I love this song "Reading my fortune in shooting stars." I have heard that Noriko Awaya rejected to sing this song as an original singer. Then Akiko Kikuchi sang it, and it became a hit number. Keiko Fuji also sang as a cover version. Her husky voice matches it very much, I think. She covered "The woman of Kasuba, the town in Algiers", too.
私の父がテイチク時代にディレクトした曲です。
母に連れられて新宿の南口の線路沿いには大勢の女性がいて母から事情を良く聞かされました。
子供心に可哀そうな女の人が居ると思った記憶があります。
菊池さんにも確か家も近所で可愛がってもらいました。
今じゃ80歳超えです。
この頃は小学校へ行けるかどうかの暮らしでした。親父は家に寄り付かず母親が育ててくれたのですが仕事をしてた訳でもなくどうやって育ててくれたのか分かりません。その母も9歳で他界し後は親せきの家を渡り歩いた訳です。そんな中で何時も遊んだ今は亡き勲ちゃんが思い出されます。山に川に田圃に自然の中で遊びまくれた大切な友でした。その時の遊びが今思えば創造性をはぐくんでくれたと思います。三~四人集まると何して遊ぶと誰か言えば1~2分で毎日別の所で遊べたのです。そんな友達をその頃は気が付かず飲み語ることも無かったのが後悔されます。仕事をするようになり日本地図を股にかけて仕事もし遊びました。今度、田舎に帰った時は勲ちゃんの神前に詣でたいと思います。
切なくも、懐かしい想い出ですねぇ😊😢
本当に昭和の良き想い出です✨🎉㊙️☺️😿⤴️
子供を食べさせるために米や醤油を買うために体を売った女性も
多くいたと聞いています。
そんな時代を生きた人たちが今の日本を作ってくれたんだと感謝しています。
この歌を聞くと、神戸の三宮駅を思いだします。戦争孤児や負傷兵隊、浮浪者が通路に群がっていた光景、、悲惨でした。トーアロードには ケバい化粧にネッカチーフをしたパンパンがずらーと並んで、 アメリカ兵に群がっていました、、本当に大変な時代でしたね。
この歌を聞くとあの光景トアの子供や兵隊さんたちパンパン呼ばれた人たちは、どんな人生を歩んだのかと思ってしまいます。
そんな時代があったことがどんどん忘れ去られていくのを感じる時、むなしさを感じてしまいます。
昭和18年生れ、僅か4歳の時のリリースですが、何故か知っているし、この時代の女性達のことが切なくも想いとして脳裡に浮かぶ。子供の頃、パンパンと呼ばれ、米兵と連れだって居たのはハッキリと覚えている。省線恵比寿駅近くに恵比寿キャンプがあったからか?昭和27年以降もかなりいましたね。港が見える丘も同年リリースですが、とても好きな哀愁に満ちた歌です。昭和も50年以降の歌は殆んど知りません。化石時代の生き残りと言われても、胸に染み渡る曲が多いと思います。
横浜大空襲をガチで経験した亡き祖母が省線、東京市とたまに言っていました。懐かしい響きてました
苦難に満ちた当時に想いを馳せるとき
此の(星の流れに)が、自然と浮かんで参ります😢
(星の流れに身を占って何処をネクラの今日の宿😢)もう70年以上の歌ですが
あの廃墟何処化した時代から新日本が
奇跡的に復興させてくれた先人樣に心から🙇
感謝の真を捧げます🇯🇵🎌㊙️👏🏼🙏
この歌を聞くと涙が止まりません。こんな世相を二度と作るようなことはあってはなりません。東京だけでなく、
地方都市も同じ状況で、子供心にも生意気だが、心情を思うと泣けたものです。
亡くなった母親が唯一カラオケで歌った曲です。
この歌を聴く度、泣けて懐かしさが止まりません。
子どもの頃、母がよく口ずさんでいました。母は昭和12年生まれ流行ったころは中学生、ラジオで聞き覚えたのでしょうか。
東京で生まれ育ったのですが、戦争直後の酷かった頃を、不思議に良く覚えて居ます。配給の乾パンと味も何も無いスイトンで、食いつないでいた時代でした。皆大変でした。必死で頑張ったから今が有ります。明るく頑張って行きましょう🚂🚂
岩立一
らふねむゆふ
@@刑部越郎なんぶなんぶれ さん 意味不明??貴方は日本人じゃ無いのかな?
