Battle of MIKATAGAHARA
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- เผยแพร่เมื่อ 29 ต.ค. 2024
- [お詫びと訂正]
本多忠勝 の表記を 本田忠勝 と記載しておりました
忠勝ファンの方々をはじめ、誤解をまねく記載となってしまい申し訳ありません
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時代は戦国時代と呼ばれる
元亀3年 1572年 10月
室町幕府の将軍 足利義昭が各大名に織田信長討伐を下命した「信長包囲網」が形成されてから2年が過ぎた頃
甲斐、信濃、駿河 3国を領する 甲斐の虎こと武田信玄は、東の北条家との同盟を成立させると、満を持して徳川領への侵攻を開始した
信長に叛旗を翻した松永久秀や、三好らとの畿内での争いに奔走する信長にとって
西上作戦と呼ばれる武田軍の侵攻は、一番恐れていたことであり、将軍義昭にとっては
最も期待していた大名が動き出し喜んでいた
武田の動きを信長以上に恐れていたのは、三河・遠江を治める 当時29歳だった徳川家康
東濃、奥三河、遠江 3方向からの同時侵攻を行う 戦国最強騎馬軍団を前に
徳川の領土を守る 打開策を見つけられないままでいた…
[ご覧になられる方へ]
※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります
※合戦や物語の出来事は諸説あります
※番組内に登場する忍キャラ「サスケ・ハンゾウ」は、ユキムラが楽しむスマホ版ゲーム『みんゴル』でユキムラが愛用するキャラクターとなります。ぜひ「みんゴル」もやってみてね!
※制作の都合上全ての情報や登場武将を網羅してはおりません
※登場人物名は改称時期に拘らずわかり易い表記で記載しております
※演出時に大きな音が出る場合があります
※2020年時点での歴史資料を元に作成しております
大河ドラマ「武田信玄」での三方ヶ原の戦いに痺れた記憶がある。あの徳川家康をフルボッコにするなんてその当時歴史に詳しくなかった自分は衝撃を受けました。
山津波の如く襲いかかれ~ですね!
徳川家康何もせず、我ら城の前通さば、三河衆は家康を見限るであろう。それに思い至らぬ家康ではあるまい、まもなく城より打って出て来るはずじゃ。もし打って出て来なければ、そのまま軍勢前に進めよ
大事な「家康、血迷うたか…」がないでござる
あの徳川家康っていうけど家康そんなに強いイメージないな
@@トマト-i3w6z それな
忠勝は家康を逃がして自分も生きて帰るんだからすごいな
し か も 無 傷
三方ヶ原の戦いで、徳川軍が総崩れとなるなか、本多忠勝隊は武田最強の山県昌景隊を撃破。家康を逃がす時間作った。
@@user-nf4cg5sj2x 戦って無傷と逃げて無傷を履き違えてるのは草
@@syuchannel3999 そもそも戦ってなくて忠勝の家臣が頑張っただけ説
@@user-nf4cg5sj2x えっ
Aだけに(すいません)
完成度が高くて感動しました。永久保存版です。
本多忠勝が殿を2回も務めて、無事戻ってくるの強すぎる
見事な動画でした。
この三方ヶ原の戦いは、私が見る限り戦国時代の五指に入る名合戦だったと思います。
ハンゾウ(服部半蔵?)の「瞬殺」という表現が面白かったのですが、それだけ武田の勢いが凄まじかったということが分かりやすく表現されていました。
当時の家康と信長の関係性も書状の表現一つによく書き表されていたと思います。
信長から「出るなよ、出るなよ、絶対に出るなよ」と言われると、逆に出て戦わないと後て
「お前!何やっとったんじゃ?」と責められる可能性があることを深読みしてしまう家康の心中描写が的を射ていたと思います。
歴史にタラレバは禁句ですが、もしこの信長と家康の関係性を信玄が知っていたら、全軍で美濃を攻めるという選択肢も出たと思うのですが、
いかんせん、そこまでの情報は得られないのが戦国時代ですね。
この戦いを私が戦国時代のベスト5に上げる理由は、この戦いと同じ戦術を後に関ヶ原の戦いで家康が使ったからです。
大垣城に籠る石田三成方8万に対し城攻めは長引きますので、この時の信玄同様短期決戦が必要な家康にとって野戦での決着に相応しい作戦だったわけです。
最も感慨深いのは、この時に家康の命を救った本多平八郎は、28年後の関ヶ原でも家康のそばにいたことにあります。
家康と平八郎、この二人の主従は当時の理想でもありました。
生き生きとした解説で心地よく聞かせていただきました。ありがとうございます。
この戦いは家康の最大の敗北だが、酒井忠次、石川和正、本多忠勝、榊原康政という猛者が討ち死にしてないのが凄い。
戦死した夏目は夏目漱石のご先祖で、息子が不祥事起こして徳川家を退散して落剝していたのを家康が
「自分の身代わりに死んだ夏目の息子なら見捨てられん」っていって再仕官させて江戸時代は旗本になって
家が続いたそうです。
石川数正な。
「どうする家康」を見て、もう一回見に来ました。
家康の身代わりとなって討ち死にした夏目吉信(1518~1573)は、明治の文豪・夏目漱石(1867~1916)の先祖である。
最近このチャンネルを発見したのですが、とても面白いです!
