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素晴らしい講義でした。ありがとうございました!
天正大地震の復興を肩代わりし、家康を関東にさしむける、、、。まさに一石二鳥、一挙両得を図る秀吉の知恵ですね。
家康じゃないと東国事情分からんからな小田原征伐でも功が有った家康を関東に置くわな
では、秀吉による 体のいい 家康の左遷では無かったと?! 家康はどの時点で佐渡、やその他の金鉱に目をつけたのであろうか?
天正大地震は東海地方より近畿地方に大きな被害をもたらしそのために小牧・長久手の戦いで秀吉が家康を討ちきれなかった。
天正大地震で家康征伐のために集めた兵糧集積地の大垣城が大破したと聞いています。
干潟だったような土地を埋め立てをして、人々が豊かに暮らす国を築いたって、そんな国、世界の他の国であるのかな。並大抵の信念がないととてもできることじゃない。そして現代の今も東京はあって、首都として、人々が豊かに暮らしてる。家康の思い、信念、実現してく力、すごいかっこいい。
この動画みたらNHK大河ドラマ見なくても良いねそれ位素晴らしい!お話です。
どうする家康 。。興味深い歴史のお話しタイミング良くありがとうございます。ガマンしてガマンして弱いウサギが虎になる様子を大河ドラマで伝えてましたが合わせて先生のお話しを聞いて思いを深めてます。
素晴らしい史観ですね。ありがとうございます。
小名木先生の講義は,我々の先人たちが何のために行うかということを丁寧に楽しく解りやすく解説して戴き感謝申し上げます。
講義ありがとうございます。
小名木先生のお話はいつも楽しみに拝見しています。今できる最大限の努力をする。勉強になりました。ありがとうございます。
この頃の民は幸せだったなぁ。良い意味の親分気質たっぷりの領主達。かたや現代の日本国では民を顧みない政治や行政が行われている。現代に秀吉公、家康公のような人物の出現を願わずにいられない。
歴史は、現代で起こり得るありとあらゆる事に対する証明ですな☆☆☆
素晴らしい😂
初めて見させていただきました。即、チャンネル登録しました。日本史の学びの楽しさ、実感しました。順次見ていこうと思います。その後、世界史も見ます。学ぶ楽しさありがとうございます。
秀吉の地元愛もあったのではないかと思っております😊
ありがとうございます..ありがとうございます..ありがとうございます... こ拝
豊臣政権での家康の立ち位置って東国支配の要となる
冒頭からツッコませてもらう。家康が三方ヶ原の戦いで恐怖で脱糞したとは思わない。家康は桶狭間の戦いで総大将である今川義元の討ち死にとその後の今川家の衰退を目の当たりにしている。三方ヶ原の戦いでの総大将は家康自身なのだから家康はウンコ漏らしながらでも城に戻らなければ徳川家が瓦解してしまうのが分かっていた。野糞してる間に首級をあげられて笑い者になるよりウンコ漏らしながらでも城に戻らなければならなかった。逆に言えばウンコ漏らしながらでも城に帰った家康はすごく立派な大将だった。
秀吉の財力の根源は、多くの鉱山・貿易港を抑えていたことですね。加えて、商人への矢銭もあったという感じですね。内容的には「歴史」というより「道徳教育のための人物伝」という感じですね。現実離れして理想化している部分が大きい。
天下分け目の戦いは家康と豊臣との戦いではないのですよね。そうでは無くなったから戦ったのです。秀吉亡き後、豊臣は天下を治めることができる家ではなくなりました。家康は織田家の下で秀吉と共に天下統一のために励んだ人です。秀吉が天下人になってからも同じ目的を持つ者として補佐をしました。しかし豊臣の天下は徐々に変化していきます。その度に敢えて反抗したりお灸を据えたりしながら時代が過ぎていきました。秀吉亡き後は歯止めが効かなくなったので危うさを感じて自分が代わろうとしたのです。
1586年1月18日に発生した天正地震では、近畿地方をはじめ北陸地方や東海地方の一部という広い範囲において大きな被害が発生。特に、秀吉が家康討伐の際に兵を展開させる予定だった美濃や尾張といった地域は、壊滅的な状況に陥ったと伝えられている。「それに対して三河地方など家康の領国は、ほとんど被害が出ませんでした。この地震による大きな被害で、秀吉側は戦どころでなくなったとみられています」
秀吉さん以上に窮地に追い込まれたのが織田信雄さんですよね~滝川一益さんが賤ヶ岳合戦の時に秀吉さんの大軍を撃退した実績を持つ重要拠点、長島城が地震により大損害を受けたため~信雄さん自身が清洲城へ移らざる得なくなり、領国である伊勢と尾張を結ぶ防衛ラインが崩壊しちゃって戦を継続出来なくなったらしいです~賤ヶ岳合戦後に隠居した名将一益さんを伊勢に送り込まれても蟹江城合戦で打ち破っていただけに、信雄さんも悔しかったハズです~自らも震災い遭いながら守勢に回ることなく、相手に弱味を見せずに逆転の発想でもって攻勢に転じたインテリジェンス溢れる秀吉さんの用兵術が震災直後という時を味方につけたワケで、まさに神業ですね~
信雄は前年に伊勢半国、伊賀を割譲して単独講和してたはず。家康と協調して戦う戦意はなかったと思われます。
帰雲城(かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、現在の岐阜県大野郡白川村三方崩山の下、保木脇(ほきわき)にあった日本の城である[1]。内ヶ島氏の居城であったが、1586年(天正13年)の天正地震による山崩れで城と城下町が全て埋没した[1]。略史帰雲城は当地の武将である内ヶ島氏の居城であった。寛正年間(1461年 - 1466年)の1462年頃、内ヶ島為氏により築城された。天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震が起き、帰雲山の崩壊で埋没。被害は埋没した家300戸以上、圧死者500人以上とされる[1][2]。当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と言われる[3]。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。立地城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っている。この一帯では過去に土砂崩れがあったことは地質調査で判明しているが、碑の下に帰雲城が埋まっていると確認されているわけではない。現在にかけて、幾度となく埋没した城を位置を特定しようとする試みが行われている。1972年(昭和47年)には、郷土史家などの手により「白川帰雲城・発掘保存準備委員会」が発足。近隣の神岡鉱山(三井金属鉱業)の技術支援を得ることも検討されたが、特定には至らなかった[4]。1993年(平成5年)に発足した「白川郷埋没帰雲城調査会」は、江戸時代の地誌や古地図から帰雲川左岸のいずれかにあったと推定しており、2027年に試験的な発掘調査を予定している[5]。保木脇集落は帰雲城城下町の名残ではなく、庄川水系でのダム建設に伴う移転先として昭和30年代(1955-65年)に形成された。庄川近くで採石場を営む建設会社の社長の夢に帰雲城将が現れたとして、帰雲山の崩壊跡を望む地に武将を祀る観音像や神社などを建て、地元住民も協力して公園化した[2]。貝塚御座所日記の記述本願寺門主顕如の側近で、当時大坂にいた宇野主水が記した「貝塚御座所日記」(宇野主水日記)[注釈 1]には、天正地震での各地の被害情報[注釈 2]が記されているが、帰雲城について以下の記述がある。十一月廿九日夜四半時大地震、夫ヨリ十余日不止、折々地震。〔……中略……〕飛州ノ帰雲トモママ在所ハ内島ト云フ奉公衆アル所也。地震ニテ山崩、山河多セカレテ、内島ノ在所ヘ大洪水ハセ入テ、内島一類地下ノ人々ニイタルマテ不残死タルナリ。他国ヘ行タル者四人ノコリテ泣々在所ヘ帰リタル由申訖。彼在所ハ悉淵ニナリタルナリ。〔……後略……〕[6]他、『越中国名跡志』という史料にも同様の記述がある。埋蔵金伝説内ヶ島氏の領内に金山があったことから、城崩壊とともに埋まったとされる埋蔵金伝説がある[注釈 3]。しかし、この伝説は1970年(昭和45年)頃、内ヶ島氏の末裔を称する人物が語った内容を大阪の地方新聞が記事化したところから拡散したものであり、古くから白川地域に伝わっていたわけではないことが指摘されている[7]。関連書籍研究書岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 中世』(1969年発行)岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 近世 上』(1968年発行)岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世一』(1969年発行)岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世四』(1973年発行)荘川村『荘川村史 上巻』(1975年発行)森本一雄 『定本 飛騨の城』郷土出版社、1987年9月15日。白川村『新編 白川村史 上巻』(1998年発行)『歴史の足跡をたどる日本遺構の旅』- 「なるほど知図bookまっぷる選書」 (昭文社2007年刊。ISBN 9784398143051)加来耕三 『消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理』メディアファクトリー、2011年。ISBN 978-4-8401-4344-8。論文安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」」『日本海域研究所報告』8号、1976年。安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第2報 両城主の家系図の検討―」『日本海学会誌』1号、1977年。安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第3報 内ヶ島系図と石黒氏系図の研究―」『日本海域研究所報告』9号、1977年。安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第4報 内ヶ島氏および石黒氏の家臣達―」『日本海学会誌』2号、1978年。安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第5報 両城主と一向一揆―」『日本海域研究所報告』10号、1978年。安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について―」『日本海学会誌』3号、1979年。安達正雄「帰雲城主・内ヶ嶋氏の歴史と家系」『北陸都市史学会会報』8号、1986年。安達正雄「飛騨帰雲城と城主・内ヶ嶋氏の史実を探る― 天正大地震の土石流で城と城下町が埋没し、放置されて四百二十年に当り―」『石川郷土史学会々誌』39号、2006年。安達正雄「五箇山文献に秘められた飛騨・内ヶ嶋氏の史実について―五箇山と川上三箇庄の一部は室町末期、実は内ヶ嶋氏の領地だった?―」『石川郷土史学会々誌』40号、2007年。安達正雄「木舟城を陥没させ帰雲城を埋没させた天正大地震の真相―天正大地震は連続多発地震だった―」『石川郷土史学会々誌』42号、2009年。福井重治 著「飛騨の金銀山と山城」、小菅徹也 編 『金銀山史の研究』高志書院、2000年。創作作品『変幻退魔夜行カルラ舞う! 』- 永久保貴一『呪いの紙草履』 - 和久峻三による赤かぶ検事シリーズの1作。『帰天城の謎 ~TRICK青春版~』 - はやみねかおるによるドラマ『TRICK』の外伝小説。帰雲城をモデルにした「帰天城」が登場。
