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自分も浄土真宗でして、自分の宗派のことについて理解を深めようと少しずつ勉強しており、浄土真宗では位牌を使わない事も知っておりましたが、今回高科住職のご説明がとてもわかりやすく腑に落ちて、一層理解が深まりました。ありがたいお話に出会えてうれしかったです。ありがとうございます、南無阿弥陀仏。
カツ様ご視聴、コメントありがとうござます、益々、精進致します。南無阿弥陀仏合掌高科修
思えばそこにおるその言葉にとても救われました。涙が出ました。ありがとうございます。
Chiaki様「思えばそこにおる」この言葉の願いを、深く汲み取って頂けたこと…そして「その言葉にとても救われました」と仰って頂けたこと…この二つのことに、私も「救われ」ました。ありがとうございます。Chiaki様とは、お会いしたこともなく、どちらにお住まいかも存じ上げない私です。しかし、だからこそ、心に留まり気にかかっておりました。月参りにお伺い致しているお宅なら、直接お話が出来、もう少しお気持ちを汲んだお話も出来たであろうと、気に病んでおりました。それ故の、私も「救われました」です。「涙が出ました」そう仰るChiaki様のその涙が…Chiaki様が自身の人生を生き切るようにと亡くなられた仏様(願の人)に願われている。そして、そう願われている私(Chiaki様)が今!ここに生きている。そして、その願いは、Chiaki様が「思えばそこにおる」。そのことに「うなずけた」涙であったと…私はそう感じております。ありがとうございます。合掌高科修
@@buddhism_japan ありがとうございます。感謝いたします。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
伯母が昔、こう言ってました。「門徒はね、こだわらないのよ。」自分の家が浄土真宗だったことを知ったとき、この言葉を聞いて「私は浄土真宗で良かったな」と思えました。このお位牌の話も、肩の力がふぅ~っと抜けるようです❤
市川あきら様ご視聴、コメントありがとうございます。伯母様の仰る通りです。浄土真宗は…門徒は…『こだわらない』のです。この『こだわらない』の意味は深いものがあります。今、世間一般を席巻している、『こだわらない』ことに『こだわりまくる』という「こだわらない」ではありません。浄土真宗の『こだわらない』は、『始めから違う』頷きの集大成です。こだわらない ことに、こだわりまくる世の中(今の日本社会)が、『違いを認めましょう』と声高々にアナウンスします。違いを認めましょうと言うアナウンスは、違うということ認めなければならないという意識です。浄土真宗の『こだわらない 』でお話しをすると、こうなります。始めから『違う』のに、違いを認めましょうとは、何様のつもりだ。貴方が貴女が私が、認めなくても、始めから皆々は違い、そこに居るのだ。だから、認めましょうではなく、『はい!と頷く』それしかないだろう!と……浄土真宗の、伯母様の言う『こだわらないのよ』の根っ子は、この『始めから違うに頷く』そして、『バラバラで一緒』であるに『気づく』ことであります。時間がありましたら、是非下記の動画もご視聴ください。伯母様の『門徒はこだわらないのよ』のお言葉がより良く頷かれることと思います。法話浄土真宗は昔から常識がない『門徒物知らず』th-cam.com/video/H4OieEa9keY/w-d-xo.html南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan さん「うんうん!」気がとても楽になりました。とてもわかり易くまた、ありがたい言葉です。伯母や祖父母、父母たちがみんなで上から「あら〜!良いこと聞いたわねえ」「お前、得したねぇ」と言ってる気がします。動画を見るようになってから、「これって今、こうだと気づいたのかな?」「そうか、今気づかせてもらったんだな」と、いつも頭をクルクルさせながら、ご飯食べたり、会社にいったりしてます。ありがとうございました。
こんにちは。前回のお墓について今回もまた初めて知る事ばっかでまた一つ勉強になりました。実は今年の1月11日火曜日の夜中食道ガンで父親が亡くなりました(泣)。最近100日法要も終わりましたが、父親が亡くなった事がまだ受け入れられません(泣)。知人の死や知人の親さんの死も悲しいけど、我が親の死は説明出来ない心境でとにかく悲しさ、ショック、喪失感で毎日足が浮いたような生活をしています。けど、息子である自分が一生懸命生きる事が父親も生きることに繋がるとは勉強になりましたし、戒名も釋の意味は御釈迦様の弟子になる事とも初めて知って大変勉強になりました。亡くなった人は何処の世界に行くのか死んでみないと分かりませんが、自分はまだ母親がいます。母親もいずれは亡くなりますし自分もいずれは死にます。生を受けたら必ず死がある。死んだから後は楽になれるとよく聞いてましたが、死んでからも生きてる時と同じで肉体が無いだけで魂は生きてるから魂も成仏する為に修行をすると聞いた事もあります。とにかく自分は物心ついた時から長年悪行三昧でした。その分も含めて父親の分まで生きていこうと思いました。チャンネル登録しましたのでずーっと動画を見て勉強させていただきます。これからも世の中の為に動画配信お願いします。
水野敦様はじめに、大切に思い愛していらっしゃったお父様がお亡くなりになられましたことに、文面でたいへん失礼なことと存じますが、お参りの言葉を申し上げさせて頂きます。「たいへんお寂しいことになられました。南無阿彌陀仏」水野敦様。貴方様のその寂しく悲しく、そして辛く、また後悔の念のお気持ち。察するに余り有ります。どうかお時間がありましたら、是非下記の動画をご視聴頂きたくお願い致します。今の水野敦様のお気持ちの中で、この動画か何かしらの手助けになればと切に願っております。どうか、是非ご視聴いただければと切に切にお願い申し上げます。通夜法話シリーズ「死にゆく親の最後の願い」th-cam.com/video/To0gRJbd7jk/w-d-xo.html法話『中陰』なぜ四十九日なの?th-cam.com/video/ZajX78m2xsQ/w-d-xo.html法話「供養する心とは?」th-cam.com/video/bF5NVt4d0KA/w-d-xo.html法話『お墓参りの真の意味』th-cam.com/video/tXqLRzgRezU/w-d-xo.html合掌高科修
母が亡くなったばかりで思い出しては泣いてばかりいたのですが、ふとラジオから大昔母が大好きだった曲が流れて来ました。まさに、思えばそこにいるという言葉通り母が側に居たような気がしました。いつも心に沁みるお話で救われております。これからも動画を見て勉強させて頂きたいと思います。
まつこう様ご視聴、コメントありがとうございます。「思えばそこにいる」このことについてお話をしている動画がもう一つあります。動画「愛する人、愛された人との別れ」愛別離苦th-cam.com/video/e9OJNgtTzUo/w-d-xo.htmlです。お時間がありましたら是非ご覧いただければと思います。「思えばそこにいる」がさらに深く実感して頂けると思っております。合掌高科修
ご返信ありがとう御座います。もうひとつの動画も泣けてとても心温まる動画でした。これからも楽しみにご視聴させて頂きたいと思います。
高科先生お早うございます。今日も急いで用事(家事)を済ませ、パソコンの前に座って居ます。有り難いです。今日はお位牌のお話し助かります。40年前12歳で下の息子を亡くした時、何をどうすれば良いか全く解らず、悲しんでいる間に時が過ぎていきました。やっと見つけた嫁ぎ先の家が、先祖代々浄土真宗であった事も知りました。お葬式は姑の意向で教会でした。私はクリスチャンでは無いので、どうも落ち着かず、亡き夫に頼んで探し当てて貰ったお寺がとても素敵な(ご院家、房守様のお人柄の素晴らしかった事)浄土真宗のお寺でした。もう一度お葬式をお願いして(簡単に)その時頂いた過去帳を未だにお位牌と思って毎日拝んで居ました。(^_^)あれは過去帳だったのですね。とても気が楽になりました。私が亡き後、今面倒を看てくれて居る息子が後始末が大変にならない様にと色々考えて居ます。小さなお仏壇ですが、当時知り合いから奨められたお観音像と一緒に入れて毎日拝んで、話し掛けて居ました。お観音様は、当時悲しみから抜けきれなかった私をお友達がある行者さんの所へつれて行ってくれ、(貴女の息子さんはお観音様になられたので祀るようにと奨められた物です)改めて此方でお話しを聞いている内に、自分でも笑ってしまいました。でも、私の心の中にいつも居る。。。居てくれる、と言う事は自然に受け取って居ました。そう思って話し掛けて居ます。今日も勉強になりました。ゆっくり噛みしめながら今後のあり方を考えて行きます。83歳
えいちゃん様『人に歴史あり』…えいちゃん様の83年の『生きる』の積み重ねに、尊敬と敬意の念を深く感じております。その思いのお言葉一つ一つを、襟をただして拝読させて頂きました。『私の心の中にいつも居る。。。居てくれる、と言う事は自然に受け取って居ました』このお言葉がすべてだと思います。このお言葉が、すべての物事の考え方の基本となるのだと思っています。『心の中にいつも居る』『居てくれる』だからこそ、心の中の人に恥ぬように生きていこう。だからこそ、心の中の人を笑顔にするような生き方をしていこう。だからこそ、心の中のに胸を張れる私で居よう。この思いこそ、遺された私たちが、自分の人生を、その時がくるその瞬間まで『生きる』という力になっていくのだと私は思っています。そしてそれが真宗の説く教えです。合掌高科修