軍の動きや兵の規模などが分かりやすくて、小さくなって撤退していく時なんか、すごく可愛いです。
もっと他の戦も見てみたいです。
砥石崩れ、本能寺の変~山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、関ヶ原、大阪の陣、なども宜しかったらお願いします🙇♀️
毎回楽しく拝見してます。信長の野望をやりこんだ、いち歴史ファンです。酒井忠次氏の声質の冷静感が個人的にウケてます…😂次回作も期待してます!
私も,歴史が大好きですが、現代風に,分かりやすく,とてもいいです。
すごくわかりやすい。
長篠の戦い、忍城の戦いと第二次上田合戦の解説も見たいです。
武田信玄の凄いところは相手を分析、比較して、勝つと判断した時には戦を仕掛け、負けそうだと判断したときは朝廷工作、外交で戦の回避をする。
一見当たり前だが、戦いを避けようとする徳川を引っ張りだして叩きのめし、(結果的に失敗ですが)逃げた徳川を深追いしなかった点でも並の大名ではない。
戦の勝率は9割を超え、織田も直接対決を避けたというのも頷ける、戦国時代最強の大名です。
ただ勝てると思ったら後先考えずに攻め込むのが悪いところだわ
追撃戦で格下をぶっ殺して小さい手柄を立てるより、大事な兵を失うことは損と考えることができたんだろうね。
ギルディングガルディング そんな攻め込んでなくね。そしたら家康も三方ヶ原で死んでそう
@@TS-dj7gm 村上義清に2回負けたのが教訓になったのだろう
砥石崩れなんて重臣多数戦死で武田大ピンチになってるし
@@TS-dj7gm 実は小さい敵でなかったことは後になってしか分からなかったこと。。
最近、このチャンネルを知りましたが分かりやすい解説や図面やコミカルながらも思いが伝わる武将のやり取りが面白くてチャンネル登録しました
三方ヶ原の戦いは大坂夏の陣以外で家康の馬印が倒れた戦いでもありますね!
にしても、22:18の絶望感やばい
あと、本当に忠勝強すぎて笑う
これは、歴女TH-camrとしては見逃せないです。すごい!
とっても勉強になります☺️
ナスチャんさん、コメントいただき光栄です^^
動画も拝見させていただきました!
犬山城、ほんといいですよね〜 また日本のお城を巡ってくださいね!
ドイツ🇩🇪には昔から武田信玄のファン団体が有名です。
めっちゃわかりやすい!家康がボコられた戦ってだけしか知りませんでしたが信玄側の策も見事だったんですね
引き返して一気にボコる作戦なら
今川みたいに横からつかれることはないから
そりゃ無理だわ。
後の甲州征伐戦の武田軍の決戦を行えないほどの崩壊を考えると、信玄に領土を荒らされ負け続けても崩壊しなかった徳川軍結束力は凄い。
最後の最後まで三河までの戦線は譲らず粘り強く抵抗したし勝頼に高天神城落とされたりしても粘り切った結果が長篠だし、家康もくっそ強い。本多も榊原や酒井等部下も総じて長生きしていくから経験値もいつの間にか段違いになっていくのが徳川軍の強み
こんなのが直ぐ隣にいていつもタヒと隣り合わせで、死線をかいくぐって生き延びた家康に、関ヶ原の頃の連中が敵うわけがないよね😩
甲州征伐と三方原では状況が全然ちがうんだよなぁ。
甲州征伐の時は周辺国が敵になり同盟国の上杉も滅亡寸前、朝敵認定、浅間山噴火。
三方原では隣接する敵は武田だけ。微力とはいえ織田の救援もあるからね。
@@te9186
ほんまそう
周り敵だらけと正面が一つだけとは状況が全くちゃうよな
@@te9186 なんなら信玄存命時ですら武田と織田なら織田の方が国力的に強かっただろうし、家康も最悪織田領まで逃げれば生き延びることは出来たと思う。
三方ヶ原の戦いは、信玄公の数多い決戦の中でも会心の戦いだったと思います。大変分かり易い動画、ありがとうございます。
三増峠だったかの撤退戦も凄いですよ。
あとこの戦含めた西上作戦自体が実に綺麗で全体像を見ることでやっと本当の凄さがわかるようになってます。
@@さんシマ-w8v 西上作戦いいですね…ちょっと勉強してみます😁
@@さんシマ-w8v 後世になって分かるけど、リアルタイムで家康の立場だったら胃から血吐きそうですな。3方から攻め立てられて、本体がどこか分からず、狙いもわからない。5000の別働隊も優秀な指揮官の指揮できっちり城落とされているし
完全に手玉に取って勝利してるあたりが、もはや芸術の域に入ってる。
山本勘助が死んでも、真田がいたとか。宇宙戦艦YAMATOで、「こんなこともあろうかと」とか言うキャラがでてくるわけだわ。
@@TS-dj7gm 序盤に山本勘助が出てきて嬉しかった。
鳴くまで待とうのイメージが後世では広がってる家康だけど
短気エピが後世に残ってるくらいだからまだ若いこともあって
挑発するのは難しくなかったのだろう
織田対策として岩村城を攻めさせ、牽制するなど考えられるかぎりの手をうっている。
家康ってこんなのが直ぐ隣にいて常にタヒと隣り合わせだった中を生き延びたわけでしょ。能力という以上に強運さが更にヤバいと思うわ
信玄が動く時は山が動く時っていわれ、全ての条件が整ってそこかしこに全て完璧に手を打った状態で進撃してくるんだから、家康は良く生き延びたよね💦
信玄がタヒんでくれなかったら滅亡してたかな、、、
こんな修羅場をくぐり抜けた百戦錬磨の家康に、関ヶ原の頃の連中が敵うわけないでしょ
めちゃくちゃ面白い
実は徳川/織田連合軍の方が武田軍より数が多かったという話もありましたね。
すごく良いチャンネル発見
この頃の家康って苦労の連続で散々のようだけど、若いうちに良い経験を積んだよね
ほんまにわかりやすく楽しめてます。
わかりやすくて面白かったです!!
