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うっぷん晴らすために花火あげるの可愛くて草
最初の動画から全て拝見させていただいております。全て1人で作成しているのに毎回高いクオリティの動画に感謝しています。他の教育系のアカウントと違うところは、受験生の試験対応のみならず興味として歴史を色んな世代の人に広めて下さっているところだと思います。これからも拝見させていただきます!頑張ってください!(私も受験生なので頑張ります)
受験生にしっかりと届いているようで嬉しいです「日本史を好きになった結果点数が上がった」という人を増やせたらいいなと思っています残り約1ヶ月だと思いますが、追い込みを頑張っていってください
8:18 島津久光、前に動画でも取り上げられた、西郷赦免するときにキセルを噛みすぎて跡がついた話とか、この話とかところどころ人間くさいエピソードがあるの好き
木戸孝允や坂本龍馬のような外部の人からは有能な藩父だと思われて普通に羨ましがられてたらしい
打ち上げ花火でストレス解消は草生え奉り候
ワロタw
今年も宜しくお願いします。動画から沢山勉強させていただきます✨✨
とても勉強になりました
まじで今の日本も大変革起こさないと。
勝手に外国人に参政権を与えようとする自治体(川崎・熊本等)も現れはじめましたし、オスマントルコの史実を紐解くまでもなく、地方分権化は亡国の元ですな。左側が推進しようとするわけですよ。
こんな大改革、無血でできたことが奇跡に思えるなー
しかしこういうの見てると西郷ってめちゃくちゃ仕事できるよな・・・・うだうだ理屈いうことなんてせずに動くと決めたら徹底的にやる
幕末も親藩ですら命惜しさに徳川裏切って薩長に付いたり、武士が堕落してたからだろうね。
@@katuragi123今の政治家や官僚や財界人や芸能界の大物や事務所経営者からしたら・・・・親の仇より憎い存在www主君が、劉備か織田信長なら・・・・安心して、仕事ができて天寿を全う出来たろう不幸なのは、斉彬以降・・・・良い主君や上司に恵まれなかったこと・・・・
井伊彦根は反慶喜だからわかるとしても尾張徳川や越前松平までもが薩長についてるのが笑える。今の会津の兄貴の藩主と昔の二代将軍の兄貴の祖の藩やんかと@@yamatanooroshi
やはり薩長はカス
打ち上げ花火可愛くて死ぬ
ひさみっちゃん
マジで面白いですありがとうございます😊
明治って改めて考えると面白い!【リクエスト】厳島神社の動画投稿して欲しいですー
7:14 岩倉具視座っている椅子まで持って来てる😂
「廃藩置県」は、250年以上にわたって続いた江戸時代の地方統治システム「藩」を廃止して、新たに明治新政府直轄の「県」を置くという政策です。江戸時代には、江戸の徳川将軍と主従関係を結んだ地方の大名(藩)が、与えられた領地・領民を支配していましたが、外国に負けない強い国家を作るためには、地方に分散した権力を天皇の名の下に新政府へ集める中央集権化が欠かせないと、木戸孝允を中心とする長州藩出身の若き官僚たちは考えていました。「廃藩置県」に先立ち1869(明治2)年に実施されていた「版籍奉還」でも、すでに全国の藩が所有する領地・領民は天皇に返上されていました。しかし、返上された領地を治める知藩事には、引き続き旧藩領を支配していた旧藩主(大名)が任命され藩政を担ったため、中央集権化は思ったように進んでいなかったのです。この状況に危機感を覚えた木戸は、同じ長州藩出身の井上馨や山縣有朋らと図り、薩摩藩出身の大久保利通や西郷隆盛を取り込んで、まず国内屈指の軍事力を持つ薩摩藩、長州藩、土佐藩から御親兵を募り、明治新政府直属の軍隊を編成しました。