母が日本人て父か米国人です。文明という物を確かにアメリカか与えてくれてのは事実てすが、有楽町や新橋のレンガ下を歩いていて、凄い時代を生きたな。と哀愁というか?ノスタルジーを感じました。この時代に生まれてたら、私は戦争の落し子です。大変な時代だったと思います。
戰爭是殘酷無情的,時代的戀情時代的悲劇,您能活下來真是為您高興,一切都過去了,掃除過往的一切陰霾,好好的生活、好好的吃飯、好好的過日子,㊗️福您~天佑您 平安喜樂 健康 順遂🌸🌺🌸
あの三島由紀夫も、あの事件の前夜仲間たちとこの歌を合唱したと言うことです。三島さんも日本国をこんな悲惨なことに二度とならないことの願いもあったのでしょうね。そう信じたいです。三島文学を愛する私としては。
この曲はやはりオリジナルが一番ですね、他に上手に唄われておられる方もいますが当時を生きてきた者としては、オリジナル曲にのみ情景が浮かびます、公開有り難うございます。
時代を共にした歌は心に残りますね。
高校生のとき、ある日校舎と体育館をつなぐ渡り廊下を歩いていた。屋根はあるけど壁のない吹き曝しでその日は寒くて手をポケットに入れながら 「こんな女にだれがした」と歌いながら歩いていたら「おいそこの、待て。学校でそんな歌歌うんじゃない」と呼び止められた。「ポケットから手を出せ、そんなんじゃなくて学校で習った歌歌ってみ」と言われた。「私は絵画の選択で音楽はやってません」と答えた。「ったく、そんな歌どこで覚えたんだよ、とにかく高校生がそんな歌うたうもんじゃないぞ」。
もう半世紀も前の想い出。
名文。吹き曝しの渡り廊下なんて懐かしい。
終戦直後の混乱期誰もが生きるのに必死な時代
若い女性が身体を張って生きた辛く悲しい心の叫び
カバー曲として歌われてもいるが所詮ものまね
その時代に生きた菊地章子が唄ってこそ心に響きます
レコードのノイズも懐かしいですねー⭐⭐⭐
私はこの歌が流行った頃はうまれてませんがこの歌大好きです。シャンソン歌手をしてた頃はこの歌をタバコ吸いながら歌うとあなたに合う!と言われたけど大人の女性のうたなのでなかなか歌えませんでしたが、今は歌う勇気があり、毎日毎日練習しています!!🎉❤
此の唄は終戦直後の夜の女を(当時はパンパンと称された)憐れみ、その心情をたんたんと歌った物と遠い昔祖父より聞いたことかあります正に激動の昭和ですよね😃間もなく令和が始まります歴史はこうして流れていく物ですね🍀
戦争はあらゆる人を不幸にする、ということを教えてくれます。
4年前に癌で亡くなった母が大好きな曲で、酔っては口ずさんでました。
upありがとうございました。
ずいぶん泣ける話ですね
人にはいろんな人生があります
過剰な感情移入をせず、自然体で淡々と歌い上げる菊池章子さんの歌い方が、「夜の女」の悲しみをより切実に伝えています。特に、このSP盤は伴奏と言い、パリパリというスクラッチノイズと言い、当時の様子を伝えるものとして出色です。この歌もそうですが、私もOSKガイドさん同様、、「岸壁の母」も元祖である菊池さんのものが断然一番であると思います。
戦後の荒廃した時代に生きてゆく為の止む得ず夜の街で春を売ってその日を暮らしていたそんなやるせ無い心情をネ♪そんな世相を現しているんてすよネ❓
ええ!!? 看護婦さんですよっ!