姉川の戦いの続編で志賀の陣もお願いします‼️
確か家康が本気で命の危険を感じて逃げ帰る時に恐怖のあまりにお漏らししてしまったことでも有名ですね。
これを乗りきり命あって逃げ切ったから天下を取れたとして信玄には敬意を表してした話もあります。
忠勝はこの頃の家康には確かに過ぎたる武将だったかもな。
徳川は本当に家臣団に恵まれたからこそ天下統一を成し遂げられたと思う。
ネタならすみません。天下泰平じゃないですかね?(にわかですみません)
@@ハルスタ-j6u 後々の天下統一かも?wでも、泰平でも統一でも似合うような気がしますね✨
酒井忠次公の声に癒される
サムネイルの家康が敗戦した際の
醜い家康の絵を採用したチャンネル主さんと
当時それを採用し
軽率な行動を戒めるとして
後の世に残した家康本人に敬意を。
大名同士の同盟は多くの場合、長続きしないのに織田と徳川の同盟は信長存命中まで続いたのは今更ながら、驚きです。
徳川方にしてみれば、浅井に裏切られた越前攻めや姉川の戦いには織田方に加勢しているのに、信玄の西上の時には何度も援軍を求めているのに、中々応じてくれず、やっと来た、と思ったら僅か三千。
確かに、当時あちこちに敵がいて、織田も大変な時期ではありますが、それでも一万以上の援軍は出せたはず。
当時の織田と徳川の同盟は対等だったので、「やってられるか!武田に降伏して家を守る」と、なっても不思議じゃない、と思ってしまいます。
個人的な想像としては、当時、軍団長クラスの佐久間信盛率いる軍勢が三千、とは少なすぎ。
一万以上いたのではないかと。
だからこそ、後年、佐久間信盛が追放された時、三方原の一件は、信長から大失態、と責められたのでは、と思っています。
追記です。
このチャンネルは秀作揃いですが、中でもこの「三方ヶ原の戦い」は良くできています。
「浜松城から出るなよ、出るなよ、絶対に出るなよ」「またもフリであるか」といった笑いどころもある一方、徳川方も勝機あり、として仕掛けた様子の描き方、またBGMの使い方も申し分ないです。
高天神城第一次では救援も間に合わず
実際のところ、長篠では家康もキレかかってていたという説もありますなあ
かろうじて長篠で間に合ったから最後まで続いたという可能性も
@@asakazefuji 「信長のシェフ」では信長が武田方に仕掛けた情報戦と言う扱いをされていますね。あえて規模の小さい援軍を先に出し、織田本隊はあえて間に合わせない。不仲説を武田に匂わせておき、長篠での戦いの際に勝頼の判断を誤らせたという演出になっていました
実は長篠の戦いでの異常な織田軍の進軍の速さはこれ以上徳川家に負担をかけていると離反されるおそれがあったからだとか家康が脅しをかけたという説もあります
清洲同盟については、家康が正妻の築山殿 長男信康を処刑してからは、家康が信長に絶対服従する形態に変わりました
佐久間信盛が3千しか出さなかったのではなく、出せなかったのでは?
軍団長といっても、配下はあくまで寄騎(信長名義の下請け)であって、家臣(信盛直轄の部下)ではないですからね。
盛信隊の内訳は、おそらく信盛自身の所領や私財から捻出した戦力だと思う。
凄くわかりやすかったです。
詳細な合戦の説明、クスッと笑える人となりを捉えた武将談義、最高❗️
そういうところがこの動画の醍醐味❗
武田信玄と上杉謙信の強さは別格だな
みんな好きだこら、脚色つきまくるからねぇ!
