池田先生ご指導 学生部夏期講習会1987年7月21日

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  • เผยแพร่เมื่อ 12 ก.ย. 2024

ความคิดเห็น • 20

  • @岡本淳一
    @岡本淳一 16 วันที่ผ่านมา +6

    池田大作先生誠にご苦労様でした!報恩感謝申し上げます❗️ありがとうございました❗️

    • @岡本淳一
      @岡本淳一 9 วันที่ผ่านมา

      皆さん1会員にありがとうございます❗️ただ池田大作先生がご存命の時に創価班に在職していた事が一番の宝です❗️他にも色々ありますけど❗️池田大作先生誠にご苦労様です❗️本当にありがとうございました❗️言い切れな感謝もう上げます❗️m(_ _)m

  • @くろみ-c9v
    @くろみ-c9v 11 วันที่ผ่านมา +2

    先生の素晴らしいご指導、たくさんありがとうございます💚
    命が生き返りました✨
    先生のおっしゃることは、先生だけは寸分の間違いもなく正しい!
    先生だけは信じます!🍀
    ありがとうございます❤

  • @user-qb3fg7ww7h
    @user-qb3fg7ww7h 19 วันที่ผ่านมา +4

    池田先生の話は、全部、聞きたいです。素晴らしい、他の方にも、聞いてもらいたいです。

  • @user-ow6pt5hb9c
    @user-ow6pt5hb9c 28 วันที่ผ่านมา +4

    先生の生の声を久々に聴かせて頂きました。まるで今でもお元気でいらっしゃるように思えてなりません。
    池田先生、牧口先生や戸田先生ときっと和やかにお話しをしていらっしゃるかと思います。

  • @NORIKOUEDA-gx3vg
    @NORIKOUEDA-gx3vg 8 วันที่ผ่านมา

    池田先生のあらゆる側面をお話しくださり、有り難うございます。
    池田先生程偉大な方は、他にいらしゃいません。
    素晴らしいお話を聞かせて頂きありがとう御座います。

  • @Nichiren-0216
    @Nichiren-0216  หลายเดือนก่อน +5

    伝統の夏季講習会に、はるばる全国から代表が集まってこられ、心からご苦労さまと申し上げたい。どうか二泊三日という短い期間であるが、将来の大いなる成長への飛躍台となったといえる有意義な講習会であっていただきたい。
     本日はナポレオンの史実を通し少々お話ししたい。ナポレオンについては、二十二、三歳の若い時代に、伝記など多くの書物をひもといては、いろいろなことを学んだことが今は懐かしい。そのときの記憶に基づいて、メモを用意したため、記憶違いや飛躍もあるかもしれないが、未来の偉大なる広布後継のリーダーと期待する諸君の何らかの参考になれば幸いである。
    私は五月下旬、ソ連を訪問した。四回目となった今回の訪問では、気候も冬が返ってきたのではと思わせるような寒さで、雨の日も多かった。しかし、訪問四日目の五月二十七日には、前日までの雨もあがり「五月のモスクワ」は、陽光に輝いた。
     この日、私は高等中等専門教育省の訪問を終え、モスクワ大学に向かった。その途中、時間の余裕もあったので、ボロジノ・パノラマ博物館を見学した。この博物館は、そばにある凱旋門とともに、ナポレオンのモスクワ遠征を退けた、ロシア民衆の勝利の歴史をとどめるものである。
     博物館での圧巻は、ロシア軍とナポレオン軍とで戦われた「ボロジノの戦い」の戦闘風景を、そのまま再現した巨大なパノラマ画である。このパノラマ画は、なんと縦十五メートル、横百十五メートルという壮観なものであった。
    「ボロジノの戦い」とは、一八一二年九月七日、モスクワの西百二十四キロにあるボロジノという村で行われた、ナポレオン軍とロシア軍との戦いである。そのときナポレオン軍十三万五千、ロシア軍は十二万であった。
     ナポレオンは、一生のうち、六十回もの戦いをしている。その中でこの「ボロジノの戦い」は、彼をして″生涯最大の戦闘″と言わしめるほど苛烈
    かれつ
    なものであった。犠牲者は、一説によればナポレオン軍三万、ロシア軍三万五千といわれる。
     この戦いは、双方とも「我が軍勝利」としているが、実際には、勝敗はつかなかった。ただ、この戦いで、ナポレオン軍の″無敵″の神話は崩れたといってよい。ともかく、祖国を守ろうとするロシア軍の士気は高かった。トルストイの名作『戦争と平和』で述べられた「戦いは勝つとかたく決意したほうが勝つのだ」(米川正夫訳、岩波文庫)との一文は、この「ボロジノの戦い」に臨んだロシア人の心意気でもあった。

