩頭でございます。どうぞ就慶公の戦術力・戦略力にてご容赦賜りたく。伏してお願い申し上げます。
いや!相変わらずの素晴らしい論説でした✨
とても、勉強にもなります。
幅が広いですねえ👍👍👍
@@mourihistory
お返事遅くなりまして申し訳ございません。
殿よりの感状誠に有難き幸せm(_ _)m
子々累代末代までの家宝とさせて頂きま💖(´∀`*)ポッ
またまたあ(笑)
でも、いつも感心仕切りです!
@@mourihistory
おぉ!そうじゃ!そげんこつゆうちょる場合じゃねかったんっじゃ!
殿は元就公、実際は吉川元春公が先陣切っての安芸国及び周囲の国人衆平定戦において鎮圧した宮氏っちゅう豪族がおったんを・・・ご存知ですよねぇ?(;^ω^)
こん宮一族の生き残りの末裔が今大人気の吉本芸人におっちょるんですわ!
なんと岡山弁漫才コンビで有名なあの千鳥のノブさん!本名早川信行さん!
ちゅうか某国営放送の自分のルーツを辿るっちゅう人気の番組でもう紹介されちょんのですが、樹齢450年以上の老木。国の天然記念物「早川のカヤ」(井原市芳井町)という名勝がございましてのう!
宮一族の生き残りが逃れ逃れて備後国と備中国の国境にたどり着きます。
その時いつの日にか毛利氏により追われた故地を取り戻さんと願いカヤの木を植樹した。それが起源だそうで。
また今回も駄文・長文過ぎまして失礼致しましたが、かつての仇敵の末裔の方々と交誼の対談を重ねあそばす殿にとりましては、ノブさんとの対談企画(恐らく吉本興業挟んでとなりますでしょうからギャランティー交渉必要になると思いますが😢)
かなり面白い企画になり、当チャンネルの益々の発展に繋がるものと豊前国国人衆一同うやうやしく就慶公謹言奉ります事何卒お許し賜りたく頓首再拝m(_ _)m
某総理大臣を揶揄したコメディアンが、安倍政権の経済対策を毛利家三本の矢になぞらえて”三本の矢が折れれば六本になる。より頑丈になるから問題ない”などと言って笑いを誘っていましたが、神ならぬ人間、兄弟肉親と言えど、意思・感情の疎通は容易でなく、むしろ他人の始まりだという事も認識させられます。
安倍さん。
三本の矢。良く提示してましたもんね(笑)
今、現代でも骨肉の争いは絶えません。
難しいですね、、、
私にとって初めて見た大河ドラマは1997年の「毛利元就」です!!
当時、弱小国衆だった毛利家を守る為、謀略の鬼となり大内・尼子を呑み込み成長を続けた元就公
偉大な父と優秀な弟二人に悩みながらも次期当主として奮闘を続けるも夭折してしまった隆元公
類い稀な武勇で御家存亡を掛けた大戦を豪快に勝ち抜き暴れ回った常勝無敗の豪傑吉川元春公
父譲りの権謀術数を駆使して毛利家を盤石なモノと成し後に太閤秀吉も認めた名将小早川隆景公
私が、歴史オタクにハマるキッカケになりました!!
コメントありがとうございます😊
あの、大河は本当に面白かったですね。
それが、入り口とは👍👍👍👍
元春公だけが秀吉に対して首を立てに降らなかった人物、其だけでも生涯無敗の証、歴史上にもっと評価されたし、、、と個人的に思います。
あ、嬉しいです。確かに!
本当に、もう少し皆さんに知られて評価されたら良いですよね。
近年の研究では秀秋は開戦前から東軍だった説が有力ですね
はい!確かにその節も出てますね👍
錦帯橋の近くの吉香公園に吉川広家の像ができたので一度見に来てください
はい! 今回、吉川様の案内で行って参りました👍
カッコ良かった!
驚き!あのマツダ3代目RX-7rotary engine開発責任者が、毛利家の人だったとは!
そうなんです! とても、優秀なんでしょうね。
最近マツダの株式投資を応援と見込の関係で少々しましたが、まさか小早川家の方がいらっしゃるとは恐れ多いです^o^)💦
マツダは今も、いい車作ってますよね👍👍
優秀なんですよ。小早川さん!
武の元春、智の隆景のイメージですね
その通りですね! お互い併せ持ってはいるのでしょうけど。
錦帯橋のバック、雨のツーショット、楽しみです♪
あと獺祭とか出てくるかな?
