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有楽は関ヶ原では少数の部隊で大活躍してるから武将としての才覚が無かったってのはちょっと違うと思いますが、性に合わなかったのは確かでしょうねぇ。
>有楽は関ヶ原では少数の部隊で大活躍してる「大活躍してる」という事実を記録した一次資料は、見たことがありません。そのような資料があるかどうか、今後、注意して調べてみようと思います。
@@demeken Wikipedia情報なんであまりお気になさらず。以下引用。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男・長孝とともに総勢450の兵[3]を率いて参戦。寡兵ながら小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦して戦闘し、一時は本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退している。また、長孝が戸田重政、内記親子の首を取る。更には有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げる[注釈 2]。織田隊は西軍の有力武将の首級を2つ取るという活躍を見せ、戦後にその功績を認められ、有楽は大和国内で3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられた。(関ヶ原後の東軍の加増率では1位)
@@TheHaimani TheHaimaniさんのWikipediaからの切り取り引用は、このコメント欄を読まれた皆さんの有楽に関する情報を偏らせる可能性もあると思うので、補足しておきます。切り抜き引用されたWikipediaの文章に、>更には有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げる[注釈 2]。とあります。引用するのであれば、この[注釈2]も引用しておくべきです。>注釈2.「慶長見聞書」によると石田隊が黒田隊・細川隊の攻撃を受け崩壊すると、頼郷は有楽を見つけ、斬りかかりあわやというところに家臣の千賀兄弟が頼郷を討ち取りその首を主君・有楽に取らせた。この注釈は、「慶長見聞書」に書かれているエピソードをかなり端折っています。それでも、有楽が危うく討ち取られるところだったこと、敵将を討ち取ったのは有楽ではなく家臣の千賀兄弟だったことは、わかると思います。Wikipedia情報だけで武将としての有楽を評価するにしても、[注釈 2]にも目を通せば、有楽に武将として才覚がある、と単純に評価できないと気づく人は気づくはずです。「慶長見聞書」の記述を確認すれば、なおさらそれがわかると思います。Wikipediaより少し詳しくその内容を記しておきます。有楽は、関ヶ原の戦場で、敵として蒲生頼郷と出くわしました。有楽は頼郷を見知っていたので、戦闘の最中にもかかわらず、頼郷に投降するよう呼びかけました。そんなことを戦場で言われた頼郷は怒って取り合わず、有楽に斬りかかりました。有楽は馬を斬られて落馬し、討ち取られたも同然の状況となりました。それに気づいた家来の千賀兄弟が駆けつけ蒲生頼郷を討ち取り、有楽は九死に一生を得ました。主君思いの千賀兄弟は、そんな有楽に手柄をたてさせるために、討ち取った頼郷の首を取らせたといいます。「慶長見聞書」に書かれたエピソードをそのまま鵜呑みにしてよいかどうかという問題はありますが、武将としての有楽の才覚や人柄を推察する手がかりになると思います。動画の説明では不備な点も多々あると思いますが、学びのきっかけにしていただければと思います。
有楽の茶、言わば動の茶かな。
有楽は関ヶ原では少数の部隊で大活躍してるから武将としての才覚が無かったってのはちょっと違うと思いますが、性に合わなかったのは確かでしょうねぇ。
>有楽は関ヶ原では少数の部隊で大活躍してる
「大活躍してる」という事実を記録した一次資料は、見たことがありません。そのような資料があるかどうか、今後、注意して調べてみようと思います。
@@demeken
Wikipedia情報なんであまりお気になさらず。以下引用。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男・長孝とともに総勢450の兵[3]を率いて参戦。寡兵ながら小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦して戦闘し、一時は本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退している。また、長孝が戸田重政、内記親子の首を取る。更には有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げる[注釈 2]。
織田隊は西軍の有力武将の首級を2つ取るという活躍を見せ、戦後にその功績を認められ、有楽は大和国内で3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられた。
(関ヶ原後の東軍の加増率では1位)
@@TheHaimani
TheHaimaniさんのWikipediaからの切り取り引用は、このコメント欄を読まれた皆さんの有楽に関する情報を偏らせる可能性もあると思うので、補足しておきます。
切り抜き引用されたWikipediaの文章に、
>更には有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げる[注釈 2]。
とあります。引用するのであれば、この[注釈2]も引用しておくべきです。
>注釈2.「慶長見聞書」によると石田隊が黒田隊・細川隊の攻撃を受け崩壊すると、頼郷は有楽を見つけ、斬りかかりあわやというところに家臣の千賀兄弟が頼郷を討ち取りその首を主君・有楽に取らせた。
この注釈は、「慶長見聞書」に書かれているエピソードをかなり端折っています。
それでも、有楽が危うく討ち取られるところだったこと、敵将を討ち取ったのは有楽ではなく家臣の千賀兄弟だったことは、わかると思います。
Wikipedia情報だけで武将としての有楽を評価するにしても、[注釈 2]にも目を通せば、有楽に武将として才覚がある、と単純に評価できないと気づく人は気づくはずです。
「慶長見聞書」の記述を確認すれば、なおさらそれがわかると思います。Wikipediaより少し詳しくその内容を記しておきます。
有楽は、関ヶ原の戦場で、敵として蒲生頼郷と出くわしました。有楽は頼郷を見知っていたので、戦闘の最中にもかかわらず、頼郷に投降するよう呼びかけました。
そんなことを戦場で言われた頼郷は怒って取り合わず、有楽に斬りかかりました。有楽は馬を斬られて落馬し、討ち取られたも同然の状況となりました。
それに気づいた家来の千賀兄弟が駆けつけ蒲生頼郷を討ち取り、有楽は九死に一生を得ました。主君思いの千賀兄弟は、そんな有楽に手柄をたてさせるために、討ち取った頼郷の首を取らせたといいます。
「慶長見聞書」に書かれたエピソードをそのまま鵜呑みにしてよいかどうかという問題はありますが、武将としての有楽の才覚や人柄を推察する手がかりになると思います。
動画の説明では不備な点も多々あると思いますが、学びのきっかけにしていただければと思います。
有楽の茶、言わば動の茶かな。