それより国力や背景で上回る今川を倒した信長ですら避ける相手
山本勘助を失ったのは痛い ヤマカンの語源になった人物
ワシは?
@@user-yt2dw6l うつけ
@@さかた-c9k 辛辣で草
本多忠勝毎度凄いなあ
信玄の前にさらに勝頼がいる陣形が重厚すぎてムネアツ
あまり歴史には詳しくないのですが、一番好きな武将が武田勝頼公です。
日本人特有の判官贔負になるかもしれませんが、信玄の死後勝頼は正式な当主ではなく、御当代つまり代わりの当主としての位置づけで色々苦労したと思いますが充分能力を発揮したと思います。
武田を滅亡させた不肖の息子と思われがちですが戦は強い、長篠合戦後の武田の立て直しにも尽力しました。
武田の最大の版図を築いたのも勝頼の時代でした‼️
あなたの勝頼公を褒めるコメントに心を打たれました☺️
@@敬大川野 ありがとうございます。私の親族も諏訪の出ですので、誇らしいです!
大敗したとはいえ、
戦わなくても良かったが
目の前を、家康など眼中にない風の信玄に、男として
あえて戦った家康は、これで男をあげた
戦わないと今後の家中のまとまりにも悪影響でるから、負けると分かっていても敢えて出たという説もあるらしいですね…実際に徳川家はよくこのあと立て直したと思います
@@asakazefuji 成程、それもあり得ますね、
ただ、結果論ですが、戦った事によって、特に秀吉死後
周りの武将から、一目も二目もおかれる結果になったのは
家康には良かったと思う
この時代の軍勢は国衆の存在が生命線だから彼らに愛想つかれたらまともに軍編成不可能で一気に崩壊するからね。現に武田も穴山・木曽・小山田に見捨てられた結果が…だし
@@フォード-i1w 確かに、それはありますね、まだ若い家康、家臣も掌握していない時期ですから、武田勝頼も同じ事が言えますね
@@user-nj5ce9dq3e 家康の場合、姉川の戦いにも従軍してた奥平氏が武田とも接触してて美濃の国衆遠山氏が負けたの知って戦わずに逃亡・長篠・田峰菅沼氏も武田に裏切った(奥平は長篠の時にもっかい調略して従え直し)りがありますね
後は保護したばかりの旧今川家臣達(武田との約束反故にしてでも和睦した・これに信長何も諫めなかったから織田ー武田間も関係悪化した背景あり)とか三河一向一揆復活辺りがネックだった感じでしょうかね
武田信玄かっこいい
負け戦でもしっかりしんがりこなす本多忠勝すげぇな
前田慶次は武田相手にシンガリは勤めていないからね。本当に、凄まじかったんだろう。普通死ぬから。
ありがとうございます!
城から出るのを待ち野戦に持ち込むという戦法は正に家康が関ヶ原でやったこと。若い頃に武田にいじめられた過去が無ければ野戦上手の内府はいなかったでしょうね。
素晴らしい,ご賢察ですね!楽しく拝見させて頂きました!有難う御座います!
こうしてみると信玄は機動で完全に勝ってますね。まるでヨーロッパの名将のよう。
三段撃ちはヨーロッパでもまだ後の世まで出てこないと云う。
もし信玄があと5年長く生きてたら京まで辿り着いて勝頼に家督を譲って…て事になったかも
@@赤井雷 流石にムリッショ、織田との兵力が違いすぎる。
@y o 信玄があの時期で死なず西上作戦続けられたら義昭の挙兵はいいタイミングになれたと思われるし
@@赤井雷
信玄があと5年も生きていたら、信長勢力のは都から一掃されたと思います。
足利将軍を盛り立てて、室町幕府はしばらく命脈を保ったことでしょう。
始めて観ました。ブラボー!!!素晴らしい!!!