八民向け 示すまつりの 筋道を綾と織りなす 経営の肝じっくり學ばせて頂きます(。・ω・)ゞ
何があったのか知らないけれど、小牧の戦いの信雄の対応から、出家させられるのわかる気がする。
地震の話も、秀吉が復興に力を注いだことも初めて知りました。だから、名古屋に太閤通りという名称が残っているのでしょうか。
利根川東遷事業(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に始められた利根川中下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。概要利根川の大規模な河川改修の歴史は、徳川家康江戸入府(天正18年 1590年)後、徳川氏によって始められ現代に至るとされるが、時代によって多種の意図の変遷があった[* 1][* 2]。改修の目的は、水上交通網の整備などの利水面が先んじてあり、その中心は赤堀川の開削である。元和7年(1621年)の新川通開削に続く赤堀川の開削着手から[3]、承応3年(1654年)の赤堀川通水まで一連の工事が行われ、これにより利根川から取水し分水嶺を越え常陸川へ渇水期でも十分な量の水が流されることになり、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した水運が成立し江戸の経済を支えた。このため、江戸時代から大正時代までは、新川通の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在した[* 3]。また、利根川の治水システムは中条堤をその要としていたが、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後、この治水システムの機能維持のための河川改修が行われ、江戸川への流量を減少させ赤堀川から常陸川への流量を増加させた。明治時代に入り足尾鉱毒事件の発生により、さらに銚子方向への流量比を高める大規模改修が始まった[4]。そして、明治43年(1910年)の大水害で中条堤を要とした利根川の治水システムは崩壊、洪水時下流への流量が増加したため江戸川への流入制限が強化され、この結果「東遷」が確定し、昭和3年(1928年)には権現堂川が廃され、江戸川は赤堀川から常陸川への流路を本流とする利根川の支流となった[5]。これらにより、利根川本流は銚子を通って太平洋に注ぐことになり、関東平野の自然地理的状況は人の手によって大きく変えられた[6]。歴史利根川の中下流は南流し現在の荒川の流路を通り東京湾へ注いでいたが、およそ3000年前の縄文時代後期に途中の河道を変え、現在の熊谷市・鴻巣市付近からそれまでの台地を掘り割るように関東沈降盆地中心への東へ向かい、分流しながら渡良瀬川の流路地帯(加須から越谷)へ向かって流れるようになった[7]。利根川(および荒川)は分合流の変化が激しく、渡良瀬川にも合流した(合の川など)。 江戸時代以前は、利根川と渡良瀬川とはほぼ平行して南流し東京湾(江戸の内海)へ注ぎ、河口も異なっていた[* 4]。利根川本流は、一旦、会の川および浅間川の主要分流となり、加須市川口で合流後は、現在の古利根川・中川・隅田川の流路で東京湾に注いだ。ただし武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合・分流していた。徳川家康江戸入府後、利根川の河道を付け替える工事が始まった。文禄3年(1594年)に会の川を締め切り、元和7年(1621年)には浅間川を締め切り新川通を開削し、利根川の中流を一本化し加須市旗井(久喜市栗橋の北1キロメートル)で渡良瀬川に接続した。これにより、渡良瀬川は利根川の支流となり、権現堂川・太日川は利根川の下流の位置付けとなった。またそれまでの利根川の下流は、上流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれた。さらに、承応3年(1654年)に古河市中田(栗橋の対岸)付近から分水嶺を越えて赤堀川を開削する工事を行い香取海(銚子河口・太平洋)に通じる河道を開いた。これにより、江戸時代から大正時代までは、利根川の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は逆川を介して関宿でもつながっていた。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。江戸時代前期江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川水系。利根川が東京湾に注いでいた。また荒川も現在より東側の水路を通っていた。利根川と荒川の合流地点や川筋はしばしば変化し、古くは、荒川の流れが今の綾瀬川を通っていた時代もあった。水戸市にある伊奈忠次の銅像天正18年(1590年)8月朔日徳川家康は江戸に入った、そこには荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はカヤやススキの野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていた[* 5]。それから20年を経て慶長14年(1609年)ごろに訪れたロドリゴ・デ・ビベロの記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり京都の半分くらいであったという[8]。この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。東遷事業の開始近世初頭の利根川の東遷事業は、かつては文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた[3]。しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている[3]。会の川の締め切り文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。忍城の城主であった松平忠吉が家来の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている [9]。備前堤(綾瀬川流域)の開発慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという[10][* 6]。小名木川と新川の開削行徳塩田と隅田川を結ぶため、天正18年(1590年)に小名木川を、寛永6年(1629年)に新川を開削し、江戸川下流部と江戸の町をつなぐ水運路を整備した。利根川と渡良瀬川の河川整理元和7年(1621年)、浅間川の締め切りと、新川通の開削、および権現堂川の拡幅が行われ、同時に赤堀川の掘削が始められた[3]。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・太日川がその下流となった。なお太日川はほぼ現在の江戸川だが全く同じではない。現在の江戸川の上流部は寛永18年(1641年)に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もある。
寛永期の河川整理寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。熊谷市久下で荒川を締め切り和田吉野川・市野川を経由し入間川に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は元荒川となった。同じく寛永6年(1629年)、鬼怒川[* 7]を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年(1630年)に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた。赤堀川の掘削新川通の開削や権現堂川の拡幅とともに元和7年(1621年)に掘削が始められた赤堀川は、太平洋への分水嶺を越える水路を開削するものであり、その目的は利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる水運を整備することだった。しかし、台地(猿島台地)を掘削するために難工事となり、寛永12年(1635年)の工事も含めて2度失敗している。承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事により渇水期も常時通水に成功、これにより銚子河口まで繋がる江戸の水運が成立した[11]。この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかった。河川整理と用水路開発とその後さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した[11]。しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期には船の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では相馬郡小堀村、江戸川では松戸までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では艀下船と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の喫水を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた[12]。江戸時代中後期天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。河床は上昇し中条堤を中心とした治水システムは機能しなくなり、当時の土木技術では大規模な浚渫する抜本的な対策を取ることはできなかったため、江戸幕府は当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流右岸の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭(逆川と権現川の合流点)に棒出しと呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。