哀しさとやるせなさを吐き出すように歌うこのSP盤が最高であり、これに匹敵するカバーはない。
映画「こんな女に誰がした」の主題歌であったが、GHQにクレームをつけられ「星の流れに」となった。
懐かしいな。2024年に聴きに来てる人🙋
大東亜戦争終了間もなく「復員して来た兵隊さんに、お握りを貰って本当に嬉しかった」と、母が話すのを聞いたことがあります。その兵隊さんは祖国に帰って来られた喜びも有り、又母に対して「同胞」との思いも有ったので、お握りを下さったのではないかと思います。母には両親も有り、兄弟姉妹も有ったので、この歌のモデルの女性のような事にはなりませんでしたが、とても、涙なしにこの歌を聴くことは出来ません。
私は24年生まれの70歳です。まだ小僧ですが、涙がでます。日本人なのですね。哀しくても良い唄です。
実話を元に歌にしたと聴いています。悲しいですねー。戦争の足跡は嘆きと哀しみだけですね!
終戦直後父に連れられて初めて東京に行ったのですが、闇市、浮浪者、浮浪児、復員兵、娼婦たちで街はあふれ、私もまだ幼かったせいか、あの光景が未だに脳裏に焼き付いてます。この曲を聴くとあの頃を思い出すと同時に平和のありがたさを実感してます。当時の世相を見事に歌った名曲だと思います。そろそろ終戦記念日なのでちょっと書いてみました。
すごい詩。時代を写している。菊地章子さんの声がまるで星屑のように流れるように。心にグッとくる。
みんなが言いたい気持ちを歌にされてる。重みのある詩。堪えました。。
私は戦後の昭和28年生まれで戦争を知らない世代ですが、この曲星の流れを聞いていると、投げやりなどこにもぶつけられない悲しみが伝わってきます。曲はもちろん、詞も素晴らしいです。
当時の曲が懐かしく感じるのは年をとった所為ですかね。
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日本の歴史を知る事ができました、今の国民も戦争の怖さを知ってほしいです。
先輩に米軍の捕虜になった人がいました.帰国したら良く帰ったと親しいものが集まり宴を開いてくれた.だがせっかく出されたものは,それまでの米軍キャンプの食事に比べてあまりにも組末なので手が出せなかったと語っていました.ドイツのベルリンの攻防の時,配給カロリーは500、日本は300ぐらい,それも配給されませんでした.あの頃の歌には心にしみるものがあります.
松本清張のゼロの焦点は名作でした。この曲も悲しく身につまされます。立川の母子寮に住んでいました。
介護の仕事をしている時に流れていて覚えました。歌詞の強烈さが印象に残ってます。「こんな女に誰がした」。めっちゃ沁みる歌詞ですね。
一目逢いたいお母さんのところで涙が出そうになります。👱
母はまだ生きてます。👱👱👱
怨み節ですね!何とも言えない、言葉では表せない無い感情‼️生きて行くために、、、、(涙)、、。頑張ろう❗️
何度聴いても、身につまされる歌、唄、詩です。アップロード、感謝。
その当時の女性たちの不憫さが歌詞の行間から溢れ出てくるようで切なくなります。
こんな男に誰がした、との新聞を見て、この時代を知りました、今もこの歌の時代とあまり変わらないように思います
この歌のタイトルは「こんな女に誰がした」だったのですがGHQの許可が下りず「星の流れに」に
変更されました。
こんな女に誰がした!もちろん侵略国家アメリカですから反感を恐れたGHQが許すはずもありません。
始めは淡谷のり子さんに歌ってもらう方向で話が進んでいましたが、ご本人が「娼婦の歌なんか歌えない」
と拒否されたようで、菊池章子さんが引き受けてくれました。
昭和はは輝いていましたよね。
昭和前半世界の不正と戦った日本。昭和後半戦争で負けたとはいえ経済で戦っていた日本。
出光佐三・松下幸之助・本田宗一郎など立派な方々が活躍されていました。
プラザ合意➔バブル崩壊➔失われた30年 輝きを失った平成・令和。
このような日本をつくり、外資に売り渡してきた奴は誰か?