この動きこそまさに「廃藩置県」への布石で、反発があれば武力を用いたクーデターで一気に決着をつけようという決意の現れだったのです。1871(明治4)年7月14日、木戸らは在京の知藩事たちを集めて強行的に「廃藩置県」を断行しましたが、予想に反し、知藩事たちからの反発はほとんどありませんでした。その背景には、当時の藩の財政悪化が挙げられます。倒幕戦となった戊辰戦争によって軍事費用の出費がかさみ、諸藩の財政は火の車でした。その借金を明治新政府が肩代わりしてくれ、しかも知藩事はその地位こそ奪われましたが、新政府から引き続き給料が支払われ、華族という特権身分も保証されたからです。「廃藩置県」によって、まず全国の藩に変わり北海道に「1使」、東京・大阪・京都に「3府」、そして全国に「302県」が置かれ、現在の1都・1道・2府・43県の原型が作られました。また、これにより新政府は日本全土とそこに暮らす人民を直接統治することができるようになって、戸籍の編成や徴兵令の施行、地租改正、警視庁の設置、学制の公布といった中央集権化に欠かせない様々な行政システムの改革を実現できるようになったのです。
徳島藩は内乱が発生、徳島藩のそもそもの成り立ち経緯から藩内に別藩がある様なあやふやな状態が初期が存在して燻っていたところに廃藩置県の大号令。その内容に藩士(藩主の直接の家臣)は少ないながらもしばらくは食べて生ける一時金支給が有った。しかし、藩士の家臣、藩主からみたら陪臣には一ヶ月程の一時金支給のみ。徳島藩は藩祖の親、蜂須賀小六と、筆頭家老の祖、稲田某氏が木曽三川の川並衆と言う野盗紛いの地侍時代から強固な義兄弟の契りを結んでいて、豊臣政権下、蜂須賀氏と共に稲田氏にも大名(大守)取り立ての打診を退けて義兄弟の契り、信義を押し通して蜂須賀氏に帯同。蜂須賀氏が阿波国20万石に併せ、淡路国6万石の二国約26万石の大守となると、弟分の信義を押し通し大名打診を退けた稲田氏に1万6千石の知行と徳島藩の生命線ともいえる藍の集産地の脇町(うだつの上がる町。)と同じく、石高は6万余ながら、米の名産地、名だたるブランド(阿波20万石を淡路島の六万石が同じか上回る価値が有った)の淡路国(離島がある為)を任せました。徳島藩内に稲田藩がある様な状態。因みに、参勤交代で江戸城に参府の際には稲田氏は一家老ながら、大名の格式で遇されたとか(他の大藩でも、一万石以上の特別な家老がゴロゴロいた)そんな事から藩士から稲田氏側の家臣は蔑まれ、給料は安くて藩士等と仕事は何ら変わらない。どこかで聞いた様なイビツな構図に鬱々、悶々として火種が燻っていたところに廃藩置県が火に油を注いで稲田氏を藩主に担いで淡路藩を立てて自分たちも藩士に成ろうとキャンペーンを展開。徳島藩の財布👛から金の成る打出の小槌の淡路島(一級~特米。高く売れた。瓦や線香(全国(生産高)シェアは7割)、塩、海産物、北前航路~の収益)を失くす事は財政破綻を意味した事やそれにも増してプライドが許さない等から守旧派急先鋒の一団が洲本城下の稲田氏家臣を襲撃。120名もの死傷者を出す内乱となった。この際、襲撃を受けた稲田氏家臣たちはほとんど無抵抗だったと言われています。そもそも廃藩置県により藩が無くなる直前だった事から藩主は叱責?(取り潰しは無い)襲撃した徳島藩士のリーダーは(我が国最後の)切腹。余も重刑罰がくだされた。襲撃された稲田氏側は喧嘩両成敗?の武士の価値観から稲田氏を始め家臣たちほとんどが北海道開拓使と言う体の良い島流し。行き先は北海道南部の何にもない冬は厳寒の漠々とした原野。今の日高の静内。↑を題材にした北の零年。お登せ。等の歴史小説が書かれました。
