ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
昨年の10月に登城🏯しました。当時の🏯城は無いけど訪れてとても感動しました。何が凄いかというと石垣、自然の岩を利用した城作りとても想像が膨むし天守があった場所からの眺めは絶景です。資料館も見応えありましたし訪れて損が無い山城跡だと思います。
今回も丁寧な解説有り難うございます。穴蔵のある大櫓台の石垣は圧巻ですね。石段右の切込接は勾配も緩く布目が通っているものの表面処理が粗いはつりですが、左側の切込接は垂直に近く乱積のように見えてはつり仕上げも細かく表面が綺麗です。江戸時代でも、風吹門から登城した時の見栄えを意識してきっと左右で積直し時期が異なるのでしょうね。それにしても岩盤に穴を開けてた懸造は当時の人の執念を感じます。凄いです。巨岩のみならず野面積みや打込接、天守登城路での布積みと谷積みの共演もあり石垣好きにとっては楽しい城址です。因みに楽をしたい私は自販機のある一番近い駐車場に車を止めました。
この城、今村城とセットで見に行きました。今村城がメインのつもりで行ったのですが、なんのなんの、この城も予想外に素晴らしく、桜も満開で、印象深い思い出になりました。また行きたい城の一つです。
今村城ではなく岩村城では?
@@heiankids おっしゃる通り岩村城です。ご指摘ありがとうございます。あらためて自分のコメント見て笑ってしまいました。
話し方が誠実。
資料館の学芸員の方に聞いた話だと石高1~1万2千石の城持ち大名なので上の殿様から最下層の足軽までかなりの貧乏生活をしていましたが、名主以下百姓階級は意外と裕福な生活をしていたみたいです。理由は士分(武士)階級は城に篭って碌に外に出ず領内の統治は名主以下に丸投げにされていたせいで毎年定額の年貢を城に納めさえすれば後は好き勝手に出来たそうです。武士階級がこんなもんなんで苗木にはどの大名領にもあった城下町が形成されず、目の前にあった中津川の町も他領(尾張藩領)で税収が入ってこない、そのくせ半譜代大名扱いなので幕府からは役職が割り当てられる(大阪定番が多い)ので、明治維新時には財政が破綻状態だったそうです。
家を護る為に、小領主の懐具合で精一杯城の改修を行い続けた遠山氏の健気さに、ほっこりしました😊誰かが書かれていたように、武士は貧乏で領民はそうじゃなかったというのも興味深く、遠山氏の事を詳しく調べてみたくなりました。
僕もこの城大好きです。復元図をみたときは山賊の砦かとおもいました。
かいのすけさんこんばんは🌆ダイです!自然音が多く入っていてとても良いですね☺️撮影もゆっくりめで見やすいです🎶高評価押させていただきました😃
このあたりの山々は苗木花崗岩という巨大な花崗岩体の露頭なのでまあ整地するのは不可能でしょうね逆に複雑な露岩を巧みに利用した名城だと思います 秋になったら訪れてみたいですね
かいのすけさんお疲れ様デス私の好きな城です岩だけかと思いましたが見事な石垣凄いですねありがとうございました👍
いろいろな種類の石垣がありました。現地に行ったら私も好きになりましたよ!
苗木城は天守の下の巨大な岩やいろんな石垣があっていいですよね。近くに中山道の宿があったりしてとてもよかったです。ちなみに僕は苗木城に電車(JR)と徒歩で行きました。
苗木城はとても面白かったです。私は車が多いのですが、電車も城までの街並みや地形をみることができて面白そうですね!
苗木城はマジで絶景。
石垣好きのきっかけになった城です’(見る参考書として年に数回いまだにいきます)遠山七頭は桶狭間から関ヶ原まで色々なストーリーがある家なので大河ドラマで扱ってほしい天守から見る恵那山2000mも絶景です(雲の少ない晴天に限る)近くの馬籠宿の展望台からの恵那山もめちゃくちゃ近影なので晴天なら個人的には富士山よりも絶景でおすすめ
苗木城に行ったときめちゃんこ楽しかった(≧∇≦)bめちゃオススメ見所たくさん
いい所です。本当に😅
この城は何回も改修しているのがわかり、その際にお金が無いことがわかりますね。何回も行っていますが制服を着た50才くらいのおじさん二人が手を繋いで歩いていたことが・・・
貧乏過ぎる小藩の城としても有名だけどあの巨岩に櫓があったと思うと壮観だったでしょう。
巨石が多い東濃地方の山城わくわくしますね今、阿木城跡も地元の方が一生懸命整備されてるので是非取り上げて下さい
承知!おすすめの城がありましたらまた教えてください
東歐羅巴式山城? XD
遠山の金さんは、この美濃遠山氏なのかな?