真剣に見つめないと、子供や孫がまたこの歌を歌う時が来てしまいます。
こんな悲しい人生を生きた女性が沢山いた戦後、あのひとたちの事考えると、唄を聞いてると涙がこぼれます、
16歳ですが、この曲を大切に思っています。
いつの世も女は都合の良い道具のように扱われてきたんですね
典型的な男尊女卑の時代でしたからね。
でも戦後間もない時代、少なからず経済復興にこの娼婦さん達も貢献してくれたのは紛れも無い事実ですよ^^
頭が下がる思いです。
戦後生まれの私には知らない世界ですけど、この時代の女性の生き様を見てると涙が禁じ得ませんね。
私の母が話してくれましたが戦後の国民がリンゴの歌が元気をつけた歌謡曲だというのが広く世間に知れて皆が口ずさんだと言いますがそれは嘘で本当は星の流れにを歌ってたんですって、というよりも歌いたかった、んですよね、この時代を生きた人なら分かる筈と言っていましたよ
リンゴの歌は発売ご早かったからそういう事になってるだと思います(^^)
倍賞千恵子さんも歌っていますがお嬢様が歌うのは「こんな女」に失礼では?
嘘でもないでしょ(笑)人による
いやいや、当時の世相もそれぞれの立場から見れば多面的でしたよ。だから歌もそれぞれでした。それでいいんじゃないのかなあ。しかし、戦争を勝手にはじめて、戦災の悲惨さまねいたのは男どもでしょ? 結果、家族や伴侶を失い追い詰められて「こんな女」としてそれでも生きていった女性たち、男は悪いよなあ。戦争はあかんのよ😭🙏
ワタシも、別にりんごの歌が戦後日本に元気を与えた歌だってのは、全くの嘘ではないと思う。
それは、単なる個人的な独断に過ぎないし、強いて言うなら、りんごの歌以外にも、国民に元気付けた歌も有った…てのが妥当な表現かと
戦争の犠牲者女性達の悲しみの歌。
ほんの数十年前の日本の姿です。
楽町のお時さんなど、パンパンに人達の間で流行ったらしいですね。大変な時代だったと思います。
にっぽんの 最大の 名曲✨
( 十指に入るよ....自分的に、だけど。)
しっかし....コメントも流石 味のある良いのばっかだな✨💐😢
😢😢
소백산 HiroS.i.S _ 밀리 히로 상めわあ
昭和22年 作詞清水みのる 作曲利根一郎 唄:菊池章子 テイチクレコード
作詞した清水みのるは、大東亜戦争が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読みました。記事には奉天から帰国した元従軍看護婦の女性が、東京は焼け野原になっていて、家も家族もすべて失われたため、上野の地下道で暮らすうち「夜の女」として生きるしかなくなったわが身を嘆いていたそうです。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にしました。こみ上げてくる憤りを叩きつけるように、戦争に対する告発の歌を徹夜で作詞し、作曲家の利根一郎に託しました。利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲しました。
シャンソン歌手の淡谷のり子に吹き込みを依頼したところ「パンパンの歌なんか歌えるか」と断られたテイチクは、同じくコロムビアから移籍していた菊池章子に吹き込みを依頼しました。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の哀しみと無念を切々とした哀感で歌い上げました。
昭和22年4月22日、NHKのラジオ番組「街頭録音」で、アナウンサーの藤倉修一が有楽町で200人もの夜の女(街娼)を支配していた「ラク町おとき」の隠し録りインタビューを敢行、放送中、彼女が「星の流れに」の一節、「こんな女にだれがした」を口ずさんだことが、この歌が広く世間で認知されるきっかけになったのです。もともと作品のモデルであった娼婦たちはこの歌に共感を覚え、彼女たちの間で歌われることが多かったそうです。彼女たちは、菊池を「おねえさん」と呼んで慕い、菊池の出演する劇場にも出かけて行って、熱い声援を送ったといいます。