川幅を狭めた分流速が増し船の航行には不便になるが、洪水の流入を抑えるとともに、土砂流入を防ぎ浅瀬の形成を防止し、舟運機能はせめて確保したいという苦肉の策であった[5]。これにより行き場を失った水は、逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。また、浅瀬の被害は深刻化し、艀下船を用いても通行が困難になる場合もあった[12][* 8]。明治維新後現在の利根川、荒川、渡良瀬水系。明治以降、水系の整備が、物流から治水に切り替わり洪水対策が最重要になった。カスリーン台風による利根川決壊後の浸水拡大図。東京都の荒川以東3区、足立区・葛飾区・江戸川区まで濁流が押し寄せた。明治初期に至るまで、利根川の本流は確定していなかったという。銚子方面から常陸川を遡り江戸川を下る内川江戸廻りの水運は、鉄道網が整備される以前の物流の大動脈であり、どちらの流路についても十分な水量を確保しなければならず一方を本流とするわけにはいかなかったことと、洪水の際には、なだらかな銚子方面に水を流すよりも、もともとの流路に近く、勾配もきつい江戸川方面に水を流すほうが理にかなっていたからである。しかし、明治10年(1877年)ごろから渡良瀬川流域において足尾鉱毒事件が発生することで状況が変化する。鉱毒事件は被害農民と警官隊による衝突や田中正造による明治天皇への直訴などの激しい抗議行動によって大きな社会問題となった。一方、政府としては日清戦争・日露戦争のさなかであり、銅の産出を止めることはできず、なおかつ江戸川を経由した人口密集地でもある東京や江戸川河口行徳の塩田への被害拡大は避けねばならなかった。そのため、明治31年(1898年)には、天明の浅間山大噴火後に設けた棒出しの幅を僅か9間(16.2メートル)にまで狭め、江戸川への流入制限を強化して銚子方面へと水を流す方針が固まったとされる[2]。また、その頃利根川下流の両岸は千葉県香取郡であったが、当時の千葉県の財政基盤は弱く利根川の治水事業に予算が割けなかった。そのために利根川の洪水が頻発してその水が当時直接利根川に面していなかった茨城県稲敷郡東部地域にも被害を及ぼした。そこで、明治18年(1885年)茨城県の政治家と千葉県でも利根川の恩恵を受けられない房総半島南部の政治家の間で茨城県の治水事業への財政負担と引換に利根川以北の香取郡を茨城県側に譲渡するという計画が立てられた。これには大須賀庸之助(香取郡長・衆議院議員)や地元住民が激しい抵抗を続けたが、明治32年(1899年)に香取郡北部の稲敷郡編入が行われて、国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討され、着手された。だが、明治維新以降、近代的なインフラ整備が進むにつれ、従来の氾濫を前提とした治水は成り立たなくなっていた。明治43年(1910年)の関東大水害の後中条堤を要としたそれまでの治水システムは破綻、すでに着手していた改修工事の改訂が迫られることになり、計画洪水流量の見直しや江戸川への分流量の増加など大きな変更を生んだ。そして江戸川へは棒出し(後・関宿水閘門)によって流入制限されたため、実際には銚子方面へあふれ出し結果「東遷」が確定、大正15年(1926年)には権現堂川が締め切られる。その後は利根川下流の水害激化に対応するため計画上は江戸川への分派率が引き上げられているが、実際には江戸川分派点の利根川本流側には堰や水門のような構造物がなんら造られてこなかったため、結果として洪水時の江戸川の分派率は計画の40パーセントに対し20パーセント程度にすぎない。利根川治水の眼目の一つが江戸川への分派量の問題であるが、その分派量を一方的に決めるとともに決められた分派率が実現されぬまま、首都を抱える旧武蔵国側の堤防だけが強化され、利根川下流域の対策が後回しにされているというのが現状である[5]。1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与え、現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都足立区・葛飾区・江戸川区にまで達し、烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は利根川流域だけで1,100名が死亡している[13]。カスリーン台風による甚大な被害にあった地域の対策を優先して進め、利根川下流域には田中・管生・稲戸井調整池(掘削し容量拡大工事中[14])の整備という形で、中条堤と同様に洪水を溢れさせる仕組みが設けられた。1987年(昭和62年)に建設省(現国土交通省)が対策事業として高規格堤防の建設を始め、利根川を含む5水系6河川区間約873kmの整備を対象とした[15]。第1号として利根川沿いの千葉県にも栄町に矢口スーパー堤防が完成したが、その後は2004年(平成16年)度より埼玉県と東京都への水害を予防するため首都圏氾濫区域堤防強化対策事業が進められ、海水がさしこむ茅原や海の入り江だった首都を、水害から守るための努力が続けられている[16]。
楽市楽座を最初に作った信長公のおかげで経済の形というものが出来たわけだしね
天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)および同年11月27日(1月16日)に中部地方で発生した巨大地震である。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ[要出典]。天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)[2]、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)[3]、天酉地震[4]とも呼ばれる。『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている[5]。概要天正地震の震度分布[6]被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ、日本史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない[7]。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した[8]。同地震の規模を知ることが困難な背景としては、発生当時が戦国時代末期に当たり豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難かったことが挙げられる。しかし、三河にいた松平家忠の日記(『家忠日記』)によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生したとある。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。震源域近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている[9]。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている[10]。震源断層震源断層は判明しておらず[7][10]、以下の通り幾つかの説がある。岡田 (2011)[11]によって、2010年以前の本地震に関する地震像研究がまとめられている。飛騨の庄川断層または阿寺断層[12]とする説養老断層[13]及び伊勢湾断層とする説これらの断層が連動したとする説[14][8]養老-桑名-四日市断層帯などの三つの大断層が動いたとする説[15]1998年に行われた地質調査では、岐阜県にある養老断層[16]における2つの活動歴が確認され、最新の活動は15世紀以降であることから745年天平地震と共にこの断層が震源断層のひとつであった可能性が高くなった[17]とされている。松浦 (2011)[18]は明確に被害が大きかったと推定されるのは、庄川沿いの谷筋(帰雲城)から越中西部(木船城)と、濃尾平野の南西部(長島城・大垣城)から琵琶湖北東岸(長浜城)と分かれているとして、1586年1月16日に庄川断層帯北部でM7.0±0.2の地震が、翌々日18日に養老断層とその周辺の断層帯の一部でM7.9±0.1の地震が発生したと考察しており、伊那谷における大規模斜面崩壊は養老断層による地震か、或いは本地震の半年前(1585年7月31日)に発生した地震によるものではと推考している。また、松浦 (2012)[19]はフロイスの『日本史』における若狭の長浜における津波被害の記述については信憑性が低いとした。寒川 (2011)[20]は史料による被害地域と、トレンチ調査で同年代に最新活動が見られる断層として、本地震では庄川断層帯と阿寺断層帯の全体と、養老-桑名-四日市断層帯が活動したと考察した。関西電力ほか (2012)[21]は、フロイスの津波被害の記述は地すべりで琵琶湖に沈んだ長浜市の下坂浜千軒遺跡であることを示唆しており、本地震によって若狭湾沿岸で町が壊滅するほどの津波発生はなかったとしている。松岡ほか (2015)は本地震による伊勢湾沿岸及びその周辺での津波発生を示す信憑性が高い史料はないとした[22]。地震の規模文献による歴史記録や地殻変動の痕跡は年月の経過により失われ、地震像の詳細は不明である。規模は研究者により諸説あり、主な説は以下の通り。河角廣(1951):規模MK = 6. を与え[23]、マグニチュードは M - 7.9に換算されている。宇佐美龍夫(1996,2003):濃尾断層帯の武儀川断層から東北側を震源として、M - 7.8±0.1 程度[24]。安達(1979):M - 8.1飯田汲事(1978,1987):震度分布から M - 8.2[25]。法林寺断層で、11月27日に M - 6.6 と養老断層の延長部で木曽川河口付近において、11月29日に M - 8.1[8]。村松郁栄(1998):富山側で、11月27日に M - 6.6 と養老断層付近で M - 7.8[26]。