我が家も、お東ですが、掛け軸ですよ。私は、今は、父の思い出、母方の祖母の思い出が、いっぱいです😊(祖母に、とって、私は初孫で、三十路前に、仏さまになりましたが、祖母がくれた、アメシスト、ムーンストーン、パール、ブラックオキニスのリングがあり、今は、アメシストリングをしています)
Chiharu M.様ご視聴、コメントありがとうございます。「父の思い出、母方の祖母の思い出が、いっぱいです」とのChiharu M.様のお言葉。いっぱいの思いでは、思いでだけではありません。その『いっぱいの思い出』の中に、Chiharu M.様を愛してくれた、願ってくれた、大切にしてくれた『思い』がつまっております。『思い出』とは、その願いに『気づいていく』ことです。どうか、Chiharu M.様に対するお父様の思い、母方のお祖母様の思いを汲み取られて、Chiharu M.様の人生を生ききられることを、切に願っております。南無阿弥陀仏合掌高科修
浄土真宗のお寺に深いご縁がありますが、菩提寺は禅宗です。お焼香の仕方は少し違いますが、形に捕らわれるより、お悔やみ敬いの心でお参りさせて頂くことが一番大事だと思います。完修さんの柔らかな御心が有り難く、和ませて頂きました。
かわちぃ様ご視聴、コメントありがとうございます。かわちぃ様が仰る通り、亡くなられたその方の生き切った人生から、学ばせて頂きますという、亡くなられた方への礼節と敬いが一番大切なことだと思います。そして、亡くなられた方の…産まれ、生き、死というその『人生』に、『ご苦労様でした』と手を合わせて送るのが、遺された私たちの送るべき姿であると思っております。南無阿彌陀仏。合掌高科修
チャンネル登録させて頂きます。私は兵庫の真宗ですが、私の御婆さんは石川県の方でした。真宗のことが勉強できて大変有意義です。これからも頑張ってください。
taku ma様ご視聴、コメントありがとうございます。さらに、チャンネル登録までして頂き、誠に恐縮でございます。ありがとうございます。『真宗のことが勉強できて大変有意義です』のお言葉に恥じぬように、ますます精進してまいります。南無阿彌陀仏合掌高科修
位牌といえば、浄土真宗大谷派の門徒でも地方によっては繰り出し位牌を遣っている地域があると伺っていますが、基本は過去帳と法名軸と理解しております。私の地域では、法名軸は2種類あり、歴代の先祖様を記した法名軸を、向って左の蓮如上人の掛け軸の側に掛け、門主様の署名の入った法名軸は大切に保管し、一番最近の仏様の法名を向って右の見眞大師の掛け軸の側に掛けるようにしています。法事の際には対象となる仏様の法名軸を打敷の前に飾るようにしています。
高木どどど様ご視聴、コメントありがとうございます。『繰り出し位牌』の名称は、お仏壇屋さんが勝手につけた名称です。『逗子(ずし)』と呼ばれる仏具があります。全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形をしたものを『逗子』と呼びます。仏像・舎利(お骨)・経巻等々を安置するための仏具です。逗子の役割は、その中に納めるものに対して、「礼をつくす」「敬う」「大切にする」ために用いる仏具です。以上を踏まえた上で…高木どどど様の仰る『繰り出し位牌』をご覧下さい。『全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形』………そう、それは『逗子』、お逗子です。お仏壇屋さんがどう言おうが、どう名前をつけようが、ネットでどれだけ広まっていようが、それは『逗子』です。『位牌』ではありません。お逗子の中に、板に書いた法名(法名板)を入れて、丁寧に扱っているのです。故に…浄土真宗でも、お逗子として使っておる次第でございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
確かに、お位牌は嵩が張るのは確かですね。お位牌も三十三回忌を過ぎると○○家と書かれたお位牌に纏めて、個人のお位牌はお焚き上げするとのことですが。過去帳も軽いとは言え、何代にも渡った過去帳は何事か在った際には、持って出ることには変わりは無いのかも知れませんが。
北畑宏道様ご視聴、コメントありがとうございます。浄土真宗では位牌は使わないというお話しをしております。過去帳も法名を記録した紙でございます。合掌高科修
父の余命が短いと医師から言われ、父が希望する浄土真宗について少しでも知ろうとして調べておりとても参考になります。形のあるご位牌はいらないとの事よくわかりました。さて、お話の中でご遺骨を忘れ取りに行ったというエピソードをご紹介されていました。ご遺骨は決して粗末にできるものではないと思いますが、ご遺骨もまた必須なものではないと思っておりましたが四十九日までは故人がそこに宿っていると考えるものなのでしょうか。火事で位牌を取りに行って亡くなるのは亡くなった方は望まない、と同じように法事なのに遺骨を忘れたから急いでインターに取りに戻って事故に合うというのも望まないという事ではないのかなと思ってしまいました。このように考えてしまうのは極論が過ぎるものでしょうか。
セイジT様ご視聴、コメントありがとうございます。お父様のこと…セイジT様の心中たるや、察するきに余りあります。お父様とセイジT様との1日1日の積み重ねの時間…その時間が深い深いものであることを切に願っております。セイジT様のお尋ね…四十九日と言われるものの浄土真宗の捉え方は、下記の動画で詳しくお話しをしております。ご視聴頂ければ幸いです。法話『中陰、なぜ四十九日なの?Take2』th-cam.com/video/ZajX78m2xsQ/w-d-xo.html次に…『法事なのに遺骨を忘れたからといって……』のお尋ねでありますが…『四十九日法要』または『満中陰法要』と呼ばれる法事は、遺骨をお墓に納めるための法要・法事であります。目的は『納骨』です。故に…『遺骨』は必須であります。故に…『極論』ではなく、『論』が違っております。ご認知のほど、よろしくお願い申し上げます。合掌高科修
ごえんさん ええ法話でした 私もなるだけ 人に迷惑かけないように仏さんになりたいです 生前供養というかたちで自分の供養をお寺さんにお願いしょうと思ってます。
Hosi Kirameku様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
位牌を取りに戻っって災難にあうという話は戦時中にあったとよく聞きました。手段と目的が逆転してしまった悲劇ですね。
浩二郎下田様ご視聴、コメントありがとうございます。『手段と目的』『目的』とは…「弓矢(ゆみや)」に由来する言葉と言われています。的を目で追うことが目的です。さらに、その行為に、その的を選んだ理由、人による意思が含まれるのが目的です。次に『目標』…これは目的が的に矢を当てることだとするて、的の何処に当てるのか、つまり「めじるし」を具体的に決めるのが『目標』です。『手段』とは…目的・目標を実現するための『行為・方法』のことです。的に当てるのに、ボールを使うのか…弓を使うのか…ライフか…ピストルか…手段は複数あります。『手段と目的』についてお話しを聞いて頂いたその上で…『位牌を取りに戻っって災難にあうという話』は…『手段と目的が逆転してしまった悲劇』ではありません。あくまで『目的』が引き起こした悲劇です。『手段』が逆転したのではありません。この動画は、この『目的』そのものが、浄土真宗では『違うのです』とお話しをしております。世の中では、わりと『手段と目的が逆転』という言葉を使います。本来、手段も目的も言葉の定義上あきらかに別の言葉です。故に、履き違えたり、入れ替わったりするはずがございません。なのに…なぜ…『手段と目的が逆転』と使われるのでしょう。理由は4つ。1、何気なく使っている。2、上手くいっていない状態を表す言葉として使っている。3、目的が複数存在することで、目線があわなくなる。4、目的と手段が入れ子構造のため目的≒手段となる。どの場合も、話し相手とは本来の話が出来なくなってしまいます。話が噛み合わなくなるのです。浩二郎下田様が、この言葉を発する側であれ、受ける側であれ、『目的』に目を向けて、対象となっている目的は何かを明確にして、相手と一致させてお話しを進めることを切に願っております。合掌高科修
戒名の掛軸、と同じだと勘違いしていた。位牌は1個1個あると何代も先祖が居ると、仏壇に置けないから、思っていたけど、位牌と掛軸違うですね。
晃 小松様ご視聴、コメントありがとうございます。はい、戒名と掛軸は違います。そして戒名と法名も違います。合掌高科修
Live感たっぷりの動画、楽しかったです!大切な話をありがとうございます。意外とコメントが無いのですね...真宗の皆様は、位牌=他宗と認知済かな?私は、真宗ですが、お東・お西ではなく、高田派なので、事情が少し異なります。位牌は、儒教由来だったのですね。真宗では要らない理由、理解できました。真宗の思考そのもの、だったのですね。「法名は単なる文字だからこそ意味がある」その内容、しかと胸に刻みました。腑に落ちた、その上で...高田では白木は元より、本位牌も使ってます。逆に私は、高田派以外が使ってないのを、昨年知りました。なにかと違うのですね。(法名も、二字ではなく道号のある四字ですし)そういうモン、特徴の1つ、と気にせずでした。だけど、子供達に「あれ何?」と聞かれたら、答えれない... 菩提寺住職に聞きますわ。 鈴木@新潟 50歳P.S. 背景の九字、十字名号の掛け軸一番下の蓮華に、やはり目が行きました。.
