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本日もありがとうございました。今日、バイト中、宅配の配達員の方をこちらの不手際で待たせてしまい、本来こちらが悪いのに、相手の態度にイラついてしまった、自分がいました。肝心なとこで忍辱を忘れてしまったという事実に深く反省しようと思いました。これから布施、忍辱、智恵を忘れず、行動、言動は気をつけたいと思いました。本当にありがとうございました。まだまだこれからです。
菊谷先生のお話により、以前よりも随分と心が平穏でいられます。親鸞聖人さまの教えが、時代を超えて多くの方々の心に平穏を与え続けてる...感謝と感動です。有難うございます。
数日前東京の御岳山の山頂に御岳神社があるのですが、亡くなった2人が必ず天国へいけるように、お祈りしてきたばかりです。神社前でもやはり泣いてしまい、マスクで隠しました。つらいです。
何になるかより何をやるかですね。確かに言われてみたら2024年4月28日(日曜日☀17時22分)何かをやるかの方が切っ掛けが早いと思いました。考え方もカッコいいと感じますね。これからの行いが大事な志しが仏教の教えですね、私も納得できる考え方だと思いました。菊谷先生、本日も貴重な大切なお話をありがとう御座いました🙏
菊谷さん。先ほど投稿した者です。リアクションありがとうございます。もちろんいつも拝聴しています。今回、
仕事中に涙が止まらなくなったり電車の中でも同様。いきる意味をまさに考えています。自分自身の乗り越えかた、若くして死を迎えるこの理不尽なことにどう対処、向き合うか、などざっくばらんに動画をお願い申し上げます。
たとえ過去に悪業を犯しても、反省し絶えず善徳を積むならば、その人は雲間を離れた月明かりのように、この世を照らす。これもお釈迦様の言葉ですが、過去の失敗や過失があっても、これからの行いによって人はまたやり直せることを、仏教は教えてくれます。
まったくその通りだと思います。仏教はすばらしい教えですね。あらためて感動いたしました。この教えを肝に命じて生きていきたいと思います。本当に大事なことを教えていただきありがとうございました。
菊谷先生 こんばんは😊本日もありがとうございます。本日のテーマは、『かっこいい人に共通した視点』というお話しでした。『何になるか』より『何をやるか 』仏教は常に行いを見る本日も貴重なお話しをありがとうございました。
何になるかより何をやるか。なるほど❗😊菊谷さんいつも大事なお話をありがとうございます。🙏
他因自果の行いや心は本当に身につまされます。我々は、つい自分の楽な感情、欲望に負けそうになってしまいますね。そのもとになっているのが、三毒であるといえます。菊谷先生、今日も貴重な教えをありがとうございました。
見倣おうとする成長の心地よさを持っている人は人の目を惹きます 教科書や学校で学んだ丸暗記の知識で世の中を仕切れるとか牛耳れると思う人は足りないです ありがとうございました
自分に悪い結果が来た時はすごくネガティブになるのが最近の悩みでした。これも自業自得なんだと…ですが、そこから気持ちを切り替えて今何を行うのか。が大切だと分かり善い行いを積んでいこうと思います。仏教が法鏡だということを日々感じております。お話ありがとうございました🙇
常に新しいエッセンスを取り入れていく姿勢、素敵です。面白そうな本の紹介、ありがとうございます。わたしも読んでみようと思います。
常に、行為によって人を見るのが仏教の教えなのですね😊さぁ今夜も菊谷ルーティン😊
昔、世界史の予備校の定評ある先生が「かっこいいことを求める人の人生はロクなものにならない」と言ってました。昔の巨人の星という漫画の中で、主人公のライバルが無様に苦闘しているのを主人公の父が見て、逆に彼を「男がなにかを成さんとするとき、カッコよさなど糞くらえじゃ!」と称賛してました。この場合のかっこいいは「何になるか」に相当するものだと思います。「なにかを成さん」とする姿勢が「かっこいい」ということだったのですね。ありがとうございました。心の中は三毒だらけの自分を反省します。
何になるかよりも何をするか、大切ですね… 。😊
今日も、とても大変,学びになりました。ありがとうございました。
今日もありがとうございます🙇
いいお話ありがとうございました。
今までやった行いの結果が刑務所にいる、今は刑務所にいても今からこれからの行いが大事。善い行いも悪い行いも自因自果ですね。悪い行いを人のせいにすると自分に帰ってきます。いつも有り難うございます🙇
ありがとうございました。
なるほど、面白いです。
何を言うか より、どう生きてきたか が、私の信頼の基準です。 🧐🎉
夢かなえてますね😊
デールカーネギー著「道は開ける」より抜粋。「刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。一人は泥を眺め、一人は星を眺めた」。どんな逆境にあっても、星を眺める人でありたいですね。🙂
いつもハズレのない仏配信