被害飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没[注釈 1]、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した[注釈 2]。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた[28]。『顕如上人貝塚御座所日記』に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没[29]。美濃国 - 大垣城が全壊焼失した[27]。また、恵那市上矢作町の上村川では山体崩壊があった可能性がある。奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。越中国 - 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。尾張国 - 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された[30]。また蟹江城が壊滅した。伊勢国 - 織田信雄の居城であった長島城が倒壊、桑名宿は液状化により壊滅するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清洲城に移した。亀山城も被害を受けた。京都 - 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた[31]。琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した[32]。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡したが、見性院は無事であった。若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった(後述)。津波琵琶湖湖北(『山槐記』)[33]、若狭湾、伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる[33]。しかし、海底下に変位領域が及んでいなくても海面の変動を引き起こす事があり[34]、必ずしも断層が海底に有る必要はない。海岸線から約4.8kmの距離にある水月湖の湖底堆積物調査からは、水月湖に海水が流入した痕跡は見つかっていない[35]。しかし、水月湖までは到達する規模で無ければ痕跡が見つからないのは当然であり、見つからなかったことが津波が生じなかったとする証拠ではないとしている[35]。伊勢湾伊勢湾に津波があったとされる。加路戸、駒江、篠橋、森島、符丁田、中島などは地盤沈下したところに津波が襲来し水没した。善田は泥海と化した。伊勢湾岸では地震とともに海水があふれ溺死者を出した[36][37]。若狭湾『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾沿岸の町で山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある[38]。 他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』[39][40])や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある[41][42]。2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告[43][44]を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている[45]。2012年12月、再調査結果として大きな津波の跡は見つからなかったとしている[46]。2015年(平成27年)5月、山本博文らは福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表した[47][注釈 3][48]。フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章)ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。若狭の国には、海に沿ってやはりナガハマと称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。「やはりナガハマと称する別の大きい町」というのは、前の文章に「長浜城下で大地が割れた」と書いてあり、区別するためである。長浜城については「関白殿が信長に仕えていた頃に居住していた長浜と言うところ」という説明もあり、これは1574年(天正2年)に秀吉が築城を開始した琵琶湖東岸の長浜市にある長浜城を指し、若狭湾のナガハマとは別であることを明確に書いている。ナガハマは現在の福井県高浜町のことである[49]。吉田兼見『兼見卿記』[50]廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユ(ア)リ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知云々、江州・勢州以外人死云々丹後・若州(若狭)・越州(越前)沿岸を津波が襲い、家々はすべて押し流され、死者は無数であった[注釈 4]。『舜旧記』(十一月二十九日条)近国之浦浜々屋,皆波ニ溢レテ,数多人死也,其後日々ニ動コト,十二日間々也クラッセ『日本教会史』(1689年)[42]若狭の国内貿易の為に屢々(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう、津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、恰も(あたかも)元来無人の境の如く全市を乾浄したりこれには津波が若狭湾を襲ったのは、旧暦11月29日ではなく、その後の連動地震(または誘発地震)による津波であったとしている[注釈 5]。『イエズス会日本書翰集』
影響東北太平洋岸の海運に併せ利根川の水運を使う内川江戸廻り航路は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展し、鉄道網が整備される明治前半まで、流通の幹線として機能し続けた。寛文11年(1671年)に江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が、東北諸藩の領内の産米を伊豆半島の下田から直接江戸に運ぶことに成功し、外海江戸廻りの東廻海運が飛躍的に発達したとされるが、実際には東廻り航路は、危険な犬吠埼沖の通過に加え房総半島を迂回する必要があり、順風が得られない限り東京湾への出入りができない航路であり、利根川の水運は依然として重要であった。旧渡良瀬川、旧鬼怒川、旧小貝川の下流域は縄文海進時には海であったが、以後の河川の堆積作用によって湿地帯が形成されており、治水も兼ねた当事業によってこれらの湿地帯が減り新田が開拓されたとする主張もあるが、米を主食とする日本において新田開発は絶えず行われており、例えば香取海沿岸には古くから相馬御厨や橘荘などの荘園をはじめとする多くの耕作地があり、東遷事業によって水害が頻発、甚大な被害を被るようになったという歴史的事実は無視できない。天明3年(1783年)浅間山大噴火後の中条堤の機能維持のための対策や、明治期の足尾鉱毒事件などを契機に、手賀沼や印旛沼、霞ヶ浦などをふくむ旧香取海沿岸では、排水不良によって洪水の激化を招くこととなった。その一方で水量の少ない時期には、旧常陸川や江戸川上流域に出現した浅瀬が高瀬船などの通行を妨げる事態が発生し、その傾向は浅間山大噴火以後深刻になった。このことが、舟運機能は確保した上で治水対策を強化していく事情へとつながり、元々海の干潟や利根川下流の低湿地帯であった首都を水害から守るため行われた大規模な対策事業は、海水の溯上を容易にし、現在の下流部では塩害が激化、戦後におけるさらなる対策事業へとつながることになる。そして、それらについての永続的な努力の結果として今日があり、さらには利根川水系8ダムのような終わりの無い問題を抱えている。利根川流域は大きな台風のたびに浸水被害を繰り返すなど、水害との闘いを続けている地域であり、2013年(平成25年)の平成25年台風第26号では埼玉県東部の5600戸以上が浸水被害を受け、同様の被害が今後東京都でも起こる可能性が指摘され、内閣府中央防災会議が発表した資料によれば、カスリーン台風と同規模の洪水が発生した場合、死者最大3,800人、罹災者数160万人に上ると推測している[17]。
ふーん、深いですねー。
1つの見方ですね。自分は家康は以下のように考えていたと思ってます。・朝廷を抱き込んだ秀吉に抗うのは 得策ではない。・秀吉は嫡子がいないので天下を取っても世襲出来ず内乱必至。・秀吉よりも若く、さらに健康に気を遣っているので秀吉よりも長生きする自信が有った。ゆえに秀吉存命中にギャンブルするよりも我慢することにしたんだと思われます。
秀吉が大坂に城を建てたのは石山本願寺の跡地だからだ。本願寺の影響が無くなった事を広報するためのだ。ヨーロッパでも城の跡地に教会を建てたり逆に教会跡地を城にしたりというのはよくある。大坂を商業都市にしたのは秀吉治世の頃。その前は大坂より堺の方が大きい商業都市だった。
伊奈 忠次(いな ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。生涯生い立ち武将として遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[1]。彦坂元正、大久保長安と連署しており、「伊奈備前守」[2]と記され黒印が押されている天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。慶長15年(1610年)、61歳で死去、遺領と代官職は嫡男の忠政が継いだ。大正元年(1912年)、正五位を追贈された[3]。功績武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において1万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈氏屋敷跡がある。諸国からの水運を計り、治水を行い、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも「神様仏様伊奈様」と神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。次男・忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。伊奈町音頭は「ハァ〜伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。
次の四国、九州、小田原征伐を見てると家康はギリギリセーフ
戦国を生きてきた当時の人間の考える事が今の平和な人間にわかるわけない。憶測にすぎないと思います
変な例えや小芝居が気になります
歴史学者は何かと記録がとか資料だとかを重要視するが記録してない真実のほうがはるかに多いと思う一般的な歴史学者はまるであてになりません
大地震無ければ、家康は負けていた
日本の独裁者
素晴らしい講義でした。ありがとうございました!
天正大地震の復興を肩代わりし、家康を関東にさしむける、、、。まさに一石二鳥、一挙両得を図る秀吉の知恵ですね。
家康じゃないと東国事情分からんからな
小田原征伐でも功が有った家康を関東に置くわな
では、秀吉による 体のいい 家康の左遷では無かったと?! 家康はどの時点で佐渡、やその他の金鉱に目をつけたのであろうか?