202 BEAM 様「Live感たっぷりの動画、楽しかったです!」のお言葉に、小話のプロジェクトチーム一同(以下・PT)胸を撫で下ろしております。「良かった」と。実は「完修の部屋」の撮影手法はPTが一番やりたかった配信手法なのです。「質問や疑問や相談を受けながらの完全フリートーク」…その受け答えから無限に繋がっていく浄土真宗の生活の中での物事の捉え方。それを伝えるには、この「完修の部屋」のスタイルが必要である。というのがPTの共通認識でした。満を持しての撮影配信となりました。好評、誠にありがとうございます。さて「位牌」これはどう取り繕っても「位(くらい)」を記したものです。故に位の牌…位牌と呼のです。そしてその位牌に刻まれる「戒名」はやはり「位」があります。ちなみに一例ですが位の高い順から○○院居士→○○居士→○○信士(男性の場合)○○院大姉→○○院日信女→○○院信女→○○信女(女性の場合)となるそうです。ここに…浄土真宗の説く教え…亡くなった方を「願い(仏)」として、そこから「南無気づけ阿弥陀仏気づきました」は見いだせません。「あら!あなたのお父さん部長さんなんや。うちのお父さんは社長やよ!」「あなたのお母様は社長さんなんですね。でも私のお母様は会長ですのよ」下世話な例えですが、これが戒名位の実態です。形が位牌の形をしたものが浄土真宗で用いたとしたら、そこに「法名」と記してあるなら、その位牌は「法名牌」と呼ぶべきで、そう呼ばれなくてはならないものです。位牌だろうが法名牌だろうがただの呼び方やないかい!と仰る方人がいらっしゃるかもしれませんが、この「ただの呼び方」が重要です。以前の動画「死んだじゃないよ生きただよ」でお話を致しましたが、「享年・行年」と「寿算」…ただの呼び方で大きく意味・意識が違ってまいります。次に「道号」大谷派にも「院号」というものがあります。「○○院釋○○」となるものです。私ならば釋完修の上に「院号」がつき「○○院釋完修」となるものです。この「院号」は大谷派では位ではありません。京都の本山東本願寺に8万円のご寄付を頂い方に、そのご寄付のお礼として「○○院」と授けているものです。ですので、私たち僧侶でも8万円を本山に寄付しなければ、院号はつきません。高田派の「道号」が、いかなるものなのかは同じ浄土真宗でも「派」がちがうので詳しくは存じません。ですが、たとえ高田派であっても、本来「浄土真宗」を名告るのであれば「位」ではなく「お礼」であるべきです。202 BEAM 様。誤解のないように。決して高田派を批判しているのではありません。「浄土真宗の教え」「南無阿彌陀仏」「南無気づけ・阿弥陀仏気づきました」を「宗・軸」としたお話をさせて頂いております。ここまでお話をさせて頂いた上で…202 BEAM 様のお言葉「.. 菩提寺住職に聞きますわ」の、菩提寺住職様のお答えに、たいへん興味をもっております。追伸「一番下の蓮華に、やはり目が行きました」ナイスな着眼点です。蓮華が描かれいますので、両軸共に「仏様・阿弥陀如来」扱いでございます。故に「風鎮」は付けておりません。合掌高科修
丁寧な返信、ありがとうございます。>誤解のないように。>決して高田派を批判しているのでは>ありません。全然、問題ありません。大丈夫です!御文の「第一帖 第十四通」ですしね。菩提寺のご老僧に伺ってきました。法名に関しては、参考資料も頂きました。ただ、両派の理解度が決して高くない私が、その内容を記述すると、高田派の代弁や、意図せぬ誤解を生じかねませんので、ネット上では、控えさせて頂きますね。ただ、会話の録音(約30分)がありますので、いずれ、お聞き頂ければと思います。こんな返信で申し訳ありません。「違い」は、重要なのかもしれませんが、私には、本筋から離れた話に感じました。P.S.うんうん、風鎮、聞いた記憶がある...そこまでは覚えておらず、もう忘れてました。結局、一部しか自分に残らないのね....
三回忌法要の時、母の戒名の紙、破けたので、新しい紙に書いてもらった方がいいですかね?
晃 小松様戒名のことは分かりかねます。戒名の宗派にはその宗派の約束事があるはずですから。私どもの浄土真宗は法名です。もし法名が…三回忌法要前に破けてしまったならば、それはキチンと書き直してもらう方がよろしいかと思いますとお答え致します。合掌高科修
徹子の部屋のBGMを使うのはいかがなものかと、、、、他に音楽はないですか?。
rui437様ご視聴、コメントありがとうございます。rui437様の仰っているようにTH-camで徹子の部屋のBGMを使うのは、いかがなものかと私もそう思います。当たり前ですが著作権の問題などいろいろありますからね。ここは完修の部屋であり、このBGMは概要欄にもご紹介して書いてある通り購入した音源データを使用しておりますので、rui437様のいかがなものかというご指摘は、そういわれるいわれがこちらには、ございません。確かによく似ているので勘違いなされたのでしょうが、ご心配にはおよびませんのでご安心ください。そして、自分で思ったことがすべて正しくて意見しようするのであれば、しっかり事実確認をした後でご意見されることをお勧めいたします。こちらの動画をぜひご覧ください。法話「知らないということ 知ってるつもりの恐ろしさ」th-cam.com/video/TpZhehCkR6s/w-d-xo.html人間なんだから、勘違いや思い違いをしたりするのは、当たり前のことです。大事なのはそうなった時に自分自身でその失敗をどう受け止めていくのか、という事です。以下の動画もぜひご覧ください。法話「私はただの人間です」th-cam.com/video/sAgxgQ1bW7M/w-d-xo.html法話「わかっちゃいるけどやめられないから学ぶ戒め」th-cam.com/video/AZCIAdcq6wM/w-d-xo.html法話「南無阿弥陀仏」気がつけば世の中すべてが南無阿弥陀仏th-cam.com/video/YFghJVD0v-w/w-d-xo.html法話「マジヤバイ」と「南無阿弥陀仏」th-cam.com/video/rKqUR0J9z7g/w-d-xo.htmlそれと、これは私からのお願いでございます。もし、失敗した。恥ずかしいことをしてしまったと思っても、どうか、このコメントを削除しないでください。よろしく、お願いいたします。次は動画の内容に関するコメントをお待ちいたしております。南無阿弥陀仏合掌高科修
このお話を聴けてよかったです。実家の仏壇に、法名を書いた木の札を入れたものがあります。名称がわからないので、勝手に「法名札」と呼んでいましたが、それでよろしいのでしょうか?また、その札を複数枚納めたものは、何というのでしょうか?
トモ様ご視聴、コメントありがとうございます。ご参考までに…下記の動画をご覧頂ければ幸いです。完修の部屋「お墓の頭の形はどんな意味?」th-cam.com/video/BtEOB5TATFo/w-d-xo.html合掌高科修
あーそうなんですか、釈の意味最初分からなかった、叔父の家は浄土宗のはずなのに、叔母が亡くなったとき何故か宗派が違ってて浄土真宗になってました?勝手に宗派を変更できるんでしょうか?もう親戚はめちゃくちゃです。日蓮宗だった家も嫁を取りキリスト教になったり、神様こんがらがりそう、先祖も迷惑かも知れない。キリスト教にしたのは仏教と違い、法事が無いから楽ちんとかで変更した、らしいです。私初めてその話を従兄弟の嫁さんに聞いて驚きました。そんなことが許されるんですか?教えてほしいです。私の心もやもやしてます。
松下佐知子様「私の心もやもやしてます」至極当然の感情、思い、お気持ちだと十二分お察しいたします。私自身もお話をお聞きして唖然としております。「キリスト教にしたのは仏教と違い、法事が無いから楽ちんとかで変更」このことに至りましては既に宗派がどうのこうの…教えがどうのこうの…宗派変えが許されるとか許されないとか…神様こんがらがりそうとか…先祖も迷惑かも知れないとか…そのような事柄を越えております。「人」「人間」「子」としての「問題」です。「楽ちん」この意識に「ありがとう」も「ごめんなさい」も生まれてはきません。どの宗教であれ、感謝と懺悔を説かない宗教はありません。日本は法律的に個人の宗教選択を認めております。特に浄土真宗は門徒という言葉をあえて使い、同じ門をくぐった同じ志しを持ったもの同士が互いに自分の人生を生き切るように生きていこうと生きていく友であるとしていく、「個」の宗派であります。檀家とはある意味家の宗教。門徒とは個の宗教と言えます。それを踏まえ、尚且つ日本の法律からみれば、松下佐知子様は松下佐知子様御自身が信じ拠り所される宗派を信じて生きて行かれれば良いと思います。浄土真宗である必要はありません。浄土宗ならばそれで良いのです。松下佐知子様。貴女自身の生きる中心は松下佐知子様自身が決めることなのですから。どうぞ、人は人です。他人を自分の思う通りには出来ません。かくいう私も同じです。私がお話をしたからといって皆がそう思うはずはないのです。ですが、そう思ってくれる人もおいでです。「皆がそう思ってくれたらよいなぁ」その願いが私の法話です。松下佐知子様は堂々と胸を張り松下佐知子様として生きていかれて下さいませ。そのことを切に願っております。追伸「楽ちんだから…」その生き方は、どこかで必ず壁にぶつかります。先にもお話を致した通り、楽ちんにはありがとう、も、ごめんなさいも生まれません。「ありがとう」「ごめんなさい」の無い生き方は……そう…そんな人生しか生きれないと言うことです。合掌高科修
遅くなってすみません返信の内容よく理解できました。私の格のところの宗派で行いたいと思います。有難う御座いました。心がスッキリしました。🙏😊
寂しい、
崎昭子様ご視聴、コメントありがとうございます。竹林には、たくさんの竹がそれぞれにその身を生きております。けれど、それぞれの竹は、皆地中では、『1つの根』で繋がっているのです。崎昭子様の、その『寂しい』が、如何なる寂しいかを、私は存じ上げることができませんが……人は、生きているだけで、私の知らない人の『お陰様』で生きております。決して一人ぼっちではありません。浄土真宗は、『その一人ぼっちてはない』ということに、気づいて行く宗教宗派であります。南無阿彌陀仏合掌高科修
お坊様に、お教えを乞います。真宗では位牌は要らない。さりとて、現実は、浄土真宗の門徒はほとんどが繰り出し位牌を仏壇に置いております。お話しと現実の辻褄を合わせていただくとありがたいです。