いや、、、
岩国藩、、、吉川家、、、
底力拝見してきました。凄い!
夜は、ワインでした(笑)
前田、上杉、毛利。は狙われてたんですね。
ですね! 徳川の基盤を盤石にするために、、、。
この辺りからチャンネル登録をした気がします。まさに琴線のお話しを聞くことが出来ました。
元春 元長の相次ぐ死去… 関ヶ原以降の小早川家への家臣同士の内紛操作
狡猾 謀略がうごめく中、武家の毛利家にとって戦のない時代を生き抜くことの方が大変だったのかも知れません。また明治期小早川家をしっかり毛利家が再興していることは素晴らしいです。
一度小早川秀秋についてお尋ねしたいと思っていたのですが良く教科書や検索で出てくる秀秋画はホントに御本人なのでしょうか…。本人ならかわいそ過ぎます。
当初から応援頂いてありがとうございます😊
やはり、この辺りが一番面白いかも知れませんね。
そして、あの肖像画。。。
後世のプロパガンダで作成されたのでは?
民草1号
今回のお話し最高でした。
いつもいつも、
お褒めに預かり光栄です✨
小早川家も波乱な家なんですね!
復活できて良かったです!
そうなんです。
時代に、翻弄された感じですね。
お疲れさまです。本日殿がお話されていた吉川広家の密約が「大乱関ヶ原」の4巻に取り上げられておりました。広家が恵瓊に・自分が家康と通じておくから東軍が勝っても毛利家存続を取り計らう、西軍が勝ったら家康と通じた者として私を処罰せよ総てはお家存続の為・的な
そして4巻では輝元公大活躍 上杉討伐で内乱必死の豊臣政権をまとめ上げて五大老の宇喜多・上杉・前田(利家亡くなって混乱中)五奉行は全員毛利家支持にまわって反徳川派形成されておりました。
某大河ドラマでは少し落ち着きのない大名として描かれていたそうですが史実では日本史の転換期を引き起こした人物間違いなし。某大河ドラマの脚本・演出家は輝元像を改めるべし。
ネタバレ失礼しました。
来週は殿×殿の対談動画楽しみです。
おお!佐藤さん!。
タイムリーですね。
わかってもらえて嬉しい(涙)
しかし、勉強されてますねえ。
前回のコメントの続きみたいな感じになりますが、元春が正式に吉川家の次期当主に決定する直前に元就公は隆元公に家督を譲り、表向きは隠居の身分になりますが、しかしその実、すべての実権を元就公が握るわけです。🙂
それが戦国大名毛利家の始まりと言っていいわけですが、逆に言えば、隆元公が毛利家を継げる器であったからこそ元就公は得意の戦略の才を思い切り振るえたわけだし、元春、隆景も思い切り後世に残る実績を残せたわけです。😄
そうなると、過小評価されがちな隆元公こそが扇の要のような存在と言えるのかも知れません。毛利家を戦国大名に成長させた隠れた功績者、隆元公にもっとスポットライトが当たってほしいと切に願います。🤩
実質的に毛利両川を引き継いだのは吉川広家と毛利秀元で、小早川秀包は筑後久留米で13万石の独立大名となっていたので、ほぼ毛利の家政に関与できず。😅
殿の解説通り小早川秀秋は豊臣一族なので、隆景引退後は実質小早川本家は乗っ取られた形。秀秋の小早川家相続が確定すると隆景が急速に出世していますが、隆景の家格を上げてそれを秀秋に継がせる事で秀秋に花を持たせようとする秀吉の思惑だと思われるので、古くから仕えている小早川譜代や毛利家からの出向家臣は肩身が狭くなるのが目に見えるので隆景についていき、隆景没後は毛利家に再雇用されていますね。その代表例が以前殿の動画で取り上げた清水宗治の嫡男清水景治や、益田元祥の次男益田景祥です。
しかし吉川広家も毛利秀元もそれぞれに思惑があり、主君の輝元公とのずれもあり、これが家康の毛利家内部に対する干渉を招いてしまった事が関ヶ原の敗戦を招いた一因である事を考えると、隆景が亡くなった時点で毛利両川が実質的に消滅したと考えていいと思います。😫
隆景没後から防長二国への減封に伴う輝元公の家督譲渡までの4年間(1597~1601)は元就公以後の毛利家の歴史の中では異常事態のような輝元公の独裁政権であり、それは元就公の作り上げた仕組みをある意味否定したような形であり、関ヶ原の敗戦は輝元公の独裁政権に対する通信簿なんだろうなと。🥺
輝元公が養子に出ていた各毛利一門を毛利に復姓させ、一門六家を創設したのは、毛利両川に代わる新しい毛利宗家を支える仕組みを復活させようという狙いがあり、さらに自ら秀就公に家督を譲ったのは、かつての元就公や豊臣政権時代の隆景ポジションに輝元公がなることで、江戸期の毛利家を生き残らせる狙いがあると考えられます。
結果的にこれは功を奏し、江戸期を乗り切り現在まで続いていますから、吉川家当主様がどのような話が出るか、今から楽しみです。😆
本当に隆元公にスポットを!