三院制扱っている動画がなくて助かりました。
まぁこれは藩にメリットしかなかったからな〜藩がなくなっても知藩事として引き継がれて、俸禄もかなり少なくなるとはいえ貰えて、貴族の称号も貰えた。なにより当時どの藩も莫大な借金を抱えており、それを明治政府が肩代わりする事で逆に藩側が喜んで行われていたりしたし。
お疲れ様です。動画のアップありがとうございます。長野県に住む私の友人から聞いた話ですが、現在の長野県は昔 県北部の長野県と県南部の筑摩県に分かれていました。しかし、筑摩県の県庁舎が火災で消失。行政機能がができなくなります。筑摩県は一時的に長野県に行政機能を移して対応します。その後、県庁舎を造り火災の傷も癒え、筑摩県は長野県からの分離をしようとしますが長野県が分離を拒否!結局このままズルズルと進み現在の長野県になったそうです。現在の長野県南部に住んでいるお年寄りの方々は長野県に対してそういった意味で違和感やわだかまりを持っている方もいるようです。廃藩置県と聞いて、この話を思い出しました。そ
関ヶ原の戦いで 毛利・島津家は敗戦側(長州 薩摩) これを徳川家を倒す 政権交代 長年の夢 復讐心があったかなと思いました。自分の記憶では 薩長土肥で 四国のお殿様(山内家)が口説いて どんどん 他の地方が 薩長土肥側加盟した記憶があります。
何処の藩も大赤字でもう維持できなかったんだよ県に切り替えは渡りに船だったんだ反対などない。
地元の姫路から版籍奉還が始まるとは意外だな。
敗戦するまで県知事は内閣が任命してたんだよね
思ってた程に反対運動は少なく、山の様に積み上がってた以前からの借金と、政権交代時のゴタゴタで積み上がってた借金で支配層は、ひいひい言ってたらしいね。有り難かったかも知れない?、
うまくまとまっていて感心しました。ご親兵なくして廃藩置県はできず、そのご親兵も西郷の圧倒的な魅力と人望、そしてあの薩摩を武の面で率い、戊辰戦争では新政府軍のトップであったことの怖さがなくては成り立たなかった。あらためて西郷は、軍人として日本史上最高・最大クラスの人だったことがわかります。武をもって日本を統一したというのは、家康以来のことであり。また、戦に強いだけではなく、戦わなくても人が従う武人というのは、過去にもあまり類を見ない。しかも彼は脳筋ではなく、むしろ知力の人だった。
血縁の従道や大山巌の晩年イメージと薩摩武士で人望タイプだから脳筋と勘違いしてる人おおいけど、まるで逆なんだよね・・・・無論大山も同様。大久保や木戸や岩倉のいない時代の西郷主導の政府は日本中の知が結集されむちゃくちゃ上手くいってた。
当時ってほんとどうやって連絡取ってたんだ。移動も大変だろうに
今年もよろしくお願いします。どいうことを話す楽しみにしています。
藩と言う言葉は府藩県の三治制の時に初めて出てきた言葉と記憶しております。江戸時代には新井白石の藩翰譜などの書物に散見されるぐらいで公に藩と言わなかったはずと聞きおよんでおります。徳川家も宛行状も領主に直接宛てていたはず、藩士ではなく何何の家臣と述べていたと記憶しており、会津藩は存在せず、すでに新政府預かりでは。記憶が間違いであれば失礼しました。
斗南藩が
花火上げんの可愛すぎ
こんな大改革、日本では二度と無理だろうな。大阪の府と市を統合する改革すらできないのだから。
そーですよねー。中世の領主は形の上では、領内の土地の支配権(徴税と保護)、領民の生殺与奪権を握ってましたからね。其を領主の私的所有から公的な管理権に変更した訳だ。
花火大爆笑した受験の鬱憤も打ち上げてください久光様
徳川幕府を倒し明治新政府が発足した時に何故、薩長土肥の藩主が要職に着いてないの?