北斗七星様ご視聴、コメントありがとうございます。取り急ぎ…北斗七星様のお尋ねにお答え致します。まず最初に…『逗子(ずし)』と呼ばれる仏具があります。全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形をしたものを『逗子』と呼びます。仏像・舎利(お骨)・教巻等々を安置するための仏具です。逗子の役割は、その中に納めるものに対して、「礼をつくす」「敬う」「大切にする」ために用いる仏具です。以上を踏まえた上で、北斗七星様が仰る「繰り出し位牌」をご覧ください。『全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形』…そうそれは『逗子』、お逗子です。仏具屋さんや仏壇屋さんがどう言おうが、どう名前をつけようが、ネット上でどれだけ広まっていようが、それは『逗子』です。『位牌』ではありません。お逗子の中に板に書いた法名(法名板)を入れて、丁寧に扱っているのです。なぜそんなことをしているのか?それは、その家で亡くなった方の命日すべてに月参りを執り行っていたからです。そのお宅で三人亡くなっていたなら、月参りを月に三回、先祖代々十人亡くなっていたなら、十回と月参りにお伺いしておりました。近年は様々な諸事情により、一番今日(こんにち)に近い命日の方に合わせて月参りに伺わせていただいておりますが、ここ北陸では、いまだに月に三回、四回と月参りを執り行っておられるお宅や地域が御座います。紙に書かれた法名は、ご法事の時に使うのに仕舞っておき、平常の月参りは、お逗子の法名板を繰り出してお参りをしていたということをです。そしてこのお逗子の形がお墓の形にもなっていたという事実も御座います。法名板の入っているお逗子に関しましては動画完修の部屋『お墓の頭のかたちの意味は?』th-cam.com/video/BtEOB5TATFo/w-d-xo.htmlで詳しくお話しをしております。是非ご視聴頂きたく思っております。以上が北斗七星様のお尋ねのお答えになります。ご理解頂ければ幸いです。合掌高科修
皆私のながにいます、😂
崎昭子様ご視聴、コメントありがとうございます。仰る通り…皆々、私の中に居るのです。崎昭子様ご自身の人生を、『生き切れ』!そう願って崎昭子様の中に居るのです。南無阿彌陀仏合掌高科修
😂
崎昭子様ご視聴、絵文字、ありがとうございます。南無阿彌陀仏合掌高科修
ってか、「僧」もいらないですよね。なんで真宗っていう寺(宗教法人)って必要なんでしょうか?親鸞上人を含め、本当に仏教人というのは「人(人間、他人、衆人)」をバカにしているとしか思えません。
win master様貴方様は…いったい何にざわついておられるのですか?貴方様は…いったい何に心穏やかでいられなくなっておいでなのですか?貴方様は…もしかしたら、浄土真宗の物事の捉え方が府に落ちてしまったのではないのですか?貴方は…もしかしたら、府に落ちた自分が許せないのではないのですか?大丈夫ですよ。浄土真宗は親鸞聖人の時代から他をバカにするなという教えを守って生きて来ております。ご安心下さい。いつでも浄土真宗の門は開いております。合掌高科修
@@buddhism_japan 様これはご無礼を。私は今どきのお気楽な門徒です。(ご先祖様が浄土真宗の寺を菩提寺としているので、自己選択ではないタイプの門徒です。)親鸞上人に関するお話を様々な場面で耳にする機会(法事の説法や高科様のTH-camなど)があるので、親鸞上人の考え方に共感はします。しかしながら、そこまで「(目的を忘れ)物や形式にとらわれるな」とズバリ正しい解を得た時に、「そもそも寺や僧すらもいらないのではないか?」と思ったわけです。(寺を支えている門徒や衆生をどう思っているのか? まるで馬鹿にしている(支えている甲斐がない)ようだ、と感じたのです。)凡夫の私にはわかりません。しかし何かのために「寺や僧が必要なのではないか?」とも思うのです。高科様、「一体それは何ですか?」「そして寺(教え)を支えるために何が必要ですか?」というのが、凡夫の私の疑問であり質問です。「物や形式にすがって安心を得たい」のが解を知らない凡夫というものです。何についてもざわつきも怒りもため息もありません。ご安心ください。そして無料での質問失礼いたしました。平身低頭Win master
何となく、仰りたい事は分かります。今は家族葬や火葬のみ等が増えてますよね。火葬のみでも僧侶がおられたり おられなかったり…一番お金がかかったのは 墓石、仏壇、そして僧侶へのお布施。両親と一人息子を亡くしてる私も 御香典、全部 お布施にした経験があります。親戚の中に僧侶と友達のおばさんがいて、一旦お布施をお渡ししたのに、「もっと持って行け❗️後○十万円や❗️」と、言いだし それでは葬儀に使うお金が…「後日、持って行きます」と言うと、「アカン❗今すぐお寺まで持って行き❗」と、うちの家の事情もあるのに勝手にお布施の額まで言うたのです❗️😡⚡️何の事は無い、その親戚のおばと友達の僧侶はお金の貸し借りをしていて、僧侶にお金が渡る→金を貸してたおばは返して貰える…そう言う事でした❗️ 皆、気持ちだけ包めば良い。と言うのに、人の家庭に口を挟み (葬儀の足しにと御香典を渡された大切なお金が全て僧侶にとは❗) あんな叔母さん来てくれんで良かったのに❗️と10年以上経つ今でも腹が立ちます。葬儀社でも かなりかかり、お料理は別。返礼品も別。満中陰の御返しも別。人が亡くなるとは お金が無いと何も出来ないのです。それを重荷に思う方は(ご近所全部です)家族葬にして、返礼品など一切しないと言う気楽さ。両親と息子、三人の葬儀と法事…大変です。…そのような感じの事なのでしょうか❓️出来ないものは出来ない。無いものは出せない…ですよね。
win master様はじめに…『そして無料での質問失礼いたしました。平身低頭』と仰らないで下さい。そう仰る必要は微塵もありません。そのことを、まず、お伝えしたく存じます。win master様にお話を申し上げます。『私は今どきのお気楽な門徒です。(ご先祖様が浄土真宗の寺を菩提寺としているので、自己選択ではないタイプの門徒です。)』◆檀家とは…ダーナ=ダーナパティ支援者と言うのが語源です。つまり修行する僧を支える人たちのことを指します。そして檀家とは『家』の宗教を指します。これに対して『門徒』とは同じ志を共に歩む、つまり同じ門をくぐり同じ道を行く者同士という意味です。門徒は檀家と違い『個』の宗教です。故に、win master様自身が門徒と仰るのなら、それは「自己選択ではないタイプの門徒」にはなりえません。ですので、どうぞ自己選択をなさらないのなら門徒ではなく、檀家と仰ってください。また自己選択が浄土真宗の基本ですので、その説く教えが府に落ちなかったならば、自由に宗教を選択なさってください。宗教の自由は、この日本では法律で認めらているのですから。『親鸞上人に関するお話を様々な場面で耳にする機会(法事の説法や高科様のTH-camなど)があるので、親鸞上人の考え方に共感はします』◆ありがとうございます。その共感が、win master様ご自身の『生きる』になって頂ければと切に願うばかりです。『しかしながら、そこまで「(目的を忘れ)物や形式にとらわれるな」とズバリ正しい解を得た時に、「そもそも寺や僧すらもいらないのではないか?」と思ったわけです。(寺を支えている門徒や衆生をどう思っているのか? まるで馬鹿にしている(支えている甲斐がない)ようだ、と感じたのです。)』◆親鸞聖人は、お寺も教団も作らなかった方です。しかし、親鸞聖人の説く教えを聞く場所は在ったはずです。その説く教えを聞く人たちは居たはずです。たとえそこが広場であったとしても。たとえ聞く人が少人数だとしても。その場所が今現在、本堂と呼ばれる場所であり、聞く人たちが門徒と呼ばれる人たちであります。浄土真宗は、僧侶も門徒も共に仏弟子です。そこに上下はありません。ただ私たち僧侶は、法衣をまとい仏事を執り行い読経や法話を致す門徒代表という立場にすぎません。少なくとも私の仲間の僧侶は、そう心得て法務を致しております。win master様のまわりにいらっしゃる僧侶方が、私の言うような僧侶でないなら、それはその方々の心得が違う、間違っているというただそれだけで御座います。『凡夫の私にはわかりません。しかし何かのために「寺や僧が必要なのではないか?」とも思うのです。高科様、「一体それは何ですか?」「そして寺(教え)を支えるために何が必要ですか?」というのが、凡夫の私の疑問であり質問です』◆ある意味この『お坊さんの小話』のサイトが答えです。例えるならTH-cam内での『お坊さんの小話サイト』がお寺(本堂)です。今現在約7000人の登録者の方々が門徒です。そして…このサイトを見続けて頂くことがお寺(お坊さんの小話サイト)を支えていくことです。win master様がこの『お坊さんの小話サイト』が要らない、必要ないと仰るならそれはそれて有りです。このサイトでは話をしている私(僧侶)が必要でないと仰るならそれも有りです。なんら問題はありませんし、異論もありません。しかし必要としてくれている人もいます。これも事実です。なにも難しいことではありません。自分自身にとって…必要であるかないか!拠り所としていけるかいけないか!自分自身の軸になるかならないか!それだけのことです。『物や形式にすがって安心を得たい」のが解を知らない凡夫というものです』◆だれも物や形式にすがるなとはお話しておりません。win master様が仰るの通り、人間は皆「物や形式にすがって安心を得たい」のです。それは至極当然のことです。だからこそ、物や形式にすがってばかりではイケないと説いているのです。「すがった」その先に…もう1つ、別な世界がありますよ…と説いているのです。『何についてもざわつきも怒りもため息もありません。ご安心ください』◆win master様。ご自身でお気づきになられませんか…『何もない』なら、ここにコメントをする必要などないことを…『何もない』なら、今回の返信も私に返す必要などないことを…win master様の一連の行動こそ、無意識の意識と呼ばれるものなのです。合掌高科修
松ちゃん様コメントありがとうございます。『出来ないものは出来ない。無いものは出せない…ですよね』仰る通りです。まさに!その通りです!ですので…大変申し訳なく感じますが…松ちゃん様のこの『出来ないものは出来ない。無いものは出せない…ですよね』以外のコメントの内容は、松ちゃん様とご親戚の叔母様とのお話です。身内のやり取り、身内のいぞござ、身内の問題であります。その問題をお寺の存在意義。僧侶の存在意義。強いては仏法の必要性の要不要のお話にからめられましても、それは「見当違いです」と申し上げざるを得ません。コメントを頂けたこと、大変有りがたく感謝しておりますが、どうぞご考察頂ければ幸いです。合掌高科修
自分も浄土真宗でして、自分の宗派のことについて理解を深めようと少しずつ勉強しており、浄土真宗では位牌を使わない事も知っておりましたが、今回高科住職のご説明がとてもわかりやすく腑に落ちて、一層理解が深まりました。ありがたいお話に出会えてうれしかったです。ありがとうございます、南無阿弥陀仏。
カツ様
ご視聴、コメントありがとうござます、
益々、精進致します。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
思えばそこにおる
その言葉にとても救われました。
涙が出ました。
ありがとうございます。
Chiaki様
「思えばそこにおる」
この言葉の願いを、深く汲み取って頂けたこと…
そして
「その言葉にとても救われました」
と仰って頂けたこと…
この二つのことに、私も「救われ」ました。
ありがとうございます。
Chiaki様とは、お会いしたこともなく、どちらにお住まいかも存じ上げない私です。
しかし、だからこそ、心に留まり気にかかっておりました。
月参りにお伺い致しているお宅なら、直接お話が出来、もう少しお気持ちを汲んだお話も出来たであろうと、気に病んでおりました。
それ故の、私も「救われました」です。
「涙が出ました」