その当時、新宿の「ムーランルージュ」で風刺ショーが上演されていましたが、この歌が使用されるようになってからじわじわと火が付き、昭和24年にはついに大ヒットとなりました。
淡谷のり子とディックミネはできてたんですか
この歌は本当は淡谷のり子に歌わせようとしたのですが身を売る女の歌は歌えないといわれた。お嬢さん歌手だった菊地章子はこの悲痛な気持ちを国や世界に訴えようとという気持ちで歌ったすぐにはヒットしなかったが映画などで歌われるうちに大ヒットしたした、投げやりな歌い方はうまいもんですな、岸壁の母なんかも私はこの歌手の歌がいいと思っています。
OKS ガイド コメントいただきありがとうございます。私も淡谷向きではないと思いますね。
共感していただき有難うございます。
私も岸壁もこの人のほうが合っていると思います。
私も、菊池章子さんの「岸壁の母」が、哀感切々たるものを感じます。勿論二葉あきこさんも歌のうまさは認めますが、若干説諭ぽい語りが耳に少し残る。菊池さんのはまさに母の自然な嘆きを表現しているように聞こえます。私見ではありますが…。
OKS ガイ
読んでた小説に出てきたから今聞いている。
当時を感じられてとてもいい
名曲ですよね。歌って大きなチカラがあるのがよくわかります。
コメントいただきありがとうございます。いやぁあんな時期はご存じなくてよかったですよ。生きる重みが今とは比べ物にならないものでした。「衣食足りてなお礼節を知らない」今の世の中には寂しさを覚えます。
塒、この一文字で胸にグッと来ました
戦後すぐに出来た曲で、戦争できずついた人に慰める曲です。
星の流れに身を占って
何処を塒の今日の宿
荒む心で居るのじゃないが
泣けて涙も枯れ果てた
こんな女に誰がした
煙草ふかして口笛吹いて
あてもない夜の流離いに
人は見返る我が身は細る
街の灯影の侘しさよ
こんな女に誰がした
飢えて今頃妹は何処に
一目逢いたいお母さん
唇紅哀しや唇噛めば
闇の夜風も泣いて吹く
こんな女に誰がした
貴重な音源、ただ感謝です。有難うございました。
私は戦後20年程経っての生まれで当然敗戦直後がどのような暮らしだったかは知りません。
でも当時の方々のお話や文献もさることながら、この曲を聴くと当時の悲惨さが一気に脳内に駆け巡りいつも目頭が熱くなってしまうのです。
この歌のできた年に生まれました。なぜか悲しい女の歌の雰囲気でカラオケで歌います。事実はわかりませんが本当は淡谷のり子さんが歌う予定だって聞きました。けどこんな女に誰がしたーというフレーズが嫌でやめた。とききました。
母親の大好きな曲でした。この曲を聞くと、お母さんを、おもいだします
悲しい歌です。父(故人)がまだ20代の若者だった頃・・仕事が終わると・・有楽町の駅前から銀座界隈・・丸の内まで・・きんきらきんの衣装とハデな化粧をした夜の女たちが、街角にたくさん立っていたそうです。その時代・・そこまでしなくては食べていけない女性がたくさんいたんですよね・・・
+asako 777 今もいっぱいいますよ。風俗嬢として。ソープ・ヘルス・セクキャバ…。借金返しつつ…。今もまだまだ続いています…。
+ecneicslaicos いまの風俗のひとは昔の人とはくらべものにならないくらいルーズですよ
ホストのための人もいますし
うちの母ちゃんも知らずに、御徒町の浅草寄りで接待をしたようですが。
田舎者ゆえに、売春はさせなかったそうです。
御徒町から上野に向かう、右側だから… アメ横ではないと思う。
経営者の方に、今更ながらのご厚意を感謝いたします。
静拝
tuwawaです 昔の日本人らしい話しですね❗️人としての仁義のある。古き佳き日本❗️もう一度取りもどさなきゃ‼️
息がつまり、目が熱い涙に溢れます、なんて、無情な、歌詞なんでしょう?
生まれる前の歌ですが、戦争直後のやるせない世情を感じさせる楽曲ですねえ。
戦争が、こんな女にした!
戦争の、恐らしたを、忘れては、いけない❗
歌、上手いですね!まさに和製シャンソンですね!