3月4月の間に大腸がんで1人、糖尿病関連てま1人亡くなりました。36才と16才です。ワシは今49ですが、死生観をもつようになりました。しかしワシ自身が昔からクラシック音楽の大学でピアノ専攻をしていたこともあり、感性感受性が非常に高いのがいけないのですが、
49歳でわしと言う。へーえ、少し驚いた😲‼️
@@田中生一 www
大変ご無沙汰しています…
南無阿弥陀仏m(__)m
どっかの都知事は「何になるか」が全ての人ですね。
自因自果の説明として「悪い結果が来た時も自分に必ず原因があったんだ」と説明されていますが、それでは説明が不十分ではないでしょうか?「自因自果」は因と果の関係しか表現していません。それはそれで正しいのですが、「因」を決める要因として「縁」が関係することが理解できていないと、「自因自果」を正しく理解することは難しそうです。因は結果を生む「直接的な要因」を意味します。縁は結果を生む「間接的な要因」を意味します。最終的に結果を生むのは「直接的な要因」なので「自因自果」なのですが、その「因」に影響を与えるのが「間接的な要因」である「縁」となります。具体的に言えば、「因」とは「自分の心が作った、何かしらの行為(考えることも含む)を行おうとする衝動」のことを意味します。一方、「縁」とは、「自分が認識した外界の対象および自分の考えた結果」(すなわち、認識の対象)のことを意味します。(仏教では「眼耳鼻舌身意」が「色声香味触法」に触れると言い、考えることも「意が法(概念)に触れる」として認識のひとつとして数えます。)例えば、「誰かが自分の悪口を言った(縁)」ことを受け、「怒りを感じ殴ろうという衝動が生まれた(因)」とか、そういう話になります。自因自果とは、「結局のところ、苦しみを直接生んだのはその『怒り』だよね? 相手が何を言おうと、怒り等の苦しみを生む心を持たなければ、苦しみは生まれないよね?」と言っているだけです。縁が起因となって因が生まれるのは事実です。「あの人があんなことを言わなければ、、、」というのは、それはそれで正しいです。でも、相手のことをどうのこうの言ったところで、結局は「自分の心以外に自分の苦しみを作れるものなんて存在しない」のだから、苦しみを増やさないような心を保つべきだ。仏教ではそのように説かれていると理解しています。
縁に触れると何をしてしまうか、分からないのが人間でしょうか、歎異抄で親鸞聖人も言われていますね😊
@@よしノリ なるほど、縁には因の前と因の後の二種類があるということですね。
本日もありがとうございました。
今日、バイト中、宅配の配達員の方をこちらの不手際で待たせてしまい、本来こちらが悪いのに、相手の態度にイラついてしまった、自分がいました。
肝心なとこで忍辱を忘れてしまったという事実に深く反省しようと思いました。
これから布施、忍辱、智恵を忘れず、行動、言動は気をつけたいと思いました。
本当にありがとうございました。
まだまだこれからです。
菊谷先生のお話により、以前よりも随分と心が平穏でいられます。
親鸞聖人さまの教えが、時代を超えて多くの方々の心に平穏を与え続けてる...感謝と感動です。有難うございます。
数日前東京の御岳山の山頂に御岳神社があるのですが、亡くなった2人が必ず天国へいけるように、お祈りしてきたばかりです。神社前でもやはり泣いてしまい、マスクで隠しました。つらいです。
何になるかより何をやるかですね。確かに言われてみたら2024年4月28日(日曜日☀17時22分)何かをやるかの方が切っ掛けが早いと思いました。考え方もカッコいいと感じますね。これからの行いが大事な志しが仏教の教えですね、私も納得できる考え方だと思いました。菊谷先生、本日も貴重な大切なお話をありがとう御座いました🙏
菊谷さん。先ほど投稿した者です。リアクションありがとうございます。もちろんいつも拝聴しています。今回、
仕事中に涙が止まらなくなったり電車の中でも同様。いきる意味をまさに考えています。自分自身の乗り越えかた、若くして死を迎えるこの理不尽なことにどう対処、向き合うか、などざっくばらんに動画をお願い申し上げます。
たとえ過去に悪業を犯しても、反省し絶えず善徳を積むならば、その人は雲間を離れた月明かりのように、この世を照らす。
これもお釈迦様の言葉ですが、過去の失敗や過失があっても、これからの行いによって人はまたやり直せることを、仏教は教えてくれます。
まったくその通りだと思います。
仏教はすばらしい教えですね。
あらためて感動いたしました。
この教えを肝に命じて生きていきたいと思います。
本当に大事なことを教えていただきありがとうございました。
菊谷先生 こんばんは😊
本日もありがとうございます。
本日のテーマは、『かっこいい人に共通した視点』というお話しでした。
『何になるか』より『何をやるか 』
仏教は常に行いを見る
本日も貴重なお話しをありがとうございました。
何になるかより何をやるか。なるほど❗😊菊谷さんいつも大事なお話をありがとうございます。🙏