三増峠の戦いも見たいです。
とうじの織田軍は北と西に主力を置いて浅井朝倉や摂津とかに対応していて、東方の強軍武田軍に対抗する余裕など無い状態だった。
織田信長としては、何としても徳川軍に籠城などで時間稼ぎして貰いたかったが、まだ若かった家康に戦い上手の信玄に対抗出来る程の力量は持ち合わせていなかった。
ただ、三河兵が強兵の部類に入っていたので這々の体で城に逃げ込む事が出来たのだけが、不幸中の幸いだった。
兵の士気でしょうな
ユキムラさんは武田騎馬軍団の威力で解説してましたが、実際は騎馬隊なんてのはイメージだけで、本質は士気の違いだけだと思います
信玄に信長を倒させたい、信玄を何れは将軍にしたい と思う兵か、はたまた家康に遠江や三河を守って欲しいと思うだけの兵か
どちらの兵に国主への思いがよりあるか、ロマンがあるか そりゃ信玄です
その一人ひとりのバイタリティが、最強騎馬軍団という名で後世に残したのでしょうな
ぶっちゃけ、信玄生きてて進軍しても朝倉が引っ込んでる限り岐阜城に篭もられたら信玄に勝ち目なくないですかね
@@ヤード-u2w 信長が岐阜城で籠った戦をしてないからどうだろうか。
信玄が生きてても野戦をしてたかも知れない。
@@tikokun
西上作戦続けられて岐阜で決戦となれば尾張取られてるだろうから
援軍の見込みのない籠城は無意味と野戦せざるをえなかっただろうけど
史実武田が敗走した設楽原でも織徳連合軍は「野戦」でかなりの損害負ったから
信玄指揮の武田軍と信長が野戦したら武田勝利に終わった可能性は大いにありえたかも
@@takazaki1824
このほぼ同時期信長は近江越前まで支配していた(年だけでみたらね)
しかもこの戦いは遠江での戦、いくら信玄の軍でもしばらくは落とすのに時間がかかる。
一方で尾張まで自領土の信長は信玄の3倍の兵集められるし、障害がない以上行軍スピードは信玄より早い。
さて、野戦になれば、ほぼ間違いなく信長が勝つ。
だから尾張は落ちない。
そして、設楽原の戦いでの兵力差は2倍以上ある。
いくら信玄が率いようとも勝てるわけがない。
残念だけど、信玄が勝てる道は単独では無い
徳川軍惨敗だったけど、
酒井忠次隊が小山田信茂隊を、
本多忠勝隊が山県昌景隊を撃退してるのはすごいと思う
武田軍は次々とあら手が繰り出す魚鱗の陣だったので、小山田信茂隊も山県昌景隊もそんなに本気モードではないはずなので別に撃退?されたからと言って徳川勢が凄いなんて事は全然ない。徳川勢なんて武田軍からしたら雑魚中の雑魚。
@@佐藤h-n3l
だから何?
とっても面白い!!
これからも楽しみに待ってます😁
登録者数2万に迫る勢いですね!
おめでとうございます(^ω^)
視聴者さんのコメントも増えましたね
次の動画も楽しみにしてます👍✨
家康あと少しだった(笑)
さくらさん、いつも応援ありがとうございます^^
間もなく2万… 少し前のこのチャンネルには考えられなかった数字ですね笑
これからも初心を忘れず、自分が見ていいと思う動画、見た方が楽しめる動画作りに専念してまいります! 応援お願いします^^
わかりやすく面白い!
ここで家康が逃げ延びたのは奇跡だな。討ち取られていたら、当然歴史は大きく変わっていただろう。
この戦い好きだわぁ
馬場美濃守VS本多平八郎なんて胸熱ですな。。。
この戦いで家康が籠城や寝返りをせず、命を懸けて信玄との決戦を選んだことによって、信長の家康に対する信頼は盤石なものとなった。若気の至りではあったが、この時の家康の勇気と信長に対する命もいとわない固い信義は、のちに天下を納める人物らしい大器の片りんを見せることとなった。
あまり注目されていないが、家康の2度の退却戦も見事で、三河兵の強兵ぶりが如実に示されている。並みの兵であれば家康自身が討ち死にしていてもおかしくないほどの危険な退却戦だった。
まだ20代の経験の浅い家康と、歴戦の名将信玄との間に戦われたこの戦いは戦国史の中でも数少ない名人戦の一つといっていいと思う。
惜しむらくは、進撃中の細く伸びた武田軍をたたく策はなかなかの策だったが、なにぶんこのような奇襲戦を成功させるには、緻密で正確な諜報網が不可欠であり、比較的少数の機動力のある兵力で敵に悟られないように動き急襲する必要があった。
おっしゃるように、家康はこの戦からこのことを学んだのだろう、のちの小牧長久手の戦いでは緻密な諜報網を駆使して秀吉の奇襲部隊を逆に奇襲し、完膚なきまでに叩き潰すことになった。この戦い(小牧長長久手)は「事実上の」天下分け目の戦いであり、まさに、この三方ヶ原で家康が得た教訓が彼に天下を取らせたといっても言い過ぎではない。
結果として負け戦になったけど、この時に出て行かなければ臆病者と見做され、その後の徳川方に付く部将は少なかったでしょうね。
あれ?家康ってこの時は信長から信玄にちょっかいだすな!って厳命されてたんじゃなかったっけ?
織田家も包囲網敷かれてジリ貧だから余裕なかったからさ、一旦やり過ごして(信玄が長くないという情報持ってたとか)くたばった後一気にやろうと思惑だったとか それで援軍もあまり出せなかったとかだったかな、
しかもいうこと聞かずに突っ込んでいってるから いうこと聞けないなら滅びようがどうなろうが知ったこっちゃないまで行ってたはず
後は空城の計も見事!もし浜松城を取られたら確実に徳川は終わってたね。
解説うますぎ。読んでるだけでワクワクしたよ
家康は兵隊を一杯失ったが、武田の騎馬軍団と知将も揃えた首脳陣と戦えたことが、経験値に反映されたんだわな。糞もらしても、最後に勝ったからね。
微妙に細部が違う部分がいくつかあると思いますが、全体的に分かりやすくてよかったです。
諸説ありますからね…^^;
ありがとうございます
本多の間違いは多めにみてやってください><
はじめまして。歴史好きなので興味深く拝見させていただきました。
チャンネル登録しました。これからもよろしくお願いします。
この戦いで不思議なのは
吉田城に向かわせた後に補給を断つ攻撃を徳川はなぜやらなかったんだろうと思う。
しかし真田は幸隆から信繁までみんな優秀すぎる;;
大正義武田🔥甲州兵強すぎんよ〜
分かりやすくて面白い♪♪さすがユキムラさん!