    • @Nichiren-0216
      @Nichiren-0216  หลายเดือนก่อน

      「ボロジノの戦い」のあと、クツーゾフ将軍の率いるロシア軍は、撤退する。そして、最後の勝利を得るために、クツーゾフ将軍は、モスクワを開け渡すという、大胆な作戦をとる。
       ナポレオン軍はロシア軍の撤退した翌日、モスクワに入る。しかし住民のほとんどはロシア軍とともに疎開。その日の夜から大火が起こり、モスクワは焦土と化す。その後、一カ月余、ナポレオン軍はなすすべもなくモスクワに滞在する。しかし、迫りくる飢えと冬将軍(寒さ)に、さすがのナポレオンもいかんともできず、ついに、モスクワから退却する。
       今や後退に後退を続けるナポレオン軍。だがクツーゾフ将軍に率いられたロシア軍の追撃、さらに飢えと寒さのため、壊滅的敗北をきし、パリに帰還した兵は、わずか二万ないし三万といわれている。
      御書にも「師子王は前三後一と申して・あり

      の子を取らんとするにも又たけ

      きものを取らんとする時も・いきをひ

      を出す事は・ただをな

      じき事なり」と仰せである。
       戦いは、ただ前へ前へと進んでいけばよいというものではない。一歩退くことも必要な場合がある。一歩退きながらも全力を尽くして事に当たっていくことが大事なのである。この「前三後一」の方程式は、人生にあっても同じである。
       最後の最後の勝利が本当の勝利である。途中にいくら勝利があったとしても、それが最後の勝利へと結実していかなければ何の意味もない。次代の広布のリーダーとなりゆく諸君は、人生と社会において、「前三後一」の在り方を、よくよくわきまえていただきたい。
      ところで「ボロジノの戦い」は、九月七日の夜明けから夕方まで十五時間に及んだ。パノラマ館では、その中でも最も戦闘の激しかった正午過ぎ、十二時三十分の瞬間をそのまま再現している。
       パノラマの舞台は、陽光のふりそそぐロシアの黄金の秋である。空は抜けるように青く、地平線の彼方まで広がる緑野には森が点在し、一輪草も見えかくれする。川は音を立てて清洌
      せいれつ
      に流れている。そののどかな自然の中に、二十五万もの人間達の修羅の戦場が、壮大な絵巻として、絵と模型を使って克明に描かれていた。
       日本にも源平の戦いを描いた絵もある。関ケ原の戦いの絵もある。しかし、文化的価値は別にして、その壮大さと迫真性においては比較にならない。
       私は、このパノラマを見ながら、しみじみと思った。学会の広宣流布の活動は、人類の平和と幸福のための無血の大民衆運動である。これほど崇高な運動はない。この広宣流布への先駆として活躍してきた尊い庶民の歴史を、写真や絵によって、誤りなく後世に残し伝えていきたいと思う昨今である。将来、この構想を、諸君達の協力も得て、必ずや実現していきたいと念願している。