分家だよー
@@えいたなくん さんきゅー
戦国時代の遠山家は苗木・岩村・明知と3家残っており、このうち岩村遠山家は織田×武田抗争時のあおりで滅ぼされてしまいました。残る2家のうち苗木遠山家は旧地に復帰できましたが、明智遠山家は6500石で大名にはなりきれず交代寄合となりました。旗本の遠山左衛門尉家は明知遠山家の分家に当たります。ちなみに途中よそから養子が入ってますので血もつながってません。
昨年の10月に登城🏯しました。当時の🏯城は無いけど訪れてとても感動しました。何が凄いかというと石垣、自然の岩を利用した城作りとても想像が膨むし天守があった場所からの眺めは絶景です。資料館も見応えありましたし訪れて損が無い山城跡だと思います。
今回も丁寧な解説有り難うございます。
穴蔵のある大櫓台の石垣は圧巻ですね。石段右の切込接は勾配も緩く布目が通っているものの表面処理が粗いはつりですが、左側の切込接は垂直に近く乱積のように見えてはつり仕上げも細かく表面が綺麗です。江戸時代でも、風吹門から登城した時の見栄えを意識してきっと左右で積直し時期が異なるのでしょうね。それにしても岩盤に穴を開けてた懸造は当時の人の執念を感じます。凄いです。巨岩のみならず野面積みや打込接、天守登城路での布積みと谷積みの共演もあり石垣好きにとっては楽しい城址です。因みに楽をしたい私は自販機のある一番近い駐車場に車を止めました。
この城、今村城とセットで見に行きました。今村城がメインのつもりで行ったのですが、なんのなんの、この城も予想外に素晴らしく、桜も満開で、印象深い思い出になりました。また行きたい城の一つです。
今村城ではなく岩村城では?
@@heiankids おっしゃる通り岩村城です。ご指摘ありがとうございます。あらためて自分のコメント見て笑ってしまいました。
話し方が誠実。
資料館の学芸員の方に聞いた話だと石高1~1万2千石の城持ち大名なので上の殿様から最下層の足軽までかなりの貧乏生活をしていましたが、名主以下百姓階級は意外と裕福な生活をしていたみたいです。
理由は士分(武士)階級は城に篭って碌に外に出ず領内の統治は名主以下に丸投げにされていたせいで毎年定額の年貢を城に納めさえすれば後は好き勝手に出来たそうです。
武士階級がこんなもんなんで苗木にはどの大名領にもあった城下町が形成されず、目の前にあった中津川の町も他領(尾張藩領)で税収が入ってこない、そのくせ半譜代大名扱いなので幕府からは役職が割り当てられる(大阪定番が多い)ので、明治維新時には財政が破綻状態だったそうです。
家を護る為に、小領主の懐具合で精一杯城の改修を行い続けた遠山氏の健気さに、ほっこりしました😊
誰かが書かれていたように、武士は貧乏で領民はそうじゃなかったというのも興味深く、遠山氏の事を詳しく調べてみたくなりました。
僕もこの城大好きです。復元図をみたときは山賊の砦かとおもいました。
かいのすけさんこんばんは🌆
ダイです!
自然音が多く入っていてとても良いですね☺️
撮影もゆっくりめで見やすいです🎶
高評価押させていただきました😃
このあたりの山々は苗木花崗岩という巨大な花崗岩体の露頭なのでまあ整地するのは不可能でしょうね
逆に複雑な露岩を巧みに利用した名城だと思います 秋になったら訪れてみたいですね
かいのすけさんお疲れ様デス私の好きな城です岩だけかと思いましたが見事な石垣凄いですねありがとうございました👍
いろいろな種類の石垣がありました。現地に行ったら私も好きになりましたよ!
苗木城は天守の下の巨大な岩やいろんな石垣があっていいですよね。近くに中山道の宿があったりしてとてもよかったです。ちなみに僕は苗木城に電車(JR)と徒歩で行きました。
苗木城はとても面白かったです。私は車が多いのですが、電車も城までの街並みや地形をみることができて面白そうですね!
苗木城はマジで絶景。
石垣好きのきっかけになった城です’(見る参考書として年に数回いまだにいきます)
遠山七頭は桶狭間から関ヶ原まで色々なストーリーがある家なので大河ドラマで扱ってほしい
天守から見る恵那山2000mも絶景です(雲の少ない晴天に限る)
近くの馬籠宿の展望台からの恵那山もめちゃくちゃ近影なので
晴天なら個人的には富士山よりも絶景でおすすめ
苗木城に行ったとき
めちゃんこ楽しかった(≧∇≦)bめちゃオススメ
見所たくさん
いい所です。本当に😅
この城は何回も改修しているのがわかり、その際にお金が無いことがわかりますね。
何回も行っていますが
制服を着た50才くらいのおじさん二人が手を繋いで歩いていたことが・・・
貧乏過ぎる小藩の城としても有名だけど
あの巨岩に櫓があったと思うと壮観だったでしょう。
巨石が多い東濃地方の山城わくわくしますね
今、阿木城跡も地元の方が一生懸命整備されてるので是非取り上げて下さい
承知!おすすめの城がありましたらまた教えてください
東歐羅巴式山城? XD
遠山の金さんは、
この美濃遠山氏なのかな?
分家だよー
@@えいたなくん
さんきゅー
戦国時代の遠山家は苗木・岩村・明知と3家残っており、このうち岩村遠山家は織田×武田抗争時のあおりで滅ぼされてしまいました。
残る2家のうち苗木遠山家は旧地に復帰できましたが、明智遠山家は6500石で大名にはなりきれず交代寄合となりました。
旗本の遠山左衛門尉家は明知遠山家の分家に当たります。
ちなみに途中よそから養子が入ってますので血もつながってません。