ライブ配信6/16(日)21時【対談】リルケとシュティフター|ドゥイノの悲歌と晩夏を巡る随想

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  • เผยแพร่เมื่อ 19 ต.ค. 2024

ความคิดเห็น • 5

  • @T_TOYODA
    @T_TOYODA 4 หลายเดือนก่อน +2

    昨日はありがとうございました。対談の中でも悲歌と晩夏共に新たな気付きや考えさせられる点がありました。
    例えば、1時間経ったくらいで話題にあがった第九の悲歌の「もはやおんみ(大地)の数々の春は要らない、一度の春、ああ、たった一度の春でいいのだ。それでも私の血にはゆたかすぎる」についてライブ中は主に、「現在の春に、過去に訪れた春と未来に訪れるであろう春が重なって現れる」というイメージで語りましたが、後あげた「春には、目に見えぬ場からの誕生、という意味が込められている」
    という仮説があっていれば、この詩句は同時に「現前するあらゆる物事をかけがえないものとして受け止めよう、この世界に生まれてここに在る私の人生をかけがえないものとして生ききろう」という意思表明としても読めるのではと思われました。
    悲歌と晩夏、引き続き取り組んでいきたいと思います。

    • @literarymasterpiece-in-japan
      @literarymasterpiece-in-japan  4 หลายเดือนก่อน +2

      昨日はありがとうございました。お疲れさまでした
      豊田さんの読書は部分から全体に行き 部分の総和として進化した全体を得る、と言う感じがします
      言わば演繹的に読み解いていく方向性
      私の場合は全体の印象があり その印象の構成要素としてどんな部分があるかを見るという帰納的な方向性
      音楽で考えるとわかりやすいのですが
      私はまず曲というものを味わう その次に音符がどう書かれているかを見る
      豊田さんは まず音符の構成を見る 次にこれが奏でられるとどんな曲なるのかを見る
      お話の多くは構成要素にフォーカスされる 全体への感覚的な所見はほぼゼロでした
      全体を語る時もあくまで構成要素の上に載っている、なので事例が大聖堂になる 山や雲ではないのは構成要素が必須だからでしょう
      これはどちらが良い悪いの話ではなくて 個性、傾向、好みの違いです
      というようなことを感じました

    • @T_TOYODA
      @T_TOYODA 4 หลายเดือนก่อน +2

      読書の方向性が演繹的か、帰納的かということは意識したことがなかったので興味深いですね。お教え頂いた感じ方の違いを意識しながら古荘さんの動画を見返したいと思いました。確かに私の場合、ドゥイノの悲歌は個々の概念と読書経験との結合、晩夏では個々のエピソードと自身が構築したリルケ的世界観との共鳴という部分への関心が、愛読に至る大きなきっかけでしたし、特に悲歌を最初に通読した際に感じた印象は、全体像はまったく捉え難い、けれども追求しなければいけないものだという漠然としたものでした。そして再読を通して私の中に浮かんできたのが、いずれも部分と全体とのかけがえのない関係性を表現し、特に全体に対し軽視されがちな部分の大切さを説く作品だ、という印象だったことも、全体を語るにしても部分に焦点を当てながらの語りになっていた要因かなと思いました。いずれにせよ、逆向きの方向性で読んだとしても素晴らしいと感じさせるものが見つかるということは、これらの作品の懐の深さの現れの一つではないでしょうか。

    • @literarymasterpiece-in-japan
      @literarymasterpiece-in-japan  4 หลายเดือนก่อน +2

      @@T_TOYODA ひとつ言えるのは、部分と全体の関係性にもどづき自意識で計画して設計して意図してそう書いたかと言うと、リルケもシュティフターも絶対そういう創作はしていないということです。それは読み手が感じることであり創作者がそんな風に創作すると駄作になります
      もしそうやって創作するならドゥイノの悲歌は1週間で完成したでしょう
      作品を鑑賞するとき読み手が理解の枠としてそれらのものが必要となるのだと思います
      創造にはデモーニッシュなものが介在し、無意識的に構造が展開し言葉が紡がれる部分が詩の場合は半分以上だと思います 最初の構想と違うように小説が出来上がるというのもそういうことでまさに晩夏も最初はあんな長いものになる予定ではありませんでした
      だからこそ 全体の演奏の印象というものが一義的なものでその印象を味わう手段が部分の解釈で全体と部分は陶価値ではない、

    • @T_TOYODA
      @T_TOYODA 4 หลายเดือนก่อน +2

      ​@@literarymasterpiece-in-japan 創作において作者の無意識が果たす役割が大きいということ、まったく同意です。リルケの若き詩人への手紙3通目、新潮文庫版ではP25の自己の深い内部における進歩を待つことや、第七の悲歌の53行にある考案だけの産物についての詩句なども古荘さんのお言葉と同じ方向を指していると思います。また、先のご返信の最後に記された、全体と部分は等価値ではない、ということについては、質や量、目的と手段、因果関係の前後などで比べれば確かに全体と部分は非等価と言わざるを得ないと私も思います。一方、私が言いたかったことは、例えば、私の人生におけるドゥイノの悲歌という本との出会いという出来事は、人生全体と一冊の本との出会いという部分的出来事を前述の様な観点で比べたら等価とは言えない、けれど、その出会いがなかったら私の人生は今と同じとは言えないというかけがえのなさにおいて、全体と部分の優劣をつけることができない、という意味での等価性ということでした。もしそのような優劣を超えた場がなかったら、昇る幸福はあったとしても、降りくだる幸福があるとは言えなくなると思います。