天正大地震は東海地方より近畿地方に大きな被害をもたらし
そのために小牧・長久手の戦いで秀吉が家康を討ちきれなかった。
天正大地震で家康征伐のために集めた兵糧集積地の大垣城が大破したと聞いています。
干潟だったような土地を埋め立てをして、人々が豊かに暮らす国を築いたって、そんな国、世界の他の国であるのかな。
並大抵の信念がないととてもできることじゃない。
そして現代の今も東京はあって、首都として、人々が豊かに暮らしてる。
家康の思い、信念、実現してく力、すごいかっこいい。
この動画みたらNHK大河ドラマ見なくても良いね
それ位素晴らしい!お話です。
どうする家康 。。興味深い歴史のお話しタイミング良くありがとうございます。ガマンしてガマンして弱いウサギが虎になる様子を大河ドラマで伝えてましたが合わせて先生のお話しを聞いて思いを深めてます。
素晴らしい史観ですね。ありがとうございます。
小名木先生の講義は,我々の先人たちが何のために行うかということを
丁寧に楽しく解りやすく解説して戴き感謝申し上げます。
講義ありがとうございます。
小名木先生のお話はいつも楽しみに拝見しています。
今できる最大限の努力をする。
勉強になりました。
ありがとうございます。
この頃の民は幸せだったなぁ。良い意味の親分気質たっぷりの領主達。かたや現代の日本国では民を顧みない政治や行政が行われている。現代に秀吉公、家康公のような人物の出現を願わずにいられない。
歴史は、現代で起こり得るありとあらゆる事に対する証明ですな☆☆☆
素晴らしい😂
初めて見させていただきました。即、チャンネル登録しました。日本史の学びの楽しさ、実感しました。順次見ていこうと思います。その後、世界史も見ます。学ぶ楽しさありがとうございます。
秀吉の地元愛もあったのではないかと思っております😊
ありがとうございます..ありがとうございます..ありがとうございます... こ拝
豊臣政権での家康の立ち位置って東国支配の要となる
冒頭からツッコませてもらう。
家康が三方ヶ原の戦いで恐怖で脱糞したとは思わない。
家康は桶狭間の戦いで総大将である今川義元の討ち死にと
その後の今川家の衰退を目の当たりにしている。
三方ヶ原の戦いでの総大将は家康自身なのだから
家康はウンコ漏らしながらでも城に戻らなければ
徳川家が瓦解してしまうのが分かっていた。
野糞してる間に首級をあげられて笑い者になるより
ウンコ漏らしながらでも城に戻らなければならなかった。
逆に言えばウンコ漏らしながらでも城に帰った
家康はすごく立派な大将だった。
秀吉の財力の根源は、多くの鉱山・貿易港を抑えていたことですね。加えて、商人への矢銭もあったという感じですね。内容的には「歴史」というより「道徳教育のための人物伝」という感じですね。現実離れして理想化している部分が大きい。
天下分け目の戦いは家康と豊臣との戦いではないのですよね。そうでは無くなったから戦ったのです。秀吉亡き後、豊臣は天下を治めることができる家ではなくなりました。家康は織田家の下で秀吉と共に天下統一のために励んだ人です。秀吉が天下人になってからも同じ目的を持つ者として補佐をしました。しかし豊臣の天下は徐々に変化していきます。その度に敢えて反抗したりお灸を据えたりしながら時代が過ぎていきました。秀吉亡き後は歯止めが効かなくなったので危うさを感じて自分が代わろうとしたのです。
1586年1月18日に発生した天正地震では、近畿地方をはじめ北陸地方や東海地方の一部という広い範囲において大きな被害が発生。特に、秀吉が家康討伐の際に兵を展開させる予定だった美濃や尾張といった地域は、壊滅的な状況に陥ったと伝えられている。
「それに対して三河地方など家康の領国は、ほとんど被害が出ませんでした。この地震による大きな被害で、秀吉側は戦どころでなくなったとみられています」
秀吉さん以上に窮地に追い込まれたのが織田信雄さんですよね~
滝川一益さんが賤ヶ岳合戦の時に秀吉さんの大軍を撃退した実績を持つ重要拠点、長島城が地震により大損害を受けたため~
信雄さん自身が清洲城へ移らざる得なくなり、領国である伊勢と尾張を結ぶ防衛ラインが崩壊しちゃって戦を継続出来なくなったらしいです~
賤ヶ岳合戦後に隠居した名将一益さんを伊勢に送り込まれても蟹江城合戦で打ち破っていただけに、信雄さんも悔しかったハズです~
自らも震災い遭いながら守勢に回ることなく、相手に弱味を見せずに逆転の発想でもって攻勢に転じたインテリジェンス溢れる秀吉さんの用兵術が震災直後という時を味方につけたワケで、まさに神業ですね~
信雄は前年に伊勢半国、伊賀を割譲して単独講和してたはず。家康と協調して戦う戦意はなかったと思われます。
帰雲城
(かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、現在の岐阜県大野郡白川村三方崩山の下、保木脇(ほきわき)にあった日本の城である[1]。内ヶ島氏の居城であったが、1586年(天正13年)の天正地震による山崩れで城と城下町が全て埋没した[1]。
略史
帰雲城は当地の武将である内ヶ島氏の居城であった。寛正年間(1461年 - 1466年)の1462年頃、内ヶ島為氏により築城された。
天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震が起き、帰雲山の崩壊で埋没。被害は埋没した家300戸以上、圧死者500人以上とされる[1][2]。当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と言われる[3]。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。
立地
城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っている。この一帯では過去に土砂崩れがあったことは地質調査で判明しているが、碑の下に帰雲城が埋まっていると確認されているわけではない。
現在にかけて、幾度となく埋没した城を位置を特定しようとする試みが行われている。1972年(昭和47年)には、郷土史家などの手により「白川帰雲城・発掘保存準備委員会」が発足。近隣の神岡鉱山(三井金属鉱業)の技術支援を得ることも検討されたが、特定には至らなかった[4]。
1993年(平成5年)に発足した「白川郷埋没帰雲城調査会」は、江戸時代の地誌や古地図から帰雲川左岸のいずれかにあったと推定しており、2027年に試験的な発掘調査を予定している[5]。
保木脇集落は帰雲城城下町の名残ではなく、庄川水系でのダム建設に伴う移転先として昭和30年代(1955-65年)に形成された。庄川近くで採石場を営む建設会社の社長の夢に帰雲城将が現れたとして、帰雲山の崩壊跡を望む地に武将を祀る観音像や神社などを建て、地元住民も協力して公園化した[2]。
貝塚御座所日記の記述
本願寺門主顕如の側近で、当時大坂にいた宇野主水が記した「貝塚御座所日記」(宇野主水日記)[注釈 1]には、天正地震での各地の被害情報[注釈 2]が記されているが、帰雲城について以下の記述がある。
十一月廿九日夜四半時大地震、夫ヨリ十余日不止、折々地震。〔……中略……〕飛州ノ帰雲トモママ在所ハ内島ト云フ奉公衆アル所也。地震ニテ山崩、山河多セカレテ、内島ノ在所ヘ大洪水ハセ入テ、内島一類地下ノ人々ニイタルマテ不残死タルナリ。他国ヘ行タル者四人ノコリテ泣々在所ヘ帰リタル由申訖。彼在所ハ悉淵ニナリタルナリ。〔……後略……〕[6]
他、『越中国名跡志』という史料にも同様の記述がある。
埋蔵金伝説
内ヶ島氏の領内に金山があったことから、城崩壊とともに埋まったとされる埋蔵金伝説がある[注釈 3]。しかし、この伝説は1970年(昭和45年)頃、内ヶ島氏の末裔を称する人物が語った内容を大阪の地方新聞が記事化したところから拡散したものであり、古くから白川地域に伝わっていたわけではないことが指摘されている[7]。
関連書籍
研究書
岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 中世』(1969年発行)
岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 近世 上』(1968年発行)
岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世一』(1969年発行)
岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世四』(1973年発行)
荘川村『荘川村史 上巻』(1975年発行)
森本一雄 『定本 飛騨の城』郷土出版社、1987年9月15日。
白川村『新編 白川村史 上巻』(1998年発行)
『歴史の足跡をたどる日本遺構の旅』- 「なるほど知図bookまっぷる選書」 (昭文社2007年刊。ISBN 9784398143051)
加来耕三 『消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理』メディアファクトリー、2011年。ISBN 978-4-8401-4344-8。
論文
安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」」『日本海域研究所報告』8号、1976年。
安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第2報 両城主の家系図の検討―」『日本海学会誌』1号、1977年。
安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第3報 内ヶ島系図と石黒氏系図の研究―」『日本海域研究所報告』9号、1977年。
安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第4報 内ヶ島氏および石黒氏の家臣達―」『日本海学会誌』2号、1978年。
安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第5報 両城主と一向一揆―」『日本海域研究所報告』10号、1978年。
安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について―」『日本海学会誌』3号、1979年。
安達正雄「帰雲城主・内ヶ嶋氏の歴史と家系」『北陸都市史学会会報』8号、1986年。
安達正雄「飛騨帰雲城と城主・内ヶ嶋氏の史実を探る― 天正大地震の土石流で城と城下町が埋没し、放置されて四百二十年に当り―」『石川郷土史学会々誌』39号、2006年。
安達正雄「五箇山文献に秘められた飛騨・内ヶ嶋氏の史実について―五箇山と川上三箇庄の一部は室町末期、実は内ヶ嶋氏の領地だった?―」『石川郷土史学会々誌』40号、2007年。
安達正雄「木舟城を陥没させ帰雲城を埋没させた天正大地震の真相―天正大地震は連続多発地震だった―」『石川郷土史学会々誌』42号、2009年。