    • @Nichiren-0216
      @Nichiren-0216  หลายเดือนก่อน

      このパノラマの作者は、ロシアの芸術家フランツ・ルボ(一八五六年〜一九二八年)である。彼は自らの芸術のすべてをロシア史に捧げた。ルボは三つのパノラマを描いたといわれる。そのうち一つは、現在、残っていない。もう一つは、クリミア戦争(一八五三年〜五六年)のさい、約一年にもわたる包囲攻撃に耐え抜いたセバストポリ(黒海の海港都市)の戦いを描いたものである。
       そして三番目が、この「ボロジノの戦い」であり、彼の作品中、最高傑作とされている。
       ルボは「ボロジノの戦い」のパノラマを、五人の弟子とともに二年の歳月をかけて、ボロジノ会戦百周年にあたる一九一二年に完成させた。その後、保存状態が良くなかったこともあり、かなり傷んでしまった。そこでボロジノ会戦百五十周年にあたる一九六二年に、大がかりな修復作業が行われ″第二の誕生″をみて、今日にいたっている。
       かつて、かのロシア軍の総司令官・クツーゾフ将軍は、ボロジノの戦いの折、兵士達に次のように呼びかけた。
       「あなたがたが成し遂げた偉業と功績は消えてしまうことはないであう。子孫が記憶にとどめるであろう。あなたがたは、自らの血をもって祖国を救った……」と。
       まさに、この言葉通り、子孫達は彼らの歴史をとどめ後世に語りついだ。
      昭和三十年(一九五五年)五月一日、六千人の女子青年部総登山が行われた。そのさい戸田先生は、降りしきる雨の中、次のように語り、励ましておられる。
       「広宣流布の日まで、夫に、子供に、妙法華経の功徳をうえつけていくことは、あなた方の一生の名誉であると思います。
       きょうの六千人の結集も、歴史の一ページとなって、夫に語り、わが子に語れる資格を得られたことは、あなた方の名誉と信じます。かならずや、広宣流布達成に邁進して、一生涯の幸福を得られることを信ずるものであります」(『戸田城聖全集 第四巻』)と。
       諸君が、こうして夏季講習会に集まったことも、また広布のために尽くしている日々の活動も、すべて偉大なる歴史の一ページを金文字で、つづっているといってよいだろう。
       とかく自分の快楽や利益のために走りがちなのが現代の風潮である。その中にあって、仏法の研さんに励み、自身を磨き深めながら、社会貢献の運動を進めている学徒の集いが他のどこにあろうか。その意味で、諸君は、他のものには代えがたい崇高な人生の道を歩んでいることに誇りと誉れを忘れないでいただきたい。