そう仰るChiaki様のその涙が…
Chiaki様が自身の人生を生き切るようにと亡くなられた仏様(願の人)に願われている。
そして、そう願われている私(Chiaki様)が今!ここに生きている。
そして、その願いは、Chiaki様が「思えばそこにおる」。
そのことに
「うなずけた」
涙であったと…
私はそう感じております。
ありがとうございます。
合掌
高科修
@@buddhism_japan ありがとうございます。感謝いたします。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
伯母が昔、こう言ってました。
「門徒はね、こだわらないのよ。」
自分の家が浄土真宗だったことを知ったとき、この言葉を聞いて「私は浄土真宗で良かったな」と思えました。
このお位牌の話も、肩の力がふぅ~っと抜けるようです❤
市川あきら様
ご視聴、コメントありがとうございます。
伯母様の仰る通りです。
浄土真宗は…
門徒は…
『こだわらない』のです。
この『こだわらない』の意味は深いものがあります。
今、世間一般を席巻している、
『こだわらない』ことに『こだわりまくる』という「こだわらない」ではありません。
浄土真宗の『こだわらない』は、『始めから違う』頷きの集大成です。
こだわらない ことに、こだわりまくる世の中(今の日本社会)が、『違いを認めましょう』と声高々にアナウンスします。
違いを認めましょうと言うアナウンスは、違うということ認めなければならないという意識です。
浄土真宗の『こだわらない 』でお話しをすると、こうなります。
始めから『違う』のに、違いを認めましょうとは、何様のつもりだ。
貴方が貴女が私が、認めなくても、始めから皆々は違い、そこに居るのだ。だから、認めましょうではなく、『はい!と頷く』それしかないだろう!と……
浄土真宗の、伯母様の言う『こだわらないのよ』の根っ子は、この『始めから違うに頷く』そして、『バラバラで一緒』であるに『気づく』ことであります。
時間がありましたら、是非下記の動画もご視聴ください。
伯母様の『門徒はこだわらないのよ』のお言葉がより良く頷かれることと思います。
法話
浄土真宗は昔から常識がない『門徒物知らず』
th-cam.com/video/H4OieEa9keY/w-d-xo.html
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan さん
「うんうん!」気がとても楽になりました。
とてもわかり易くまた、ありがたい言葉です。
伯母や祖父母、父母たちがみんなで上から「あら〜!良いこと聞いたわねえ」
「お前、得したねぇ」と言ってる気がします。
動画を見るようになってから、「これって今、こうだと気づいたのかな?」「そうか、今気づかせてもらったんだな」と、いつも頭をクルクルさせながら、ご飯食べたり、会社にいったりしてます。
ありがとうございました。
こんにちは。
前回のお墓について今回もまた初めて知る事ばっかでまた一つ勉強になりました。
実は今年の1月11日火曜日の夜中食道ガンで父親が亡くなりました(泣)。
最近100日法要も終わりましたが、父親が亡くなった事がまだ受け入れられません(泣)。
知人の死や知人の親さんの死も悲しいけど、我が親の死は説明出来ない心境でとにかく悲しさ、ショック、喪失感で毎日足が浮いたような生活をしています。
けど、息子である自分が一生懸命生きる事が父親も生きることに繋がるとは勉強になりましたし、戒名も釋の意味は御釈迦様の弟子になる事とも初めて知って大変勉強になりました。
亡くなった人は何処の世界に行くのか死んでみないと分かりませんが、自分はまだ母親がいます。
母親もいずれは亡くなりますし自分もいずれは死にます。
生を受けたら必ず死がある。
死んだから後は楽になれるとよく聞いてましたが、死んでからも生きてる時と同じで肉体が無いだけで魂は生きてるから魂も成仏する為に修行をすると聞いた事もあります。
とにかく自分は物心ついた時から長年悪行三昧でした。
その分も含めて父親の分まで生きていこうと思いました。
チャンネル登録しましたのでずーっと動画を見て勉強させていただきます。
これからも世の中の為に動画配信お願いします。
水野敦様
はじめに、大切に思い愛していらっしゃったお父様がお亡くなりになられましたことに、文面でたいへん失礼なことと存じますが、お参りの言葉を申し上げさせて頂きます。
「たいへんお寂しいことになられました。南無阿彌陀仏」
水野敦様。
貴方様のその寂しく悲しく、そして辛く、また後悔の念のお気持ち。
察するに余り有ります。
どうかお時間がありましたら、是非下記の動画をご視聴頂きたくお願い致します。
今の水野敦様のお気持ちの中で、この動画か何かしらの手助けになればと切に願っております。
どうか、
是非ご視聴いただければと切に切にお願い申し上げます。
通夜法話シリーズ「死にゆく親の最後の願い」
th-cam.com/video/To0gRJbd7jk/w-d-xo.html
法話『中陰』なぜ四十九日なの?
th-cam.com/video/ZajX78m2xsQ/w-d-xo.html
法話「供養する心とは?」
th-cam.com/video/bF5NVt4d0KA/w-d-xo.html
法話『お墓参りの真の意味』
th-cam.com/video/tXqLRzgRezU/w-d-xo.html
合掌
高科修
母が亡くなったばかりで思い出しては泣いてばかりいたのですが、ふとラジオから大昔母が大好きだった曲が流れて来ました。
まさに、思えばそこにいるという言葉通り母が側に居たような気がしました。
いつも心に沁みるお話で救われております。
これからも動画を見て勉強させて頂きたいと思います。
まつこう様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「思えばそこにいる」
このことについてお話をしている動画がもう一つあります。
動画
「愛する人、愛された人との別れ」
愛別離苦
th-cam.com/video/e9OJNgtTzUo/w-d-xo.html
です。
お時間がありましたら是非ご覧いただければと思います。
「思えばそこにいる」
がさらに深く実感して頂けると思っております。
合掌
高科修
ご返信ありがとう御座います。
もうひとつの動画も泣けてとても心温まる動画でした。
これからも楽しみにご視聴させて頂きたいと思います。
高科先生お早うございます。今日も急いで用事(家事)を済ませ、パソコンの前に座って居ます。有り難いです。
今日はお位牌のお話し助かります。
40年前12歳で下の息子を亡くした時、何をどうすれば良いか全く解らず、悲しんでいる間に時が過ぎていきました。
やっと見つけた嫁ぎ先の家が、先祖代々浄土真宗であった事も知りました。お葬式は姑の意向で教会でした。私はクリスチャンでは無いので、どうも落ち着かず、亡き夫に頼んで探し当てて貰ったお寺がとても素敵な(ご院家、房守様のお人柄の素晴らしかった事)浄土真宗のお寺でした。もう一度お葬式をお願いして(簡単に)その時頂いた過去帳を未だにお位牌と思って毎日拝んで居ました。(^_^)あれは過去帳だったのですね。とても気が楽になりました。私が亡き後、今面倒を看てくれて居る息子が後始末が大変にならない様にと色々考えて居ます。
小さなお仏壇ですが、当時知り合いから奨められたお観音像と一緒に入れて毎日拝んで、話し掛けて居ました。お観音様は、当時悲しみから抜けきれなかった私をお友達がある行者さんの所へつれて行ってくれ、(貴女の息子さんはお観音様になられたので祀るようにと奨められた物です)改めて此方でお話しを聞いている内に、自分でも笑ってしまいました。
でも、私の心の中にいつも居る。。。居てくれる、と言う事は自然に受け取って居ました。そう思って話し掛けて居ます。
今日も勉強になりました。ゆっくり噛みしめながら今後のあり方を考えて行きます。83歳
えいちゃん様
『人に歴史あり』
…
えいちゃん様の83年の『生きる』の積み重ねに、尊敬と敬意の念を深く感じております。
その思いのお言葉一つ一つを、襟をただして拝読させて頂きました。
『私の心の中にいつも居る。。。居てくれる、と言う事は自然に受け取って居ました』
このお言葉がすべてだと思います。
このお言葉が、すべての物事の考え方の基本となるのだと思っています。
『心の中にいつも居る』『居てくれる』
だからこそ、心の中の人に恥ぬように生きていこう。
だからこそ、心の中の人を笑顔にするような生き方をしていこう。
だからこそ、心の中のに胸を張れる私で居よう。
この思いこそ、遺された私たちが、自分の人生を、その時がくるその瞬間まで『生きる』という力になっていくのだと私は思っています。
そしてそれが真宗の説く教えです。
合掌
高科修
我が家も、お東ですが、掛け軸ですよ。私は、今は、父の思い出、母方の祖母の思い出が、いっぱいです😊(祖母に、とって、私は初孫で、三十路前に、仏さまになりましたが、祖母がくれた、アメシスト、ムーンストーン、パール、ブラックオキニスのリングがあり、今は、アメシストリングをしています)
Chiharu M.様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「父の思い出、母方の祖母の思い出が、いっぱいです」とのChiharu M.様のお言葉。
いっぱいの思いでは、思いでだけではありません。
その『いっぱいの思い出』の中に、Chiharu M.様を愛してくれた、願ってくれた、大切にしてくれた『思い』がつまっております。
『思い出』とは、その願いに『気づいていく』ことです。
どうか、Chiharu M.様に対するお父様の思い、母方のお祖母様の思いを汲み取られて、Chiharu M.様の人生を生ききられることを、切に願っております。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
浄土真宗のお寺に深いご縁がありますが、菩提寺は禅宗です。
お焼香の仕方は少し違いますが、形に捕らわれるより、お悔やみ敬いの心でお参りさせて頂くことが一番大事だと思います。
完修さんの柔らかな御心が有り難く、和ませて頂きました。
かわちぃ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
かわちぃ様が仰る通り、
亡くなられたその方の生き切った人生から、学ばせて頂きますという、亡くなられた方への礼節と敬いが一番大切なことだと思います。
そして、亡くなられた方の…産まれ、生き、死というその『人生』に、『ご苦労様でした』と手を合わせて送るのが、遺された私たちの送るべき姿であると思っております。
南無阿彌陀仏。
合掌
高科修
チャンネル登録させて頂きます。
私は兵庫の真宗ですが、私の御婆さんは石川県の方でした。
真宗のことが勉強できて大変有意義です。
これからも頑張ってください。
taku ma様
ご視聴、コメントありがとうございます。
さらに、チャンネル登録までして頂き、誠に恐縮でございます。
ありがとうございます。
『真宗のことが勉強できて大変有意義です』