強い意思で中央集権国家を選んだ国が簡単に地方分権改革に進むのは難しいよなー。
財政の責任も重く感じていたと思うんですが、刑罰の執行や領地領民の管理を自分達で行わなければいけないのがきつかったんじゃないかなあと勝手に思ってます。でも、その重責を吟味して実行できるような人材が数多く居たからこその明治維新なのではないかと。例えばですが、現在の各地方知事から板垣や大久保のような人物が輩出されるか?といえば絶対に不可能だと思うでしょう?責任や覚悟は人を強くするんだと思います。だから現代の地方はろくな首長が存在していないという証明にもなっているんじゃないでしょうか。
大幅な構造改革?、東京都は、ついぞ九十年程前は府でしたが、先の大戦中の制度改革で都にですね。戊辰戦争も借金で塗れたんだが、それ以前から塗れまくってたから、大半は、借金を肩代りしてくれるなら、大歓迎だった様ですね。取り敢えずは旧来のシステムを再導入?、その間に新システムの構築ですよね?。
藩=大名の領地、県=政府の領地であり、廃藩置県は大名から領地を取り上げて政府の直轄地とすること。とのご解説です。版籍奉還は土地と人民を天皇に返すこと。とのご解説です。廃藩置県の解説である「領地の取り上げ」は版籍奉還により既に達成されているので、廃藩置県とは「土地の管理権の取り上げ」を指すのではないかと考えました。もしよろしければ教えてください。よろしくお願いします😂
花神の大村先生が戊辰戦争後「東北で、もう反乱は起きない」とみんなに語っていたがこれは廃藩置県が、施工されるから、反乱が起きない分かっていたからと思う何故なら、もし薩摩、長州、土佐、肥前の藩主が、右大臣、左大臣、参議となり、政権運営したら・・・・間違いなく事実上西郷、桂、大久保の家来になった。越前、芸州、尾張、紀州、大垣、彦根、津藩は、怒り狂うだろう当然、会津藩残党は、当然、降伏した。米沢や仙台や庄内も再び立ち上がるだろうそれが無かったのは、久光も容堂もそうせい公も大金と名誉だけわたして、土地も💂♂️も取り上げたから一応みんな納得したからwww
封建制度に、アンパンチだ!
将軍にゆえんある人が産まれる場所が府。
版籍奉還したのに何でその後用地買収で苦労するんですかね
藩閥政府がいかん
その日本語の言葉はちょっと難しいですががんばります。日本史の原料を下さいますありがとうございます😭。
薩摩藩敏腕家老 小松帯刀氏生きていたら日本はどうなっていたんだろうか?!
【速報】岸田首相、幕府の開始を検討
征夷大将軍 岸田文雄 爆誕
廃藩置県の後にできた琉球藩
今にしたら…観光地なる城郭の撤去解体。正に「廃藩恥県」😮
会津地方は新潟県に編入すべきだった
「血を流さずに」?じゃあ戊辰戦争は何だったのか?あの戦争で一人の血も流されなかったのか?
ロスチャイルド絡めて話してくれろ(`・ω・´)ゞ
歴史と迷信を一緒にしないで
うっぷん晴らすために花火あげるの可愛くて草
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木戸孝允や坂本龍馬のような外部の人からは有能な藩父だと思われて普通に羨ましがられてたらしい
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ワロタw
今年も宜しくお願いします。
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とても勉強になりました
まじで今の日本も大変革起こさないと。
勝手に外国人に参政権を与えようとする自治体(川崎・熊本等)も現れはじめましたし、オスマントルコの史実を紐解くまでもなく、地方分権化は亡国の元ですな。左側が推進しようとするわけですよ。
こんな大改革、無血でできたことが奇跡に思えるなー
しかしこういうの見てると西郷ってめちゃくちゃ仕事できるよな・・・・うだうだ理屈いうことなんてせずに動くと決めたら徹底的にやる
幕末も親藩ですら命惜しさに徳川裏切って薩長に付いたり、武士が堕落してたからだろうね。
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事務所経営者からしたら・・・・
親の仇より憎い存在www
主君が、劉備か織田信長なら・・・・
安心して、仕事ができて天寿を全う出来たろう
不幸なのは、斉彬以降・・・・良い主君や上司に
恵まれなかったこと・・・・
井伊彦根は反慶喜だからわかるとしても尾張徳川や越前松平までもが薩長についてるのが笑える。今の会津の兄貴の藩主と昔の二代将軍の兄貴の祖の藩やんかと@@yamatanooroshi
やはり薩長はカス
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ひさみっちゃん
マジで面白いです
ありがとうございます😊
明治って改めて考えると面白い!