福井重治 著「飛騨の金銀山と山城」、小菅徹也 編 『金銀山史の研究』高志書院、2000年。
創作作品
『変幻退魔夜行カルラ舞う! 』- 永久保貴一
『呪いの紙草履』 - 和久峻三による赤かぶ検事シリーズの1作。
『帰天城の謎 ~TRICK青春版~』 - はやみねかおるによるドラマ『TRICK』の外伝小説。帰雲城をモデルにした「帰天城」が登場。
八民向け 示すまつりの 筋道を
綾と織りなす 経営の肝
じっくり學ばせて頂きます(。・ω・)ゞ
何があったのか知らないけれど、小牧の戦いの信雄の対応から、出家させられるのわかる気がする。
地震の話も、秀吉が復興に力を注いだことも初めて知りました。
だから、名古屋に太閤通りという名称が残っているのでしょうか。
利根川東遷事業
(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に始められた利根川中下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。
概要
利根川の大規模な河川改修の歴史は、徳川家康江戸入府(天正18年 1590年)後、徳川氏によって始められ現代に至るとされるが、時代によって多種の意図の変遷があった[* 1][* 2]。
改修の目的は、水上交通網の整備などの利水面が先んじてあり、その中心は赤堀川の開削である。元和7年(1621年)の新川通開削に続く赤堀川の開削着手から[3]、承応3年(1654年)の赤堀川通水まで一連の工事が行われ、これにより利根川から取水し分水嶺を越え常陸川へ渇水期でも十分な量の水が流されることになり、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した水運が成立し江戸の経済を支えた。このため、江戸時代から大正時代までは、新川通の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在した[* 3]。
また、利根川の治水システムは中条堤をその要としていたが、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後、この治水システムの機能維持のための河川改修が行われ、江戸川への流量を減少させ赤堀川から常陸川への流量を増加させた。
明治時代に入り足尾鉱毒事件の発生により、さらに銚子方向への流量比を高める大規模改修が始まった[4]。そして、明治43年(1910年)の大水害で中条堤を要とした利根川の治水システムは崩壊、洪水時下流への流量が増加したため江戸川への流入制限が強化され、この結果「東遷」が確定し、昭和3年(1928年)には権現堂川が廃され、江戸川は赤堀川から常陸川への流路を本流とする利根川の支流となった[5]。これらにより、利根川本流は銚子を通って太平洋に注ぐことになり、関東平野の自然地理的状況は人の手によって大きく変えられた[6]。
歴史
利根川の中下流は南流し現在の荒川の流路を通り東京湾へ注いでいたが、およそ3000年前の縄文時代後期に途中の河道を変え、現在の熊谷市・鴻巣市付近からそれまでの台地を掘り割るように関東沈降盆地中心への東へ向かい、分流しながら渡良瀬川の流路地帯(加須から越谷)へ向かって流れるようになった[7]。利根川(および荒川)は分合流の変化が激しく、渡良瀬川にも合流した(合の川など)。
江戸時代以前は、利根川と渡良瀬川とはほぼ平行して南流し東京湾(江戸の内海)へ注ぎ、河口も異なっていた[* 4]。利根川本流は、一旦、会の川および浅間川の主要分流となり、加須市川口で合流後は、現在の古利根川・中川・隅田川の流路で東京湾に注いだ。ただし武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合・分流していた。
徳川家康江戸入府後、利根川の河道を付け替える工事が始まった。文禄3年(1594年)に会の川を締め切り、元和7年(1621年)には浅間川を締め切り新川通を開削し、利根川の中流を一本化し加須市旗井(久喜市栗橋の北1キロメートル)で渡良瀬川に接続した。これにより、渡良瀬川は利根川の支流となり、権現堂川・太日川は利根川の下流の位置付けとなった。またそれまでの利根川の下流は、上流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれた。
さらに、承応3年(1654年)に古河市中田(栗橋の対岸)付近から分水嶺を越えて赤堀川を開削する工事を行い香取海(銚子河口・太平洋)に通じる河道を開いた。これにより、江戸時代から大正時代までは、利根川の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は逆川を介して関宿でもつながっていた。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。
江戸時代前期
江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川水系。
利根川が東京湾に注いでいた。また荒川も現在より東側の水路を通っていた。利根川と荒川の合流地点や川筋はしばしば変化し、古くは、荒川の流れが今の綾瀬川を通っていた時代もあった。
水戸市にある伊奈忠次の銅像
天正18年(1590年)8月朔日徳川家康は江戸に入った、そこには荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はカヤやススキの野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていた[* 5]。それから20年を経て慶長14年(1609年)ごろに訪れたロドリゴ・デ・ビベロの記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり京都の半分くらいであったという[8]。この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。
家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。
東遷事業の開始
近世初頭の利根川の東遷事業は、かつては文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた[3]。しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている[3]。
会の川の締め切り
文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。忍城の城主であった松平忠吉が家来の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている [9]。
備前堤(綾瀬川流域)の開発
慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという[10][* 6]。
小名木川と新川の開削
行徳塩田と隅田川を結ぶため、天正18年(1590年)に小名木川を、寛永6年(1629年)に新川を開削し、江戸川下流部と江戸の町をつなぐ水運路を整備した。
利根川と渡良瀬川の河川整理
元和7年(1621年)、浅間川の締め切りと、新川通の開削、および権現堂川の拡幅が行われ、同時に赤堀川の掘削が始められた[3]。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・太日川がその下流となった。なお太日川はほぼ現在の江戸川だが全く同じではない。現在の江戸川の上流部は寛永18年(1641年)に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もある。
寛永期の河川整理
寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。熊谷市久下で荒川を締め切り和田吉野川・市野川を経由し入間川に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は元荒川となった。
同じく寛永6年(1629年)、鬼怒川[* 7]を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年(1630年)に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた。
赤堀川の掘削
新川通の開削や権現堂川の拡幅とともに元和7年(1621年)に掘削が始められた赤堀川は、太平洋への分水嶺を越える水路を開削するものであり、その目的は利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる水運を整備することだった。しかし、台地(猿島台地)を掘削するために難工事となり、寛永12年(1635年)の工事も含めて2度失敗している。承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事により渇水期も常時通水に成功、これにより銚子河口まで繋がる江戸の水運が成立した[11]。この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかった。
河川整理と用水路開発とその後
さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した[11]。しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期には船の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では相馬郡小堀村、江戸川では松戸までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では艀下船と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の喫水を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた[12]。
江戸時代中後期
天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。河床は上昇し中条堤を中心とした治水システムは機能しなくなり、当時の土木技術では大規模な浚渫する抜本的な対策を取ることはできなかったため、江戸幕府は当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流右岸の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭(逆川と権現川の合流点)に棒出しと呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。川幅を狭めた分流速が増し船の航行には不便になるが、洪水の流入を抑えるとともに、土砂流入を防ぎ浅瀬の形成を防止し、舟運機能はせめて確保したいという苦肉の策であった[5]。