完成度が高すぎまするぞ(^^)
ありがとうございます^^
家康が人生で馬印を落としたのは2回。そのうちの1つがこの戦い。この戦いといい幸村の大坂夏の陣といい真田戦略はすごいですね〜
大阪夏の陣は毛利勝永が奮戦しましたからね
k t 毛利勝永は言わずと知れた功労者ですからね。なんなら、夏の陣で幸村以上に奮戦してますよね。
@@futurhope7500 確かにです!
FUTUR HOPE 毛利勝永の最後の突撃は凄いですよね、徳川方たくさん討ち取られてるし
あちちあちち 本多忠勝二世の忠朝を討ち取ったとか反則級の強さですよね。
徳川家康が無能だったわけじゃなくて武田信玄が凄すぎた戦い
追記:ここまで論争になるとは思わんかった
相手が悪すぎた
岐阜城攻略が目的なのに本隊が東三河、北遠江でうろうろ、この戦いの武田軍は戦術的勝利を重ねただけで戦略的には完全敗北じゃないの。
@@mishimaensis2109 つまり何が言いたいんですか?
@@毎日が主役-b5e 西上作戦(三方ヶ原の戦い、等)を指揮した時の信玄は、戦術的勝利にこだわり戦略的勝利を失った無能と言って良い最高司令官。
@@mishimaensis2109 ご返信ありがとうございます。なるほど。
まあ信長も家康も武田信玄と上杉謙信には敵わないから仕方ない
健康な武田信玄と上杉謙信が手を組んで信長、秀吉、家康を軽々と退治する姿が見たかった
双方が激しく争ってるのがねぇ
謙信からしたら川中島合戦は春日山防衛の観点から必要だったが
信玄からしたらしつこい奴って気持ちだったのかも
信玄からすれば、南にも東にも行けないから信濃に出るしかない。
しかも川中島周辺は豊かな土地で、善通寺から上がる金はぜひ手に入れたい。
軍を維持するためには確保しておかないといけない土地だった。
信長や秀吉は確実に勝てる状況にして勝とうとするのに対して信玄や特に謙信はその場での策で相手に勝とうとしてる気がする
でもこの2人はほんとにロマンあるな〜協力とかするんじゃなくて生涯ライバルっていうのがあついよなあ。
個人的には、この戦いが一番魅力的ですね
ふむ、開戦時間が遅くて
徳川にとって少しだけ幸運でしたね
さらに信玄が病に倒れた事も合戦での武田の勝利、徳川の損害以上に
大きいですね。
まあ当事者はその時の最良と思われる手を打っていただけですけどね。
武田信玄公は同じ家紋のものとしてすごく尊敬しています。
@@不老不死のフリーザ-l5w うるさい
俺も伊達家の家紋だけど。ちな中学生です。
@@Ho-ou5df いらん情報で草
@@Takeda-Singen. あ、御館様いる。先祖に書状ありがとうございます。((あと甲州征伐の時に徳川に寝返ってごめんちょ
家康は2回負けていたのか!知らなかった。家康の身代わりで散った夏目吉信はのちの夏目漱石の祖先。忠義の士として有名ですね。三河軍負けてなお強し!出来れば忠勝はもっと太い声にして欲しかったw
開幕のドラムがカッコイイ。戦意高揚する
16:05 王道=笑いは反復させる
のぶながの判子がかわゆい👍️
なの
がぶ
@_@w
本多忠勝格好いいな
本多でも、平八郎の名前をもらった、忠刻は、千姫という非業の姫をもらいうけてね。千姫としては二人目の旦那も死んでしまったんだわな・・・。
足利義昭大喜びとか言ってるが、もし武田が上洛成功して畿内押さえたとしたら足利将軍家を立て続けるだろうか? 結局信長の時と同じになるのでは。
そうなるでしょうね。
義昭にそこまでの考えがあったようにも思えないけどね
まぁ武田も源氏の名門だし秀吉に将軍職譲るよりは我慢できたかも
面白い。とにかく面白い。
本田と本多は戦国時代迄はどっち使っても良かったのです。
本多忠勝も、本田と本多を使い分けてたそうです。
信玄にとって勘助はどういう存在だったんだろうか?