そして、本当に素晴らしいまとめ。
流石だなあ、、、🙏🙏🙏👍👍😁
殿様が家康と同じ立場でしたら、豊臣の内輪揉めしてる時、どうされます?又、戦後の賞罰はどのように
なされます。
うーん!それは、難しいですね。
家康のやり方を知ってしまっているので、、、。
ただ、もう少し温和な解決策を見いだしますかね。
それが、命取りかも(笑)
毛利元就の良いところをそれぞれ受け継いた三人の子息達。そして正室以外の子息達もそれぞれ優秀な武将。
そう!本当に子供にも恵まれた元就ですよね!😃
お疲れ様です😊
タイトルが火サスのタイトルみたいで
ドキドキしながら見ました(*^^*)
何回か繰り返し見て勉強します(笑)
いつもありがとうございます!
なんか、嬉しい!😁
武の元春公・知の隆景公
かっこよすぎる!
隆景公が輝元公の教育係をやってて超絶スパルタで教育してたってエピソード本当なんですかね?
いつもありがとうございます!
2人とも、めちゃくちゃ厳しかったみたいですよ👍
殿、動画撮影お疲れ様でございました。
今回も大変勉強になりました。
秀包も嫡子としてででなくても小早川家に籍をを残していれば、
今頃に隆景公に認められた正統な小早川家が存続していたのにな、と考えてしまいます。
三原5万石の引継ぎでも良いと思いますし。
学生の頃から毛利家の本やら資料は沢山読んできましたが、
御大将自ら語られると深みが全然違いますね。
何と言うか人間同士の関わりの裏側が垣間見えるというか、
さすがは勤勉でいらっしゃる御一門ならでは、という気がいたしました。
次回も楽しみにしています。
いやいや!なかなか、勉強してらしてビックリ。
凄いですね👍
三原には三万石せんべいというお菓子があります。
へえ! 知らなかった。
小早川の三万石でしょうか?👍👍👍
毛利家の相関関係は複雑でなかなか理解するのが大変です。それぞれ優秀な人物も多くこれらも評価が高くなる人物として吉敷毛利の祖 秀包もその一人だと思います。関ヶ原の時は彼は小早川の筑紫の領地である確か久留米で家臣が東軍の鍋島軍、黒田軍を迎え撃ってますね。有能な武将が毛利家は何人いたのやら。元就公の遺伝子が幕末には養子縁組みを通じ、一門八家はもちろん高禄の家臣団の殆んどに繋がっています。驚く家系です。
刀禰さん!
と、言いながら把握してる刀禰さんは凄い(笑)
そうかあ、元就の血は様々に受け継がれてるんですね!👍
関ヶ原の戦いで東軍が勝ったのは、西軍のまとまりが悪かった事が原因でしたね。
石田三成が、相手や周りの配慮を欠いた言動や行動をしていたり、裏方として活躍をしていた事で表に立つ活躍に向いていなかったりと、やはり表に立つ活躍をする時は家康のように表に立つ活躍の経験と相手や周りに配慮する行動や言動が大切ですね!
南の方はいとこってことばいか?
~(=^・ω・^)σ
そうなるバイね!😨
@
ま〜いとこならギリokばいね
あんまり続くとあかんやろけど
~(=^・ω・^)σ
殿おはようございます😊
秀吉の甥っこ、もらわない方が良かったと思うんですが、なかなか断ること出来なかったんですね…💦
どのドマだったかな?ねねさんが小早川秀秋に家康につくように諭してるシーンがあったんですが、割と早い段階で三成を裏切る予定というか要素があったんですかね…?
またまた、良く勉強されてますね👍👍
あ、秀秋に関しては、、、うーん。難しい質問だなあ!
益田氏では元春が攻めてくるって噂だけで家臣一同パニック状態になってます。藤兼も生きた心地がしなかったと思われます。😂
おおおお!やはり👍👍👍
あ、そちらにも是非、伺わないとですね!