他因自果の行いや心は本当に身につまされます。我々は、つい自分の楽な感情、欲望に負けそうになってしまいますね。
そのもとになっているのが、三毒であるといえます。菊谷先生、今日も貴重な教えをありがとうございました。
見倣おうとする成長の心地よさを持っている人は人の目を惹きます 教科書や学校で学んだ丸暗記の知識で世の中を仕切れるとか牛耳れると思う人は足りないです ありがとうございました
自分に悪い結果が来た時はすごくネガティブになるのが最近の悩みでした。これも自業自得なんだと…
ですが、そこから気持ちを切り替えて今何を行うのか。が大切だと分かり善い行いを積んでいこうと思います。仏教が法鏡だということを日々感じております。
お話ありがとうございました🙇
常に新しいエッセンスを取り入れていく姿勢、素敵です。
面白そうな本の紹介、ありがとうございます。
わたしも読んでみようと思います。
常に、行為によって人を
見るのが仏教の教えなのですね😊さぁ今夜も
菊谷ルーティン😊
昔、世界史の予備校の定評ある先生が「かっこいいことを求める人の人生はロクなものにならない」と言ってました。昔の巨人の星という漫画の中で、主人公のライバルが無様に苦闘しているのを主人公の父が見て、逆に彼を「男がなにかを成さんとするとき、カッコよさなど糞くらえじゃ!」と称賛してました。この場合のかっこいいは「何になるか」に相当するものだと思います。「なにかを成さん」とする姿勢が「かっこいい」ということだったのですね。ありがとうございました。心の中は三毒だらけの自分を反省します。
何になるかよりも何をするか、大切ですね… 。😊
今日も、とても大変,学びになりました。
ありがとうございました。
今日もありがとうございます🙇
いいお話ありがとうございました。
今までやった行いの結果が刑務所にいる、今は刑務所にいても今からこれからの行いが大事。善い行いも悪い行いも自因自果ですね。悪い行いを人のせいにすると自分に帰ってきます。
いつも有り難うございます🙇
ありがとうございました。
なるほど、面白いです。
何を言うか より、
どう生きてきたか が、私の信頼の基準です。 🧐🎉
夢かなえてますね😊
デールカーネギー著「道は開ける」より抜粋。
「刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。
一人は泥を眺め、一人は星を眺めた」。
どんな逆境にあっても、星を眺める人でありたいですね。🙂
いつもハズレのない仏配信
3月4月の間に大腸がんで1人、糖尿病関連てま1人亡くなりました。36才と16才です。ワシは今49ですが、死生観をもつようになりました。しかしワシ自身が昔からクラシック音楽の大学でピアノ専攻をしていたこともあり、感性感受性が非常に高いのがいけないのですが、
49歳でわしと言う。へーえ、少し驚いた😲‼️
@@田中生一 www
大変ご無沙汰しています…
南無阿弥陀仏m(__)m
どっかの都知事は「何になるか」が全ての人ですね。
自因自果の説明として「悪い結果が来た時も自分に必ず原因があったんだ」と説明されていますが、それでは説明が不十分ではないでしょうか?
「自因自果」は因と果の関係しか表現していません。
それはそれで正しいのですが、「因」を決める要因として「縁」が関係することが理解できていないと、「自因自果」を正しく理解することは難しそうです。
因は結果を生む「直接的な要因」を意味します。
縁は結果を生む「間接的な要因」を意味します。
最終的に結果を生むのは「直接的な要因」なので「自因自果」なのですが、その「因」に影響を与えるのが「間接的な要因」である「縁」となります。
具体的に言えば、「因」とは「自分の心が作った、何かしらの行為(考えることも含む)を行おうとする衝動」のことを意味します。
一方、「縁」とは、「自分が認識した外界の対象および自分の考えた結果」(すなわち、認識の対象)のことを意味します。
(仏教では「眼耳鼻舌身意」が「色声香味触法」に触れると言い、考えることも「意が法(概念)に触れる」として認識のひとつとして数えます。)
例えば、「誰かが自分の悪口を言った(縁)」ことを受け、「怒りを感じ殴ろうという衝動が生まれた(因)」とか、そういう話になります。
自因自果とは、「結局のところ、苦しみを直接生んだのはその『怒り』だよね? 相手が何を言おうと、怒り等の苦しみを生む心を持たなければ、苦しみは生まれないよね?」と言っているだけです。
縁が起因となって因が生まれるのは事実です。
「あの人があんなことを言わなければ、、、」というのは、それはそれで正しいです。
でも、相手のことをどうのこうの言ったところで、結局は「自分の心以外に自分の苦しみを作れるものなんて存在しない」のだから、苦しみを増やさないような心を保つべきだ。
仏教ではそのように説かれていると理解しています。
縁に触れると何をしてしまうか、分からないのが人間
でしょうか、歎異抄で
親鸞聖人も言われて
いますね😊
@@よしノリ なるほど、縁には因の前と因の後の二種類があるということですね。