この時代の歌手は音大出身者が殆どで、基礎が出来ているから聴き易いのです。
《反戦歌》だったとは!悲哀のなかに社会の不条理を訴えたメッセージ・ソングであり、
弱者の叫びから生まれた日本人のブルースだったのですね。わたくしが誕生する1年前、敗戦2年後のリリースでした。
昭和22年の歌と言うが私が生まれた年で12才ぐらいの頃誰も住んでいない家の瓦を止めている銅線を剥がして丸めて売りに行ったりして小遣いにしていましたそんな時代でしたね❗
この歌を小さい頃歌って親父に怒られました。未だに不思議でなりません。しかし私は好きな歌です。死んだ親父に理由は聞けませんでした
菊池章子の野太い声がいいせすね。おまけに美人だし。
51歳の私が聞いても、素晴らしいと思います😭🤣
この曲は戦争するなら勝たないと惨めになる戒めソングかな。または反戦ソング・・・奥が深い曲だね。
やはりすごいですねーレコード盤~いいですね
お聞きいただきありがとうございます。当時はほんとごった返してまして、疎開していて生き延びたようなものです。
発表当時はオーソドックススタイルな歌唱ですねこれはいいです
悲劇の歌には涙がでます。しかし聴いてたらなんかスッキリします。
パンパンは多く見てきましたが、悲しさとともにある種の強さも感じたものです。
今日本は世界的には平和、全世界平和なって欲しいな、頑張ろみんな
素晴らしい歌声とメロディー
私は、「星の流れに」と「女の階級」を、セットで聴くのが好きですね。アノ激烈な時代を生き抜くには、女性とて、覚悟を要したのだと、歌詞が教えてくれて居ます。
中国で従軍看護婦をしていた「長谷乙女」を名乗る21歳の女性は、戦争で肉親と家を失い流れ着いた東京・上野で、生きるため身を売る女に落ちた。
清水みのるさんは、「顛落するまで」と題された投書を読むと、怒りに震え、上野の街を歩き回って女性の面影を探し、この歌詞を書いたそうです(詳細は東京新聞2014年5月8日夕刊)。
戦争の影の部分を切り取った、非常に考えさせられる歌です。
私が知らない事実を識りました。この歌詞がさらに私の耳深く…。この歌に込められた話をありがとうございます。
Yuki Murakami 従軍の売春婦はいません‼️
確か、おにぎり上げるに負けて。可哀想
Yukiさんの文章には「従軍看護婦」と書いてありますね
泣けてくる、、、
子供のころ、なんか切なくて耳でおぼえて、歌って親からこっぴどく怒られ、大人になって、カラオケが流行り、自分の好きな歌として今でも歌っています。ただし、最後の歌詞は、こんな女に自分になったと…置き換えていますが(笑)
そうゆう貴方も70後半かな
「星の流れに」は、始め他の人の予定だったが、歌の内容からその人は断り、菊池章子さんに回って来たという。このオリジナルSP盤が最高で、終戦直後の昭和歌謡史に歴史を刻んだ一曲!いろんな人がカバーしているが、この人以上のものは無い。
月夜の案山子 その大物歌手とは淡谷のり子さんです。
淡谷のり子は同じ娼婦に見られたくないとの理由で断ったみたいですが、同じ日本人として仕方なく娼婦になっている人を蔑むとは…。
戦争は誰もが死ぬ可能性があり、誰もが1人で生きていかなきゃいけない状況だった。
だから自分は違うと蔑むのではなく、気持ちを思いやることをすべきであった。
そんな心情も理解できない人が歌ったところで、ここまで曲が浸透しなかったでしょうけれど。
@@蒔絵師
パンパンの歌は歌いたくないと仰ったという話がありますね。
そして孤児たちは、体を売ったお金で温かい食べ物を与えて下さる彼女たちを「お姉さん」と呼び、女神のように慕っていた。
th-cam.com/video/X4j1X-_wdeQ/w-d-xo.html
この歌も併せて聞くとまた哀愁ひとしお。
松本清張の名作「0の焦点」は、戦後この商売をしていた女性が、過去をバラされたくないために、次々に殺人を犯していく話でしたね。この曲を聴くとすぐにこの小説を思い出します。
お
実戦的な英語が上手い女性。 何が災いに成るか… 清張の小説は政治がらみが多いいよね。
それでも生き抜いてゆく女性の強さを感じさせられます。ありがとうパンパンガール。この歌をこの時代に出した当時の日本人の気概が伝わって来る。凄い。