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7:14 岩倉具視座っている椅子まで持って来てる😂
「廃藩置県」は、250年以上にわたって続いた江戸時代の地方統治システム「藩」を廃止して、新たに明治新政府直轄の「県」を置くという政策です。江戸時代には、江戸の徳川将軍と主従関係を結んだ地方の大名(藩)が、与えられた領地・領民を支配していましたが、外国に負けない強い国家を作るためには、地方に分散した権力を天皇の名の下に新政府へ集める中央集権化が欠かせないと、木戸孝允を中心とする長州藩出身の若き官僚たちは考えていました。
「廃藩置県」に先立ち1869(明治2)年に実施されていた「版籍奉還」でも、すでに全国の藩が所有する領地・領民は天皇に返上されていました。しかし、返上された領地を治める知藩事には、引き続き旧藩領を支配していた旧藩主(大名)が任命され藩政を担ったため、中央集権化は思ったように進んでいなかったのです。この状況に危機感を覚えた木戸は、同じ長州藩出身の井上馨や山縣有朋らと図り、薩摩藩出身の大久保利通や西郷隆盛を取り込んで、まず国内屈指の軍事力を持つ薩摩藩、長州藩、土佐藩から御親兵を募り、明治新政府直属の軍隊を編成しました。この動きこそまさに「廃藩置県」への布石で、反発があれば武力を用いたクーデターで一気に決着をつけようという決意の現れだったのです。1871(明治4)年7月14日、木戸らは在京の知藩事たちを集めて強行的に「廃藩置県」を断行しましたが、予想に反し、知藩事たちからの反発はほとんどありませんでした。その背景には、当時の藩の財政悪化が挙げられます。倒幕戦となった戊辰戦争によって軍事費用の出費がかさみ、諸藩の財政は火の車でした。その借金を明治新政府が肩代わりしてくれ、しかも知藩事はその地位こそ奪われましたが、新政府から引き続き給料が支払われ、華族という特権身分も保証されたからです。「廃藩置県」によって、まず全国の藩に変わり北海道に「1使」、東京・大阪・京都に「3府」、そして全国に「302県」が置かれ、現在の1都・1道・2府・43県の原型が作られました。また、これにより新政府は日本全土とそこに暮らす人民を直接統治することができるようになって、戸籍の編成や徴兵令の施行、地租改正、警視庁の設置、学制の公布といった中央集権化に欠かせない様々な行政システムの改革を実現できるようになったのです。
徳島藩は内乱が発生、
徳島藩のそもそもの成り立ち経緯から藩内に別藩がある様なあやふやな状態が初期が存在して燻っていたところに
廃藩置県の大号令。
その内容に
藩士(藩主の直接の家臣)は
少ないながらもしばらくは食べて生ける一時金支給が有った。
しかし、藩士の家臣、藩主からみたら陪臣には
一ヶ月程の一時金支給のみ。
徳島藩は
藩祖の親、蜂須賀小六と、
筆頭家老の祖、稲田某氏が
木曽三川の川並衆と言う野盗紛いの地侍時代から
強固な義兄弟の契りを結んでいて、
豊臣政権下、
蜂須賀氏と共に稲田氏にも大名(大守)取り立ての打診を退けて
義兄弟の契り、信義を押し通して
蜂須賀氏に帯同。
蜂須賀氏が阿波国20万石に併せ、淡路国6万石の
二国約26万石の大守となると、
弟分の信義を押し通し大名打診を退けた
稲田氏に
1万6千石の知行と
徳島藩の生命線ともいえる藍の集産地の脇町(うだつの上がる町。)と
同じく、石高は6万余ながら、米の名産地、名だたるブランド(阿波20万石を淡路島の六万石が同じか上回る価値が有った)の淡路国(離島がある為)
を任せました。
徳島藩内に稲田藩がある様な状態。
因みに、参勤交代で江戸城に参府の際には
稲田氏は一家老ながら、
大名の格式で遇されたとか
(他の大藩でも、一万石以上の特別な家老がゴロゴロいた)
そんな事から
藩士から稲田氏側の家臣は蔑まれ、
給料は安くて
藩士等と仕事は何ら変わらない。
どこかで聞いた様なイビツな構図に
鬱々、悶々として火種が燻っていたところに
廃藩置県が火に油を注いで
稲田氏を藩主に担いで淡路藩を立てて自分たちも藩士に成ろう
とキャンペーンを展開。
徳島藩の財布👛から
金の成る打出の小槌の淡路島(一級~特米。高く売れた。瓦や線香(全国(生産高)シェアは7割)、塩、海産物、北前航路~の収益)を失くす事は
財政破綻を意味した事や
それにも増してプライドが許さない
等から
守旧派急先鋒の一団が