軍師として相当頼れる人物だったんだろうか。。
頼れる存在だったと思う。勘助が築いた海津城のおかけで越後の竜が中々攻め込めなかったからね。風林火山懐かしいなぁ…
勘助の啄木鳥戦法は謙信に見抜かれてしまったけど信玄も唸るほどにできの良い策だったとか。
毎回面白い!
誰よりも武田信玄の強さと怖さを知ってる織田信長は、外交で武田信玄に屈して絶対に戦う事を避けてました。
その後の長篠の合戦で柵と壕で武田騎馬隊の進撃を食い止め、そこで鉄砲を三段で分けて順番に打ち掛けて倒しましたが、まともに戦ったら勝てないと知ってる信長の戦術の勝利になりましたが、しかし、武田信玄が生きて居たら大勝利とは行かなかったと思いますね。
家臣団の意見も聞かず突撃だけを繰り返させた勝頼だから勝てたのかも知れませんね。
まぁ信長と家康を纏めて討ちとれるチャンス到来と見れば攻撃したくもなろう
すごくおもしろかった
数少ない家康の負け戦だがまなんだことのほうが多かったことがよく分かったです
本多隊と馬場隊とかいう激アツシーン
この時点では,家康は信玄の足元にも及ばない.
でも,この二十数年後には,家康は石田三成を圧倒する.奥深い戦いですね.
信玄とかに負けたからこそすごい人になったのかもねそれにしても家康って武田の人間にとことんやられてるな…信玄、真田昌幸、信繁…武田トラウマになりそうw
徳川家康もなんだかんだ信玄以外に負けたことがない戦の達人だからね。 戦の仕方を教えてくれた信玄に感謝やなw
@@がちでヤバメヤン
家康をボコった方が有名人が多いから目立ちますね
徳川を助けた人も沢山
●大久保長安、依田信蕃、信玄の娘の見性院&信松尼(→保科正之)とか
●最近見直されている、柳沢吉保や荻原重秀とか
●八王子千人同心とか
(保科正之と大久保長安以外は甲斐源氏で千人同心も甲斐源氏が多い)
岐阜は守るには非常に難しい城だったようで【水に問題があった】信長は野戦するしかなかったと思われる
さすが退き佐久間・・・
これが原因の一つとして後に
信長様に追放されるとはね
退き佐久間では
失礼しました
ありがとうございます😊
めっちゃ面白いチャンネル見つけてしまった!
信玄の戦い方うまいなあ。
先の先を読めてる。
確か、三方ヶ原が家康の馬印倒された唯一の戦で、それが信玄。
その家臣であった。真田幸隆の息子の武藤喜兵衛後の昌幸(上2人の兄は長篠で戦死)は上田で2度も徳川撃破し、さらにその息子の信繁も真田丸で徳川撃破。夏の陣でも特攻でこの戦い以来の馬印破壊。家康も自害を覚悟するという…
武田は勝頼ですぐに潰れたけど、家康をここまで苦しめたのは信玄と真田親子。
本当に戦上手というか…策が優れてるというかまぁ、凄いな。
長文失礼。
@@kaka2329 信綱と昌輝が長篠で生き残ってたらどうなってたんだろう。
@@ミスト-y2f まず、川中島で戦死した信玄弟の信繁と、勘助。そして、信綱と昌輝が生きてれば…ある意味信長も家康もこんなに早く武田を潰す事は出来なかったかな。他にも山縣とか24将とかもね。武田家滅亡時は信玄から仕官してた木曾や穴山、小山田といった古参も裏切らなかっただろうし、見切りもつけてなかっただろう。昌幸と幸隆の弟だけだったから…武田家も滅亡しないで、秀吉政権の大大名になれたのかも…歴史にもしもはないけど…
でも、そうだったら真田家を守る為に信長の死後、上杉→北条→徳川→また北条と君主を変えて、何とか生き残り。秀吉からは領土を安堵され、昌幸長男信之がこちらも戦国最強本多平八郎の娘と政略婚ができて、家康も手を出せず…徳川相手に上田でわずか2000の寡戦で8000の徳川を撃破し更には関ヶ原の秀忠30000という大軍で寡占で2度も破り、関ヶ原に参戦できなかった知将昌幸や、日の本一といわれた大坂の陣で息子の信繁、そして信濃の大名になった信之がいなかったかもね。
長文失礼しました。
@@kaka2329 昌幸は「徳川の天敵」ですからね。
@@ミスト-y2f 徳川家康が手本としてるのが「武田信玄」
一方で、2度も昌幸に負けて、息子にも真田丸で負ける。
武田家とその家臣だった縁ある将に唯一の敗北と言ってもいい天敵の安房守。そして、そしてドラマや大河で2度も草刈正雄さんが演じた昌幸と信繁。
家康演じた内野さん(大河で勘助をしてましたが)「また真田か!!!」の連呼が面白かったです。
またまた、長文すみません。
当時の武田領は、3国+西上野+飛騨半国+侵略中の遠江、三河。
しかし、西上作戦で家康を無視して進軍した場合、甲斐信濃が家康に奪われるリスクもあったので、どのみち西上作戦を成功させるのは厳しいんじゃないかな、と思います。むしろ信長はそれを期待していたから、絶対に出るなと言っておいたんじゃないかと思いますね。
大軍スルーして甲斐信濃に行ったら挟み撃ちくらう上に100%撤退出来なくて爆笑ものの結末迎えちゃうよ。
むしろ逆に織田領まで引き込んだ時に徳川に武田の後ろを突いて欲しかったんだと思いますよ。
東美濃ルートの武田軍も含めて一大決戦になったはずです。
ダチョウさんがいたり、シノビがやたらチャラいとか、面白いです。
もちろん武士は命のやりとりをしていて、決して笑いごとでないんですが、
細かいネタ振りがクスって笑えます。
家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八。
真田信綱がお笑い系になりそうで焦った(笑)
個人的には真田氏の最高傑作は信綱
俺は幸村かな〜。
「のう、勘助・・・なぜ誰も突っ込まぬ!」
信玄公がすでにお笑い系になってますが。
素晴らしい解説👍👍👍‼️
中々名前が出てこない我が家のご先祖さまの名前が出ておる!なんと誉な事か!ありがたい!