これにより行き場を失った水は、逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。また、浅瀬の被害は深刻化し、艀下船を用いても通行が困難になる場合もあった[12][* 8]。
明治維新後
現在の利根川、荒川、渡良瀬水系。明治以降、水系の整備が、物流から治水に切り替わり洪水対策が最重要になった。
カスリーン台風による利根川決壊後の浸水拡大図。東京都の荒川以東3区、足立区・葛飾区・江戸川区まで濁流が押し寄せた。
明治初期に至るまで、利根川の本流は確定していなかったという。銚子方面から常陸川を遡り江戸川を下る内川江戸廻りの水運は、鉄道網が整備される以前の物流の大動脈であり、どちらの流路についても十分な水量を確保しなければならず一方を本流とするわけにはいかなかったことと、洪水の際には、なだらかな銚子方面に水を流すよりも、もともとの流路に近く、勾配もきつい江戸川方面に水を流すほうが理にかなっていたからである。
しかし、明治10年(1877年)ごろから渡良瀬川流域において足尾鉱毒事件が発生することで状況が変化する。鉱毒事件は被害農民と警官隊による衝突や田中正造による明治天皇への直訴などの激しい抗議行動によって大きな社会問題となった。一方、政府としては日清戦争・日露戦争のさなかであり、銅の産出を止めることはできず、なおかつ江戸川を経由した人口密集地でもある東京や江戸川河口行徳の塩田への被害拡大は避けねばならなかった。そのため、明治31年(1898年)には、天明の浅間山大噴火後に設けた棒出しの幅を僅か9間(16.2メートル)にまで狭め、江戸川への流入制限を強化して銚子方面へと水を流す方針が固まったとされる[2]。
また、その頃利根川下流の両岸は千葉県香取郡であったが、当時の千葉県の財政基盤は弱く利根川の治水事業に予算が割けなかった。そのために利根川の洪水が頻発してその水が当時直接利根川に面していなかった茨城県稲敷郡東部地域にも被害を及ぼした。そこで、明治18年(1885年)茨城県の政治家と千葉県でも利根川の恩恵を受けられない房総半島南部の政治家の間で茨城県の治水事業への財政負担と引換に利根川以北の香取郡を茨城県側に譲渡するという計画が立てられた。これには大須賀庸之助(香取郡長・衆議院議員)や地元住民が激しい抵抗を続けたが、明治32年(1899年)に香取郡北部の稲敷郡編入が行われて、国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討され、着手された。
だが、明治維新以降、近代的なインフラ整備が進むにつれ、従来の氾濫を前提とした治水は成り立たなくなっていた。明治43年(1910年)の関東大水害の後中条堤を要としたそれまでの治水システムは破綻、すでに着手していた改修工事の改訂が迫られることになり、計画洪水流量の見直しや江戸川への分流量の増加など大きな変更を生んだ。そして江戸川へは棒出し(後・関宿水閘門)によって流入制限されたため、実際には銚子方面へあふれ出し結果「東遷」が確定、大正15年(1926年)には権現堂川が締め切られる。
その後は利根川下流の水害激化に対応するため計画上は江戸川への分派率が引き上げられているが、実際には江戸川分派点の利根川本流側には堰や水門のような構造物がなんら造られてこなかったため、結果として洪水時の江戸川の分派率は計画の40パーセントに対し20パーセント程度にすぎない。利根川治水の眼目の一つが江戸川への分派量の問題であるが、その分派量を一方的に決めるとともに決められた分派率が実現されぬまま、首都を抱える旧武蔵国側の堤防だけが強化され、利根川下流域の対策が後回しにされているというのが現状である[5]。
1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与え、現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都足立区・葛飾区・江戸川区にまで達し、烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は利根川流域だけで1,100名が死亡している[13]。カスリーン台風による甚大な被害にあった地域の対策を優先して進め、利根川下流域には田中・管生・稲戸井調整池(掘削し容量拡大工事中[14])の整備という形で、中条堤と同様に洪水を溢れさせる仕組みが設けられた。
1987年(昭和62年)に建設省(現国土交通省)が対策事業として高規格堤防の建設を始め、利根川を含む5水系6河川区間約873kmの整備を対象とした[15]。第1号として利根川沿いの千葉県にも栄町に矢口スーパー堤防が完成したが、その後は2004年(平成16年)度より埼玉県と東京都への水害を予防するため首都圏氾濫区域堤防強化対策事業が進められ、海水がさしこむ茅原や海の入り江だった首都を、水害から守るための努力が続けられている[16]。
楽市楽座を最初に作った信長公のおかげで経済の形というものが出来たわけだしね
天正地震
(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)および同年11月27日(1月16日)に中部地方で発生した巨大地震である。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ[要出典]。天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)[2]、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)[3]、天酉地震[4]とも呼ばれる。
『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている[5]。
概要
天正地震の震度分布[6]
被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ、日本史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない[7]。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した[8]。
同地震の規模を知ることが困難な背景としては、発生当時が戦国時代末期に当たり豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難かったことが挙げられる。しかし、三河にいた松平家忠の日記(『家忠日記』)によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生したとある。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。
震源域
近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている[9]。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている[10]。
震源断層
震源断層は判明しておらず[7][10]、以下の通り幾つかの説がある。岡田 (2011)[11]によって、2010年以前の本地震に関する地震像研究がまとめられている。
飛騨の庄川断層または阿寺断層[12]とする説
養老断層[13]及び伊勢湾断層とする説
これらの断層が連動したとする説[14][8]
養老-桑名-四日市断層帯などの三つの大断層が動いたとする説[15]
1998年に行われた地質調査では、岐阜県にある養老断層[16]における2つの活動歴が確認され、最新の活動は15世紀以降であることから745年天平地震と共にこの断層が震源断層のひとつであった可能性が高くなった[17]とされている。
松浦 (2011)[18]は明確に被害が大きかったと推定されるのは、庄川沿いの谷筋(帰雲城)から越中西部(木船城)と、濃尾平野の南西部(長島城・大垣城)から琵琶湖北東岸(長浜城)と分かれているとして、1586年1月16日に庄川断層帯北部でM7.0±0.2の地震が、翌々日18日に養老断層とその周辺の断層帯の一部でM7.9±0.1の地震が発生したと考察しており、伊那谷における大規模斜面崩壊は養老断層による地震か、或いは本地震の半年前(1585年7月31日)に発生した地震によるものではと推考している。また、松浦 (2012)[19]はフロイスの『日本史』における若狭の長浜における津波被害の記述については信憑性が低いとした。
寒川 (2011)[20]は史料による被害地域と、トレンチ調査で同年代に最新活動が見られる断層として、本地震では庄川断層帯と阿寺断層帯の全体と、養老-桑名-四日市断層帯が活動したと考察した。
関西電力ほか (2012)[21]は、フロイスの津波被害の記述は地すべりで琵琶湖に沈んだ長浜市の下坂浜千軒遺跡であることを示唆しており、本地震によって若狭湾沿岸で町が壊滅するほどの津波発生はなかったとしている。
松岡ほか (2015)は本地震による伊勢湾沿岸及びその周辺での津波発生を示す信憑性が高い史料はないとした[22]。
地震の規模
文献による歴史記録や地殻変動の痕跡は年月の経過により失われ、地震像の詳細は不明である。規模は研究者により諸説あり、主な説は以下の通り。
河角廣(1951):規模MK = 6. を与え[23]、マグニチュードは M - 7.9に換算されている。
宇佐美龍夫(1996,2003):濃尾断層帯の武儀川断層から東北側を震源として、M - 7.8±0.1 程度[24]。
安達(1979):M - 8.1
飯田汲事(1978,1987):震度分布から M - 8.2[25]。法林寺断層で、11月27日に M - 6.6 と養老断層の延長部で木曽川河口付近において、11月29日に M - 8.1[8]。
村松郁栄(1998):富山側で、11月27日に M - 6.6 と養老断層付近で M - 7.8[26]。
被害
飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没[注釈 1]、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した[注釈 2]。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた[28]。『顕如上人貝塚御座所日記』に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没[29]。
美濃国 - 大垣城が全壊焼失した[27]。また、恵那市上矢作町の上村川では山体崩壊があった可能性がある。奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