のお言葉に恥じぬように、ますます精進してまいります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
位牌といえば、浄土真宗大谷派の門徒でも地方によっては繰り出し位牌を遣っている地域があると伺っていますが、基本は過去帳と法名軸と理解しております。
私の地域では、法名軸は2種類あり、歴代の先祖様を記した法名軸を、向って左の蓮如上人の掛け軸の側に掛け、門主様の署名の入った法名軸は大切に保管し、一番最近の仏様の法名を向って右の見眞大師の掛け軸の側に掛けるようにしています。
法事の際には対象となる仏様の法名軸を打敷の前に飾るようにしています。
高木どどど様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『繰り出し位牌』の名称は、お仏壇屋さんが勝手につけた名称です。
『逗子(ずし)』
と呼ばれる仏具があります。
全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形をしたものを『逗子』と呼びます。
仏像・舎利(お骨)・経巻等々を安置するための仏具です。
逗子の役割は、その中に納めるものに対して、「礼をつくす」「敬う」「大切にする」ために用いる仏具です。
以上を踏まえた上で…
高木どどど様の仰る『繰り出し位牌』をご覧下さい。
『全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形』
………
そう、それは『逗子』、お逗子です。
お仏壇屋さんがどう言おうが、どう名前をつけようが、ネットでどれだけ広まっていようが、それは『逗子』です。
『位牌』ではありません。
お逗子の中に、板に書いた法名(法名板)を入れて、丁寧に扱っているのです。
故に…浄土真宗でも、お逗子として使っておる次第でございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
確かに、お位牌は嵩が張るのは確かですね。
お位牌も三十三回忌を過ぎると○○家と書かれたお位牌に纏めて、個人のお位牌はお焚き上げするとのことですが。過去帳も軽いとは言え、何代にも渡った過去帳は何事か在った際には、持って出ることには変わりは無いのかも知れませんが。
北畑宏道様
ご視聴、コメントありがとうございます。
浄土真宗では位牌は使わないというお話しをしております。
過去帳も法名を記録した紙でございます。
合掌
高科修
父の余命が短いと医師から言われ、父が希望する浄土真宗について少しでも知ろうとして調べておりとても参考になります。
形のあるご位牌はいらないとの事よくわかりました。さて、お話の中でご遺骨を忘れ取りに行ったというエピソードをご紹介されていました。ご遺骨は決して粗末にできるものではないと思いますが、ご遺骨もまた必須なものではないと思っておりましたが四十九日までは故人がそこに宿っていると考えるものなのでしょうか。火事で位牌を取りに行って亡くなるのは亡くなった方は望まない、と同じように法事なのに遺骨を忘れたから急いでインターに取りに戻って事故に合うというのも望まないという事ではないのかなと思ってしまいました。このように考えてしまうのは極論が過ぎるものでしょうか。
セイジT様
ご視聴、コメントありがとうございます。
お父様のこと…
セイジT様の心中たるや、察するきに余りあります。
お父様とセイジT様との1日1日の積み重ねの時間…その時間が深い深いものであることを切に願っております。
セイジT様のお尋ね…
四十九日と言われるものの浄土真宗の捉え方は、
下記の動画で詳しくお話しをしております。
ご視聴頂ければ幸いです。
法話『中陰、なぜ四十九日なの?Take2』
th-cam.com/video/ZajX78m2xsQ/w-d-xo.html
次に…
『法事なのに遺骨を忘れたからといって……』
のお尋ねでありますが…
『四十九日法要』
または
『満中陰法要』
と呼ばれる法事は、
遺骨をお墓に納めるための法要・法事であります。
目的は『納骨』です。
故に…『遺骨』は必須であります。
故に…
『極論』ではなく、
『論』が違っております。
ご認知のほど、よろしくお願い申し上げます。
合掌
高科修
ごえんさん ええ法話でした 私もなるだけ 人に迷惑かけないように仏さんになりたいです 生前供養というかたちで自分の供養をお寺さんにお願いしょうと思ってます。
Hosi Kirameku様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
位牌を取りに戻っって災難にあうという話は戦時中にあったとよく聞きました。手段と目的が逆転してしまった悲劇ですね。
浩二郎下田様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『手段と目的』
『目的』とは…
「弓矢(ゆみや)」に由来する言葉と言われています。的を目で追うことが目的です。
さらに、その行為に、その的を選んだ理由、人による意思が含まれるのが目的です。
次に『目標』…
これは目的が的に矢を当てることだとするて、的の何処に当てるのか、つまり「めじるし」を具体的に決めるのが『目標』です。
『手段』とは…
目的・目標を実現するための『行為・方法』のことです。
的に当てるのに、ボールを使うのか…弓を使うのか…ライフか…ピストルか…手段は複数あります。
『手段と目的』についてお話しを聞いて頂いたその上で…
『位牌を取りに戻っって災難にあうという話』
は…
『手段と目的が逆転してしまった悲劇』
ではありません。
あくまで『目的』が引き起こした悲劇です。
『手段』が逆転したのではありません。
この動画は、この『目的』そのものが、浄土真宗では『違うのです』とお話しをしております。
世の中では、わりと『手段と目的が逆転』という言葉を使います。
本来、手段も目的も言葉の定義上あきらかに別の言葉です。
故に、履き違えたり、入れ替わったりするはずがございません。
なのに…
なぜ…
『手段と目的が逆転』と使われるのでしょう。
理由は4つ。
1、何気なく使っている。
2、上手くいっていない状態を表す言葉として使っている。
3、目的が複数存在することで、目線があわなくなる。
4、目的と手段が入れ子構造のため目的≒手段となる。
どの場合も、話し相手とは本来の話が出来なくなってしまいます。
話が噛み合わなくなるのです。
浩二郎下田様が、この言葉を発する側であれ、受ける側であれ、『目的』に目を向けて、対象となっている目的は何かを明確にして、相手と一致させてお話しを進めることを切に願っております。
合掌
高科修
戒名の掛軸、と同じだと勘違いしていた。位牌は1個1個あると何代も先祖が居ると、仏壇に置けないから、思っていたけど、位牌と掛軸違うですね。
晃 小松様
ご視聴、コメントありがとうございます。
はい、戒名と掛軸は違います。
そして戒名と法名も違います。
合掌
高科修
Live感たっぷりの動画、楽しかったです!
大切な話をありがとうございます。
意外とコメントが無いのですね...
真宗の皆様は、位牌=他宗と認知済かな?
私は、真宗ですが、お東・お西ではなく、
高田派なので、事情が少し異なります。
位牌は、儒教由来だったのですね。
真宗では要らない理由、理解できました。
真宗の思考そのもの、だったのですね。
「法名は単なる文字だからこそ意味がある」
その内容、しかと胸に刻みました。
腑に落ちた、その上で...
高田では白木は元より、本位牌も使ってます。
逆に私は、高田派以外が使ってないのを、
昨年知りました。なにかと違うのですね。
(法名も、二字ではなく道号のある四字ですし)
そういうモン、特徴の1つ、と気にせずでした。
だけど、子供達に「あれ何?」と聞かれたら、
答えれない... 菩提寺住職に聞きますわ。
鈴木@新潟 50歳
P.S. 背景の九字、十字名号の掛け軸
一番下の蓮華に、やはり目が行きました。
.
202 BEAM 様
「Live感たっぷりの動画、楽しかったです!」
のお言葉に、小話のプロジェクトチーム一同(以下・PT)胸を撫で下ろしております。
「良かった」と。
実は「完修の部屋」の撮影手法はPTが一番やりたかった配信手法なのです。
「質問や疑問や相談を受けながらの完全フリートーク」…その受け答えから無限に繋がっていく浄土真宗の生活の中での物事の捉え方。
それを伝えるには、この「完修の部屋」のスタイルが必要である。というのがPTの共通認識でした。
満を持しての撮影配信となりました。
好評、誠にありがとうございます。
さて「位牌」
これはどう取り繕っても「位(くらい)」を記したものです。
故に位の牌…位牌と呼のです。
そしてその位牌に刻まれる「戒名」はやはり「位」があります。
ちなみに一例ですが
位の高い順から
○○院居士→○○居士→
○○信士(男性の場合)
○○院大姉→○○院日信女→○○院信女→○○信女(女性の場合)
となるそうです。
ここに…浄土真宗の説く教え…亡くなった方を「願い(仏)」として、そこから「南無気づけ阿弥陀仏気づきました」は見いだせません。
「あら!あなたのお父さん部長さんなんや。うちのお父さんは社長やよ!」
「あなたのお母様は社長さんなんですね。でも私のお母様は会長ですのよ」
下世話な例えですが、これが戒名位の実態です。
形が位牌の形をしたものが浄土真宗で用いたとしたら、そこに「法名」と記してあるなら、その位牌は「法名牌」と呼ぶべきで、そう呼ばれなくてはならないものです。
位牌だろうが法名牌だろうがただの呼び方やないかい!と仰る方人がいらっしゃるかもしれませんが、この「ただの呼び方」が重要です。
以前の動画「死んだじゃないよ生きただよ」でお話を致しましたが、「享年・行年」と「寿算」…ただの呼び方で大きく意味・意識が違ってまいります。
次に「道号」
大谷派にも「院号」というものがあります。
「○○院釋○○」
となるものです。
私ならば釋完修の上に「院号」がつき
「○○院釋完修」
となるものです。
この「院号」は大谷派では位ではありません。
京都の本山東本願寺に8万円のご寄付を頂い方に、そのご寄付のお礼として「○○院」と授けているものです。
ですので、私たち僧侶でも8万円を本山に寄付しなければ、院号はつきません。
高田派の「道号」が、いかなるものなのかは同じ浄土真宗でも「派」がちがうので詳しくは存じません。
ですが、たとえ高田派であっても、本来「浄土真宗」を名告るのであれば「位」ではなく「お礼」であるべきです。
202 BEAM 様。
誤解のないように。
決して高田派を批判しているのではありません。
「浄土真宗の教え」
「南無阿彌陀仏」
「南無気づけ・阿弥陀仏気づきました」
を「宗・軸」としたお話をさせて頂いております。
ここまでお話をさせて頂いた上で…
202 BEAM 様のお言葉
「.. 菩提寺住職に聞きますわ」
の、菩提寺住職様のお答えに、たいへん興味をもっております。
追伸
「一番下の蓮華に、やはり目が行きました」
ナイスな着眼点です。
蓮華が描かれいますので、両軸共に「仏様・阿弥陀如来」扱いでございます。
故に「風鎮」は付けておりません。
合掌
高科修
丁寧な返信、ありがとうございます。
>誤解のないように。
>決して高田派を批判しているのでは
>ありません。
全然、問題ありません。大丈夫です!