夕飯を近所の台湾料理屋で母親と食べてきました。店内でこれのメロディだけの曲が繰り返し流れてて頭おかしくなりそうで母親に聞いたら「星の流れに」だそうで初めて聞きました。なう(2023/04/20 22:33:39)
お久しぶりです。また懐かしい曲を楽しめます。
この時代を知らない世代ではありますが、この曲を聞くと涙が溢れてきます。
遊ぶ金欲しさに援交に走る現代の少女たちに、この曲で歌われている悲痛な想いは理解できるのでしょうか。
昔、本を読みました。
つい最近ここで歌聴けてよかった。
令和の現状も当てはまる名曲
菊池章子さんの[星の流れに]は、一見あっさりと歌っているようたせけれど、どうでしょうか。菊池さんは、所謂パンパンガールを歌っているのだと思いますが。身寄りも何もなく、頼むは自分の体だけ。そうした女性たちの心を汲んで歌っているのだと思います。歌は確かにあっさりしている。しかし、そのようにしか歌いようがない。あとは、菊田さんの歌唱力でしか伝えようがない。そう思います。地下で眠る菊池章子さんは苦笑されるかもしれないけれど、これが私の正直な感想です。いずれにしても、昭和の名曲であることは間違いない。このような悲しいことが二度と起こらないように祈ります。
父や兄を殺した米兵の女に成った奴に比べると、遥かに立派だと思いますね。 悲しく涙が出る話ですが…
亡くなった父親が鼻歌でよく歌ってた曲です。今日10/29は、そんな父親の23回目の命日です。
One of the top 10 songs in My Lifetime Personal Best HIt List!!!
Chiaki Naomi covered & killed it. Amazing.
Koy 戀 在
I love this song "Reading my fortune in shooting stars." I have heard that Noriko Awaya rejected to sing this song as an original singer. Then Akiko Kikuchi sang it, and it became a hit number. Keiko Fuji also sang as a cover version. Her husky voice matches it very much, I think. She covered "The woman of Kasuba, the town in Algiers", too.
無き母が 父に 向かってよく言ってました
こんな女に誰がしたー
今の歌手の下手さを感じる・・・改めて聴くと、とにかく、巧い!
こんな日本に誰がした。
昨今のコロナ禍に聞くと、泣いてる人が沢山いるんだと歌詞に同調してしまう。
何十年前に菊地章子さんの経営する池袋のスナックに、一度だけ、行きました!
Ogawa
一目逢いたいお母さんの節は泣ける。空襲で亡くされたのだろうか
こどもながら寂しいうただなあと思って聞いていた終戦直後。
戦争で被災地の人々が
一日も早く終わりますように
終戦直後の女性の悲しみを歌った歌ですが,今もシングルマザーや離婚して一人で子育てを強いられている女性が,身体を売っていることを思うと,今でもすごくやるせない気持ちになります。
昔の女は強かった。忍耐力が凄い
なんか泣けてくるね
ダビスタのコマーシャルにこれが使われたのには、吹き出した。
さとう珠緒がキャラだったか?
こんな女に誰がした? この答えは「戦争」で正解☆
しかし、今までは、ということにならないように立ち上がる必要があると思います。
自分の人生は自分のもの これは戦争で犠牲になったすべての方たちからのメッセージではないでしょうか。
戦争はしない方がいい。仕掛けて来る場合もある。むつかしい
凄い唄だね(*'ω'*)
高校生の時に担任の先生がみんなの前で歌ってくれた。50年以上の前です。
目を閉じて聞くと、あのドイツの戦時下、戦後 で厳しい生き方を強いられた マリー・デートリッヒの声と重なって感じられます。哀愁が切々と…。
seiji shino マレーネ ディートリッヒです
この歌はオリジナルで聴くしかない。後のアレンジした歌は音はきれいでも、原曲の良さが死んでしまっている。