    • @Nichiren-0216
      @Nichiren-0216  หลายเดือนก่อน

      さて、話はもどるが、ナポレオンを撃退したロシアのクツーゾフ将軍は、実に多くの人々から慕われている。だが、ロシア皇帝アレクサンドル一世からは、どういうわけかうとんじられた。一八〇二年には、クツーゾフ将軍はいったん退任させられる。
       また一八〇五年、当時のオーストリアのアウステルリッツで、司令官として派遣されたクツーゾフはナポレオンに敗れる。しかしその背景には、皇帝アレクサンドルの命令のため、クツーゾフが自らの考えた通りに指揮をとることができなかったという事情があった。この敗北の責任をとらされ、クツーゾフはそれから六年間も冷遇されたのである。ともあれ、皇帝はこの人望のあった将軍に好意をもたなかった。
      このことから考えられることは、指導者は、その人の本質を誤りなく見抜く力をもたなくてはいけない。また決して、好きいの感情やジェラシー(嫉妬)で、あるいは置かれた立場や境遇という外面的なことで人を見たり、判断してはならないことである。
       さらに、クツーゾフを皇帝が嫌ったように、現在でも″信仰しているから″といって毛嫌らいする人がいる。″信心しているから登用したくない″とか″信心しているから好きになれない″と感情的に考え、受け入れない人もいる。
       しかし、正法を受持し、正しき人生の道を歩んでいるのが私どもである。また社会や職場にあっても、その繁栄と幸福のために真心から努力している。長い目でみていくとき、何か困難なことが起こったときには、必ず頼りにされ、最も任される存在となっている例は枚挙にいとまがない。これは諸君もよくご存じの通りである。また、そういう時こそ、御本尊の功徳力、諸天の加護を深く確信すべきである。
      ところで一八一二年、ナポレオンがロシアに侵入、かってない苦境に立たされても、皇帝はクツーゾフを起用しようとしなかった。しかしロシア軍が後退につぐ後退の戦況に陥り、ナポレオン軍がモスクワに迫ろうとするに及んで、やむなくクツーゾフを総司令官に任命せざるをえなかった。トルストイは、それを″ロシアの国民的感情をもたらした″としている。
       待望のクツーゾフの到着は軍隊内に新しい信頼を呼びさまし、士気がいっきに高まった。そして「ボロジノの戦い」へと向かう。
       一法、クツーゾフが新しくロシア軍の総司令官になったことを聞いたナポレオンは、大いに喜んだと伝えられる。アウステルリッツの戦闘で、自ら戦い、勝った相手だったからである。しかし、ナポレオンもクツーゾフの精神性は一応は評価していた。ただ、将軍としての指揮能力を″無能″と甘くみていた。ここにもナポレオンの″慢心″と″油断″があった。
       ナポレオンの一念に顔をのぞかせていた″慢心″と″油断″。一方″祖国を断じて守り抜く″との強い一念に貫かれていたクツーゾフ。この一念の相違のなかに、その勝敗の帰趨は明らかであったといえよう。

    • @Nichiren-0216
      @Nichiren-0216  หลายเดือนก่อน +1

      クツーゾフは、宮廷では「馬にも乗れなければ、会議の席でもいねむりばかりしている」(前掲、米川正夫訳)などと批判されていた。にもかかわらず、広く民衆から信頼された理由は何か。トルストイは、クツーゾフは教養があって「フランスの諺
      ことわざ
      を使ったりするにもかかわらず、どこまでもロシア人であったからである」(同前)としている。
       指導者は上層の人達や幹部のみの評価で決まるものではない。どこまでも民衆から広く信頼されているかどうかが大事である。学会にあっても、″あの人と一緒なら″″あの人のためなら″と、会員の人々から慕われ、信頼されるようなリーダーでなければならない。また、たとえ表面的な姿はどうであっても、生命の奥底には″広布に生き抜く″″地涌の勇者の使命に生きる″との決定した一念をもった人がもっとも立派な人材なのである。
       トルストイは、このクツーゾフを決して特別な英雄として見てはいない。『戦争と平和』では、人間味にあふれた老将として共感を込めて描いている。
       また、ナポレオンが歴史を自らの意志で動かしているつもりでいて、結局、歴史に押しつぶされた。これに対比させながら、クツーゾフが大きな歴史の流れをよく理解し、退

      くべきときには退き、忍耐強く「時」をつくりつつ行動したことをトルストイは評価している
      自己を深め磨き、時を待て
       ボロジノ・パノラマの作者であるルボは、先程も申し上げた通り、戦場全体のありさまを見事に再現した。とともに一人一人の兵士の英雄的精神、不屈の根性、粘り強さ、大胆さ、勇気を丹念に描き表している。
       ただし彼は、ロシア兵とフランス兵の一騎打ちの場面をほとんど描いていない。それはなぜか。理由を問われて彼は次のように答えたといわれる。
       「戦場の兵士は全員がヒーロー(英雄)なのだから」と。つまり″全員が平等にヒーローなのであり、特別な個人だけをたたえるために、一騎討ちの場面をことさら描く必要はない″というのである。
       学会においても同様である。広布の組織の第一線で活躍し、弘教に励んでおられる方々は、壮年・婦人であれ、女子部であれ、男子部、学生部であれ全員が信心の「英雄」である。そこに何ら差はない。
       組織という側面から見た場合、役職などの責任の別があるのは当然だが、法戦にあっては全員が広布の勇者であり、妙法の英雄である。
      かつて戸田先生は分かりやすく「人の偉さ」について語られたことがあった。
       それは「人の偉さについていえば、多くの人の前で号令・命令するのが偉いのではない。自分は陰にいて、人を立てることのできる人が偉いのだ」という指導である。私は参謀室長であった頃も、その通りに実践してきた。その人物が果たして本物であるかどうかは、これができるかどうかで決まるといってよい。
       さらに戸田先生は「学会でいえば支部長、地区部長、班長が人を動かすのは簡単である。一班員が自己の意見で、支部長を心から動かしていける人こそ偉いのだ。力がある、というものだ」と言われた。この言葉は千釣の重みのある指導として、私の心の中に深く刻まれている。
       人間の偉さは、立場や役職だけで決まるものではない。それらすべての飾りを取り払って、その人自身がどれほどの力、人間性をもっているかである。ゆえに諸君はこの青春時代に、何よりも実像の自分自身を深め、磨くことを第一義としていただきたい。