ユキムラさん、お疲れ様です!さすが、うつけ、っと言われた武将ですね、織田信長の読みは、アッパレですねぇ、でも、あそこで動いて、負けて、撤退したからこそ、のちに、天下を統一する、徳川家康になるのですねぇ、そういえば、ユキムラさん、真田幸村はありましたか?自分は武田信玄と真田幸村が大好きなのですが、真田十勇士は何度も読みましたよ!ぜひ、いつかは真田幸村をやってくださいヨwww!
あにぃさん、幸村は何れはやりますよ〜 でもそれ以外にやりたい合戦が山ほど笑
なるべく大河ドラマにも合わせながら、ドラマの前情報的にアップできればいいのかなぁと思ってます
麒麟に幸村が出るのなら… 本能寺の頃は真田家は織田の傘下
幸村は15歳くらいだから、ひょっとしたら織田への人質として安土城にいたかも笑
三方ヶ原の戦いでは、武田軍2万5千対徳川軍8千+織田援軍3千の計1万1千の戦いだったというのが通説ですが、実際は織田の援軍は万単位だったとも言われています。そうだったとしたら、武田軍の数的優位がなかったとも考えられ、それでも織田徳川連合軍をフルボッコにした信玄の孫子の兵法をもとにした傭兵の妙や武田兵の強さが際立っていたのだと思われます。ついでに織田信長を倒す確実な方法は、南から武田信玄、北から上杉謙信が攻めて挟み撃ちにするのが1番堅い戦法だったのではないかと思えてなりません。
24:00
たぶん本多の通り名を間違って入れてるだけだと思うが、ただのモブが豪将になってて草
豪勇 足軽兵w
陣形も数も不利なのに最初互角なのは強すぎ!!
どんないくさでも最初は互角なのは当たり前、強すぎでもなんでもない。徳川勢なんて全然強くない。
@@佐藤h-n3l まあ、確かに
家康。。
ちゃんと息子を愛していたのね。。。
「出たら負け」でも、相手の策や戦況により「出なきゃならない状況に陥る」ことがあるのね。あながち「何で人の言うこと聞かないかね」で済ませることはできない。
そういう状況作った信玄が上手だった
家康には戦略面ではこれといった家臣が居ないのでこれを境に大きく自信が成長したように思う
本多正信とかは違うんですか?
正信は策略家ですが戦略戦術眼は関ケ原での行動を見るにその辺は普通な感じがいたします。
@@dekoponP なるほどー。戦の作戦と言うよりは、調略や内政系ってことですね
@@微分サークル-c8j ですねえ!たしか司馬先生の関ケ原だったと思うんですがあれだけ智謀が冴えわたる正信がこと戦となるとまったく当てにならない発言になるのを家康が残念がるシーンがありましたね。
@@dekoponP あー、やはり歴史好きは司馬遼太郎先生通るんですね笑笑
関ヶ原の映画も見ました。笑
残念ながら私はそのシーンを見てませんが、、
そう考えると家康より先に秀吉が天下を取る事が出来たのは官兵衛など、秀吉には軍師がいたのが大きいのかもしれませんねー
殿(しんがり)務めて
無傷で生還とか平八郎殿
チートすぎる…
頭がね
直接戦う訳では無いから
ぜひ長篠の戦い、もよろしくお願いします!
日本の戦国武将の戦いは武将同士のぶつかり合いで、おしなべてロマンを感じつつなぞっていけますね。同じ中世でも欧州やアジア大陸における戦いは、異民族同士だったり宗教戦争の色合いが強いので敵方を民衆もろとも殲滅することが多い。
本多忠勝バケモノすぎる
親方様の病死‥家臣としてありがたい歴史でした。
騎馬軍団というのは幕末西洋式を導入するまでありません。
馬に乗れるのは身分の高い者しかなく、周りをその従者が付き従う形。