これからワクワクが続くなぁ。
はい!とうとう、ご当主が参上です✨
毛利目線ありがとうございます。小早川秀秋の裏切りは最近では否定されていて、布陣が西軍ではありえない場所だったことからも伺えます。あの鉄砲掛けの逸話は小説の中の物語です。ちなみに石田三成は関ケ原の首謀者ではなく、現役奉行衆の増田や長束により輝元も三成も担ぎ出された、というほうが出陣しなかった輝元公と出陣するしかなかった三成公という構図が成り立ち自然だと思います。
いつもありがとうございます!
確かに、それは言えるなあ、、、👍👍
殿、投稿お疲れ様です。吉川広家の養子の話というのは、もともと吉川松寿丸が小笠原氏に養子に行く話で、松寿丸が早逝したために広家が養子に行きたいと言い出した話だったと思い出しました。
去年の話なのですが、吉敷毛利家の企画展が山口の歴史民俗資料館であったので、見に行きました。すごく面白かったです。毛利秀兼の肖像画が間近に見ることもできました。
さて、とうとう会談が迫ってきて、吉川重幹様のお話も聞けることに大変光栄です。殿×殿第二弾、ものすごく楽しみです!!
おお!流石、勉強されてますね👍👍
あ、それ、僕も行きたかったです!
いよいよ、今週になります!
勇の吉川と智の小早川を上手くコントロール出来たのは仁の毛利隆元ではないかと思います。
おお!流石。
いい得て妙です!
遅くなりました。
ふと思ったのですが毛利家の強さはやはり血縁軸なのではないでしょうか…😊(それだけではありません、勿論。)
でも血縁軸は本当に大切であり、毛利家お一人お一人が「全ては毛利の為に」的ですよね。
かっこいい!
次のご対談楽しみです。
"吉香神社は友人に連れられ何度か参りました。…御兄弟でしっかりお守りされていると思います。😊(そうであります様願っています。)"
やはり、血は結束を高めるんですかね。
これもまた、大事な事かも知れませんね。
そして、え?え?
吉香神社、、、御兄弟って、、、。
そこまで知ってる、、、とは。
関ヶ原での広家のエピソードは何度聞いても辛いですね
「毛利家一門」の説明はノートに書き写します!
これは覚えられない😅
次回の岩国での対談も楽しみにしております
うわ!凄い勉強熱心(笑)
いつもありがとうございます😊
お疲れ様です。いつも楽しく拝見しています。
吉川元春は尼子氏討伐の陣中で太平記を書写した逸話が有名ですね。
小早川隆景公は黒田官兵衛(くゎんびょうゑ)公に対し「貴殿はあまりに頭が良く物事を即断即決してしまうことから
後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから十分に時間をかけたうえで判断するので後悔する
ことが少ない」と言ったとされる逸話が有名ですね。
薩摩藩豆知識第23弾(だいぶ長くなってきました)
大混乱に陥った龍造寺軍に見つからないように山手側から隆信本陣を目指す若武者がいた。本陣にはでっぷりと
肥えた体躯の隆信本人が床几に腰かけていた。隆信は周囲の兵が喧嘩しているものと思い隆信の前で喧嘩をするなと
兵を叱り飛ばした。そこに軍議の席で「隆信の頸を取る」と宣言した川上忠堅が隆信の駕籠かきを槍で突いた。
慌てた駕籠かきたちは隆信を置いて逃げ出した。護る者がいなくなった隆信は忠堅によってあっさりと首を討たれた。
総大将隆信の死によって龍造寺軍は算を乱して敗走した。島津・有馬連合軍は三会城まで追撃を行った結果二千の
戦死者と三千の負傷者を出し木下正直以外の龍造寺四天王、江里口信常、円城寺信胤、成松信勝、百武賢兼ら重臣
たちが多数討死した。
隆景と官兵衛。どちらが知恵者なのか、、、
そして、やっぱり でっぷり なんだ!
とうとう、やられてしまったあ、、、
三原かぁ😅。懐かしいなぁ。
20年近く前、仕事の関係で三原市に1年半住んでました😊。小早川の城があるって言うのは聞いてましたよ。
良いところですよね。
三原城は、海城で秀吉も褒め称えたとか👍
吉川元春は山陰戦略の要だったともきくので、あちらがわは石見銀山とかがあって
地域の人たちが金持ちなので当然戦闘経験も豊富で武器もいいものを持っていたはずで
ものすごく経営が難しいエリアのはずですけど目立った内乱もなく統治しているのと
吉川元春の嫁とりの逸話は実は諸葛孔明の嫁とりになぞらえているんじゃないかという説を聞いたんで、実は大規模な戦略のほうも高く評価されていた可能性もあるのかも?