洲本城下の稲田氏家臣を襲撃。
120名もの死傷者を出す
内乱となった。
この際、襲撃を受けた稲田氏家臣たちはほとんど無抵抗だったと言われています。
そもそも廃藩置県により藩が無くなる直前だった事から藩主は叱責?(取り潰しは無い)
襲撃した徳島藩士のリーダーは(我が国最後の)
切腹。
余も重刑罰がくだされた。
襲撃された稲田氏側は
喧嘩両成敗?の武士の価値観から
稲田氏を始め家臣たちほとんどが
北海道開拓使と言う体の良い島流し。
行き先は北海道南部の何にもない冬は厳寒の漠々とした原野。
今の日高の静内。
↑を題材にした
北の零年。
お登せ。
等の歴史小説が書かれました。
三院制扱っている動画がなくて助かりました。
まぁこれは藩にメリットしかなかったからな〜
藩がなくなっても知藩事として引き継がれて、俸禄もかなり少なくなるとはいえ貰えて、貴族の称号も貰えた。
なにより当時どの藩も莫大な借金を抱えており、それを明治政府が肩代わりする事で逆に藩側が喜んで行われていたりしたし。
お疲れ様です。動画のアップありがとうございます。
長野県に住む私の友人から聞いた話ですが、現在の長野県は昔 県北部の長野県と県南部の筑摩県に分かれていました。しかし、筑摩県の県庁舎が火災で消失。行政機能がができなくなります。筑摩県は一時的に長野県に行政機能を移して対応します。
その後、県庁舎を造り火災の傷も癒え、筑摩県は長野県からの分離をしようとしますが長野県が分離を拒否!結局このままズルズルと進み現在の長野県になったそうです。
現在の長野県南部に住んでいるお年寄りの方々は長野県に対してそういった意味で違和感やわだかまりを持っている方もいるようです。
廃藩置県と聞いて、この話を思い出しました。
そ
関ヶ原の戦いで 毛利・島津家は敗戦側(長州 薩摩)
これを徳川家を倒す 政権交代 長年の夢 復讐心があったかなと思いました。
自分の記憶では 薩長土肥で 四国のお殿様(山内家)が口説いて どんどん 他の地方が 薩長土肥側加盟した記憶があります。
何処の藩も大赤字でもう維持できなかったんだよ県に切り替えは渡りに船だったんだ反対などない。
地元の姫路から版籍奉還が始まるとは意外だな。
敗戦するまで
県知事は内閣が任命してたんだよね
思ってた程に反対運動は少なく、山の様に積み上がってた以前からの借金と、政権交代時のゴタゴタで積み上がってた借金で支配層は、ひいひい言ってたらしいね。有り難かったかも知れない?、
うまくまとまっていて感心しました。ご親兵なくして廃藩置県はできず、そのご親兵も西郷の圧倒的な魅力と人望、そしてあの薩摩を武の面で率い、戊辰戦争では新政府軍のトップであったことの怖さがなくては成り立たなかった。あらためて西郷は、軍人として日本史上最高・最大クラスの人だったことがわかります。武をもって日本を統一したというのは、家康以来のことであり。また、戦に強いだけではなく、戦わなくても人が従う武人というのは、過去にもあまり類を見ない。しかも彼は脳筋ではなく、むしろ知力の人だった。
血縁の従道や大山巌の晩年イメージと薩摩武士で人望タイプだから脳筋と勘違いしてる人おおいけど、まるで逆なんだよね・・・・無論大山も同様。大久保や木戸や岩倉のいない時代の西郷主導の政府は日本中の知が結集されむちゃくちゃ上手くいってた。
当時ってほんとどうやって連絡取ってたんだ。
移動も大変だろうに
今年もよろしくお願いします。どいうことを話す楽しみにしています。
藩と言う言葉は府藩県の三治制の時に初めて出てきた言葉と記憶しております。江戸時代には新井白石の藩翰譜などの書物に散見されるぐらいで公に藩と言わなかったはずと聞きおよんでおります。
徳川家も宛行状も領主に直接宛てていたはず、藩士ではなく何何の家臣と述べていたと記憶しており、会津藩は存在せず、すでに新政府預かりでは。
記憶が間違いであれば失礼しました。
斗南藩が
花火上げんの可愛すぎ
こんな大改革、日本では二度と無理だろうな。大阪の府と市を統合する改革すらできないのだから。
そーですよねー。
中世の領主は形の上では、領内の土地の支配権(徴税と保護
)、領民の生殺与奪権を握ってましたからね。
其を領主の私的所有から公的な管理権に変更した訳だ。
花火大爆笑した
受験の鬱憤も打ち上げてください久光様
徳川幕府を倒し明治新政府が発足した時に何故、薩長土肥の藩主が要職に着いてないの?