御文の「第一帖 第十四通」ですしね。
菩提寺のご老僧に伺ってきました。
法名に関しては、参考資料も頂きました。
ただ、両派の理解度が決して高くない私が、
その内容を記述すると、高田派の代弁や、
意図せぬ誤解を生じかねませんので、
ネット上では、控えさせて頂きますね。
ただ、会話の録音(約30分)がありますので、
いずれ、お聞き頂ければと思います。
こんな返信で申し訳ありません。
「違い」は、重要なのかもしれませんが、
私には、本筋から離れた話に感じました。
P.S.
うんうん、風鎮、聞いた記憶がある...
そこまでは覚えておらず、もう忘れてました。
結局、一部しか自分に残らないのね...
.
三回忌法要の時、母の戒名の紙、破けたので、新しい紙に書いてもらった方がいいですかね?
晃 小松様
戒名のことは分かりかねます。
戒名の宗派にはその宗派の約束事があるはずですから。
私どもの浄土真宗は法名です。
もし法名が…
三回忌法要前に破けてしまったならば、それはキチンと書き直してもらう方がよろしいかと思いますとお答え致します。
合掌
高科修
徹子の部屋のBGMを使うのはいかがなものかと、、、、他に音楽はないですか?。
rui437様
ご視聴、コメントありがとうございます。
rui437様の仰っているようにTH-camで徹子の部屋のBGMを使うのは、いかがなものかと私もそう思います。当たり前ですが著作権の問題などいろいろありますからね。
ここは完修の部屋であり、このBGMは概要欄にもご紹介して書いてある通り購入した音源データを使用しておりますので、rui437様のいかがなものかというご指摘は、そういわれるいわれがこちらには、ございません。
確かによく似ているので勘違いなされたのでしょうが、ご心配にはおよびませんのでご安心ください。
そして、自分で思ったことがすべて正しくて意見しようするのであれば、しっかり事実確認をした後でご意見されることをお勧めいたします。
こちらの動画をぜひご覧ください。
法話「知らないということ 知ってるつもりの恐ろしさ」
th-cam.com/video/TpZhehCkR6s/w-d-xo.html
人間なんだから、勘違いや思い違いをしたりするのは、当たり前のことです。大事なのはそうなった時に自分自身でその失敗をどう受け止めていくのか、という事です。
以下の動画もぜひご覧ください。
法話「私はただの人間です」
th-cam.com/video/sAgxgQ1bW7M/w-d-xo.html
法話「わかっちゃいるけどやめられないから学ぶ戒め」
th-cam.com/video/AZCIAdcq6wM/w-d-xo.html
法話「南無阿弥陀仏」気がつけば世の中すべてが南無阿弥陀仏
th-cam.com/video/YFghJVD0v-w/w-d-xo.html
法話「マジヤバイ」と「南無阿弥陀仏」
th-cam.com/video/rKqUR0J9z7g/w-d-xo.html
それと、これは私からのお願いでございます。
もし、失敗した。恥ずかしいことをしてしまったと思っても、
どうか、このコメントを削除しないでください。
よろしく、お願いいたします。
次は動画の内容に関するコメントをお待ちいたしております。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
このお話を聴けてよかったです。
実家の仏壇に、法名を書いた木の札を入れたものがあります。
名称がわからないので、勝手に「法名札」と呼んでいましたが、それでよろしいのでしょうか?
また、その札を複数枚納めたものは、何というのでしょうか?
トモ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
ご参考までに…
下記の動画をご覧頂ければ幸いです。
完修の部屋「お墓の頭の形はどんな意味?」
th-cam.com/video/BtEOB5TATFo/w-d-xo.html
合掌
高科修
あーそうなんですか、
釈の意味最初分からなかった、
叔父の家は浄土宗のはずなのに、
叔母が亡くなったとき
何故か宗派が違ってて
浄土真宗になってました?
勝手に宗派を変更できるんでしょうか?
もう親戚はめちゃくちゃです。
日蓮宗だった家も嫁を取りキリスト教になったり、神様こんがらがりそう、先祖も迷惑かも知れない。キリスト教にしたのは仏教と違い、法事が無いから楽ちんとかで変更した、らしいです。
私初めてその話を従兄弟の嫁さんに聞いて驚きました。そんなことが許されるんですか?教えてほしいです。
私の心もやもやしてます。
松下佐知子様
「私の心もやもやしてます」
至極当然の感情、思い、お気持ちだと十二分お察しいたします。
私自身もお話をお聞きして唖然としております。
「キリスト教にしたのは仏教と違い、法事が無いから楽ちんとかで変更」
このことに至りましては既に
宗派がどうのこうの…
教えがどうのこうの…
宗派変えが許されるとか許されないとか…
神様こんがらがりそうとか…
先祖も迷惑かも知れないとか…
そのような事柄を越えております。
「人」
「人間」
「子」
としての「問題」です。
「楽ちん」
この意識に
「ありがとう」
も
「ごめんなさい」
も生まれてはきません。
どの宗教であれ、
感謝と懺悔を説かない宗教はありません。
日本は法律的に個人の宗教選択を認めております。
特に浄土真宗は門徒という言葉をあえて使い、同じ門をくぐった同じ志しを持ったもの同士が互いに自分の人生を生き切るように生きていこうと生きていく友であるとしていく、「個」の宗派であります。
檀家とはある意味家の宗教。
門徒とは個の宗教と言えます。
それを踏まえ、尚且つ日本の法律からみれば、松下佐知子様は松下佐知子様御自身が信じ拠り所される宗派を信じて生きて行かれれば良いと思います。
浄土真宗である必要はありません。
浄土宗ならばそれで良いのです。
松下佐知子様。
貴女自身の生きる中心は松下佐知子様自身が決めることなのですから。
どうぞ、人は人です。
他人を自分の思う通りには出来ません。
かくいう私も同じです。
私がお話をしたからといって皆がそう思うはずはないのです。
ですが、そう思ってくれる人もおいでです。
「皆がそう思ってくれたらよいなぁ」
その願いが私の法話です。
松下佐知子様は堂々と胸を張り松下佐知子様として生きていかれて下さいませ。
そのことを切に願っております。
追伸
「楽ちんだから…」
その生き方は、どこかで必ず壁にぶつかります。
先にもお話を致した通り、
楽ちんには
ありがとう、も、ごめんなさいも生まれません。
「ありがとう」
「ごめんなさい」
の無い生き方は……
そう…
そんな人生しか生きれないと言うことです。
合掌
高科修
遅くなってすみません返信の内容よく理解できました。
私の格のところの宗派で行いたいと思います。有難う御座いました。
心がスッキリしました。🙏😊
寂しい、
崎昭子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
竹林には、たくさんの竹がそれぞれにその身を生きております。
けれど、それぞれの竹は、皆地中では、『1つの根』で繋がっているのです。
崎昭子様の、その『寂しい』が、如何なる寂しいかを、私は存じ上げることができませんが……
人は、生きているだけで、私の知らない人の『お陰様』で生きております。
決して一人ぼっちではありません。
浄土真宗は、『その一人ぼっちてはない』ということに、気づいて行く宗教宗派であります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
お坊様に、お教えを乞います。
真宗では位牌は要らない。
さりとて、現実は、浄土真宗の門徒はほとんどが繰り出し位牌を仏壇に置いております。
お話しと現実の辻褄を合わせていただくとありがたいです。
北斗七星様
ご視聴、コメントありがとうございます。
取り急ぎ…
北斗七星様のお尋ねにお答え致します。
まず最初に…
『逗子(ずし)』
と呼ばれる仏具があります。
全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形をしたものを『逗子』と呼びます。
仏像・舎利(お骨)・教巻等々を安置するための仏具です。
逗子の役割は、その中に納めるものに対して、「礼をつくす」「敬う」「大切にする」ために用いる仏具です。
以上を踏まえた上で、北斗七星様が仰る「繰り出し位牌」をご覧ください。
『全面が観音開き(両開き)の扉があり、屋根と台座のある形』…
そうそれは『逗子』、お逗子です。
仏具屋さんや仏壇屋さんがどう言おうが、どう名前をつけようが、ネット上でどれだけ広まっていようが、それは『逗子』です。
『位牌』ではありません。
お逗子の中に板に書いた法名(法名板)を入れて、丁寧に扱っているのです。
なぜそんなことをしているのか?