越中国 - 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
尾張国 - 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された[30]。また蟹江城が壊滅した。
伊勢国 - 織田信雄の居城であった長島城が倒壊、桑名宿は液状化により壊滅するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清洲城に移した。亀山城も被害を受けた。
京都 - 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた[31]。
琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した[32]。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡したが、見性院は無事であった。
若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった(後述)。
津波
琵琶湖湖北(『山槐記』)[33]、若狭湾、伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる[33]。しかし、海底下に変位領域が及んでいなくても海面の変動を引き起こす事があり[34]、必ずしも断層が海底に有る必要はない。
海岸線から約4.8kmの距離にある水月湖の湖底堆積物調査からは、水月湖に海水が流入した痕跡は見つかっていない[35]。しかし、水月湖までは到達する規模で無ければ痕跡が見つからないのは当然であり、見つからなかったことが津波が生じなかったとする証拠ではないとしている[35]。
伊勢湾
伊勢湾に津波があったとされる。加路戸、駒江、篠橋、森島、符丁田、中島などは地盤沈下したところに津波が襲来し水没した。善田は泥海と化した。伊勢湾岸では地震とともに海水があふれ溺死者を出した[36][37]。
若狭湾
『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾沿岸の町で山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある[38]。 他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』[39][40])や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある[41][42]。
2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告[43][44]を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている[45]。2012年12月、再調査結果として大きな津波の跡は見つからなかったとしている[46]。
2015年(平成27年)5月、山本博文らは福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表した[47][注釈 3][48]。
フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章)
ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
若狭の国には、海に沿ってやはりナガハマと称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
(高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。
「やはりナガハマと称する別の大きい町」というのは、前の文章に「長浜城下で大地が割れた」と書いてあり、区別するためである。長浜城については「関白殿が信長に仕えていた頃に居住していた長浜と言うところ」という説明もあり、これは1574年(天正2年)に秀吉が築城を開始した琵琶湖東岸の長浜市にある長浜城を指し、若狭湾のナガハマとは別であることを明確に書いている。ナガハマは現在の福井県高浜町のことである[49]。
吉田兼見『兼見卿記』[50]
廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユ(ア)リ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知云々、江州・勢州以外人死云々
丹後・若州(若狭)・越州(越前)沿岸を津波が襲い、家々はすべて押し流され、死者は無数であった[注釈 4]。
『舜旧記』(十一月二十九日条)
近国之浦浜々屋,皆波ニ溢レテ,数多人死也,其後日々ニ動コト,十二日間々也
クラッセ『日本教会史』(1689年)[42]
若狭の国内貿易の為に屢々(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう、津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、恰も(あたかも)元来無人の境の如く全市を乾浄したり
これには津波が若狭湾を襲ったのは、旧暦11月29日ではなく、その後の連動地震(または誘発地震)による津波であったとしている[注釈 5]。
『イエズス会日本書翰集』
影響
東北太平洋岸の海運に併せ利根川の水運を使う内川江戸廻り航路は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展し、鉄道網が整備される明治前半まで、流通の幹線として機能し続けた。寛文11年(1671年)に江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が、東北諸藩の領内の産米を伊豆半島の下田から直接江戸に運ぶことに成功し、外海江戸廻りの東廻海運が飛躍的に発達したとされるが、実際には東廻り航路は、危険な犬吠埼沖の通過に加え房総半島を迂回する必要があり、順風が得られない限り東京湾への出入りができない航路であり、利根川の水運は依然として重要であった。
旧渡良瀬川、旧鬼怒川、旧小貝川の下流域は縄文海進時には海であったが、以後の河川の堆積作用によって湿地帯が形成されており、治水も兼ねた当事業によってこれらの湿地帯が減り新田が開拓されたとする主張もあるが、米を主食とする日本において新田開発は絶えず行われており、例えば香取海沿岸には古くから相馬御厨や橘荘などの荘園をはじめとする多くの耕作地があり、東遷事業によって水害が頻発、甚大な被害を被るようになったという歴史的事実は無視できない。
天明3年(1783年)浅間山大噴火後の中条堤の機能維持のための対策や、明治期の足尾鉱毒事件などを契機に、手賀沼や印旛沼、霞ヶ浦などをふくむ旧香取海沿岸では、排水不良によって洪水の激化を招くこととなった。その一方で水量の少ない時期には、旧常陸川や江戸川上流域に出現した浅瀬が高瀬船などの通行を妨げる事態が発生し、その傾向は浅間山大噴火以後深刻になった。このことが、舟運機能は確保した上で治水対策を強化していく事情へとつながり、元々海の干潟や利根川下流の低湿地帯であった首都を水害から守るため行われた大規模な対策事業は、海水の溯上を容易にし、現在の下流部では塩害が激化、戦後におけるさらなる対策事業へとつながることになる。そして、それらについての永続的な努力の結果として今日があり、さらには利根川水系8ダムのような終わりの無い問題を抱えている。
利根川流域は大きな台風のたびに浸水被害を繰り返すなど、水害との闘いを続けている地域であり、2013年(平成25年)の平成25年台風第26号では埼玉県東部の5600戸以上が浸水被害を受け、同様の被害が今後東京都でも起こる可能性が指摘され、内閣府中央防災会議が発表した資料によれば、カスリーン台風と同規模の洪水が発生した場合、死者最大3,800人、罹災者数160万人に上ると推測している[17]。
ふーん、深いですねー。
1つの見方ですね。
自分は家康は以下のように考えていたと思ってます。
・朝廷を抱き込んだ秀吉に抗うのは 得策ではない。
・秀吉は嫡子がいないので天下を取っても世襲出来ず内乱必至。
・秀吉よりも若く、さらに健康に気を遣っているので秀吉よりも長生きする自信が有った。
ゆえに秀吉存命中にギャンブルするよりも我慢することにしたんだと思われます。
秀吉が大坂に城を建てたのは石山本願寺の跡地だからだ。
本願寺の影響が無くなった事を広報するためのだ。
ヨーロッパでも城の跡地に教会を建てたり
逆に教会跡地を城にしたりというのはよくある。
大坂を商業都市にしたのは秀吉治世の頃。
その前は大坂より堺の方が大きい商業都市だった。
伊奈 忠次
(いな ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。
生涯
生い立ち
武将として
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[1]。彦坂元正、大久保長安と連署しており、「伊奈備前守」[2]と記され黒印が押されている
天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。
家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。
慶長15年(1610年)、61歳で死去、遺領と代官職は嫡男の忠政が継いだ。
大正元年(1912年)、正五位を追贈された[3]。
功績
武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において1万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈氏屋敷跡がある。
諸国からの水運を計り、治水を行い、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも「神様仏様伊奈様」と神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。次男・忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。
伊奈町音頭は「ハァ〜伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。
次の四国、九州、小田原征伐を見てると家康はギリギリセーフ
戦国を生きてきた当時の人間の考える事が今の平和な人間にわかるわけない。憶測にすぎないと思います
変な例えや小芝居が気になります
歴史学者は何かと記録がとか資料だとかを
重要視するが記録してない真実のほうがはるかに多いと思う
一般的な歴史学者はまるであてになりません
大地震無ければ、家康は負けていた
日本の独裁者