    • @Nichiren-0216
      @Nichiren-0216  หลายเดือนก่อน

      このボロジノの戦いにおける両軍の指揮者の年齢は、ナポレオンが四十三歳、クツーゾフが六十七歳であった。クツーゾフはその翌年に病没している。
       老将・クツーゾフは、百戦錬磨の経歴の持ち主であり、かつ多くの外国語にも通じた教養ある人物でもあった。知力に富み、強い忍耐力を備えた名将であった。その鍛えぬかれた姿は、学会の世界でいえば指導部の皆様方にあたるといえよう。
       深き信心の人、人格者、真心から後輩のめんどうをみていける人、それぞれの立場で強い責任感をもち、力を磨いていく人――こうした人は、学会の世界にあっても、また社会にあっても周囲から慕われ、信頼される。また、たとえ一時の不遇があっても、長い目で見た時には、おのずと力を最高に発揮していけるものである。
       特にクツーゾフは、数々の戦いの積み重ねのなかで、単なる戦術だけではなく、己の人格そのものを鍛えあげてきたのであろう。ここに意味がある。たとえ百戦錬磨の名将であっても、一戦一戦の積み重ねの中で、確固とした信念・哲学を培い、自分自身の一念を鍛えゆく作業がなければ、いつかは敗れ去っていく。
       クツーゾフは戦いぶりにも、深き人生と経験の年輪の輝きがにじみ出ていた。彼は常に「時」が自身に味方することを信じた。この折の作戦でも、敵の消耗を待つという戦術を選んだ。
       果たしてその後の事態は、彼の信じた通りの結果となった。ご存じのようにナポレオン軍は、ロシアの″冬将軍″の厳しさに直面し、自滅の道を歩んでいった。
       トルストイは『戦争と平和』の中で、クツーゾフをしてその哲学を次のように語らせている。老いたるクツーゾフが青年に対して語りかける。
       「忍耐と時――この二者にまさる勇士はない」(同前)と。
       そしてその言葉通り、「時」を待ち、「時」をつくりゆく「忍耐」の力を発揮することによって、彼は強大な敵のカベを破り、勝利を収めた。
       これに対し、ナポレオンは、和平交渉をもっと早めに切り上げ、冬が来る前に引き揚げていればよかった。しかし彼には、かつての迅速な判断と対応がみられなかった。慢心にとらわれ、退くべき時には退くという「時」と「忍耐」の大切さを忘れていた。
       私自身もこれまで、広布への前進の中で、ありとあらゆる迫害を一身に受けてきた。そのすべてに打ち勝ち、乗り越えてこれたのも「忍耐」と「時」の力を絶対に忘れなかったからである。これから長い人生にあって、諸君が真実の最後の勝利者となりゆくために私はこの一点を強く訴えておきたい。
      苦難が引き出した民衆の潜在力
       さて、ナポレオンのロシア遠征は、大失敗に終わった。その敗因についてはさまざまに分析されている。私は次の二点に注目したい。