強い意思で中央集権国家を選んだ国が簡単に地方分権改革に進むのは難しいよなー。
財政の責任も重く感じていたと思うんですが、刑罰の執行や領地領民の管理を自分達で行わなければいけないのがきつかったんじゃないかなあと勝手に思ってます。
でも、その重責を吟味して実行できるような人材が数多く居たからこその明治維新なのではないかと。例えばですが、現在の各地方知事から板垣や大久保のような人物が輩出されるか?といえば絶対に不可能だと思うでしょう?
責任や覚悟は人を強くするんだと思います。だから現代の地方はろくな首長が存在していないという証明にもなっているんじゃないでしょうか。
大幅な構造改革?、東京都は、ついぞ九十年程前は府でしたが、先の大戦中の制度改革で都にですね。戊辰戦争も借金で塗れたんだが、それ以前から塗れまくってたから、大半は、借金を肩代りしてくれるなら、大歓迎だった様ですね。取り敢えずは旧来のシステムを再導入?、その間に新システムの構築ですよね?。
藩=大名の領地、県=政府の領地であり、廃藩置県は大名から領地を取り上げて政府の直轄地とすること。とのご解説です。
版籍奉還は土地と人民を天皇に返すこと。とのご解説です。
廃藩置県の解説である「領地の取り上げ」は版籍奉還により既に達成されているので、廃藩置県とは「土地の管理権の取り上げ」を指すのではないかと考えました。
もしよろしければ教えてください。よろしくお願いします😂
花神の大村先生が戊辰戦争後「東北で、もう反乱は起きない」とみんなに語っていたが
これは廃藩置県が、施工されるから、反乱が起きない
分かっていたからと思う
何故なら、もし薩摩、長州、土佐、肥前の藩主が、
右大臣、左大臣、参議となり、政権運営したら・・・・
間違いなく事実上西郷、桂、大久保の家来になった。
越前、芸州、尾張、紀州、大垣、彦根、津藩は、
怒り狂うだろう当然、会津藩残党は、当然、降伏した。
米沢や仙台や庄内も再び立ち上がるだろう
それが無かったのは、久光も容堂もそうせい公も
大金と名誉だけわたして、土地も💂♂️も取り上げたから
一応みんな納得したからwww
封建制度に、アンパンチだ!
将軍にゆえんある人が産まれる場所が府。
版籍奉還したのに何でその後用地買収で苦労するんですかね
藩閥政府がいかん
その日本語の言葉はちょっと難しいですががんばります。日本史の原料を下さいますありがとうございます😭。
薩摩藩敏腕家老 小松帯刀氏生きていたら日本はどうなっていたんだろうか?!
【速報】岸田首相、幕府の開始を検討
征夷大将軍 岸田文雄 爆誕
廃藩置県の後にできた琉球藩
今にしたら…観光地なる城郭の撤去解体。正に「廃藩恥県」😮
会津地方は新潟県に編入すべきだった
「血を流さずに」?じゃあ戊辰戦争は何だったのか?あの戦争で一人の血も流されなかったのか?
ロスチャイルド絡めて話してくれろ(`・ω・´)ゞ
歴史と迷信を一緒にしないで