それは、その家で亡くなった方の命日すべてに月参りを執り行っていたからです。
そのお宅で三人亡くなっていたなら、月参りを月に三回、先祖代々十人亡くなっていたなら、十回と月参りにお伺いしておりました。
近年は様々な諸事情により、一番今日(こんにち)に近い命日の方に合わせて月参りに伺わせていただいておりますが、ここ北陸では、いまだに月に三回、四回と月参りを執り行っておられるお宅や地域が御座います。
紙に書かれた法名は、ご法事の時に使うのに仕舞っておき、平常の月参りは、お逗子の法名板を繰り出してお参りをしていたということをです。
そしてこのお逗子の形がお墓の形にもなっていたという事実も御座います。
法名板の入っているお逗子に関しましては
動画
完修の部屋
『お墓の頭のかたちの意味は?』
th-cam.com/video/BtEOB5TATFo/w-d-xo.html
で詳しくお話しをしております。
是非ご視聴頂きたく思っております。
以上が北斗七星様のお尋ねのお答えになります。
ご理解頂ければ幸いです。
合掌
高科修
皆私のながにいます、😂
崎昭子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
仰る通り…
皆々、私の中に居るのです。
崎昭子様ご自身の人生を、『生き切れ』!
そう願って崎昭子様の中に居るのです。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
😂
崎昭子様
ご視聴、絵文字、ありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
ってか、「僧」もいらないですよね。なんで真宗っていう寺(宗教法人)って必要なんでしょうか?
親鸞上人を含め、本当に仏教人というのは「人(人間、他人、衆人)」をバカにしているとしか思えません。
win master様
貴方様は…
いったい何にざわついておられるのですか?
貴方様は…
いったい何に心穏やかでいられなくなっておいでなのですか?
貴方様は…
もしかしたら、浄土真宗の物事の捉え方が府に落ちてしまったのではないのですか?
貴方は…
もしかしたら、府に落ちた自分が許せないのではないのですか?
大丈夫ですよ。
浄土真宗は親鸞聖人の時代から他をバカにするなという教えを守って生きて来ております。
ご安心下さい。
いつでも浄土真宗の門は開いております。
合掌
高科修
@@buddhism_japan 様
これはご無礼を。
私は今どきのお気楽な門徒です。(ご先祖様が浄土真宗の寺を菩提寺としているので、自己選択ではないタイプの門徒です。)
親鸞上人に関するお話を様々な場面で耳にする機会(法事の説法や高科様のTH-camなど)があるので、親鸞上人の考え方に共感はします。
しかしながら、そこまで「(目的を忘れ)物や形式にとらわれるな」とズバリ正しい解を得た時に、「そもそも寺や僧すらもいらないのではないか?」と思ったわけです。(寺を支えている門徒や衆生をどう思っているのか? まるで馬鹿にしている(支えている甲斐がない)ようだ、と感じたのです。)
凡夫の私にはわかりません。しかし何かのために「寺や僧が必要なのではないか?」とも思うのです。
高科様、「一体それは何ですか?」「そして寺(教え)を支えるために何が必要ですか?」というのが、凡夫の私の疑問であり質問です。
「物や形式にすがって安心を得たい」のが解を知らない凡夫というものです。
何についてもざわつきも怒りもため息もありません。ご安心ください。
そして無料での質問失礼いたしました。
平身低頭
Win master
何となく、仰りたい事は分かります。今は家族葬や火葬のみ等が増えてますよね。火葬のみでも僧侶がおられたり おられなかったり…
一番お金がかかったのは 墓石、仏壇、そして僧侶へのお布施。
両親と一人息子を亡くしてる私も 御香典、全部 お布施にした経験があります。親戚の中に僧侶と友達のおばさんがいて、一旦お布施をお渡ししたのに、「もっと持って行け❗️後○十万円や❗️」と、言いだし それでは葬儀に使うお金が…「後日、持って行きます」と言うと、「アカン❗今すぐお寺まで持って行き❗」と、うちの家の事情もあるのに勝手にお布施の額まで言うたのです❗️😡⚡️
何の事は無い、その親戚のおばと友達の僧侶はお金の貸し借りをしていて、僧侶にお金が渡る→金を貸してたおばは返して貰える…そう言う事でした❗️
皆、気持ちだけ包めば良い。と言うのに、人の家庭に口を挟み (葬儀の足しにと御香典を渡された大切なお金が全て僧侶にとは❗) あんな叔母さん来てくれんで良かったのに❗️と10年以上経つ今でも腹が立ちます。葬儀社でも かなりかかり、お料理は別。返礼品も別。満中陰の御返しも別。人が亡くなるとは お金が無いと何も出来ないのです。
それを重荷に思う方は(ご近所全部です)家族葬にして、返礼品など一切しないと言う気楽さ。
両親と息子、三人の葬儀と法事…大変です。…そのような感じの事なのでしょうか❓️出来ないものは出来ない。無いものは出せない…ですよね。
win master様
はじめに…
『そして無料での質問失礼いたしました。平身低頭』
と仰らないで下さい。
そう仰る必要は微塵もありません。
そのことを、まず、お伝えしたく存じます。
win master様にお話を申し上げます。
『私は今どきのお気楽な門徒です。(ご先祖様が浄土真宗の寺を菩提寺としているので、自己選択ではないタイプの門徒です。)』
◆檀家とは…
ダーナ=ダーナパティ
支援者と言うのが語源です。
つまり修行する僧を支える人たちのことを指します。
そして檀家とは『家』の宗教を指します。
これに対して
『門徒』とは
同じ志を共に歩む、つまり同じ門をくぐり同じ道を行く者同士という意味です。
門徒は檀家と違い『個』の宗教です。
故に、win master様自身が門徒と仰るのなら、それは「自己選択ではないタイプの門徒」にはなりえません。
ですので、どうぞ自己選択をなさらないのなら門徒ではなく、檀家と仰ってください。
また自己選択が浄土真宗の基本ですので、その説く教えが府に落ちなかったならば、自由に宗教を選択なさってください。
宗教の自由は、この日本では法律で認めらているのですから。
『親鸞上人に関するお話を様々な場面で耳にする機会(法事の説法や高科様のTH-camなど)があるので、親鸞上人の考え方に共感はします』
◆ありがとうございます。
その共感が、win master様ご自身の『生きる』になって頂ければと切に願うばかりです。
『しかしながら、そこまで「(目的を忘れ)物や形式にとらわれるな」とズバリ正しい解を得た時に、「そもそも寺や僧すらもいらないのではないか?」と思ったわけです。(寺を支えている門徒や衆生をどう思っているのか? まるで馬鹿にしている(支えている甲斐がない)ようだ、と感じたのです。)』
◆親鸞聖人は、お寺も教団も作らなかった方です。
しかし、親鸞聖人の説く教えを聞く場所は在ったはずです。
その説く教えを聞く人たちは居たはずです。
たとえそこが広場であったとしても。
たとえ聞く人が少人数だとしても。
その場所が今現在、本堂と呼ばれる場所であり、聞く人たちが門徒と呼ばれる人たちであります。
浄土真宗は、僧侶も門徒も共に仏弟子です。
そこに上下はありません。
ただ私たち僧侶は、法衣をまとい仏事を執り行い読経や法話を致す門徒代表という立場にすぎません。
少なくとも私の仲間の僧侶は、そう心得て法務を致しております。
win master様のまわりにいらっしゃる僧侶方が、私の言うような僧侶でないなら、それはその方々の心得が違う、間違っているというただそれだけで御座います。
『凡夫の私にはわかりません。しかし何かのために「寺や僧が必要なのではないか?」とも思うのです。
高科様、「一体それは何ですか?」「そして寺(教え)を支えるために何が必要ですか?」というのが、凡夫の私の疑問であり質問です』
◆
ある意味この『お坊さんの小話』のサイトが答えです。
例えるなら
TH-cam内での『お坊さんの小話サイト』がお寺(本堂)です。
今現在約7000人の登録者の方々が門徒です。
そして…このサイトを見続けて頂くことがお寺(お坊さんの小話サイト)を支えていくことです。
win master様が
この『お坊さんの小話サイト』が要らない、必要ないと仰るならそれはそれて有りです。
このサイトでは話をしている私(僧侶)が必要でないと仰るならそれも有りです。
なんら問題はありませんし、異論もありません。
しかし必要としてくれている人もいます。
これも事実です。
なにも難しいことではありません。
自分自身にとって…
必要であるかないか!
拠り所としていけるかいけないか!
自分自身の軸になるかならないか!
それだけのことです。
『物や形式にすがって安心を得たい」のが解を知らない凡夫というものです』
◆だれも物や形式にすがるなとはお話しておりません。
win master様が仰るの通り、人間は皆「物や形式にすがって安心を得たい」のです。
それは至極当然のことです。
だからこそ、物や形式にすがってばかりではイケないと説いているのです。
「すがった」その先に…
もう1つ、別な世界がありますよ…と説いているのです。
『何についてもざわつきも怒りもため息もありません。ご安心ください』
◆win master様。
ご自身でお気づきになられませんか…
『何もない』なら、ここにコメントをする必要などないことを…
『何もない』なら、今回の返信も私に返す必要などないことを…
win master様の一連の行動こそ、無意識の意識と呼ばれるものなのです。
合掌
高科修
松ちゃん様
コメントありがとうございます。
『出来ないものは出来ない。無いものは出せない…ですよね』
仰る通りです。
まさに!その通りです!
ですので…
大変申し訳なく感じますが…
松ちゃん様のこの『出来ないものは出来ない。無いものは出せない…ですよね』以外のコメントの内容は、松ちゃん様とご親戚の叔母様とのお話です。
身内のやり取り、
身内のいぞござ、
身内の問題であります。
その問題を
お寺の存在意義。
僧侶の存在意義。
強いては仏法の必要性の要不要のお話にからめられましても、それは「見当違いです」と申し上げざるを得ません。
コメントを頂けたこと、大変有りがたく感謝しておりますが、どうぞご考察頂ければ幸いです。
合掌
高科修