というわけで、吉川さんとの対談回たのしみにしてます。
いや、おっしゃる通りだと思います!
実は、文武にも優れ、大きな目で見られる元春公だったと思います。
毛利輝元の考え的に吉川広家が出て毛利秀元も出てたら小早川秀秋の裏切りもなかったんじゃないかと思ったんじゃね?
~(=^・ω・^)σ
そしたらワンチャンあったんじゃね?
的な?
そうだねえ、、、。
それは、本当に歴史のIf バイね!
@
もしを言ってたらなんでもありになるからおいら好きじゃないけど考えてしまう時あるばい
(。-`ω´-)ンー
毛利家の血を引く殿の話、鳥肌が立ちます。
世襲...
本来は治める民たちを命がけで守る時代時代の猛将たちの間のことだと思います。
私利私欲だけの奴らを表す言葉ではないと思います。
ありがとうございます😊
私利私欲に走ったら、おしまいですね。
でも、最近の政治家などは、、、。
@mourihistory わかっちゃいましたか…明日も御安全に。
つい最近輝元を考察してる動画を見てたのですが、輝元、広家、秀元と仲が悪く広家、秀元とお互いの思惑かドロドロしててよく潰れなかったな!と思った。(笑)
ですね。
その辺も、想像の域を出ないのですが、やはりそうだったのかも知れませんね。
その辺も、今後の対談で出てくるかも👍
毛利家の話は深いね〜😲
それを頭の中に入れてる殿は凄い❗
次回、吉川家当主との会談、楽しみだよ👍
ありがとう!福島。
返信遅くなりました🙏
吉川家と言えば、元春公、関ヶ原で兵を動かさなかった広家公、幕末の様々な危機を救った経幹公などを輩出した凄い藩、やはり、元就公の「三矢の訓え」が、浸透しているのでは?
秀包公は、元就公が70過ぎてからの子という事で、随分可愛がられたとか、、。また「天下無双」と言われた立花宗茂公と義兄弟の様だったんですね。凄さがわかります。やはり、1番聞きたいのは、関ヶ原の時の広家公の思いです。日記の様なものが残っていれば教えていただきたいです。対談、いよいよですね。楽しみです‼️
う~~ん。
すずさんは、良く勉強してますね👍👍
的を得すぎてる(笑)
さて、対談で聞けるか否か。
私の情報の殆どは、乱読の歴史小説と歴博の講演会の資料からですが、多くの小説家がビックリする様な新説や解釈があれば、是非お聞きしたいので、そこは頑張って頂きたいです🙇♀️
プレッシャー(笑)
吉川元春は孫武みたいな感じちゃうと?
目立つのは戦が始まってから
~(=^・ω・^)σ
戦略も見れるから隠居したんじゃないと?
隆景はプラスアルファで政治的感情も見れる目があったのかな?
おお!なんか最近、コメントが大人になってきたバイ😁
@
大人
( ̄^ ̄) エッヘン
アップありがとうございます^_^
センター街で、って例えがわかりすぎますっ。
(あと、やはり次は獺祭ゆかりの地の方ですね^_^)
こちらこそです✨
傾奇者だったんですよね。
そう!岩国のお殿様です。
あれ?
小早川秀秋って岡山城で最後迎えたとおもったけど違うと?
キョロ(・ω・`三′・ω・)キョロ
そうバイね👍👍👍
福岡はその前。
@
岡山城コンクリートばい
シャキ━━ヾ(๑`꒳´๑)ノ━━ン
小早川秀包の息子の代で小早川は断絶したんじゃないの?
そうですね、その時に断絶しましたが、明治維新に男爵家として復活してるんですね。
吉川元春公、元長公のお墓。とてもきれいに整備されていますよね。元春館の周辺、開発もされておらず当時から時間が止まっています。関ヶ原のときに、元春、隆景両氏がいなくとも、戦経験豊富で毛利戦術を理解している小早川秀包と吉川元長がいれば、結果がどうなっていたかわかりませんね。本当に残念です。そうは言っても、実際は元長が毒殺(可能性)され、秀秋が入ったという時点で、すでに両川体制は弱体化されていたという感も受けます。全員若武者ですからね、家康に勝てないですよね。であれば広家の選択もわかる気がします。
いつもありがとうございます😊
元春公の墓所は元就公と同じく、凛としたものがありますね。 そして、中々、通な分析👍👍👍